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記事 20件
  • 【記事詰め合わせ】小原道由、田中ケロ、佐藤嘉洋、超獣ブロディ、スコット・コーカー

    2015-01-31 23:59  
    540pt
    非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! par12は大好評インタビュー7本、7万字オーバーで540円!! ①元・新日本プロレス小原道由が語る1・4事変の壮絶な舞台裏!「石澤が止めなかったら、俺は◯◯を殺していたでしょうね」②リングアナのカリスマ田中ケロの新日本プロレス伝説「新日本プロレスで起きた暴動はすべて体験してます」③格闘技バブルとK−1の時代 佐藤嘉洋インタビュー「判定問題のせいで闇に葬り去られていますけど、魔裟斗戦はMAX史上最高の盛り上がりだったと思います」④小佐野景浩「プロレス歴史発見」は超獣ブルーザー・ブロディ「ブロディが生きていたら、鶴田&ブロディvs天龍&ハンセンが実現していたでしょうね」⑤元『週刊プロレス』記者安西伸一の底が丸見えの底なし沼トーク「安西さんはどこでプロレスは真剣勝負ではないと思ったんですか? 」⑥年末年始のイベントを振り返ろう!/大沢ケンジ⑦MMAシーン再編成!? ベラトールCEOスコット・コーカー「榊原信行氏はいろいろとやりたいと言っていた。もちろん協力するよ」先日放送された『水曜日のダウンタウン』でプロレスファンの前にひさしぶりに姿を表した小原道由。現在はサラリーマンとして都内の会社に勤務している小原は、アニマル浜口ジム出身のプロレスラー1号として新日本プロレス入り。橋本真也とのタッグでのWAR殴りこみから、平成維震軍、犬軍団と渡り歩き、藤田和之も一目置くというセメントの強さを買われてPRIDEにも参戦した。90年代の新日本プロレスの波にもまれた選手である。そして、世紀のシュートマッチとなった小川直也vs橋本真也の大乱闘では、新日本側で最も大暴れして凶暴さを見せつけた。新日本最凶と呼ばれた小原はあの試合をどう見ていたのか。そのレスラー人生とともに振り返ってみた。橋本さんと小川の試合を見終わった猪木さんが「おまえら!この眼だよ、この殺気だよ!!これが俺の求めてるプロレスなんだっ!」としゃべりだしたんです――小原さんがリングから遠ざかって5〜6年経ちますよね。
    小原 そうですね。ちゃんと数えたことはないですけど。ハッハッハッハッ!
    ――引退という区切りを付けたということでよろしいんでしょうか。
    小原 よく「引退したの?」「元プロレスラーなの?」とか、いろんな人に聞かれるんですけど。ボクは性格的にヒネくれているので「まだ引退試合をやってないですから」と言い張ってるんです(笑)。いまはもうリングに上がれる体調ではないんですけどね。
    ――リングから離れた理由は腰の怪我なんですよね。
    小原 そうなんですよ。交通事故で痛めてしまって。事故に遭ったのは岐阜のほうに身体の治療に行ってたときなんですけど。そこでは1日に2回、昼と夜に施術するんですけど。昼に診てもらってホテルに戻るときに横から当てられちゃって。助手席に乗ってたんですけど、その車が廃車になるくらいの事故で。
    ――大きな事故だったんですね。
    小原 信号で一時停止してて、こっちが発進したときに横から当てられたんですよね。そこはけっこうな田舎だったんですけど、近くで農作業してた人が「死んだんじゃないか……!?」とビックリしたほどの事故で。そこから腰がダメになりましたよね。
    ――今日は小原さんのプロレスラー人生を振り返りたいんですけど。小原さんはアニマル浜口ジム出身プロレスラー1号として有名ですよね。
    小原 ボクは国士舘大学の柔道部だったんですけど。2年生のときに先輩から「筋トレをやるためにジムに通えよ」と言われて。でも、ボディビルのジムにはあまり行きたくなくて、どうせならプロレス格闘技のジムに行きたかったんですけど、当時はそういうジムがあまりなかったんですよね。で、会長(アニマル浜口)が浅草でジムをやってるというのを何かで読んだことを思い出したんですよ。
    ――国士舘のキャンパスは世田谷区の梅ヶ丘ですよね。そこから浅草って遠くないですか?
    小原 まあ当時は若かったから苦にならなかったですよね。会長のジムはいまの場所に引っ越してだいぶ経つんですけど、ボクが通ってた頃は雷門のすぐそばにあって。いまはプロレスラーや格闘家を養成する場所にもなってますけど、昔は普通のトレーニングジムでしたから。
    ――というと、プロレスラー志望で通ったわけではなかったんですね。
    小原 違いますね。それに大学を卒業したら普通に就職するつもりでしたから。ボクの田舎は長野県の松本なんですけど、長野県警や松本少年刑務所の先生になる話があったんですよね。県警の話は断ったんですけど、少年刑務所の方が上京する用事があるので上野で話し合いの約束をして。で、上野と浅草は近いから、その前にジムで練習してたんですよ。練習が終わって休憩室で水を飲んで休んでいたら、会長(アニマル浜口)が入ってきて「おまえ、将来はどうするんだ?」と突然聞いてきて。そんなこと聞かれたことは一度もなかったのに「おまえには何か夢はないのか?相撲取りになりたいとか芸能人になりたいとか?」と。プロレスという言葉は言わないんですけどね(苦笑)。
    ――プロレス入りを誘ってると思っちゃいますね(笑)。
    小原 ボクも「そういうふうに言われたらプロレスラーになりたいですね」と答えたら「人生は一度しかないから、自分の思うように生きたほうがいいぞ!」と背中を押されて。それで翌日から本格的にプロレスラーになるための練習が始まったんですよ。
    ――それまでプロレスの練習はされたことなかったんですか?
    小原 プロレスのトレーニングは一切やってなかったです。当時ボクの一個上にプロレスラー志望の子がいて、いまニューヨーク(WWE)に行ってるFUNAKI(船木勝一)がジムのトレーナーでプロレスラー志望で入ってきてて。その3人で練習をしてましたね。
    ――それがアニマル浜口ジムの一期生というか。
    小原 狭いジムに体操で使うマットを敷いてグラウンドの練習をやってましたよ。あれが浜口道場の原点。昔は会員さんがいないときに練習してたんですよね。
    ――その頃から京子ちゃんも練習してたんですか?
    小原 ボクがいた頃はまだジムには来てなかったですね。空手やったり、水泳をやってたりして、レスリングで才能が開花しましたけど。
    ――プロレスの練習は柔道と違いましたか?
    小原 いやあ、全然違いますね。柔道でもそれなりの練習をやってきたから自信はあったんですけど。柔道ってスクワットはあまりやらないんですよ。スクワットって数をやると大腿部ではなくて足の裏が一番効くんですよね。もう足の裏が張っちゃって張っちゃって。
    ――スクワットはどれくらいやったんですか?
    小原 最初から1000回くらいやりましたよね。しかも練習はそれだけじゃないですからね。バーベルだってあの頃は3〜4時間平気でやってましたし。
    ――プロレスラーの練習はやっぱりケタ外れですねぇ。
    小原 これはボクが新日本に入ったあとの話で話ですけど。小川がまだ現役柔道家の頃、JRAに所属してたんですよ。そこの柔道の監督がマサ(斎藤)さんや坂口(征二)さんと明治大学時代の同期で。その繋がりから、小川が外国人柔道家に手こずっていたこともあって、パワー対策の一環で新日本の道場に来たことがあるんですよね。
    ――へえー! そんな取り組みがあったんですね。
    小原 その練習にはマサさんや坂口さんも立ち会って。当時ボクはちゃんこ番だったんだけど、小川とは大学は違うけど同期で練習をやったことあるので、馳(浩)さんに「小川の練習に付き合ってやれ」ってことで。道場に行ったら、ちょうどジャンピングスクワットの練習だったんですけど、あの当時の小川はかなり太っていたし、やったことないとジャンピングスクワットなんか無理なんですよね。案の定、数回やったら足にきちゃって小川は倒れこんじゃったんですよね。
    ――世界チャンピオンでも苦しい練習なんですね。
    小原 そのあと裸のスパーリングをボクとやったんですけど、小川の足が笑っちゃってて、世界チャンピオンがボクにブン投げられましたからね。練習後に一緒に風呂に入って「小原、おまえはあんな練習を毎日やってるのか?」「いつもはもっとハードだよ」なんて話をして。また来るなんて話をしてましたけど、二度と来ませんでした(笑)。
    ――次に会ったのは小川さんが新日本入りしたときになるんですね。
    小原 あのときは早朝の道場に小川が自転車で現れたんですよ。「俺、今度新日本に入ることになったから」って。でも、合同練習には来ないし、佐山さんと2人で練習をやってたみたいで道場で会うことはなかったですね。
    ――小川さんのプロレス道場体験は実質なかったというか。
    小原 話を入門前に戻すと、大学4年の11月に新日本の入門テストがあったんですけど。ボクは10月の終わりから11月の中旬まで教員免許を取るために教育実習に行ってたんですよ。教育実習終了の2日後にテストがあったんですけど、向こうに行っちゃったら自分のトレーニングなんかやってる暇はなくて。昼間は授業、夜は柔道の実習をやらなきゃいけないし。で、教育実習から帰ってきてジムに顔を出したら、会長が「帰ってきたか!よし、スクワットやるぞ!!!!!」といきなりスクワットやりだして。「えっ、こんな状態でテストを受けるのかよ」って(笑)。
    ――浜口さんって当時からあのテンションなんですよね。
    小原 基本的にはテレビに出ているときと変わりはないですね。凄いなって思うのは家族でどこかに食事に行きますよね。いまだったら京子ちゃんも有名なので「サインしてください」とか頼まれるじゃないですか。そういうときの会長は「いま食事してるので……」とか絶対に断らない。どんどんサインを書くんです。
    ――凄いなあ(笑)。
    小原 会長が握手をしたり、写真を撮ってる横で食事をするみたいな。あと外を歩いてるときでも「気合いを入れてください!」って頼まれたら「気合だあ!!!!」って突然叫んで街行く人がビックリしたり(笑)。
    ――浜口さんの昔を知らないファンからすると、テレビでは過剰に演じると思われがちですけど、そこは変わりないんですねぇ。
    小原 ボクが新日本をやめたときも挨拶に行ったんですよ。2人で『かすみ』でいろいろと話をしてたんですけど。
    ――浜口さんの奥さんがやられていた小料理屋ですね。
    小原 そのとき会長が「俺はいま笑いビクスの特許申請してるんだよ!」と言い出して。いきなり「ワッハッハッハッハッハッ!」って大声で笑い出したんですよ。笑いビクスはいまではテレビとかでも披露してるから認知されてますけど、当時は誰も知らないじゃないですか。ビックリして唖然として見ていたら「馬鹿野郎!おまえも一緒に笑うんだよ!」って怒鳴られて(笑)。
    ――ハハハハハハ!
    小原 一緒に「ワッハッハッハッハッハッ!」って大声で笑ってたら、奥さんが2階から降りてきて「うるさい!近所迷惑でしょ!」ってえらい怒られましたね(笑)。
    ――「笑いビクス」は奥さんに認められてなかった、と(笑)。テストは合格されたんですよね?
    小原 合格しました。テスト内容はスクワット、腕立て、スパーリングもあったかなあ。一般的な基礎体力テストですよね。そのあと当時のテレビ朝日にあった新日本の事務所で面接があって。面接官は倍賞(鉄夫)さんと山本小鉄さんだったと思うんですけど。あの頃、小鉄さんが新日本プロレス学校というのをやってたんじゃないですか。
    ――金原(弘光)さんや池田大輔さんが通われてたんですよね。
    小原 大学を卒業するまでそこで練習してくれと言われたから、浜口ジムで練習したあと夕方に行ったんですよね。初めて行ったときは巡業中で選手は誰もいなくて、プロレス学校の会員数人と、あとマサさんがいたんですよ。マサさんから「一緒に練習をやるぞ!」と声をかけられたてトレーニングしたんですけど。卒業式の翌日に道場に行ったらマサさんから「おまえは俺の付き人だから」と言われて。
    ――マサさんの付き人だったんですね。
    小原 マサさんはあんまりガミガミ言わないし、外人係で本隊のボクとはホテルとバスも別々だから、付き人としてはそこまで大変じゃなかったんですよね。
    ――張り付かない付き人だったわけですね(笑)。
    小原 マサさんにはよくしてもらいましたよね。道場に「おまえ、いまから飲みに来い!」と突然連絡があって。行ったら「ウイスキーをストレート、ビールをチェイサーで飲め!」と。「これがテキサススタイルだっ!」ってマサさんは言うんですけど、ホントかよって(笑)。
    ――マサさんと最後に会ったのはいつですか?
    小原 マサさんが佐々木(健介)さんのところのアドバイザーをやってる頃、たまたま町中で会ったことがあって。俺のことをじっと見てるサングラスの奴がいるなあと思って通り過ぎたらマサさんで。「なんだマサさんじゃないですか!」「ゴツイ奴がいるなあと思ったら小原かよ!」なんて話をしましたね。そんときは杖を突いてましたけど。
    ――いまはリハビリ生活を送ってるそうですね。新弟子時代の生活は厳しかったですか?
    小原 そうでもなかったですよ。
    ――地獄の新日本道場と言われているのに(笑)。
    小原 学生時代と違ってメシはうまいものが食えるし、あと練習して金をもらえるという言い方はへんですけど、練習生でも当時は月4万円はもらえたんですよ。ボクはデビューが早くて6月の終わりにはデビューしたんですけど。当時は年間契約だから本当は途中で給料は上がらないんですけど、長州さんの計らいで10何万にしてもらって。衣食住は保証されてるし、お金には困ったことはないですよ、地方巡業が終わると選手から洗濯代をもらえましたし。
    ――洗濯代といいますと?
    小原 巡業のあいだ、先輩選手の洗濯番をやるんですけど、最後にまとまったお金をくれるんですよね。額は人によって違うんですけど、橋本さん、武藤さん、蝶野さん、佐々木さん、馳さんの洗濯番をやってたから合計で30万くらいもらえて。だから金に困らないですよね。
    ――小原さんの話だけ聞くと天国ですね。みんな新弟子時代は地獄だと言いますけど(笑)。
    小原 「大変だ」と思うから大変なんですよね。ボクはもっと比べ物にならない体験を大学時代にしてるので。ただ、ボクが入門した頃、橋本さんが「俺たちは大人の世界だから、後輩をイジメることはしない!」と言うんですけど、あとになって首を傾げることばかりで(苦笑)。
    ――ハハハハハハ! ドを過ぎたイタズラといえば橋本さんですよね(笑)。
    小原 あの人はとにかく枠にハマらない人物というか。昔の新日本合宿所の玄関に大きなマスが置いてあったんですよ。節分のときに豆を入れるマス。そこに500円玉が山積みにしてあったんですけど、50万円分くらいの札束が無造作に置いてあるときもあって。
    ――なんなんですか、それは(笑)。
    小原 「なんだろう、この札束は……?」ってビックリしていたら、どうも橋本さんの金らしくて(笑)。
    ――無防備過ぎるし、意味がわからないですよ(笑)。
    小原 橋本さんが道場にいないときに、長州さんが「そこの小銭でジュースを買ってこい!」とか新弟子に買わせるもんだから、お金がどんどん減っていくんですよね。そのうち橋本さんが「誰だ、俺の金を使ってるのは!」って怒りだして(笑)。
    ――橋本さんは道場に遊びに来てる感じだったんですよね。
    小原 そうですよね。大阪府立で興行があったときに、会場の近くに空気銃専門店があったんですけど、試合前に一緒に空気銃を買いに行きましたから。10何万したのかな。
    ――橋本さんが道場で誰かれ構わず撃ちまくったという伝説の空気銃ですか!
    小原 そうそう。大阪から発送して道場に届いたらさっそく開封して、喜び勇んで道場の外に出て、カラスやスズメを撃ちだして。しまいには隣のアパートの親父を撃ってましたから(笑)。
    ――ハハハハハハ! 危ないですよ!
    小原 昔から橋本さんとその親父は仲がよくなかったんですよ。空気銃で撃ったら怒っちゃって怒っちゃって(笑)。
    ――あたりまえです(笑)。
    小原 その親父は新日本が正月に餅つきを突くときに、そのスペースとして駐車場を貸してくれてたんですけど、そんなことがあったから「新日本には駐車場を貸さない!」と言い出して。ミスター高橋さんが謝りに行ってなんとか収めたんですけどね。橋本さんは撃ち落としたスズメを焼いて山本(天山)に無理矢理食わせたんですけど(笑)。
    ――出た、天山さんのスズメ食いエピソード!
    作/アカツキ小原 アイツは馬鹿だから何匹もスズメを食ってるですよ。だから脅かしたんですよね。「馬鹿だな。虫が身体に湧いちゃうぞ!」「えっ、どうしたらいいですか??」「目黒寄生虫館に相談したほうがいいぞ」と言ったら、山本は本当に電話しちゃって。「すいません、私、スズメを食べてしまったんですけど、身体に虫は湧きますかね?」「……病院に行ってください」という馬鹿なやりとりをしてましたね(笑)。
    ――目黒寄生虫館への電話は小原さんがそそのかしたんですか(笑)。
    小原 あの頃は橋本さんと山本の3人いることが多くて、とんでもないことばっかやってましたね。あるとき橋本さんが穴が開いたブロックを長い棒に突っ込んで持ってきたんですよ。それで「いまから山本がパンチで割るから!」と言い出して。でも、棒でぶら下げてるだけだし、固定されてないから割れるわけがないんですよ。でも、山本はホントに割っちゃって。
    ――凄い!
    小原 でも、山本の手が見る見るうちに腫れちゃって、案の定骨折。翌日から開幕戦なのに欠場することになって、長州さんと馳さんからメチャクチャ怒られて罰としてスクワット3000回ですよ。一方の橋本さんはおとがめなし(笑)。
    ――ハハハハハハ!
    小原 3人のネタはいっぱいありますよね。橋本さんは寝るものと食うものには金を惜しまない人で。枕は凄い高いものを買ってきたし、米も魚沼産の凄い高いものを取り寄せてて。それで橋本さんはチャンコを食べないんですよね。自分で何かを作って食べるんですよ。
    ――原価1万円の「真ちゃんラーメン」が有名ですよね(笑)。
    小原 橋本さんがラーメンを作ったから「山本!レンゲを取ってくれ」って言ったら、山本は台所じゃなくて、物置きに探しに行ってしばらくしてから「橋本さん、すいません。れんげ草はありませんでした!!」って(笑)。
    ――天山さんは天然なんですかね(笑)。
    小原 彼はホントはボクとは同期だったんですけどね。
    ――天山さんは一度、夜逃げしてるんですよね。
    小原 そうなんですよ。ボクは3月に入門したんですけど、山本は12月か1月に入って1回やめちゃったです。でも、山本のお父さんと新日本がお世話になってる名古屋のプロモーターの方の仲が良くて。そのプロモーターから木村健悟さんにあらためて話があって、また道場に戻ってくることができたんですよね。じゃなかったら、夜逃げしてるのにまた入門なんてありないですよ。
    ――そういえばそうですね。
    小原 戻ってきた山本は道場にひとりで突っ立ってるんですよ。しかも4時間くらい突っ立てるんですよね。周囲は「何しに戻ってきた」みたいな雰囲気で誰も声をかけないんですけど。だったら何か自分から言えばいいのにずっと立っていて。
    ――やっぱり新日本道場は厳しかったということですかね。
    小原 うーん、でも、アマチュアではないんだし。プロレスラーは選ばれし者というか、当時はなかなかなれない職業でしたからね。厳しくてあたりまえだと思うんですけどね。
    ――石澤(常光)さんはのちに全日本やIGFとか他団体の道場でコーチをしてましたけど、とにかく指導が厳しいという話は伝わってきますね。
    小原 ボクもそうですけど、石澤はアマチュアでキッチリやってきたからあたりまえのことだと思うんですけどね。ましてやプロでしょ。それで飯を食ってるから厳しいと思うのがおかしいと思うんですよね。だったら普通に働いたほうがいいんじゃないのって。小学生のクラブじゃないんだから。
    ――厳しくてあたりまえがプロの世界。
    小原 石澤も「厳しい」と言われてクエスチョンマークがついたと思いますよ。高校時代からやってきたことを教えてるだけだし、そこまで厳しくもないと思うんですよ。アイツがいた光星学院のレスリング部は練習が厳しくて有名でしたからね。ランニングのときは、スクターに乗った先生がろうそくを持って追いかけてくるらしいですもんね、「もっと早く走れ!」って。綱登りするときなんて、一番上まで上がったら、体育館天井の鉄骨に飛び乗って懸垂をやって、それでまたロープに飛び乗って降りてくるみたいですから。
    ――一歩間違えたら大怪我ですね……。
    小原 アマチュアの世界は上下関係含めて凄く厳しいんですよね。そこから来た人間と、プロレスファンとして入った人間ではだいぶ違うんじゃないですかね。大学までアマチュアできっちりやってきた人間は「練習が厳しい」なんてことは言わないですから。
    ――小原さんはセメントでも強かったと聞きますね。
    小原 みんな弱いってことですよ。アッハッハッハ! 
  • 「元気が出るテレビ」から「ガチンコファイトクラブ」まで……ジャパニーズリアリティーショー発見伝■MMAオレンジ色の手帖

    2015-01-27 09:16  
    54pt
    格闘技ブログ「MMA THE ORANGE」の管理人オレンジがディープなエピソードをお届けする「MMAオレンジ色の手帖」! 日本版TUF構想が行方不明気味な今日この頃、今回は日本のリアリティーショーを振り返ってみました。酒井正和氏が代表に就任以来、新たな取り組みを連発しているパンクラス。テレビ東京で17年振りの地上波放送再開にこぎ着けたかと思えば、返す刀でUFCと提携してUFCファイトパスでパンクラスの試合映像を全世界に向けて配信するなどビッグニュースで賑わっています。そんな大きな話題の中、新たに発表されたのが一風変わった仕掛け。カナダのペイTV「スーパーチャンネル」で放送予定の「ファイト エクスチェンジ(格闘技交換留学)」という番組の企画でカナダから4選手が来日。日本のジムで練習を行い、パンクラスで試合を行うというものです。不慣れな日本の環境の中でカナダ人選手がどんな生活を送るのか興味津々。生まれて初めての銭湯を前に戸惑ったり、ジムの雰囲気に馴染めずジム生と乱闘騒ぎを起こしたり、乱闘の末に友情が芽生えて帰国の際には涙の抱擁…ちょっと想像しただけでも見たくて仕方ありません。しかも、カナダ人選手は17歳のイケメンファイターや元プロボクシングチャンピオンの女子選手、さらには元カレッジバスケットボールオールスター選抜選手と、実に話題性豊かな人選。格闘家に転身した逸話やバックボーンも深堀しやすいし、ドキュメンタリー番組としても面白いものになるのではないでしょうか。今回の件をきっかけに、にわかに脚光を浴びる可能性が出てきた格闘技のリアリティーショー。昨年もUFCが日本版TUFを行う構想を発表しているだけに、ひょっとすると2015年日本格闘技界のトレンドになるかもしれません。そこで今回のMMAオレンジ色の手帖は日本のリアリティーショーをクローズアップ。世界チャンピオンを輩出した懐かしの超人気バラエティー番組から、深夜にひっそりと放送されていたMMAのドキュメンタリー番組をオレンジ流に紹介していきたいと思います。題して「ジャパニーズリアリティーショー発見伝」。今宵もよろしくお願いします。そもそもリアリティーショー(リアリティー番組)とは何なのか。一般的には素人の出演者が台本や演出なしで撮影に臨み、直面するトラブルやハプニングをドキュメンタリーやドラマ、バラエティー風に製作したテレビ番組の1ジャンルを指します。当然ながら格闘技に限ったものではなく、日本では「ねるとん紅鯨団」や「あいのり」のような恋愛をテーマにしたものや、「愛の貧乏脱出大作戦」や「マネーの虎」のような人生出直し系の番組が多く見受けられます。http://youtu.be/UMslhLkloGgそんな中、あの国民的人気番組の1コーナーで格闘技を題材にしたリアリティーショーが人気を博していた事を覚えているでしょうか。それはオールドファンにはおなじみの「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「ボクシング予備校」です。元々、素人を起用したリアリティーショーに定評があった同番組。「ダンス甲子園」でストリートダンスブームを巻き起こし、今や参議院議員にまで昇り詰めた山本太郎(メロリンキューの持ちネタで一世を風靡)を輩出する等、後の有名人を数多く産み出しました。今思うと、早朝ヘビメタ等のヘビメタ企画にはデビュー間もないX JAPANが出ていたり、ジャニーズ予備校には後にV6の一員となる岡田准一が出ていたというのが恐ろしい。本人たちにとっては蒸し返されたくない事でしょう…。そっとしておきます。http://youtu.be/ftIDia0WpIMその流れで始まったのがボクシング予備校。ボクシング好きな一般応募者が元世界王者から指導を受けてプロを目指す様子を追いかけた企画です。多数の参加者の中から頭角を現してきたのがイケメンで努力家の飯田覚士とボクシング一家で天才肌の松島二郎。2人のライバル関係は回を追う毎に鮮明になり、視聴者は飯田派・松島派に二分されます。ちなみに私の学校では女子を中心に飯田派が圧倒的でしたが、当時からイケメンコンプレックスの私は朴訥フェイスの松島を断然支持していました。http://youtu.be/ePSVnFwI4hs番組内でメキメキと実力を伸ばした2人は見事プロテストに合格。普通であればこれだけでも十分な快挙ですが、この企画の神がかり的なところはこの後に起こった奇跡のストーリー。2人は勝ち星を重ね、なんと全日本新人王決定戦の決勝戦で激突することに。なんというドラマチックな展開。このときは飯田が判定で勝利しましたが、2人の因縁はまだ終わりません。2年後の日本スーパーフライ級王座決定戦で再び対戦すると、ここでも飯田が返り討ちのTKO勝利を収めます。飯田はさらに勢いを加速させ、1997年にはヨックタイ・シスオーを下してWBA世界スーパーフライ級王者に輝きました。事実は小説よりも奇なりとよく言ったもの。テレビの企画から2人の実力派ライバルが生まれ、新人王を争いながら切磋琢磨して、世界王者に輝く…筋書があってもこううまくはいきません。その一部始終が20%近い視聴率を誇るテレビ番組で放送されたとなれば国民的人気が出ないわけがないでしょう。まさしくリアリティーショーの出来すぎたお手本です。そのお手本を参考にしたかどうかはわかりませんが、約10年の時を超えて誕生したのがTBSで放送された「ガチンコ」の名物企画「ガチンコファイトクラブ」。 
  • 佐藤嘉洋「判定問題のせいで闇に葬り去られていますけど、魔裟斗戦はMAX史上最高の盛り上がりだったと思います」

    2015-01-25 20:34  
    108pt
    「そこでKrushに出ることで、あのとき全日本キックを裏切った価値があるんじゃないかなって」全日本キック、K-1MAX、Krushとゼロゼロ年代の立ち技シーンの最前線で戦い続けてきた佐藤嘉洋ロングインタビュー。「日本人最後の大物」と呼ばれたキックボクサーが味わった“テレビ格闘技”の現実とは――!?  小原道由の壮絶狂犬インタビューほか、田中ケロちゃん、安西グレイシー、ブルーザー・ブロディ物語記事も読める1月度更新コンテンツはコチラ!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯試し読み可能! 非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! par11は大好評インタビュー7本、8万字が540円!!  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar697901①【ヤマヨシかく語りき】山本宜久17000字「ヒクソンと戦ってるとき放送禁止用語が聞こえてきたんです……」「高田さんとの最後の会話はいまでも忘れられないですね……」②小佐野景浩の「プロレス歴史発見」ジャンボ鶴田編「馬場さんの信頼を失い全日社長の座が消えたジャンボは怪物になったんです」③K−1のビッグマウス、魂の叫び! 木村“フィリップ”ミノル「いまの格闘技界はお客さんの目線を気にしすぎです。クソですよ!」④【総合格闘技が生まれた時代シリーズ】ターザン山本「佐山サトル、前田日明、船木誠勝、石井館長がプロ格という怪物を作ったんですよ!」⑤サブミッションアーツレスリグとは何か? 「強い奴はだいたい友達」麻生秀孝は格闘技界のゴッドファーザーだった!!⑥地下格闘技の英雄が語る“チカカク”の恐るべし実態――渋谷莉孔「覆面を被って1vs2で戦ったこともありますよ」 ⑦「プロレス桃源郷へのいざない」小泉悦次さん■アナタはなぜブログを更新するのか②昭和のクラシックプロレスを追求するプロレス考古学ブロガーのプロレス観とは?◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯■そのほかの「インタビュー詰め合わせセット」シリーズはコチラhttp://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar697993――佐藤選手って「地味」と言われがちですけど、試合で手数は多いし、リング外のニュースも多かったりするしで、そこまで地味だとは思わないんですよね。
    佐藤 それは谷川(貞治)さんのせいじゃないですかね。2005年に初めてK-1MAXに出たとき、解説の谷川さんから「佐藤選手は地味なんですよね~」と言われ続けたので(苦笑)。
    ――これはもうプールに蹴り落とすしかないですね(巌流島イズム)。
    佐藤 人間って一番最初のイメージの刷り込みが覆させられないと言われますよね。まあ21歳の頃からイタリアでも「いぶし銀」と言われてたんですけど(笑)。
    ――「地味」と「いぶし銀」のあいだには深い溝がありますけど(笑)。
    佐藤 よく「華がない」と言いますけど、「じゃあ華ってなんだ?」って話ではありますね。自分の場合、日焼けしてヒゲを生やしたら「オーラが出た!」とか言われたりしましたからね。「オーラってそんなもんで出るんだ!?」って(笑)。石井館長からは「日焼けをしなさい」と言われていたんですけど。
    ――そんな館長アドバイスがあったんですね。たしかに長州力のサイパン合宿は見栄えを良くするための日焼け目的だったりしますね。
    佐藤 いちおうハダカの職業なので見栄えを良くするのはわかるんですけど。でも、みんながみんな黒いのはどうなのかなって(笑)。
    ――魔裟斗さんの登場以降、日焼けして短髪で下の名前だけをリングネームにする立ち技の選手が増えましたね。
    佐藤 なんかの会見のときに魔裟斗さんとコヒさん(小比類巻貴之)がいて2人とも黒いじゃないですか。それまで肌が白かったボクも黒くしたからオセロでひっくり返ったみたいになりましたね(笑)。
    ――佐藤選手はキックボクシングを徹底してやったあとにK-1に参戦して“興行と競技”の波に揉まれたイメージが強いですね。
    佐藤 そうですね。魔裟斗さんとコヒさんは別格として、ほかの選手は世界と戦う前にK-1に上がったじゃないですか。ボクの場合は世界で戦ったあとにK-1に行ったから珍しいパターンではありますね。「日本最後の大物」というキャッチフレーズでK-1に参戦しましたけど、そういった評価は嬉しかったですよ。
    ――佐藤選手がキックボクサーになったのはどういうきっかけなんですか?
    佐藤 ボク、プロレスが好きだったんですよ。小学生の頃、テレビで金曜日に全日本、土曜日に新日本、日曜日にWWEがやってて毎週見てたんですけど。そこでプロレスの知識が止まってるんですよね。蝶野(正洋)がエゴイスト集団になったときくらいまでですかね。
    ――というと、90年代中期くらいですね。
    佐藤 それとボクシングが好きで勇利アルバチャコフのファンだったんです。小学生の頃、勇利と同じ髪型にしてたくらいですから(笑)。
    ――ハハハハハハ!
    佐藤 ただの角刈りですけどね(笑)。で、中学2年のときにキックボクシングを始めてから、プロレスは見なくなって。
    ――キックはどういう理由で始めたんですか?
    佐藤 畑中清詞が名古屋でボクシングジムを出すということで友達と一緒に通う話をしてたんですけど。ジムができる前にそいつと殴り合いのケンカをしちゃってボコボコにされたんですよね(笑)。で、「コイツと一緒のことをやっとったら強くなれない」と思って、キックボクシングジムの名古屋JKファクトリーに入ったんです。「奴がボクシングで手だけなら、こっちは足も使うキックだ!」という感じで。
    ――なるほど。とくにキックに憧れたわけじゃなかったんですね(笑)。
    佐藤 全然違います(笑)。ジムも家の近所にあったし、たまたまの巡り合せなんですよね。そこでプロの選手が指導していることも知らなかったですし。行ってみたら小森会長の人柄や、先輩たちの凄さを知ってキックにハマっていった感じで。「こんな世界があるのか!?」と。
    ――学校が終わったら毎日通う感じですか?
    佐藤 いや、中学の頃はあんまり真面目には通ってなくて週1~2回ですね(苦笑)。キックをやってるとカッコつけたかっただけで、そこまで「強くなりたい」とは鬼気迫ってなかったんです。だんだんハマっていった感じですね。で、高2でグローブ空手の全国大会で優勝したんです。
    ――あら。センスあったんですね。
    佐藤 そうなんですよ!(笑)。その大会はオープンなんで大人も参加してたんですよ。そんな中で優勝したから『格闘技通信』に「おそるべき16歳」という記事が載りましたから。嬉しかったですよね。学校中で話題になりましたし、翌年も優勝して連覇して。
    ――エリートじゃないですか!
    佐藤 だから地味地味と言われてますけど、じつはスーパールーキーなんですよ。鮮烈な記録も作ってるんです。この記事でボクのイメージを払拭してくださいよ(笑)。
    ――ハハハハハハ。
    佐藤 強くなれたのはもちろん小森会長の指導のおかげでもありますし、佐藤孝也さんや鈴木秀明さんといった偉大な先輩がいたからで。先輩たちをとにかく必死に追いかけていけばいいんだなって。
    ――高校当時は将来はどう考えてました?
    佐藤 もう最初からキック一本で行くと決めてましたね。
    ――デビュー当初からキックで食べていくと。
    佐藤 18~19歳のときに団体内で問題が起きて、ジムの会長、選手全員で話し合いをしたことがあったんですよ。ウチの会長から「いまの現状ならキックだけで生活していくことはできない。暮らしていくことを考えたら別の道に行ったほうがいい」と言われたんですね。ボクはキックで暮らしていくつもりだったから「食べていける可能性はゼロパーセントなんですか?」って聞いたら「ゼロではない」と。だったらキック一本でやっていこうと。
    ――そこは自信もあったんでしょうね。
    佐藤 なんとなく自信はあったんですよね。周りの同期たちはその会議に関しては後ろ向きで「これからどうしよう……?」という感じでしたけど。
    ――MMAもそうなんですけど、キックボクシングも基本的に何かで働きながら……という選手が多いわけですよね。
    佐藤 そうですね。いまでもキックだけで暮らしてるのは10人もいないんじゃないですかね。だから当時はすべてを利用してやろうと思いました。親もある意味で利用したし、支援してくれる方にも甘えましたし。結婚するまで実家を出ませんでしたから。
    ――実家だと一人暮らしと比べて、家賃も食費も節約できますね。
    佐藤 最高の練習環境を作りたかったんですよ。一人暮らしだと炊事洗濯は大変になるし、自分でちゃんとやってる選手もいますけど、ボクはその時間を使ってもっと練習に打ち込みたかったんです。嫁さんが出産で実家に帰ってるときにはひとりでやりましたけど、大変な作業ですよねぇ。これをひとりでやっていくとなると、とっくに引退していたかもしれない(笑)。
    ――ハハハハハハ! しかし、よく親御さんはキック生活を認めてくれましたね。
    佐藤 親も自分の可能性に賭けていてくれたところはあったんですよね。あと子供がここまでハマるものがあると思わなかったし、小森会長や先輩の人柄を知っていたので、このジムにいれば人間的にも成長するだろう、と。
    ――あの当時キック一本で暮らしてる選手はいたんですか?
    佐藤 先輩の鈴木さんや佐藤さんはスポンサーが付いるときは一本でやってましたね。
    ――やっぱりスポンサーは重要なんですね。
    佐藤 スポンサーはなくてはならないですし、感謝しかないですよね。スポンサーの方から言わせると「お金があっても得られないものを格闘家は見せてくる」と言うんですけど、ボクはいつももらってるばかりで申しわけない気持ちが強くて。
    ――戦っている姿を見せるしかないですよね。そうなると、人付き合いも重要になってくるんじゃないですか。
    佐藤 そこはスポンサーとか関係なく、あんまり自分の価値観を他人には押し付けないようには心がけてるんですけど。「ボクはこういう考えなんですけど、あなたはそうなんですね」という感じのスタンスで。やっぱり人間関係のトラブルは回避したいので。
    ――いまはSNSで誰でも発言ができるから、“議論チンピラ”みたいな人が増えてますし。
    佐藤 最近はすぐに「論破」とか言うじゃないですか。論破なんて自分の気が晴れるだけで誰も救われないですよ。
    ――論破という言葉も変質してますよね。一方的な勝利宣言になったり。
    佐藤 有名人に一方的に議論を仕掛ける一般人もいますからねぇ。無視すると「論破!」って(笑)。ボクは他人と話をするのは好きなんです。自分とは違う考えを知りたいというか。それで自分の考えが否定されて嫌な気持ちになるときもあるけど、それはそれで勉強にはなります。
    ――話を戻しますが、佐藤選手は海外を主戦場にしていきますね。
    佐藤 海外に出始めたきっかけは、内田康弘さんが当時の全日本のチャンピオンだったんですけど。その内田さんをKOしたオランダ人に勝ったんですよ。それでヨーロッパでボクの評価が上がって、日本を飛び越えてドイツでタイトルマッチをやることになって。そこで運良く勝っちゃったんですよ。一昨年にヨーロッパで試合をしたときもキック関係者から「あのドイツの試合を見てたよ」と言われて嬉しかったですね。
    ――21歳で海外を戦い歩くっていい経験になりますね。
    佐藤 いやあ、ホントにいい経験ですよ。ドイツの試合のときはメッチャ寂しかったですよ。田んぼの真ん中にあるようなところにホテルがあって。当時付き合っていた彼女がドイツに行く前に手紙をくれて。あんなにホームシックになるとは思ってなくて、その手紙を何度も何度も読み返しましたね(苦笑)。
    ――国外で戦うとナショナリズムが湧いてくるといいますね。
    佐藤 ああ、そうですね。それまで君が代は好きじゃなかったんですけど、異国の地で聞くと、身体中の血が奮い立ちますよね。ああ、やっぱりボクは日本人なんだなあ……って。
    ――ドイツ以外の国でも戦われたんですよね。
    佐藤 そのあとオランダ、イタリア、またオランダ、イタリア、タイ、もう1回タイに行ってイタリア……それでK-1です。K-1以降も含めてイタリアには5回行ってますね。
    ――イタリアの格闘技事情ってどのようなものなんですか? かつては新日本プロレスもイタリアで人気があったりしたそうですけど。
    佐藤 6000人は入ってましたかねぇ。日本と違って基準が甘いのか、地方のローカルテレビ局でもキックの番組が流れていたみたいで。だから試合翌日に街を歩くと声をかけてもらいましたよ。やたらイタリア人からFacebookに友だち申請のメッセージが入ったり。試合はクソ判定でボクが負けたので「おまえが勝ったよ!」とかメッセージがいっぱい来て(笑)。
    ――けっこう熱いファンが多いんですね。
    佐藤 あとイタリアの特徴をいえば、どこに行ってもメシはうまかったですね。どんな田舎の店に入っても石窯があるんでピザは安くてうまくて。イタリアってスタバがないんですよ。カプチーノが200円で飲めるから。
    ――オランダはやっぱり危険なイメージそのままですか?(笑)。
    佐藤 オランダはメシがマズイですねぇ。かなりイカれた国でマリファナも売春も合法ですし、住んだら廃人になるんじゃないかなって(笑)。
    ――間違いないです!(笑)。そういった海外経験を経てK-1MAXに参戦することになるわけですね。
    佐藤 そう、それでK-1に出る前に、一回絶望するわけです、ボクは。キックの世界では完全にトップになって、ルンピニースタジアムのチャンピオンまで倒して、世界の誰もが認める選手になったんですよ。そこまで実績を積み上げたのに、キック一本でやっていく道が閉ざされた感じがしたんですよね。「ここまで勝ち続けて、こんだけか……?」と。☆このインタビューの続きと、小原道由ロングインタビュー、田中ケロなど7本のインタビューが読める「お得な詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar719107 
  • お気に入りの技は「TKシザーズ」■二階堂綾乃のオールラウンダーAYANO⑱

    2015-01-23 22:00  
    54pt
    新日本プロレスの選手イラストを描いてキャッキャしていたプオタ女子・二階堂綾乃がいつのまにかMMAジムに通いだし、試合出場を目論む模様をイラストレポートすることになった当コーナー。ある日柔術の授業でスパーをしていると
    「うおおぉぉぉぉい!!お前ら力に頼りすぎwww もっと勉強しろ!!!!」
    と、私と、とあるマッチョ君(好物はすっきりりんご味のプロテイン)は先生に叱られてしまった。
    私はこの日、スパーの相手が女性とはいえ色帯なこともあり、技術で勝てないのはわかっているので力任せにオラオラしていた。しかもこの日はゴールドジムの体験に行きばっちりパンプアップし、キックボクシングの先生にミットを持ってもらってミットをバンバン殴り散らかしたあとの柔術だったのでなおさら力任せになっていたのだ。 
  • コナー・マクレガー、アメリカでも人気爆発!■MMA Unleashed

    2015-01-23 09:51  
    54pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回のテーマは、アイルランドの英雄がアメリカでもブレイク! UFC王座挑戦も決定した時の人コナー・マクレガー!

    米国時間で1月18日(日)の夜に放送された「UFC Fight Night: McGregor vs. Siver」大会は、おりからのコナー・マクレガー人気によって、化け物的な高視聴率をたたき出した。メインカードの平均視聴者数275万人、メインイベントの瞬間最高316万人は、Fox Sports 1チャンネル開局以来の新記録樹立である。これまでの同チャンネルの最高視聴者数は、FOX系列でのUFC初放送となった2013年8月17日の「チェール・ソネン vs マウリシオ・ショーグン」大会の平均178万人、瞬間最高227万人だった。なおUFCの視聴者数の最高記録は、2009年12月5日、まだUFCがSpike TVで放送されていた頃のTUF Finale大会、「キンボ・スライス vs アレクサンダー・ヒューストン」の370万人である。
    アメリカでは先週末、NFLのプレイオフが開催され、大きな注目を集めていた。このようなタイミングでUFC中継を行うことは、スポーツ報道での注目度をかき消されてしまったり、視聴率を奪い取られる可能性もあった。しかしFOXでは、4,900万人が視聴したというフットボール中継の中でちゃかりとマクレガーをプロモーション、このことが奏功してか、メインイベントの開始は日曜深夜(月曜早朝0時)を過ぎていたにもかかわらず、この記録的な視聴率の達成となった。
     
  • 年末年始格闘技イベントを振り返ろう■大沢ケンジ

    2015-01-22 08:36  
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    和術彗舟會HEARTS総帥・大沢ケンジの格闘技解説コーナー。今回は年末年始の格闘技イベント雑感です!小原道由の壮絶狂犬インタビューほか、田中ケロちゃん、安西グレイシー、ブルーザー・ブロディ物語記事も読める1月更新コンテンツはコチラ!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga――大沢さん! 今回は年末年始のイベントを振り返っていただきます!
    大沢 いやあ、年末年始のイベントはどれも面白かったですよね。新日本プロレスの東京ドーム大会も凄かったじゃないですか。
    ――あ、イッテンヨンまでチェックしましたか(笑)。

    大沢 とくに中邑(真輔)くんは凄かったですよねぇ。中邑くんとは彼が慧舟會に通ってる頃に知り合ったんですけど、ずっとプロレスはチェックしてるわけじゃなくて。いつの間にあんなふうになったんですかね?(笑)。
    ――ここ4〜5年の覚醒ぶりは凄いですよね。あのクネクネのきっかけは雀鬼・桜井章一の脱力法らしいですけど(笑)。
    大沢 中邑くんがプロレスがすっごい好きなのは話をしてるとわかるんですよ。でも、言い方は悪くなっちゃいますけど、昔の中邑くんの試合自体はそこまでうまくないというか、それがあまり表現できてなかったような気がするんですよね。
    ――LLPWもチェックするほどのプロレス好きなのにデビュー当初はプロ格寄りのスタイルを求められてましたね。
    大沢 それがいまや完全にお客さんを持っていきますよねぇ。ホント自分の見せ方をわかってるというか。中邑くんの話で言えば、前にジャンさんが中邑くんのツイッターのことを言ってじゃないですか。
    ――意識高い系や共感されそうなこと、自分の思いなどは徹底してつぶやかないというやつですね。思考系タイプのはずなのに感情を出さないツイッタースタイルで。
    大沢 昔はツイッターでも多少のやりとりがあったんですよ。こないだ慧舟會時代の仲間と中邑くんの試合の感想を言っていたら、いきなり「ありがとう」だけリプライが飛んできて。それだけかよ!?(笑)。
    ――感情を一切見せずに必要最低限しか喋らないゴルゴ13化してますね(笑)。それでだいぶ前になっちゃいますけど、佐々木憂流迦選手のUFC第2戦は残念ながら一本で負けてしまいました。
    大沢 憂流迦本人はインタビューとかで「ゾーンに入る」という言い方をしてましたけど、そのゾーンに入りきれなくて魔法が解けてしまったなあという感じの試合ですよね。憂流迦は昨年9月に地元の静岡から上京してるんですけど、最初はウチに拠点を置いて練習するという話だったんですよ。でも、9月に上京してから1回しか来なかったんです。ほかで練習してる噂も聞かない。
    ――もしかしてケガでもしていたんですか?☆このインタビューの続きと、小原道由ロングインタビュー、田中ケロなど7本のインタビューが読める「お得な詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar719107 
  • デタラメカンフー映画『アイアン・フィスト』■高橋ターヤンのバトル映画地獄編⑫

    2015-01-19 08:36  
    54pt
    映画ライターで北米MMA事情通の高橋ターヤンがプロレス格闘技関連の映画を紹介するコーナー。今回取り上げる作品はクエンティン・タランティーノがバックアップ! UFCファイターのカン・リーが出演するカンフー映画『アイアン・フィスト』!デタラメだけどそれがいい、カン・リー出演のカンフー映画『アイアン・フィスト』<a href=
    最近のUFC関連の大きなトピックとして、UFCへの集団訴訟というのがあったのは覚えておいでだろう。その訴訟の原告団でネイト・クォーリー、ジョン・フィッチらとともに、唯一現役のUFC契約選手として名を連ねたのがカン・リーだ。
    カン・リーはベトナムのホーチミン市出身の42歳。1975年、ベトナム戦争でアメリカ軍と南ベトナム軍が敗北し、首都サイゴン(現ホーチミン市)が陥落する3日前にCIAの通訳をしていた母の家族のコネクションで米軍のヘリコプターでフィリピンに脱出することに成功。後にアメリカ国籍を取得し、カリフォルニア州サンノゼへと移住した。ちなみにサンノゼはベトナム戦争でベトナムから脱出した者たちだけでなく、現在も多くのベトナム人がアメリカに渡る際にはサンノゼに移住しており、全米最大のベトナム人コミュニティが形成されている。彼らがカン・リーの熱烈な応援団として、ストライクフォースの興行を下支えしていたのだった。
    カン・リーはテコンドー、レスリング、散打、空手、ドラッカといった様々な格闘技を経験し、ストライクフォースではミドル級王者となり、UFCでも元ミドル級王者のリッチ・フランクリンをKOするなど活躍していたが、カン・リーの長い格闘技キャリアは時々中断する。その理由は“映画”だ。 
  • 元『週刊プロレス』記者・安西伸一の「底が丸見えの底なし沼」トーク

    2015-01-18 20:22  
    108pt
    90年代のプロ格潮流を振り返る「総合格闘技が生まれた時代」シリーズで好評を博した「アンザイ・グレイシー」こと安西伸一氏が再び登場! 今回は『週刊プロレス』の記者時代のお話を聞きました!!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■いま入会すれば小原道由、田中ケロの新日本プロレストークが読める!1月更新記事ラインナップはコチラ!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201501■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――安西さんが『週刊プロレス』に入るきっかけはどういうものだったんですか?安西 もともとボクは大学浪人時代から『週刊ファイト』でちょろちょろと手伝ってたんですよ。2年間大学浪人してんだけど、浪人1年目にタイガー・ジェット・シンのファンクラブをやってた女の方と知り合う機会があって。ジェット・シンと話ができる数少ない方。 ――ジェット・シンのコネクションを持つ女性!(笑)。 安西 その人を通じて当時『週刊ファイト』で働いていた(ターザン)山本さんを紹介してもらったんです。そこから『週刊ファイト』でお手伝いをするようになったんですよ。 ――つまり『ファイト』東京部隊ということですよね? 安西 そうそう。『ファイト』は大阪が本隊だったから、山本さんの指令を受けて選手や大会を取材をしたりね。 ――謝礼はどれくらいもらえたんですか? 安西 1回の取材で5000円、10000円とかかなあ。それも振り込みというより、山本さんに直接もらったり、たまにI編集長(井上義啓)が上京したときに「よくやってもらってありがとう」とポケットから1万円札をもらったり(笑)。で、ボクが大学に通ってるときに山本さんが『ファイト』からベースボール・マガジン社に移籍して。当時のベースボールは縁故採用が多かったんだけどね。かなりの社員が縁故採用。 ――それなのに山本さんも安西さんも入社できたんですか。安西 いや、ボクはまず大学を卒業して広告代理店に就職した。そこの会社には2年半いたのかな。その頃『月刊プロレス』が『週刊プロレス』に移行してて。編集部員の宍倉(清則)さんから「熱戦譜を書いてみない?」と誘われたんです。 ――熱戦譜というのは試合結果欄のことですね。いまは団体増加とともに試合数が多くなっちゃってコーナーそのものがなくなっちゃいましたけど。 安西 広告代理店は13時から14時まで昼休みだったんだけど、近くの喫茶店で食事したあとに熱戦譜の原稿を書いてたんだよ。新日本や全日本から送られてきた試合結果のFAXを鉛筆で原稿に書き直して。終わらないときは当時恵比寿にあったロッシー小川さんの家に泊まって作業したり。『ファイト』のときに女子プロの取材をしていたからロッシー小川さんとは親交があったんです。 ――広告代理店には内緒のアルバイトだったんですね。 安西 そのうち『デラックスプロレス』がクラッシュギャルズブームで女子プロ専門誌化してきて、編集長の宍倉さんからけっこう仕事をもらうようになって。当時は神奈川の実家から通勤してたんだけど。会社まで1時間40分かけて通って、仕事が終わったらベースボールまで行って終電まで記事を書いてね。 ――ハードですねぇ。 安西 あまりに大変だから目黒にワンルームマンションを借りたんだけど。隣の部屋の学生の男が日曜日の昼になると、彼女を連れ込んで窓を開けっぱなしにして、『笑っていいとも!』増刊号を見ながらSEXしてるんだよっ! ――ハハハハハハハハハ!  安西 その女の子が子犬のように鳴き続けるんだよね。「クウンクウン」って。 ――安西さんが鳴くと、子犬の鳴き声には聞こえませんね(笑)。 安西 そこの部屋に借りるときに前の住人に会う機会があったんで住み心地を聞いたんですよ。そうしたらね、「いい部屋だけど、隣の部屋のカップルの声には参るよ。かわいい子だけど、このかわいい子がこんな声を出すのかとビックリするよ」と。 それでもいいやと借りたんだけど。ボクが「猪木勝ち、ジェット・シン負け」という熱戦譜の記録を書いてるときに隣りからそういう声が聞こえてくるとさあ、「……俺はいま何をやってるんだろう?」って虚しくなっちゃって。 ――どんな思い出なんですか(笑)。 安西 そんな馬鹿な話はともかく、ベースボールから月10万の報酬が振り込まれたら最低限の生活ができるから、そうなったら広告代理店をやめようと考えたんだよね。それであるときにそのラインを超えたんで会社をやめた。 ――よくやめましたねぇ。安西 俺は大学受験で2浪してるから卒業は24歳。26歳のときに会社をやめたんです。そこから2年半はフリーでやったのかな。そうしたら濱部(良典)さんが『週刊プロレス』を出て『ラクビーマガジン』の編集長として異動していく話になって。濱部さんが欠けた戦力として、普通はなりたくてもなれない社員になれたんですよね。88年4月、29歳のときだね。 ――『週プロ』時代の山本さんってどういう方でした? 安西 難しいなあ。 ――言葉に詰まりますか(笑)。 安西 おかしな人、エキセントリックな人だって思ってる人もいるんだろうけど、ボクから見たら普通の人なんだけどね。たとえばトークライブで人前で話すときは大声を出したり、パフォーマンスをするわけだけど。普段の山本さんは普通の人としかいいようがないよね。ただ、『週プロ』の部数もどんどん上がっていって、山本さんが偉くなって近寄りがたい存在になっていったよね。山本さんは週末になると編集部を出て1階の応接室にこもっていろんな人に電話をして情報を仕入れて、発想を豊かにして表紙や巻頭記事を作るわけじゃない。やっぱり作る作品がどれも素晴らしかったんですよ。山本さんの担当する記事はいつも圧倒的。とても太刀打ちできない。読んで挫折するというか、お手上げ状態。 ――あのオッサンは抜きん出てたんですね。 安西 だからとても尊敬してましたよ。会場で試合取材をするときも「山本さんが見たらどう書くんだろう?」と考えちゃうんですよね。いま試合会場に行くとさ、記者はみんなパソコンを広げて速報記事を書いてるわけでしょ。あったことを書いて、選手がコメントしたことを書いて、自分がどう見たかは問われてないわけじゃないですか。ボクたちが仕事をしていた時代とは違うんだなって思うよね。 ――批評性はなくなってますね。活字プロレスの源流は『週刊ファイト』のI編集長だと思うんですけど。 安西 当時は『東スポ』や『ゴング』が入口だったけど、『ファイト』を読んで眼から鱗が落ちるというか『ファイト』だけが真実を書いてくれると錯覚しちゃうんだよね。もの凄く細かい心理描写とかさ、レスラーの日常の生き様が語られていた。「こんな書き方があるんだ」と雷が落ちた。でも、いま思えばほとんどがI編集長の妄想の世界で(笑)。――「プロレスという名の公園」に居つくプロ格者の青鬼・赤鬼に、自分のプロレス観を代弁させてたりしてましたよね。 ☆このインタビューの続きと、小原道由ロングインタビュー、田中ケロなど7本のインタビューが読める「お得な詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar719107 
  • UFC、薬物問題にタップアウト!!■MMA Unleashed

    2015-01-16 10:00  
    54pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回のテーマは怪物ジョン・ジョーンズのコカイン使用発覚の続報! 

    ジョーンズにコカイン禍、UFCは通年薬物検査計画を断念・・・
    MMAの違法薬物対策は一歩後退へ
    ネバダ州アスレティックコミッションが12月4日にジョン・ジョーンズに対して実施した抜き打ちの薬物検査の結果、コカインの代謝物質であるベンゾイルエクゴニンが検出されたことが、1月6日になって発表された。
    とはいえ、ジョーンズに対する出場停止等の処分は一切行われることがなかった。1月3日に開催された「ジョーンズ vs コーミエ」の試合結果も覆ることはなく、ジョーンズのベルトも剥奪されることはなく、5万ドルの「ファイトナイト・ボーナス」も没収されていない。これは、ネバダ州コミッションが準拠している世界アンチドーピング機構(WADA)規則によると、コカインが禁止されているのは「競技期間内」だけであるとされているからだ。「競技期間内」とは、競技が行われる12時間前から、競技の終了時点までの期間を指す。
    ジョーンズはその後12月中にもう一度抜き打ち検査を受けており、その際にはコカイン代謝物は検出されなかった。試合当日にも検査を受けているはずであるが、その結果は今のところ、まだ明らかにされていない。
    ジョーンズ陣営ではただちに、ジョーンズが薬物依存を断ち切り、健康を回復すべく、リハビリ施設に入所したという旨の声明を発表した。米プロスポーツ界ではこのような問題が発生した場合によくとられる、標準的な対応なのだという。
    違法物質であるコカインを使用した選手に何のとがめもなく、合法なマリファナの使用により、出場停止処分を受けたり、勝ち星をノーコンテストに変更されたことのある選手が多数存在することには、「不公平だ」「ダブルスタンダードではないのか」といった不満の声が広がっている。田中路教選手などは、花粉症対策の漢方薬を飲んだだけで9か月の出場停止を受けており、たとえそれがコミッションのルール通りの運用であるといっても、たしかに罪と処分が釣り合っていないようには感じられる。
     
  • 【犬軍団】小原道由「石澤が止めなかったら、俺は◯◯を殺していたでしょうね」【新日最凶】

    2015-01-13 22:24  
    160pt
    先日放送された『水曜日のダウンタウン』でプロレスファンの前にひさしぶりに姿を表した小原道由。現在はサラリーマンとして都内の会社に勤務している小原は、アニマル浜口ジム出身のプロレスラー1号として新日本プロレス入り。橋本真也とのタッグでのWAR殴りこみから、平成維震軍、犬軍団と渡り歩き、藤田和之も一目置くというセメントの強さを買われてPRIDEにも参戦した。90年代の新日本プロレスの波にもまれた選手である。そして、世紀のシュートマッチとなった小川直也vs橋本真也の大乱闘では、新日本側で最も大暴れして凶暴さを見せつけた。新日本最凶と呼ばれた小原はあの試合をどう見ていたのか。そのレスラー人生とともに振り返ってみた。◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯試し読み可能! 非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! par11は大好評インタビュー7本、8万字が540円!!  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar697901①【ヤマヨシかく語りき】山本宜久17000字「ヒクソンと戦ってるとき放送禁止用語が聞こえてきたんです……」「高田さんとの最後の会話はいまでも忘れられないですね……」②小佐野景浩の「プロレス歴史発見」ジャンボ鶴田編「馬場さんの信頼を失い全日社長の座が消えたジャンボは怪物になったんです」③K−1のビッグマウス、魂の叫び! 木村“フィリップ”ミノル「いまの格闘技界はお客さんの目線を気にしすぎです。クソですよ!」④【総合格闘技が生まれた時代シリーズ】ターザン山本「佐山サトル、前田日明、船木誠勝、石井館長がプロ格という怪物を作ったんですよ!」⑤サブミッションアーツレスリグとは何か? 「強い奴はだいたい友達」麻生秀孝は格闘技界のゴッドファーザーだった!!⑥地下格闘技の英雄が語る“チカカク”の恐るべし実態――渋谷莉孔「覆面を被って1vs2で戦ったこともありますよ」 ⑦「プロレス桃源郷へのいざない」小泉悦次さん■アナタはなぜブログを更新するのか②昭和のクラシックプロレスを追求するプロレス考古学ブロガーのプロレス観とは?◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯■そのほかの「インタビュー詰め合わせセット」シリーズはコチラhttp://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar697993橋本さんと小川の試合を見終わった猪木さんが「おまえら!この眼だよ、この殺気だよ!!これが俺の求めてるプロレスなんだっ!」としゃべりだしたんです――小原さんがリングから遠ざかって5〜6年経ちますよね。
    小原 そうですね。ちゃんと数えたことはないですけど。ハッハッハッハッ!
    ――引退という区切りを付けたということでよろしいんでしょうか。
    小原 よく「引退したの?」「元プロレスラーなの?」とか、いろんな人に聞かれるんですけど。ボクは性格的にヒネくれているので「まだ引退試合をやってないですから」と言い張ってるんです(笑)。いまはもうリングに上がれる体調ではないんですけどね。
    ――リングから離れた理由は腰の怪我なんですよね。
    小原 そうなんですよ。交通事故で痛めてしまって。事故に遭ったのは岐阜のほうに身体の治療に行ってたときなんですけど。そこでは1日に2回、昼と夜に施術するんですけど。昼に診てもらってホテルに戻るときに横から当てられちゃって。助手席に乗ってたんですけど、その車が廃車になるくらいの事故で。
    ――大きな事故だったんですね。
    小原 信号で一時停止してて、こっちが発進したときに横から当てられたんですよね。そこはけっこうな田舎だったんですけど、近くで農作業してた人が「死んだんじゃないか……!?」とビックリしたほどの事故で。そこから腰がダメになりましたよね。
    ――今日は小原さんのプロレスラー人生を振り返りたいんですけど。小原さんはアニマル浜口ジム出身プロレスラー1号として有名ですよね。
    小原 ボクは国士舘大学の柔道部だったんですけど。2年生のときに先輩から「筋トレをやるためにジムに通えよ」と言われて。でも、ボディビルのジムにはあまり行きたくなくて、どうせならプロレス格闘技のジムに行きたかったんですけど、当時はそういうジムがあまりなかったんですよね。で、会長(アニマル浜口)が浅草でジムをやってるというのを何かで読んだことを思い出したんですよ。
    ――国士舘のキャンパスは世田谷区の梅ヶ丘ですよね。そこから浅草って遠くないですか?
    小原 まあ当時は若かったから苦にならなかったですよね。会長のジムはいまの場所に引っ越してだいぶ経つんですけど、ボクが通ってた頃は雷門のすぐそばにあって。いまはプロレスラーや格闘家を養成する場所にもなってますけど、昔は普通のトレーニングジムでしたから。
    ――というと、プロレスラー志望で通ったわけではなかったんですね。
    小原 違いますね。それに大学を卒業したら普通に就職するつもりでしたから。ボクの田舎は長野県の松本なんですけど、長野県警や松本少年刑務所の先生になる話があったんですよね。県警の話は断ったんですけど、少年刑務所の方が上京する用事があるので上野で話し合いの約束をして。で、上野と浅草は近いから、その前にジムで練習してたんですよ。練習が終わって休憩室で水を飲んで休んでいたら、会長(アニマル浜口)が入ってきて「おまえ、将来はどうするんだ?」と突然聞いてきて。そんなこと聞かれたことは一度もなかったのに「おまえには何か夢はないのか?相撲取りになりたいとか芸能人になりたいとか?」と。プロレスという言葉は言わないんですけどね(苦笑)。
    ――プロレス入りを誘ってると思っちゃいますね(笑)。
    小原 ボクも「そういうふうに言われたらプロレスラーになりたいですね」と答えたら「人生は一度しかないから、自分の思うように生きたほうがいいぞ!」と背中を押されて。それで翌日から本格的にプロレスラーになるための練習が始まったんですよ。
    ――それまでプロレスの練習はされたことなかったんですか?
    小原 プロレスのトレーニングは一切やってなかったです。当時ボクの一個上にプロレスラー志望の子がいて、いまニューヨーク(WWE)に行ってるFUNAKI(船木勝一)がジムのトレーナーでプロレスラー志望で入ってきてて。その3人で練習をしてましたね。
    ――それがアニマル浜口ジムの一期生というか。
    小原 狭いジムに体操で使うマットを敷いてグラウンドの練習をやってましたよ。あれが浜口道場の原点。昔は会員さんがいないときに練習してたんですよね。
    ――その頃から京子ちゃんも練習してたんですか?
    小原 ボクがいた頃はまだジムには来てなかったですね。空手やったり、水泳をやってたりして、レスリングで才能が開花しましたけど。
    ――プロレスの練習は柔道と違いましたか?
    小原 いやあ、全然違いますね。柔道でもそれなりの練習をやってきたから自信はあったんですけど。柔道ってスクワットはあまりやらないんですよ。スクワットって数をやると大腿部ではなくて足の裏が一番効くんですよね。もう足の裏が張っちゃって張っちゃって。
    ――スクワットはどれくらいやったんですか?
    小原 最初から1000回くらいやりましたよね。しかも練習はそれだけじゃないですからね。バーベルだってあの頃は3〜4時間平気でやってましたし。
    ――プロレスラーの練習はやっぱりケタ外れですねぇ。
    小原 これはボクが新日本に入ったあとの話で話ですけど。小川がまだ現役柔道家の頃、JRAに所属してたんですよ。そこの柔道の監督がマサ(斎藤)さんや坂口(征二)さんと明治大学時代の同期で。その繋がりから、小川が外国人柔道家に手こずっていたこともあって、パワー対策の一環で新日本の道場に来たことがあるんですよね。
    ――へえー! そんな取り組みがあったんですね。
    小原 その練習にはマサさんや坂口さんも立ち会って。当時ボクはちゃんこ番だったんだけど、小川とは大学は違うけど同期で練習をやったことあるので、馳(浩)さんに「小川の練習に付き合ってやれ」ってことで。道場に行ったら、ちょうどジャンピングスクワットの練習だったんですけど、あの当時の小川はかなり太っていたし、やったことないとジャンピングスクワットなんか無理なんですよね。案の定、数回やったら足にきちゃって小川は倒れこんじゃったんですよね。
    ――世界チャンピオンでも苦しい練習なんですね。
    小原 そのあと裸のスパーリングをボクとやったんですけど、小川の足が笑っちゃってて、世界チャンピオンがボクにブン投げられましたからね。練習後に一緒に風呂に入って「小原、おまえはあんな練習を毎日やってるのか?」「いつもはもっとハードだよ」なんて話をして。また来るなんて話をしてましたけど、二度と来ませんでした(笑)。
    ――次に会ったのは小川さんが新日本入りしたときになるんですね。
    小原 あのときは早朝の道場に小川が自転車で現れたんですよ。「俺、今度新日本に入ることになったから」って。でも、合同練習には来ないし、佐山さんと2人で練習をやってたみたいで道場で会うことはなかったですね。
    ――小川さんのプロレス道場体験は実質なかったというか。
    小原 話を入門前に戻すと、大学4年の11月に新日本の入門テストがあったんですけど。ボクは10月の終わりから11月の中旬まで教員免許を取るために教育実習に行ってたんですよ。教育実習終了の2日後にテストがあったんですけど、向こうに行っちゃったら自分のトレーニングなんかやってる暇はなくて。昼間は授業、夜は柔道の実習をやらなきゃいけないし。で、教育実習から帰ってきてジムに顔を出したら、会長が「帰ってきたか!よし、スクワットやるぞ!!!!!」といきなりスクワットやりだして。「えっ、こんな状態でテストを受けるのかよ」って(笑)。
    ――浜口さんって当時からあのテンションなんですよね。
    小原 基本的にはテレビに出ているときと変わりはないですね。凄いなって思うのは家族でどこかに食事に行きますよね。いまだったら京子ちゃんも有名なので「サインしてください」とか頼まれるじゃないですか。そういうときの会長は「いま食事してるので……」とか絶対に断らない。どんどんサインを書くんです。
    ――凄いなあ(笑)。
    小原 会長が握手をしたり、写真を撮ってる横で食事をするみたいな。あと外を歩いてるときでも「気合いを入れてください!」って頼まれたら「気合だあ!!!!」って突然叫んで街行く人がビックリしたり(笑)。
    ――浜口さんの昔を知らないファンからすると、テレビでは過剰に演じると思われがちですけど、そこは変わりないんですねぇ。
    小原 ボクが新日本をやめたときも挨拶に行ったんですよ。2人で『かすみ』でいろいろと話をしてたんですけど。
    ――浜口さんの奥さんがやられていた小料理屋ですね。
    小原 そのとき会長が「俺はいま笑いビクスの特許申請してるんだよ!」と言い出して。いきなり「ワッハッハッハッハッハッ!」って大声で笑い出したんですよ。笑いビクスはいまではテレビとかでも披露してるから認知されてますけど、当時は誰も知らないじゃないですか。ビックリして唖然として見ていたら「馬鹿野郎!おまえも一緒に笑うんだよ!」って怒鳴られて(笑)。
    ――ハハハハハハ!
    小原 一緒に「ワッハッハッハッハッハッ!」って大声で笑ってたら、奥さんが2階から降りてきて「うるさい!近所迷惑でしょ!」ってえらい怒られましたね(笑)。
    ――「笑いビクス」は奥さんに認められてなかった、と(笑)。テストは合格されたんですよね?
    小原 合格しました。テスト内容はスクワット、腕立て、スパーリングもあったかなあ。一般的な基礎体力テストですよね。そのあと当時のテレビ朝日にあった新日本の事務所で面接があって。面接官は倍賞(鉄夫)さんと山本小鉄さんだったと思うんですけど。あの頃、小鉄さんが新日本プロレス学校というのをやってたんじゃないですか。
    ――金原(弘光)さんや池田大輔さんが通われてたんですよね。
    小原 大学を卒業するまでそこで練習してくれと言われたから、浜口ジムで練習したあと夕方に行ったんですよね。初めて行ったときは巡業中で選手は誰もいなくて、プロレス学校の会員数人と、あとマサさんがいたんですよ。マサさんから「一緒に練習をやるぞ!」と声をかけられたてトレーニングしたんですけど。卒業式の翌日に道場に行ったらマサさんから「おまえは俺の付き人だから」と言われて。
    ――マサさんの付き人だったんですね。
    小原 マサさんはあんまりガミガミ言わないし、外人係で本隊のボクとはホテルとバスも別々だから、付き人としてはそこまで大変じゃなかったんですよね。
    ――張り付かない付き人だったわけですね(笑)。
    小原 マサさんにはよくしてもらいましたよね。道場に「おまえ、いまから飲みに来い!」と突然連絡があって。行ったら「ウイスキーをストレート、ビールをチェイサーで飲め!」と。「これがテキサススタイルだっ!」ってマサさんは言うんですけど、ホントかよって(笑)。
    ――マサさんと最後に会ったのはいつですか?
    小原 マサさんが佐々木(健介)さんのところのアドバイザーをやってる頃、たまたま町中で会ったことがあって。俺のことをじっと見てるサングラスの奴がいるなあと思って通り過ぎたらマサさんで。「なんだマサさんじゃないですか!」「ゴツイ奴がいるなあと思ったら小原かよ!」なんて話をしましたね。そんときは杖を突いてましたけど。
    ――いまはリハビリ生活を送ってるそうですね。新弟子時代の生活は厳しかったですか?
    小原 そうでもなかったですよ。
    ――地獄の新日本道場と言われているのに(笑)。
    小原 学生時代と違ってメシはうまいものが食えるし、あと練習して金をもらえるという言い方はへんですけど、練習生でも当時は月4万円はもらえたんですよ。ボクはデビューが早くて6月の終わりにはデビューしたんですけど。当時は年間契約だから本当は途中で給料は上がらないんですけど、長州さんの計らいで10何万にしてもらって。衣食住は保証されてるし、お金には困ったことはないですよ、地方巡業が終わると選手から洗濯代をもらえましたし。
    ――洗濯代といいますと?
    小原 巡業のあいだ、先輩選手の洗濯番をやるんですけど、最後にまとまったお金をくれるんですよね。額は人によって違うんですけど、橋本さん、武藤さん、蝶野さん、佐々木さん、馳さんの洗濯番をやってたから合計で30万くらいもらえて。だから金に困らないですよね。
    ――小原さんの話だけ聞くと天国ですね。みんな新弟子時代は地獄だと言いますけど(笑)。
    小原 「大変だ」と思うから大変なんですよね。ボクはもっと比べ物にならない体験を大学時代にしてるので。ただ、ボクが入門した頃、橋本さんが「俺たちは大人の世界だから、後輩をイジメることはしない!」と言うんですけど、あとになって首を傾げることばかりで(苦笑)。
    ――ハハハハハハ! ドを過ぎたイタズラといえば橋本さんですよね(笑)。
    小原 あの人はとにかく枠にハマらない人物というか。昔の新日本合宿所の玄関に大きなマスが置いてあったんですよ。節分のときに豆を入れるマス。そこに500円玉が山積みにしてあったんですけど、50万円分くらいの札束が無造作に置いてあるときもあって。
    ――なんなんですか、それは(笑)。
    小原 「なんだろう、この札束は……?」ってビックリしていたら、どうも橋本さんの金らしくて(笑)。
    ――無防備過ぎるし、意味がわからないですよ(笑)。
    小原 橋本さんが道場にいないときに、長州さんが「そこの小銭でジュースを買ってこい!」とか新弟子に買わせるもんだから、お金がどんどん減っていくんですよね。そのうち橋本さんが「誰だ、俺の金を使ってるのは!」って怒りだして(笑)。
    ――橋本さんは道場に遊びに来てる感じだったんですよね。
    小原 そうですよね。大阪府立で興行があったときに、会場の近くに空気銃専門店があったんですけど、試合前に一緒に空気銃を買いに行きましたから。10何万したのかな。
    ――橋本さんが道場で誰かれ構わず撃ちまくったという伝説の空気銃ですか!
    小原 そうそう。大阪から発送して道場に届いたらさっそく開封して、喜び勇んで道場の外に出て、カラスやスズメを撃ちだして。しまいには隣のアパートの親父を撃ってましたから(笑)。
    ――ハハハハハハ! 危ないですよ!
    小原 昔から橋本さんとその親父は仲がよくなかったんですよ。空気銃で撃ったら怒っちゃって怒っちゃって(笑)。
    ――あたりまえです(笑)。
    小原 その親父は新日本が正月に餅つきを突くときに、そのスペースとして駐車場を貸してくれてたんですけど、そんなことがあったから「新日本には駐車場を貸さない!」と言い出して。ミスター高橋さんが謝りに行ってなんとか収めたんですけどね。橋本さんは撃ち落としたスズメを焼いて山本(天山)に無理矢理食わせたんですけど(笑)。
    ――出た、天山さんのスズメ食いエピソード!
    作/アカツキ小原 アイツは馬鹿だから何匹もスズメを食ってるですよ。だから脅かしたんですよね。「馬鹿だな。虫が身体に湧いちゃうぞ!」「えっ、どうしたらいいですか??」「目黒寄生虫館に相談したほうがいいぞ」と言ったら、山本は本当に電話しちゃって。「すいません、私、スズメを食べてしまったんですけど、身体に虫は湧きますかね?」「……病院に行ってください」という馬鹿なやりとりをしてましたね(笑)。
    ――目黒寄生虫館への電話は小原さんがそそのかしたんですか(笑)。☆このインタビューの続きと、田中ケロ、佐藤嘉洋など7本のインタビューが読める「お得な詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar719107