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  • サッチャー元首相の死に思う、国を建て直すリーダーには何が必要か?

    2013-04-15 13:00  
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    1979年から11年間の長きにわたり、イギリスの首相を務めた、マーガレット・サッチャーさんが4月8日に亡くなられた。ご冥福をお祈りします。
    僕は、サッチャーさんにインタビューしたことがある。彼女は、「鉄の女」という異名にたがわず、非常に率直な発言をする方だった。最も印象に残っているのは、「私には後悔という言葉はない」とはっきり言い切った言葉だ。
    サッチャーさんの最大の業績は、「イギリス病」を荒療治するため、サッチャリズムと呼ばれる大胆な改革を推進したことだろう。当時のイギリスは、「ゆりかごから墓場まで」という言葉に象徴される、手厚い社会保障政策を行っていた。こうした政策は、財政にとって重すぎる負担となっていた。そのうえ、手厚い社会保障は国民に「甘え」を生じさせる。その結果、経済は低迷していた。イギリスは病んでいたのだ。
    そこでサッチャーさんは、「まずは国民一人一人の自助が必要」という方針を徹底させた。「大きな政府」から「小さな政府」への軌道修正である。これらの改革は、貧富の格差拡大といった負の影響ももたらした。だが、イギリスが、90年代から経済成長する基盤を作り上げたのである。サッチャーさんの改革が、当時よく似た状況にあったアメリカや日本に大きな影響を与えたことは、よく知られている。同じ時期にアメリカのレーガン大統領は「レーガノミクス」を行い、日本では中曽根康弘首相が国鉄、電電公社、専売公社の民営化を行った。
    このサッチャーさんの政策の理論的主柱となったのは、フリードリヒ・ハイエクである。ケインズ、シュムペーター、フリードマンらと並び称される20世紀の偉大な経済学者だ。ハイエクは1899年、オーストリアに生まれた。青年期のハイエクは、1917年にロシアで起きた、2月革命と10月革命を目の当たりにする。その後、1930年代には、そのソ連で「大粛清」が起きる。一方、ドイツでは1933年にヒトラー政権が誕生する。彼は、オーストリアが脅威に直面した時代を生きてきた。
    ハイエクの理論が、一貫してこうした全体主義の流れに抗うものになったのは、当然のことだろう。ロシアや、ナチスドイツが標榜する「平等」という言葉は一見美しい。だが、それは危険な「隷属への道」である。自由と個人主義を貫くことこそ必要、と彼は論じ続けたのだ。ハイエクの理論が正しかったことは、現在までの歴史を見れば一目瞭然だろう。
    サッチャーさんの訃報を耳にしたとき、僕はこうしたさまざまなことを考えた。そして改めて感じたことは、イギリスという国の奥の深さだった。
    例えば、ロシア革命のよりどころとなった、思想家マルクスだ。ドイツ生まれのマルクスは、共産主義活動に身を投じイギリスに亡命した。ドイツはマルクスの身柄の引き渡しをイギリスに強く要求するのだが、イギリスは断固として拒否する。要求に応じれば、マルクスの身の安全が保証されないからだ。「言論の自由」は守らねばならぬ、という考えが徹底されているのだ。その後、マルクスは、歴史に残る『資本論』をロンドンで書き上げている。
    2012年、『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』という映画が日本で公開された。サッチャーさんの伝記映画である。実はこの映画では、サッチャーさんが晩年認知症になる様子まで描かれている。僕はこれを観て、やはりイギリスの凄みを感じた。日本にも著名な政治家を描いた映画やテレビドラマは少なくない。だが、ここまで赤裸々に人物を描き出すことがあるだろうか。
    このように、政治的に成熟した国、徹底的に自由を追求する国、それがイギリスである。だからこそ、サッチャーさんのような傑出した人材も生まれたのだろう。

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