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男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(再)
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男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(再)

2024-03-29 19:35
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     松本人志氏の『文春』訴訟、松本氏側は訴状で記事に登場する「A子」「B子」の特定を要求しました。
     メディアは相手方弁護士の「こんなこと初めて」との「困惑」と「怒り」を報じていますが、原告の情報を伏せるというメチャクチャな制度、そりゃ本年三月に始まったばかりなのだから「こんなの初めて」でしょう。
     パオロ・マッツァリーノにも劣らない卑劣な誘導記事です。
     と言うわけで、未見の方は以下の記事を是非。


    松本人志さんの騒動に便乗する怪しい人たち2【兵頭新児】

     さて、今回の再録はアメリカの男性解放論者のモノ。
     初出は2014年6月6日、文中に「二十年前の本」とありますが、当然、既に「三十年前の本」になってしまっています。
     それがいまだ新鮮味を持って迫ってくることが、哀しいですが。
     長い長いものなので、ポイントの冤罪についての箇所だけを読むのでも結構です。
     その場合は「一方、「女災」、即ち女性が「被害者として振る舞うことで加害者性を発揮すること」に対しても、ファレルは鋭いメスを入れていきます。」という文章以降を読んでください。
     では、そういうことで……。

         *     *     *

     著者のワレン・ファレルは全米女性機構(NOW)に参加した初の男性学者であり、元はフェミニストだったそうです。
     ところがやがて「男性差別問題」に開眼し、モノしたのが本書。
     1993年(二十年前!)の著書であり、累計三十万部のベストセラーということなので、この分野の古典的名著、と呼んでいいでしょう。
     が、邦訳は長らくされることがなく、ぼくも今回、初めて目を通しました。
     同時期の類書に『正しいオトコのやり方』があり、これもまた大変にラディカルなモノだったのですが、こうしてみるとその「二十年前の著作」がいまだ全然古びていないことに慄然とせざるを得ません。
     想像するにアメリカでも、そして言うまでもなく日本でも、男性の置かれた状況はいよいよ凄惨なモノになっているばかりなのですから。
     今回、本書についてレビューすると言うよりは、気になったところの引用が主になると思いますが、それは本書が評論と言うよりは資料中心であるためで、ご容赦いただきたいと思います。
     さて、ぼくは時々、こんなことを言っていたかと思います。

     仮に女性の生命、尊厳には男性のそれの何千、何万倍もの価値がある、との前提を導入すれば、フェミニズムは驚くほどに整合性の取れた理論として、ぼくたちの前に立ち現れる。
     そしてまた困ったことに、その前提はこの社会では、満更間違ったモノではないと認識されている。


     また、(文章化したことはなかったと思いますが)以下のようなことも言っていました。

     近代的な人権観は、ようやく女性に対してのみ適用されるようになったばかりだ。


     そしてこれらのフレーズは、奇しくも本書の主張を、極めて端的に言い表しているように思います。
     本書では「ステージⅠ/ステージⅡ」という言葉が頻出します。これは

     ステージⅠでは、多くの夫婦はロールメイト(役割分担し合う仲間)であた。女は子どもを育て男はお金を稼いだ。ステージⅡでは、夫婦はソウルメイト(魂を分け合う仲間)になることを望む。
    (p40)


     といった言葉が象徴するように、わかりやすく言い換えれば

     ステージⅠ=生存欲
     ステージⅡ=自己実現欲

     とでもいったことです。
     今まで男性は「食うために、そしてまた女性や子供を食わせるために」仕事をしてきた。
     その結果、社会が豊かになったため女性は「社会進出」し、「自己実現のために」仕事をするようになった、ということです。
     いまだ男性は「食うため、食わせるために」仕事をしており、そこには(以下に引用するように)しばしば非常な危険が伴う。
     それらのリスクは男性に負わせ、「自己実現」というゲインだけを得よう。それが、フェミニズムの本質だったのです。
     本書ではフェミニズムの欺瞞が、男性の凄惨な実態がこれでもかと、読んでいて気が滅入るくらいに執拗に指摘されていきます。
     近代化に伴い女性が危険から守られ、長命化したことを指して、ファレルはこう言います。

    私たちが「男性の権力」と呼んできたものは実際には女性の権力を作りだしていた。それは文字通り女性に人生、寿命を与えた。産業革命から自己成就革命への最初のバスに乗れたのはほとんど女性だけだった。
    (p190)

    一九二〇年、合衆国の女性の平均寿命は男性より一年長かった。現在女性は七年も長く生きている。男女の寿命スパンのギャップは七倍にも増えている。
    (p19)

     誰が権力を持っているかを知るための平均寿命ランキング

     女性(白人)七九歳
     女性(黒人)七四歳
     男性(白人)七二歳
     男性(黒人)六五歳
    (p20)


     もっとも、こうなると男女の寿命の差は医学的な理由に還元し得るかも知れません。
     それをもってファレルは

    皮肉にもフェミニストたちが家父長制システムによる女性への性差別と呼んできたものは女性の寿命を、男性の寿命より一年から男性の寿命より七年長くした。
    (p202)


     と言います。近代医学の発達の前には女性の寿命の方が短かったこと、また「女性の社会進出」の進んだ近年では僅かながら男女の寿命の差が再び縮まり、ささやかではあるもののフェミニズムの「成果」として「男女平等」に近づきつつあることなどは拙著にも書きましたので参照してください。
     しかし、男性が女性に尽くしたのは医療面に留まりません。生活の全場面においてそれは言えるのです。
    『タイム』誌が銃の被害者について特集した時、

    被害者たちは多くの場合、社会の中で最も弱い人たちである。貧しい、若い、孤児である、病気の人、高齢者の人たちである。
    (p22)


     と書き、女性だけを採り挙げたが、事実として被害者の多くは(上に挙げたような弱者属性を持つ)男性たちでした。

    マイク・タイソンの裁判でのこと。陪審員が静かに過ごしていたホテルが燃え上がった。二人の消防士が彼らを救うため死んだ。
    (p28)


     しかしこの裁判は性犯罪者としての男性のイメージを強めるばかりで、救済者としての男性のイメージを強めることはありませんでした。

    (消防士など危険な任務に就く男性は)その代償として彼らは感謝を求めるが、与えられるのは無視である。
    (p28)

    仕事上での死亡者の九四%は男性だ。
    (p116)

    より危険な職業は、非常に多くの男性がパーセンテージを占めている。いくつかの例を示す。
    危険の高い職業
    消防士 九九% 男性
    伐採作業員 九九% 男性
    トラック運送 九九% 男性
    建造業 九八% 男性
    炭鉱夫 九七% 男性

    安全な職業
    秘書 九九% 女性
    受付係 九七% 女性
    (p116)


     身の回りを見ると、昨今はブルーカラーにも女性は増えているような気がします。が、これは単純に不況のせいでホワイトカラーにしか目を向けないフェミニズムの「成果」では、恐らくない。そろそろフェミはそうした女性に恨まれ、と言って今更「女性を危険な目に遭わせるな、専業主婦を増やせ」とも言えず、本格的に支持を失うのではないでしょうか。

    例えば、海軍の新兵訓練は歩兵訓練や障害物訓練から女性を免除しなければならなかった。その結果? 湾岸戦争では、女性がトラックのタイヤを交換したり、砂地から自動車を押し出したり、重い燃料缶を運んだり、怪我をした兵士を運ぶことができないとき、男性はしばしば緊張の糸を張り詰めている期待をされた。しかし、もっと重要なのは男性がこの差別について文句を言ったとき、彼らのキャリアが大きく損なわれたことだ。
    (p152)


     一方、犯罪を犯してしまった場合にも、女性は守られ続けて来ました。

    妻たちは夫がするよりも配偶者に暴力を振るうことが報告された(これは家庭のランダムサンプリングを行った全米家庭内暴力調査による)。
    (p219)

     私たちが児童への性的虐待を考えるとき、十中八九被害者として女児を思い浮かべる。本当の所は少年と少女の割合は一:一.七だ。(中略)本当の所は、少女への虐待者は常に男性だが、少年への虐待者は常に女性だ――母親や、姉や、ベビーシッターや、親戚の女性だ。
    (p222)

     正直、「常に女性」というのは信じにくいのですが、しかし同性愛者の男児への性的虐待にすら、頑なに目を背け続けてきたフェミニズムが、女性の男児への虐待に目を向けるはずもありません。教育や福祉の分野から一刻も早くフェミニズムを一掃せねば、男児への被害は永久に救済されることはありません。

     一九五四年から、そう、約七万人の女性が殺人を犯してきた。彼女らの被害者には約六万人の男性が含まれている。しかし、本章の二つめの資料で見てきたように、一人の女性として男性だけを殺しただけでは死刑になっていない。
    (p249)

    マージョリー・フィリパークと一六歳のヘス・ウィルキンズは、共に殺人の共謀者であったと罪を認めた。どちらも前科はなかった。ヘス・ウィルキンズは死刑になった。そしてマージョリー・フィリパークは釈放された。
    (p250)

    ヘス・ウィルキンズが児童性的虐待の被害者であることが発覚したとき、それが彼の死刑の判決を止めることはなかった。ジョセフィン・メイサが児童虐待の被害者であることが見つかったとき、陪審員団は彼女を無罪にした。ジョセフィン・メイサは彼女の二三ヶ月の息子をトイレのつまりを直すきゅっぽんで殺した。
    (p250)


     最後の例は象徴的です。
    「内面」とは「女性」だけが有している。それがこの近代社会のコンセンサスであり、フェミニズムはそうした歪みが生んだ思想なのです。

    男性が刑務所行きの判決を受ける一方、女性が執行猶予で釈放されたとき、合衆国ジェンダーバイアス委員会はその女性はその男性より期間が長い執行猶予の判決を受けたから女性は差別の被害者だと言った。
    (p252)


     このジェンダーバイアス委員会はまた、女性刑務所の数が少ないことを理由に、慰問に行きにくい、女性差別だとも言いがかりをつけます。むろん、そもそも女性受刑者は(女性に甘い司法のおかげで)絶対数が少なく、男性受刑者の倍の予算が投じられ、設備も天国のようなものなのですが。

     興味深い……というか、近代的人権観の根本に抵触する、極めてデリケートな問題として、PMS(月経前症候群)があります。生理中や更年期の女性ホルモンが女性の意志決定に与える有害な影響のことを言うのですが、それを唱えたエドガー・バーマン医師は案の定、フェミニストたちのバッシングに遭いました。

     しかし一九八〇年代になると、一部のフェミニストは、PMS(月経前症候群)は故意に男性を殺した女性を釈放する根拠であると言い始めた。
    (p272)


     それにより(というか、PMSの症状を抑える注射を打っていたというだけの理由で)、実際に複数の女性殺人犯が執行猶予の判決を受けました。

     一九七〇年代は、フェミニストたちは「私の体は、私が選択する」と言い続けてきた。八〇年代、九〇年代になるまでに彼らは「私の体は、私が選択する、もしそれが、私が殺す自由を増やすなら」そして「私の体には、私の選択権はない、もしそれが私が殺す自由を増やすなら」と主張し続けた。
    (p273)


     しかしファレルの主張が秀逸なのは、女性の殺人すらもがPMSバイアスによってこんなにも正当化されるのならば、男性もTPバイアス(テストステロン中毒)を用いることを許されるのではないか、としているところです。
     そう、フェミニストは今まで攻撃性を司るとされる男性のテストステロンを、半狂乱で憎悪し続けてきました。しかし女性側のホルモンについてはそれが殺人を引き起こそうと正当化するのです。彼女らの、テストステロンを持っていないにも関わらず発揮される攻撃性には、いつもいつも慄然とさせられます。

     ――いや、しかしそれにしても女性は被害者となることが多い。まずその原因である男性の攻撃性をこそ矯正せよ。

     そうでしょうか?

    夫を殺害して服役している女性の中には、夫によって虐待(DV)を受けていた者もいる。しかし、コーラメイ・リッキー・マン教授(イリノイ大学刑事司法学部、女性)が、夫や恋人の殺害で六つの主要都市で投獄された何百もの女性に関する研究を行った際に、男性によって虐待されていたことが判明した女性は一人もいなかった。それゆえ、一部の女性は先に虐待を受けることもなく実際に人を殺すのである。
    (p281)


     一方、「女災」、即ち女性が「被害者として振る舞うことで加害者性を発揮すること」に対しても、ファレルは鋭いメスを入れていきます。

    (フェミニストの調査によると)四〇%近くの女子大学生は「彼女たちがしたいことを意味するときに」さえ、セックスの際に「いや」と言ってきたことを認めた。十五万人の女性と男性にわたる私自身の調査でも――その内、半分は独身だった――その答えはまた「したことがある」であった。
    (中略)
     私たちは少し前の文章でこれをデートレイプと呼び、デート詐欺と呼んだことを忘れている。
    (p321)


     この「デート詐欺」は要するに上のような女性の、「口頭での発言とボディランゲージの矛盾」を指す、「デートレイプ」に対応する概念です。ファレルはこの後、女性向けのロマンス小説の多くが「強姦者との結婚」というモチーフを持っていることを指摘します。
     また、男性だって望まぬ性行為をしていることにも言及。その比率は九四%とも、六三%とも言われ、後者の調査では男性の比率が女性のそれを大きく上回っています。

     定義の拡大を伴うデートレイプに関する法律は、まるで時速五五マイルのスピード制限だ――誰をも違反者にすることで、彼らは本当の交通違反者を軽視する。(p326)


     しかもデートレイプについては(男性の方がより被害に遭っている、との調査すらあるのに)男性にだけ適用されるのです。

    レイプの定義の拡大の法律は時速五五マイルのスピード制限を男性に設け、女性にはどんなスピード制限も課さない法律だ。
    (p326)

     ええ、全国で、現在「進歩的」と呼ばれる大学――バークレーからハーバード、スワースモアにかけて――は既に酔った女性が昨夜「イエス」と言ったとしても翌朝レイプされたと主張することを許可している!
    (p327)

     男女平等の時代に、私たちは彼女が酒に酔っていたから責任を与えず、彼もまた酒に酔っていたにもかかわらず彼に責任をとらせる。フェミニズムがこの新しい不平等のパイオニアであるというのは皮肉なことだ。
    (p328)


     そしてファレルはいよいよタブー中のタブーへと足を踏み入れます。

     とても残念なことだが、私たちは全てのレイプ疑惑の少なくとも六〇%が虚偽であることを発見した
    (p331)

     アメリカ空軍が五六六件のレイプ疑惑を調査したとき、最終的に二七%の女性が(嘘発見器の検査を受ける前やまたはそれにひっかかたあとに)嘘をついていたことを認めた。他のケースは真偽があまり確かでなかったため、空軍は三人の第三者である調査者にこれらのケースを再調査させた。彼らは嘘をついたことを認めた女性に共通する二五の基準を用いた。もし調査者が三人ともレイプ疑惑は虚偽であることに同意したら、そのケースは虚偽であると位置づけられた
    (p331)


     六〇%という数字はつまり、その結果、出たものです。
     調査者のマクドウェル博士は、いや、これは空軍だけの特殊事情では……と考え、中西部と南西部の主な都市の警察のファイルについても調査したのですが……やはり結果として出てきたのは六〇%(は虚偽の告発である)という数字でした。
     メリーランド州のプリンスジョージとバージニア州のフェアファックスにおいても、それぞれ三〇%と四〇%の虚偽、または「根拠なし」の事例を記録していたと言います。
     本書には虚偽の報告をする女性たちの動機についても表が作られており、妊娠したことの社会への言い訳がその主要な理由の一つであるとわかります。ファレルはこれを

     社会がセックスを彼らがしてもよいと考えるより前にした女性に責任を下すとき、それはその責任を避けるため女性に虚偽の訴えをさせる。
    (335p)


     と表現しています。

     実際の話、女性が男性をレイプで訴えたとき、FBIや警察は男性の性的過去における女性たちを探し出し、彼女らに彼がレイプで訴えられたことを伝え、彼にレイプされた(デートレイプを含めて)と感じたことがあったか尋ね、もし彼女らが「ええっと、ひょっとしたらあのとき一度……」と言えば彼女らは「他の女性にこれが起こらないように」証言を促される。反対に、最新の最高裁判所の判決によれば、男性は、被害女性の性的過去や彼との性的関係の証拠さえ、始めに裁判所に許可をもらわない限り提出できない。
    (344p)

     配偶者間レイプの法律は行使されることを待っている脅迫状である。もし男性が離婚を申請する必要を感じたとき、妻は「もしあなたがそうするなら、あなたを夫婦間レイプで訴えるわ」と言うことができる。
    (p352)


     そして言うまでもないことですが、女性は経済的にも、圧倒的な優遇措置を、今まで受け続けてきました。

    アメリカ合衆国の国勢調査局は、世帯主である女性の有している資産の額は、世帯主である男性の資産の額の一.四倍であることを明らかにした。
    (p22)


     むろん、女性世帯主は絶対数が少ないじゃないか、という反論が予想されますが、世帯主でない女性の多くは、男性に食べさせてもらっているわけです。男性を食べさせている女性世帯主の数は、極めて少ないでしょう。
     また、それにも関わらず、家庭という社会では母親が専ら権力を握ってきたことは、日米共通の事実です。日本においてはのみならず、女性が財布を握っていることをも、ファレルは指摘します。

    それは、一九九二年に日本の株式市場が破綻し、数千人の女性が夫が知らない間に投資して何十億ドルを失ったという事実で多くのアメリカ人に明らかになった。
    (p26)


     本書の第三部は「夫の代わりとしての政府」と題されています。

     今日、雇用者が女性を雇うとき、彼らは妊娠の支援コストを支払い(妊娠差別禁止法)、出産育児休暇の費用を支払い、(土地のコスト、高額な保険料、子どものための保育士や管理者を雇うコストを新たに招く)保育所を運営しなければならない圧力をおそらく感じる。
    (p368)


     ということで、これは保守派が「フェミニズムは共産主義のバリアントである」と指摘するのと、意を同じくしています。ある程度裕福な男性は女性を主婦にも労働者にもすることができますが、貧困層の男性にはそれができないので、

    だから国が女性に、貧困層の男性が与えられる収入より多くのお金を与える。彼女は貧しい男性とではなく国と「結婚する」。政府は夫の代わりである。そして貧しい男性は使い捨てられる。
    (p372)


     というわけです。ぼくは

    「女災」とは「女性に尽くすことでぼくたちが被る厄災」であり、フェミニズムとは「男が悪者である、女が被害者であるという虚構を温存することを目的としたジェンダー固定化運動」である。


     と主張してきました。ファレルもこれと同様のことを言っています。

     あるグループが五〇%以上の選挙権を持って、自らを被害者と呼んでいる例を歴史の中で見つけるのは難しいだろう。または、被抑圧者のグループが自分たちのメンバーに選挙で走り回らなければならない責任を与えないように彼女たちの“抑圧者”に投票する例を。女性たちは唯一のマジョリティであるマイノリティグループである。そして女性たちは全国のほとんど全てのコミュニティーの公職員を選挙で選ぶことによってコントロールすることのできる唯一の、自身を“被抑圧者”と呼ぶグループである。
    (p32)

     フェミニズムの欠陥は、支配と性差別が一方通行のものであるという前提である。フェミニズムは、この点で、非常に伝統的な運動であった。男性が責任を負い、何が起こっているのかを知り、女性は責任をとらないという根本的な信念を保持した。その信念は、本当かどうかは別にして、女性が本質的に劣るか、または愚かであることを含意している。
    (中略)
    しかし、おそらく重要なことだが、男性が女性の束縛に責任を負うという信仰は、王子が彼女を救出するだろうという信仰の裏返しである。
    (p102)


     法が整備され差別がなくなったにも関わらず、女性の社会進出がはかどらないことを、フェミニストは「ガラスの天井」のせいだとします。「女性は見えないバリアに阻まれているのだ」との言い分であり、こうなると「証拠を出せ」と言われても「見えない」と返せば済むのですから、もう無敵の理論です。
     が、ファレルはこれに「ガラスの地下室」という言葉で返します。男性は見えないバリアによって、地下室に閉じ込められているのです。
     もっとも、この「ガラス」の正体を「ジェンダー規範」と解釈するならば、(「ガラスの地下室」が実在する程度には)「ガラスの天井」もまた実在するのだ、とは言えます。しかしその場合もこの「ジェンダー規範」は、男性側の責がゼロとは言わないものの、主婦志向に象徴されるように選択肢を与えられた女性側の主体的自己決定の結果である、と考えざるを得ないでしょう。

     ――いかがでしょう。
     みなさんいい加減、ウンザリ来ているのではないでしょうか。
     ぼくもウンザリ来ています。
     本書は400pを超える大著であり、ファレルの粘り強い調査には脱帽せざるを得ません。
     しかし彼の能力の高さは、調査能力にばかり特化しているわけではないのです。
     細かい考察は次回に譲りますが、最後にちょっとだけ予告代わりに、まとめめいたことを書いておきましょう。
     ファレルはゴミ清掃業者、現金輸送のガードマンなど、危険な職業に就く男性たちの惨憺たる状況について、心を痛めます。男性がただ、女性の愛を得るために危険な職業に就くこと、その逆は決してないことを、彼は繰り返し指摘します。
     本書を見ていくと愛が、結婚が、家庭が男を殺したのだということがわかります。
     翻って現代の日本。ここでは既に草食系男子たちが結婚という選択を捨て始めています。ぼくたちは女性に気に入られることがコストに見あわないと見抜き、金銭的なメリットを捨てました。
     男は愛に、結婚に、家庭に、女に三行半を突きつけたのです。
     しかし両者はそれで、本当に幸福になれたのでしょうか?
     これから、ぼくたちの女災社会はどうなるのでしょうか……?

         *     *     *

     ――以上です。
     さて、本稿には後編もあるのですが、今回はあくまで冤罪についての記事の再録なので、そっちは省略します。
     興味の湧いた方は、過去記事をお読みいただければ幸いです。

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