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記事 41件
  • スーパー・ストロング・マシンが戦った熱き時代■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-07-13 11:37  
    85pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「スーパー・ストロング・マシンが戦った熱き時代」です!【関連企画】
    おまえ平田だろ! 平田淳嗣の「スーパーストロングなプロレス人生」 




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    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――今回のテーマは先日引退された平田淳嗣さんを……。
    小佐野 (さえぎって)いや、平田さんが引退したんじゃなくてスーパー・ストロング・マシンが引退したんだけどね。
    ――あ、失礼しました(笑)。
    小佐野 平田さんは一度もマシンの正体を口にしていない。素顔の平田淳嗣で戦ったことはあるんだけどね(笑)。以前Gスピリッツでヒロ斎藤と対談をやったことがあったんです。カナダから帰ってくるまでの内容は平田淳嗣として語っていて、次号の帰国後の話はスーパー・ストロング・マシンが登場している。そこには強い拘りがあるんですよ。
    ――引退式の挨拶では、今年に入って奥さんが亡くなられたことを明かしていましたね。
    小佐野 そのことは知らなかった。新日本プロレスとの契約が切れた時期と、奥さんが亡くなったのが被っちゃったみたいで……本当に気の毒だよねぇ。
    ――言葉に詰まりますねぇ……試合からは遠ざかってましたが、道場のコーチとして練習生の指導をされていて。
    小佐野 私が道場に取材に行くと、平田さんだけじゃなくて道場管理人の小林邦昭さんもいたりして。新日本の選手が巡業に出ているときは、長州さんやヒロちゃんが練習に来たりするから、まるで昭和の新日本道場にタイムスリップしたかのような雰囲気なんですよ(笑)。 
    ――新日本の道場ってオープンですよね。
    小佐野 オーナーが変わって新しい会社になったけども、新日本のOBが顔を出しづらいとかはない。長州さんたちは功労者だから練習するぶんには全然OKなんでしょう。若い選手もOBと接することで何かしらの勉強になるわけだしね。そういえば、棚橋弘至がケガしてシリーズを欠場して道場に残っていたときに、長州さんと長らく話をしたらしいよ。
    ――そういう交流もあるんですねぇ。小佐野さんはマシンとはいつくらいから面識があるんですか?
    小佐野  私は『ゴング』に入る前に新日本プロレスファンクラブをやっていたから、もともと面識はあったんですよ。『ゴング』では全日本担当だったから、取材するようになったのは全日本を主戦場としていたカルガリー・ハリケーンズ時代になるんだけどね。
    ――ヒロ斎藤、高野俊二(高野拳磁)とのユニットですね。
    小佐野 カナダから帰ってきてストロング・マシンになった頃の彼は、反骨の人だったよね。
    ――温厚な性格という話ですけど……。
    小佐野 激しいものを芯に持っていた人だから、マスクを被ると別人格になるってよく言われるし、マスクマンが性に合っていたんだと思う。とくに帰国直後は新日本に対する怒りや不満が充満していた。会社不信の理由の一つは海外遠征でメキシコに行かされたこと。最初はカルガリーに行く予定で、当時新日本に参戦していたブレット・ハートとも仲が良かったんだよ。ところがメキシコに変更になったと聞かされたときは、合宿所の部屋の鍵をかけて閉じこもっちゃって、合同練習にも出てこなくなっちゃった。平田さんの心情を理解していた山本小鉄さんも怒らなかった。
    ――そこまでショックだったんですか!(笑)。
    小佐野 当時のメキシコは身体の小さい人が行かされる、島流しのイメージが強かったんだよ。「ああ、あいつはメキシコか」なんて残念がられてね。なぜメキシコに変わったかといえば、長州さんがメキシコに行っていたでしょ。帰国後に「噛ませ犬」発言でブレイクしたんだけど。その長州さんの代わりのヘビー級選手をよこしてほしいというリクエストがあったんだよ。当時の平田さんは黒のタイツに白いシューズ。長州さんと似たような出で立ちということもあって。
    ――本人からすれば、たまったもんじゃないですねぇ。
    小佐野 1年ぐらいして自力でカナダに渡って。アメリカ本土で試合をしたいからキラー・カンと話をしてテキサスに行こうとしたら、坂口さんから「テキサスの前に一度帰ってこいよ」と。当時の新日本はUWFや維新軍が抜ける直前で大ピンチだったから。 
    ――それで帰国してみたら……。
    小佐野 マスクマン計画があると。本人はイヤでイヤでしょうがなかったけど、仕方なく命令に従った。それが幻の「キン肉マン」。
    ――日本テレビでアニメを放映していた「キン肉マン」をテレビ朝日に登場させるって凄い企画ですよね。結局、契約がまとまらずボツになって。まあ乱入しちゃったんですけど(笑)。
    小佐野 凄い見切り発車だよ(笑)。本人もよくわかってなかったんだよ、裏事情は。とにかく「マスクマンになれ」という命令だけで。「キン肉マン」がダメになったら「素顔にするか」みたいな話にもなったんだけど、あそこまで大々的に仕掛けておいて、いまさら素顔で出ていくわけにはいかないでしょ(笑)。
    ――適当にもほどがありますよ!(笑)。そもそも「キン肉マン」ってベビーフェイスじゃないですか。
    小佐野 初乱入したときから若松さんがマネージャーについてるんだよね(笑)。本人はマスクを被って乱入を繰り返しているうちに「これはこれで楽しい」と魅力を感じるようになってね。いくつかのデザインの中からあのマスクを選んだ。目はメッシュで、口は裂けていて表情がまったく見えない。無機質なマスクで、まさにマシン。斬新なデザインだったし、マスカラスは別格として、タイガーマスクとマシンのマスクはプロレスファンなら誰もが欲しがったと思うよ。
    ――タイガーマスクや獣神サンダーライガーなんかはマンガの原作がありますけど、マシンはオリジナル。そのフォロワーも数多く生んでますし、日本のマスクマン史上最大のヒット作ですよね。
    小佐野 彼の帰国第1戦は猪木さんとのシングルマッチ。それも凄い話じゃない。だってキャリアはまだ5年程度だからね。でも、本人はまったく緊張しなかったんだって。 
    ――そこはマスクのなせる業なんですかね。
    小佐野 プロレスラーは喜怒哀楽を見せながら戦うものなんだけど、マシンはあのマスクデザインだから表情が見えない。そうやって人間性を殺しちゃったことで猪木さんとも普通に渡り合えた。無個性なところが個性になったし、ストロングマシン2号、3号……とドンドン増殖することになったわけだしね。あの増殖は自分のアイデアではないらしいけど。 
    ――魔神風車固めも必殺技としてかっこよかったですよね。
    小佐野 あれはね、苦し紛れに作ったみたい(笑)。
    ――苦し紛れであの完成度!
    小佐野 前田日明が12種類のスープレックスを引っさげて凱旋帰国したでしょ。何かの取材で「俺は20種類のスープレックスを使える」と言っちゃったんだって。そうなると新しいスープレックスを出さざるをえなくなって考えて、無理やり編み出したのが魔神風車固め。海外では一度も使ったことはないんだけどね(笑)。
    ――人材不足でマスクマンになったとはいえ、メインに抜擢されたのは才能を見込まれていたところはあったんですか?
    小佐野 三沢光晴は5ヵ月でデビューした天才と言われてたけど、あの人は3ヵ月だからね。まあ藤原(喜明)さんは入って1週間でデビューしたんだけどね(笑)。
    ――入門した際の、ドン荒川さんの盛り過ぎエピソードも有名で。 
    小佐野 「顔は三浦友和でジャンピングスクワットを何百回もやる奴が入ってきた」ってやつだよね(笑)。実際は小鉄さんの前で腕立てとスクワットをちょっとやってOKだったんだけどね。
    ――そして3ヵ月でデビュー。
    小佐野 2日前に猪木さんに言われてデビューしたらしいね。当時は受け身もロープワークもロクにできない。柔道はやっていてプロレスファンだったから、なんとなく試合はできちゃったみたいだけど。その頃の新日本の前座はグラウンドレスリングが中心だったからね。相手も藤原さんだったりするから道場の練習と同じ。あとは試合をしながら覚えていく。カルガリーでは安達さん(ミスター・ヒト)さんに教わって、現地で抗争していたロン・スターとの試合がいい勉強になったみたい。毎回違う試合をしてくるから「こうやってプロレスをやるもんなんだ」と。
    ――海外で幅を広げたんですね。
    小佐野 日本にいたら相手は決まっていたからね。毎回前田日明とガンガンやりあって、ニールキックで唇が取れた……みたいな試合ばっかですよ(笑)。
    ――強くはなりますけど、うまくはならないですね(笑)。
    この続きと、マサ斎藤、マシン引退、天心vsロッタン、北原光騎、WWEvs新日本……などの記事がまとめて読める「11万字・記事19本の詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/article/ar1639388
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  • 最後まで全日本プロレスを愛した馬場元子さん■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-05-05 14:48  
    85pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「最後まで全日本プロレスを愛した馬場元子」です! 



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    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!  猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――小佐野さんは馬場元子さんの訃報をどのタイミングで知ったんですか?
    小佐野 私は全然知らなかった。『Gスピリッツ』編集部からの電話で『東スポ』のウェブに元子さんの記事が載っていることを初めて知ったんですよ。
    ――小佐野さんが知らないとなると、近親者以外は誰も……。
    小佐野 おそらく渕(正信)さんや和田京平さんさえも知らなかったと思う。告別式とかすべて終わった段階で『東スポ』に連絡したんじゃないかな。おそらく全日本プロレスがチャンピオンカーニバル中だったという配慮もあったんだろうね。
    ――馬場さんが立ち上げた全日本プロレスを最後まで気にかけていたということではありますねぇ。
    小佐野 あくまで私の推測ですけどね。どこにも知らせないわけにはいかないから、時期を見て『東スポ』さんに報道してもらいなさい……という流れだったんじゃないかと。
    ――元子さんと最後にお会いになったのはいつだったんですか?
    小佐野 それは去年の1月23日、元子さんの喜寿のお祝いです。喜寿の会での元子さん。ハワイ好きの元子さんのためにハワイアンな雰囲気に小佐野 元子さんの体調はあまりよくなかったということで、元子さんを元気づけようという趣旨もあってね。入院されていたこともあって、電話でしゃべれる機会はここ1年はなかった。私も元子さんもハワイ好きなので、ウチの家内が作ったフラワーレイを時々送ったりはしていて、そのお礼のメールが元子さんの姪御さんを通じて送られてきたり、昨年末には元子さんからハガキをもらったりはしてたけど。
    ――訃報を聞いたときはどう思われました?
    小佐野 やっぱりショックだった。元子さんには取材抜きにして、ずっとお世話になっていたから。元子さんはもうプロレス界の方ではないし、ここ最近は個人的な付き合いをさせてもらっていたので、知り合いの方がお亡くなりになったという寂しさですよね……。
    ――小佐野さんと元子さんのお付き合いは相当長いですが、初めてお会いしたのはいつなんですか?
    小佐野 1980年、私が大学1年のときに『月刊ゴング』でアルバイトを始めたんだけど、そのときに竹内(宏介、当時『月刊ゴング』編集長)さんに全日本の会場で「馬場さんの奥さん」として紹介されて。もう驚きましたよ。その当時、馬場さんが結婚していたなんてことは公にはされてなかったから。
    ――噂にもなってなかったんですか?
    小佐野 何も知らなかった。プロレス界の中で隠してるわけでもなかったけど、わざわざ記事にする人もいなかった。プロレス業界の人はみんな知っていて、みんな馬場さんの奥さんとして接してるんだけど、世間には知らされてないだけ。公表されたのは82年の夏のことだから。
    ――小佐野さんが『月刊ゴング』でバイトを始めた2年もあとですね。
    小佐野 馬場さんと元子さんはもともと1971年にハワイで結婚式を挙げてるんですよ。それからは一緒には住んでいるし、元子さんは巡業もついて回っていた。これは聞いた話だけど、ハワイで結婚式を挙げたときにある週刊誌にスクープされそうになった。でも入籍はしてない。そこは元子さん側の親の反対とかいろいろな理由があったみたいで。
    ――だから結婚式だけで籍は入れなかったんですね。
    小佐野 だからその週刊誌には「記事にはしないでくれ。入籍したら記事にしていい」という話をして。そこの編集長は了解してくれて、その週刊誌の編集長が馬場さんとの約束を代々受け継いで、82年に入籍したときに「じゃあ書きますよ」と。そうなったら馬場さんもダメだとは言えない。
    ――それで元子さんの存在を公表することになったんですね。
    小佐野 82年の七夕の日に、馬場さん1人で記者会見をやって結婚してることを明かしたんですよ。
    ――七夕に!(笑)。それまで世間的には馬場さんは独身として通ってたわけですよね。
    小佐野 私だって馬場さんは独身だと思ってたくらいだからね。当時の私は18歳、元子さんは40歳、馬場さんは42歳ですよ。それから『ゴング』が週刊化されて、私は全日本プロレスの担当記者になったんだけど。広報の担当はいるんだけど、重要な取材のゴーサインを出すのは元子さんだった。
    ――その若さで馬場夫妻と向き合うのは大変だったんじゃないですか?
    小佐野 巷でも言われてることだけども、元子さんは厳しい方だったからね。こっちも血気盛んなだから当然ぶつかるし。元子さん「これはなぜダメなんですか?」って聞いたら「私がイヤだからよ!」って言われてね(笑)。
    ――ハハハハハハハ!
    小佐野 「それじゃあ話にならないですよ!」なんて食い下がってね。そんな会話の繰り返しですよ。マスコミの中には元子さんが苦手だっていう人が多かった。私も何度かケンカしながらこうして最後まで付き合えたのは、何かあっても後に残らなかったからだと思う。元子さんもガーッと言うけども忘れちゃうし、私もあまり気にしない。何か言われたからといって元子さんのことが嫌いにはならなかった。
    ――受け止められる小佐野さんが凄いですね(笑)。
    小佐野 私は子供でまだ若かったから反論してケンカになっちゃうんですよ。「おかしいですよ!」「ダメなものはダメ!」なんてやってるうちに笑い話になっちゃうから(笑)。
    ――その「ダメなものはダメ!」は元子さんの感性による判断なんですかね?
    小佐野 元子さんには「悪意を持って馬場さんのことを書かれたくない」という気持ちが強かった。馬場さんにインタビューするときも悪意を持って質問しないでほしいと。80年代前半、全日本と仲の悪かった『週プロ』は、聞き手がフリーの菊池孝さんじゃないと馬場さんインタビューができなかったから。『週プロ』の記者だとダメ。
    ――菊地さんは昔からの付き合いで信頼できたってことですね。原稿チェックも厳しかったんですか?
    小佐野 原稿チェックはなかった。あの当時は誰も原稿チェックしなかったんですよ。
    ――記者にお任せだったからこそ、馬場さんを理解してるマスコミを選んでいたところはあるんでしょうね。
    小佐野 そういうニュアンスでしゃべっていないのに、曲解されて書かれたりすることはあるでしょ。元子さんは馬場さんに限らず全日本プロレス所属選手全員のことをそうやって気にしてたんだよね。『ゴング』も時には信頼され、時には抗議され(笑)。
    ――『ゴング』の記事にも目を光らせてるんですね。
    小佐野 こっちだってなるべく刺激的な発言が欲しいわけでしょ。誇張もしないけど、削る気もないから。たとえば天龍同盟の頃の天龍さんは平気でいろんなことをしゃべるんですよ。こっちが面白がって載せると、元子さんはピリピリする。
    ――当時の全日本は新日本と比べてスキャンダル性に欠けていたから、はみ出した発言なんかがないと表紙や巻頭カラーは取れなかったそうですね。
    小佐野 天龍さんとスタン・ハンセンがタッグを結成する直前の頃、何もネタがないからキャピタル東急まで馬場さんに会いに行ったんだよ。
    ――馬場さんはキャピタルのレストラン「オリガミ」が行きつけだったんですよね。
    小佐野 そこで私は馬場さんに「この流れからすれば天龍さんとハンセンがタッグを組むしかないですよね? そういう書いていいですか?」と聞いたら「好きに書いていい」と。『ゴング』でそう書いたら実際にタッグを結成することになったんだよ。そうしたら、その頃の馬場さんのブレーンだったターザン山本さん(当時『週刊プロレス』編集長)が怒ったみたいなんだよね。
    ――自分が馬場さんのブレーンをやってるのに、ライバル誌にスクープされるのが許せなかったんでしょうね(笑)。 
    小佐野 馬場さんからキャピタルに呼び出されて「なんでこんな記事を書いたんだ?」と怒られてね。でも、そのときは元子さんは私の味方になってくれた。「馬場さんはあのとき好きに書いていいと言ったでしょ。これは馬場さんが悪い」と。そこは筋を通してくれたんですよ。
    ――元子さんはそういうときに馬場さんの味方をするというイメージがありますね。
    小佐野 そういうわけじゃないんだよね。曲解して書かれるのがイヤなだけであってね。ちゃんと書いてくれれば問題ない。それでも元子さんには何度か怒られたことはあったし、取材拒否されたこともあった。それは全日本の許可なく天龍さんを連れ出して、藤波さんと対談させたことなんだよね。
    ――許可なく対談やったら怒られますよ!(笑)。
    小佐野 絶対に問題になるよ(笑)。私も会社に「勝手にやったら絶対にマズイですよ!」と言ったんだけどね。会社は「いいからやれ」と。仕方なく対談を組んだら「小佐野が勝手にやった」ということになっちゃったんですよね(笑)。
    ――ハハハハハハ!
    小佐野 それで『ゴング』としては取材できるけど、私個人は全日本を取材拒否。「ジャイアント馬場」の名前が入った手紙が届いて「小佐野景浩を取材拒否にする。全日本プロレス担当記者から更迭を求める」と。そうしたら元子さんから電話があってキャピタルに呼び出されたんですよ。馬場さんは「オマエ一人でこんな勝手をやるわけないよな?」と。
    ――普通はそう思いますよね。
    小佐野 私は「そう思っていただけるのは大変嬉しいんですけども、会社員なので言えません」と(笑)。その時点では馬場さんと私の中では手打ちになってるんだけど、取材拒否を解くタイミングがあるから。落とし所は馬場さんの誕生日。取材拒否とは言っても控室に入れないだけで会場に潜り込めたんですよ。そうしたら「馬場さんが控室に呼んでるよ」ということで行ってみたら「今日からいいよ。俺の誕生日だから」と。
    ――「誕生日恩赦」ですか(笑)。この続きと、サバイバル飛田、朝日昇、馬場元子、RENA劇場、倉持隆夫などの記事がまとめて読める「13万字・記事23本の詰め合わせセット」はコチラ 
     
    http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1551897
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  • 中邑真輔、棚橋弘至、柴田勝頼……新・闘魂三銃士■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-04-09 10:22  
    75pt

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    小佐野 『週刊ゴング』編集長から編集企画室室長という役職に変わったのが99年1月のことなんですが、編集長としての最後の号は、あの橋本真也vs小川直也なんですよ。
    ――とんでもない大事件が最後に起きちゃったんですね(笑)。
    小佐野 柴田や棚橋はその年の10月にデビューでしょ。中邑真輔は2002年8月のデビューだから、私は現場にいなかったんですよ。全日本プロレスはテレビの解説をやっていたから会場には行っていたし、新日本の会場にも顔を出せるかぎりは出していた。ただ取材ではないから、若手の頃の彼らとは接点がほとんどなかったし、とくにいまでも接点がないのが真輔。棚橋や柴田はその後、接点ができるんだけど、真輔は本当になかった。
    ――現場から離れた立場から、1・4事変以降の新日本をどのように見えたんですか?
    小佐野 プロレスをやりたいのか、格闘技がやりたいのか、もうブレブレでわけがわからない感じ。中邑真輔も格闘技とプロレスどっちつかずで、両方できる人として育てられてしまっていたよね。あの時期だからこそ、そういう宿命を無理に背負わされてしまって「なんて中途半端なプロレスラーができてしまったんだろう……」という感想はあったんだよね。
    ――まあ、そう見えちゃいますよね。 
    小佐野 あとから真輔がプロレスファンだったと聞いてビックリしたんだけど、そうは見えないぐらいプロレスがうまくなかった。サブミッションをやったかと思えば、急にラリアットをやってみたり、わけがわからなかった。サブミッションで勝負するならサブミッションでいけばいいのに、そこでなぜラリアットが必要なのか全然伝わってこないというかね。サブミッションをフィニッシュにするのはやめたほうがいいんじゃないかとすら思ったり。
    ――あの当時は総合格闘技が人気でしたし、プロレスでサブミッションを使うことは逆にマイナスなんじゃないか……っていう見方もありましたね。
    小佐野 説得力がなく見えてしまうということだよね。プロレスリングではプロレスの技で戦って、総合では総合の技術を見せるような使い分けをすればいいんじゃないかって。混ぜたことでよくわからなく見えちゃっていたから。 
    ――暗黒・新日本は格闘技っぽさを求められたこともあって……。
    小佐野 それからゲーム制作会社のユークスが新日本の親会社になったあと、武藤敬司が真輔からIWGPのベルトを奪ったときに「真輔はどうだった?」と聞いたら「いやー、新日本プロレスは、時としてああいう中途半端なレスラーを作っちゃうんだよなぁ」って言っていた。 
    ――低い評価だったんですね。
    小佐野 「かわいそうなのは彼はトップだろ? 下からやり直せないじゃん」って。それが2007年、いまから10年前ぐらいのことだよ。
    ――その直後に中邑真輔は覚醒するわけですから面白いですね!(笑)。武藤さんが「ああいうレスラー」とは何を指してるんですかね。
    小佐野 具体的に誰というわけではないんだけど、武藤は新日本の格闘技かプロレスかのどっちつかずがイヤで全日本に移ったでしょ。「このまま新日本プロレスにいたら俺のキャリアが潰されてしまう」ということで離れた。そういう中途半端なものを中邑真輔からも感じたんじゃないのかな。真輔も最初はどちらかといえば格闘技のほうで売り出されていたわけだしね。 
    ――国内2戦目は大晦日『猪木祭り』のダニエル・グレイシー戦でしたしね。
    小佐野 真輔は8月に安田忠夫戦でデビューして、すぐにロス道場に行ったでしょ。その最中の11月頃、猪木さんと新間(寿)さんが和解したんですよ。
    ――そんなことがあったような、なかったような(笑)。
    小佐野 なぜそんなことをおぼえてるかといえば、2人が和解した席に私がいたんですよ(笑)。
    ――あらま(笑)。
    小佐野 帝国ホテルの『北京』という中華料理屋さんで、桜井康雄さんを仲介人にして2人は和解したんです。私は新間さんから電話をもらって「今日、社長と和解するから取材に来てくれ」と。別の部屋で待機してしばらくして部屋に呼ばれたら、みんな紹興酒を飲まれてて、猪木さんは「これは魔界倶楽部じゃなくて和解倶楽部だな」なんて言ってて(笑)。
    ――アントンジョーク!(笑)。
    小佐野 猪木さんが凄く言いそうだよね(笑)。そのときに真輔の話題が出たんだよ。新間さんが「社長、いまの新日本で一番有望な若手は誰なんですか?」と聞いたら、猪木さんは「いまロスに中邑って奴がいるんだ」と。
    ――へえー、まだデビュー戦しかやってないのに。
    小佐野 そうしたら新間さんは「私はいまだにビンス・マクマホンと繋がりがありますから WWEデビューさせましょう!」なんて新間節が炸裂したわけですよ。
    ――さすが新間さんです!
    小佐野 私にも「おい小佐野!ビンス・マクマホンに送る写真を用意してくれ」なんて言われてね(笑)。それで写真を用意したんだけど。
    ――早すぎたWWEデビュー計画があったんですね(笑)。
    この続きと、朝日昇、アンドレ特番、宮戸優光×中井祐樹、レッスルマニア、安田忠夫、RIZINジャッジ対談などの記事がまとめて読める「15万字・19本の記事詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • 最後のムーンサルトプレス……天才・武藤敬司■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-03-12 10:51  
    80pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「最後のムーンサルトプレス…武藤敬司」です! 



    <これまでの連載記事! クリックすると試し読みできます!>縁の下の力持ち!! 坂口征二の荒鷲人生<new>
    WARからイッテンヨンへ! ライオン・ハート時代のクリス・ジェリコ
    「情」で生きる佐々木健介の激烈人生! プロレスラーで初めて大臣になった男、馳浩大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE 暴走親方、諏・訪・魔!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生
    “四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!  猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――武藤敬司が両ヒザを人工関節にする大手術を行ないます。リング復帰は可能だそうですが、代名詞のひとつだったムーンサルトプレスは医者から使用を禁じられるため、手術前最後の試合となる3月14日後楽園大会が“ラスト・ムーンサルトプレス”になるようです。
    小佐野 武藤はずっとヒザのケガに苦しんできたからね。たしか最初にヒザを手術したのは、若い頃に2度目の海外遠征でプエルトリコに行く前だったかな。
    ――かれこれ30年前のことになるんですねぇ。
    小佐野 若い頃はムーンサルトプレスをバンバン使っていたけど、歳を取るごとに使う頻度も減っていったり、バンと落ちるんじゃなくて、スライドして落ちるやり方に変わったりね。武藤は相手をコントロールできないような技は使わない。身体が動けないなら動けないでもプロレスができる術を持ってるのが武藤本人のプライドだよね。
    ――ヒザのダメージは日常生活にも支障をきたすレベルのようですね。
    小佐野 本当はもっと前に人工関節の手術を受ける予定で、手術日も決まってたんだよ。それがちょうど全日本プロレスの分裂騒動が起きて、土壇場でW-1を立ち上げることになったから手術をキャンセルしてね。手術しないでここまできちゃった。それこそ若い頃は「足の一本ぐらいはくれてやる!!」くらいのことは言ってたけど、飄々としながらもプロレスに対しては熱いものを持ってるということだよね。
    ――武藤さんってその時々によってスタイルをチェンジしてますね。
    小佐野 プロレスラーの中にはずっとスタイル変えない人もいれば、武藤のようにコスチュームから何から全部変えてる人もいるよね。彼は絶えず変えてきた。たとえば20代の頃はオレンジタイツだったけど、うまくロングタイツに変えていったしね。
    ――スキンヘッドにしたときもインパクトがありましたね。2000年大晦日プロレスイベントだったときの『猪木祭り』。髙田延彦のプロレス復帰が目玉だったんですが、タッグパトーナーの武藤さんがスキンヘッドにしてきたことでその話題を食ってしまって(笑)。
    小佐野 あれはアメリカから帰ってくる数日前に剃ったそうだよ。バリカンなんか持ってないから奥さんにハサミで切ってもらってね。青々としてるとカッコ悪いから、日光浴で日焼けして、なじませてから帰国するという(笑)。
    ――どの時代の武藤敬司を切り取っても印象深いですねぇ。
    小佐野 彼にとってラッキーだったのはグレート・ムタという存在があったことだよね。武藤敬司がマンネリ化したらムタになって、ムタがマンネリになったら武藤敬司に戻ればいいし。
    ――グレート・ムタも最初と比べると全く違うキャラクターになっていて。
    小佐野  『Gスピリッツ』でムタ特集をやったときにWCW時代の映像も見たんだけど、動きが本当に素晴らしいし、全然ヒールじゃないんだよ。WCW時代のグレート・ムタのファイトスタイルって武藤敬司そのものだからね。“悪の化身”としてのグレート・ムタは日本に戻ってきてから作られたんだよね。
    ――なかったはずの“悪の化身”を作り上げちゃったってのも凄いですね(笑)。
    小佐野 「ムタってそんなに悪くないんだけどなあ……」って武藤本人がボヤいてたんだから(笑)。日本のムタって最初は喋ってたしね。途中からだから、喋らなくなったのは。
    ――WCWでライバルだったスティングがベビーフェイスだったから、勝手に極悪ヒールのイメージを持ってしまったんでしょうね。
    小佐野 アメリカのムタは武藤敬司がちょっと悪いことをするぐらいで。使っていた技はムーンサルト、ジャーマンスープレックス、鎌固め、あとアキレス腱固めなんかも使ってたよ。
    ――フラッシングエルボーや側転エルボーという飛び道具もあって。
    小佐野 ムタの動きはベビーフェイスでもヒールでもなかった。現地では「USA!」コールと「MUTA!!」コールが同時に起こるくらいだったんですよ。だから日本人プロレスラーのイメージを変えちゃったところはありましたね。昔の日本人レスラーはプロモーターから「技なんか使うんじゃない」と怒られてね。使っていい技はチョップ、クロー、首絞めぐらいで、変にうまいレスリングをやっても仕方ない。日本人は姑息なやり方で勝たないといけなかったんですよ。
    ――履いていた下駄で殴ったり……の世界ですね。
    小佐野 でも、武藤はとくに制約を受けなかったらしいね。動きのあるプロレスだったからテレビ的にも見栄えがよかったんだろうね。
    ――たしかに鎌固めやアキレス腱固めはアメリカでは新鮮に見えますし。
    小佐野 当時のアメリカではブリッジする技自体が珍しかったんですよ。WCWにはロード・ウォリアーズがいたし、WWEはハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーがトップ。筋肉マン全盛だったから、技術が強力な武器になる時代だったんですよね。面白いのはムタの最初のフィニッシュは首4の字だったこと。
    ――首4の字が!
    小佐野 それでもお客さんには大受けだったし、毒霧も最初は使ってなかった。プエルトリコのブラックニンジャ時代は使ってたんだけど、WCWのときは初めから全ては見せない。最初は緑色の液体を口からダラダラと不気味に流すだけで。
    ――そこは見せ方を計算してるんですねぇ。
    小佐野 テキサスのスーパーブラックニンジャのときは、手に緑色の毒霧を吹きかけてからのアイアンクローが必殺技。
    ――いいですねぇ、やられた相手の顔が緑色に染まって!
    小佐野 スーパーブラックニンジャは「その昔フリッツ・フォン・エリックにやられた日本人レスラーの息子が復讐のためにテキサスにやってきた」という触れ込みだから、エリック兄弟にそのクロー技で追い詰めるという。武藤いわく「アイアンクローは一番難しいは技だ」って。やみくもに相手の顔を握っても仕方がないし、お客さんに「この技が出たらオシマイだ!」と思わせるのは意外と難しいんだって。
    ――武藤さんといえば身体能力オバケみたいなところがありますが、プロレスの考え方もスマートですね。
    小佐野 凄く考えているプロレスラーだよね。あの人は日本でデビューして1年ですぐにアメリカに行ったでしょ。新日本のリングでプロレスの基礎をおぼえて、アメリカではリング外の仕組みをおぼえたと言っていた。アメリカのプロレスはサーキットしながら連続ドラマで見せていくから「プロレスは紙芝居みたいだな」と思ったり。リック・フレアーがタイトルマッチをやると、いつもよりお客さんが入ってほかのレスラーのギャラもアップして、みんながフレアーに感謝する。アメリカでプロレスのチャンピオンのあり方を勉強できたんだよね。他のレスラーを稼がせるのがチャンピオンなんだと。
    ――アメリカで興行の仕組みを理解していったんですね。
    小佐野 当時から技術的なことはもう問題なかったから、あとはどうやってファンにインパクトを与えるか。あの当時の日本人レスラーはアメリカではヒールを必ずやるでしょ。だいたいの人は「いまはヒールをやってるけど、日本に帰ったらどうするか」と先のことを考えてる。要はいまやってるヒールは二の次なんだけど、武藤はアメリカで成功することを考えていたから。この続きと、「プロレスとヤクザ」、中井りん、山田学、告発者B氏、安田忠夫、池田大輔などの記事がまとめて読める「15万字・24本の記事詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • 縁の下の力持ち!! 坂口征二の荒鷲人生■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-02-14 12:10  
    80pt
    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「世界の荒鷲・坂口征二」です! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」冬木弘道版つきでお届けします。


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    「情」で生きる佐々木健介の激烈人生! プロレスラーで初めて大臣になった男、馳浩大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE 暴走親方、諏・訪・魔!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生
    “四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!  猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――今月のテーマは“世界の荒鷲”坂口征二さんです!
    小佐野 坂口さんといえば、プロレス大賞授賞式の乾杯の音頭はずっと坂口さんだったけど、小橋(建太)に代わってね。坂口さんは33年間やってましたからね。
    ――33年もやってましたか(笑)。
    小佐野 坂口さんが日本プロレスで売り出されたとき私は小学3年か4年生だったんですよ。
    ――小学生時代の小佐野さん!! 時の刻みがねじれてる感があります(笑)。
    小佐野 声を大にして言いたいのは、坂口さんはアイドルレスラーの元祖だったんです(笑)。
    ――えっ、あのビッグサカがアイドルレスラー? 
    小佐野 というのは、あの頃の坂口さんは“黄金の若鷲”と呼ばれてまして。馬場さんに継ぐ身体の大きさに加えて、均整の取れた肉体を誇ってて、顔も昔風の美男子。だから“昭和の桃太郎”とも呼ばれてて(笑)。
    ――“昭和の桃太郎”!(笑)。息子さんが人気俳優(坂口憲二)になるのもわかるというか。
    小佐野 日プロ入りした坂口さんは修行先のロサンゼルスでデビューしてて。こんがりと日焼けした日本人プロレスラーの第1号だったんだよね。かつて日本人の憧れだったカルフォルニアのムードもあって。
    ――だからアイドルレスラーの元祖だったんですね。言われてみれば、石原裕次郎の青春映画に出てきそうな雰囲気がありますよね。
    小佐野 そうそう。それにあの頃は馬場さんも猪木さんもコスチュームはガウンだったけど、当時の坂口さんは金のスパンコールのジャンパーがコスチュームだったんです。
    ――へえー、坂口さんはガウンのイメージが強いですけど。
    小佐野 アメリカ武者修行中は、仲の良かった竹内(宏介)さんにしょっちゅう手紙を送ってたみたいで。それがそのまま雑誌の企画になるくらい筆まめだったみたい。
    ――大物柔道家のプロレス転向はインパクトはあったんですよね。
    小佐野 その頃の私は子供だったからよくわからなかったけど、売りは「柔道日本一」だったよね。ジャイアント馬場の後継者になれるかもしれない逸材。いままでの日本人レスラーが使ってなかった技を使って。例えばネックハンギングツリーとか。アトミックドロップも馬場さんを使ってたけども、坂口さんは決め技として使ってね。ショルダーバスターやアルゼンチンバックブリーカーも坂口さんが日本人として初めて使ったんだよね。
    ――超期待の大型新人だったわけですね。
    小佐野 外国人のパワーに負けなくて、ビジュアルもかっこいい。それが坂口征二というプロレスラーのイメージ。猪木さんが日プロから東京プロレスに移籍したときに、日プロが対抗するために坂口さんを獲得したんです。ただ、坂口さんが入った2ヵ月後には猪木さんは日プロに戻ってきちゃったから。
    ――坂口さんは馬場さん、猪木さんに次ぐ三番手の位置づけになったんですね。
    小佐野 坂口さんは年齢的には猪木さんよりひとつ上なんだけど、猪木さんには“力道山の弟子”という血筋があるでしょ。坂口さんは柔道界からスカウトされたプロレスラーだし、猪木さんのほうが格上に見えちゃうよね。やっぱり馬場さん、猪木さんとは7年もキャリアが違うから。
    ――やっぱり力道山直系の肩書きは強いんですねぇ。
    小佐野 そのぶん坂口さんにはフレッシュさがあったんだけどね。力道山の流れじゃないところから生まれたスターだったから。
    ――プロレスラーとしての評価は低くなかったんですよね?
    小佐野 そのうち馬場さんも日プロを抜けて坂口さんがエースになるんだけども、形的には大先輩の大木さんがトップということにしなきゃならない。だから伝統のインターナショナルのベルトは大木さんが巻いた。だけど、大木さんがトップでは日プロはやっていけないから、坂口さんが実質的なエースなんですよ。
    ――それくらいのレスラーだった。 
    小佐野 ちょっと話は前後するけど、猪木さんがクーデター未遂を理由に日プロを解雇されたあとは、猪木さんが持っていたベルトを坂口さんがすべて獲得するんです。UN、アジアタッグ、インタータッグ。馬場さんと東京タワーズを結成してね。あのままにいけば馬場・猪木クラスのトップレスラーなっても全然おかしくなかったけど、新日本では一歩引いた立場で。
    ――坂口さんはナンバー2のイメージが強いですね。
    小佐野 坂口さんは二番手に収まる気はなかったんだよ。有名な「片手で3分事件」もあったでしょ。
    ――新日本を旗揚げした猪木さんとは派手な挑発合戦をやっていて。小佐野 新日本に合流したときも坂口さんはギラギラしていた。ただ途中から会社のためを考えたら〝両雄並び立たず〟だろうと悟って、坂口さんは一歩引いたかたちになったんだよね。猪木vsウィレム・ルスカの異種格闘技戦があったときも、最初は坂口さんに話があって。ほら、坂口さんは柔道日本一だから。
    ――ルスカは柔道五輪の金メダリストですから、柔道対決を考えちゃいますよね。
    小佐野 でも、当時の営業本部長だった新間(寿)さんは猪木さんにやってほしかった。そこを坂口さんが理解したってことだよね。「自分よりは猪木さんがやったほうが世間的にも話題になる」と。そこで初めて猪木さんをエースにしてやっていくことを自覚したと言ってたね。
    ――猪木さんの坂口さんへの信頼感も厚かったですよね。
    小佐野 そりゃ信頼するでしょ。坂口さんはあれだけ気配りができるし、細かい実務的なこともやってくれるんだもん。昭和の新日本が好調だった時代のマッチメーカーは坂口さんだったしね。
    ――いわゆる現場監督的立場だったんですね。
    小佐野 金曜夜8時のテレビ生中継のことも考えて、8時になればタイガーマスクの試合が始まり、長州さんと藤波さんの試合があって、最後は猪木さんが締めるという。団体の窓口も猪木さんより坂口さんのほうが都合がよかった。NWAも坂口さんが会員として加盟できたんですよ。
    ――ああ、そうでしたね。
    小佐野 結局何かトラブルがあると坂口さんが表に出ていった。全日本プロレスと揉めたときも坂口さんが馬場さんと話をしてね。
    ――馬場さんも坂口さんなら信頼できるということだったんですね。
    小佐野 馬場さんとの関係性を考えたら、坂口さんはむしろ日プロから全日本に移らなかったほうが不思議なくらいだよね。
    ――そこで全日本に移っていたら新日本の歴史はかなり……。
    小佐野 日プロを放映していたNET(テレビ朝日)の方針は、来年には日プロの中継を打ち切ると。日プロには新日本と合併するなるなら面倒を見るという条件を出していて。そこで猪木さんと坂口さんが話し合って、新日本も日プロも解体して、新しい団体を作るということで合意したんだよね。五分のかたちで合体しようと。
    ――坂口さんは新日本に移りますけど、日プロと新日本はは合併はしませんでしたね。
    小佐野 大木(金太郎)さんが反対して合併案が却下されちゃったんだよ。最初は選手全員が納得していたんだけども、オフで韓国に帰国していた大木さんが戻ってきたら「そんな話は聞いてない。猪木が日プロを乗っ取ろうとしたときと同じじゃないか!?」と怒ってね。結局大木さん側につく選手も現れて、新日本に移ることになったのは坂口さん、キラーカーン、木村健吾、大城大五郎、田中米太郎、その5人だけだった。
    ――そこで大木さんが話を飲んでいたら、プロレス史は変わっていたでしょうねぇ。
    小佐野 結局日プロは崩壊して、あとになって大木さんが新日本に参戦したときに坂口さんと壮絶なケンカマッチをやってね。坂口さんは普段は温厚なんだけど、柔道で日本一になった人だから。怒らせたら本当に怖かった。感情むき出し。仲の悪かった前田日明との試合もそんな感じだったよね。
    ――坂口さんがマジでやったら強いでしょうねぇ。
    小佐野 坂口さんは大木さんと「試合もしたくない!!」と拒んでたんだから。大木さんが絡んだ新日本の韓国遠征には一度も行ってないし。
    ――カテエ!
    小佐野 そういうところは坂口さんは頑固。大木さんとの試合は2回やって2回ともに無効試合になったのかな。もうグチャグチャの試合になってね。新間さんがどこかの巡業先で2人に握手させたとか言ってたかな。「このままじゃ困るから」っていうことで。
    ――坂口さんが日プロから出ていく最後の日も修羅場だったとか。因縁は根深いんでしょうねぇ。
    小佐野 坂口さんと一緒に新日本に移る大城さんが桜田(一男)さんに試合でボコボコにされたってやつだよね。あの日、坂口さんは会場近くのビジネスホテルにチェックインして、そこで着替えて車に乗って会場入り。そうしたら試合で大城さんがボコボコにされて、坂口さんはセミファイナルで大木さんと組んでのタッグマッチだったんですよ。
    ――うわっ〜!! 痺れますねぇ。
    小佐野 大木さんのほうはセコンドで周囲を固めていて臨戦態勢ですよ。どうやら「坂口が試合で変なことをするんじゃないか」と囁かれていたから。坂口さんにはそんなつもりまるでなかったんだけどね。
    ――大木さんたちも疑心暗鬼だったんですね。
    小佐野 坂口さんは試合が終わっても控室に戻らないで、メインも見ずにそのまま車に乗ってビジネスホテルに帰ったんです。日プロ側も坂口さんたちが控室に戻ってこないことに気がついて「あっ、逃げやがった!!」と追っかけてきて。
    ――やるか、やられるかですねぇ。
    小佐野 そのビジネスホテルにも留まってると危険ということで、着替え終えたらそのまま新日本道場に向かったんですね。道場には藤波さんと小鉄さんが「よく来てれました」と出迎えてくれて。シリーズ中も新間さんが坂口さんに電話を入れて「試合に出ないで休んだほうがいいんじゃないか」と心配したんですよ。やっぱり無事に新日本に合流してほしいから。
    ――坂口さんもよく最後までやりきりましたねぇ。
    小佐野 そのシリーズ中に坂口さんとジョニー・バレンタインとのUN選手権が横浜であったときも、日プロから頼まれたバレンタインがセメントを仕掛けるんじゃないかという噂が流れて。そこで猪木さんが極秘にバレンタインと会って「変なことはしないでくれないか」と頼んだという話もあったり。
    ――場外乱闘のクセが凄い!(笑)。この続きと、RIZINと競技、ロイヤルランブル総括、安田忠夫・新日編、田上明、K-1崩壊などの記事がまとめて読める「13万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • 「情」で生きる佐々木健介の激烈人生!■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2017-12-16 13:48  
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    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「佐々木健介」です! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!


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    “四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
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    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――今月のテーマは佐々木健介さんです! ヴァー!!
    小佐野 健介とはこないだ久しぶりに会ったんだよ、天龍プロジェクトの島田紋奈代表の披露宴で。その前に会ったのは2015年3月のサイパン。レストランで奥さんとメシを食っていたら健介ファミリーと偶然会って。
    ――健介さんとはいつからの付き合いなんですか?
    小佐野 ジャパンプロレスで彼がデビューする前から知ってるんだけど。新弟子時代から引退まで見届けた選手ってそんなにいないんですよ。あの時代でデビュー前から知ってるのは小橋建太、菊地毅、小川良成とかになっちゃうんですよね。
    ――小佐野さんにとって健介さんも思い出深いレスラーのひとりになるんですね。
    小佐野 ジャパンプロレスの歴史自体は短かったけど、健介と私を結びつけたのは、あの団体なんです。ジャパンが崩壊して、彼が長州さんたちと一緒に新日本プロレスに移ったあとも、私個人に連絡はあってね。海外遠征先のハノーバーから電話をくれたんだけど、当時の健介の気持ちはジャパンプロレスのままなんですよ。「いまの新日本は、いまの長州さんは……」って批判をしてて。彼は新日本に移籍したわけじゃなくて「長州軍団として殴り込んでる!」という意識が強かったから。
    ――でも、ボスの長州さんは新日本の現場を仕切ってますよね。
    小佐野 長州力は新日本の中枢に入っていった。でも、健介は「なんで同じ控室で新日本の奴らと仲良くなきゃいけないんだ!?」っていう感情があったんです。だから本人は新日本に移ってからもジャパンのジャージを着ていたし、新日本の控室に入らない。通路や階段のところにいたんです。
    ――反骨精神ですねぇ。
    小佐野 話は前後するけど、健介は馳浩より2ヵ月先にジャパンに入門したんだけど、そのときはデブだったんですよ。身体を大きくしないと入門できないと思ってかなり太ってた。
    ――健介さんは背丈はないですから、厚みを増そうとしたんですね。
    小佐野 でも、馳が入門した頃には20キロ近く痩せていてね。なぜそんなに激ヤセしたかというと、もちろん練習も厳しかったんだけど、雑用がもの凄く大変だった。当時ジャパンの新弟子は健介ひとりだったから。
    ――すべての雑用を健介さんがこなしていた。
    小佐野 練習が終わりそうになると、買い出しに出かけて、1時間以内にひとりでちゃんこを作る。巡業のときはひとりでセコンドについて、その合間に先輩たちがホテルに戻るためのタクシーを呼んで、控室では先輩レスラーの汗を拭いたりする。ホテルに帰ったらみんなの洗濯。
    ――休むヒマもない!(笑)。
    小佐野 ホテルの近くにコインランドリーがない場合は、自分の部屋の風呂場で洗濯。洗濯ヒモを持ち歩いていたから、ホテルのボイラー室で洗濯物を乾かして。やっと雑用が終わっても、当時は24時間のコンビニなんかないから、メシもろくに食べられない。早起きして先輩たちを起こさないといけないから、寝る時間もない。そうやって20キロも痩せたところに馳がさっそうと入団したので「この2ヵ月はなんだったんだ!?」と(笑)。
    ――心がボルケーノと化したんですね(笑)。
    小佐野 しかも馳は年上だから「さん付けで呼べ」と命令されて。馳は長州さんの付き人だけが仕事。長州さんの面倒を見ればいいけど、健介は全員の面倒を見る。
    ――もしかして健介さんは新弟子というよりは、雑用係として採用されたいうか……。
    小佐野 たぶんそうだろうね。前回の馳でも言ったけど、長州さんは「育てるのに時間のかかる選手は獲らない」と即戦力以外は欲しくなかったんだから。健介は一番下っ端でつらい思いをしたからなのか、全日本で同じ境遇だった小川良成と仲が良かった。全日本もずっと新弟子が入ってこなかったから、小川良成がひとりで雑用をやっててね。晩年健介がNOAHに上がっていた頃も凄く仲が良くてね。「小川」「佐々木」と呼び合う仲。
    ――苦楽を共にしたんでしょうねぇ。
    小佐野 健介は新日本に移ったあとも全日本の会場に来てたからね。試合を見たり、小川に会うために。それが許されていた。入り口には元子さんがいるから、新日本に移ったレスラーたちは出入り禁止なんだけど、健介はオッケーだった。元子さんからすれば「この子は何も事情がわからないまま、先輩についていくしかなかったのね」ということで。
    ――小佐野さんは前座時代のプロレスラー佐々木健介には、どんな印象があったんですか?
    小佐野 試合はね、正直モノにならないと思った。不器用だし、身体は小さいし。回転エビ固めをやってもきれいに回れない。新日本の前座時代は見てないんだけど、藤原(喜明)さんに教わったりしてたみたい。あとはマサ(斎藤)さんのマンションに住んだことが大きかったらしいね。マサさんは「おまえは身長がないんだから、身体を大きくしろ!!」と。マサさんも背は低いけど、身体をブ厚く鍛えることでアメリカで生き抜いてきたでしょ。
    ――「パンプアップしろ!」ってことですね。
    小佐野 マサさんの影響で健介もああいう頑丈な身体になった。マサさんには凄く感謝しているから、健介オフィスを法人化したときにアドバイザーとして迎え入れたんだよ。
    ――WJ崩壊後行き場を失っていたマサさんに恩返しをしたんですね。
    小佐野 健介はいろいろと言われがちだけど、情は深いんですよ。涙もろいところもあってね。海外遠征は最初プエルトリコ。「ササキサン」というリングネームを勝手につけられて、ミスター・ポーゴと組んでたんだけど。そのときにジャパン女子からイーグル沢井とムーン章子も遠征に来てて。彼女たちが先に日本に帰るとき、空港に見送りに来ていた健介が涙を流すという(笑)。
    ――なぜだ(笑)。
    小佐野 さびしかったのかな。イーグル沢井は健介のことをなぜか「クジラくん」と呼んでいたんだけどね(笑)。そのあとはカルガリーで北原(光騎)とタッグを組んで、そのあとハノーバー。90年春に凱旋帰国した。
    ――同時期に華々しくし帰国した武藤(敬司)さんとは、扱いに差がありましたよね。
    小佐野 健介本人は「……またか!」と憤ったんだって。ジャパンのときは馳がポンと入ってきて、凱旋帰国のときは武藤だけがスポットライトを浴びる。だから新生UWFに行く可能性があったんだよ。
    ――“選ばれし者”佐々木健介誕生の可能性!
    小佐野 新日本の前座でやりあっていた鈴木みのるから誘われたんだと思う。健介に「なぜ行かなかったの?」って聞いたことがあるんだけど、本人は「情」と言っていた。自分ひとりの力ではなく、みんなのおかげでプロレスラーになれたからUWFには行けなかった。新日本のほうがUWFより団体として魅力があるとかじゃなくてね。
    ――自分を育ててくれた長州さんやマサさんのもとでやっていきたいという。
    小佐野 それまではジャパンプロレスの意識が強かったけど、「自分の根っこは新日本だ」って折り合いをつけたみたいだね。そこから新日本に順応するのは早かった。だって馳と一緒に道場のコーチをやってたくらいだし。
    ――外様の2人があのキャリアで道場を仕切るって凄いですよね。
    小佐野 当時の新日本って専属のコーチはいなかったんじゃないかな。昔は山本小鉄さんが教えてんだろうけど、その時々道場に熱心にくるレスラーが自然に……。
    ――一番練習熱心だったのは馳と健介だったそうですし。
    小佐野 橋本は道場にいる時間だけは長かったんだろうけど。エアガンでスズメを撃ったりとか遊んでいたからね(笑)。
    ――道場滞在時間は同じでも内容が違う(笑)。
    小佐野 健介は橋本真也のことを凄く意識してたよね。2人は感情をガンガン出していくタイプだったし、年齢も近い。でも、健介は橋本のように身体が大きくないから練習するしかない。馳が「なぜ三銃士と互角に試合ができたかといえば、あの人たちはナマクラだから」って(笑)。
    ――そこまで三銃士って練習してなかったんですか(笑)。
    小佐野 彼らが新日本に入った頃のコーチは荒川さんでしょ?(笑)。
    ――ハハハハハハ! 荒川さん、亡くなってしまいましたねぇ。ご冥福をお祈りいたします!
    小佐野 荒川さんにはダンスを踊らされたとか、ソープランドに連れて行かれたとか、そんな話ばっかだから(笑)。練習に耐えられなくなった武藤が小鉄さんに「やめます」と言ったら、「やめるな!」と引き止められた世代だし。
    ――早すぎた“ゆとり世代”だったんですかね(笑)。
    小佐野 試合会場に置いたあった祝杯用のビールを橋本と武藤が「これはいいや」って試合前に飲んじゃったとか(笑)。
    ――とてもコーチを任せられない!!(笑)。
    小佐野 そうじゃなかったら、あの3人がいるのに馳と健介がコーチをやってるのは変だもん(笑)。そこから健介の“鬼コーチ伝説”が始まるわけだけど……
    ――健介さんの鬼指導はいろいろと伝説になってますね。
    小佐野 みんな言うよね。小島聡は「石鹸の匂いを嗅ぐと、新弟子の頃と思い出す……」と。風呂場の掃除がダメだと殴られるから。真壁刀義は包丁で野菜を切るときに健介を刺すことを想像しながら、ちゃんこを作ってたとか(笑)。
    ――ど、ど、ど、どんな目に遭ってたんですか!!(笑)。この続きと、村浜武洋、日馬富士、ヤマモ騒動、ジェリコvsケニー、『プライド』解説の記事がまとめて読める「11万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • プロレスラーで初めて大臣になった男、馳浩■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2017-12-01 00:00  
    76pt
    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「馳浩」です! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!

    <これまでの連載記事! クリックすると試し読みできます!>大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE <new!>暴走親方、諏・訪・魔!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生
    “四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!  猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――今回のテーマはプロレスのリングに11年振りに復帰した馳先生です!
    小佐野 復帰したのは「もりかけ問題」の大変なときで。武藤(敬司)は「馳先生が来たらブーイングが飛ぶんじゃないの? 大ヒールだよ」って笑ってたけどね(笑)。
    ――馳先生は議員活動で忙殺されてるとは思えない見事な肉体を披露しましたね
    小佐野 彼は本当にストイックなんですよ。朝3時頃に起きて新聞を読み、トレーニングをしてから事務所に出勤して、午後は新幹線で地元・金沢に行って、夜は東京に帰ってくる。そんな生活を毎日繰り返してるんですから。――心身ともにおかしくなりますよ!(笑)。プロレスラーから議員になった人はたくさんいますけど、雑巾がけから初めて大臣まで昇りつめたのは馳先生だけですよね。
    小佐野 馳は1995年に参議議員で当選した。あのときはタレント候補がけっこう多かったんだけど、政治家としての資質を問う声に対して馳は「タレントとは才能がある人のことを言うんです。もし私に知名度があるというのならば、これまでの肉体的な努力と精神的な努力を見ていただきたいし、知っていただきたい!」と反論したんですから(笑)。
    ――理論立ててくる感じが馳先生っぽいですね(笑)。
    小佐野 あの人は努力する自分が好きなんだろうね。一種のナルシスト的なところがあるんですけど。同い歳なんですよ、私は。
    ――あら(笑)。
    小佐野 1961年生まれの56歳。84年のロスオリンピックに出場して、85年8月に入ってきて。ジャパンの道場は6月にできたんですけど、あの頃は合宿所に個室があったんです。
    ――相部屋じゃなかったんですね。
    小佐野 1階が道場、2階が事務所、3階が合宿所でリビングがあってそれぞれの個室があった。そこに健介や新倉(史祐)くん(新倉記事はコチラ→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar628895)の部屋もあったんだけど、馳の部屋に初めて入ったら短歌を詠んでいたんですよ。「何をしてるの?」「ちょっと短歌を……」って(笑)。
    ――もともと星稜高校の国語教師でしたもんね。
    小佐野 プロレスラーって試合を終えたら巡業でバスに乗って次の場所に……という生活だから、ちゃんと意識してないと自分がどこの土地にいるかもわからなくなっちゃう。だから新聞や本を読むことで世の中の動きを把握してたんでしょうね。
    ――しかし、なんでそんな人間がプロレスにやってきたんですかね(笑)。
    小佐野 あの人がジャパンに入ったときは契約金はゼロだったんですよ。
    ――えっ、オリンピックレスラーなのに。
    小佐野 「給料も教師時代と同じでいい」ってことで入団したんです。ジャパンもそんなにお金があったわけじゃないんですよね。道場の建物は竹田(勝司)会長のものだから。
    ――ジャパンのオーナーだった竹田会長。
    小佐野 長州力はあの当時イチから教えなきゃいけない新人は欲しくなかった。「結局一人前になるまでに何年かかって、いくら金がかかるんだ?」と。だったら1年2年でモノになる即戦力がいい。団体としてはお金は持ってなかったわけだし、ましてやあの頃は業務提携していた全日本プロレスから完全独立を狙っていたから。
    ――そこまでの余裕はなかったということですね。
    小佐野 新弟子として健介は取ったんですよね。ジャパンの新弟子1号は健介。あと山本(英俊)くんという新弟子がいて、彼もデビューしたんだけども身体を壊しちゃってやめてる。
    ――馳先生はそれなりの待遇を得られそうな全日本や新日本に入るという考えはなかったんですか?
    小佐野 そこは松浪(健四郎)先生の専修大学人脈からのジャパン入りだったんじゃないかな。あと馳はそこまで身体が大きくなかったんだよ。グレコローマンの90キロ級だったし、入門規定に満たなかったんだと思う。あの当時のプロレス界は狭き門で、誰でもなれるような世界じゃなかったから。
    ――オリンピックレスラーでも簡単にはまたげない。
    小佐野 本人もプロレスラーになりたかったから、契約金も求めず、星稜高校の教員時代と変わらない給料という条件だったんでしょう。
    ――エリートに見えますけど、そうではなかったですね。
    小佐野 それでも健介とは扱いが違ったとは言われるけどね。あの2人ではまず年齢が違うでしょ。高校を出たばかりの坊やと、オリンピックに出て高校の先生をやっていた人だから。
    ――違いが出て当然という。
    小佐野 一緒にするのは無理があるよね。健介は2ヵ月先に入ったから「馳!」って呼び捨てにして、「何がオリンピックだ!」って負けたくない気持ちが強かった。そこは馳が大人だったからケンカにならなかったんだけど、馳が健介のことを何も悪く言ってなかった。というのは「彼は何も持っていない」と。馳はいろんなものを持って入ってきたし、大人だから要領もいい。健介は何も持っていないし、要領も悪くてただガムシャラにやってる。その真剣さが馳には刺激になったみたいですね。
    ――大人の馳先生にとって健介は純粋に見えたんですね。
    小佐野 ジャパンに入門した馳は翌86年2月にプエルトリコでデビューするんだけど、海外遠征に出る前に馬場さんにいろいろと教わった。そのときはマスコミはシャットアウト。
    ――全日本所属じゃないのに馬場さんに?
    小佐野 馬場さんは全日本のリングに上がる選手ならば、頼まれれば全員に教えた。馳はジャパンの道場で基礎体力やプロレスの基本は習ったけど、海外でやっていくための所作や、ヒールのやり方を学んでいなかったから。
    ――ジャパンでは教えられる人は……
    小佐野 本質的なところを教えられる人はいなかった。
    ――マサ(斎藤)さんは、あのときはいなかったですもんね。
    小佐野 馬場さんは受けのプロレスなんだけど、この相手には何をやったらお客は喜ぶのかを考えさせるんですよ。馳は「お客の期待に応える馬場さん的なもの、いい意味でお客さんの期待に応えない猪木さん的ものを両方持ってますから」と言っていて。余談だけど、馬場さんは笹崎伸司にも教えたけど、笹崎は馬場さんに反発して大変なことになった。
    ――ファッ!? 馬場さんに反発ですか?
    小佐野 笹崎くんはのちにUインターの渉外をやることになるでしょ。Uインターのときはビリー・スコットやダン・スバーンらの外国人選手をUスタイルに変えて送り込んできた。彼らはもともとUスタイルじゃないんだから。
    ――魔改造したわけですね。そんな笹崎さんが馬場さんと衝突とするのもわからないでもないですけど……。
    小佐野 当時からUWFっぽい思考を持っていたから、アメリカンプロレス的なものは嫌がるよね。笹崎くんが反発したことは大問題になって、長州と永源(遥)さんが馬場さんに詫びを入れた。笹崎は1シリーズ休んだのかな。
    ――1シリーズで済みましたか(笑)。
    小佐野 話を戻すと、海外に出た馳が影響を受けたのは安達さん(ミスター・ヒト)。プエルトリコからカルガリーに移ったときにアメリカンプロレスのやり方を教わった。カルガリーではリッキー・フジと一緒に安達さんの家に住んでいてね。新倉くんは身体を壊して途中帰国したけど、笹崎くん、戸井マサル、途中からライガー、橋本真也もやってきて。
    ――みんな安達さんにお世話になったんですね。
    小佐野 馳は最初ベトコンエキプレスのマスクマンでヒールをやってたけど、途中で素顔になってヒロ・ハセとしてベビーフェイスもやった。彼は英語をしゃべれるからベビーでもトップになれたんです。
    ――さすが語学堪能!
    小佐野 プエルトリコにいたときも「日本の本を送ってください」って手紙が来た。適当にみつくろって送ったけど。
    ――そんな馳先生は長州が新日本にUターンしたこともあって帰国後は新日本参戦しましたが、どうもイマイチでしたよね。
    小佐野 そうなんだよねぇ。なんというか「小さい長州力」だった。長州力の弟子だから、気負ってピリピリしている雰囲気を出すんだけど、まだ線が細かったから長州さんみたいに迫力はない。
     
  • プロレスラーで初めて大臣になった男、馳浩■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2017-11-25 17:58  
    76pt
    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「馳浩」です! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!

    <これまでの連載記事! クリックすると試し読みできます!>大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE <new!>暴走親方、諏・訪・魔!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生
    “四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!  猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――今回のテーマはプロレスのリングに11年振りに復帰した馳先生です!
    小佐野 復帰したのは「もりかけ問題」の大変なときで。武藤(敬司)は「馳先生が来たらブーイングが飛ぶんじゃないの? 大ヒールだよ」って笑ってたけどね(笑)。
    ――馳先生は議員活動で忙殺されてるとは思えない見事な肉体を披露しましたね
    小佐野 彼は本当にストイックなんですよ。朝3時頃に起きて新聞を読み、トレーニングをしてから事務所に出勤して、午後は新幹線で地元・金沢に行って、夜は東京に帰ってくる。そんな生活を毎日繰り返してるんですから。――心身ともにおかしくなりますよ!(笑)。プロレスラーから議員になった人はたくさんいますけど、雑巾がけから初めて大臣まで昇りつめたのは馳先生だけですよね。
    小佐野 馳は1995年に参議議員で当選した。あのときはタレント候補がけっこう多かったんだけど、政治家としての資質を問う声に対して馳は「タレントとは才能がある人のことを言うんです。もし私に知名度があるというのならば、これまでの肉体的な努力と精神的な努力を見ていただきたいし、知っていただきたい!」と反論したんですから(笑)。
    ――理論立ててくる感じが馳先生っぽいですね(笑)。
    小佐野 あの人は努力する自分が好きなんだろうね。一種のナルシスト的なところがあるんですけど。同い歳なんですよ、私は。
    ――あら(笑)。
    小佐野 1961年生まれの56歳。84年のロスオリンピックに出場して、85年8月に入ってきて。ジャパンの道場は6月にできたんですけど、あの頃は合宿所に個室があったんです。
    ――相部屋じゃなかったんですね。
    小佐野 1階が道場、2階が事務所、3階が合宿所でリビングがあってそれぞれの個室があった。そこに健介や新倉(史祐)くん(新倉記事はコチラ→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar628895)の部屋もあったんだけど、馳の部屋に初めて入ったら短歌を詠んでいたんですよ。「何をしてるの?」「ちょっと短歌を……」って(笑)。
    ――もともと星稜高校の国語教師でしたもんね。
    小佐野 プロレスラーって試合を終えたら巡業でバスに乗って次の場所に……という生活だから、ちゃんと意識してないと自分がどこの土地にいるかもわからなくなっちゃう。だから新聞や本を読むことで世の中の動きを把握してたんでしょうね。
    ――しかし、なんでそんな人間がプロレスにやってきたんですかね(笑)。
    小佐野 あの人がジャパンに入ったときは契約金はゼロだったんですよ。
    ――えっ、オリンピックレスラーなのに。
    小佐野 「給料も教師時代と同じでいい」ってことで入団したんです。ジャパンもそんなにお金があったわけじゃないんですよね。道場の建物は竹田(勝司)会長のものだから。
    ――ジャパンのオーナーだった竹田会長。
    小佐野 長州力はあの当時イチから教えなきゃいけない新人は欲しくなかった。「結局一人前になるまでに何年かかって、いくら金がかかるんだ?」と。だったら1年2年でモノになる即戦力がいい。団体としてはお金は持ってなかったわけだし、ましてやあの頃は業務提携していた全日本プロレスから完全独立を狙っていたから。
    ――そこまでの余裕はなかったということですね。
    小佐野 新弟子として健介は取ったんですよね。ジャパンの新弟子1号は健介。あと山本(英俊)くんという新弟子がいて、彼もデビューしたんだけども身体を壊しちゃってやめてる。
    ――馳先生はそれなりの待遇を得られそうな全日本や新日本に入るという考えはなかったんですか?
    小佐野 そこは松浪(健四郎)先生の専修大学人脈からのジャパン入りだったんじゃないかな。あと馳はそこまで身体が大きくなかったんだよ。グレコローマンの90キロ級だったし、入門規定に満たなかったんだと思う。あの当時のプロレス界は狭き門で、誰でもなれるような世界じゃなかったから。
    ――オリンピックレスラーでも簡単にはまたげない。
    小佐野 本人もプロレスラーになりたかったから、契約金も求めず、星稜高校の教員時代と変わらない給料という条件だったんでしょう。
    ――エリートに見えますけど、そうではなかったですね。
    小佐野 それでも健介とは扱いが違ったとは言われるけどね。あの2人ではまず年齢が違うでしょ。高校を出たばかりの坊やと、オリンピックに出て高校の先生をやっていた人だから。
    ――違いが出て当然という。
    小佐野 一緒にするのは無理があるよね。健介は2ヵ月先に入ったから「馳!」って呼び捨てにして、「何がオリンピックだ!」って負けたくない気持ちが強かった。そこは馳が大人だったからケンカにならなかったんだけど、馳が健介のことを何も悪く言ってなかった。というのは「彼は何も持っていない」と。馳はいろんなものを持って入ってきたし、大人だから要領もいい。健介は何も持っていないし、要領も悪くてただガムシャラにやってる。その真剣さが馳には刺激になったみたいですね。
    ――大人の馳先生にとって健介は純粋に見えたんですね。
    小佐野 ジャパンに入門した馳は翌86年2月にプエルトリコでデビューするんだけど、海外遠征に出る前に馬場さんにいろいろと教わった。そのときはマスコミはシャットアウト。
    ――全日本所属じゃないのに馬場さんに?
    小佐野 馬場さんは全日本のリングに上がる選手ならば、頼まれれば全員に教えた。馳はジャパンの道場で基礎体力やプロレスの基本は習ったけど、海外でやっていくための所作や、ヒールのやり方を学んでいなかったから。
    ――ジャパンでは教えられる人は……
    小佐野 本質的なところを教えられる人はいなかった。
    ――マサ(斎藤)さんは、あのときはいなかったですもんね。
    小佐野 馬場さんは受けのプロレスなんだけど、この相手には何をやったらお客は喜ぶのかを考えさせるんですよ。馳は「お客の期待に応える馬場さん的なもの、いい意味でお客さんの期待に応えない猪木さん的ものを両方持ってますから」と言っていて。余談だけど、馬場さんは笹崎伸司にも教えたけど、笹崎は馬場さんに反発して大変なことになった。
    ――ファッ!? 馬場さんに反発ですか?
    小佐野 笹崎くんはのちにUインターの渉外をやることになるでしょ。Uインターのときはビリー・スコットやダン・スバーンらの外国人選手をUスタイルに変えて送り込んできた。彼らはもともとUスタイルじゃないんだから。
    ――魔改造したわけですね。そんな笹崎さんが馬場さんと衝突とするのもわからないでもないですけど……。
    小佐野 当時からUWFっぽい思考を持っていたから、アメリカンプロレス的なものは嫌がるよね。笹崎くんが反発したことは大問題になって、長州と永源(遥)さんが馬場さんに詫びを入れた。笹崎は1シリーズ休んだのかな。
    ――1シリーズで済みましたか(笑)。
    小佐野 話を戻すと、海外に出た馳が影響を受けたのは安達さん(ミスター・ヒト)。プエルトリコからカルガリーに移ったときにアメリカンプロレスのやり方を教わった。カルガリーではリッキー・フジと一緒に安達さんの家に住んでいてね。新倉くんは身体を壊して途中帰国したけど、笹崎くん、戸井マサル、途中からライガー、橋本真也もやってきて。
    ――みんな安達さんにお世話になったんですね。
    小佐野 馳は最初ベトコンエキプレスのマスクマンでヒールをやってたけど、途中で素顔になってヒロ・ハセとしてベビーフェイスもやった。彼は英語をしゃべれるからベビーでもトップになれたんです。
    ――さすが語学堪能!
    小佐野 プエルトリコにいたときも「日本の本を送ってください」って手紙が来た。適当にみつくろって送ったけど。
    ――そんな馳先生は長州が新日本にUターンしたこともあって帰国後は新日本参戦しましたが、どうもイマイチでしたよね。
    小佐野 そうなんだよねぇ。なんというか「小さい長州力」だった。長州力の弟子だから、気負ってピリピリしている雰囲気を出すんだけど、まだ線が細かったから長州さんみたいに迫力はない。この続きと、近藤有己、金原弘光重病、デストロイヤー、仮面女子、藤田和之、クリス・ジェリコの記事まとめて読める「14万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • 大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2017-10-09 18:10  
    75pt
    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「大森隆男」です! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!

    <これまでの連載記事! クリックすると試し読みできます!>暴走親方、諏・訪・魔!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生“四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み! 
    猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――小佐野さんは入門当初の大森さんのことはおぼえていますか?
    小佐野 それが知らないんだよね。大森が全日本に入門したのは秋山準と同じ92年だけど、当時は全日本を取材できない立場だったから。
    ――あー、SWSと全日本のゴタゴタに巻き込まれたかたちで。
    小佐野 数年後に取材できるようになっていろいろと話は聞いてるんだけどね。
    ――秋山準と大森隆男。同年にデビューした新人が2人とも大成したんですね。
    小佐野 これは全日本としては珍しいことなんですよ。どういうことかというと、全日本の場合ってデビュー前に新人がやめちゃうから。レスラーとしてある程度できるようにならないとデビューさせてもらえなかったんですよ。
    ――簡単にはデビューさせてもらえない。
    小佐野 多くの人間が受け身をおぼえられなくて途中でやめちゃう。それに新日本の場合は新弟子が何人かいて、つらくても励まし合ったり、協力して休めたりできたけど、全日本の場合は毎年取ってもひとりだから。
    ――ひとりで雑用をこなすって地獄ですよね……。
    小佐野 大森が入団した頃から方針が変わっていったんだけど、それは小橋建太の存在が大きかった。それまでの全日本ってエリートを育成する方法だったでしょ。ジャンボ鶴田、天龍源一郎、スカウトされた秋山もそうだったけど。
    ――ほかの格闘競技で実績がある人間をメインイベンター候補として育てるという。
    小佐野 小橋の場合は一度書類選考で落とされて、そこから這い上がってトップグループで活躍するようになった。小橋の成功を受けてノンキャリアでも磨けば使えるという発想になったんだろうね。練習の厳しさは以前と変わりはないんだけど、大森のこともじっくり育てようということになった。
    ――それだけの素質を大森さんに感じたところもあったんですか?
    小佐野 そこは馬場さんのお眼鏡にかなったんだと思うよ。大森は大学3年生のときに一般公募に応募したら、後楽園ホールに呼び出された。そこには50人近くレスラー志望者が集められていて「どんな試験をやらされるんだろう……?」と思っていたら、テストはなし。馬場さんは「テストに受かろうが、やめる奴はやめるだろ」と。
    ――馬場さんって合理的ですよね(笑)。たしかに続くかどうかはテストは無関係。
    小佐野 その場で大森を含む数人が合格になった。大森はアメフトをやっていて身体も大きいし、ルックスもいい。鍛えればなんとかなると思ったんだろうね。ただ、問題がひとつあってまだ3年生だった。大森は「やめて全日本に入ります」と言ったんだけど、馬場さんは「あと1年なんだから卒業しなさい」と。
    ――馬場さん、優しい!
    小佐野 それで1年の猶予をもらったんだけど、大森はちょっと柔道をやったことがあるだけで、格闘技経験がない。これはマズイということでアニマル浜口ジムのプロ養成コースに通うことにしたんだよね。
    ――全日本入団ありきだったんですか。
    小佐野 アマレスのマットしかないから受け身の練習はできなかったんだけど、関節技の練習ができたみたいで。
    ――全日本の入団が内定してるなら、どうにかして受け身の練習もさせてもらえたんじゃないですか?
    小佐野 それが大森は全日本に入ることは内緒にしてたんだよね。
    ――えっ、どうして内緒に。
    小佐野 わからない。入団間際に「じつは……」と浜さんに明かしたら「なんで先に言わないんだ!」って怒られてね。
    ――そりゃ怒られますよ!(笑)。
    小佐野 そのときには秋山が大々的に入門したことが発表されていたから、浜さんに「同期の秋山には負けるな!」と送り出してもらったんだけどね。
    ――1年の猶予をもらって入門して、その年にはデビューしちゃうんですから凄いですね。
    小佐野 その時期の全日本って道場がなかったんだよ。砧にあった道場を壊して、いまの道場を作ってるときだったんです。合宿所も道場もなかった。大森は秋山と泉田純と一緒にアパートの部屋に住んで、一つ上の先輩の浅子(覚)と井上雅央は違うアパートの部屋を借りて住んでいた。なぜ先輩・後輩の部屋を分けたかと言えば、先輩からイジメられないようにと元子さんが一緒に住まわせなかった。イジメられたらやめちゃうと思ったんでしょう。この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     

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  • 暴走親方、諏・訪・魔!!■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2017-09-18 14:21  
    80pt
    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「諏訪魔」です!

    <これまでの連載記事! クリックすると試し読みできます!>嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生“四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み! 
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    小佐野 うーん、規制といっても難しいのは、たとえば高山の件は自分から仕掛けた技でしょう。酷い投げ方をされたというものでもないから「何を規制するの?」となるよね。プロレスって使い手がちゃんとその技を調節ができるかどうかというとこともあるんですよ。相手のレベルに合わせて変えられるかどうか。
    ――ジャンボ鶴田は相手に合わせてバックドロップの角度を変えてましたね。
    小佐野 ジャンボは相手の受け身の技術に応じた投げ方をしていた。だから「この技をNG」という話でもないと思うんですよ。
    ――現実に即したかたちで何か施行するのは大変なんですね。
    小佐野 格闘技はルールによって守ってるわけでしょ。脊髄攻撃はダメとか、ヒールホールドが禁止されたことがあったり。
    ――90年代のパンクラスが一時期そうでしたね。
    小佐野 人間同士がやってることだから、最終的にはマナーや良心に依られるとは思うんだけど。仮に危険だから規制したら、ほとんどのプロレス技が禁止になっちゃうよ。まず垂直落下のブレーンバスターは首にダメージを与えるからダメ。バックドロップも頭から落とすものは禁止。
    ――頭から落下系は全面禁止になりますね。
    小佐野 雪崩式ブレーンバスターも背中から落とすのはいいけど、垂直落下はダメとかね。トペは避けたら危険だから必ず受けましょうとか相手の動きも制限しかねない話になってくる。
    ――飛び技は大ケガのイメージが強いですねぇ。
    小佐野 飛び技でケガをするケースもかなり減ったよね。いまはそこまでムチャはしないから。ルチャもみんな凄い飛び方をしてるけど、ちゃんとリカバリーしてるし、イチかバチかで飛んでないんですよ。余裕を持って失敗しても事故が起こりづらいように飛んでいる。
    ――じつは見た目の問題ではなかったりするんですね。
    小佐野 以前、世志琥が安川惡斗をボコボコにしたときにスターダムでは顔面パンチが禁止になったけど、じゃあエルボーはいいの?と。エルボーのほうが危険だという話があるし、ハイキックはどうなるんだ?って。
    ――ハイキックのほうがダメージはありますね。
    小佐野 だから一概に技を規制すればいいという話はないとは思いますね。
    ――最近の事故はダメージの蓄積によって……というケースですね。
    小佐野 やっぱりダメージの蓄積になるんですよ。レスラーの身体が正常かどうか、WWEはメディカルチェックが厳しいですよね。スカウトしても検査結果によっては契約しないこともあるから。
    ――新日本もメディカルチェックはしっかりやってますね。それでも事故が起きてしまうんですが……。
    小佐野 新日本にはトレーナーがついていて、誰がどんな治療を受けているかも記録しているからね。
    ――リングドクターも帯同して、シリーズのたびにチェックするとなると、必要になってくるのはお金ですね。
    小佐野 お金だよね。何かあったときのために保険にも入らなきゃいけないし。それこそ健介オフィスは試合前に血圧の検査をやってたからね。血圧が高いと試合をさせてくれないんだから。
    ――そこまで徹底してる団体は聞いたことがないですね。
    小佐野 そこは北斗晶の方針だった。彼女は全女時代に首をケガしてるから、そのへんはしっかりしてるんだよ。健介オフィスはフリー選手を集めて興行をやってたんだけど、全選手に保険をかけてたんです。だからお金がかかりすぎて、何回も試合ができなかったんですよね。
    ――経済面から保険をかけられない団体もあるでしょうね……。
    小佐野 坂口(征二)さんが社長時代の新日本も、スーパーJカップで他団体から選手を集めたときは、みんな派手に飛ぶから全員に保険をかけていたしね。
    ――その団体がどうやって取り組むかですね。
    小佐野 技に関して言えば、団体内次第になっちゃうんだよね。何か規制した場合、そのことを発表するか、しないのか。発表したら見てる方だって興醒めしちゃうから。事故が起きたら団体内で何かしら話し合いを絶対にしているはずなんですよ。「こういうことはマズイね」とか「こういう技はやめようね」とか。それはあくまで暗黙の了解であって、何かをルールを作って規制することは「はたしてそれはプロレスなのか?」ってことになっちゃうと思うんだよね。難しい問題だと思います。
    ――大きな事故がないように取り組んでもらいたいですね。

    ――今月のテーマは全日本プロレスの諏訪魔選手なんですが、先日の小島聡戦にかぎらず、外部の選手と絡むとどうにもおかしなことになるという。
    小佐野 そういう試合が多いですよね(笑)。あの試合は解説を私がやったんですが、悲しい試合でしたねぇ……。
    ――小佐野さんは諏訪魔選手のことをデビュー当時から見てますよね。
    小佐野 「就職します!」と言った入団会見から見ていますね。あのコメントは言わされたんです。諏訪魔本人はどんな意味があるのか知らなくて。
    ――あ、そうなんですか。ジャンボ鶴田オマージュを本人は知らなかった。
    小佐野 全日本としてはジャンボ鶴田のイメージで売りたかった。諏訪魔も中央大学レスリング部出身だし、出場ではできなかったけどオリンピックを目指していたわけだから。あとから本人は「そういうことだったのね」と(笑)。
    ――ということは、プロレス自体は詳しくなかったんですか?
    小佐野 いや、そんなこともないんだけど。子供の頃からプロレスは大好きで。とくに全日本が好きだった。スタン・ハンセンや天龍さんがいた頃の全日本。
    ――諏訪魔選手の年齢的に天龍同盟の頃ですかね。
    小佐野 プロレスラーになるためにまずは受け身だろうということで、中学のときに柔道を始めたんです。ところが柔道に熱中していくと段々とテレビでプロレスが見られなくなってくる。四天王プロレスの初めの頃までしか見れてなかったのかな。
    ――四天王プロレスの洗礼を受けてないんですね。
    小佐野 そうして大学からレスリングを始めて。
    ――そこも鶴田さんと同じ!
    小佐野 中央大レスリング部OBに旧UWFの社長だった浦田(昇)さんがいるから「プロレスに行けますかね?」って相談したら「オリンピックに出るとか、箔をつけてからのほうがいいんじゃないの?」と。ますますレスリングに邁進することになって。
    ――プロレスのためにレスリングだったんですね。
    小佐野 馳浩からプロレスの勧誘を受けていたみたいなんだけど、目の前にはオリンピックという目標があったんでしょうね。アテネオリンピックを断念した段階で全日本プロレスにお世話になりますということで。本人は訳も分からず「ネクストジャンボ」として売り出されてね。
    ――そこまでジャンボな条件が揃っていたら仕方ないですね(笑)。
    小佐野 諏訪魔がハミ出したレスラーという捉え方をするならば、彼はデビュー以降前座で試合せずにセミファイナル、メインで試合をしてたんですよ。
    ――それだけ期待されてたんですね。
    小佐野 凄かったのはデビューしたばかりで、あのベイダーの巨体をもの凄い角度のジャーマンで軽々と投げちゃうし。あのジャーマンで首をケガしたレスラーもいたんですよ。それでジャーマンを使わないようになる。
    ――封印しちゃったんですね、危なすぎて!
    小佐野 基本的に強いんですよ。でも、デビューしたばかりの新人だから、プロの厳しさを教えるためにどこかで叩かなきゃならない。そのときに彼を痛めつけたレスラーが3人いたんですよ。佐々木健介、川田利明、鈴木みのる(笑)。
    ――ひえっ、名前を聞いただけで吐きそう(笑)。
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