「お母さん……子供の頃はいっしょに『プリキュア』ごっこをしてくれたお母さん……
でもいつからか、いつまで経ってもアニメを見ている私のことを、冷たい目で見るようになったお母さん……
学校ではずっとぼっちだけど、でも大好きなお母さんがいっしょにアニメを見てくれたら寂しくないのに……
私がいっそ登校拒否みたいな『わかりやすい、弱者としての徴』を抱えたら、お母さんも私のことを心配してくれるのかな?
いっしょにラノベを読んでくれるのかな?」
トントン!
「智子、夜遅くまで何やってるの!?」
「っせえなああ――!!
私の勝手だろが――!!
出てけよクソ主婦が――!!!」
今回は特別企画!
ナウなヤングの話題を独占する二大人気作品、夢のコラボです!
え?
本家もニコブロで『超電磁砲』とコラボってるんスか? 知らん知らん!
えぇ……コホン。
当ブログだけに可能な特別企画。
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』と『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の夢のコラボ。
あのレビューを書いていたのは実はもこっちでした……というおハナシ。
――というか、この話題、どれくらいメジャーなモノなのでしょうか?
当ブログでも扱った『俺妹』の最終巻、そのAmazonのレビューが話題になっているのです。
【ネタバレ注意】『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』最終巻のAmazonレビューが泣けると話題に
元のレビューの全文は(http://www.amazon.co.jp/review/R17QH7FCJKXGVK/)になりますが、ごく簡単に書くと、レビュアーは不登校のオタク女子を娘に持つお母さん。娘さんは本作に勇気をもらい、立ち直った。お母さんもまた娘と共に本作を読み、そのファンになった、といった内容です。
大変感動的なレビューで、ねとらぼでも採り上げられたのですが、一方、はちま寄稿では「作り話だろう」といったコメントが並んでいました。
正直に言うと、ぼくも作り話である可能性はあると思います。
こうした詮索は不謹慎ではあるけれども、そう考える理由を列挙していくと、
・まず、あまりに出来すぎています。この娘さんは「大好きな兄がいたが、事故で既に亡くなっている」、「オタク女子だがモデル級の美少女」、「沙織のように長身である」とのことで、ちょっと偶然と言うには……という気がします。
・また娘さんは桐乃のように活発な性格だったところが、オタク趣味がばれ、いじめられて自殺未遂に追い込まれたと言います。活発な美少女がいじめられるというのはどうでしょうか。確かに目立つ人物がいじめられるということは(特に女子の間では)多い気もするので、あり得る話だとも思うのですが。
・タイミング的にどうか。このレビューを「悪評を抑える目的での、ファンの作り話」と見る向きもいます。確かにタイミング的に12巻の悪評が盛り上がった頃に投稿されたレビューであり、「何故今?」という感じはします。とは言え、この母子が『俺妹』にハマったのは最近と思え(アニメの第二期が放映され出してからハマったと想像できる記述があります)、また単純に「大好きな作品が貶されるのを見兼ねて筆を執った」という状況は充分にあり得ます。
以上のような次第で、ぼくは実話である可能性も大いにあるけれども、「怪しいな」と感じなくもない、そんな感想を持ちました。
さて、ではもしこのレビューが作り話であったと仮定するならば、レビュアーの正体は一体誰なのでしょう?
つまりそれはもこっちではないか、というのがぼくの名推理です。
――おいおい兵頭よ、いくら何でもその推理は飛躍が大きすぎるぞ。
そうでしょうか?
では順を追って考えていきましょうか。
仮に、作り話だとして。
レビュアーが『俺妹』のファンだというのはまず、間違いがないと思います。
オタク文化の全くの部外者が書いた可能性は、かなり考えにくいのではないでしょうか。やはり『俺妹』にある程度の関心を持っている者と考えるのが自然です。
その中でも例えば、「ファンだったが12巻を読んでムカついた者」「小説を読んだりアニメを見たりしたこともあるが、『俺妹』アンチ」である可能性も、上に比べれば大きいでしょうが、やはり可能性としては低いように思います。
ファンであり、本作の評価を下げさせたくない者が書いた可能性が高いように思うのです。
では、その性別は?
まあ、この辺りになると曖昧な類推になりますが、ぼくは女性であるように思います。
何故か。
いずれにせよこの不登校のオタク女子高生というのは、明らかにレビュアーの自己像そのものです。むろん、男性が「女子高生」ぶって上のレビューを書いた可能性も充分あるでしょう。しかしここでは「母親の語り口」が採用されており、男性がそのような「設定」を採用するのは、ぼくの感覚からするとかなり不自然です。
また、「大好きな兄が死んでいる」という「設定」もそうです。むろん「原作」である『俺妹』に倣ってそうした「設定」を採用した可能性もあるとは言え、こうした「兄への思慕」は書き手が男性であればノイズとなるはずです。
つまり、仮にこのレビューが作り話だとしても、「『俺妹』ファンのオタク女性」というのは恐らく事実ではないか、とぼくには思えるのです(レビュアーは母親ですから、その場合は母親ではなく娘自身が書いた、ということになりますが)。
では、それ以上の細かい「設定」は、どこまでレビュアーの現実と符合しているか。
「活発な美少女」というのは、申し訳ないけれどもちょっと可能性としては低いように思える。そうした自己申告とは逆に、「学校でもシカトされてる取り柄なしの不美人」というのが可能性としては高いのではないか。
「お兄さんが亡くなっている」「不登校」といった要素は、言わば話を「盛る」ために持ち出された劇的な「設定」ではないか。
そう考えていくとレビュアーの特徴を兼ね備えている人物として、もこっちが浮上してくるのです。
言うまでもないことですが、このレビュー自体は極めて優れた『俺妹』の「批評」です。
『俺妹』はオタク趣味をコンプレックスにしている少女がそれを克服していく物語であり、そしてまたそれをきっかけに、家族が絆を再生させる物語です。
そのことを、このレビューはどんな評論家よりも優れた筆致で指摘したのです。
更に余談ながら付け加えれば、『俺妹』の最終巻についての辛口のレビューで、「敢えて両親を配した作品であるにも関わらず、最終巻では全く登場していない。不誠実な逃げだ」といったものがありましたが、ある意味このレビュー自体が、最終巻を「補完」しているとすら言えます。
このレビューが実話であろうと作り話であろうと、その優れた批評性が揺らぐことはありません。
が、敢えてここでレビューを「もこっちによる、作り話」と仮定してしまうならば、こんな連想も浮かんでくるのです。
もこっちは「私にあんなお兄ちゃんがいたら、そして私のお母さんがこんな風に私をわかってくれたら」と思いながらあのレビューを書いたのではないか。
或いはまた『俺妹』自体が「本当は非モテでぼっちのオタク娘である桐乃が、『私にあんなお兄ちゃんがいたら(ry』と思いながら書いた小説であった」との想像も可能ではないか、と。
――さて、もし以前の記事を読んでいない方がいらっしゃるとしたら、是非読んでみていただきたいのですが、ぼくはそこで、ブロガーであるペトロニウス師匠を手厳しく批判しました。
ぼくは『俺妹』を「オタク肯定」の物語として評価した。
師匠は『俺妹』を「バカなオタクを甘やかす」物語として批判した。
そうした師匠のスタンスが、ぼくにとっては下劣なものに見えたからです。
そしてぼくはそこで同時に、『俺妹』についての両者の着眼点の違いについても、指摘したかと思います。
ぼくは『俺妹』を男女オタの両者にとって快い物語であるとして評価した。
師匠は『俺妹』を専ら男オタを甘やかす物語であるとして批判した。
恐らくですが、ぼくの「男女共に快い」という指摘、師匠には理解ができないのではないかと想像します。
が、本レビューを見ればぼくの指摘の正しさは明らかです。『俺妹』はオタク女子にとって、「優しいお兄ちゃんが私を助けてくれる物語」だったのですから。
だから今頃ペトロニウス師匠は、海燕師匠はこのレビューが話題になっていることを知り、苦虫を噛み潰したような顔をなさっているのではないか……とついついそんなことを想像してしまうのです。
一体全体どうしたことか、オタクを善導しようと使命感に燃え、オタクを罵倒するインテリの方々は、例外なくフェミニズムを信奉し、女性に対してはいかなる批判もまかりならんとの信念をお持ちです。
彼らが何故、オタク(男性限定)に対しては「不幸だなどと感じるな、お前は幸福だ」と言い立て、しかしフェミニズムには平身低頭するのか。それは彼らにとって、「女性」は「わかりやすい、弱者としての徴」をまとった存在だからです。
しかし上を見ると、話はそう簡単ではないように思います。
師匠たちは女性の味方をしているおつもりなのだと思います。
が、こうした「人権兵器」の運用によって、女性にも被害は出ているのです。
今回のもこっちがそうです。
あくまで件のレビュアーの正体がもこっちだとしての話ですが、彼女は「モテないから弱者属性を盛る」をついついしてしまいました。それは悪質な話ではあるけれども、ぼくは何だかもこっちを責められません。彼女もまた、「弱者だけが不幸だと感じる資格があるのだ」との狂った逆シバキ主義の被害者に他ならないのですから。彼女は「弱者の徴」を目の色を変えて鑑定する「弱者奉行」たちを気にし、ついついこのような「盛った」レビューを書いてしまったのです。
もこっちがありのまま、「私はブスでぼっちでオタクなのでいじめられてます」と書いたら、それは「感動的なレビュー」として、ねとらぼで採り上げられたはずはないのだから。
――そのような推理は認められないッッ! 件のレビューは中年オッサンの萌え豚によるものだッッ! 本当はリア充であるにもかかわらずそうした自己憐憫を書き連ねるなど、「自己肯定されたい」というバカなヲタクを甘やかす低劣な小説を読んだ悪影響だッッ!!
はいはい。
そう顔を真っ赤になさらないでください、師匠。
確かに、その可能性もあると思います。
ぼくがレビュアーを女性と想像したのは、「母の語り口」にマザコン的心性を感じたからです。男性というのは、そうした母親への感情は素直に表には出さないものだからです。
しかし――ぼくの経験上、左派の人たちは一体に、弱者男性を「マザコン」と罵るのが大好きなのですが――母親への愛着や葛藤などを吐露することが、女性には許されても男性には許されないのは「男性差別()」ではないでしょうか?
女性を支配しない、マチズモから解き放たれたフェミニンな「草食系男子」は母親を大事にするのではなかったでしょうか?
それともやはり、イケメンや社会的成功者が「オカンとボクと、時々、オトン」とか「がばいばあちゃん」とか言うのは許されても、萌え豚がそれをするのは許されないのでしょうか?
そう、仮にこのレビュアーが男性とするならば、当然その本意は「モデル級の美少女になりたかった」「優しい母親が欲しかった」といったものであると想像できましょう。それは非常にキモい話ですが、同時にそれは「女の子であれば世間も同情してくれる」ということを、彼が知り抜いていたからでもある。
そしてそうした心理は、実は上の推理におけるもこっちが、同情を買うために話を盛ったのと、全く同様なものなのです。
いずれにせよ(このレビューを作り話とするならば)ウソはいけないかも知れませんが、そのウソは彼らのような「弱者奉行」が生み出した存在でもあるのです。
彼ら「弱者奉行」は今まで、自分が「いい人」になるために「人権兵器」の開発を推し進めてきました。しかしそうした「わかりやすい、弱者としての徴」をもって人を峻別する方法論は、既におわコンなのです。
それは『俺妹』のテーマとして選ばれているのが「オタクとしてのコンプレックス」であったそのこと自体が、何よりも明確に証明しています。このポストモダン状況()では「わかりやすい、弱者としての徴」以上に、そうしたことがある種の切実さを持っていたのです。
ぼくたちは「人権兵器廃絶」に向けて、歩み出さなければならないのでは、ないでしょうか。
兵頭さんのお言葉をお借りして「オタク善導論」とでもしておきますが、この手の論旨ってかつてエヴァが登場した時にもあちこちで見かけたような覚えがありますね。
あの当時は「最近の若者はけしからん」というありふれた主張も混ぜこぜになっていたようですが。
恥ずかしながらソースもなければ理論も組み立てることもできませんが、本当の意味でマッチョだったり体育会系だったりする人って言っては悪いですがオタクの動向に興味なんかないのでは?
興味がないので良く知らないし、良くも悪くも深くは入り込まない。
逆にオタクとかそれに近いサイドの人って、マッチョや体育会系に強い憧れを抱いている傾向があるように思います。
もちろんそれは世代間や個人差というのがあるでしょうけど。
ただ「オタク善導」をしたがる人たちって、その昔みうらじゅん氏の町山氏に坊主になれと言った一件(町山氏は本当に坊主にしたそうです)、非戦・平和を主張していた作家が家庭ではひどいDVを振るっていたとか、そういうことを連想させるんですよね。
ちなみにサブカルが体育会系に憧れがあるといった話はみうらじゅん氏も語っていますようで。
しかし「力の弱い女性に暴力を振るう」ってことと「立場の弱いオタクを説教して善導させる」こと。実はコレって同じことじゃないですかね?
女性に暴力を振るうなんてことは絶対に世間が味方してくれませんが、オタクを叩けば色んな人たちが応援して認めてくれる、あるいは賛同してくれる。
つまりは、「自分を認定してくれる」と実際はどうであれ意識するしない関わらず論者さんたちはそう思っているのでは。
そうなると「オタク認定」を甘やかしだと激しく憎悪する理由もわりな単純なものとして理解できるように思います。
こんにちは、キムタクの時に書き込んでくださった方ですよね。
マッチョはオタクになど興味はない、というのはまさにその通りだと思います。
町山さん本人はどうか知りませんが、「オタク善導論」を語る御仁の多くは不良が上下関係にこだわるみたいに、やたらウエメセであるように思います。
サブカルが体育会系に憧れているというのは興味深いですね。
東浩紀師匠は「オタクはマッチョでホモソーシャルである」と(何の根拠もなく)語りましたが、その実、サブカルの方が遙かにマッチョでホモソーシャルであるという。
>女性に暴力を振るうなんてことは絶対に世間が味方してくれませんが、オタクを叩けば色んな人たちが応援して認めてくれる、あるいは賛同してくれる。
まさにそうですね。
とにかくあの人たちは弱い者を叩きたくて仕方ないんですよ。
ことにオタクは「自分たちの(言うことを聞かない、生意気な)子分」という意識があって、殊更に叩きたがるのでしょう。
そしてそこまでオタクを否定した彼らが返す刀で腐女子に手もみをして近づいていく様は、気 持 ち 悪 い ですね。゚д゚)、
(海燕師匠はどっちかと言えば彼らのパシリにいそしんでいる子分第一号、といった印象ですが)
確かに「オタク善導」をしたがる論者は、とかく自分がヒエラルキー上位であることにこだわっているように見えます。
最近だと海燕氏の「仮面オタク」論などその典型ですよね。
それだけ上下関係に敏感である人たちが、女性オタクや腐女子に関しては決して批判しない、ということから、本当に力を持っているのは誰なのか、が読み取れる気がします。
嫌オタク流という本は出せても、嫌腐女子流なんて本が出せるとはまず考えられませんし。
「オタは趣味が充実してるから幸せだ、不幸な振りをしているだけだろ」という主張にしても、「男は社会的強者なんだから痴漢冤罪など気にするな」と相似形に見えます。
「俺妹」を肯定しているこのレビューにしても、登場人物が全員女性なんですよね。
不登校をしているのが少女なら、彼女を肯定するのも母親です。
創作だとすれば、何重にも政治的配慮を効かせた文章であると思います。
男性を登場させると、またぞろ意識の高い人たちがやって来て、萌えオタが自分を投影させているとか言われかねませんから。
「俺妹は萌えオタを甘やかすからダメだ」に対抗するには、「いや女性読者も肯定されてるんですよ」と言うしかなかったんでしょうね。
このレビュー自体は読み物として面白かったので、創作だとしてもそれを非難する気はありません。
ただ、受け入れられやすくするにはここまで「文句の付けようのない弱者」を持ってこないといけないのか、と思うと、書いた人の心中も複雑なのではないかと思います。
お久し振りです!
>最近だと海燕氏の「仮面オタク」論などその典型ですよね。
あれは非道いというか幼稚というか……「相手の気持ちを慮る能力のないコミュ障」そのものですね。
海燕師匠は語り口は丁寧ですが、内心はオタクに対するものすごい憎悪を抱えているのでしょう。
>「オタは趣味が充実してるから幸せだ、不幸な振りをしているだけだろ」という主張にしても、「男は社会的強者なんだから痴漢冤罪など気にするな」と相似形に見えます。
そうだと思います。
何故海燕師匠が「オタクは幸福だ幸福だ」と病人のうわごとのように繰り返すのかぼくにはわからないのですが、恐らく、「我こそは真の弱者の理解者なり。お前たちオタクどもが弱者ぶるなどまかりならん」という自らの政治的立場のアピールのように思えます。
>「俺妹」を肯定しているこのレビューにしても、登場人物が全員女性なんですよね。
あくまで「作り話」と仮定してですが、非常にうまい「設定」だと思います。
「原作」である『俺妹』も実は男性のオタクというのはほとんど登場せず、「オタク」を「救済されるべきお姫さま」という位置に配置しています。
これはあざといとは言え、男性にも女性にも快い、大変巧みな図式です。
>書いた人の心中も複雑なのではないかと思います。
くどいですが、実話である可能性も充分にあると思います。
が、仮に男性が女性を装って作り話をしたのだとして見ると、恐らく海燕師匠たちは憤死寸前になるのではないかと思います。
「女性とは、我々が『憑依』し、自らのいい人アピールをするための『人権資源』だ。お前が『憑依』することはまかりならん」と。思うに、オタクは元々、「女性的アイデンティティ」を持ったちょっとオカマっぽいところがあり、それはむしろ「男として生きがたい」からこそだと思うのですが。
たとえレビューが作り話だったとしても、書いたのがもこっちだったとしたら許せますねw
それはそうと「わかりやすい、弱者としての徴」というのを巡った諍いはいろんな所で見かける気がします。
生活保護やうつ病患者など、ただの甘えとして叩かれてしまうようなものって、そういった「弱者としての徴」を持たないからこそ叩かれてしまうんじゃないでしょうか。
村社会の日本では誰もがどこか本心では甘えを許されたいと思っても、他人から許されないはずだからと戦々恐々と本心をひた隠し、他人の甘えを糾弾して自分は背信者ではないとアピールする。
だけど唯一その監視から逃れるための方法は「弱者としての徴」を得て、免罪符を与えてもらうことなのではないかと。
男が女性に比べて同性批判が活発というか過剰なのも、必死に自分は背信者ではないと、女性や世間にアピールしてるからなんじゃないでしょうか。
共同体の中での社会低な死ってのはそれこそ死活問題ですから仕方ないのかもしれませんが、問題はそういった自己を抑制したり批判したりというのは道徳的なヴェールを被っているので、それが正常で健全なものなのか?といったことに疑問が持たれづらいことなのだと思います。
こんばんは(^^
>それはそうと「わかりやすい、弱者としての徴」というのを巡った諍いはいろんな所で見かける気がします。
これを「下になるための戦い」と表現した人がいます。
また何度も例に出しますが、アメリカでは「プアファットホワイトマン」が「差別の許された、最後の聖域」であると言われているそうです(日本における「プアファットホワイトマン」がオタクであることも繰り返している通りです)。
「男で白人」だから、「弱者奉行」認定の「弱者マーク」がついてない。でも貧乏人でデブだから「弱い」。
今の社会はそういう「弱者の徴のない弱者」を血眼で探して叩いて回っている社会だと思います。
>男が女性に比べて同性批判が活発というか過剰なのも、必死に自分は背信者ではないと、女性や世間にアピールしてるからなんじゃないでしょうか。
ある意味、海燕師匠のような人が必死で「フェミニストの理解者アピール」し、同胞を生け贄に捧げるのはそういうことなんでしょうね。
「ヤバい、俺もいじめる側に加わらなきゃ、俺がいじめられちゃうよ!」と。
逆に言えばフェミニズムのような「わかりやすい、弱者の徴」を持つ者へのすり寄りを可能にする思想は「プアファットホワイトマン」にとっての最後の秘密兵器、「貧者の核」なのだと思います。
「差別の許された、最後の聖域」
言いえて妙というのか、なるほどと思わされますね。
オタク文化に対する規制が何度も持ち上がるのも、実はそうした心理が働いているせいかもしれません。
先の書き込みの繰り返しになってしまいますが、オタク狩りという行為も腐女子とか女性のオタクに対してやった場合、それこそとんでもないニュースになるでしょうし。
男性のオタクにやった場合は褒められはしませんが、ちょっとした事件で片付けられるでしょうが。
あまりにもやばいのでもしかすれば報道規制される可能性もあるのでは。
人権・差別の問題のやかましい社会において、誰はばかることなく差別できるというのは貴重でしょう。
抹殺しろと叫ぶ一方で本当にいなくなってしまうとこれまた困る存在ですかね。
ただ本当にそうなった場合次に標的にされるのはおそらく貧困層の弱者男性でしょうが。
また若い世代はオタク的(漫画やアニメ、ゲームなど)文化がわりと標準的になっています。
オタクではなくても、ゲームをまったくやったことがない、漫画もアニメも知らないという人は少数でしょう。
そして、社会全体的には若年層はお金のない人が多い……となれば?
どうも、お返事遅れてすみません。
>ただ本当にそうなった場合次に標的にされるのはおそらく貧困層の弱者男性でしょうが。
まさにそうです(ひょっとしてですが、以下に書くようなことは既に読まれているのかも知れませんが……)。
例えば、オタク界のトップはフェミニズムなどに親和性が高く、オタクを「セクシャルマイノリティの一種」という捉え方をしたり、「萌えフォビア」といった造語を作ったりすることで、「彼らの仲間に入れてもらおう」という下心を見せる人たちがいます。
しかし、ぼくはそれが「また別な弱者」を作り出す行為にしか見えません。
「男性差別クラスタ」の一部が「ジェンダーフリー」に親和的なのも、ぼくにはそれに近いものであるように見えます。
たぬきさんはどういう層がターゲットになると想像されていますか?