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見事銅メダルを取った、水谷選手のガッツポーズが張本さんにダメだしされて盛り上がっているようですね。
水谷隼、張本氏の喝に「戦場なので」 ガッツポーズに理解求める(デイリースポーツ) - リオオリンピック特集
まあ盛り上がるくらいですから、微妙な問題なのでしょう。つまり、世論として、ガッツポーズなんてありえないというわけでもなく、なんで問題にするの?という問題でもありません。
ということで、なぜ問題になるのか論点整理です。
1) 「道」としての考え方がある
「柔道」に始まって、日本は「道」の文化があります。相対的な勝ち負けではなく、自分自身が「極める」という考え方です。「茶道」とか考えやすいのではないでしょうか。
「道」として考えると、ガッツポーズははしたないという話になるのかもしれません。
後述しますが、個人的には「道」を極めることと、今回の水谷選手のガッツポーズは関係が薄いと思います。
2) 相手に失礼という考え方
「剣道」なんかは明白ですが、真剣勝負では負けた相手は死んでしまいかねません。スポーツの世界で、本当に相手が死んでしまうことはありませんが、選手生命の息の根を止めることは常に起こっていることです。
スポーツの世界は、その競技をする人がたくさんいるからこそ注目されることであり、そういう意味で最初に負ける人でさえ、その競技に大きく貢献しています。
つまり、勝ったとしても相手に敬意を払うことは当然であり、そういう意味でおおげさなガッツポーズははしたないということになります。「礼に始まり礼に終わる」を疎かにしてはいけません。
3) 背負ったものが爆発する
とは言ってもですね。今回の水谷選手の銅メダルは、日本卓球界の「悲願」なわけです。
たとえばあえてイチローと比べて見ましょう。大リーグ3000本安打。もうイチローはとんでもないところまで行っていて「日本人の悲願」ではありません。もう私たちはイチローがいつやめたって「お疲れ様」です。彼は、もうひたすら彼の道を極めているのであり、私たちはその傍観者であり、したがって彼は自分の道に専念できます。
水谷選手はそうでしたか? まったく違います。日本の過去の願いを丸ごとひきうけたのです。
彼は、あの局面で、純粋に「道」を極めることは困難です。自分の道を極めるために、泥臭く勝ちに行くことを選択できるかという問題です。それは今柔道が赤裸々で、ポイント有利になれば、ひたすら逃げるのか、あくまで一本を取りに行くのかという問題に似ています。
しかし、卓球は世界的には長年挑戦者の立場です。「道」にこだわってメダルを取るという綺麗だけでおしきれる問題ではありません。
ですから、水谷選手のガッツポーズは、倒した相手に失礼ではないかということが論点なんでしょうか?
しかし、お国柄や選手によって、もし勝ったらガッツポーズする人は大勢いるわけで、そういう相手ならしていい、そうでなければするべきではないなんて、やってられません。
そんなもやもやした事情と、日本がずっとメダルを取れないというプレッシャーを背負いながらメダルを勝ち取ったことを、見ている人と共有するために行うガッツポーズを比べたとき、どっちがより望ましいかという問題なのです。
《ワンポイントミライ》(?)
ミライ: なんか、象徴的ですね。本当かどうかわからないですけど、これ。
愛選手がキム対策を聞かなかったのは「道」重視と言えそうですし、結果はメダルを取れませんでした。未知の相手であり、仮にいろいろ聞いてメダルが取れれば、石川選手にとって、いったいどちらが良かったのでしょうか。
フツクロウ: 対照的じゃの。
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