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東京ゲームショウ2013 入場者数過去最大から思うこと
2013-09-27 11:19330pt97 年からの年 2 回開催の時から順調に動員を伸ばしていったのは事実です。おそらくはソニーコンピュータとセガの一騎打ちという図式がわかりやすかったこと、それはイコール新しい技術であった「 3 次元のコンピュータグラフィックスによる新しいゲーム表現が評価された」ことに尽きるのではないかと思います。また、プレイステーションのソフトがけん引したリズムゲーム、パズルゲーム。アクションゲームなどの新しいジャンルが 一般に受け入れられたこともあると思います。また、手前味噌ですが、私自身も経営に関わったコンビニエンスストアでのゲームソフト流通「デジキューブ」に依る新しい顧客層の開拓も寄与したのではないかと思います。
しかし、 2000 年に入ると入場者数が激減します。 99 年が 163,866 人という発表から一転、 2000 年は 131,708 人。つまり 3 万に近く減少してしまいました。翌年の 01 年も 11 万人のレベルまで減少しますが、
個人的には 00 年あたりに動員数が減少傾向に至った理由はソニー(プレステ)の独り勝ちが顕著になり、セガの頼みの綱のドリキャスも敗戦処理に入り始め、世の中はオンライン・コンテンツやモバイル(ガラケー)コンテンツへのシフトが始まった年だったことに起因しているではないでしょうか・・・。当時私はデジキューブでゲームソフトのコンビニ販売を手掛けていましたが、確かに次世代機の初期の頃よりも、ゲームソフトの販売不振が続き、返品(基本的にはコンビニからは返品がフリーでいた)の数量が以前よりも増えていたように思います。その「デジキューブが株式公開をナスダックジャパン ( 当時・現大証ヘラクレス ) に行ったのは 2000 年の初夏だったと思いますので、ある意味では、 2000 年という時代を境に日本のゲーム産業のバランスシートが狂ってきたのかもしれません。 -
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という秋の夜長に贈るブログ
2013-09-21 23:26330ptその昔、次世代機ゲーム戦争と言われたセガサターンとプレイステーションの覇権を賭けた戦いがありました。 93 年のことです。導入当時は双方の販売やソフト戦略は拮抗していました。しかし、価格競争に端を発し、プレステが販売台数を急速に伸ばしました。そして、ソフトメーカーを説得するために大きな材料としてのハード(プレステ) 100 万台の流通を達成することができました。
おそらく大変な戦いだったでしょう。そして、ある意味ではソフトメーカーの囲い込でセガとの距離を大きく離しました。心のなかでは「やった!」とガッツポーズをとったことかもしれません。
しかし、当時、SCEの宣伝販促の責任者だった佐伯雅司部長はこう言いました「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と、対するセガに居た僕にはポーズに見えた台詞でしたが、一般には謙虚に受け入れられました。察するには佐伯さんにとっても、彼自身がソニーでの経験を活かしたマーケティングで人生をかけた戦いに勝ったと思った瞬間だったかもしれません。
しかし、その時の彼の言った言葉は、当時の SCE の姿勢としては高く評価され、その後のプレステ・ビジネスを盤石なものへの布石となりました。
今となっては、その言葉がポーズだったのか、謙遜だったのか、心からの謝辞だったのかどうかはわかりませんが、今回のGREEさんのような舌禍を見るにつけ、あの時の佐伯さんの言葉を思い出すのです。 -
30年という月日~ 「追憶のファミコン」 (最終篇) 28歳の僕
2013-09-12 15:07330ptそれが、予想以上に売れたおかげで、だったらこのままレコードにしたらいいんじゃないか・・・というのが「ドラゴンクエスト」のゲーム音源を使った初めてのゲームサウンドトラックレコードの完成でした。それは 1986 年のことでした。
青いカラーが印象的なLPレコードで、当時のファミコンブームとドラクエ人気にあやかり、アポロンとして異例のヒットレコードになりました。
のちに「牧野アンナ」さんのアポロンからのデビュー曲「ラブソング探して」という曲が「ドラクエⅡ」のタイアップ曲として起用されることになりました。(牧野さんは、今では立派な振付師として活躍。沖縄アクターズスクール出身)
しばらくするとアポロンにとってゲームサウンドトラックは売れ筋のコンテンツになっていきました。 -
30年という月日~ 「追憶のファミコン」 27歳の僕 中・後編
2013-09-05 18:13330pt当時の上司だったT部長は、おそらく今の僕よりも若かったことでしょう。
T部長からは「オマエの担当はカラオケとBGMだ」と言われたときはなんのことを言っているのかさっぱりわかりませんでしたが、Sさんという先輩がやっている、流行曲のカラオケをレコーディングする仕事とアポロンの売れ線だったBGM(歌なし)をレコーディングする仕事を担当することになりました。
どちらも僕が望んだ、革新的なアーチストものでもありませんでした。ゆえに、なんのために異動したのだろうかという疑問も同時に抱えてしまったのです。
本社にしてみれば、若くてイキのいい奴が毎年うるさく言ってくるので、そんなに言うんだったらやらせてみるかというのが本音だったようです。
しかし、その頃であった人たちとの交流は今でも続いているものがあり、何事も役にたつということは今もって感じているものです。
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