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  • 今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!(再)

    2024-10-11 19:41

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     えぇと、みなさん。
     大体このニコブロ、新記事や新動画を出した後、それに絡めた過去記事を再録していました。
     実は今回、前回記事に絡めて「オタク論」についての文章の再録を考えていたのですが……初出が2013年12月6日である本稿、見ればむしろ牛角問題などの「男性差別問題」にこそ関連していることに気づきました。

     ↑こっちですね。
     そういうわけなので、そういうつもりで読んでください。
     いつも通り、多少、改稿はなされています。
     では、そういうことで……。

         *     *     *


     一時期、ぼくはよく海燕師匠に噛みついていました。
     いろいろ理由はあるけれど(話しあいを途中で遁走されてムカついたとか)、一番の理由は彼が「オタクヘイター」だからです。
     というか、従来「オタクヘイター」として東浩紀師匠辺りをやり玉に挙げていたのに、最近、目立つところでそうした発言をする人間が減ったようなので、その代わりに彼を叩いていたといった感じなのですが。
     言うまでもなく、彼らの「オタク批判」に内実があったことは、今までただの一度もありません。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』でも(海燕師匠のご友人である)ペトロニウス師匠の行った「オタク批判」を採り上げましたが、これなど「オタクは自己承認欲求を持っているからけしからぬ」といったすさまじさで、こうなると「オタクは食欲を持っているから(あんパンを盗んで食ったのではなく正当に購入して食ったけれども)けしからぬ」とか、「オタクは性欲を持っているから(幼女をレイプせずに、エロ漫画も読まずに空想でマスターベーションをしたけれども)けしからぬ」とかもアリになってしまいます。恐ろしいですね。
     ――いや、しかしですね、考えてみれば今更驚き憤るほどのことでもないのですな。
     例えばですが、ドラマに障害者と健常者が出てきた時、障害者が悪役というのは稀でしょう。多くの場合、「その存在を肯定される」という役割を担って登場してくるはずです。
     では、黒人と白人が出てきたら? 同性愛者と異性愛者が出てきたら? そして、女と男が出てきたら……?
     むろん、今時女性の悪役もまた珍しくないとの事実は、ある種の「女性の社会進出」や「ジェンダーフリー」の成果であるとも言えます。が、日常を舞台にしたドラマで、男性と女性が対立したら、多くの場合に女性が肯定的に描かれることでしょう。『ドラえもん』などで女子が優等生に描かれるのが基本と、腐川さんの記事で指摘した通りです*1
    男は、男だから、ワルモノ」なのです。
     つまり実のところ、通俗的なドラマがそうであるように、極言すれば「ヒョーロン」とか「シャカイガク」とかいうモノはそもそも、「最初っから男を叩くことを目的とした文章」という程度のモノだったのですな。「評論や社会学はドラマとは違うぞ」と言いたい人もいましょうが、逆に言えばイマドキのヒョーロンやシャカイガクなんぞ三文ドラマ以下、ということです。

    *1事実、この記事では70年代以降の作品について述べましたが、更に時代を下ると「社会に出ようと生意気なことを考える女が、いろいろあって女は家庭に入るべきと悟る」みたいなストーリーは普通に作られていました。

     そしてオタクというのは(いろいろと定義はあるでしょうが、ここで極言するならば)男を丸裸にして、その社会的属性、つまり地位、権力などを剥ぎ取った存在です。
     むろん今までの男性への攻撃はその社会的属性に対して向けられることが通例ではあったものの、逆に言えばだからこそまさに「オタク批判」は「裸の男性性への純粋な攻撃」と言えるわけです。これは例えばドラマなどで「女社長」が「男のように権力を振り回す」から断罪され、「女としての弱さを見せる」から免責されるのと好対照であると言えます(また逆に、オタク男子への批判とは対照的に、オタク女子へは全く反転した肯定的評価が与えられますよね)。
     さて、「オタク批判は、男性性への純粋な攻撃である」。
     おkでしょうか。
     それ故、ヒョーロンカはオタク男子を決して肯定しません。
     同様に、オタク界の上の方にいる人々は、オタクが大嫌いです。
     ラノベの編集者とかと話していても、それは痛感します。今回採り上げるようなオタクキャラ、オタクネタはオタ作品に溢れかえっていますが、かなりの割合で、送り手の中にはそれを好まない人々がいるわけです。お断りしておきますが「編集者は作家が安易なオタク的な小ネタに走るのを好まない」といったことを言っているのではありません。彼らはオタクという存在そのものを直視させられることを、好んでいないように思います。
     さて、そのことを考える補助線として、今回、『さよなら絶望先生』の万世橋わたる君、『ダンガンロンパ』の山田一二三君、二人のオタク少年キャラにご登場いただきましょう。
     まずは万世橋君。いつも通り、キャラについてはウィキからコピペってきました。

    万世橋わたる(まんせいばし わたる)
    声:上田燿司
    2年ほ組(へ組の隣)の男子生徒。硬派なオタクで、オタクとしてのアイデンティティーの一般化・低俗化を憂いている。二次元世界への理想が強いゆえに現実の女性には興味を持たぬ恋愛観を貫き、また「万世橋仮面」として現実世界で不逞な行為に及ぶオタクを成敗することも。
    (以下略)


     絵をググっていただければわかりますがこの万世橋君、「漫画で揶揄気味に描かれるオタク」そのままの姿をしており、別に男前な人物として描かれているわけではありません。が、「万世橋仮面」の活躍などに伴い、人気キャラとなっていきました。ちなみにこの「万世橋仮面」って呼称自体は、劇中には出て来なかったはずですが、幼女誘拐犯をやっつけ、「二次元だけにしておけ」と諫めるといった活躍をしていました。
     上に「硬派なオタク」とあるように、彼は「一般人が秋葉へ来んなよ!」といった発言をよくします。恐らく作者の久米田康治氏はそこにオタクの自閉性を揶揄する意図を込めたはずですが、ファンはその発言に邪気なく快哉の声を上げた。比較的古株のオタクが若干の自虐を含めて作り出したオタクキャラが、(想像するに)若い世代には屈託なくヒーローとして受け容れられた。
     上に書いた経緯は、まとめてしまえばそう言うことになるように思います。
    『絶望先生』の単行本では読者の送ってきた似顔絵が掲載されるコーナーがあるのですが、万世橋君はそこでも人気キャラで、確か読者が彼に「オタクを舐めるな!」と叫ばせる似顔絵を描いてきて、作者が若干退き気味に「いや、別に彼はこんなことを言わないと思うよ」とコメントしていたことが印象的でした。
     そしてまた、山田一二三も近しい受け止められ方をしているように、ぼくには思えるのです。山田君についてもウィキをコピペりましょう。

    山田 一二三(やまだ ひふみ)
    声 - 山口勝平
    超高校級の「同人作家」。身長170cm。頭部は栗のようになっており、丸々と太った下ぶくれ体型をしているが、足だけは妙に細い。いつも着用している丸眼鏡とリュックも特徴。以前在籍していた学校の文化祭で、自作の同人誌1万部が完売したという偉業を達成した伝説を持つ(ただし山田曰く「僕の芸術を理解しないクラスメイト達」からの「文化祭が汚された」とのクレームもあったという)。
    (中略)
    相手を「フルネーム+殿」と呼称する癖がある。パロディ発言やネタ発言も多いが、対人関係に壁を作ったりせず、周囲には溶け込んでいる。女性は二次元限定と決めており、三次元の女性には一切興味がないと豪語するが、実際は密かに三次元の女性に興味を抱く様子も見られる。


     彼もまた、絵をググっていただければわかりますが「漫画で揶揄気味に描かれるオタク」そのままの姿をしており、別に男前な人物として描かれているわけではありません。性格も同様で、上に「周囲に溶け込んでいる」とあるのもウソではありませんが、基本的には「主人公が山田君にオタク話につきあわされて持て余す」的な描写がなされています。
     つまり万世橋君同様、山田君の描写にもまた、作り手の自虐的なオタク観が見て取れるのです。
     以前も書いたように、山田君は萌えアニメにハマりつつも、「ぼくは本作を萌え目的で見ているのではなく作品としてのクオリティを云々」といった言い訳を盛んにします。しかし、彼と親しくなると本音を露わにして萌え作品への傾倒を吐露し、しかもそれがかつてのダークサイドに陥っていた自分を萌えが救ってくれたことに起因することを告白し出すのです。この辺り、前者はどうも『ハルヒ』に対する批評文のパクリらしく、後者は明らかに『電波男』の影響を受けています。そして感心しかける主人公に対して――「だからこそぼくは愛を込めてこの萌えキャラ○○タンを辱める薄い本を作るのです」などと宣言し、主人公を困惑させるのです。
     また、山田君は本田透以降ポピュラーになった「リアルな女にキョーミはない、ぼくは二次元へと飛翔したエリートだ云々」といった主張を繰り返すのですが、見ていくと上にあるように女湯や女子更衣室に他の男子たちよりも積極的な興味を持つ描写が、あちこちでなされているのです。これもまた、オタの上記の発言が一種のポーズであるとの作り手の認識を表しているように思います。もっとも最終的に山田君がハマったのがアルターエゴ、つまり二次元の男の娘である辺り、やはり「萌えエリート」である気もしますが、その時の彼の心情が「お母さん以外で自分の話を熱心に聞いてくれた初めての女の子だったから」というものであるのがまた、泣かせます(いや、相手は男の娘なのですが)。
     が、ブログなどを見る限り、ファンたちは妙に山田君に対して、高評価であるように感じるのです。上に書いた「オタク話をして退かれるキャラ」といった解釈よりは、むしろ「人当たりのいいヤツ」との解釈が主流であるように思います。
     例えば本作にはセレスという高飛車な女王様的キャラが登場します。この少女はかつての学園生活ではぼっちであった、しかし山田君とは妙に絡んでいた、といった描写があります。ぼくの見る限り、それは山田君の「三次元女子」への興味、または「ヘタレ」としてのキャラ描写であるように思うのですが、とあるブログでは山田君がセレスのことを気遣って、仲間たちの輪へと誘ったのではないか、といった憶測が書かれていました。正直、ちょっとあばたもえくぼ的な推測だと思うのですが、そう考えると山田君、すごくいいヤツです。
     ――ぼくの言わんとしていることがおわかりでしょうか。
     ぼくの感性そのものは、『絶望先生』や『ダンガンロンパ』の作者たちと近いところにあります。
     オタクを憎悪する層(先に挙げた編集者など)に対して深い怒りを抱きつつ、手放しに「オタクイズビューティフル」と叫ぶのもためらわれる、というどっちつかずなところに、ぼくはいるように思います。
     が、若い受け手たちはそうした言わば「オタク自虐史観」を恐らく、共有どころか理解すらしていない。
     感性は上の作家たちに近いと言いましいたが、ここでどちらが正しいの間違っているのという価値判断はひとまず、保留したいと思います。てか、実は正直なところ、判断しかねているのが実情です。
     ともあれ古株のオタクは「自虐的感性」を持っている。若い世代は持っていない。それ故、アニメなどのオタクキャラの活躍に、邪気のない快哉を送る。
     数年前、『となりの801ちゃん』などを皮切りに「腐女子ブーム」というものが起こり、(貴腐人たちがそれに苦々しげなリアクションを取るのとは対照的に)若い腐女子たちがそれに快哉を送っていたことを、ふと思い出します。ぼくはかねてより、腐女子たちはそれこそ『絶望先生』の藤吉さんなど、腐女子キャラに快哉を送る傾向があるが、男子にはそれがない、と感じていたのですがそれがここ数年、少し変わってきた印象です。

     さて、以降はハナシが一般的な男性女性論に、女災論に転じます。
     つまり、今書いた若手のオタクたちの傾向の変化と同じ感性が、「男性差別クラスタ」にも感じられるのではないか、というハナシです。
    「女性専用車両」、「女性優遇サービス」について、ぼくは女性ジェンダーに根差したサービスだ、「あなたの性別という属性故にサービスしますよ」という甘言に飛びつくのは女性ジェンダー特有の現象だ、と論じてきました。恐らく「男性優遇デー」を設けても「女性優遇デー」を設けるよりも集客は見込めまい、ということですね。
     だから「男性差別クラスタ」はそうした男女のジェンダー差を鑑みてモノを言うべきで「差別だ差別だ」と繰り返すばかりでは解決しないよ、と今まで言ってきました(だって企業も商売ですもんね)。
     しかしこうした「男性差別クラスタ」というものの年齢層をもし調べて、仮に若い連中が多い、という結果が出たとしたら*2。それはもう、「セックスや結婚を忌避する男子が急増云々」と昨今の若年男性の性意識の変化が語られるように、男性たちの内面が変動しているのだと考える他はありません。
     そう考えれば近い将来、男たちが「女並に」自分の権利を要求し出すようになり、「男性差別」は自然に解消されることになるのかも知れません。
     が、それは手放しに喜ぶべきことでしょうか。
     それは他力本願に「サベツガー!」という人間の、おびただしい増加という事態に他ならず、それで日本が住みよくなるかというと、とてもそうは思えないのです。
     ぼくは何度も、「サベツガー!」と騒ぐやり方は「男性の中の、真のワルモノ」役を自分たちよりも弱い者に負わせることになりがちだ、と書いてきました。アメリカではそれが「プア・ファット・ホワイトマン」であり、日本ではオタクだ、という言い方をしてきたと思います。
     福島の第一原発での作業など(これはまあオタクとは関係ないけれど)結局一番危険で、しかし誰かがやらねばならぬ作業など、「強者ということになっている者の中の弱者」がやらされるのは自明なわけです。
     山田君、万世橋君のファンの方には念を押しておきますが、ぼくはこの二人やそのファンをdisってるわけではありません。ただ、このキャラの作り手たちはオタクに対しての冷静な目も失っておらず、そうした視点も大事だよね、というお話をしているわけです。
     そして、更にそれを敷衍して、「男性のケンリ」を主張する人々は余計に、そうした内省的な精神を失ってはならないわけです。でなければぼくたちは、あの国家主導で何兆という予算を食いつぶす、内省がゼロの人々に近づいてしまうのです。
    『ウルトラマンレオ』では変身能力を失ったウルトラセブンが、背水の陣で新米戦士のレオを厳しく鍛えます。その時のセブンのセリフにこういうものがあります。

    「男が外へ出て戦うのは何故だ? それは女の子が背後で、優しくお花摘み*3をしていられるようにするためではないのか?」

    「男性差別クラスタ」は自分も戦いなどごめんだ、お花摘みをしたいと言い出した、男女平等()な草食系男子()です。
     そしてまた、それは大変によくわかります。
     ぼくたち男性も、お花摘みを楽しむ権利くらいはあるはずです。
     しかし問題は、今の日本ではいまだ、怪獣が大暴れしているということなのです。
     ぼくたち全員がお花摘みを始めた後、怪獣と戦うのは一体、誰なのでしょうか……?

    *2こうした調査はないでしょうが、昨今こうした声が大きくなっている以上、若い連中が多い、と考えるべきでしょう。ドクさべのせいで何とはなしにオッサンが多いような先入観を持ってしまいますが。
    *3今になって「お花摘み」じゃなく「おままごと」だった気もしてきましたが、割とどうでもいいので訂正しません。

  • 唐沢俊一論――評論家に戮された人たち

    2024-10-04 04:43
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     オタク評論家というか、オタク界隈の大物であった唐沢俊一氏が亡くなりました。
     心臓発作による急死とのことで、早すぎる死は惜しまれますが、同時に「むしろ餓死に近い」とも囁かれており、そうした晩年の惨状を知らされるに至っては絶句せざるを得ず、ことに近親者の告白は衝撃的なものでした。
     本件に関してはXで少し書いたのでもういいやとも思っていたのですが、「アンチ」の言動を見て、やはり永続的に残る形にしておいた方がと感じ、ここにまとめておくことにしました。
     そんなわけで少しヤバい話は課金制にします。
     あくまで「ヤバい」はぼく個人にとっての話であり、ことさらに裏事情などが明かされるわけではないので、そこはあくまで文章を面白いと思った方にだけ、お勧めします。
     では、そういうことで……。

    ・オタクを戮したい者たち

     まず、上にも書いたように近親者の言からすると、氏の晩年はお世辞にも誉められたものではなく、また惨憺たるものであったことが窺えます。
     ただ、同時に氏はサブカル界隈に悪評をばら撒かれていた人でもありました。
     唐沢俊一と言えば「盗作」とのワードが返ってきますし、それも否定できないのですが、「無断引用」とも言われたように(というか、確かご当人がそう表現していたと思います)、実態は「盗作」と言われた時に想像するものとはかなり隔たったものだったのです。
     問題になったのは『新・UFO入門』という新書。没後のポストにも、この本が丸々パクリで書かれたかのように言っているものもありましたが、実際のところ、とある小説についての要約の数行が、個人ブログからコピペされたものであったことが問題になったのです。こう聞くと、なあんだと思われた方も多いのではないでしょうか。
     例え数行でも、また要約であろうとも許されることではありませんが、それにしても他者のアイディアを自作のように装うという意味での盗作ではない。いくらかのペナルティはあってしかるべきでも、全方位からの集中砲火で筆を折らせるような種類のものかは疑問です。何せ、当時のバッシングは本当に常軌を逸したものでしたから。
     実は最近もこれについてXにポストしたことがあるので、そこから引用してみましょう。

    (唐沢氏のは許されないこととは言え、明らかに出典を忘れただけのことを、「敵」がここぞとばかり叩き出すという、まさに「キャンセルカルチャー」の先駆けだったんだよね)
    https://x.com/Frozen_hyodo/status/1808159262151266733


     これに対し、早速レスをつけてきた作家さんがいました。

    違いますよ。漫棚通信さん@mandanatsusinのブログの文章をコピペしたうえ「加工」して原形が分からなくした極めて悪質なものです。くわしくはこちらのまとめを。


     それに対するぼくの(いささか長文の)お返事が以下です。

    まず、ちょっと思ったのは「コピペしたうえ「加工」して原型が分からなくした」ってのは論理矛盾ですよね。
    「原型が分からな」い場合はパクリとわからないわけです。
    いきなり「盗品は処分しただけでお前が盗んだんだろ!」と殴りかかるようなものですw
    ただし、唐沢氏の問題の件は確かに「原型」はそのまま持ってきたけど、最後をちょっとだけ変えていたということを、思い出しました。
    モノは要するに別な資料の要約であり、その要約の部分がまんまだった。
    だからやはり「コピペ」であることは事実であった。
    ただ、同時に要約というものはクリエイティビティの少ない部分であることは事実で、一言「参考文献」などで挙げていれば問題も起こらなかったのになあと。
    その意味で、騒ぎ方に対するよくぞここまで過剰にという感想が、先のツイになったわけです。


     この後、相手の作家さんは(他にも、ちょっと嫌味をおっしゃっていたので、それについては)冷静に謝罪してくださいました。いや、ぼくの主張に納得なさったかは判然としませんが。
     問題の部分は小説の要約であり、その要約がそのまんまだけど、最後のちょっとした感想の一言が、唐沢氏独自のものであった。
     件の作家さんはそれを引用とわからなくするための改変としているのですが、それ以前の部分が同じなら「わからなく」なるわけではないでしょう。引用文献として挙げ忘れただけではないかというのがぼくの判断です。
    (もっとも超フラットに見るならば、唐沢氏に盗作の悪意があったかどうかは藪の中、というのが正しい言い方でしょうし、ぼくもやや唐沢氏寄りの見方はしています)
     ともあれ、順風満帆に見えた唐沢氏はここから作家、出版関係者、業界人の連合軍による尋常ではないバッシングを受け、坂を転がるように仕事を失い、転落してしまったわけです。
     先にあるように近親者、また仕事仲間とも問題を起こしていた人であり(ただ、近親者のそれは死後に一方的にされた話ではあります)、清廉で潔白だとは言いにくいですが、それにしてもバッシングは過剰であったし、それによって「戮された」のだということは、否定しにくいように思います。
     何しろ「アンチ」の中には今回、唐沢氏や岡田斗司夫氏を売り出した人間に取材しろなどと言っていた者もいましたし(取材してどうするんでしょう。悪者を世に放った責任を追及しろ、というわけでしょうか)、また無断盗用(と、敢えて表現します)騒動に対しては氏が会員だったと学会の山本弘氏にまで意見表明せよと迫り、病床に伏した近年までしつこくしつこく粘着していました(除名処分にしなかったことがお気に召さなかったようです。唐沢氏の問題の本が、と学会名義というわけですらないのに、です)。
     普通に考えて唖然とするような振る舞いばかりですが、「唐沢俊一は悪の権化だ」という「大前提」がもう、彼らの中では揺るぎないものとなっており、その唐沢を潰すという「大正義」のためには何をしても許される、というのが彼らの考えなのでしょう、安倍さん暗殺の時の左派と同様に。

    ・オタクについて論じた人たち

     さて、では、何故、唐沢氏はここまでバッシングを受けねばならなかったのでしょうか。
     そんなの、氏の「業績」を見れば明らかやないですか。
     いつも言ってる岡田氏の場合といっしょです。
     唐沢氏の著作に『B級学』というものがあります。
     漫画を中心に、大衆文化にはその時代の瞬間最大風速的に圧倒的な支持を受け、しかし評論家の先生方の受けが悪いがために「消えて」しまう作品が無限にある。確かにそれらはクオリティや芸術性という意味では取るに足りぬものが多い。だが大衆の心に何よりも寄り添い、慰めてきたそれらを蔑ろにしてしまっていいのか。
     ――以上は唐沢氏の本の引用ではなく、あくまでぼくが自分の理解を記憶に頼り書いていることなのですが、ここしばらくたまたま氏の本を読み返していたところでもあり、アウトラインは抑えているのではと思います。
     これは同時に、例えばぼくがオタク文化を形容し「裸の男性性」と称するのとも近い。オタク文化はもちろん大変なクオリティを持ってはいるものの、同時に同人誌やかつての美少女コミック誌(これは商業版同人誌とでも称するべき特性を持っておりました)などは、クオリティ的には低いものも多かったのですが、それらはその時のオタクの「気分」をストレートに汲み取るものでした。ぼくの言はそれに価値を置くものであり、これは唐沢氏のスタンスとも相通ずるものです。
     氏は以降、貸本の怪奇漫画などの復刻を積極的に行ってきました。それらはクオリティの低いものばかりで、そこに書き文字で「何やってんだ、この主人公」といったツッコミを入れるスタイルに「アンチ」が文句を言ったりもしておりましたが、じゃあ、お前がツッコミなしのものを先に復刻しろって話です(しかしそうした「アンチ」が『映画秘宝』的な、近いことをやっていた連中なのも不思議です)。そもそもクオリティが低い(ツッコまずにおれない)ものを復刻するというのが氏のスタンスであり、「アンチ」はそこを理解できていないのです。
     上に唐沢氏を「岡田氏と同じ」と書きました。が、唐沢氏のスタンスは、岡田氏とはまた少々、違ったものかも知れません。
     評論家としての岡田氏のモチーフは、「オタクは批評家たれ」とでもいったものになりましょう。
     要するにこの世に溢れるおびただしいコンテンツの中から、目利きたるオタクがある種のインフルエンサーとなり、「こんな面白いのがあるぜ」と伝える、クリエイターと消費者の仲介者とでも称するべき役割を担え、といったものです(『プチクリ』とかその時期の著作に、これは濃厚に出ています)。
     これはそもそも、オタクがアニメなど子供向けとされていたものから価値を見出した者であることに、端を発しています。また、先の同人誌などでも述べたようにオタク文化の本質は「舞台と楽屋と客席」を融合合体させたところにでもある、と言えそうです(これはまさに八〇年代のオタク投稿雑誌、『ファンロード』誌上において、読者が同誌を評して述べていたことです)。
     いずれにせよ、二人のスタンスは違いもあれど、クリエイター様を伏し拝むのではなく、受け手側がもう少し能動的に作品に切り込んでいくべきという点で、共通していたのだと言えますね。

    ・オタク資産が欲しい者たち

     ところが、一体全体どうしたことか、両氏の「アンチ」、ぼくが「サブカル」とか「オタク界のトップ」とか「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」とか読んでいる連中はこうした世界観を頑なに拒む傾向があります。彼らは一体全体どういう認知の歪みか、オタクは「消費者」だと信じ込み、「消費者だから下等だ」とビシバシ決めつけます。彼らは一様にクリエイターを神のように崇め、消費者を見下しています。じゃあ、先にも述べたように、彼らに『映画秘宝』的にコンテンツを斜めに見たがる傾向があるのは何故か不思議なのですが、多分自分だけはクリエイターよりエラい、というリクツなのでしょう。
     ぼくはかつて岡田氏をサブカルに対する「ジオン」である、独立戦争を起こした側である、と表現しましたが、唐沢氏にもそれが当てはまるのです。そしてまた、その時にはサブカルの左翼性とオタクのノンポリ性の相克といった面を強調しましたが、唐沢氏は実のところ左派嫌いの人でした(晩年、フェミニスト作家を批判していたことを知る方も多いでしょうが、かなり早い段階からフェミ批判もしていました)。
     今回の訃報に際し、極めておびただしい「唐沢は売れなくなったからネトウヨに擦り寄ったのだ」とのさわやかな死体蹴りを拝見いたしましたが、それは残念なことに事実に基づいていないのです。
     そう、両氏が何故「消された」かはもう、明白です。
     彼らがバッシングを受けたタイミングと、オタク文化の凋落がシンクロしていたのは、決して偶然ではないのです。
     何しろ彼らの目的は、オタク村という「植民地」における成果物の中から、「自分たちにも食べれる」ものだけを簒奪するというものなのだから、やってることはフェミと面白いほどに「完全に一致」しているのです(腐女子フェミのBLの持ち上げぶりを見よ!)。
     ぼくは上で唐沢氏バッシングを「キャンセルの元祖」と表現しましたが、同じ手がこれからいよいよ、ぼくたちに伸びてくることも、既に必然なわけです。

     先に岡田氏、唐沢氏の評論家としての骨子について述べましたが、今のオタクコンテンツには、それらが失われているように、ぼくには感じられます。
    『B級学』的な視点から見るならば、いい意味での素人っぽさ、マニアックなネタを競うような趣味性(要するに内輪受けということですが、それは必ずしも悪いことではありません)が失われている。同人誌の持つ特性を、ぼくは「気分」と表現しましたが、その「気分」を失った時、青年文化としてのオタクコンテンツは死ぬわけです。
    『プチクリ』的な視点から見るならば、例えばですがマイナーなエロゲの記事をブロガーが書き、2ちゃんねるのスレッドでそうしたコンテンツについて喧々諤々と考察する、これらはゼロ年代には普通に見られたことですが、今ではそうした文化は失われています(2ちゃんがXに、ブログがnoteになったということではなく、そうしたオタク活動そのものが停滞しているわけです)。
     これは直接的には小銭を稼ぎたいヤツらがDLsiteなりソシャゲなりYouTube動画業者なりといった形でオタク業界を荒らしたことが原因だと思うのですが、オタク的な「気分」を、またオタクコンテンツそのものをサブカル陣営が叩き続けたことを考えると、それもまた、一助となっていましょう。
     仮にそうしたサブカル陣営の妨害がなければ、或いは両氏の著作を論理的支柱として、ぼくたちももうちょっとオタクコンテンツの防衛ができていたのではないでしょうか。
     今、唐沢氏は彼の愛したB級同様、「評論家の先生方」に消されようとしています。
     全盛期のことを知る者も減るばかりでしょうし、これを機に、サブカル陣営がネガキャンを張ることは目に見えています。
     そしてそのことはまた、ぼくたちの近未来を示唆してもいるのです。

     あ……いや、実のところ「アンチ」にそこまでの知性があるかは極めて疑わしく、単純にオタク村への侵攻時に、まず村長さんをぶっ殺しておく必要があっただけ、ということなのかも知れませんが。
     岡田氏は何しろオタキングを名乗り、今でもYouTuberとして活躍しており、オタク界の大物というのはご理解いただけましょう。
     唐沢氏もまた、二〇年ほど前はテレビに出るのみならず、毎月のように本をバンバン出版し、イベントを企画してと、オタク界の中心にいたのです。この辺り、おそらくこれからは晩年の窮乏を強調するネガキャンが始まるでしょうから、申し上げておきます。
     当時の唐沢氏はオタクのみならず、サブカル界隈からも憧れられ、妬まれ、嫉まれる対象であり、(事件以前より)その地位を失墜させようと叩く者が多かったのです。
     そう、「サブカルのオタクへの攻撃」というものが「あった」ことは、幾度も書いているので繰り返す必要はないかと思います。彼らのオタクへの感情はアンビヴァレントなもので、「俺を捨てたお稚児さん」への憎悪という側面と「いや、お稚児さんはまだ俺を愛しているはずだ」という未練という側面とがあります。
     それが彼らの「オタクもサブカルも元は同じだ」、「オタクどもはネトウヨだ」との矛盾した物言いへとつながっているわけです。
     そしてまた、オタクをお稚児さんであると思い込んでいるが故、彼らはオタク文化の中から「自分たちにも食べれる」モノを選別し、奪取することを正当な権利だと、傲岸不遜にも、本当に信じているわけです。
     ちょっと観念的にわかりにくいでしょうか。
     一つに、東浩紀や宇野常寛が常にオタクを貶め、蔑み、軽んじ、侮り、卑しみながら、オタクコンテンツで商売をしていることを例示すれば、それで充分かも知れませんが、今これを読んでくださっている何割かは、とある言葉が喉にまででかかっているかもしれません。
     ――ということで、以降はちょっと、課金にしておこうかと思います。
     ご興味のある方は下をクリックしてみてください。

    ・オタクを寝取った者たち

  • 風流間唯人の女災対策的読書・第62回「トランスジェンダーを巡る激寒な『情況』」

    2024-09-27 20:25
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     第六十二回目です!
    『情況』のトランスジェンダー特集が炎上しています。
     いつも言っている左派の内ゲバなのですが、フェミとトランスという一番近いところにいる者同士が、醜すぎるエゴを縦横無尽に炸裂させ、支離滅裂の極みのデマや言い訳を展開しているところが最高の笑いどころです。
     果たして彼ら彼女らは自滅の道を辿ってくれるのでしょうか――?
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