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  • 【記事詰め合わせ】怪人スティング、ハッスル誕生と消滅、KEI山宮、ヒクソンvs高田新たな謎――etc

    2016-05-31 23:59  
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    記事内容一覧■中村祥之が語るハッスル誕生と崩壊――
    長州さん、高田さん、小川さん、橋本さんの巨頭会談。長州さんはハッスルの可能性を感じて「これ、天下取れるぞ!」と口にしたんです
    ■「斎藤文彦INTERVIEWS②」のテーマは「WWEに屈しなかった男」!
    プロレスの歴史に舞い戻ったオペラ座の怪人スティング
    「スティングとアルティメット・ウォリアー、2人の貧乏青年が出会い、別れ、そして2大メジャーでそれぞれ頂点に立つんです。できすぎでしょ?」
    ■金原弘光のゼロゼロ年代クロニクル⑩
    PRIDE・1ヒクソングレイシー戦〜紫に消えた高田延彦〜
    「ヒクソン戦当日、控室には祈祷師も出入りしていて……」
    ■【デビュー20周年と100戦目】KEI山宮ロングインタビュー――パンクラシストの憧れと死を見つめて
    ■小佐野景浩のプロレス歴史発見
    猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
    「猪木vs藤波最後のシングルマッチの数カ月前に起きた、あの出来事が……」
    ■アメリカントップチーム移籍初戦完勝!堀口恭司インタビュー
    「いろいろと試せました。次はもっとやれます!」
    ■事情通Zの「プロレス点と線」
    ・禁断の帰還――さくらえみとアイスリボン
    ・どうなるUFC日本大会
    ・内藤哲也というヒール
    ■オマスキファイトのMMA Unleashed
    ・アメリカ主流メディアで語られ始めたジャパニーズ・プロレス
    ・UFC 200は僕らの期待に応えてくれるのか 
    ・UFC売却? ダナ・ホワイトは中国人のボスとうまくやっていけるのか
    ・ロード・ブレアーズ 桃の缶詰の思い出
    ・ドキュメンタリー:UFCファイターの試合当日(後編)
    ■ジャン斉藤のMahjong Martial Artas
    「高田延彦はロープ掴み禁止をなぜ知らなかったのか」
    ■中井祐樹の「東奔西走日記」
    ■二階堂綾乃のオールラウンダーAYANO
    ゴールデンウィークはジムに行こう!
    「カチ上げラリアット」でおぼえるグラップリング!■MMAオレンジ色の手帳
    新作オススメTシャツはこれだ! 「MMAファッション通信2016」
    格ヲタとジャニヲタの小競り合いが勃発! 格闘技中継で何が起きたのか?

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    大好評「ゼロワンを作った男」中村祥之インタビュー第3弾。今回は20000字のロングインタビューで伝説のエンタメイベント『ハッスル』を振り返ります! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!中村祥之インタビュー①負けたら即引退試合SP、過激な舞台裏http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar940189②橋本真也、新日本プロレス決別の理由http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar974841<関連記事>【黒歴史ファイティングオペラ】若鷹ジェット信介――ハッスルの最期を看取った男http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1000164長州さんは『ハッスル』の可能性を感じて「これ、天下取れるぞ!」と言いました――ミャンマー、ネパールと海外でのプロレス興行が続いてたことで、海外滞在が長かったようですね。
    中村 今年に入ってからは長かったですね。1月20日にミャンマーに入って、4月のネパールの大会が終わるまでですから、ちょうど3ヵ月。そのあいだ日本にいたのは10日間くらいで。現地で興行の準備はもちろんのこと、後始末もやらないといけないですから。
    ――興行をやってすぐに帰ってくるわけにはいかないんですね。プロレス初開催となったミャンマーは、興行前からトラブルが相次いで大変だったようですし。
    中村 そりゃあもう大変でした。会場も変わるどころか、日にちも変わる(笑)。
    ――日時変更でよく開催できましたね(笑)。
    中村 予定していた会場が使えなくなったことで日時を変更することになったんです。どうして使えなくなったか? 使用する会場は国が管理しているんですけど、ミャンマー新政府が集会をやるから貸せない、と。
    ――納得できない理由ですよね、それ(笑)。
    中村 ちょうど新政府に移行していた時期なので、お上には逆らえないし、異議申し立てできない。海外での興行ではよくあることなんですよね。直前で会場が使えなくて、空き地でやったりするケースもあるし。
    ――というと、会場が使えないことも予測してたんですか?
    中村 あー、してましたね。ただ、大会直前に変更するとは思いませんでした。ミャンマーで興行をやると決めて、今年に入ってから何も言われなかったので、できると思ってて。でも、甘かった。現地入りしてから雲行きが怪しくなってきて、最終的に会場は使えないと。
    ――ギリギリの会場変更は想定してなかったんですね。
    中村 2月13日にやる予定だったんですけど。ラウェイが使ってる会場が借りれるかどうか調べたら、ラウェイは14日に大会が予定されていて、13日は前日準備のため使えない。でも、前々日の金曜日なら貸せるよ、と。
    ――それで日時を1日早めて2月12日やることになったんですね。
    中村 選手の日程も、いろんなトラブルを想定して10日着にしてたんです。遅い組でも11日着。何か問題があって現地入りできないかもしれないので。そうやって備えていたことがラッキーでしたね。12日に試合だったので、これが12日着だったら間に合わない。
    ――トラブル対策が功を奏したんですねぇ。
    中村 2月2日に12日に変更しますと発表したんですけど、現地としては当然延期すると思ってたんでしょうね。「どうする?」と聞かれて即座に「やります」と答えたら「本気か?客は入らないぞ」と。それでもやろうとする僕の熱意を知ったラウェイ協会さんと信頼関係が生まれて。会場だけじゃなくて興行ライセンスもラウェイ協会さんから借りれることになったんです。
    ――ミャンマーで興行をやろうとした以上、ライセンスは持ってたんじゃないですか?
    中村 いや、それが僕も知らなかったんですけど、ミャンマーには3種類の興行ライセンスがあって。田舎で興行ができるライセンス、国内最大都市ヤンゴンでやっていいライセンス、あとミャンマー全土の中で国際選手を招聘してやっていいライセンスがあったんです。僕らは最後のライセンスを持っていないと興行をやっちゃいけなかったんですよね。
    ――ライセンスの詳細を知らなかったんですか?
    中村 知らなかった。現地のパートナーも知らなかった。
    ――では、もし日程トラブルがなくてラウェイ協会との接点が生まれなかったら……。
    中村 選手たちは空港で入国を止められて興行はできなかったでしょうね。日程がズレてラウェイ協会の人たちに知りあえてよかった。ラッキーだった(笑)。
    ――不幸中の幸いどころじゃないですね(笑)。チケットはどれくらい売れたんですか?
    中村 お客さんはおおよそで2000名くらい。チケットも刷り直しで、10日間しかないわりには頑張ったかなって。プレイガイドと言われているところで売れたのはたったの17枚ですからね。当日券でどれだけ動くのかが勝負で。
    ――プロレス初観戦のお客さんの反応はどうでしたか?
    中村 僕が想像していた以上にお客さんの反応はよかったです。プロレスを楽しんでました。オープニングに「プロレスとは……」という紹介映像を流したんですけど、それだけでドカンと沸いて。
    ――前回のインタビューでは、プロレス未開の地で女子プロが強いという話をされてましたけど。
    中村 もう沸きに沸きました。「おしんの娘」という名前でね、やってもらったこともあって(笑)。
    ――おしんの娘って(笑)。やっぱりアジアでおしんは強いですねぇ。
    中村 ミャンマーでも浸透してるんですよ。「おしん」と言っただけでドカンですよ(笑)。
    ――おしん最強!(笑)。
    中村 アジアの女性は基本的に格闘技に興味はないんですけど、おしんだけにはひっかかるということですね(笑)。
    ――「WWE=プロレス」と認知されているミャンマーで、田村潔司選手をメインに据えたのは意外だったんです。田村選手のスタイルだと正直、客受けは悪いだろうな、と。
    中村 やっぱり「メイドインジャパン」のプロレスを持って行きたかったんですよね。WWEのマネはできるんですよ。でも、日本のプロレスを見せたくて。ただ、大谷(晋二郎)社長が海外に行けなかった時期で。子供さんが生まれるかどうかだったので、そこは無理は言えなかったんですね。大谷晋二郎を外したら、鈴木秀樹選手も日本風ですし、大きな会場の見せ方でいえば、KENSO選手もいる。田中(将斗)選手はリングの対戦相手はもちろんのこと、お客さんとも戦うことを知ってるので信頼できる。
    ――その中から田村選手を指名したんですね。
    中村 日本のプロレスはWWEとは違うし、「プロレスってなんなんだろう?」とミャンマーの人に考えさせるような試合を見せたかったんです。ただ、田村さんは、ちょっとナーバスになってましたね。かなりの年数、プロレスの試合をされていないこともありましたし、周囲のレスラーや関係者は田村さんのことを知ってる人ばかりではない。そこを少しでも和らげようとして、U-FILEの大久保選手にもミャンマーに来てもらたっりしたんですけど。
    ――田村選手が戦いやすい環境を作ろうとしたんですね。
    中村 でも、田村選手は対戦相手のジェームス・ライディーンのことを知らないじゃないですか。ミャンマーの人も、田村選手のようなプロレスは見たことない。そういう意味では、いろいろと難しかったかもしれませんけど、田村選手の佇まいは、さすがのものがありますよね。「プロレスはショーだ」と見ているお客さんに「あれ、これはなんなの……?」というエクスキューズは出せたし、今回はミャンマーにはどういうプロレスが向いているのかっていうリサーチ興行にはなりましたよね。ラウェイ協会の方に「事前にテレビでコマーシャルを流していれば、反響はもっと違かった」と言われたり、メディアも100社くらい取材に来てくれていたので。
    ――次回開催はもっとやりやすくなったんですね。
    中村 「年内いつでもできるよ」とは言われてるんですけど、心の準備が……。自分のテンションが高まらないと、できるもんじゃないですよね。ミャンマーをやって次はネパール。いまはちょっと海外でプロレスの興行というエネルギーはないです(笑)。
    ――ミャンマーに続いて行われたネパール大会は、ひさしぶりの興行だったんですよね。
    中村 ネパールは13年にやったのが最後でしたね。大地震で街が壊滅状態。多くの建物が壊れたままで、ネパールの人たちもネガティブな感情を持っていて、向こう10年はプロレスはできないと言われてて。そんな中、去年の年末くらいから「ネパールでプロレスでやりたい!」という若者がチームを作っていて、プロレス開催の機運が高まってたんですよ。でも、いろいろと問題はあって。まず会場の国立競技場は使えても、客席は震災の影響でブロックされてるんですよね。ひび割れの補修には何年もかかるだろう、と。だからグラウンドだけを使ってやることになったんですけど。
    ――普通だったら開催が難しい状態だったんですね。
    中村 地震のあと、ネパールではコンサートから何から何まですべて自粛してたんです。ちょうど僕らの興行と同じ日にクリケットの国際戦が復活したくらいなんですよ。
    ――明るいニュースとしてプロレス興行は歓迎されたんじゃないですか。
    中村 歓迎されましたね。国家元首が会場までに来てくれて。
    ――国家元首が!
    中村 国家元首が来てくれたってことで、興行の様子が翌日の新聞にも載ったんですよね。ありとあらゆるテレビや新聞が扱ってくれたので、選手は翌日から有名人になって(笑)。
    ――プロレスが復興の象徴になったんですねぇ。
    中村 この国家元首は強い人なんですよ。なかなか屈しないことで有名。インドから経済制裁じゃないですけど、ありとあらゆる物資の供給をストップされても、インドにNOを突きつける。人々の信頼が厚い国家元首がわざわざ会場に来てくれて、スピーチもしてくれたんですよね。そういう意味でレスリングの信頼は高まって、大会後には「プロレスラーになりたい!」という問い合わせが100件からあって。
    ――じゃあ、ネパールでも至急開催しないといけないですね(笑)。
    中村 いますぐ乗り込んでやるテンションではないですよね(笑)。
    ◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
    ――それで今日は前回のインタビューの続き、『ハッスル』についておうかがいしたいんです
    中村 『ハッスル』には最初から関わってましたね。
    ――『ハッスル』誕生のきっかけとなった第1次W−1にはタッチしていないんですよね。
    中村 ないですね。W−1は橋本さんが出場したくらいかな。
    ――あ、出てましたね。破壊王とジョーサンとシングルマッチ(笑)。
    中村 W−1って、いまのプロレス団体になる前にも何かありませんでしたっけ?
    ――上井(文彦)さんが矢面に立っての第2次W−1もありました。第2次も旧K−1の主導でしたけど、第1次はK−1、PRIDE、全日本プロレスの協力体制が敷かれていて。
    中村 そうだそうだ! W−1と契約したゴールドバーグが全日本に来てましたよね。
    ――ゴールドバークは、当時PRIDEの常務だった榊原さんの会社と契約したんですよね。
    中村 それで全日本に貸したんですけど、W-1も続かなくて契約を消化できなかった。
    ――そのうちK−1とPRIDEがケンカ別れして、ゴールドバークの契約を消化するために榊原さんがDSE主催のプロレスイベント『ハッスル』をやることになって。
    中村 そうだそうだ(笑)。橋本さんが出たW−1は東京ドームですよね?
    ――それが第1次W−1の最終興行ですね。その前後に石井館長の脱税逮捕、森下社長の自殺もあったりして、マット界激動の時期だったんですけど。
    中村 『ハッスル』というイベントが始まったのは04年1月4日ですけど……『ハッスル』という名前になるまでも数ヵ月かかってるんですよね。DSEとしては、PRIDEは格闘技として成立しているから、プロレスイベントをやるなら住み分けをしていきたい、エンターテインメントとして振り切っていきたい、と。でも、僕たちの立場では、そういうことはなかなかできないんですよ、正直。
    ――DSEはプロレス界の外にいるけど、中村さんたちはプロレス界の中にいるわけですもんね。
    中村 そうです。なんだかんだ山口(日昇)さんを窓口としてDSEと話をしていったんですけど。
    ――山口日昇は当時kamiproの編集長で、榊原さんのブレーンでしたね。
    中村 最後の最後には高田(延彦)さん、小川(直也)さん、橋本さん、榊原さん、山口さんらがいる緊迫した空気の中、『ハッスル』はどういったものを打ち出すのかという会議をやって。
    ――それまで小川さんとDSEの仲は良くなかったんですけど、『ハッスル』をきっかけにして関係は修復されていきましたね。
    中村 これは個人的な考えですけど、DSEはまずプロレスで小川さんと信頼関係を築いたうえで、PRIDEにも出したかったんじゃないかなって。
    ――つまり、田村さんをPRIDEを出すためにDSE仕切りのUスタイルイベントを有明コロシアムでやったようなもんですよね。
    中村 そうそう(笑)。
    ――小川さんがPRIDEヘビー級GPに出たことでDSEは莫大な収益を上げましたから、『ハッスル』の投資は安いもんだったのかもしれません(笑)。
    中村 小川さんとプロレスの話をしてみると、WWEが大好きなんですよね。だから『ハッスル』は乗りやすいコンテンツだったんじゃないかな、と。小川さん本人としても新日本プロレスではないステージで、新たなプロレスの実績を作っていこうとするモチベーションは凄く高かったことをおぼえてます。小川さんの意見も会議で取り入れられていくので、新たな刺激を持って臨める場だったんじゃないですかね。
    ――小川さんは先頭に立っていろいろやりましたよね。 
    中村 小川さんは本気で世間にアピールしていこうとしてましたよね。そこは猪木イズムっていうんですかね。対世間というものを意識して「あの小川さんがここまでやるの?」って我々スタッフも引っ張られていきましたから。作/アカツキ
    ――でも、中村さんの立場からすれば「これはちょっと……」という企画は多かったんですよね。
    中村 プロレス側の人間だったので、即答でイエスと答えられないことが多かったんですよ。「ここまではできますけど、そこはどうでしょう?」と変にプロレスを守ろうとしてしまった。そこで「プロレスと名乗らないのであればできます」と。だから『ハッスル』は「ファイティングオペラ」を名乗るようになったんですよ。
    ――劇的に変わったのは、『ハッスル2』に高田総統が登場して、ハッスル軍vs高田モンスター軍の構図ができてからでしたね。
    中村 『ハッスル1』は高田本部長のままだったけど。
    ――高田延彦として小川さんと橋本さんと乱闘してたんですよね。高田総統が初登場した横浜アリーナは、あまりにも意味不明すぎて冷えきってましたけど(笑)。
    中村 あの冷え切った感がのちのちの爆発に繋がると思うんですけどね(苦笑)。
    ――しかし、高田さん、「高田総統」の変身によくOKを出しましたね。
    中村 「このアイデアを誰が高田さんに言うのか」っていう問題はあったんですけど(笑)。ところが、実際に高田さんに話を振ってみたら即座に「やろう!」と。高田本部長のまま『ハッスル』に出るのは気持ちが悪かったんでしょう。「こっちのほうがやりやすい」ということで。
    ――高田本部長のままだと、逆にリアリティがないんじゃないかということですよね。
    中村 PRIDEも『ハッスル』も、どっちも得をしない。高田本部長と高田総統にキャラ分けすることに高田さんはノリノリで。小川さんもそういう路線に乗ったし、橋本さんも悪ふさげじゃないですけど、「俺はジュリー(沢田研二)みたいになりたい!」と(笑)。
    ――ハハハハハハハハハハ! さすが破壊王!
    中村 船頭たちがやると言った以上、ほかの選手もやらなきゃダメな流れになって。高田総統も最初は笑われていましたけど、『ハッスル』初の後楽園ホール大会『ハッスルハウス』からコツを掴んだ感じはありました。あの大会、20分でチケット売れ切れですよ。ファンからも大会内容を絶賛されて。
    ――それまでは大会場だったから熱がバラけてたんですけど、密度の濃い空間でやることで、ようやく『ハッスル』が弾けた感じはありましたね。1月4日の『ハッスル1』なんて、4日前の大晦日PRIDE男祭りの会場仕様のままだから悲惨な客入りだったんですけど(笑)。
    中村 『ハッスル1』のときは、4万人収容できるスタジアムバージョンですよね。7000人の観客発表だったけど、会場はスカスカだったじゃないですか。大晦日のPRIDEはギチギチに入っていたのにね。
    ――『ハッスル1』は新日本プロレスの東京ドームと興行戦争になりましたし、無謀にもほどがあるというか。
    中村 もちろん3日や5日にズラすことも考えたんですよ。挑戦するじゃないですけど、あえてぶつけたところはありましたね。
    ――そこはDSEが考えそうなことですよね。
    中村 『ハッスル』って、僕らのプロレスの基本的な考えと、DSEの希望をすりあわていくスタイルでやってたんですけど。キ◯ガイみたいに会議をさせられましたよ。1日10時間を週5回やってましたね(笑)。
    ――そんなに!(笑)。
    中村 なかなか決まらないわけですよ。要はDSEのプロレスチームは“プロレス素人”ばっかでしょ。プロレス学でいえば1時間で終わるようなことでも「こうはできないのか?」という話になって、ワガママな希望がガンガン出てくるんですよ。
    ――プロレスを知らないからこそ、良くも悪くも発想に限界がない。
    中村 あるときの会議なんて、写真集が持ち込まれて「インリン・オブ・ジョイトイで何かできないか?」と。そんなところから話が始まるんですよ?(笑)。
    ――ほぼ無茶ぶりから始まるんだから、1日10時間の会議は必要なんですね(笑)。いまでこそ「芸能人プロレス」のかたちは築かれてますけど。
    中村 インリンさんは最初は東海テレビマターの企画だったんじゃないかな。
    ――インリン様って最初はマネージャー的役割で試合をする感じじゃなかったですよね。
    中村 そこから話がどんどんと進んで「インリン本人は試合をしてもいいと言っている」と。でも、僕らからすれば「プロレスをナメるな!」っていう話になるんですけど、運営側は「これはプロレスではない。ファイティングオペラだ」と。
    ――でも、リングでやることはプロレスですよねぇ。
    中村 そうそう(笑)。リングに上がる以上、危険を伴う。ましてやインリンさんのビジュアルを保つためにヒールを履いて試合をする、と。ピンヒールだとマットに食い込むから「ヘタしたら足首を折れますよ」と言ったんですけど。
    ――ヒールを履いてプロレスって、インリン様ってけっこう高度なことをやってるんですよね。
    中村 だから改良に改良を重ねて、プロレス専用のヒールを開発してね。
    ――プロレス専用のヒール! お金をかけるなあ(笑)。
    中村 それにインリンさんがよく練習した。プロレスに没頭してた。そこは凄いなって思いました。で、そのインリンさんを世の中にどう打ち出すかってなったときに、これはボクが発案者のひとりなんですけど、大きなニュースにしたければ小川さんに任せるしかない、と。
    ――それで小川直也vsインリン様が実現したんですね。
    中村 「ありえない」ことをやるのが『ハッスル』でしょう、と。小川さんは即答でOK。あとはどうケガをさせないかを考えると、インリンさんと小川さんのシングルマッチはできないじゃないですか。運営側がボクの顔を見て「素人さんができるなら、プロレス団体の人間ならできるよね」ってことで、僕も試合に出ることになって。
    ――ありえないことをやるのが『ハッスル』!(笑)。
    中村 運営側の提案に「NO!」と言える隙はなかった(笑)。2vs2でも成立しないということで最終的に3vs3。小川さんとインリンさんの試合を成立させるための兵隊がそれぞれ2人ずつ。
    ――それでインリン様、アリシンZ、ダン・ボビッシュvsHikaru、中村カントク、小川直也の6人タッグマッチになった。同じ“素人”の中村さんが入ることでバランスを取ったんですね。
    中村 リングでボクが一番最初にインリンさんと戦ってるんですよ。携帯電話のカメラでインリンさんを激写するというね(笑)。
    ――どんなプロレスデビューなんですか(笑)。 
    中村 愛知県体育館のメインイベントで、素人のボクがどの面下げてリングに上がればいいんだって話ですよ。そこは葛藤したどころじゃなかったですよ、ホントに。
    ――プロレスの怖さをよく知ってるわけですもんね……。
    中村 最後はダン・ボビッシュにF5で投げられて、クルクルと宙を飛んだんですよ……。リングに落ちるとき怖いから手をついたら、両肩亜脱臼。
    ――うわあ……。 
    中村 本当に怖かったですよ。
    ――しかし、素人になんでそんな大技を……。
    中村 運営側は深く考えてないから(笑)。「早く治してください。次もありますからね!」ってそんな軽いノリかいって。
    ――あの試合で小川さんはインリン様にM字固めでピンフォール負けして、『ハッスル』の目論見どおり大きな反響がありましたね。
    中村 試合が終わった瞬間に対世間にアプローチできたなって思いましたね、そこは勝った負けたじゃなくてね。
    ――インリン様って奇跡が多かったですよね。川田選手に回転エビ固めでフォール負けしたときも、そのはずみで身体の一部であるムチを投げたら、見事にロープに引っかかってロープブレイクになったり。
    中村 あれはリング下のセコンドの誰かが、インリンさんが投げたムチをこっそりロープにかけておく、という話だったんですよ。でも、ムチを投げたらロープに見事に引っかかった。あれ、とんでもない確率ですよ。
    ――あとで『ハッスル』道場でロープに引っかかるか実験したら、一度も実現しなかったとか(笑)。芸能関係で言えば、狂言師・和泉元彌の参戦もワイドショーで毎日のように取り上げられましたね。
    中村 「空中元彌チョップ」のときですよね。
    ――参戦のきっかけも、DSE社員が和泉元彌の同級生だったとかで。そこから話が拡がるのもどうかしてるんですけど(笑)。
    中村 そうそう(笑)。和泉元彌さんもよく練習してましたね。『ハッスル』は人材にもお金をかけてましたけど、準備にもお金をかけてましたよ。
    ――どれもダラダラした試合にならなかったし、芸能人プロレスの基礎を作りましたよね。
    中村 しょっちゅう記者会見なんかで青山のDSE事務所に呼び出されていろいろやっていたし。事務所近くの喫茶店でモンスター軍に襲撃されたりしてね。
    ――それ、警察に通報されて大騒動になったんですよね(笑)。
    中村 DSEの社員がメチャクチャ怒られてましたよ(笑)。だいたいボクは素人なんですよ。「中村カントク」として野球のユニホームを着させられてオープニングアクトをやることだって、いま考えたらおかしな話なんですよね。ドリフターズのDVDを渡されて『8時だョ!全員集合』のオープニングダンスをおぼえろって命令されたりね(笑)。
    ――ハハハハハハ! 長州さんくらいですよね、運営側の要望をはねつけたのは。
    中村 運営側が長州さんを『ハッスル』に出したいと。その理由が長州さんに『ハッスル』ポーズをやらせたいから。そこに拘ってるんですよ。ボクは絶対にやらないと思ってたし、『ハッスル』ポーズをやるくらいなら長州さんは新日本プロレスに戻るくらいの人ですから。でも、長州さんはネゴシエーションを取っていけば聞く耳を持たない人ではない。なんだかんだあって、長州さんが『ハッスル』に出るときに、DSEの事務所で高田さん、小川さん、橋本さん、長州さんという4巨頭の顔合わせがあったんですよ。
    ――その顔合わせだけで金が取れます!(笑)。
    中村 一部の関係者以外はシャットアウト。もうね、張り詰めてましたね、空気が。凍ってましたよ。長州さんと高田さんは久しぶりの顔合わせ。小川さんと長州さんも浅からぬ因縁がありましたし。運が悪いことに高田さんの「泣き虫」という本が出てしまったんですよ。
    ――高田さん自身のプロレス史を振り返った本が、『ハッスル』開始直前に出版されたんですよね。その内容に多くの人間は“暴露本”と捉えて。
    中村 DSEの人たちは、ああいう本が出ることを知っていたのに、ひた隠しにしてたんですよ。
    ――中村さんが知ったのはどのタイミングだったんですか?
    中村 『ハッスル』旗揚げの記者会見の数日前です。
    ――酷い。本当に酷い(笑)。
    中村 こっちが『ハッスル』から引けないところまで引っ張って「じつはこういう本が出るんです」と。
    ――あの本の筆者は金子達仁であって、高田さんではないという言い訳ができましたけど……。
    中村 まあでも通用しないですよね(笑)。ゼロワンとしても、『ハッスル』から引いたほうがいいんじゃないかという話になって。それこそミスター高橋本の高田さん版じゃないですか。そんな高田さんが関わるなんて、プロレス界からすれば、とてつもなくイヤなイベントですよね。
    ――『ハッスル』ってプロレスマスコミからは徹底的に嫌われてましたけど、まあ当たり前ですよね(笑)。
    中村 一番嫌われてたと思うんですよ。でも、それすらも『ハッスル』でネタにしてしまうしかないんじゃないか、と。しょうがない、出ちゃうんだからって感じになって。
    ――そのあと『ハッスル2』の進行台本が流失した事件もありましたよね。『アサヒ芸能』に掲載されて。
    中村 あれも『ハッスル』が意図的にやったんじゃないかって思われるわけですよ(苦笑)。あの進行台本には事細かにいろんなことが書いてあって。『ハッスル1』のときから「こういったものを配るのはマズいですよ」とは言ってたんですけど。プロレス界ではありえないじゃないですか。
    ――そんな物騒なものを裏方全員に配ってたんですね(笑)。
    中村 「これ、回収するんですか? 家に持って帰られたら大変なことになりますよ」「そこまで言うならナンバリングを振って回収する」と言ったはずの台本が流失するという(笑)。
    ――ハハハハハハハハハハ! ズンドコすぎます(笑)。
    中村 ナンバリングしたところでコピーを取られたら犯人はわからないじゃないですか。「泣き虫」に続いて、それすらも『ハッスル』の流れに組み入れるしかないだろうってことになって。
    ――中村さんがリングで白紙の台本を叩きつけて、ウヤムヤにしてましたね(笑)。そんな出だし最悪な『ハッスル』に、あの長州さんがよく上がりましたねぇ。 
  • 猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代■小佐野景浩のプロレス歴史発見

    2016-05-27 10:31  
    110pt

     

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回はドラゴン藤波辰爾がテーマです!イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!小佐野 藤波辰爾って私が初めてインタビューしたプロレスラーなんです(笑)。
    ――あ、そうなんですか。
    小佐野 しかも16歳のとき。私が勝手に設立した新日本プロレスファンクラブ「炎のファイター」で取材したんですよね。
    ――16歳の小佐野さん!
    小佐野 ファンクラブの先駆者的な感じだったと思うんだけど。あれは藤波さんが凱旋帰国した年だから78年の春ですよ。
    ――いまから38年前!(笑)。
    小佐野 私はひとりで「炎のファイター」の会報を作ったんですけど。その頃はパソコンも何もないから、手書きしたものをコピーしてたんです。写真も載せたいから、きれいなコピーをできるお店を探して神保町を歩きまわったりしてね(笑)。
    ――それが編集者・小佐野景浩の原点なんですね。
    小佐野 藤波さんを取材したのはその会報第一号を作る前なんだけど。6月1日の日本武道館大会。猪木さんのNWFヘビー級王座とボブ・バッグランドのWWFヘビー級王座の60分3本勝負ダブルタイトルマッチがメインだったんですよ。結果はフルタイムで猪木さんが1-0で勝ったんだけど、ルールでWWFのベルトは移動しなかった。
    ――2本奪取しないと移動しないルールだったんですね。
    小佐野 その試合前になんとなく会場に早めに着いたら、会場入口に新間さんの姿が見えたんです。「あ、新間さんだ!」と思って手を振ったら近寄ってきてくれて「坊や、どうしたんだい?」「じつはファンクラブを作りまして。つきましては藤波さんにインタビューをさせてください」とアポなしでお願いしたら「ああ、いいよ! ついてきな」ってその場でやらせてもらうことになったんですよ(笑)。
    ――えええええ!? 何かの罠かなって思っちゃいますね(笑)。
    小佐野 あの当時の新日本プロレスってストロングスタイルで怖いイメージがあったでしょ。簡単にオッケーを出してくれたからビックリしちゃってね(笑)。会場の中に連れて行ってもらったら、新間さんが藤波さんに「おい、カンペオン!ファンクラブの坊やがインタビューをしたいと言ってるからよろしむ頼むよ」と。藤波さんはそのときジュニアヘビー級のチャンピオン。スペイン語でチャンピオンのことを「カンペオン」と言うんだよね。
    ――しかし、急展開ですね。
    小佐野 自分でお願いしたものの、その場で取材できるとは思ってもなかったから緊張はしましたね。そのインタビュー記事が創刊号の会報に載ったんです。そのとき藤波さんは24歳。当時のプロレスラーの中では、ファンの近いところにいたスター選手だったけど、こうやって16歳の私の相手もしてくれたんですよね。
    ――いくら新間さんの頼みでも、試合前だから「プロレスファンからの取材なんかできない!」って突っぱねてもおかしくないですよね。
    小佐野 そこは藤波さんは我々と同じくプロレスファン出身で、猪木さんに憧れてプロレスラーになった。ファンの気持ちがよくわかっていたんでしょうね。
    ――当時は相撲やレスリングから転向するレスラーが多い中、藤波さんにはなんの格闘技歴もありませんでしたね。
    小佐野 身長も190センチはなかったし、当時は大きい選手とは思われなかったけど、帰ってきたときはブルース・リーのようなバキバキの肉体。カール・ゴッチさんのところの練習で、つり輪をやらされ、十字懸垂ができたというんだもん。
    ――あの身体であの若さ、そりゃ人気は出ますよねぇ。
    小佐野 エリートのジャンボ鶴田と違って叩き上げでファンからの共感も得やすい。ヨーロッパやメキシコで修行を積んで、24歳の若さでマジソン・スクエア・ガーデンでWWFジュニアヘビー級ベルトを獲得する。中学を卒業してプロレスラーになった若者がチャンピオンになって帰ってきて、英語もスペイン語もペラペラ。子供から見たらとにかくカッコいいわけですよ。
    ――まさに超新星ですよね。
    小佐野 いわばレインメーカーだよね。みんな若い頃のオカダ・カズチカの記憶はなくて、帰ってきたらチャンピオンという印象が強いでしょ。それと同じで若手の頃の藤波辰爾のことはよく知らないんだから。
    ――ジュニアヘビー級というカテゴリーも藤波さんの帰国とともに定着したんですよね。
    小佐野 当時のプロレスは無差別級の戦いという考えがあって、ダニー・ホッジがジュニアのチャンピオンとして来日したり、ケン・マンテルがやはりNWAジュニアヘビー級チャンピオンとして来日したときはジャンボ鶴田が体重を落として挑戦したことはあったけど。日本人がチャンピオンとして中心になったのは初めてのことだから。
    ――いまに繋がるジュニアの世界は藤波辰爾から始まったとも言える。
    小佐野 それに動きも新しく見えた。ドラゴンロケットなどのドラゴン殺法。それまでは星野(勘太郎)さんがメキシコの技を取り入れていたけど、フライングヘッドバット程度。リングの外に飛ぶドラゴンロケットは衝撃的だったし。ウラカン・ラナをドラゴンローリングという名前で使ったりして、これまでのプロレスとは毛色が違ったわけですよね。そしてなんといってもドラゴンスープレックス。
    ――これぞ必殺技というインパクト!
    小佐野 あの頃のスープレックスといえば、ジャーマンが最高で、ダブルアーム、サイドがあって、ジャンボ鶴田がフロントスープレックスを持ち帰ってきて大騒ぎになった時代ですよ。だからフルネルソンから、ぶん投げるというんだから騒ぎになりますよ。
    ――受け身が取れない危険な技として一時期封印されたりしましたね。
    小佐野 MSGでベルトを獲った試合のフィニッシュはあの技だったけど、ぶっつけ本番でやったそうなんですよね。
    ――えええええ!? 天才だ!(笑)。
    小佐野 ニューヨークで挑戦することが決まってたときに、メキシコから一度ゴッチさんのところに寄って「今度ベルトに挑戦するんですよ」と伝えたら「こういう技があるよ」と口で聞いただけ。それで試合でいきなりやってみた。
    ――どうかしてる! やっぱり天才だ(笑)。
    小佐野 「あのときあの技がうまくいかなかったら、いまの自分はない」と言ってますよね。周囲はドン引きだったらしいけど(笑)。受け身が取れない技をやっちゃダメだろってことで、藤波さん本人は肩身が狭かったみたい。マクマホン・シニアだけは「コングラチュレーション」と祝ってくれたけど、「ニューヨークでもう仕事はできない」と思ったほどで。
    ――それくらい“やっちゃいけない技”だったんですね。
    小佐野 だいたいゴッチの弟子という時点でマイナスなんですよ、アメリカでは。「ゴッチの弟子? コイツはヤバイんじゃないの?」って警戒されてるところに、あの技だからねぇ。
    ――「あの野郎、やっぱりやりやがった!」と。ゴッチさんの評判もどうかしてます(笑)。
    小佐野 藤波さんはゴッチさんのところで1年くらい修行したあとに、ノースカロライナにブッキングされたけど、ロニー・ガービンにいきなり仕掛けられたりもしたしね。
    ――それもゴッチの弟子という肩書が……。
    小佐野 おそらく。ロニー・ガービンはのちにNWAの世界チャンピオンになるんだけど、けっこう強かったみたいで門番みたいな立ち位置。
    ――いわゆるポリスマンだったんですね。よそ者を品定めする。
    小佐野 「ゴッチの弟子が来る」から試したんじゃないかって。グラウンドになったらケツの穴に指を突っ込まれて、藤波さんは「なんでこんなことをされるんだろう!?」と驚いたけど、グラウンドの動きで返していったら、普通の試合に収まったんだけどね
    ――藤波さんも修羅場を潜ってますね(笑)。
    小佐野 そういう時代だったんです。藤波さんの最初の遠征先はドイツなんだけど、そこではホースト・ホフマンにガチガチにやられて何もできなかったって。ホフマンはメチャクチャ強かったそうなんですよね。
    ――腕を競い合うことが当たり前の光景だったんですね。
    小佐野 藤波さんは若手の頃はスパーリングばっかりやらされたそうですから。格闘技経験がなかったから組むという行為も怖かったし、何も知らないからやられ放題。あの頃の日プロには桜田さん(ケンドーナガサキ)とか大きくて強い人ばっかりいたしね。藤波さんは受け身の取り方もよくわからないまま日本プロレスに入門して。
    ――格闘技経験なしで日プロっていい度胸してますねぇ。
    小佐野 藤波さんは中学卒業したあとは自動車の修理工をやってたんじゃないかな。ボディビルのジムに通って身体を鍛えて、同じ大分の出身の北沢(幹之)を頼って入門したのはいいけれど。格闘技の経験はなかったから正式入門じゃなかったんだよね。リングで練習させてもらえない。旅館の大広間で見よう見まねで受け身を取ったり、会場の隅でスクワットをやったりしてて。
    ――苦労人なんですねぇ。そして猪木さんとともに日プロを離れ、新日本プロレスの旗揚げに参加。そこからスターへの道が開けていきますね。
    小佐野 カール・ゴッチ杯に優勝して海外修行に出された。それは75年6月なんだけど、新日本も海外に選手を出すほど人材に余裕ができたってことだよね。長州力はエリートだからその前に海外に出てたんだけど。
    ――のちの宿敵・長州さんはオリンピックレスラーですからエリートとして扱われたんですね。
    小佐野 長州さんは新日本側からスカウトしてるから、次期エース候補として育てようとしてたんじゃないかな。藤波さんはルックスも悪くなかったし、それなりに期待もしてたと思うけど、新日本の売り出し方がうまかったですよね。藤波さんがニューヨークでベルトを獲ったときに『ゴング』の表紙を飾ったんだけど、マスカラスとのツーショットなんだよね。それは新間さんがマスカラスと当時の『ゴング』編集長だった竹内(宏介)さんに頼んでいた。「ぜひツーショットを表紙にしたい」と。
    ――全日本プロレスの顔でもあったマスカラスとのツーショットは異例ですね。
    小佐野 それに当時の藤波さんとマスカラスではレスラーとしての格も全然違うわけだから。新間さんが頼まないと実現しないし、そうやってマスカラスと一緒に表紙になったことで「藤波辰爾はスターなんだ」というイメージ付けをしたかったでしょうね。そこは新間さんのセンスが凄いよね。
    ――MSGでチャンピオン、マスカラスとのツーショット表紙……スターのお膳立てはできあがっていて。
    小佐野 その前に新日本は普通に藤波さんを帰国させようとしたら本人は嫌がったんですよね。ゴッチさんのところでのトレーニング漬けの生活を抜けだして、プロレスで飯が食えるようになったから。アメリカでもメキシコでもプロレスができる。「これがプロレスなんだ!」って楽しくなったんでしょう。日本ではスターでもエリートでもないから戻りたくないよね。
    ――だったら海外で試合をしていたほうがいい。マサ斎藤さんやカブキさんのようなアメリカを主戦場としたプロレスラー人生があったかもしれないんですね。
    小佐野 あとゴッチさんの練習が本当に大変だったみたい。試合もせずにずっとトレーニング。テレビを見るのもダメだって話だよ(笑)。藤波さんの場合はゴッチ邸に住んでいたんですよ。木戸(修)さんがいたときは、アパートを借りて通いだったけど、木戸さんが日本に戻ったら金銭面でアパートを借りてらんない。だからゴッチさんの家に住み込んだ。
    ――24時間カール・ゴッチは息がつまりそう(笑)。
    小佐野 日本の雑誌はみんな取り上げられた。藤波さんは日本語が恋しくなるんだけど。読めるとしたらゴッチさんの本棚にある難しいレスリングの本しかない(笑)。
    ――ハハハハハハハハハハ!
    小佐野 ゴッチさん以外の人間と触れ合えるのは、ボリス・マレンコがジョー・マレンコを連れて来て練習するときくらい。ディーンはまだ子供だったかな。娯楽が何一つないとなると練習するしかないですよね。ロビンソンと名前がついたスープレックス用の人形を延々とぶん投げたりしてね。
    ――そのかいあって、ぶっつけ本番でドラゴンスープレックスができちゃうわけですね。この記事の続きと、ハッスル誕生と崩壊、スティング、KEI山宮、さくらえみとアイスリボンなどがまとめて読める「12万字・詰め合わせセット」はコチラ
     
  • UFC 200は僕らの期待に応えてくれるのか ■MMA Unleashed

    2016-05-27 09:29  
    55pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム――今回はスーパースター不在のUFC200について! マクレガー、ロンダ不在の影響が数字にも現れる……!?「マクレガー vs. アルド」は120万件、「マクレガー vs. ディアス」は150万件、「ラウジー vs. ホルム」は110万件を売り上げたが、2015年のPPVで、ラウジーもマクレガーも出場しなかった大会の平均売上件数は、36万件に過ぎないのだ。
    UFCナンバーシリーズの大きな区切りとなる「UFC 200」の開催が1か月半後に迫った。「UFC 100」は2009年7月の開催だったから、7年ぶりの記念大会になる。これまでに発表されている主要カードは次の通りだ。
    ダニエル・コーミエ vs. ジョン・ジョーンズ【ライトヘビー級王座統一戦】
    ジョセ・アルド vs. フランキー・エドガー【フェザー級暫定王者決定戦】
    ミーシャ・テイト vs. アマンダ・ヌネス【女子バンタム級タイトル戦】
    ケイン・ベラスケス vs. トラビス・ブラウン
    ジョニー・ヘンドリックス vs. ケルビン・ガステラム 
    たしかにタイトルマッチが3試合も組まれ、上位ランカーが勢揃いした豪華大会には見える。しかしUFCファンであれば、UFC 200記念大会ともなれば、コナー・マクレガーにロンダ・ラウジー、ジョルジュ・サンピエールとアンデウソン・シウバも一堂に会するようなスーパーイベントを期待していたのではないだろうか。一堂に会することは無理だとしても、まさかこの4人の選手が1人も出ないこととなるとは、予想だにしなかったのではないだろうか。UFC 200は本当に、期待に応えてくれる特別な大会になるのだろか。
    今回はこうした点について、米メディアがどのように論評しているのかを見てみよう。
    ●「コナー・マクレガー vs. ネイト・ディアス」がUFC 200で本当に行われなくなるとは意外なことだった。どちらかの選手がケガをしたとか、法外なファイトマネーを要求したとでもいうのならまだわかる。しかしその原因が、マクレガーが大会の11週間前の記者会見に出席するための飛行機に乗らなかったから、というのだから意味がわからない。試合のオファーを飲ませる専門家であるはずのUFCが、自らこの試合を強く希望していたマクレガーを飛行機に乗せられなかったことも不思議だし、自らこの試合を強く希望していたマクレガーが飛行機に乗らなかったことも理解しがたい。片方もしくは双方が意地を張りつづけた結果、記録破りの数字を出し損ねる羽目に陥ったというところだろう。UFCとしては、記者会見への参加は、どれほどスター選手であっても例外なく必須の仕事である、というメッセージを打ち出したかったのだろう。数百万ドルを失ったとしても、長い目で見ればどうしても打ち出さざるを得なかったメッセージだったのかもしれない。この記事の続きと、ハッスル誕生と崩壊、スティング、KEI山宮、藤波辰爾、さくらえみとアイスリボンなどがまとめて読める「12万字・詰め合わせセット」はコチラ
     
  • 新作オススメTシャツはこれだ! 「MMAファッション通信2016」■MMAオレンジ色の手帳

    2016-05-27 09:11  
    55pt
    格闘技ブログ「MMA THE ORANGE」の管理人オレンジがディープなエピソードをお届けする「MMAオレンジ色の手帖」! 今回のテーマは……2016年新作格闘技Tシャツを紹介!
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    詰め合わせセット 記事内容一覧  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1019120
    ◉伝説のレフェリーが語るプロレスの魔術と裏側! 

    ミスター高橋with田山正雄「試合はこうして壊れていく」

    誠心会館、ヘラクレス・ローンホーク、前田日明vsアンドレの場合――!!

    ◉若鷹ジェット信介――ハッスルの最期を看取った男

    黒歴史ファイティングオペラはなぜ消滅したのか? バブルと悪夢を振りかえる!

    ◉新連載!フミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の新連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 初回のテーマはプロレス史上最大の裏切り劇「モントリオール事件」!

    ◉金原弘光のゼロゼロ年代クロニクル⑨ プロレス道場の実態がいま明らかになる!

    UWFが柔術を知った日〜道場はどう変わっていったのか〜 

    ◉好評連載!小佐野景浩のプロレス歴史発見

    我らが英雄ザ・ファンクスの凄み! キミはまだドリーの恐ろしさを知らない……

     

    ◉アメリカ修行中! 堀口恭司の一時帰国インタビュー

    「ヒマすぎて練習しかすることがないんです」

    ◉Omasuki Fightインタビュー

    コナーvsネイトPPV150万件突破……スーパーファイトという麻薬の時代

    ■オマスキファイトのMMA Unleashed

    ・コナー・マクレガー、チキンレースに敗れる? 衝撃の引退騒動を追う

    ・ダラスに響きわたるストロング・スタイルコール!  中邑真輔 10億点のWWEデビュー!

    ・ドキュメンタリー:UFCファイターの試合当日

    ・MMA死ね!ニューヨーク州合法化法案可決も、議会では反対派が本音をむき出しに!

    ■MMAオレンジ色の手帳

    ・やっぱりRIZINが動くとTwitterが揺れる?〜ペットボトル事件を振りかえる〜

    ・格闘家のTwitter事情〜RIZINが動くとTwitterが揺れる?

    ■二階堂綾乃のオールラウンダーAYANO

    ・カール・ゴッチ「歯があるから虫歯になる。全部抜こう」■二階堂綾乃のオールラウンダーAYANO

    ・アマチュアMMA出場必要経費13500円

    ■中井祐樹の「東奔西走日記」

    3月15日〜4月14日編  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1019120

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    皆さん、「Tシャツラブサミット」をご存知でしょうか。全国各地に点在しているマニアックなTシャツのブランドやクリエイターが集結して、直接販売する日本最大級のTシャツ直売イベントです。回を重ねる毎に規模は大きくなり、今年のゴールデンウィーク中に開催された回では出店数は50にも及びました。その中にはジョシュ・バーネットや藤井惠、パンクラスでMMAデビューを果たして脚光を浴びている朱里らのTシャツを手掛ける「アートジャンキー」、アントニオ猪木から佐山サトル、シーザー武志などドマニアックな作品を量産している「ハードコアチョコレート」など、格闘技やプロレスファンにも馴染の深いブランドもイベントの常連。好事家揃いのDropkickの読者の中には実際に足を運んだ事がある方も多いかもしれません。イベントは2日間のフリーパスで入場料はたったの300円。次回は7月9日、10日で開催されるそうなのでTシャツ好きな方はぜひチェックしてみてください。…とまあ偉そうに語りましたが、実は私が参戦したのは前回が初めてという体たらく。いやはやお恥ずかしい限りです。ノリや雰囲気が分からず、小市民根性丸出しで恐る恐る門を潜りましたが、所狭しと展示されているTシャツに圧倒されてもはや虜。「あれもほしい」「これもほしい」とすっかりTシャツ購買意欲に火が点いてしまいました。その欲求はラブサミット後にも収まらず、ゴールデンウィーク中に計6枚のTシャツを購入する始末。我が家のエンゲル係数ならぬTシャツ係数は極みに達しています。さらにタイミングの悪い(逆に良いと言うべきか?)事に、夏に向けて名だたる格闘技系アパレルブランドからもマニアックかつスタイリッシュな新作Tシャツが続々とリリースされているではありませんか。これ以上の無駄遣いはダメとわかっていても手が伸びてしまう。これがTシャツ好きの悲しき性。そんなわけで今回のMMAオレンジ色の手帖はもちろんTシャツネタ。僭越ながら私オレンジがピックアップした格闘技系アパレルブランドの2016年オススメTシャツをご紹介します。さらに今年の春のトレンドアイテム・ベースボールキャップもフィーチャー。ローラや水原希子などのファッションアイコンたちがクールに決めてよく被っていましたが、このトレンドに格闘技系ブランドもいち早く反応。オシャレで日常使い出来るキャップが揃ってきました。私が被ると完全にグリコ森永事件のキツネ目の男になってしまうので泣く泣く控えていますが、この夏にぜひTシャツと合わせてほしいベースボールキャップも取り上げていきたいと思います。題して「MMAファッション通信2016」。今宵も電波と充電の続く限りよろしくお願いします。まず最初にご紹介するのは格闘技系アパレルブランドのパウンドフォーパウンド・reversal。今シーズンも数多くのTシャツがリリースされていますが、その中でも一つの潮流になっているのが格闘技イベント「RIZIN」とのコラボアイテムです。どうしても「RIZIN」のようなビッグネームになると素材自体のキャラが濃すぎて、上手く調理出来ずに消化不良になりがちですが、そこはさすがのreversal。これまでも長州力、スタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント、前田日明といったカルピスの原液のように高濃度の素材を時にはポップに、時には武骨に、時にはスタイリッシュに捌いてきましたが、今回もその手腕をいかんなく発揮してくれました。最初の素材はRIZIN統括本部長・高田延彦。高田本部長の顔を左半分だけ使用するという大胆なデザインに仕上げてきました。半面だけでも一見して高田と認識出来る存在感(笑)。顔全体や全身写真だと野暮ったくなりそうなところを、存在感を十二分に活かして半面だけ使うセンスは心憎い!しかも、プロレスラーや格闘家としての高田ではなく、スーツにネクタイを締めた統括本部長としての高田を打ち出しているのが実に面白い。完全にしてやられました。お茶の間に名前と顔が知れ渡っている高田であれば、街ですれ違う格闘技に興味のない人も思わず振り返って二度見する可能性大。RIZINを世間にさりげなくアピールする意味でもこの夏に着こなしたい一枚です。続いてご紹介する素材は現在進行形のレジェンド2人・桜庭和志と所英男。2人が「RIZIN.1」のグラップリングダブルバウトでタッグを組んだ事を記念してダブルネームTシャツがリリースされました。個人的にはあまり良い思い出のないビッグネーム同士のコラボ企画。かつて「笑っていいとも」の最終回でダウンタウンととんねるずが絡んだ時のよそよそしさや、「神出鬼没タケシムケン」でビートたけしと志村けんの噛みあわなさが今でもトラウマになっていますが、そこもまたTシャツマエストロのreversal。ビッグネーム2人の個性を引き出して上手にまとめているではありませんか。元々、所をサポートしているreversalの定番ビッグマークを基本にしながら、桜庭のアイデンティティーである「39」のマークをプリントして、極め付けは「reversal」ならぬ「revelsaku」!このコラボはマニアにとってはたまりません。高田Tシャツが実写の顔をモチーフにした熱いデザインだったのに対して、一転して桜庭・所Tシャツはロゴと文字、メッセージのみというクールな出で立ち。この振り幅の広さ、引き出しの多さもまたreversalの醍醐味の1つでしょう。今後二度と実現(リリース)しないであろう桜庭・所のレジェンドタッグTシャツ。このチャンスを逃すわけにはいきません!この記事の続きと、ハッスル誕生と崩壊、スティング、KEI山宮、藤波辰爾、さくらえみとアイスリボンなどがまとめて読める「12万字・詰め合わせセット」はコチラ 
  • ファイティングオペラ『ハッスル』とはなんだったのか■中村祥之インタビュー③

    2016-05-23 22:39  
    110pt
    大好評「ゼロワンを作った男」中村祥之インタビュー第3弾。今回は20000字のロングインタビューで伝説のエンタメイベント『ハッスル』を振り返ります! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!中村祥之インタビュー①負けたら即引退試合SP、過激な舞台裏http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar940189②橋本真也、新日本プロレス決別の理由http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar974841<関連記事>【黒歴史ファイティングオペラ】若鷹ジェット信介――ハッスルの最期を看取った男http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1000164長州さんは『ハッスル』の可能性を感じて「これ、天下取れるぞ!」と言いました――ミャンマー、ネパールと海外でのプロレス興行が続いてたことで、海外滞在が長かったようですね。
    中村 今年に入ってからは長かったですね。1月20日にミャンマーに入って、4月のネパールの大会が終わるまでですから、ちょうど3ヵ月。そのあいだ日本にいたのは10日間くらいで。現地で興行の準備はもちろんのこと、後始末もやらないといけないですから。
    ――興行をやってすぐに帰ってくるわけにはいかないんですね。プロレス初開催となったミャンマーは、興行前からトラブルが相次いで大変だったようですし。
    中村 そりゃあもう大変でした。会場も変わるどころか、日にちも変わる(笑)。
    ――日時変更でよく開催できましたね(笑)。
    中村 予定していた会場が使えなくなったことで日時を変更することになったんです。どうして使えなくなったか? 使用する会場は国が管理しているんですけど、ミャンマー新政府が集会をやるから貸せない、と。
    ――納得できない理由ですよね、それ(笑)。
    中村 ちょうど新政府に移行していた時期なので、お上には逆らえないし、異議申し立てできない。海外での興行ではよくあることなんですよね。直前で会場が使えなくて、空き地でやったりするケースもあるし。
    ――というと、会場が使えないことも予測してたんですか?
    中村 あー、してましたね。ただ、大会直前に変更するとは思いませんでした。ミャンマーで興行をやると決めて、今年に入ってから何も言われなかったので、できると思ってて。でも、甘かった。現地入りしてから雲行きが怪しくなってきて、最終的に会場は使えないと。
    ――ギリギリの会場変更は想定してなかったんですね。
    中村 2月13日にやる予定だったんですけど。ラウェイが使ってる会場が借りれるかどうか調べたら、ラウェイは14日に大会が予定されていて、13日は前日準備のため使えない。でも、前々日の金曜日なら貸せるよ、と。
    ――それで日時を1日早めて2月12日やることになったんですね。
    中村 選手の日程も、いろんなトラブルを想定して10日着にしてたんです。遅い組でも11日着。何か問題があって現地入りできないかもしれないので。そうやって備えていたことがラッキーでしたね。12日に試合だったので、これが12日着だったら間に合わない。
    ――トラブル対策が功を奏したんですねぇ。
    中村 2月2日に12日に変更しますと発表したんですけど、現地としては当然延期すると思ってたんでしょうね。「どうする?」と聞かれて即座に「やります」と答えたら「本気か?客は入らないぞ」と。それでもやろうとする僕の熱意を知ったラウェイ協会さんと信頼関係が生まれて。会場だけじゃなくて興行ライセンスもラウェイ協会さんから借りれることになったんです。
    ――ミャンマーで興行をやろうとした以上、ライセンスは持ってたんじゃないですか?
    中村 いや、それが僕も知らなかったんですけど、ミャンマーには3種類の興行ライセンスがあって。田舎で興行ができるライセンス、国内最大都市ヤンゴンでやっていいライセンス、あとミャンマー全土の中で国際選手を招聘してやっていいライセンスがあったんです。僕らは最後のライセンスを持っていないと興行をやっちゃいけなかったんですよね。
    ――ライセンスの詳細を知らなかったんですか?
    中村 知らなかった。現地のパートナーも知らなかった。
    ――では、もし日程トラブルがなくてラウェイ協会との接点が生まれなかったら……。
    中村 選手たちは空港で入国を止められて興行はできなかったでしょうね。日程がズレてラウェイ協会の人たちに知りあえてよかった。ラッキーだった(笑)。
    ――不幸中の幸いどころじゃないですね(笑)。チケットはどれくらい売れたんですか?
    中村 お客さんはおおよそで2000名くらい。チケットも刷り直しで、10日間しかないわりには頑張ったかなって。プレイガイドと言われているところで売れたのはたったの17枚ですからね。当日券でどれだけ動くのかが勝負で。
    ――プロレス初観戦のお客さんの反応はどうでしたか?
    中村 僕が想像していた以上にお客さんの反応はよかったです。プロレスを楽しんでました。オープニングに「プロレスとは……」という紹介映像を流したんですけど、それだけでドカンと沸いて。
    ――前回のインタビューでは、プロレス未開の地で女子プロが強いという話をされてましたけど。
    中村 もう沸きに沸きました。「おしんの娘」という名前でね、やってもらったこともあって(笑)。
    ――おしんの娘って(笑)。やっぱりアジアでおしんは強いですねぇ。
    中村 ミャンマーでも浸透してるんですよ。「おしん」と言っただけでドカンですよ(笑)。
    ――おしん最強!(笑)。
    中村 アジアの女性は基本的に格闘技に興味はないんですけど、おしんだけにはひっかかるということですね(笑)。
    ――「WWE=プロレス」と認知されているミャンマーで、田村潔司選手をメインに据えたのは意外だったんです。田村選手のスタイルだと正直、客受けは悪いだろうな、と。
    中村 やっぱり「メイドインジャパン」のプロレスを持って行きたかったんですよね。WWEのマネはできるんですよ。でも、日本のプロレスを見せたくて。ただ、大谷(晋二郎)社長が海外に行けなかった時期で。子供さんが生まれるかどうかだったので、そこは無理は言えなかったんですね。大谷晋二郎を外したら、鈴木秀樹選手も日本風ですし、大きな会場の見せ方でいえば、KENSO選手もいる。田中(将斗)選手はリングの対戦相手はもちろんのこと、お客さんとも戦うことを知ってるので信頼できる。
    ――その中から田村選手を指名したんですね。
    中村 日本のプロレスはWWEとは違うし、「プロレスってなんなんだろう?」とミャンマーの人に考えさせるような試合を見せたかったんです。ただ、田村さんは、ちょっとナーバスになってましたね。かなりの年数、プロレスの試合をされていないこともありましたし、周囲のレスラーや関係者は田村さんのことを知ってる人ばかりではない。そこを少しでも和らげようとして、U-FILEの大久保選手にもミャンマーに来てもらたっりしたんですけど。
    ――田村選手が戦いやすい環境を作ろうとしたんですね。
    中村 でも、田村選手は対戦相手のジェームス・ライディーンのことを知らないじゃないですか。ミャンマーの人も、田村選手のようなプロレスは見たことない。そういう意味では、いろいろと難しかったかもしれませんけど、田村選手の佇まいは、さすがのものがありますよね。「プロレスはショーだ」と見ているお客さんに「あれ、これはなんなの……?」というエクスキューズは出せたし、今回はミャンマーにはどういうプロレスが向いているのかっていうリサーチ興行にはなりましたよね。ラウェイ協会の方に「事前にテレビでコマーシャルを流していれば、反響はもっと違かった」と言われたり、メディアも100社くらい取材に来てくれていたので。
    ――次回開催はもっとやりやすくなったんですね。
    中村 「年内いつでもできるよ」とは言われてるんですけど、心の準備が……。自分のテンションが高まらないと、できるもんじゃないですよね。ミャンマーをやって次はネパール。いまはちょっと海外でプロレスの興行というエネルギーはないです(笑)。
    ――ミャンマーに続いて行われたネパール大会は、ひさしぶりの興行だったんですよね。
    中村 ネパールは13年にやったのが最後でしたね。大地震で街が壊滅状態。多くの建物が壊れたままで、ネパールの人たちもネガティブな感情を持っていて、向こう10年はプロレスはできないと言われてて。そんな中、去年の年末くらいから「ネパールでプロレスでやりたい!」という若者がチームを作っていて、プロレス開催の機運が高まってたんですよ。でも、いろいろと問題はあって。まず会場の国立競技場は使えても、客席は震災の影響でブロックされてるんですよね。ひび割れの補修には何年もかかるだろう、と。だからグラウンドだけを使ってやることになったんですけど。
    ――普通だったら開催が難しい状態だったんですね。
    中村 地震のあと、ネパールではコンサートから何から何まですべて自粛してたんです。ちょうど僕らの興行と同じ日にクリケットの国際戦が復活したくらいなんですよ。
    ――明るいニュースとしてプロレス興行は歓迎されたんじゃないですか。
    中村 歓迎されましたね。国家元首が会場までに来てくれて。
    ――国家元首が!
    中村 国家元首が来てくれたってことで、興行の様子が翌日の新聞にも載ったんですよね。ありとあらゆるテレビや新聞が扱ってくれたので、選手は翌日から有名人になって(笑)。
    ――プロレスが復興の象徴になったんですねぇ。
    中村 この国家元首は強い人なんですよ。なかなか屈しないことで有名。インドから経済制裁じゃないですけど、ありとあらゆる物資の供給をストップされても、インドにNOを突きつける。人々の信頼が厚い国家元首がわざわざ会場に来てくれて、スピーチもしてくれたんですよね。そういう意味でレスリングの信頼は高まって、大会後には「プロレスラーになりたい!」という問い合わせが100件からあって。
    ――じゃあ、ネパールでも至急開催しないといけないですね(笑)。
    中村 いますぐ乗り込んでやるテンションではないですよね(笑)。
    ◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
    ――それで今日は前回のインタビューの続き、『ハッスル』についておうかがいしたいんです
    中村 『ハッスル』には最初から関わってましたね。
    ――『ハッスル』誕生のきっかけとなった第1次W−1にはタッチしていないんですよね。
    中村 ないですね。W−1は橋本さんが出場したくらいかな。
    ――あ、出てましたね。破壊王とジョーサンとシングルマッチ(笑)。
    中村 W−1って、いまのプロレス団体になる前にも何かありませんでしたっけ?
    ――上井(文彦)さんが矢面に立っての第2次W−1もありました。第2次も旧K−1の主導でしたけど、第1次はK−1、PRIDE、全日本プロレスの協力体制が敷かれていて。
    中村 そうだそうだ! W−1と契約したゴールドバーグが全日本に来てましたよね。
    ――ゴールドバークは、当時PRIDEの常務だった榊原さんの会社と契約したんですよね。
    中村 それで全日本に貸したんですけど、W-1も続かなくて契約を消化できなかった。
    ――そのうちK−1とPRIDEがケンカ別れして、ゴールドバークの契約を消化するために榊原さんがDSE主催のプロレスイベント『ハッスル』をやることになって。
    中村 そうだそうだ(笑)。橋本さんが出たW−1は東京ドームですよね?
    ――それが第1次W−1の最終興行ですね。その前後に石井館長の脱税逮捕、森下社長の自殺もあったりして、マット界激動の時期だったんですけど。
    中村 『ハッスル』というイベントが始まったのは04年1月4日ですけど……『ハッスル』という名前になるまでも数ヵ月かかってるんですよね。DSEとしては、PRIDEは格闘技として成立しているから、プロレスイベントをやるなら住み分けをしていきたい、エンターテインメントとして振り切っていきたい、と。でも、僕たちの立場では、そういうことはなかなかできないんですよ、正直。
    ――DSEはプロレス界の外にいるけど、中村さんたちはプロレス界の中にいるわけですもんね。
    中村 そうです。なんだかんだ山口(日昇)さんを窓口としてDSEと話をしていったんですけど。
    ――山口日昇は当時kamiproの編集長で、榊原さんのブレーンでしたね。
    中村 最後の最後には高田(延彦)さん、小川(直也)さん、橋本さん、榊原さん、山口さんらがいる緊迫した空気の中、『ハッスル』はどういったものを打ち出すのかという会議をやって。
    ――それまで小川さんとDSEの仲は良くなかったんですけど、『ハッスル』をきっかけにして関係は修復されていきましたね。
    中村 これは個人的な考えですけど、DSEはまずプロレスで小川さんと信頼関係を築いたうえで、PRIDEにも出したかったんじゃないかなって。
    ――つまり、田村さんをPRIDEを出すためにDSE仕切りのUスタイルイベントを有明コロシアムでやったようなもんですよね。
    中村 そうそう(笑)。
    ――小川さんがPRIDEヘビー級GPに出たことでDSEは莫大な収益を上げましたから、『ハッスル』の投資は安いもんだったのかもしれません(笑)。
    中村 小川さんとプロレスの話をしてみると、WWEが大好きなんですよね。だから『ハッスル』は乗りやすいコンテンツだったんじゃないかな、と。小川さん本人としても新日本プロレスではないステージで、新たなプロレスの実績を作っていこうとするモチベーションは凄く高かったことをおぼえてます。小川さんの意見も会議で取り入れられていくので、新たな刺激を持って臨める場だったんじゃないですかね。
    ――小川さんは先頭に立っていろいろやりましたよね。 
    中村 小川さんは本気で世間にアピールしていこうとしてましたよね。そこは猪木イズムっていうんですかね。対世間というものを意識して「あの小川さんがここまでやるの?」って我々スタッフも引っ張られていきましたから。作/アカツキ
    ――でも、中村さんの立場からすれば「これはちょっと……」という企画は多かったんですよね。
    中村 プロレス側の人間だったので、即答でイエスと答えられないことが多かったんですよ。「ここまではできますけど、そこはどうでしょう?」と変にプロレスを守ろうとしてしまった。そこで「プロレスと名乗らないのであればできます」と。だから『ハッスル』は「ファイティングオペラ」を名乗るようになったんですよ。
    ――劇的に変わったのは、『ハッスル2』に高田総統が登場して、ハッスル軍vs高田モンスター軍の構図ができてからでしたね。
    中村 『ハッスル1』は高田本部長のままだったけど。
    ――高田延彦として小川さんと橋本さんと乱闘してたんですよね。高田総統が初登場した横浜アリーナは、あまりにも意味不明すぎて冷えきってましたけど(笑)。
    中村 あの冷え切った感がのちのちの爆発に繋がると思うんですけどね(苦笑)。
    ――しかし、高田さん、「高田総統」の変身によくOKを出しましたね。
    中村 「このアイデアを誰が高田さんに言うのか」っていう問題はあったんですけど(笑)。ところが、実際に高田さんに話を振ってみたら即座に「やろう!」と。高田本部長のまま『ハッスル』に出るのは気持ちが悪かったんでしょう。「こっちのほうがやりやすい」ということで。
    ――高田本部長のままだと、逆にリアリティがないんじゃないかということですよね。
    中村 PRIDEも『ハッスル』も、どっちも得をしない。高田本部長と高田総統にキャラ分けすることに高田さんはノリノリで。小川さんもそういう路線に乗ったし、橋本さんも悪ふさげじゃないですけど、「俺はジュリー(沢田研二)みたいになりたい!」と(笑)。
    ――ハハハハハハハハハハ! さすが破壊王!
    中村 船頭たちがやると言った以上、ほかの選手もやらなきゃダメな流れになって。高田総統も最初は笑われていましたけど、『ハッスル』初の後楽園ホール大会『ハッスルハウス』からコツを掴んだ感じはありました。あの大会、20分でチケット売れ切れですよ。ファンからも大会内容を絶賛されて。
    ――それまでは大会場だったから熱がバラけてたんですけど、密度の濃い空間でやることで、ようやく『ハッスル』が弾けた感じはありましたね。1月4日の『ハッスル1』なんて、4日前の大晦日PRIDE男祭りの会場仕様のままだから悲惨な客入りだったんですけど(笑)。
    中村 『ハッスル1』のときは、4万人収容できるスタジアムバージョンですよね。7000人の観客発表だったけど、会場はスカスカだったじゃないですか。大晦日のPRIDEはギチギチに入っていたのにね。
    ――『ハッスル1』は新日本プロレスの東京ドームと興行戦争になりましたし、無謀にもほどがあるというか。
    中村 もちろん3日や5日にズラすことも考えたんですよ。挑戦するじゃないですけど、あえてぶつけたところはありましたね。
    ――そこはDSEが考えそうなことですよね。
    中村 『ハッスル』って、僕らのプロレスの基本的な考えと、DSEの希望をすりあわていくスタイルでやってたんですけど。キ◯ガイみたいに会議をさせられましたよ。1日10時間を週5回やってましたね(笑)。
    ――そんなに!(笑)。
    中村 なかなか決まらないわけですよ。要はDSEのプロレスチームは“プロレス素人”ばっかでしょ。プロレス学でいえば1時間で終わるようなことでも「こうはできないのか?」という話になって、ワガママな希望がガンガン出てくるんですよ。
    ――プロレスを知らないからこそ、良くも悪くも発想に限界がない。
    中村 あるときの会議なんて、写真集が持ち込まれて「インリン・オブ・ジョイトイで何かできないか?」と。そんなところから話が始まるんですよ?(笑)。
    ――ほぼ無茶ぶりから始まるんだから、1日10時間の会議は必要なんですね(笑)。いまでこそ「芸能人プロレス」のかたちは築かれてますけど。
    中村 インリンさんは最初は東海テレビマターの企画だったんじゃないかな。
    ――インリン様って最初はマネージャー的役割で試合をする感じじゃなかったですよね。
    中村 そこから話がどんどんと進んで「インリン本人は試合をしてもいいと言っている」と。でも、僕らからすれば「プロレスをナメるな!」っていう話になるんですけど、運営側は「これはプロレスではない。ファイティングオペラだ」と。
    ――でも、リングでやることはプロレスですよねぇ。
    中村 そうそう(笑)。リングに上がる以上、危険を伴う。ましてやインリンさんのビジュアルを保つためにヒールを履いて試合をする、と。ピンヒールだとマットに食い込むから「ヘタしたら足首を折れますよ」と言ったんですけど。
    ――ヒールを履いてプロレスって、インリン様ってけっこう高度なことをやってるんですよね。
    中村 だから改良に改良を重ねて、プロレス専用のヒールを開発してね。
    ――プロレス専用のヒール! お金をかけるなあ(笑)。
    中村 それにインリンさんがよく練習した。プロレスに没頭してた。そこは凄いなって思いました。で、そのインリンさんを世の中にどう打ち出すかってなったときに、これはボクが発案者のひとりなんですけど、大きなニュースにしたければ小川さんに任せるしかない、と。
    ――それで小川直也vsインリン様が実現したんですね。
    中村 「ありえない」ことをやるのが『ハッスル』でしょう、と。小川さんは即答でOK。あとはどうケガをさせないかを考えると、インリンさんと小川さんのシングルマッチはできないじゃないですか。運営側がボクの顔を見て「素人さんができるなら、プロレス団体の人間ならできるよね」ってことで、僕も試合に出ることになって。
    ――ありえないことをやるのが『ハッスル』!(笑)。
    中村 運営側の提案に「NO!」と言える隙はなかった(笑)。2vs2でも成立しないということで最終的に3vs3。小川さんとインリンさんの試合を成立させるための兵隊がそれぞれ2人ずつ。
    ――それでインリン様、アリシンZ、ダン・ボビッシュvsHikaru、中村カントク、小川直也の6人タッグマッチになった。同じ“素人”の中村さんが入ることでバランスを取ったんですね。
    中村 リングでボクが一番最初にインリンさんと戦ってるんですよ。携帯電話のカメラでインリンさんを激写するというね(笑)。
    ――どんなプロレスデビューなんですか(笑)。 
    中村 愛知県体育館のメインイベントで、素人のボクがどの面下げてリングに上がればいいんだって話ですよ。そこは葛藤したどころじゃなかったですよ、ホントに。
    ――プロレスの怖さをよく知ってるわけですもんね……。
    中村 最後はダン・ボビッシュにF5で投げられて、クルクルと宙を飛んだんですよ……。リングに落ちるとき怖いから手をついたら、両肩亜脱臼。
    ――うわあ……。 
    中村 本当に怖かったですよ。
    ――しかし、素人になんでそんな大技を……。
    中村 運営側は深く考えてないから(笑)。「早く治してください。次もありますからね!」ってそんな軽いノリかいって。
    ――あの試合で小川さんはインリン様にM字固めでピンフォール負けして、『ハッスル』の目論見どおり大きな反響がありましたね。
    中村 試合が終わった瞬間に対世間にアプローチできたなって思いましたね、そこは勝った負けたじゃなくてね。
    ――インリン様って奇跡が多かったですよね。川田選手に回転エビ固めでフォール負けしたときも、そのはずみで身体の一部であるムチを投げたら、見事にロープに引っかかってロープブレイクになったり。
    中村 あれはリング下のセコンドの誰かが、インリンさんが投げたムチをこっそりロープにかけておく、という話だったんですよ。でも、ムチを投げたらロープに見事に引っかかった。あれ、とんでもない確率ですよ。
    ――あとで『ハッスル』道場でロープに引っかかるか実験したら、一度も実現しなかったとか(笑)。芸能関係で言えば、狂言師・和泉元彌の参戦もワイドショーで毎日のように取り上げられましたね。
    中村 「空中元彌チョップ」のときですよね。
    ――参戦のきっかけも、DSE社員が和泉元彌の同級生だったとかで。そこから話が拡がるのもどうかしてるんですけど(笑)。
    中村 そうそう(笑)。和泉元彌さんもよく練習してましたね。『ハッスル』は人材にもお金をかけてましたけど、準備にもお金をかけてましたよ。
    ――どれもダラダラした試合にならなかったし、芸能人プロレスの基礎を作りましたよね。
    中村 しょっちゅう記者会見なんかで青山のDSE事務所に呼び出されていろいろやっていたし。事務所近くの喫茶店でモンスター軍に襲撃されたりしてね。
    ――それ、警察に通報されて大騒動になったんですよね(笑)。
    中村 DSEの社員がメチャクチャ怒られてましたよ(笑)。だいたいボクは素人なんですよ。「中村カントク」として野球のユニホームを着させられてオープニングアクトをやることだって、いま考えたらおかしな話なんですよね。ドリフターズのDVDを渡されて『8時だョ!全員集合』のオープニングダンスをおぼえろって命令されたりね(笑)。
    ――ハハハハハハ! 長州さんくらいですよね、運営側の要望をはねつけたのは。
    中村 運営側が長州さんを『ハッスル』に出したいと。その理由が長州さんに『ハッスル』ポーズをやらせたいから。そこに拘ってるんですよ。ボクは絶対にやらないと思ってたし、『ハッスル』ポーズをやるくらいなら長州さんは新日本プロレスに戻るくらいの人ですから。でも、長州さんはネゴシエーションを取っていけば聞く耳を持たない人ではない。なんだかんだあって、長州さんが『ハッスル』に出るときに、DSEの事務所で高田さん、小川さん、橋本さん、長州さんという4巨頭の顔合わせがあったんですよ。
    ――その顔合わせだけで金が取れます!(笑)。
    中村 一部の関係者以外はシャットアウト。もうね、張り詰めてましたね、空気が。凍ってましたよ。長州さんと高田さんは久しぶりの顔合わせ。小川さんと長州さんも浅からぬ因縁がありましたし。運が悪いことに高田さんの「泣き虫」という本が出てしまったんですよ。
    ――高田さん自身のプロレス史を振り返った本が、『ハッスル』開始直前に出版されたんですよね。その内容に多くの人間は“暴露本”と捉えて。
    中村 DSEの人たちは、ああいう本が出ることを知っていたのに、ひた隠しにしてたんですよ。
    ――中村さんが知ったのはどのタイミングだったんですか?
    中村 『ハッスル』旗揚げの記者会見の数日前です。
    ――酷い。本当に酷い(笑)。
    中村 こっちが『ハッスル』から引けないところまで引っ張って「じつはこういう本が出るんです」と。
    ――あの本の筆者は金子達仁であって、高田さんではないという言い訳ができましたけど……。
    中村 まあでも通用しないですよね(笑)。ゼロワンとしても、『ハッスル』から引いたほうがいいんじゃないかという話になって。それこそミスター高橋本の高田さん版じゃないですか。そんな高田さんが関わるなんて、プロレス界からすれば、とてつもなくイヤなイベントですよね。
    ――『ハッスル』ってプロレスマスコミからは徹底的に嫌われてましたけど、まあ当たり前ですよね(笑)。
    中村 一番嫌われてたと思うんですよ。でも、それすらも『ハッスル』でネタにしてしまうしかないんじゃないか、と。しょうがない、出ちゃうんだからって感じになって。
    ――そのあと『ハッスル2』の進行台本が流失した事件もありましたよね。『アサヒ芸能』に掲載されて。
    中村 あれも『ハッスル』が意図的にやったんじゃないかって思われるわけですよ(苦笑)。あの進行台本には事細かにいろんなことが書いてあって。『ハッスル1』のときから「こういったものを配るのはマズいですよ」とは言ってたんですけど。プロレス界ではありえないじゃないですか。
    ――そんな物騒なものを裏方全員に配ってたんですね(笑)。
    中村 「これ、回収するんですか? 家に持って帰られたら大変なことになりますよ」「そこまで言うならナンバリングを振って回収する」と言ったはずの台本が流失するという(笑)。
    ――ハハハハハハハハハハ! ズンドコすぎます(笑)。
    中村 ナンバリングしたところでコピーを取られたら犯人はわからないじゃないですか。「泣き虫」に続いて、それすらも『ハッスル』の流れに組み入れるしかないだろうってことになって。
    ――中村さんがリングで白紙の台本を叩きつけて、ウヤムヤにしてましたね(笑)。そんな出だし最悪な『ハッスル』に、あの長州さんがよく上がりましたねぇ。この記事の続きと、ハッスル誕生と崩壊、スティング、KEI山宮、藤波辰爾、さくらえみとアイスリボンなどがまとめて読める「12万字・詰め合わせセット」はコチラ 
  • アメリカ主流メディアで語られ始めたジャパニーズ・プロレス■MMA Unleashed

    2016-05-19 20:11  
    55pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム――今回はアメリカメディアでジャパニーズプロレスはどう取り上げられているのか? 必読!
    アメリカ主流メディアで語られ始めたジャパニーズ・プロレス
    昨年から今年にかけて、アメリカでの新日本プロレスの人気はジワリと確実に広がりを見せているようだ。新日本プロレスワールドでは英語版のストリーミング中継が行われ、また米ケーブル局AXNでは約1年前のワールドプロレスリングが実況ジム・ロス、解説ジョシュ・バーネットという強力な布陣で毎週じっくり放送されている。こうした状況をうけて、ローリングストーン、スポーツイラストレイティッドなどの大手メディアが、新日本プロレスの選手のインタビューを掲載したり、新日本を中心に日本のプロレスがらみの記事を掲載することが散見されるようになってきた。そこで今回は、プロレスメディアではなく、こうした米大手メディアに掲載されたインタビュー記事で選手たちがどんなことを語っているのか、そのごく一部をつまみ食いするように紹介してみたい。
    ●フィン・ベイラー(プリンス・デービッド)
    スポーツイラストレイティッド 2015年4月14日
    プロレスは国によって違いがある。イギリスのプロレスは、技術的に正確だ、メキシコはハイフライ、日本はハードヒットだ。WWEはこうしたさまざまなスタイルのハイブリッドであるように思う。当然そこにテレビ番組としてのプロダクションが乗ってきて、トータルパッケージになっている。
    (WWEパフォーマンスセンターで故ダスティ・ローデス氏に指導されたことについて)
    ダスティはこう言っていた。「フィン、キミのリングでの仕事ぶりは高いレベルにある。しかし、しゃべりのレベルが低い。もっとバランスをとらないといけない」。彼はいつもストレートで要点をついてきた。こんなことも言われたよ。「プリンス、君が来る前に、みんなが君の話をしている様子を聞いていたから、てっきりルー・テーズみたいな男がやってくるのかと思っていたよ」。ダスティからはたくさんのことを学んだし、自信を与えてもらった。
    日本を離れることになる数年前から、WWEからは声をかけられていた。ただ、その時にはまだ仕事場を変える機が熟していないと思っていたんだ。日本でのキャリアにも満足していたし、まだまだ技術を磨く必要があると思っていた。でも去年、また声をかけられた時に、今しかないのかな、と思うようになった。100%の確信があったわけじゃないんだ。ただ、今決めなければ、もう決められないのではないかと感じた。
    子どもの頃には絵に夢中だった。高校で成績が良かったのも、美術だけだ。プロレスをのぞけば、人生の進路として考えられたのは芸術だけだった。18歳で高校を卒業した時には、アートスクールに願書も出していた。でも第1志望はプロレス学校だったから、そちらに専念することにしたんだ。自分の人生の中で、アートはずっと、後の楽しみにとってあるんだよ。この記事の続きと、ハッスル誕生と崩壊、スティング、KEI山宮、藤波辰爾、さくらえみとアイスリボンなどがまとめて読める「12万字・詰め合わせセット」はコチラ
     
  • どうなるUFC日本大会の点と線――■事情通Zの「プロレス点と線」

    2016-05-19 19:48  
    55pt
    事情通Zがプロレス業界のあらゆる情報を線に繋げて立体的に見せるコーナー「プロレス 点と線」。今回は「UFC売却」「日本大会」などUFCにまつわるお話です!事情通Z 「MMAボンヤリ層」の私でもUFC売却報道で大騒ぎなのは伝わってます。
    ――UFCの売却報道に関しては、清水健太郎や田代まさしの「◯年ぶり△回目」逮捕レベルだったりしますからね(笑)。それくらいUFCが大企業として評価されてるという証ではありますけど。
    Z でも、今回はかなり具体的な情報が出てるよね。40億ドルで中国系企業に売るとか。
    ――いろんな噂が流れてますよね。中でも興味深いのは、UFCオーナーのロレンゾ・フェティータがNFLのフットボールチームを持ちたいから、企業価値が高まっているUFCの売りどきなんじゃないか、と。
    Z NFLのチームを持つのは究極のアメリカドリームだからなあ。どうせならビンス・マクマホンがかつて設立した伝説のフットボールリーグXFLを復活させよう!(笑)。
    ――1シーズンで終了したリーグなんて縁起でもない(笑)。たしかにUFCは企業としていまが売りどきなんでしょうけど、ロレンゾはMMA大好きだし、UFCにはかなりの愛着があると思うんですよね。この記事の続きと、ハッスル誕生と崩壊、スティング、KEI山宮、藤波辰爾、さくらえみとアイスリボンなどがまとめて読める「12万字・詰め合わせセット」はコチラ
     
  • 【移籍初戦完勝】堀口恭司インタビュー「いろいろと試せました。次はもっとやれます!」

    2016-05-19 19:01  
    55pt
    今年からアメリカン・トップチームに移籍、日本からアメリカに活動拠点を変えた堀口恭司。移籍第1戦となったUFCオランダ大会のニック・シーリー戦は完勝。フライ級4位の安定感を見せつけた堀口。現在休養も兼ねて帰国中のところをキャッチした。――久しぶりの日本帰国……ではないんですよね。UFCオランダ大会の試合前にも帰国されていました。
    堀口 もともと試合後に日本に戻る予定だったんですけど。こないだはリーボックの仕事が入っちゃったりしたんで。
    ――前回がイレギュラーな帰国だったんですね。今回はどれくらい滞在されるんですか?
    堀口 3週間くらいですね。ホントは2週間の予定だったんですけど、アメリカン・トップチーム(以下ATT)のコーチが「おまえは練習し過ぎだから、もっと休め!」ってことで。日本でも練習してますけど(笑)。
    ――完全オフではないんですね。
    堀口 感覚が鈍るのはイヤなので。一回でも鈍ると取り戻すのに倍以上の時間がかかりますし。そこだけは鈍らないように何かしら身体を動かしてますね
    ――今回の試合でオランダは初めて行かれたそうですね。
    堀口 はい。アメリカよりも日本っぽい感じでしたね。路地が狭いというか、車も小さいし。
    ――オランダってそんなに大きな国じゃないですね。
    堀口 いま自分が住んでるところがフロリダなんですけど、ただただ広いんですよね(笑)。オランダは狭い町並みだし、高層ビルもたくさんあって、水路が開けてるので、そこは横浜っぽくて。そういう意味ではどこの国も変わらないなって感じですけど。家族が応援に来てたので試合翌日に1日だけアムステルダムを観光して。観光にはまったく興味がなかったですけどね(笑)。
    ――UFCはオランダ初開催でしたけど、普段のUFCとの違いはありましたか?
    堀口 前座試合からお客さんが入ってたんですよね。いつもはガラガラじゃないですか。
    ――メインカードの頃に埋まっていく感じですけど。初開催ということで待望感があったんですかね。
    堀口 試合も最初のほうから盛り上がってましたよね。自分の対戦相手はアイルランド人でオランダとはまあまあ近いじゃないですか。アウェイかなって思ってたんですけど、そうでもなくて。自分にも応援の声が意外と飛んでたし、あと「日本から見に来た」って人もいましたね。
    ――佐々木憂流迦選手も出ていたから日本からの現地観戦組がけっこういたのかもしれませんね。
    堀口 あと今回は食べ物を用意してくれるスペース(通称グリーンルーム)があって。そこで大会終了後までダラダラと過ごせたんです。以前はロッカールームで大会が終わるのをお腹を空かせながらずっと待ってたんですけど(苦笑)。去年の後半くらいから、飯を食いながらテレビで試合が見れるスペースができて。
    試合後、グリーンルームで対戦相手のニール・シーリーとツーショット。――試合が終わったらホテルに勝手に帰っちゃダメなんですか?
    堀口 ダメです。選手全員でホテルまでバス移動なので。――UFCって会場とホテルが隣接してるケースがありますけど、そういう場合でも帰っちゃダメなんですか?
    堀口 ダメっすよ、基本的に。選手によっては試合後の記者会見に呼ばれたりもするので、UFCから指示があるまで帰れないですよね。この記事の続きと、ハッスル誕生と崩壊、スティング、KEI山宮、藤波辰爾、さくらえみとアイスリボンなどがまとめて読める「12万字・詰め合わせセット」はコチラ 
  • Dropkickメルマガ好評インタビュー一覧

    2016-05-16 10:46  

    Dropkickメルマガのロングインタビュー一覧表。試し読みもできます! 名前をクリックすると記事に飛びます!ミスター高橋with田山正雄レフェリーの魔術「試合はこうして壊れていく――」 若鷹ジェット信介黒歴史ファイティングオペラ――ハッスルの最期を看取った男 斎藤文彦INTERVIEWS①プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」■ 金原弘光UWFが柔術を知った日〜道場はどう変わっていったのか〜 上田勝次FMWを支えたキックボクサー「アイツが死んで以来、ヒジは使ってないよ…」 追悼・堀辺正史矢野宅見「ダメなお父さんでしたねぇ……」 鈴木秀樹「はぐれIGF軍団」誕生秘話 佐藤嘉洋マット界初! 選手組合「日本キックボクシング選手協会」とは何か? 中村祥之ZERO-ONE激動の旗揚げ 金原弘光鬼が作るUインターの激ウマちゃんこ 山本淳一元・光GENJI、プロレスデビューを語る 大沢ケンジ
  • 禁断の帰還――さくらえみとアイスリボンの点と線■事情通Zの「プロレス点と線」

    2016-05-16 09:43  
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    事情通Zがプロレス業界のあらゆる情報を線に繋げて立体的に見せるコーナー「プロレス 点と線」。今回はアイスリボン10周年興行に電撃参戦した、創始者さくらえみの点と線です!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
    詰め合わせセット 記事内容一覧  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1019120◉伝説のレフェリーが語るプロレスの魔術と裏側! 
    ミスター高橋with田山正雄「試合はこうして壊れていく」
    誠心会館、ヘラクレス・ローンホーク、前田日明vsアンドレの場合――!!
    ◉若鷹ジェット信介――ハッスルの最期を看取った男
    黒歴史ファイティングオペラはなぜ消滅したのか? バブルと悪夢を振りかえる!
    ◉新連載!フミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の新連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 初回のテーマはプロレス史上最大の裏切り劇「モントリオール事件」!
    ◉金原弘光のゼロゼロ年代クロニクル⑨ プロレス道場の実態がいま明らかになる!
    UWFが柔術を知った日〜道場はどう変わっていったのか〜 
    ◉好評連載!小佐野景浩のプロレス歴史発見
    我らが英雄ザ・ファンクスの凄み! キミはまだドリーの恐ろしさを知らない……
     
    ◉アメリカ修行中! 堀口恭司の一時帰国インタビュー
    「ヒマすぎて練習しかすることがないんです」
    ◉Omasuki Fightインタビュー
    コナーvsネイトPPV150万件突破……スーパーファイトという麻薬の時代
    ■オマスキファイトのMMA Unleashed
    ・コナー・マクレガー、チキンレースに敗れる? 衝撃の引退騒動を追う
    ・ダラスに響きわたるストロング・スタイルコール!  中邑真輔 10億点のWWEデビュー!
    ・ドキュメンタリー:UFCファイターの試合当日
    ・MMA死ね!ニューヨーク州合法化法案可決も、議会では反対派が本音をむき出しに!
    ■MMAオレンジ色の手帳
    ・やっぱりRIZINが動くとTwitterが揺れる?〜ペットボトル事件を振りかえる〜
    ・格闘家のTwitter事情〜RIZINが動くとTwitterが揺れる?
    ■二階堂綾乃のオールラウンダーAYANO
    ・カール・ゴッチ「歯があるから虫歯になる。全部抜こう」■二階堂綾乃のオールラウンダーAYANO
    ・アマチュアMMA出場必要経費13500円
    ■中井祐樹の「東奔西走日記」
    3月15日〜4月14日編  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1019120
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    ――アイスリボン10周年記念大会に同団体創始者さくらえみ選手が電撃参戦しましたが、その参戦経緯を含めて刺激的で興味深い流れがあったそうですね。
    事情通Z いやあ、急展開も急展開で凄かったですね。まず、さくら選手とアイスリボンの関係から説明すると、アイスリボンはさくら選手が2006年に作ったプロレス団体。いや、団体というよりは、mixi発のプロレスサークル。最初はリングではなくマットを使用していたし、プロレス団体旗揚げという発進ではなかった。
    ――mixi発というのが時代を感じさせますね(笑)。
    Z mixi発プロレスサークルとして小規模ながらだんだんと話題になり、人気を集めていったことで、プロレス団体になっていくんだけど。ネオプラスという映像制作会社が運営母体についたことが大きい。道場兼試合会場ができて、定期的に興行をやるようになった。
    ――そんな中、突然さくら選手は退団しますよね。
    Z スタートから6年目の2012年1月に退団。さくら選手の教え子たちも後を追うようにやめていった。そして、さくら選手は退団以降、一度もアイスのリングには上がっていない。
    ――いったい何があったんですか?
    Z 直接的な原因をさくら選手は口にしてないですけど、さくら選手としては仲間内でやっていたアイスが、ちゃんとしたプロレス団体になっていったことでズレが出てきたと思うんですね。
    ――方向性の違いってやつですね。
    Z さくら選手がいまやってる我闘雲舞を見ると、やりたことはああいうサークル的なものだと思うから、運営母体のネオプラスと相譲れないものがあったんじゃないかなあ、と。袂を分かった理由はネオプラス側も明言していないけど。
    ――さくら選手が抜けたことで「今後のアイスリボンはどうなるんだろう?」と不安をおぼえたファンは多かったと思うんですね。
    Z それにアイスの多くの選手は、さくら選手に「プロレスをやってみない?」と声をかけられて、最初は身体を動かす程度だったのが、経験を積んでデビューしていったわけだから。精神的支柱が抜けたら選手も不安になるよね。さくら選手についていかないまでも、退団したりする選手は多かったんだけど、さくら選手と比較的長く時を過ごした選手の中で、アイスに残ったのが藤本つかさ選手。
    ――今回の10周年記念興行でさくら選手と対戦したアイスリボンのトップレスラーですね。
    Z 藤本選手もさくら選手にプロレスを教わったので、一緒に離れてもおかしくなかったんだけど。藤本選手は、さくら選手離脱後のアイスを引っ張っていった選手なんですよ。チームリーダー的立場にあった藤本選手が離れると、下の子が置いてけぼりになってしまう。藤本選手は責任感が強かったから抜けられなかった。
    ――そうやって“さくらえみ後”のアイスリボンは続いていって。
    Z やっぱりちゃんと道場を持っていると、週に1度は興行できる強みがありますよ。プロレスサークルの活動もできるし、定期的に100人の観客を集められる。小さいな団体のわりには採算ベースにも乗ってると思うんですね。
    ――さくら選手とは別にして、我闘雲舞とアイスリボンの交流もなかったんですよね。
    Z なかった。表立って喧嘩別れしたわけじゃなかったけど、関わることは一切なかった。アイスの選手が出ているWAVEやOZアカデミーに、我闘雲舞の選手が出ることもなかった。
    ――接点が生まれようないんですね。
    Z そこはたまたまなのか、どちらが意図的に避けてるのかはわからないけど。対戦どころか、同じリングに上がったこともほとんどないんじゃないかなあ。
    ――その徹底ぶりは凄いなあ。それがここに来て、邂逅を果たしたわけですから面白いわけですね。この記事の続きと、ハッスル誕生と崩壊、スティング、KEI山宮、藤波辰爾、さくらえみとアイスリボンなどがまとめて読める「12万字・詰め合わせセット」はコチラ