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今週の馬車目線[S馬]です。現代社会で普段あまりに頻繁に言われているので当たり前のように聞き入れているけど、落ち着いて考えると「ちょっと待って!」ということについて考えます。
こんな記事を見つけました。
日常コミュニケーションの抽象度増大問題
最近、コンテンツ消費やキャラクター消費の世界では、「少ない情報量でつくられたキャラクターやストーリーを、各人が脳内補完して楽しむ」形式が流行っている。
じゃあ、同じことが生身の人間に対して起こったらどうなるか?物言わぬキャラクターやコンテンツとは異なり、生身の人間対象を脳内補完し、手前勝手な解釈を施せば、人間関係に誤解や齟齬が起こるだろう。というとても興味深い内容です。
でも、一点とても困ったことがありました。
ところが、昨今のコミュニケーション状況は、この「生身の人間対象を脳内補完」が起こりやすくなっている。この辺、都会とそれ以外では全然事情が違うので、読みながら、すべて翻訳しないといけなかったのです。
ということで、地方目線で読み直してみました。
たとえば、
狩猟採集社会や農耕社会では、私達は必ず face to face なコミュニケーションを行っていた。インターネットは勿論、電話も手紙も使えなかった頃の人間は、身振り手振りも交え、表情や声音の変化も駆使しながらコミュニケートするのが日常的だった。とあり、こういうコミュニケーションは少なくなったという話なのですが、日本約1700の自治体中36位という相当上の我が福山市では、 face to face なコミュニケーションは健在です。
都会だとたとえば、池袋、新宿、渋谷などのターミナルを通ったり、大手町みたいなところに通勤していたら、一日にそれこそ何万人という人間が視野に入っているでしょうし、コンビニの店員などささやかにでもコミュニケーションする人もかなりいるでしょうし、すれ違う時にぶつかりそうになってお互い譲るようなもっとささやかなコンタクトがあった人になればさらに人数は増えるでしょう。
そういう何百人もの非常に情報量の少ないコミュニケーション対象を持つ都会人によって書かれた文章なんだろう、そう思います。
そして、互いの情報量の乏しい人間関係が大きな割合を占めることによる問題は「しがらみのある、密な人間関係に習熟する機会が少なくなる」ことだと書かれています。
一方地方にいてもある程度の規模の都市なら(福山市も含め)、一人暮らししながら、互いの情報量の乏しい人間関係中心の生活をすることは可能でしょう。
そういうのが心地いいことは、私自身昔そうでしたから分かりますし、そのままだと将来しがらみのある関係が作れなくなる危険性はあるでしょう。
そういう人にとっては、この文章はとても示唆に富んで参考になるでしょう。
ただし、現代人全員がそうではないし、むしろそういう人は少数派だと思います。
たとえば都会であっても、
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