前がぱっくり開いた古い靴を履いた少年。穴からのぞいたつま先をながめ、うなだれて一人、公園のベンチに座っています。同い年であろう友だちは、彼のみすぼらしい身なりをバカにして、相手にしてくれない様子。本当は見た目なんてどうだっていいのに......しかし一般的に、同じような境遇であったり、同じような生活レベルなどの「つり合い」を友だちに対して望んでしまいます。小さな子どもであってもそんな残酷な現実に気づいてしまうところが辛いところ。
この少年のなかでは、自分に友だちがいないのは、後にも先にも全て靴のせい。新しい靴さえ履いていれば、自分だってこんなみじめな思いをしなくて済んだのだと。そのうち、一人の少年をベンチで発見。汚れ一つない、新品の白い靴をはいた、気のやさしそうな彼。うらやましくて、苦しくて、自分もあんな素敵な靴を手に入れたい! 神様、いっそのこと彼と僕を入れ替えてください、と彼は願い事をします。神様は彼の願いを聞き入れて、ベンチに座っていた新品の靴の少年と、姿を入れ替えてくれました。
はたして、彼は本当に幸せになれたのでしょうか?
選択の自由と自由意志このショートフィルムが問いかけているのは「人生と価値観について」。もしも私たち一人ひとりが「心の目」でものごとを見ることができたら、自分という存在が今、どれだけの幸運に恵まれているかということに気づけるだろうと示唆しているのです。そして残念なことに、私たちは常に誰かと比較することで「良いか悪いか」を判断しがちであるということです。
外見が幸せそうだから、たくさんの物に囲まれているからといって、その人の内面が満たされているかといえば、必ずしもそうではありません。同様に、自分が満足しているのであれば、誰に何を言われてもかまわないではありませんか。ないものねだりをすること、それは自分自身から目をそらすこと、そして他人を表面的にしか見れないことでもあります。もしこの少年が「心の目」で物事を見ていたならば、ベンチに座った少年の靴が新品かどうかは問題ではなかったはずです。きっと彼の置かれている境遇や、心からの願いや希望にも気づけたことでしょう。
人生において大事なのは「自己選択」。自分の人生を楽しくもつまらなくするのも、物事の見方一つで決まっていくといえるのかもしれませんね。
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