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30歳。大人と真大人の狭間で
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30歳。大人と真大人の狭間で

2013-02-04 13:00
    先日

     20歳で大人は厳しい? 実はその先にある40歳で真大人

    という記事をアップしたら、なんとあの海燕さんが!! とりあげて下さいました。

     一生大人になれないかもしれないと思いながら生きていく。 

    それだけでも感激ですが、読んでいたら、私が35歳くらいの頃に考えていたことを生々しく思い出しました。海燕さんのを読むまですっかり忘れ去っていたのですが、それは自分にとって本当に大事な体験だったので、きちんと思い出せてとても感謝しています。また記憶がぼやけないうちに書いておこうと思います。

    大人になる予感という経験

     それは30歳から35歳あたりに起こった「大人になる予感という経験」です。前回の記事風に言えば「真大人」になる予感です。

     その経験はごく内面のもので、言葉に書けるかとても心もとないのですが、書けるかな。

    自分という布とそれをピン留めするということ

     ある時「自分」というものが、「自分の考え方」と言った方がいいかもしれません、一枚の布のようなイメージで浮かびました。なにかを学ぶとその布の端っこがぐいっと引っ張られて少し自分が変わります。また別のことを学ぶと今度はそっちにぐいっと引っ張られます。

     もし自分の考えの中で、根本的でしっかりとしたものがあれば、その部分については、ピンでその布を留めることができます。布はある程度伸縮するので、その後新しい学びがあり布が引っ張られても、みょ〜んと伸びます。つまり少し自分の考えを修正するけど、ピンで留めてある根本的な考え方についてはそのまま持ち続けることができます。

     30歳以降そのイメージが浮かんだのは、自分はそれまでそうやってピンで留めることができなかったことに気付いたからです。もし間違った考えをピンで留めてしまったら、後で布は伸びきれないくらい違う方向に引っ張られ破れてしまいます。ですから、一度ピンを抜いて、つまりそれまでの考え方を棄てて、布を動かしまた留めなければなりません。私にとってそれはとても恥ずかしいことに思われました。平たく言えば、「ぼくは一つの考えに凝り固まることなく、柔軟な思考を常に持ち続けていたい」と考え、従って自分という布をピンで留めないようにしていたことに気付いたのです。

     恐らく強い心を持った人なら、若くてもしっかりとピンで留めて、もし変えなければいけないと分かれば正々堂々と一度抜いて動かしてまた留められるのでしょう。でもそこまで強くない人なら、うかつに留めてしまったら抜くことができなくなりかもしれません。つまり、いつまでも一つの古いあるいは間違った考えに囚われ続けてしまいます。私にはそれが怖かったので、ピンで留めない自分を「いつまでも自由な俺カッコイイ」と考えていました。要は自信がないだけなんですが。

    やっとピン留めできたこと

     しかし、ピンで留めないということは、すなわち「自分がない」ということです。それではいつまでも自分を築いていくことができません。そのことにだんだん居心地が悪くなっていきました。

     そこで私の30歳から35歳に起こったことは、「柔軟な思考を常に持ち続けること」は大切だけど、それでもピンで留めてもいい場所がありそうだと感じたことです。30年以上生きて、一つ学ぶごとに自分という布があっちやこっちに引っ張られるのだけど、「あ、この辺りはあまり動かないな」というところが感じられて、「この辺はピンで留めていいかな」という勇気が出て来たことです。
     一つピンで留めてからしばらくは、新しいことを学ぶたびに、その部分がひきつるほど引っ張られないことを確認し続けました。どうやら大丈夫だと安心できたら、その周りでまたピンで留められそうなところを留めます。そうして3つピン留めできたころ、その3つは互いに近くにあるけど、そこにささやかな動かない場所「自分」ができたのです。

     私がもうすぐ大人になるかもと感じたとき、この自分という布のイメージが浮かんだのです。このささやかな「自分」は、私にとって本当に大切なものになりました。その部分があれば、どんなに小さくてもその上に自分の城を立てられます。当時の私にとっては、そのことが何より嬉しかったのです。

     このときの私の予感は当たっていました。そして今私は大人になったと自覚していて、あの記事を書きました。昔、布のイメージで大人を予感していたことはすっかり忘れ果てながら(笑

    そして大人になる

     そうして自分という場所とその上のささやかな城が出来たら何がおこったか。そこに経験が溜まっていったのです。自分が作られれば、その自分という基準で物事を判断して物事にあたることができます。いい結果もあれば悪いのもあるでしょう。でも判断基準は同じですから、その結果を自分という城に貯めていくことができます。たくさん溜まると、いろんな物事に対して、じっくり自分という基準と比較するだけでなく、すばやく「勘を働かせて」判断することかできるようになります。

    これが前回の

     20歳で大人は厳しい? 実はその先にある40歳で真大人

    で書いた大人(真大人)の状態なのです。つまり40歳で真大人になる前のステップとしてささやかでも世の中の価値基準に惑わされない自分自身ができる時期があるのです。

     それにしても、この時期のこと、見事に忘れていました。布のイメージに頼らなくても自分を意識できるようになっていらなくなってたんですね。
     海燕さんがいなかったら、ずっと忘れていたかもしれません。なんといっても自分のために思い出せてよかったです。感謝しきれません。

     自分があまりないうちは、相対的にそのときの世間の価値基準に判断材料を求めることになります。しかし、世の中の価値基準など日々揺れまくっていますから、それで判断して得られた結果は、後に生かせません。新しい問題に対しては、またそのときの世間の価値判断で考え直す必要があります。いつまでも勘を働かせることはできません。

    大人になれないではなく、大人になってしまう

     でもそれでもいいじゃんと思うかもしれません。別に勘なんて働かせなくても、その時の世の中の最先端の価値基準で判断すりゃいいじゃん、「いつまでも自由な俺」の方がカッコイイんじゃね?と。

     そうですね。それができ続けるならアリかもしれません。世の中にはそれが出来続けるスーパーマンもいるかもしれません。でもそれは普通は無理です。単純に歳のせいです。

     「いつまでも自由な俺」でい続けるには、そのたびに自分という城を壊し、布のピンを外し、布を動かし、ピンを留め直して、またそこに城を建てなくてはいけません。それはものすごく体力のいることです。3.11では、直接被害にあっていなくても「人生観が変わった」日本人は多いと思います。これがまさにその瞬間、つまり城の建て直しです。いくつになってもそれをし続けるのは大変です。

     歳を取れば、ピンで留めなくても自分という布は地面に貼り付いていってしまうのです。3.11のようなことがあればそれが無理矢理ひっぺがされることもありますが、そうでなければ、いつのまにか自分はできていて、そこに経験は溜まっていて、体力との関係上、勘を働かせて判断することが多くなっていくことでしょう。
     誰か平凡なじいさんばあさんを想像すればいいでしょう。いちいち物事熟考せずに、過去の経験で話すし、判断するでしょう? 熟考にも体力的限界があるのです。でも別にそれで大抵はうまくやってます。オレオレ詐欺はそこを突いてくる作戦ともいえます。

     「真大人」になれない人はいません。どうせ「真大人」になってしまうのです。それがかっこいい大人かかっこ良くないかは別にして。

    ええ?でもそんな「真大人」いやだ。

     そこに最後の大きな問題が残ります。このままの自分が自分になってしまうのは嫌だと思う気持ち。成人後、大した成長もしていないのに、そのまま自分ができてしまって、老いたけど未成熟な「真大人」になるなんてイヤすぎる!! 

     これは現代の私たちにとって特有の問題です。少し前の人たちまでは、ほとんどの価値観を外からもらうことが出来ました。勉強していい大学入って大企業に入るのが一番の人生、それができなかった人はできなかった度合いによって、こんな分相応の人生、という価値観があって、一人一人それにちょっと自分ながらのアレンジを加えたような(例えば「人生学歴だけじゃないよ」みたいな)価値観を持てば充分やっていけました。あるいはそれに逆らった価値観をあえて選べば、世の中に逆らった生き方です。
     いずれにせよ、ピンの止め方にはパターンができていて、それを選ぶだけの単純な作業だったのです。これは江戸時代だろうがさらに遡ろうがほとんどの時代で一緒です。

     しかしここ20年ほどを含め、世の中が大きく変わる時は、それが通用しないのです。いろんな価値観が交錯していて、どれを選ぶかは自己責任。あなたはその価値観でいれば人生うまくいくよとは、誰も言ってくれません。仮に言われても信用できません。そんな状態で、自分で自分という布にピンを打つことほど怖いことはありません。

     でも、今はみんなそうです。私もそうでした。ピンを打つのを遅らせに遅らせた自覚があります。平たくいうと逃げ回ってました。でも逃げ回ったおかげでそれでも自分の中に変わらない部分に気付いて、そこにピンをうち、小さな土地を作って自分の城を建て始めました。ミライとかフツクロウとかふざけてるこのブログもその産物です。

    かっこ悪くても城を建てれば新しい時代が生み出される

     今は混沌とした時代ですが、みんなで、そうやって恐る恐る自分にピンを下ろして小さな城を無数に作り、みんなで見せっこすれば、そこからみんなで共有できる新しい時代に価値観が産まれます。そうなったとき、その時代の人たちは私たちのこの苦労をしなくて済むようになります。ちょっとずるい気もするけど、私たちが作りあげたものとして少し自慢になります。
     
     どうせ歳取って自覚ないうちに自分が出来てしまうくらいなら、30歳過ぎたら、勇気を持って今の自分自身で、一番ピンを打ちたいところに打下ろし、その土地に城を作りましょう。それがどんなに小さくても、私たち一人一人の無数の城と一緒に、新しい時代を作り出します。

    やっばり怖いよ

    おや、偶然か、私の中でつながってたのか、ちょうど一週間前にこんな記事が。

    ・併せてどうぞ
    20歳までに身に付けたい、生きて行くための心の強さ

    ちっぽけな自分自身を受け入れることそれ自体が一番怖かった。

    おまけ

    子ども心とは関係ない

     ところで「大人になっても『子ども心』は持ち続けたいよね」と良くいいます。きちんと考えてませんが、この「子ども心」というのと上で話して来た大人になるということは、直感的に全然違う話だと思います。ものすごいしっかりした自分があるけど、子どもみたいなかっこいい人っていっぱいいて、憧れですよね。だから多分全然違う話です。しばらく考えてみます。

     真大人になるとこんな風に勘が働くという例です。自分の中の論理は分からなくても自分なりの答えは分かるという。

    「成人」と「大人」

     日常では「20歳で『成人』するけど、『大人』になるのはその先」と言えば良さそうですね。
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