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20歳までに身に付けたい、生きて行くための心の強さ
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20歳までに身に付けたい、生きて行くための心の強さ

2013-01-28 07:00
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     強い心がほしい。イチローや本田圭佑が持つような超人的な心の強さは望むべくもありませんが、日々自分の身に降りかかる困難にいちいちへこたれず、凛と立ち向かえる、せめてそれくらい強い心が欲しい、誰もが一度は想う願いです。

     最近どうすればそんなささやかな心の強さを持てるのか考えていました。

    発端は次のツイートでした 

    とことん悩む人が“ポジティブ”になる心の鍛え方 - NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/213576081…

    ― 笑い猫さん (@bokudentw) 2013年1月9日
     発端はある日みかけたこのツイート。まとめ先を見に行くと、心の鍛えるのに一番最初に紹介されていたのは「自分の弱さや失敗を受け入れる」ということでした。その瞬間浮かんだ疑問は、「自分の弱さや失敗を受け入れる」強さはどうやって手に入れればいいんだろうということです。自分の弱さを認めてしまった瞬間自分が持たなくなるのではないか、自分の弱さを認められるということは、それだけで充分心が強いのではないだろうか。そんなことを考え始めました。子どものことが思い浮かんだからです。
     

     自分の子どもはまだ小さく、今のところ精神的にも全面的に親に頼っています。親が子どもを無条件で受け入れてくれれば、彼らは追いつめられることなく彼らの弱さに対応することができます。

     しかし今後思春期になって精神的に親から自立していこうとするとき、どうすれば親なしでも自分の弱さと寄り添っていけるのか、親としてそれが気になり始めました。自分とは時代も育つ環境もあまりに違うので、自分の経験は参考になりません。

     子ども達はまだその答えがいる歳ではないですが、難しい問題ですから、今から気にしておいて気長に答えをみつけようと思っていました。

    いきなり匿名ブログでヒント発見

    と、気長に考えるつもりだったのですが、先日いきなりはてな匿名ダイアリーという匿名ブログで、そのヒントを発見しました。きっかけは、この匿名投稿。

     信仰が無いことにいまさら苦しむ

     この投稿では、自分の精神的な支柱は無神論にあるにも関わらず、真に安心して心を許せる場所を持たない苦しさについて書かれています。

     反響はとても大きくたくさんのコメントがついたのですが、その中の一つが衝撃的でした。

     元増田さんに上手く答えられるか分からないけれど、書いてみる。
     無心論者であっても、「超越者」に「私は生きて呼吸することそのものが、祝福されたことなんだ」と認められていることが、がけっぷちに立たされた状態では、必須で、これがないと人は生きていられない。
     
     全文引用したいくらい素晴らしい内容で、ぜひ皆さんも読んでみて欲しいです。
     小説「沈黙」や「レ・ミゼラブル」みたいな情熱的な信仰心ではないけれど、家族の死や苦しさの局面に至ったときに、
    「それでも神は降り注ぐ、何の力も無いまま、それでも私たちを愛している」
    というのが根底にあるだけで、不思議な立ち直りの力が沸いてくるのです。

     人生の危機的状況に至る前に、それに気づいていたほうが、対処に悩まないからいいことだと思います。今後宗教を持つかどうかは別として。

     読んだ瞬間、この感覚があれば「自分の弱さを受け入れ」られるのかとつながりました。人間を超えた存在に受け入れられている安心感。自分の弱さを受け入れることは、時として自分で自分が許せなくなる瞬間です。それでも、人間を超えた存在は自分を受け入れてくれている。そこで踏み堪えられれば、後は心の鍛え方まとめにあるように、いろんな方法で心を鍛えていけることでしょう。

     つまり心の強さは「『人間を超えた存在に受け入れられている』ことを知らなければ人は生きていけない」という人間の弱さを受け入れることから始まるのです。

    崖っぷちに立つ前に気付いておく

     そして「書いてみた」さんも「人生の危機的状況に至る前に、それに気づいていたほうが、対処に悩まないからいい」と書かれているように、思春期以降、つまり精神的に親から自立しなくてはならなくなって以降、この「『人間を超えた存在に受け入れられている』ことを知らなければ人は生きていけない」ということに気付いておくことは、大事な人生の保険です。

     崖っぷちに立ってから人間を超えた存在に受け入れられていることを認めることは、大変な作業です。それも自分の心の弱さだからです。神を信じてみるべきと思っても、崖っぷちに立ってから初めて神を信じるのは簡単なことではありません。恐らく「この世に神がいるとしたらクソくらえ」と思っているでしょうから。

     特に大きな困難もなく生きていれば「人間を超えた存在に受け入れられている」感覚がなくても過ごしていくことはできますが、その感覚を持っていれば、いずれもし危機的状況にさらされたとき持っていない場合より遥かに心強いことでしょう。20歳までにその感覚を得られれば、なおさらです。「『人間を超えた存在に受け入れられている』ことを知らなければ人は生きていけない」ことを認めることは、それ自体人間の弱さですから、崖っぷちに立ってからではなく、心が元気で余裕がある時のほうが遥かに受け入れやすいことです。

    「人間を超えた存在」はよりどりみどり

     それでは、その「人間を超えた存在」には、どのようなものがあるのでしょうか。「書いてみる」さんも神である必要はないと書いてます。様々なものがありますし、みなそれぞれ好きなものを自分の超越者にすればいいでしょう。一つである必要もありません。例えば私が身近に「人間を超えた存在」と感じているものは次のようなものです。

    1)自然
     日本人にとって、もっともてっとり早い「人間を超えた存在」といえば自然ではないでしょうか。「書いてみる」さんも

     花びらや雪や、さらには汚れた水の中でもわもわと沸き立つごみや土ぼこり

    といったものを自分の「あれ」として上げています。日本の豊かな自然に触れるとき、その包容力に心安らぐ体験を持つ人は多いでしょう。

     ただ自然という大きな存在の前に私たち一人一人の小さな存在は、受け入れられているというよりはせいぜい「まあいてもいいよ」くらいにしか思えないかもしれません。事実、大きな自然災害に私たちの命はあっけなく奪われています。私たちの自然に対し抱くのは、いわゆる畏怖の念です。

     【日本人と森】では宮台真司さんの「我々が森と共に在ったとき、『誰が見てなくても森(の妖怪ら)が見ている』という観念の御蔭で、我々は人の視座を越える視座を持てた。」といった話を紹介しています。

     他もそうですが、結局「人間を超えた存在」にとって人間は受け入れられているというより、拒絶されてないくらいでしかありません。だからこそ、精神的に元気な時あるいは安定している時に、「拒絶されてない」くらいをもって「受け入れられている」「愛されている」と都合良く勘違いしておく必要があります。崖っぷちに立ってからそれをしようとしても、「自然は私を決して受け入れてはいない」と悲観的な考えになりそうです。

    2)宇宙
     自然ですら人間を遥かに超えた存在ですから、地球や宇宙はそれよりさらに人間を超えた存在です。つい先日、オリオン座のベテルギウスはいつ爆発してもおかしくないことを知りドキドキしているのですが、その中で

    8.6光年しか離れていないシリウスが超新星爆発を起こすと、地球上の生命は確実に滅亡すると言われている。

    と書かれていて、改めて人間の小ささを思い知らされました。宇宙レベルであれば、自然災害どころか地球の生命が一瞬でなくなるような災害だってありえるのですから、それがないうちは生きてて良さそうです。

    3)自然科学
     そのような自然や宇宙を対象とし、そこにある理(ことわり)を明らかにしようとする自然科学は、私にとって我々を超えた存在です。もし地球外に高等生命がいたとしたら、同じ宇宙に住む以上、似たような数学や物理を持っていると思います。人間などいようがいまいが、それらの学問は存在します。自然科学を研究することには、そういった安心、答えは既に存在して、人間はそれを見つけることに専念できる安心があります。そうではなくヒトとの勝負の中に生きるウメハラさんの本に驚愕したことは梅原大吾『勝ち続ける意志力』を貫くヒトへのリスペクトで紹介しました。

    4)神社
     神社の宗教としての厳密な定義は知りませんが、日本人にとって神社という存在は自然と宗教の間のような存在ではないでしょうか。その場所その場所にゆかりあるものが祭られている神社は、私たち日本人をいつも受け入れてくれます。旅先でひょいと立ち寄った神社の賽銭箱にたかが1円とか5円とか入れて願い事したりとか、わたしたちの甘えっぷりは半端ではありません。そんな小銭で願い事しようものならかえって天罰があたるとかこれっぽっちも考えていません(苦笑

     自然と神社は私たちを愛していると日本中で思い込んで、それが真実になっているいい例だと思います。

    5)仏教
     神社もそうですが、仏教も日本人にとって都合のいい宗教です。キリスト教などの契約宗教とは違って、お寺に行って「今日から仏教徒になります」と宣言しなくても勝手に仏教を信じていて構いません。

     なので、私も勝手にときどき仏教の本を読んでいます。長い歴史の中で人間の悩みは悩み尽くされていて、大抵の悩みはこういった本の中に答えが書いてあります。人間を超えた存在についても深い洞察を得ることができるでしょう。他の宗教のことはよく分かりませんが、宗教の一つの役目は超越者に受け入れられていることを知るためでしょう。

    普段から「人間を超えた存在」に触れる機会を持つ

     「自分を受け入れてくれる人間を超えた存在」をひとつあるいはいくつか持てたら、できれば普段からそれらに触れる機会を確保しておくといいと思います。自然が「自分を受け入れてくれる超越者」であるなら、自然に触れる機会を持っておくことです。

     容認を感じられるなら、ただ散歩するといった簡単なことでもいいでしょう。もう少し儀式的にある特別な場所を訪れることでもいいかもしれません。そうすればもし崖っぷちに立たされたら、それらの儀式を行うことで、自然に受け入れられていることを確認することができます。違う言葉でいえば辛い時にいつでも逃げ込める場所があるということです。

    昔はこの問題は大きくなかった

     最後に、この問題は昔からあるようで、ある意味今の時代に特有な問題です。それは、ついひと昔まで「『人間を超えた存在に受け入れられている』ことを知らなければ生きていけない」ほど崖っぷちに立たされる人はほとんどいなかったということです。

     農業中心だった昔や、こないだの高度成長期に至るまで、世の中の大半の人は、社会に与えられた役割を演じることができれば生きていくことができました。もちろなんらかの危機的状況に立たされ、その役割に疑問を持たされれば同じ悩みに直面することになりますが、それを通ることなく人生を全うする人も多かったでしょうし、悩みつつもやはり社会に与えられた役目を果たすことでうやむやに人生を生きた人も多いはずです。

     一昔であれば、子どもに対しては「そんなくだらないことで悩むな。そんな暇があったら勉強していい大学に行け。悩みたいならそれから悩め」というのが社会のアドバイスでした。そうやって社会のレールに乗り、なにかあっても大抵は社会が用意した対処法で対応すればよしとされ(それはホームレスになるとか、責任をとって自殺するといった選択肢も含め)、本当にどうしようもなもしなにか問題が起こったら、そのとき初めて「人間を超えた存在」を考えるくらいで大部分の人は間に合っていたのです。

     少なくとも日本はその傾向がより強いはずです。だから無宗教であっても、さらに無宗教の代わりに自分自身の超越者はなにかをはっきり自覚しなくても、ほとんどの人がやってこれたのです。

    今は誰もにふりかかる問題。備えよ。

     しかし、大きな変革期である今、しばらく社会にそれを期待することは難しいと思います。誰も「あなたはこれをやっていれば一生つつがなく暮らせる」方法など教えてくれません。自分で生きる方法を見つけなければならない、そのためにかつてない心の強さを私たち一人一人に要求されている、今はそんなタフな時代です。たまたま運が悪かった人だけでなく、かなりたくさんの人が「『人間を超えた存在に受け入れられている』ことを知らなければ生きていけない」ほど崖っぷちに立たされる時代なのです。

     20歳になってなくても、なっていても、早く自分の超越者を見つけ、いつでも逃げ込めるようにしておく、そのことがこの混沌とした未来を生き抜くためのコツの一つではないでしょうか。


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