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4日に行われた衆院憲法審査会の参考人質疑のうち、早稲田大の長谷部恭男(やすお)、笹田栄司(えいじ)両教授、慶応大の小林節(せつ)名誉教授の戦争法案についての発言(要旨)を紹介します。
私は、外国の軍隊の武力行使との一体化に自衛隊の活動がなる恐れが極めて強いと考えている。
憲法9条を見ただけでは、自衛の限界というのははっきりとわからない。ただ、文言を見た限りでは、たとえ自衛が認められるとしても、極めて極めて限られているに違いないことは大体わかる。その上で、内閣法制局を中心として紡ぎ上げてきた解釈がある。文言、条文を見ただけではわからない場合に、解釈を通じて意味を確定していくということになる。
従来の政府の見解は、我が国に対する直接の武力攻撃があった場合に、かつ、他にそれに代替する手段がない、必要性があるという場合に、必要な最小限度において武力を行使する―それが自衛のための実力の行使だと言っていた。まことに意味は明確だ。
昨年7月1日の閣議決定で、限定的ながら集団的自衛権行使ができる場合があるとの変更がなされているが、その結果、一体どこまでの武力の行使が新たに許容されることになったのかの意味内容が、少なくとも議論をうかがっている限りはっきりしていない。解釈を変えたために意味はかえって不明確化したのではないか。
従来の政府の見解の基本的な論理の枠内におさまっているかといえば、おさまっていないと思う。他国への攻撃に対して武力を行使するというのは、これは自衛というよりはむしろ他衛であって、そこまでのことを憲法が認めているのかという議論を支えることは、なかなか難しいのではないかと考えている。
一方、例えばヨーロッパのコンセイユ・デタ(国務院)のような、日本の法制局の原型となるが、あそこは憲法違反だと言っても、時の大統領府なんかが押し切って、では、やるんだということで、極めてクールな対応をとってきて、そこが大きな違いだったと思う。
ところが、今回、私なんかは、従来の法制局と自民党政権のつくったものがここまでだよなと本当に強く思っていたので、(長谷部、小林両氏の)お二方の先生がいったように、定義では踏み越えてしまった。やはり違憲の考え方に立っているところだ。
(集団的自衛権行使容認の)昨年の閣議決定が出たときに、その文章をやはり学生諸君とかが見て読んでいくと、これは一読してわからないどころじゃなくて、読めば読むほど、どうなるんだろうと。それを今回落とし込んでいく作業をされているわけで、そうすると、概念がやはり本当にわからない。だから、今、国民の理解が(得られない)という話が出てくるのはやむを得ないところだ。
やはり、最初の閣議決定のところの文章から理解することがすっきりこなかったということから始まっているとは思う。もちろんそれが努力の成果であることは私もわかっているが、われわれの結論は、やむを得ないと考えている。
「後方支援」と兵たんのところで、やはり一番大きな疑問を感じている。今、小林先生のクリアな説明で私も十分、そうだろうと思っている。
戦後70年間、少なくとも憲法9条の縛りで海外に軍隊は出せないできたものが、これからは、集団的自衛権と後方支援という説明がつくなら出せることになる。これは、今までしたことのない国際法上の戦争に参加することになる以上、戦争法だ。
それが必要だと言っているならそれで行けばいいのに、「平和だ」「安全だ」「レッテル貼りだ」「失礼じゃないですか」と言っている方が、私ははっきり言って失礼だと思う。野党は論争をしかけ、その異常さを国民大衆に知らせてほしい。
(法案は)私も違憲と考える。憲法9条に違反する。9条の1項は、パリ不戦条約以来の国際法の読み方としては侵略戦争の放棄。だから、自衛のための何らかの武力行使ができると、ここに留保されている。ただし、2項で、軍隊と交戦権が与えられていないから、海の外で軍事活動する道具と法的資格が与えられていない。この9条をそのままにして、海外派兵――集団的自衛権というのは、憲法9条、とりわけ2項違反(になる)。
(法案にある)「後方支援」というのは日本の特殊概念だ。戦場に後ろから参戦する、前からは参戦しないよというだけの話であって、そんなふざけたことで言葉の遊びをやらないでほしい。これも露骨に、憲法(に違反している)。
(「後方支援」は武力行使の)一体化そのものだ。兵たんなしに戦闘というのはできない。そういう意味では、これは露骨な戦争参加法案であり、もうその一事だけでも、私はついていけない。
外国の武力行使と一体
長谷部恭男・早稲田大教授
集団的自衛権の行使が許されるという点について、私は憲法違反だと考えている。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかないし、法的な安定性を大きく揺るがすものだ。私は、外国の軍隊の武力行使との一体化に自衛隊の活動がなる恐れが極めて強いと考えている。
憲法9条を見ただけでは、自衛の限界というのははっきりとわからない。ただ、文言を見た限りでは、たとえ自衛が認められるとしても、極めて極めて限られているに違いないことは大体わかる。その上で、内閣法制局を中心として紡ぎ上げてきた解釈がある。文言、条文を見ただけではわからない場合に、解釈を通じて意味を確定していくということになる。
従来の政府の見解は、我が国に対する直接の武力攻撃があった場合に、かつ、他にそれに代替する手段がない、必要性があるという場合に、必要な最小限度において武力を行使する―それが自衛のための実力の行使だと言っていた。まことに意味は明確だ。
昨年7月1日の閣議決定で、限定的ながら集団的自衛権行使ができる場合があるとの変更がなされているが、その結果、一体どこまでの武力の行使が新たに許容されることになったのかの意味内容が、少なくとも議論をうかがっている限りはっきりしていない。解釈を変えたために意味はかえって不明確化したのではないか。
従来の政府の見解の基本的な論理の枠内におさまっているかといえば、おさまっていないと思う。他国への攻撃に対して武力を行使するというのは、これは自衛というよりはむしろ他衛であって、そこまでのことを憲法が認めているのかという議論を支えることは、なかなか難しいのではないかと考えている。
国民の理解得られない
笹田栄司・早稲田大教授
日本の内閣法制局は、自民党政権とともに安保法制をずっとつくってきた。そのやり方は、非常に、ガラス細工と言えなくもないが、本当にぎりぎりのところで保ってきているんだなと考えていた。一方、例えばヨーロッパのコンセイユ・デタ(国務院)のような、日本の法制局の原型となるが、あそこは憲法違反だと言っても、時の大統領府なんかが押し切って、では、やるんだということで、極めてクールな対応をとってきて、そこが大きな違いだったと思う。
ところが、今回、私なんかは、従来の法制局と自民党政権のつくったものがここまでだよなと本当に強く思っていたので、(長谷部、小林両氏の)お二方の先生がいったように、定義では踏み越えてしまった。やはり違憲の考え方に立っているところだ。
(集団的自衛権行使容認の)昨年の閣議決定が出たときに、その文章をやはり学生諸君とかが見て読んでいくと、これは一読してわからないどころじゃなくて、読めば読むほど、どうなるんだろうと。それを今回落とし込んでいく作業をされているわけで、そうすると、概念がやはり本当にわからない。だから、今、国民の理解が(得られない)という話が出てくるのはやむを得ないところだ。
やはり、最初の閣議決定のところの文章から理解することがすっきりこなかったということから始まっているとは思う。もちろんそれが努力の成果であることは私もわかっているが、われわれの結論は、やむを得ないと考えている。
「後方支援」と兵たんのところで、やはり一番大きな疑問を感じている。今、小林先生のクリアな説明で私も十分、そうだろうと思っている。
露骨な戦争参加法案だ
小林節・慶応大名誉教授
(戦争法案を審議している)最近の特別委員会の議論は、有権解釈の問題よりも、常識と非常識の問題だ。政治家がプライドがあったらこういう議論はしないだろう。戦後70年間、少なくとも憲法9条の縛りで海外に軍隊は出せないできたものが、これからは、集団的自衛権と後方支援という説明がつくなら出せることになる。これは、今までしたことのない国際法上の戦争に参加することになる以上、戦争法だ。
それが必要だと言っているならそれで行けばいいのに、「平和だ」「安全だ」「レッテル貼りだ」「失礼じゃないですか」と言っている方が、私ははっきり言って失礼だと思う。野党は論争をしかけ、その異常さを国民大衆に知らせてほしい。
(法案は)私も違憲と考える。憲法9条に違反する。9条の1項は、パリ不戦条約以来の国際法の読み方としては侵略戦争の放棄。だから、自衛のための何らかの武力行使ができると、ここに留保されている。ただし、2項で、軍隊と交戦権が与えられていないから、海の外で軍事活動する道具と法的資格が与えられていない。この9条をそのままにして、海外派兵――集団的自衛権というのは、憲法9条、とりわけ2項違反(になる)。
(法案にある)「後方支援」というのは日本の特殊概念だ。戦場に後ろから参戦する、前からは参戦しないよというだけの話であって、そんなふざけたことで言葉の遊びをやらないでほしい。これも露骨に、憲法(に違反している)。
(「後方支援」は武力行使の)一体化そのものだ。兵たんなしに戦闘というのはできない。そういう意味では、これは露骨な戦争参加法案であり、もうその一事だけでも、私はついていけない。