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日本の真の主権回復をめざして―4・28国民集会 志位委員長の発言
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日本の真の主権回復をめざして―4・28国民集会 志位委員長の発言

2013-04-30 13:37

    日本の真の主権回復をめざして

    4・28国民集会 志位委員長の発言

     日本共産党や労組・民主団体など9団体の呼びかけで、28日に開かれた「安保条約廃棄・真の主権回復を求める国民集会」で、志位和夫委員長がおこなった発言はつぎの通りです。

    a89c866dc9e690592dd11f1da8351e16f4fbcbb2 みなさん、こんにちは。ご紹介いただきました日本共産党の志位和夫です。今日は、お休みのところ、たくさんのみなさんがお集まりいただき、ありがとうございます。私からも心からのお礼を申し上げるものです。(拍手)

     私は、この日にあたって、「日本の真の主権回復をめざして」と題して発言をいたします。

    サンフランシスコ平和条約の三つの問題点

     まず61年前のこの日――1952年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約の問題点について話したいと思います。この条約によって、日本は形式上は独立国となりました。しかし、実質的にはアメリカの軍事的従属の鎖につながれた、従属国に落ち込むことになりました。サンフランシスコ平和条約には、大きくいって三つの問題点がありました。

    全面講和でなく単独講和――軍国主義の被害を最も深刻に受けた国は招待されず

     その第一は、全面講和でなく単独講和だったということです。すなわち、日本が戦争をしていたすべての国との平和条約でなく、アメリカの構想に反対しない国々とだけの平和条約となったということです。

     とりわけ重大だったのは、日本軍国主義の被害をもっとも深刻にうけた中国と韓国・朝鮮の代表が、この講和会議に招待されなかったことです。ソ連など3カ国は最終的に条約に署名しませんでした。ですから、それらの国々との国交回復は、その後の課題に持ちこされたわけです。

     そのことともかかわって、サンフランシスコ平和条約には、日本の戦争責任、植民地責任についての反省を明記した部分はありません。唯一、見られるのは第11条で“東京裁判を受諾する”とのべていることだけです。この条約では、日本の戦争責任、植民地責任はあいまいにされたのです。

    「領土不拡大」の大原則に背く不公正――沖縄・奄美・小笠原、千島列島

     第二は、カイロ宣言やポツダム宣言に明記された、第2次世界大戦の戦後処理の大原則である「領土不拡大」――“戦争に勝った国も領土を拡大しない”という大原則に反する不公正が条約に持ち込まれたということです。

     第3条で、沖縄、奄美、小笠原を日本から切り離し、永久に米国の支配下におく無法な規定が持ち込まれました。沖縄では、その翌年の1953年4月、「土地収用令」が発令され、伊佐浜、伊江島などで、銃剣とブルドーザーによる無法な土地拡張が行われました。これは沖縄の人々の心の深い傷となり、今も続いている痛みです。沖縄の人々が、この日を「屈辱の日」としているのは当然であって、今日、政府主催の「主権回復」記念式典に抗議の声をあげた1万人を超える沖縄県民のたたかいに、熱い連帯のあいさつをおくるものです。(大きな拍手)

     さらに第2条C項には、千島列島の放棄が明記されました。1945年2月、ヤルタで行われた米英ソの首脳会談で、スターリンが対日戦争に参戦する条件として、千島を「引き渡せ」という覇権主義的要求をつきつけます。それに米英が同意し、千島「引き渡し」の秘密協定が結ばれます。この秘密協定を「根拠」に、日本敗戦の時に、スターリンは千島列島を占領し、北海道の一部である歯舞・色丹を占領する暴挙を行ったのです。それを追認する形で、第2条C項によって、日本は千島列島を放棄すると宣言してしまった。日ロ領土問題の解決のためには、この不公正を根本からただすことが必要です。日ロ間で、平和的に国境が画定したのは1875年の樺太・千島交換条約であり、この条約によって、南北千島列島はすべて日本の領土となったのですから、そこに立ち返って、全千島の返還を堂々と要求する大義にたった領土交渉が必要だということを、強調したいと思います。(拍手)

    連動して旧安保条約が結ばれる――米軍が丸ごと居座り続ける

     第三は、第6条で、米軍駐留の継続を認める特別の規定がおかれ、それと連動して旧日米安保条約が結ばれたことです。

     これは、ポツダム宣言の第12項、“占領軍は占領目的――日本の民主化と非軍事化を達成したら、ただちに撤収しなければならない”との規定に背く、無法な居座りでした。旧安保条約は、アメリカが占領中に絶対権力でつくりあげた基地をすべてそのまま提供する――占領軍が駐留軍と名前だけ変えて丸ごと居座り続けるものとなりました。

     ですから、今日は、沖縄県民にとって「屈辱の日」であるとともに、日本国民全体にとって「従属の日」なのであります。この「従属と屈辱の日」に、政府が、これを肯定的に記念する式典を強行したことに、私は、強く抗議するものです。(大きな拍手)

    日本はいかにして米軍「基地国家」とされたか――「全土基地方式」の起源と現在

     今日、日本は、日米安保条約によって、世界でも類のない米軍「基地国家」とされています。沖縄のような、人口があれだけ密集している地域に、あれだけの軍隊が置かれているところは、世界のなかでも沖縄以外にありません。首都圏に、厚木、横田、横須賀などの巨大基地を抱えている国も世界に日本しかありません。海兵隊と空母打撃群という海外への「殴りこみ」専門の部隊の根拠地を置いているのも日本だけです。日本はいかにして米軍「基地国家」とされたのか。

     なかでも、日本の基地提供は、「全土基地方式」――アメリカが欲するところ、欲するときに、どこでも基地の提供を許されるという方式をとっています。こうした「全土基地方式」という最も屈辱的な方式で基地提供を強いられている国も、世界に他に類をみないものです。今日は、この「全土基地方式」の起源がどこなのか、それが現在にどうつながってきているのかに焦点をあてて、少し突っ込んでお話しをさせていただきたいと思います。

    マッカーサー・メモ――「日本の全区域が、防衛作戦のための潜在基地」

     この問題には、いくつかの歴史的節目があります。

     第一の歴史的節目は、旧安保条約調印と、「行政協定」調印にいたる過程の問題です。

     講和交渉の米側の直接の責任者となったのは、ジョン・フォスター・ダレスという、国務省顧問で、大統領特使となった人物でした。

     来日したダレスは、1950年6月22日、占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサーと会談をします。この会談で、ダレスは、アメリカが日本に基地を保有する権利についての詳しいメモをつくることを提起します。この提起にこたえて、その翌日、6月23日に、マッカーサーがつぎのようなメモを作成します。

     「日本の全区域が、防衛作戦のための潜在基地と見なされなければならない。外的脅威の潜在的可能性のいかなる変化にも対処するために十分な防衛計画の調整に必要な戦略的配置を行い、敵対行為が生じた場合には、軍事情勢が随時に要求する戦術的配備を行うために無制限の自由が、国防省の通常の指揮系統を通じて行動する現地司令官を通じて、保護を与える国である合衆国に留保される」

     ここには、第一に、「日本の全区域が、防衛作戦のための潜在基地」と見なされなければならない。第二に、米軍の「戦略的配置」と「戦術的配備」のための「無制限の自由」が、アメリカ合衆国にある。この二つのことがのべられています。

     今日、私たちが「全土基地方式」と呼んでいるものの起源をたどると、おそらくこのマッカーサー・メモにゆきつくと考えられます。

    ダレス発言――「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を」

     米国政府は、マッカーサー・メモの線で対日交渉の方針を立ててゆきます。その翌年の1951年1月26日、日米講和交渉のために、使節団を率いて来日したダレスは、使節団の会議でつぎのような発言をします。

     「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか? これが根本的な問題である」

     ここには、私たちが「全土基地方式」と呼んでいるものの本音が、アメリカ当局者の言葉として、あからさまにのべられているではありませんか。

     さらに、1951年2月2日、そういう流れをふまえて、米側からつぎのような安保協定の第1次案が提示されます。

     「安全保障軍は、占領終結にさいし、連合国占領軍の管理下にあった施設に慣例として駐留し、同軍隊によって必要とされるあらゆる施設および区域は、安全保障軍の管理下に置かれる

     ここで、「安全保障軍」と呼んでいるのは米軍のことです。基地をこれからも丸ごと使い続けるぞという宣言がされています。

     米側はこういう構えをもって、サンフランシスコ平和条約、日米安保条約の交渉にのぞんでいったのです。

    旧安保条約と「行政協定」――悪名高い「全土基地方式」が明記された

     第二の歴史的節目は、旧日米安保条約の調印(1951年9月8日)と、「行政協定」の調印(1952年2月28日)です。

     旧日米安保条約は、第1条で、米軍への基地提供が規定されているのですが、きわめて重大なことに、条文のどこを見ても、米軍配備の条件については、いっさい書かれていないのです。旧安保条約の第3条に、つぎのように書いてあるだけです。

     「第3条 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する

     このように、米軍配備を規律する条件は、「行政協定」で決定するとしか書いてありません。ところが、「行政協定」は、旧安保条約を調印する時点では、いっさい明らかにされていませんでした。

     もともと安保条約自身が、条約の内容は、調印までずっと秘密にされていて、日本の全権代表団の中でも、事前に知っていたのは吉田茂首相一人だけでした。サンフランシスコ条約が調印されたあと、米軍の下士官の集会所に行って、吉田茂首相とアチソン国務長官との間で調印されたのちに、安保条約ははじめて公表されました。安保条約そのものが、日本国民にはずっと秘匿されていて、調印後はじめて公表されたものだったのです。

     しかし、「行政協定」は、安保条約が公表された時点でも公表されず、国会でのサンフランシスコ条約と日米安保条約の批准のさいにも厳重な秘密のもとにおかれ、1952年2月28日の調印の日にやっと、発表となりました。

     当時、条約局長だった、西村熊雄氏が、『安全保障条約論』という本を書いていますが、当初米側は、安保条約と「行政協定」を一体化する案を出してきたそうです。それを、「行政協定」を隠してくれ、隠したまま、ことを進めようと提案したのは日本側だったと、西村氏は明かしています。隠さなければならない、恥ずかしいことが、「行政協定」には書かれていたのです。「行政協定」の第2条1項には次のように書かれていました。

      「第2条 1 日本国は、合衆国に対し、安全保障条約第一号に掲げる目的の遂行に必要な施設及び区域の使用を許すことに同意する

     こうして、悪名高い「全土基地方式」がここに明記されることになりました。

     さらに「行政協定」に付随した「交換公文」には、「行政協定」発効後90日以内に日米協議が整わない場合には、日本側が合意しないものも含めてアメリカは継続使用できると規定されていました。その施設は50施設にもおよび、そのうち現在も米軍基地として使用されている基地が、長崎県・佐世保基地、神奈川県・相模補給廠、広島県・広弾薬庫など多数あります。

    米解禁文書――“基地を決める権利は、米軍の判断にゆだねられている”

     「行政協定」のもとで、米軍は無制限の基地特権をもつことになりました。それはどういうものか。次の一文は、在日米国大使館から米国務省あての1957年2月14日付の報告書です。米解禁文書のなかから入手した文書です。

      「日本での米国の軍事活動の規模の大きさに加えて、きわだつもう一つの特徴は、米国に与えられた基地権の寛大さである。……行政協定のもとでは、新しい基地についての要件を決める権利も、現存する基地を保持し続ける権利も、米軍の判断にゆだねられている

     ここには、「全土基地方式」のもつ意味が、米当局者の言葉で、あからさまに語られています。

    新安保条約―― “合理的理由がなければ、 米側が要求した基地を拒否できない”

     第三の歴史的節目は、1960年に改定された新安保条約です。新安保条約のもとで、この問題がどうなったか。

     1960年1月19日に調印された新安保条約と地位協定では、「全土基地方式」がつぎのような形でそっくり受け継がれることになりました。

     (新安保条約)「第6条 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される
     (地位協定)「第2条 1a 合衆国は、相互協力及び安全保障条約第6条の規定に基づき、日本国内の施設及び区域の使用を許される

     新安保条約のもとでの基地貸与の問題について、1983年12月に作成された外務省内部文書「日米地位協定の考え方 増補版」では、つぎのように説明しています。

     「米側は、我が国の施政下にある領域内であればどこにでも施設・区域の提供を求める権利が認められている。……地位協定が個々の施設・区域の提供を我が国の個別の同意によらしめていることは、安保条約第6条の施設・区域の提供目的に合致した米側の提供要求を我が国が合理的な理由なしに拒否し得るものを意味するものではない

     ちょっとややこしいいいまわしですが、これは換言すれば、“合理的理由がなかったら、米側から要求された基地提供を拒否することはできません”ということを言っているのです。まさにいまなお、「全土基地方式」が、こういう形で日本をしばっているということを、外務省自身が内部文書で認めているわけであります。

    この従属の鎖をこのまま続けていいのか――安保廃棄の国民的多数派を

     歴史をふりかえってきましたけれども、1950年のマッカーサー・メモの「日本の全区域が防衛作戦のための潜在基地」だという宣言、1951年のダレスの「我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を獲得するという宣言から始まった、世界に類のない「全土基地方式」は、今に続いているわけであります。

     沖縄の基地問題がなぜ解決しないか。沖縄県民は、日本国憲法への復帰をめざして本土復帰闘争をたたかい抜きました。ところが復帰した先を支配していたのは日米安保条約だったわけです。そこを支配していたのは「全土基地方式」だったわけです。

     沖縄の基地問題が今日までなお解決しない根本、沖縄県民ぐるみ反対している「辺野古移設」をかくも強引にすすめようとする根本に、マッカーサー・ダレス以来の「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる」ことがアメリカの「権利」なのだという、「全土基地方式」という屈辱的な従属構造があることを、私は、告発したいと思うのであります。(大きな拍手)

     今日のこの日を、日本全土を従属の鎖にしばりつけた日米安保条約をこれ以上続けていていいのかということを、全国民が真剣に考える日にしようではありませんか。そして、安保条約10条では、国民の総意によって安保条約廃棄を通告すれば、安保条約は1年後にはなくなると書いてあります。米軍には荷物をまとめてアメリカに帰ってもらう。沖縄からも日本からも帰ってもらう。そういう安保条約廃棄の国民的多数派をつくっていこうではありませんか。(大きな拍手)

    参加者との質疑応答――二つの問題について

     たくさんの質問が寄せられまして、全部答えていきますと、1時間ぐらい(笑い)かかってしまいます。かなり共通して出された二つの質問について、答えさせていただくということでお許し願いたいと思います。

    「安保条約は本当に廃棄することができるのか」

     一つは、「安保は本当に廃棄することができるのか」という質問です。これは「できます」という私の答えです。さきほど安保条約第10条の話をしました。この条文を読み上げてみましょう。

     「この条約が十年間効力を存続したあとは、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告させることができ、その場合には、そのような通告が行われた後一年で終了する」

     ですから、日本国民の意思がまとまって、「もう安保はいりません」と通告したら、1年後には、米軍はすべて出ていかなければなりません。基地はすべてなくなります。基地の撤退の費用は、アメリカに持ってもらうというのが私たちの立場です。(拍手)

     このように、日本国民の意思がまとまれば、条約をなくす道がちゃんとあるということを強調しておきたいんですね。

     それでは、この第10条はどうやってつくられたか。調べてみました。「通告による廃棄」の条項は、1960年の安保条約改定のときにはじめて入った条項でした。すなわち、1952年4月28日に発効した旧安保条約には、安保廃棄の規定はありませんでした。安保廃棄の方法が条約には書いてありません。ですから、そのときの私たちのスローガンは、「安保廃棄」ではなく「安保破棄」でした。“破り棄てる”ということです。条約に規定がなくても、日本国民の主権を行使して破り棄てる――「安保破棄」というスローガンでやってきました。いまでも「安保破棄中央実行委員会」というのがありますが、これは伝統的なスローガンが入っているものです。

     ところが、1960年に安保条約を改定することになった。そのときにこういう交渉がありました。日本側は岸信介首相です。米側はマッカーサー大使です。マッカーサーと同じ名前ですが、マッカーサー司令官のおいにあたる人物です。この2人が、安保改定交渉の非公式協議を、1957年4月から開始します。そのなかで、岸首相は、ペーパーを用意して意見を言うのです。その意見をマッカーサー大使が、米国の国務長官宛の電報で、岸首相がつぎのように述べたという報告をあげているんです。これも米解禁文書から明らかになったものですが、読み上げたいと思います。

     「私(岸)は、安全保障と防衛の分野での日米間の協力関係強化に、日本国民の全面的支持をかちえるには、米国の軍事政策をめぐる日本国民の憂慮と日本がアメリカとの関係で従属的地位にあると彼らが考える不満を、一掃することがきわめて重要だと思う。この目的のために、以下の政策や措置を提案する。……安保条約は……5年間有効とし、その後はどちらか一方からの通告によって終了されない限り、無期限に有効とすること」

     ここではじめて、「通告による廃棄」という道が提起されたわけです。岸首相は、「米国の軍事政策をめぐる日本国民の憂慮と日本がアメリカとの関係で従属的地位にあると彼らが考える不満」といっていますでしょう。岸首相がえらかったのではないんですよ(笑い)。日本国民のたたかいがあったのです。「安保条約は破棄してくれ」、「米軍基地をなくしてくれ」という日本国民のたたかいがあった。沖縄でもたたかいがありました。そのたたかいの圧力におされて、このような提起をしたのです。やはり何らかの体裁を整えないと、とてもではないけど安保改定は成り立たないと考えて、「通告による廃棄」という方式を岸信介氏はアメリカ側に提起したのです。最初は5年という年限で、それが10年とされましたけども、日本国民のたたかいの圧力で、安保条約の第10条の規定はつくられたということを、私は強調したいと思います。(拍手)

     国民のたたかいでつくった条項です。安保条約で唯一いい条項があるとすれば、この第10条だけです(笑い)。ですから、第10条の権利を行使しようとよびかけたい。「通告」をすれば安保はなくなる。10年の固定期間はとっくにたっていますから、国民の意思さえまとまれば、いつでもなくすことができるのです。

     日米安保条約には、あらゆる問題にかかわって「密約」がたくさんあります。「密約」だらけの体制なので、第10条にかかわる「密約」はないかと調べたんですよ(笑い)。「通告による廃棄」ができると書いているけれど、「実際はこの権利を行使しない」とか(笑い)の「密約」があったら、たいへんですから。この問題の専門家の新原昭治さんにも相談して、調べましたがありませんね、これは(笑い、拍手)。第10条に関する「密約」はありません。ですから、これは行使できるんです。この権利を行使して、安保条約のない、そして基地のない沖縄、基地のない日本をつくろうではないかと訴えたい。(大きな拍手)

    「安保条約をなくした場合、中国や北朝鮮の問題をどう解決するのか」

     もう一つ、共通して出されたもので、「安保条約をなくした場合、中国との関係や、北朝鮮の問題をどうするのか」という質問についてお答えいたします。

     これは、それぞれについて、対応を考える必要があるんですが、どちらについても、私がまず強調したいのは、「力対力」ではなく、道理による外交の力で問題を解決していくことが何より大事だということです。一番悪いのは、こういう問題を利用して、軍事力の強化、軍事同盟の強化をする、沖縄の基地を永続化する、さらに憲法改定をする。そういうことの口実に利用する。これが一番悪いのではないでしょうか(拍手)。あくまでも道理に立った外交の力で解決することが大切ではないでしょうか。

     たとえば、中国との間には尖閣諸島の問題があります。私たち日本共産党は、尖閣諸島の日本の領有は、歴史的にも国際法上も正当であるということを、突っ込んで明らかにした見解を出しています。国際的にも発信しています。ところが、日本政府は、尖閣諸島の領有の正当性について事実と道理に立った発信をほとんどやっていません。「領土問題は存在しません」ということだけ言って、自縄自縛になって、外交交渉によってこの問題を解決しようということをはなからやっていない。そういうまっとうなことをやらずに、この問題を利用して、軍事強化の方向にいくのは、私は間違っていると思うんです。

     ただ、私は、中国にもいいたいことがあります。中国が、力によって日本の実効支配を脅かそうという動きをしていることもまた事実です。日常的に公船が領海侵犯をしています。飛行機も領空侵犯をやりました。世界のどこであれ、ある国が実効支配している地域を、力によって変更しようということは、やってはならない、国際社会のルールとしてやってはならないことであって、そういうことはやるべきではないと、私は、中国にも言っておきたいのであります。(拍手)

     双方が、物理的対応、軍事的対応を厳しく自制して、外交交渉によって問題を解決するということが何よりも大切だと思います。

     北朝鮮の問題でも、外交解決に徹する必要があります。北朝鮮が、さまざまな軍事的挑発行為をすることは、もちろん絶対に許されないことです。国連安保理で、非難決議があがるのは当然で、この順守が厳しく求められます。ただ、いま、国際社会が、この問題で、圧力一辺倒でやっているか、さらに軍事力行使を考えているかというと、そうではないでしょう。アメリカのケリー国務長官が、この間、中国と韓国と日本をまわって何をやったかというと、対話による解決の糸口を探ることをやったのです。アメリカがなんと言っているかというと、“北朝鮮が一歩踏み出すならアメリカは対話の用意がありますよ”ということです。韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領も、“韓国は対話の門戸を開いています”ということをいっています。対話で解決しようという方向に、米国も韓国も動く。そういう動きになりつつあるわけですね。こういう流れを強めて、いかに対話で問題を解決していくのか、そのための外交戦略が何よりも大事ではないでしょうか。

     そういう大事なときに、日本はまともな外交戦略をもっているでしょうか。もっていないではないですか。北朝鮮の問題を利用して、憲法改定とか、軍事同盟強化とか、こういうことをやるのは熱心ですが、対話によって北朝鮮の問題を解決する外交戦略をもっていない。アメリカだって持っている、韓国だって持っている、中国も中国なりに考えている。しかし、日本には外交戦略はみられません。

     この前、日本維新の会の石原慎太郎共同代表が、党首討論でいったことに、私はあきれました。“北朝鮮はけしからん”といいながら、“これは憲法改定の好機だ”といったのです。北朝鮮問題を利用して、憲法9条を変えて、海外で戦争をする国にする。これは最悪ではないでしょうか。冷静な外交交渉のための、道理にたった外交戦略、外交力こそ、日本には必要だということを私は訴えたい。(拍手)

    ASEAN方式を北東アジアに広げ、軍事に頼らない「平和的安全保障」を

     そこまでは分かったが、それでも日米安保条約をなくした後、日本の安全保障をどうするのか、そこが心配だという方もいるでしょう。私は、東南アジアを見てほしいといいたいのです。私たちの提案は、ASEAN(東南アジア諸国連合)で起こっているような平和の地域共同体を、北東アジアに広げようということです。

     東南アジアにはかつて、SEATO(東南アジア条約機構)というアメリカ中心の軍事同盟がありました。しかし、そのもとでベトナム戦争がおきて、相互に傷つけあうことになった。その反省も踏まえて、この軍事同盟は解体しました。いま軍事同盟は東南アジアにはないのです。どうやって平和を守っているかといったら、ASEANが大きな力を発揮しています。ASEANは、TAC(東南アジア友好協力条約)という、紛争が起こっても、絶対に戦争にしない、すべて対話によって、平和的・外交的に解決するという大原則を柱にした条約を、まず自分たちの域内でつくって、それをユーラシア大陸に広げ、北アメリカにも広げ、世界中に広げています。軍事に頼らない「平和的安全保障」という考え方を、実践しているのです。この東南アジアで起こっている「平和的安全保障」という流れを北東アジアにも広げよう、日米軍事同盟をなくし、軍事に頼らない「平和的安全保障」というASEAN方式を、北東アジアにも広げ、日本の安全保障をはかっていこうというのが私たちの提案です。(大きな拍手)

     紛争が起こっても戦争にしない――これが紛争の平和解決という考えでしょう。人類社会には、紛争やもめ事はなくならない。しかし、紛争を戦争にしないことはできる。人類の英知でできる。これが紛争の平和解決という考えです。その理念を一番はっきり刻んでいるのは憲法9条ではないでしょうか(大きな拍手)。安保をなくして、本当の主権を回復した日本が、平和と安定を確保していくときに、最大の財産となるのが、憲法9条だと訴えたいし、是非その方向に進みたいと願っています。(拍手)

    締めくくりの発言――政府主催の「式典」の問題点はどこにあるか

     最後に、政府が強行した「式典」の問題点はどこにあるかについて、さらに踏み込んでのべておきたいと思います。

    こういう天皇の政治的利用は、二度と繰り返してはならない

     まず、この「式典」に、政府が天皇の出席を求めた問題です。これは憲法に反する天皇の政治利用であり、許されるものではありません。(拍手)

     日本国憲法第4条では、天皇は「国政に関する権能を有しない」と明記しています。沖縄を切り離した日、日米安保条約が発効した日、「従属と屈辱の日」、その日を肯定的に記念する「式典」に、天皇の出席を求めたというのは、憲法に反する天皇の政治的利用以外のなにものでもありません。

     それから天皇は、憲法第1条で、国民主権に基づく「国民統合の象徴」とされております。ところがこの問題では国民の間で意見が割れているわけです。沖縄では1万人以上の方が、島ぐるみの抗議の声をあげているわけです。国民のなかに大きな意見の分岐がある「式典」に天皇の出席を求める。これは、憲法第1条にも背くものとなると、私たちは考えております。(拍手)

     このような憲法に反する天皇の政治利用は、二度と繰り返してはならないということを強調したいと思います。(拍手)

    「主権回復」記念式典は、憲法改定、国防軍と地続きでつながっている

     政府の「式典」のいま一つの問題点ですが、なぜ沖縄県民があれだけ批判の声をあげたのに、開催を強行したのか。彼らの本当の狙いは何なのかということを見ておく必要があると思います。

     ここに、2011年2月16日に書かれた、自民党の「4月28日を主権回復記念日とする議員連盟」の「設立趣意書」という文書があります。これを読みますと、こう書いてあります。

     「主権回復した際に、本来なら直ちに自主憲法の制定と国防軍の創設は、主権国家として最優先手順であった」

     つまり、1952年4月28日以前を、彼らは、「主権喪失の時代」として、その時期につくられた日本国憲法を「占領憲法」として投げ捨て、憲法改定、国防軍創設をめざすという野望のもとに、この動きは開始されたのです。これが、政府の「式典」の、いちばん根本にある狙いであると私はいいたい。

     昨年のこの日、4月28日に、「主権回復記念日国民集会」というのがやられました。そこで安倍晋三氏は何といったか。ビデオメッセージでこう発言しています。

     「戦後体制からの脱却、戦後レジームからの脱却とは、占領期間につくられた、占領軍によってつくられた憲法や教育基本法、さまざまな仕組みをもう一度見直していく。……つぎは憲法です。……自由民主党は憲法改正草案をつくりました。どうか国民のみなさん、これから憲法改正論議に参加していただきたいと思います」

     ですから、政府が今日強行した「主権回復」記念の「式典」なるものは、憲法9条改定、国防軍の創設と、地続きでつながっている。一体のものであるということを見抜いて、そのたくらみを許すなということを強く訴えたいと思います。(大きな拍手)

     最後にエピソードを一つのべて終わりにしたいと思います。61年前の1952年4月28日、もう一つの事件がありました。それはA級戦犯容疑で逮捕された岸信介氏の公職追放が解除されたことです。岸氏は1945年9月に逮捕され、48年12月に不起訴・釈放となりましたが、公職追放は最後まで解けなかった。願いがようやくかなったのが、61年前の4月28日だったわけです。安倍首相が祝いたくなる気持ちが、分かりますよ(爆笑)。そういう日でもあったわけです。

     岸氏は翌29日、「国民運動組織」として「日本再建連盟」の結成式を挙行します。そこで、このような宣言をします。「国民の総意に基づき、憲法を改正し、独立国家としての体制を整備する」

     すなわち、61年前のこの日は、戦後日本の戦犯政治――戦争犯罪を反省しない人たちの政治が復権し、始まった日でもあった。そして、改憲運動が「旗あげ」された日にもなった。こういう日でもあるのです。そういう日をお祝いしようというのが相手の立場です。

     みなさん。こうした歴史の逆行は、絶対に許してはならないという国民の反撃を広げようではありませんか。安保条約を廃棄して、日本の真の主権回復をかちとろうではありませんか。(大きな拍手)

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