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  • 盗作はロボット軍団への反逆である

    2024-11-01 19:35
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     どうも、盗作家・兵頭新児です。
     そしてまたある時は、悪のロボット軍団と戦う正義のヒーローです。
     ネット界が悪のロボット軍団に支配されていることはみなさんご存じでしょうから、それは措くとして、ここはまず盗作についてお話ししましょう。
     それはまだ、兵頭が高校生だった頃。クラスでその当時最新の戦隊のEDテーマを口ずさんでおりました。

     ――テイクオフテイクオフ♪

     そこに、音楽好きのSが現れ、言ってきました。

     ――いい歌だな。詩を書いてくれないか。

     いや何で急に「詩を書いてくれ」となったのか、記憶も定かでないのですが、ぼくの歌に感心して作詞を依頼されたという経緯は間違いなく、今から思うとつながりが不明ですが、歌の詩に感銘を受けたんじゃないですかね。
     さて、まあ、しかしせっかくの頼みなので詩を書いてみました。
     Sにもなかなか評価され、感謝されました。いや、そいつも作曲をやっていたといった話は聞かず、結局その詩はどうなったのかわからないのですが。
     が、ちょっとしてそのSが「お前盗作すんなよ」とこちらを詰ってきたのです。
     その隣ではまた別なクラスメートのGがこちらをバカにしたような目で見下ろしながら、「テイクオフテイクオフ♪」とドヤ顔で戦隊EDを口ずさんでおりました。
     おいおいおいおいおい!
     どうもそのGが「兵頭は盗作家だ」と吹き込んだらしく、その根拠は「兵頭の詩にテイクオフというワードが使われていたから」ということらしいのです!!
     そもそも作詞を引き受けた経緯もうろ覚えですが、Sがぼくの歌う「テイクオフ」という歌詞を聴いていたのは間違いなく、或いはその歌の詩をアレンジしろと頼まれたような気もします。
     いずれにせよぼくの書いた詩、さすがに残ってはいないものの、その「テイクオフ」以外にことさら似た箇所はなかったはずです。
     そこを「テイクオフだから盗作だ」と言われても。
     世の中の歌に「テイクオフ」という詩が出てくるものは無数にあると思うのですが、実はそれらは全て、戦隊の盗作だったんですね。
     いやねー、でも世間ってそんなですよ。
     島本和彦氏はラジオ番組をやっていたのですが、代表作の『吠えろペン』のタイトルを『太陽にほえろ』からいただいた、と言ったところアシスタントの女性に「盗作だ盗作だ」と言われ、顔を顰めていたことがありました。
     ましてや高校生なんて世界が狭いですから、「テイクオフ」という言い回しがありふれたものと理解できず、自分の少ない知識が全てで、「あ、戦隊の歌詞だ! だから盗作だ」と短絡しちゃったのでしょう。

     ――さて、ここまでくどくどと述べてきましたが、本稿はアレです、唐沢俊一論の続きです。

    唐沢俊一論――評論家に戮された人たち

     というのは、唐沢俊一氏を潰したのは「悪のロボット軍団」であったという事実が判明したからなのです。
     ちょっとここで、星新一のエッセイに書かれていた話を持ち出しましょう。
     おそらく五〇年ほど前(1970年代)のことなのですが、コンピュータが歌を作ったと騒がれたことがありました。もっともこれは他愛ない、音楽のデータを膨大に入力されたコンピュータがそこからランダムにサンプリングした、そういったことであったと思います。そして近年のAIについて、ぼくは全く知識を持たないのですが、それもこれの高度になったものと考えていいのではないでしょうか。
     ともあれそのコンピュータ作曲の歌を当時の人気歌手、坂本九が歌い、「盗作の歌のようだ」との感想をもらした、とエッセイにはあります。
     星新一はそれに続け、「人間の場合は仮に似ても偶然の一致など、一概に言えないが、これは人間不在であり、明確な盗作だ」としていました。
     そう、人間の場合「偶然似てしまう」ということがあるわけです。

     ――いや待て兵頭。唐沢の場合は明らかな盗作ではないのか。偶然似たとは言えまい。

     そりゃわかってます。
     ご存じない方は前回記事をご覧いただくか、調べていただきたいのですが、唐沢氏の場合は「とある作品のプロット紹介を、ブログ記事から無断で引用した」ことが問題であり、これは「偶然似た」とは考えにくい。
     しかし同時に、前回にも述べたようにそもそもプロットの要約なのだから、「クリエイティビティというものの盗用」であったとは言いにくいのです。
     同様に、「偶然似てしまった」場合は「前例があることを知らず、同じ道を辿った」わけだから当人は同様のクリエイティビティを発揮したのだと言うしかなく、やはり「クリエイティビティというものの盗用」とは言いにくいわけです。

     ――なるほど、そうなると共通点があることは認めるが、それで唐沢を正当化するのは無理筋じゃないか。

     いやだから、ぼくは前回から、「唐沢氏は悪くない」などと一言も言ってませんって。
     ぼくが言っているのは「唐沢氏を叩いた者は悪い」です。
     何となれば、彼らは「悪のロボット軍団」の手先なのですから。
     そうそう、以前にも書いたことですが、やはり星新一のエッセイでは再三繰り返し、海外の学者の言葉が引用されています。
    「機械がいかに人間に近づこうが、それは脅威ではない。人間が機械に近づくことこそが脅威だ」。
     ぼくはこれをオタク文化が一時期の勢いを完全に失い、前例に似たものを作るばかりのソシャゲやYouTube動画、SEO様のお告げ通りに記事を書くネットライターなどへの「予言」として紹介しました。

    『ハンチョウ』対『野原ひろし』空中大激突

     ぼくはそれらを「オタクの敵」認定すると共に、いつも腐す左派とはまた一線を画した存在(少なくとも直接の関係はない)ともしていましたが、「左派的な価値観で自由を縛ろうとするグローバル資本主義」をロボット軍団の黒幕とでもするならば、やはり似たもの同士、両者は「同じ黒幕に差し向けられた悪のロボット」であるとは表現し得る。
     そして、冒頭に挙げたぼくの高校生の時のクラスメートGの例、これはまさしく「自ら機械に近づこうとしている人間」、言い換えれば「ロボット軍団の軍門に降った人間」の姿ではないでしょうか。
     だってこの人はぼくの詩の「クリエイティビティ」というモノを(それがさほどあったか否かは措くとして)認めることができず、共通のキーワードを見た瞬間、それを盗作と認識してしまったのですから。
     何かからパクっただけのYouTube動画、SEOで検索されているキーワードを抜き出し、それらをウィキの記述から切り貼りしただけの、「意味」というものを一切持たないネット記事。
     これらは悪の軍団の「人間ロボット化作戦」の一環です。
     いえ、もちろん、Gを見てもわかるように、普通の人々の認識はその程度のものであり、クリエイティビティを認め、楽しむだけのリテラシーは最初から、持っていなかったという辺りが、結論なのでしょうが。

     ちょっとここで疑問に思った方がいるかも知れません。Gはぼくの作を盗作だと言い立て貶したが、翻ってネット民はクリエイティビティのない動画をおとなしく受け容れているではないかと。
     そう思った方は非常に鋭い。
     確かにそれはその通りです。
     しかし先にも述べたように、両者とも「クリエイティビティ」というものに価値を置いていないという意味で同じ、ということに気づいて欲しいのです。
     唐沢氏のやったことは明確に盗作で悪いことであった。
     が、彼を潰そうと大騒ぎした連中に、クリエイティビティを云々するだけの知恵はなかった。先の記事で言及した作家さんにおいても、それはそうでした。いえ、作家なのだからそうした批評眼がゼロであるはずはないのですが、唐沢憎しの感情に取り憑かれ、まともな判断力を喪失していた。
     それは、非常におぞましいことなのではないでしょうか。
     彼らは夥しいYouTube動画がある種の「盗作」によって成り立っていることを知っている。
     しかし彼らの中でそれに声を上げた者は、おそらく一人もいない。
     だって「盗作」とは「敵」に投げつけ、そいつを潰すための「攻撃呪文」でしかなく、クリエイティビティという尊いものの簒奪などでは全く、ないのだから。

     ここでみなさん、「女災」について思い至っていただきたいと思います。
     今年に入って松本人志氏、ジャンポケの斉藤氏と極めておかしなことになっていることは、ご承知かと思います。
     女災のおぞましさは「被害者だと最初から決まっている方の性」の鶴の一声で全てが決まってしまうこと、逆に言うならば女性の合意があったか否かという極めて曖昧で立証の困難なことを根拠として成立していることです。
     盗作問題もやはり、同じ構造が見て取れるのです。
     星新一が重要だと指摘した、人間のクリエイティビティというものは極めて曖昧で立証困難なものなのだから。

     話題としてはちょっとずれますが、そもそもがオタク文化というのはパロディから始まったものでした。
     例えば、美少女コミック誌(という名の、商業同人誌)においてはクオリティの低いものが多かった、ということは先の記事でも述べましたが、そこでは時々あからさまなパクリがあったものです。
     パクリとパロディの境目もまた曖昧ですが、数ページに渡り構図からセリフまで同じ、それを違うキャラにやらせているだけ、なんてのもあったのです。
     しかしそれを言うなら庵野もそうですよね。
    『ナディア』を観れば『ヤマト』だ『サイボーグ009』だ『ノストラダムスの大予言』だ『日本沈没』だと「引用」に継ぐ「引用」です。
     そこで何故庵野が許されているかとなるとやはり作品全体を見渡せば、そこにクリエイティビティがあるからとしか、言いようがありません。
     ぼくはここで唐沢氏について、書籍全体にはクリエイティビティがあるから許せと言っているわけではありません(クリエイティビティは大いにあると思いますが、引用は引用と名言することは、書籍においては当たり前のルールですから)。
     ぼくがしているのは所詮クリエイティビティのあるなしを云々する見識のない輩が盗作だ盗作だと騒いで作家を潰すことができるのであれば、それは女災と変わらない、政治的な敵をいついかなる場合でも好き勝手に潰せるキャンセルカルチャーに他ならない、という指摘なのです。
     ある時期のオタク左派は、明らかにそうした「圧力団体」として機能していました。
     いつも言う「ガンダム事変」、「薔薇族事変」はそうした圧力団体によるフェミ擁護でした。
     しかし、幸いにして表現の自由クラスタという名の圧力団体も、既に力を失ってい(るようにぼくには見え)ます。
     ちょっと前、「男性差別」という言葉の危うさについて述べました。
     それは端的に言うなら「悪」の使っている武器を「自らも持とう」とすることへの危惧でありました。
     それと同様に、敵対的な陣営相手に互いに「盗作だ盗作だ」と攻撃し、相手を潰すという泥仕合がこれから盛んになる、と言う未来図も描き得ますが、好ましいことではありません。
     ぼくたちは「キャンセル抑止力」で互いに睨みを利かせあう未来より、「悪」の持つ武器を破壊することで自由を取り戻す未来をこそ、目指すべきではないでしょうか。

  • 風流間唯人の女災対策的読書・第63回「トランスジェンダーに対する激熱な『情況』」

    2024-10-25 19:02
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     第六十三回目です!



    『情況』のトランスジェンダー特集評、第二回です。
     玉石混淆で必ずしも悪い記事ばかりというわけでもない同誌ですが、いずれにせよフェミニストとLGBT活動家のおぞましすぎるエゴイズム、そして基本一歩退いて客観性を保とうとする男性側、といった図式が見えてくるかと思います。
    「当事者」様たちのご乱心はどこまで続くのでしょうか――?
     文中の関連動画は以下を!



  • クリエイター様マンセーの時代はもう来ない? 『ニューダンガンロンパV3』の先進性に学べ!(再)

    2024-10-18 19:40

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     目下、『WiLL Online』様でジャンポケ斉藤氏の問題を扱っています。本人が容疑を否定している時点で、メディアがこぞってクロと決めつけるパオロ・マッツァリーノ状態をどう見るか。
     目下ランキング一位です!

     さて、みなさん。
     前回割と受けがよかったので、また『ダンガンロンパ』です。
     前回の記事は期せずして、「オタク論」というより「男性差別クラスタ論」とでもいった性質を持っていましたが、今回は「オタク論」です。

     前々回、唐沢氏について書いた時、「サブカル方面の連中はクリエイターを奉ることによるヒエラルキーの構築に腐心している」的なことを指摘しましたが、本稿はそうした傾向の一例を示すものです。
     ファンの期待を受け、満を持して発売された『ダンガンロンパ』の最終作が、ファンを否定するような内容で、大いに荒れた……ということが当時(本稿の書かれた2017年2月4日頃)あり、内容はそれを踏まえたものになっています。
     そんなわけで今さらですが、記事にはネタバレが含まれているので、知りたくない方はご覧になりませんよう。

    *     *     *

     ――ちょっとネタバレの前に前フリを入れましょう。
     同人誌文化華やかなりし頃――『エヴァ』放映時だったでしょうか。と言っても今がどんな感じなのか、とんと疎くなってしまい、わからないのですが――「ジジイ落ち」というのが流行っていました。ぼく自身はそこまで見た記憶はないのですが、当時の評論系同人誌でそれについてのコラムを書いている人物がいました。
     エロシーンのクライマックス、美少女キャラのあられもない姿が大ゴマで描かれた一番の見せ場を読みつつ、更なる刺激を期待してページをめくると、そこにはクッソ汚いジジイのどアップが描かれている。或いは、痩せこけた飢餓地帯の子供の絵が描かれている。で、読者に冷や水を浴びせるような一言を放つ。後者であれば「君たちが無為にオナニーしている間も、世界には食べ物もなく死んでいく者たちがいるのだ、云々」など。
     その同人作家氏は、これを以下のように評しました。

     この落ちを一番最初にやった者はよい。先進性も批評性もあった。それなりの気概を持って描かれたのだろう。しかし、それを真似た者には、それらは全くない。単なる悪趣味な嫌がらせをやっているだけだ。


     記憶で書いてるので、ぼく自身の考えも混じっているかも知れませんが、そんな主旨でした。そして、ぼくはこれに全面的に同意します――いえ、むしろ一番最初にやった者にすら、評価すべき批評性などないと、ぼくは考えます。
     これを理解するにはいくつか押さえておくべきポイントがあるでしょうが、一番大きい理由としては、当時のエロ同人作家がオタク界の花形であり、ワイドショーのコメンテーター的「ご意見番」といったスタンスにいたことが挙げられるように思います。何しろネットもそこまで普及していない時代ですし、ぼくたちは同人誌を買うと共に、フリートークページに書かれた作者のアニメ評などを貪り読んでおりました。要は彼らは「エラかった」のです。
     こうしたことが許されていた背景には同人誌が「趣味だから」「商売じゃないから」といった認識があったからですが(今はもっと商業化されているでしょう)、それ以上にとにもかくにもこの業界は「クリエイター様エラい主義」が非常に濃厚で、同人作家って何やったっていいと思われていたのです、当時は。
     更に、そうした心理的土壌の深層には「オタクの、オタクへの憎悪」がありました。
     当時はオタクの社会的地位がほとんど士農工商エタ非人申酉戌亥の、更にその下くらいに設定されておりました。近年、オタク文化が市民権を得たおかげでぼくたちは逆説的に「オタクは差別されている!」と団結するようになりましたが、当時はあまりにも地位が低いために、お互いにお互いを憎み、呪いあうことで精神の安定を得ていたのです。当時の同人誌即売会のパンフには「オタクは人間に最も近い動物なり」などと書いていた人物もおりました。そう、そもそもこの「オタクのオタクヘイト」は上に立つ業界人連中がそそのかしていたのです
     もちろん、エロ同人誌の売り手の気持ちを想像した時、心情はわからないでもありません。血眼で自らのエロ同人誌を求めるオタクたちを見るとどうしても、「醜い」と感じてしまう。それは無理からぬというか、当たり前のことではありましょう。
     しかしそもそも最初にエロ同人誌を(他人様のキャラ人気に乗っかって)描いたのは自分です。彼ら自身が誰よりもエロ漫画に自らのリビドーをぶつけていたはずなのですが、いざそれを客観視してしまうと(漫画を描く時にもそんな自分を客観視しておいてほしかったものですが)嫌悪感を感じてしまうのでしょう。
     結果、彼らは他人様のキャラ人気にあやかったエロ同人誌で稼ぐ俺様はエラいエラいクリエイター様、買う者はゴミのようなオタクどもなので何をしてもよい、という自意識を発達させてしまったのです(し、その弊害は今も残っているように思われます)。

     ――とまあ、大体言いたいことは言っちゃいました。
     上の話が本件とどう関わるのかというと、(というわけで以下からネタバレですが)本作、最終章のチャプター6で黒幕が登場し、「お前たちはゲームキャラだ」と言ってしまうのです。
     メタネタです。
     もっとも、今回、キャラクターたちの人形が糸で釣られているといった、それを匂わせる演出が繰り返され、ぼくも当初から「黒幕はスタッフたちそのものでは」と予測をしていました。
     が、それは半分当たり、半分外れといった感じです。
     この『V3』の世界では『ダンガンロンパ』というコンテンツが大人気。『1』や『2』もこの『V3』世界ではゲームとして消費されています。主人公たちにコロシアイを強いていた黒幕の正体は「チームダンガンロンパ」のスタッフたちだったのですが、そのスタッフ以上に、彼らへと作品を求める、『ダンガンロンパ』の熱心なファンたちの声の方が前面に出てきているのです。
     主人公たちはしかし、そんな連中の見世物になるためにコロシアイをさせられていた事実に憤り、「ゲームを終結させる」「『ダンガンロンパ』そのものを否定する」ことを決意します。決死の覚悟で学級裁判そのものを放棄、学園を破壊、そんで、何か九死に一生を得て「ぼくらの戦いはこれからだ!」でエンド。いや、最後はどうだったか忘れちゃいましたが、何かそんな感じだったと思います
     このメタネタ、それほど斬新でもありません。
    『勇者特急マイトガイン』の最終回でも、「主人公たちがこの作品世界がフィクションだと気づく」落ちをやっていました。悪の大首領は「オモチャを売りたい玩具メーカー」であるとの暗示がなされ、スタッフたちのホンネが透けて見えました。
     そう、この種のネタってクリエイターなら誰しもがやりたくなるものなのでしょうが、なかなかスマートにまとまりません。
     本作においてはそれが顕著で、『ダンガンロンパ』ファンたちがモニタに現れ、ニコ動的演出で、コロシアイを止めさせようとするキャラクターたちを延々と罵ります。「もっと楽しませろ、今までどれだけのカネを落としてきたと思っているんだ」と。
     そもそも先にフィクションと書きましたが、本作の主人公たちは生身の人間です。「チームダンガンロンパ」は生身の人間の出演者を募って(或いは拉致して? 描写が曖昧で判然としません)コロシアイに参加させています。生身の人間でありながら、その記憶をリセットし、捏造された疑似記憶を植えつけることで、フィクショナルなキャラに仕立て上げ、フィクショナルな舞台の中で役割を演じさせている、ということのようです。それを視聴者たちは見物して楽しんでいる。視聴者たちも出演者たちも、そのコロシアイを「ゲームだと思って」視聴し、出演を志望しているのだろうけれども、そこも詳述されず、判然としない。
     そうした非現実的な、しかもあやふやな状況を仮想して、「お前たちファンはコロシアイを楽しんでいる悪しき存在だ」と糾弾されても、困惑するしかありません。それこそ非実在の少女に対する性的虐待を批判されるようなものです*1
     そのくせ、一体全体どういうわけかスタッフはそうした責から完全に免れている。スタッフは超越的な黒幕、ファンは主人公たちを口汚く罵る醜い存在と、役割がくっきりと分かれているのです*2。アニメ版『3』で愚かしい、節度を失った残酷描写でブーイングを受けたのはスタッフ側だろうに。
     これでは「事実関係を捏造により入れ替え、相手を罪に陥れた」ようにしか見えません。
     上にニコ動と書きましたが、仮に本作が十年前に作られていればここの演出は間違いなく2ちゃんねるのアンチスレとして表現されていたはずで、一言で言えばこれらはファンへのぼやき、『ダンロン』を作りたくないというグチという、一番やっちゃいけないモノにしか、ぼくには見えませんでした。
     何しろ、黒幕は歴代作のキャラクターたちに次々と変身し、その口から旧作を否定する台詞を吐いてみせるのです。あたかも、『ダンガンロンパ』そのものを完全に葬りたいとでも思っているかのように。ご丁寧なことに旧作の声優が全てのキャラたちの台詞を新録しています。ぼくはこれは恐らく、ミニゲームの台詞収録のついでだったのだろうと考えることで何とか自分を納得させていたのですが、プレイしてみるとミニゲームの方に新録はない模様
     スタッフたちは、ファンに深い憎悪を抱いているかのようです。
     そう、それはまるで、エロリビドーをぶつけた漫画をカネに換えているのは自分なのに、読者にお説教をする、エラいエラいエロ同人誌作家サマのように。ネットで叩かれたので、それを劇場版『エヴァ』で大人げなく晒し上げた庵野のように。

    *1 また、この作品世界では「世の中が平和で退屈なため」に娯楽としてのコロシアイが求められているとされます。それは不景気な世の中での逆説的な癒しとしてデスゲーム物が流行っている現状とは全くの裏腹で、これもまた奇妙な設定です。
    *2 Amazonのレビューで痛烈に皮肉っている人がいました。この人ほどはっちゃけないまでも、「実はチームダンガンロンパは人間の心を荒廃させるゲームを制作することで世界征服を企む悪の組織」とか、そんな風にした方がよかったんじゃないでしょうか。

     当ブログでは、今まで繰り返し、『ダンガンロンパ』について語ってきました*3
     それは本シリーズが極めて優れた「女災批判ゲーム」であったからです。
     ですが、今回は作品が「女災」そのものとなってしまいました。
    「女災」とは女性ジェンダーによる災害、もう少し詳しく言うなら「被害者ぶることによる加害」です。
     いえ、確かに『ダンガンロンパ』のスタッフはほとんど男性でしょう。そしてまた「クリエイター」と「消費者」という関係性を男女ジェンダーのアナロジーとして考えた時(受け/責めで考えた時)、「クリエイター」が必ずしも女性的とは言えないとは思いますが、少なくとも本作において、全てをファンに押しつけ、一切の責から免れていたのはスタッフの側です。
     そしてまたお約束の(という気がするわりに、じゃあこの種の演出がなされた作品が他にあるかとなると、ぱっとは出て来ませんが)ニコ動のコメント的にファンの罵声が流れる演出を見ていると、何だか旧来の大メディアがネット世論に怯え、敵意を剥き出しにする様、フェミニストが「ネットの女叩き」に憤ってみせる様と被って見えます。
     ネットなどで大衆が発信できるようになった状況に「我らのアドバンテージが失われる」との危機感から描かれた本作は、言わば「弱者男性に対するフェミニストの悪辣な攻撃」、「貧困層であるネトウヨに対するリベラル様の汚物は消毒だ行為」と「完全に一致」していると言えるでしょう。
     そう、『ダンガンロンパ』は今回、自爆芸をもって「彼ら彼女ら」の醜さを描破しきってしまったのです。

    *3「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
    被害者性と加害者性の微妙な関係? 『スーパーダンガンロンパ2』の先進性に学べ!
    これからの女子キャラクター造形はこうなる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
    弱者性と強者性は転倒する? 『絶対絶望少女』の先進性に学べ!

     本作では「ギフテッド制度」という設定が語られます。超高校級の才能を持った少年少女たちが集められ、コロシアイを強要される、というのが『ダンガンロンパ』のお約束ですが、本作においては「超高校級」たちは「ギフテッド制度」により奨励金や選挙権・被選挙権といった、さまざまな特権が与えられるとされているのです。
     この「ギフテッド」自体が「先天的な天才」とでもいった意味であり、「才能」自体が『ダンガンロンパ』のテーマとして選ばれていました。『絶対絶望少女』では「与えられざる者」の甘えを喝破するシーンが描かれましたし、また「才能を持つ者は同時に才能に縛られる」といったテーマが語られたこともあったと思います(どこでだったかは忘れちゃいましたが)。
     が、この「ギフテッド制度」という言葉、第一章で語られたのみで早々に打ち棄てられ、以降は出て来ません。実はこれも意図的な演出で、彼らは以下のように言いたかったのです。

     我々は「与えられし者」である「クリエイター」だ。しかしながらそれ故に背負っているはずのノブレス・オブリージュなど履行する気はさらさらない。利だけを得て、後は「受け」としての無責任さを十全に味わうつもりだ。


     そう、本作は『絶対絶望少女』などで描かれた崇高な精神を敢えて打ち捨て、(わざわざ導入した新設定を全く無視することで、確信犯的に打ち捨てる様をファンに見せつけ)「女災」の醜さを自ら演じることで、批判したゲームであったのです。

     先の「ジジイ落ち」に立ち戻るならば、やはり一昔前のオタク界はそうした自由な気風があり、だからこそ先鋭的な表現が生まれたことも事実です。
     翻って現代のオタク作品は商品として落ち着きすぎている。ファンもクリエイターを自分たちを満足させる商品を生み出す役割を担った芸者だと捉えているフシがある。
     ぼくもそれがいい傾向だとは、全く思いません。
     エロゲーやラノベの惨憺たる現状は、そのような風潮が生んだものだと言えます。
     だから、本作についてはそこに牙を剥く気概ある意欲作であったのだと評することも、できるとは思います。
     しかしそれでも、オタクへの憎悪を根源にした、左派のまた別な目的意識をもって主張される、「クリエイター様エラい主義」が正しいとはどうしても思えません(時々書きますが、岡田斗司夫や大塚英志が叩かれるのはそうしたクリエイター様エラい主義を相対化しようとしたからなんですね)。
    『V3』の主人公たちが否定し、終結させた『ダンガンロンパ』はこれからどうなるのでしょう。
     先にスタッフがやる気を失っていると書きましたが、同時に作品に対する愛情が全くないわけでもないでしょう(例えば藤子Fだってまさに「才能に縛られ」、延々と『ドラえもん』を描いていました。本人の中には『ドラえもん』以外の作を描きたい/『ドラえもん』を極めたいというアンビバレントな気持ちが共存していたのではないでしょうか)。
     また、単純に商売として、ヒット作を簡単に終結させるとは、考えにくい。
     だからまた次回作が出ることは充分に考えられますが、一方、或いはファンが本作で愛想を尽かして、作品の寿命があっさりと尽きることも充分に考えられる。
     本作は「クリエイターが勝つか、ファンが勝つか」の勝負、リアル世界を舞台にしたクリエイターとファンの壮大な「コロシアイ」実験でした。
     そしてその結果を、ぼくは予言します。
     よくも悪くも、もう「クリエイター様マンセーの時代」は終わっている。
     それは丁度、ぼくたちが「女災」についての認識を深めつつあるのと、全く同じ理由で。
    『ダンガンロンパ』の息の根が完全に止まることはないでしょうが、次は「エッジさを失った、各方面のご意見を聞いたお利口さんなコロシアイ」が開始されるのではないでしょうか。
     楽しみに、待ちましょう。