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記事 19件
  • 大人は子供の「人と違ったままであれ」を支援できるのか

    2015-02-28 00:00  
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     グレアム・ムーア氏についてのこの記事が話題を呼んでいます。 アカデミー賞で最も感動的だったスピーチ「人と違ったままであれ」  「16歳の時、私は自殺を図りました。しかし、そんな私が今ここに立っています。私はこの場を、自分の居場所がないと感じている子供たちのために捧げたい。あなたには居場所があります。どうかそのまま、変わったままで、他の人と違うままでいてください。そしていつかあなたがこの場所に立った時に、同じメッセージを伝えてあげてください」
     私は幼い頃から変わっていることを自覚して、そしてそれをずっと受け入れてもらえて、そのまま成長することができました。思春期に自分の居場所に悩んだこともあるけど、それは多分多くの思春期の人と同じくらいの悩みで、決して自分の人生を断つべきを考えなければならないほど追い詰められることはありませんでした。 おかげで私は今も楽しく暮らせています。 ですから、「他の人と違う」と感じる人の一人でも多くが、自分の居場所を安心して持てる環境が整うことを心から願います。未来の普通になってほしいです。 しかし、私自身の人生を振り返るに、私が変わっていても心の居場所を持ち続けられたのは、かなり運が良かっただけではないかと思われ、私が受けられたこの幸運をどうしたら自分の子供たちも受けられるのか、そして一人でも多くの子が受けられるのかほとんど手がかりはありません。 ただ手をこまねくわけにはいきませんから、まずは自分の場合を分析してみようと思います。*最大の問題はそれが子供たちの問題であること この問題に手がかりすら見つけられないのは、それが本質的に子供たち同士の問題だからです。 私は成績は良かったのですが、性格はちょっと変わっていてクラスの人気者という感じではありませんでした。ただ人の評価をあまり気にしないマイペースな性格なので、小学校くらいはほとんど自覚することもなく「他の人と違うまま」で過ごしていました。 この点では、自分の性格が幸いしていたことになります。 しかし、中学になるとちょっとそうも言ってられなくなります。当時の中学はめっちゃ荒れていました。外歩いていると上から水が降ってくるどころか、バケツごと降ってきますし、つっぱりたちは校門の前をオートバイ乗り回したり、先生や他校とケンカばかりしていました。1年の頃は3年生の目なんて絶対見られません。 そんな中、私は学年トップクラスでしたから、よほど考えないといけません。つっぱりたちに睨まれたら生きてはいけません。文字通りぼこぼこにされるリスクは、現実的な恐怖でした。 でも、私はそんな中を飄々とだれに殴られることもなく、生き抜いてしまいます。やっぱり変わっていることが幸いしたみたいです。小学生の頃、いつも一緒に遊ぶクラスの友だち二人とは別に、学年一の問題児といつの間にか仲良くなっていて、たまに遊んでいました。泊まったこともあります。夜中に二人で自転車で街を走るという私の中では画期的に不良な遊びもしました。 その不思議な能力は中学でも発揮されたみたいで、同じ学年のつっぱりたちとはなぜかコミュニケーションしてました。普段遊ぶ友だちは別にいましたが。つっぱりにもグループはあって、一人誰ともつるまない孤高のつっぱりがいましたが、なんか気に入ってくれて、卒業の時になぜか「さらばシベリア鉄道」のシングルをくれて、それはいまでもカラオケの十八番です! ボクサーになりたいと言ってたと思うのですが、ある時腕を触らせてくれて、ほんとに鉄みたいに固くて、感激したことを覚えています。 後になると不思議なもので、主要グループのつっぱりたちとその孤高のつっぱりと両方どっちつかずにふらふらとコミュニケーション取れてたわけで、そんな人他にいたのかなあ。 なぜそんな風に生きていけたのか、性格によるところもあったかもしれませんが、一つは塾の存在が大きかったと思います。小学校3年生の頃からずっとあるちょっと変わった同じ塾に通い、そこには親友もいてそれは高校までずっと続くわけですが、つまり、私は完全に二重の社会を持っていました。小学校のクラスの親友と、塾の親友。あるいは中学のクラスの親友と、塾の親友。どう配分していたのか全く覚えていませんが、どっちもとても大切だったことは確かです。 それがうまくいっていたことは、自分にとってとても心強かったのだと思います。万が一学校でいじめられても、塾があるや、というフェイルセイフがあったわけですから、無理に自分の変わったところを抑え込む必要がなかったのではないでしょうか。成績が良くて目立つうえ、他の成績の良い人のように人付き合いが上手でもないことで、変わっていることは隠しようがありません。変わったままでいるしかないという覚悟は必要で、二重の社会を巧みに活用したのだと思います。そもそも二重性を持ちながら、つっぱりたちにも切られない程度に近づいてさらに多重性をもたせたのでしょう。 その後高校ではもっと目立ってしまうことになり、そこからは変わっていることが存在意義となり、つまり自分の居場所となっていきます。グレアム氏のように、変わっていることで居場所がなくなるのとは正反対で、むしろ平凡になることを恐れるようになりました。 私の分岐点はどこにあったのか。二つの社会を持てたことのように思います。全然違う友達がいる二つの社会。たまに片方で息が詰まることがあっても、片方で息抜きができる。 さらに、その二つの社会をまたいでいるのは自分だけだったことで、その事実自体が、学校の友達から見れば変わっていることであり、つまり、自他共に「変わっている」ことは明白でした。自分は変わっているのかそうじゃないのか、変わっていないように自分を変えるべきかを悩む必要はなく、その「変わっている」という枠組みで生き抜くしかなかったのです。 そして、最初に大きな問題として断ったのは、ここまで大人は全く出てきません。 

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  • あのホテルが「ちょい止め」でなかったとは。ところで東京のホテルレートの乱高下

    2015-02-27 00:00  
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     2年前にここミラフツでちょっと話題になった記事があります。 【緩募】ホテルの「ちょい止め」シャワー情報   地方に住んでると東京に出張することが増えますが、予約サイトにはチェックできないけど気になる機能がシャワーの「ちょい止め」機能。 シャワーを浴びる時、一度温度調節したらそのままにしたいのでシャワーを一時的に止められるといいのですが、止めることはできずにカランからドドドドーと流しっぱなしにしないといけないホテルもあります。なんかエコじゃないから、気になるけど、慣れない蛇口で何度もお湯の調整もいやなので、結局流しっぱなしにしてしまうという、なんともやるせない気持ちになります。 まあ冬なんかは溜めて入ることも多くて、そんときは無駄にはなりませんが。 ホテル側にしても、「ちょい止め」機能のあるシャワーに付け替えるコストは、その後、宿泊者が自然とお湯を節約することで、すぐに回収できるのではないかと思っています。 さて、そんな中先日、東京ドームホテルに泊まりました。御茶ノ水あたりでは、大きなホテルです。なんでそんなとこに泊まることになったのかは後に書きますけど、とにかく泊まったわけです。 さすが東京ドームホテル、バスローブまで付いちゃったりして、さすがという感じだったのですが、なんと、「ちょい止め」がありませんでした。そういえば別のわりといいホテルもなかった覚えが。 いいとこはむしろないことが贅沢なんでしょうか。でも、部屋のあちこちに、「ECO」な取り組みについてのお知らせがぶら下がっていたので、「ちょい止め」もぜひお願いしたいのですが。まあ、実は洗面台と同じデザインの蛇口が使われてて、それだけ変えたくないとかあるとは思うんですけど。ぜひぜひいいホテルから「ちょい止め」実践して欲しいです。 さて、東京出張のときは、用事によって、カバーしてもらえる宿泊費の上限が決まっていたりして、普通もちろんそれを超えないように探すわけですが、なんというか、東京の宿泊費って年々乱高下が激しくなっているんです。詳しい人にも聞いたので間違いありません。 東京の人は東京に泊まらないので、東京のホテルの話題はあまりネットではみかけません。終電逃した人のためにカプセルホテルの話題はよく見ますけど。 でも、ほんとこれ、地方の出張族にとってはかなり深刻な悩みの種ではないかと思うのですが、どうなんでしょうか。レートを予告してくれるカレンダーアプリみたいなのないのでしょうか。 それが観光シーズンの11月とかなら、こちらも身構えるのですが、この間は、2月24日に東京に泊まろうとしたら、すごい高騰してました。25日が大学二次試験の日とか、中国の休暇の最終日とかそういうのが重なったからではないかと思います。安いときは5,6千円のところが3倍くらいの値段だったりしたんです。 そしたら東京ドームホテルが15000円代で出ていて、じゃあそっちだろうということで予約したのでした。 外国人観光客もどんどん増えるし、東京オリンピックも近づいていくし、これからさらにひどくなるのでしょうか。地方の人にしか関係ない話ではありますが、地方と東京の活発な交流のためにも、この問題ぜひもっと取り上げられてほしいです。 というのも、今回はいつものやたら高い時とは少し様子が変だったのです。いままでもやたら高い時というのは頻繁にあったんですが、その時はそもそもほとんど空いてるホテルが少ないんです。あー、混んでるのかー、しゃあないなー、とか思いながらその中から選んだり、あるいは知り合いのところに泊めてもらったりしたわけです。 ところが今回は、空いてるホテルはいっぱいあったんです。 

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  • [S]羽田空港の立ち食い寿司は究極のファーストフード

    2015-02-25 23:45  
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     いつもとちょっと違う水曜、今回は気楽に書き始める短い記事[S]です。  今日は東京から帰ってきたのですが、久々に羽田空港で究極のファーストフード楽しみました。立ち食い寿司です。以前食べたのはJALの第一ターミナルで、今回ANAの第二ターミナルでは初めてです。 第2旅客ターミナル2F ゲートラウンジ(南) にある立ち食い寿司「築地まぐろ寿司 又こい家」です。ターミナルは南も南、結構端にあるので、北に行く人ゴメンなさい。ANA的には広島県に住んでてよかった。JAL側はちょっとよく覚えてないのですが、真ん中にあるようです。 1個目の金目鯛がいやもうそれはそれはおいしかったのですが、出された途端なぜか口の中に瞬間移動してたので写真がなく、二つ目の赤貝だけなんとか写真に収まりました。そのあともなぜか写真はありません(笑
     なお、先日偶然地元で手に入れた巨大赤貝をレポートしましたが、このお店で出る赤貝の大きさを見て、改めてその巨大さを思い知らされました。
     さて、なぜこれが究極のファーストフードなのでしょうか? 1)速いから そこにいて、やっぱりそうでしたが、お客さんの大半はセットで頼まれます。そして少し離れたテーブルで食べたりします。しかし、立ち食い寿司の醍醐味はカウンターです。 時間帯にもよるかもしれませんが、はっきりいって空いてます。そこで「赤貝を」とかいうと、30秒くらいで出てきます。マクドナルドの1分なんたらとか目じゃないです。まさにファーストフード。 寿司は握られたらすぐ食べないと悪くなってしまうので、30秒で出された後はやはり30秒くらいで食べてしまうことになります。 それですぐ頼んでたら、10分で10カン食べてしまうワンコ寿司になってしまいますが、時代は平成、スマホという力強い味方がいますから、食べた後はその余韻を楽しみながらスマホをいじればいいのです。 ひと昔前なら間を持たせるために板前さんと会話を楽しむという高度な技が必要でしたが、今はもくもくとスマホをいじっていれば向こうも不必要に語りかけてはきません。スマホの中で「赤貝うまー!!!」と叫んでいればいいのです。素晴らしい時代です。 もちろん、できれば板前さんとの会話も楽しんでくださいね。それもとても楽しいです。今回はとりあえず明日の東京の天気がわかりました(爆2)かっこいい (2015年3月4日加筆) このお寿司はお腹をいっぱいにするためのものではありません。安くもないですし。お腹がすいてる人は他がいいと思います。 今日の私はお祝い事もあって、ビールも2杯飲んで居座りましたが、そもそもフライトまでの短い時間に使われる空港のお店。お客さんにはお茶を頼んで、オススメ聞いて、それを2カンくらいぽいぽい口に放り込んで立ち去る粋な人が何人もいました。かっこいい! まさに江戸前ずし。wikipedia にも書いてあります。 
    北大路魯山人は『握り寿司の名人』にて
    戦後、寿司が立ち食いから椅子にかけて食うようになった
    と述べており、かつては屋台で立ち食いする料理であった。現在では充分な時間をかけて食事を楽しむのものであるが、握り寿司が誕生、流行していた江戸時代では入店して適当に素材を見繕った注文をして小腹を満たせば早々に勘定を済まして退店するという「せっかち」だった江戸っ子らの食事マナーが粋とされていた。

     しかも、場所は羽田空港。東京湾のほとり。まさにかつて江戸前ずしのネタが採れていた場所です。もう気分は江戸っ子です。 そのうちやるぞ。3)自分のペース 上に書きましたが、羽田空港の立ち食い寿司なら、ひたすらスマホいじりながら、気がむいた時に頼めばいいのです。回る寿司は、結構混んでたりして、てきぱき食べてすぐ出てけ空気すごいですし、回らない寿司は回らない寿司で自分のペースを持ち込むのはいきつけないと難しでしょう。 しかし、羽田空港立ち食い寿司なら誰でも自分の好きなペースで食べればいいのです。4)寿司が出る 

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  • 「絶対に幸せをつかめる結婚相手」はコロンブスの卵ではない

    2015-02-25 00:30  
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     バツ3女性がたどりついた、「絶対に幸せをつかめる結婚相手」の説得力がすごい | ログミー[o_O]  という、プレゼンが評判のようです。 プレゼンターのトレイシー・マクミランさんは、三度の結婚と離婚を経て、自分自身と結婚してつまり自分を丸ごと受け入れてうまくいくようになったという話です。その上でそこに恋人や配偶者、仕事、その他外的要因が加わると、人生の完璧度がアップするだろうと。 一見コロンブスの卵的な提案で、「そうか!他人でなく自分を愛せばよかったのか!」と思わされます。 しかし、そこには大きな大きな落とし穴があります。 自分を愛することは他人を愛するよりもはるかに難しいからです。トレイシー・マクミランさんは三度の離婚やその他の経験を通して、他人をたくさん愛し、そうしてようやく自分を愛することができるようになったのです。 ヒトは自分の顔を鏡などを使わないと見ることができません。鏡で自分の顔をじっと見ることはできますが、普段どんな話をしているときにどんな表情をしているかはそれでは無理です。知り合いがいつもどんな表情で話しているかはいつも見ているというのに。 それと同じように自分を愛するということは、とても難しいことです。 もし、配偶者に「これから一生君を愛する」と言えば「ありがとう私もよ」とか「なに突然ばっかじゃないの」とか黙って顔を赤らめるとか反応があることでしょう。 もしも、なにか不幸があり、その相手が植物状態でなんの反応もないとしたら、それでも「これから一生君を愛する」と語りかけているとしたら、それは映画のワンシーンのような美しくしかし残酷なシーンです。   さて、自分に「これから一生君を愛する」と語りかけるとき、その自分はどんな反応をするでしょうか。今語りかけてみてください。多くの場合、なにも反応はないのではないでしょうか。 そこに生きていて、ちゃんと意識もあるのに、何も反応してくれない、まるで植物人間のような自分がいるのではないでしょうか。 自分を愛するということは、そんな自分を丸ごと受け入れなければならないということです。 どんなに変わってほしいと願っても、なかなか変わらないし、返事もしない付き合っていても、虚しいが先に来るような相手です。 それは他人がいなければ自分を愛せばいいじゃないなんて生易しいことではないのです。 「え、でも」と思う人もいるのではないでしょうか。今は「自分可愛い」いわゆるナルシシズムの檻から出て来ない人が多いとか言われています。自分好きな人が多いんでしょ? しかし、これは、「自分を愛する」こととは、正反対です。 「檻」という言葉が象徴するように、ナルシシズムの檻から出てこない人は、自分で自分のありたい姿を思い描いて、自分はそうだと思い込んでいるだけで、自分をまるごと受け入れることとは正反対のことをしているのです。 

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  • 魚屋さんで憧れてた買い方できた件

    2015-02-23 23:30  
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     昔、離島とか魚の豊富なとこに旅行に行くたび、地元の小さな魚屋に入ってきたばかりの魚を買い付けるのに憧れてました。物は並んでるんだけど、名前書いた紙がぺとって貼ってあったり。場所の広さからいってもともと数匹しか並んでないような、いわば一品ものです。 福山に住むようになってもうすぐ3年。今日そんなできごとが自分にあったのです。日常の中で偶然がいくつも重なって。やっぱり地方に住むの素晴らしいのです。 大絶賛放映中の「流星ワゴン」の舞台となっている福山の鞆の浦。その近くに内海町という二つの離島でできた町があります。橋で繋がっているので、鞆の浦から車で30分もかかりません。そこで以前から細々と地元の食材を使った食品開発のお手伝いをしています。 先週その内海町の魚屋さんで打ち合わせをしたのですが、延長コードを置き忘れて帰ってきてしまったのです。 今日同じ内海町の民宿で仕事があったので、それが終わったあと魚屋さんに立ち寄って、延長コードを返してもらいました。 その魚屋さんに立ち寄る時はよくオススメの魚を買って帰っています。とはいえ、頻繁に通ってるわけでもなく、そのときは普通のお客さんです。特別なことが起きるわけではありません。 今日もなにかあればとは思っていましたが、実は今はめぼしいものがない時期で、近くのお魚がおいしいと評判のレストランは1週間冬休みをとってしまうくらいです。 けれど、立ち寄った時は、ちょうどわずかながらも魚を積んだ軽トラが帰ってきたところで、挨拶がてら「いいのありますか〜」「う〜ん、特にないね〜」と言葉を交わしながら、軽トラの荷台から降ろされていくカゴを眺めていました。 その時です。それが目に入ったのは。カゴの中にごろごろと赤貝が二匹だけ転がっています。「あ、これ赤貝ですか? てか、これでかくないですかっ!?」 これは家に帰ってからの写真ですが、これがそれです。
     なんとかツマヨウジで大きさをお伝えしたいのですが、赤貝の中身しか見たことないからわからないという方は、後に中身の写真もあります。計ったら564gでした。 これ右の方でもなかなか見られない大きさです。201g。それが子供に見える大きさです。 こんなに大きいのはこの辺では珍しいと店の人も答えてくれました。 というわけで、店の敷居をまたいだばかりの赤貝はすべて私によって買い占められたのです。2匹だけど。 いったい私が買わなかったら、この2匹はどうなったのでしょうか。大きさも不揃いのたった2匹ですから遠くにいくことはなかったのではないでしょうか。数ないから料理人のところにも行かなそうだし、地元のスーパーや魚屋でも、ぽつんと値段が高すぎると売れなそうだし。 いずれにせよ、普通に暮らしてたらまず見ることもないようなものに出会って、しかも買っちゃって、しかもすぐその夜自宅で食べてしまったわけです。 昔から漠然と憧れてたことを、なんかわけなくやってるではないですか。生きててよかった。 しかし、これ、こんなに大きくて本当においしいのか?という一抹の不安は抱えていました。 さあ、夜です。 

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  • 気づかれないうちに枠にはめる

    2015-02-20 11:45  
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     戦後から人々が自由な選択ができるようになり、それぞれの人々がそれぞれの生き方をしてきました。そんな中、昔々の典型的な生き方をしていない人たちの声が聞こえるようになってきました。 53歳独身だけどやる事なくて辛い 両親は共に他界してる。 本当にやる事がなくて暇だ。 会社ではそこそこのポジションにいて、それなりに給料を貰っているが使い道が無い。
     きっとスペック的には独身貴族なんでしょうけど、やることがないと。私が死ぬまであと40年程ある事に絶望してる。 毎日仕事して帰宅して起きてまた仕事しての繰り返し。 週末は本当に何をしていいか分からない。  
     結婚しておけば良かった。
     人生いろんな生き方はありますが、人間の長い歴史を見てみれば、普通に結婚して普通に子供を持つことは、普通に人生退屈せずに済みます。 ならば、子供にはひたすらそれが普通だと刷り込んでおきたいのです。とりあえず孫絶対ほしいし。でも今日日強制はできません。だから、自分たちが幸せな夫婦となり、子供達がいて幸せとひたすら見せることで、無意識に(ふうん、そんなもんか)と思わせておくのが大切です。 もちろん、それでも違う人生を歩むのは構いませんが、幼い頃から、結婚はすべきかするべきでないかなんて問題を抱えてしまったら、適齢期のとき、するべきという結論になる確率は相当下がります。その年齢で結婚すべきか、子供産むべきかと考えると、合理的に考えたら、しないほうがいいよねってなっちゃいます。 でも、何十年か後の自分はそう思わないかもしれないのです。 だから、昔から年寄りたちは、「結婚しろ、子供産め」の価値観を押し付けようとするわけです。まだその気もないのにお見合いさせたりするわけです。そんなの昔々からずっとそうなのです。 だから、先進国は少子化が問題になるのです。適齢期の人間に合理的に考えてもらっては困るのです。 社会としてこの問題にどう取り組むかはともかく、私は子供にひたすら「普通に結婚して普通に子供を持つことは幸せなことだ」と信じ込ませる努力をするのみです。 先日海燕さんが、長い間考えに考えた末、「自分の物語の主人公として生き」ようという結論に至ったと書かれていました。 牢獄から、外へ。   その言葉だけ聞けば、ジョブズの一番有名なスピーチにも出ている言葉ですから、誰でも知っているような言葉です。でもそれを自分で考えて考え抜いて、その言葉を掴み取ったというのはすごいことだと思います。これから何を起こしてくれるのかワクワクしています。 でもその一方で、自分の子供たちには、無意識のうちに「自分の物語の主人公として生き」させたいと思いました。その是非を問うてしまったら、その答えを得るには何十年もかかってしまうのです。そうではなく、当たり前のように「自分の物語の主人公として生き」ていると信じこませる。それが私たち親の大きな挑戦になります。これは簡単なことではありません。中学受験だってさせるつもりです。仮に自分でやると言ったとしても、そこに追い込んでしまったら、いま絶賛放映中の福山が舞台の「流星ワゴン」になってしまいます。どうすればそうならずに「自分の物語の主人公として生き」てもらうことができるのか毎日手探りです。 さらには、子供達には「どうして勉強するのか」「なぜ働くのか」という問題にも直面することでしょう。お金のために働くし、そのために勉強しておくなんてところにはまりこんでしまうと、じゃあお金欲しがらなければ、最低限働けばいいの?っていうところに落ち込んでしまいます。若いときはそういう考えにはまりこまざるを得ないと言っていいでしょう。 でも、働くなんてそんなことではありません。 

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  • 家事はどこまで減らせるのか

    2015-02-19 21:30  
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     最近これが話題みたいですね。 ホリエモン豪語「月2万円で家事代行」は可能か?  夫婦間の家事分担問題に端を発して、押し付け合わずに業者に頼めばいいのに理解できないという話なのですが、単に夫婦間の家事分担問題を、外注内製分担問題にすり替えてるだけで、個別にときほぐさないと議論にならないと思います。たとえばワイシャツ全部クリーニングくらい普及しているサービスなら、共働きならそれ使いなよと議論できると思うのです。 それに、家事分担問題は、家事しない男性はゴミ捨てすらできなかったり、自分で散らかしたものを片付けないとかいうもっと手前の問題なのではないかとも思います。 また年々仕事には創造性を求められるようになっていて、創造性の発揮は労働時間の長さに比例しません。むしろ、材料だけ頭に詰め込んで家事をすれば、家事という軽労働の間に問題が整理できたり、いいアイデアが浮かんだりしますから、家事の時間も立派な創造活動時間にすることは可能です。軽い運動にもできます。家事の間に動画をチェックするという使い方もあります。 さて、それはそれとして、家事はどれくらい減らせるのでしょうか。・掃除 家事代行というと多分真っ先にこれがイメージされるのではないでしょうか。日々の掃除本当に面倒くさいです。でも我が家の場合、掃除機が大変というより、子供たちが片付けない!というのが一番の問題です。かたづいてさえいるなら、それこそ毎日はルンバ使う手もあるし、週一でスポットで掃除代行してもらえばいろいろピカピカになるし。なにもかも外注しようとするとどんどんお金かかりますけど、普段上手に服のクリーニングを利用するように、やってもらう範囲をしっかり決めて掃除してもらうなら、費用はかなり現実的になってきているのではないでしょうか。 うちでもエアコン掃除とか頼んだことありますし。 でも、そのみんながきちんと片付けるところが一番のネックで。スマホが上手に支援してくれるようにならないでしょうか。片付けをゲーミフィケーションしてくれるような。片付けると楽しい、さらにちょくちょくこまめに片付けるとさらに楽しいといった。(一応なにかあるようですがあんまりピンとこなかったので割愛)・洗濯 洗濯代行サービスといって、専用のバッグに洗濯物詰め込んどけば、洗濯して返してくれるというのがあるようです。自分んちで使うこと考えると月1万5000円くらいかかるかなと思うとちょっと割高ですが、今でも払いたい人はいるでしょうし、普及すればどんどん価格も落ち着きますから、これは将来本格的に広まるのではないでしょうか。クリーニング同様、他の家事と違って、集めることができるから効率いいです。 洗濯も負担にならない程度に自分たちでして、あとは外注というのは十分視野に入っていると思います。・炊事 食事を作ることについては、健康かはどうかはともかくとして、すべて出来たものを買ってくることができます。値段もかなりお手頃なので、負担ならどんどんアウトソースし、やりたいときだけやってもいいでしょう。 食べた食器洗いはいまや食洗機あります。食べたら食洗機にいれるくらいはやる。割り切ってそこをそのまま食器棚にしてしまってもいいし。でも、食器洗いはそういう食器より、調理に使った器具洗う方が大変ですよね。料理しなければしないだけ楽にできる項目でもあります。・買い物 日常品はネットで注文してしまえばいいし、今後人工知能が発達すれば、どれをいつ買うかもどんどん支援してくれそうです。「あ、歯磨き粉なくなりそう」とかつぶやいておけば適宜まとめて注文してくれるのです。 

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  • [S]脳が勝手に覚えてくれる! ゲーミフィケーションラーニング?

    2015-02-19 00:00  
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     "脳が勝手に覚えてくれる! 繰り返し読み勉強法の驚きの効果"   とりあえずこの記事に出てくる女の子がかわいいと家族に評判です。 で内容ですが、頭のいい人は次のような勉強法をしているという話です。①教科書をざっと読む。わからないところも拾う程度にして、先へ進む ②教科書を読むことを繰り返す。
     
    繰り返し勉強法のポイント 「最初からわかる必要はない。立ち止まらずにとにかく繰り返す」ということ。 できない科目に遭遇した時、わからないからとその先に進むのをやめてしまったり、その場でずっと立ち止まってしまったりしていませんか?
     ふむふむ。 でも、これってまさに最近のゲーミフィケーションを取り入れたイーラーニングではありませんか? うちで流行ってるえいぽんたん。子供達は大半見たこともないような英単語を相手に立ち止まることなく解き続けています。何度も繰り返すうちにいつの間にか覚えている。 「頭のいい人」はその仕組みを理解して、意識して自分でその方法を実践しますが、ゲーミフィケーションなら、「頭のいい人」でなくても意識せずその方法を実践できるます。「わからないからとその先に進むのをやめてしまったり、その場でずっと立ち止まって」しまうことを許さず、ゲームとして淡々と進んでしまうわけです。 つまり、「頭のいい人」でなくても、「頭のいい人」がやってる勉強法ができてしまうわけで、これから先イーラーニングを通して、いわゆる従来の学校の勉強は、より多くの子供がもっと楽に学んでいけることになることでしょう。 ゆく年来た未来2014 誰も信じない真実(その13)  で取り上げた「日本は学習達成率99%になる」はこういったところから導かれます。 ただし、その分、こういった答えのはっきりしているある意味暗記ものの能力以外の能力が問われるようになるわけです。 

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  • 【馬】自己責任論は実体のない弱音

    2015-02-18 00:30  
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    この記事は【馬車目線】(?)でお送りします。
     みなさん薄々気づいているのではないかと思いますが、最近よく聞く「自己責任」、これに実体はありません。何か理由をつけなければならないときに持ち出されているだけです。 まるで日本人の「自己責任」に対する感覚に起因してなにか社会的な現象が起きているような言説がちまたには溢れていますが、とりあえず、こじつけてるだけです。ですから、様々な「自己責任」を付き合わせてもちっとも核心が出てきません。それは原因ではないからです。 いくつか例を拾ってみましょう。 たとえば若者。若者の就職率が悪いとか、新卒で就職に失敗したら、その後就職のチャンスがなくなるのは、日本が極端な「自己責任」を押し付けるからだ、みたいな言われ方でしょうか。 でも、それは単に大量生産時代が終わって、社会に仕事が足りなくなって、そのしわ寄せが若者に言ってるだけで、社会だってみんなだって、そりゃ老若男女働きたい人すべて働けるようにしたいけど、とりあえず自分たちでせいいっぱいで、政治だって有効な手段があるわけじゃないから、誰に入れるかとかも大した話じゃないし。ああ無力だ。 だから、若者が就職できないのは日本人が極端な「自己責任」を押し付けてるからだ!とどこの日本人に向かって言っているのかよくわかりませんが、そういう弱音に飛びつくのです。 若者の就職難は先進国共通の問題。日本人が極端な「自己責任論」を持っているから若者の就職難が起こっているとは考えにくいです。 たとえば痴漢。される側にも問題がある的な論調がどうしてもくすぶってしまいますが、一番被害に遭いやすいのは、騒がなそうな地味な女子学生なわけで、そんなものに自己責任とかまったく関係なく、ただひたすら撲滅していかなければならない社会問題です。社会も手をこまねいてばかりいるわけではなく、女性専用車両とか導入したり、日々取り組んでいます。女性専用車両は犯罪の数を減らすまでにはなかなかいってないようで、監視カメラの導入なども行われているようです。 自己責任だからほっとくなんてことはなく、みんな取り組んでいるわけです。しかし、なかなか減りませんから、人によっては自己責任論という弱音を持ち出して納得するしかなくなっているわけです。 しかし、女性への暴行の問題は他の国でも深刻であり、全世界が取り組んでいます。日本が極端な「自己責任」を持つから発生しているわけではありません。全世界が克服しなければならない問題なのです。 子育ても同じです。私たち二人は親がともに遠く離ているため、子育ては親に頼れず二人でしました。 大変でした。場合によっては「詰んだ」可能性は大いにあったでしょう。親から離れて子育てをする人が増える一方、自治体の支援は、保育園の問題に始まり、まだ追いついていないのが現状です。 なかなかその状況が変わらない現状への無力感から、「子育て大変って、自分で産んだんだろ、自己責任」という弱音を吐く人がでてきます。 実際は自治体はできることから一生懸命実現していますし、私たちだって東京にいる間、様々な子育て支援に助けられました。それらなくして二人だけでできたわけでは決してありません。 予算などのリソースの問題はありますが、現状について、現場に「これで十分、あとは自己責任」という人なんていません。一歩ずつでも改善していこうとしているのです。 つまり、社会問題があって、その解決になかなか決め手がないような場面で、それに対して何もできないような外野が、その無力感を埋め合わせるために、「自己責任」という弱音が吐かれているだけなのです。広義のイチローチョップスティック問題と言っていいでしょう。 先日のISILによる日本人人質事件も同様です。 

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  • 『2年通い続けてくれた決して買わないお客さん』と店舗の未来

    2015-02-17 00:45  
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     『2年通い続けてくれた決して買わないお客さん』 という記事がすごく印象に残っています。 もう2年くらい経つだろうか? 1人の男性がうちに通うようになって なにしろ 一度も購入していただい事が無い
    という始まりで買ってもらうためにいろいろ手を尽くそうとするという話で、結末はぜひリンク先を読んでほしいのですが、そうやって、お店に何も買わない人が2年間通うのを受け入れられるっていう心意気をぜひ自分も持っていたいと思うのです。 私はこんな風に店舗を持っていないけど、こういう心意気は持っていると自分では信じたいです。私が関わる大部分の人は、直接自分の収入とは関係ないけど、だからといって収入になりそうかなりそうにないかで付き合う距離を測ったりしないし、一方でそういう人の中には一緒にプロジェクト起こす人もできれば、いわゆるお客さんになる人もいます。 私はSOHOな上、やっていることも多種にわたるので、お付き合いのある方と仕事での関わりが絶対起こらないと言い切れる人はいません。でも、普段どれくらい頻繁にコミュニケーションしているかと、なにかしら仕事での関わりができるかは、私の人生ではほとんど相関がないです。というか、仕事で関わる人の数は、そうでない人の数に比べて圧倒的に少ないですし。ですから、普段の付き合い方を収入にかかわりそうかそうでないかで変えることはありません。 でも、この人の話のように、もし店舗があってもそうなるだろうかと、すごく考えさせられたのです。この人の店はそうならなさそうですが、あんまり緩すぎると、まったくお客でない人が一日中たむろする可能性があるわけですから、まあどんなに「せっかく店に来てくれたんだから」と思おうとしても、どこかに限界がありそうです。 じゃあ自分が今の環境でそういうことになるかというと、つまりなんかさばける以上にネットで絡んでくる人がいるとしても、ぶっちゃけ「既読スルー」すればいいだけですから、店にたむろされるよりははるかに対応が楽です。 つまり私の環境の方が、収入に関係ない人とお付き合いするのがはるかに楽で、逆に店舗がある方はより厳しい環境にあります。 ということで、その話を読んだ時、自分としてはその心意気を持っているけど、実際に店舗持っていたらどうなんだろうなあ、自分には無理かなあといろいろ考えさせられたわけです。 しかし、逆に考えれば、こういうことになるから「店舗」はどんどん重くなっているとも言えます。だって、ネットの店舗なんて、買う気なくてもばんばん訪れるわけじゃないですか。それこそ何十回と訪れることだってあるかもしれません。そして、その先に実際に買うことだってあるし、いつまでも買わないこともあるでしょう。しかも私たちネット消費者は、そんなことを意識しているかも微妙です。このサイト何度も来てるけど、買ったことないなあ、悪いなあ、という思いにまで至ることはなかなかありません。 たとえば昔でいうところの本屋、今でいうところのコンビニくらいは、私たちもきがねなく立ち寄れる場所です。仮に何かを買う予定がなくても立ち寄れます。買う予定がなくても、立ち寄ったら何か買うかもしれませんし。 こんな風に考えていくとこれからの店舗の作り方というものも見えてくるかもしれません。 気軽に立ち寄れるようにする。なにか定期的にコンテンツが変わって繰り返しくる意味を持たせる。どっぷり居座れるのは防ぐ。なにか簡単に買えるようにする(なので自販機が流行るのかもしれませんね。でも、できれば自分の店舗に関係のあるもので)。 これってスーパーなんかまさにこんな感じですよね。 

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