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記事 45件
  • 愛すべき元横綱・輪島が戦った全日本プロレスの2年間■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-10-15 12:36  
    85pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「愛すべき元横綱・輪島が過ごした全日本プロレスの2年間」です! 



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    「プロレス取材の難しさ」
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    小佐野 最後に会ったのは2012年の秋かな。ベースボール・マガジン社のムックの取材だったんだけど、そのときは全然元気で。88年にプロレスを引退してからは全然会う機会がなくて、再会したのは20年後の2008年。そのときも取材だったんだけど、輪島さんって正規のルートを通すとギャラが高い人でね。「お友達価格」で4回ぐらい取材させてもらいました。「私もビジネスなんだから困るんだよお!」と言いながらね(笑)。
    ――なんだかんだ言いながら取材を受けてくれるんですね。
    小佐野 輪島さんの奥さんが輪島さんの個人事務所の社長だったんだけど、私は輪島さんの携帯番号を知ってるから直でお願いしてね。「カミさんに内緒なんだから、何度も取材はマズイだろ!」と。輪島さん本人はノリノリなんだけどね(笑)。
    ――ハハハハハハ! 
    小佐野 凄く気さくな人でしたね。取材場所に寿司屋を指定されたときがあるんだけど、横綱が通う寿司屋って値段が凄く高いイメージがあるでしょ。だけど普通の街場のお寿司屋さん。輪島さんはすでに座敷に寝っ転がってテレビの相撲を見てて、我が家のようにくつろいでるんだよね(笑)。
    ――横綱だったからといって壁を作らないというか。
    小佐野 輪島さんは馬場夫妻と似てるところがあって、他人を世間的な地位だけでは判断しないんだよね。その人のことを好きか、嫌いか。輪島さんは有名人好きではあるんだけど、他人をそういうモノサシで測らない人だった。
    ――じゃなかったら「困るんだよぉ!」と言いながら何度も取材を受けないですね。
    小佐野 プロレス転向直後に取材したときは凄く緊張したもんだよ。私は横綱時代の大活躍を見てるから「あの輪島を取材するのか……!?」って。天龍(源一郎)さんに「横綱にはどういう風に接すればいいんですか?」って聞いたぐらいだからね。 
    ――昔の横綱はまさに天上人という重みがあって。
    小佐野 しかも輪島さんはキャデラックを乗り回したり、型破りな横綱で。相撲という枠を超えて日本人なら誰でも知ってる存在。まさに昭和のビッグスターだったから。そんな人が全日本入団後は付き人もいなくて自分の荷物は自分で持って。輪島さんのことをなんて呼んでいいのか悩んだんだよ。そこも天龍さんに相談したら「俺ですら全日本に入った頃は“天龍さん”と呼ばれると、天龍関だろコノヤローと思った」らしくて「横綱と呼んだほうが無難だよ」と。
    ――「輪島さん」はよろしくない。
    小佐野 でも、馬場夫妻はイチからプロレス界でやらせたいから「横綱」という呼び方はイヤがったんですよ。輪島さんも「横綱なんて呼ぶなよ」と。仕方ないから馬場夫妻がいる前では「輪島さん」、陰では「横綱」と呼んでね。
    ――それくらい気を遣う特別な存在だったんですね。
    小佐野 プロレス転向は相撲を引退して5年ぐらいブランクがあったし、年齢は38歳。いまはスポーツ科学も発達してるからまだまだできる年齢だけど、いまだと48歳ぐらいの感覚になるのかな。現役時代と比べてだいぶ痩せてるし、「本当にプロレスができるのかな?」って不安はあったよね。
    ――事前にプロレス転向の噂は流れてたんですか?
    小佐野 まったく聞いてなかった。日刊スポーツがスクープしたんだけど、それまで日刊スポーツは地方版でしかプロレスを扱ってなくて、全国版でも記事にするようになったのは輪島さんのプロレス転向がきっかけで。あのスクープが出た日、全日本は熊本で興行だったんだけど。マスコミみんなで馬場さんを取り囲んで、変な話なんだけど「なんで日刊スポーツなんだ!?」と(笑)。
    ――あー、よりによって日刊スポーツはないだろうと。
    小佐野 プロレス専門誌は週刊だからスクープは難しいとして、プロレスに強い東京スポーツやデイリースポーツを差し置いてなぜ門外漢の日刊スポーツなんだ?と馬場さんに詰め寄るという(笑)。
    ――プロレス担当記者は「なんで他紙に抜かれたんだ?」ってデスクに怒られますよねぇ。
    小佐野 なぜ日刊スポーツにスクープさせたのかはわからないし、そのへんはいろんな裏事情があったのかもしれない。前にも話したけど、演歌歌手の五木ひろしさんのお兄さんが五木プロダクションの社長で。その方の勧めもあって輪島さんはプロレスを2〜3年間くらい頑張ってみようかと。輪島さんは借金問題が原因で親方を廃業して、相撲界を追われてしまったけど、支援者からすれば、このまま終わらせるのはかわいそうだと思ったんでしょう。
    ――プロレスは当初から2〜3年の計画だったんですね。
    小佐野 2〜3年頑張るというよりは、年齢や体力的にもやれて2〜3年だろう……ということだよね。
    ――ボクは現役時代を目の当たりにしていないので「借金のためにプロレスに転向した横綱」というネガティブなイメージがあって。
    小佐野 プロレス転向は借金とはあんまり関係なかったみたいだし、借金も妹さんのちゃんこ屋が大失敗したのが原因らしくて。輪島さんが自分で作った借金ではないんだよね。輪島さん本人も借金がいくらあるかわかってないんだもん。「3億4億くらいでガタガタ言うなよ!」って言うから「横綱、3億と4億だと1億円も違いますよ!」って突っ込んだら「ああ、そうか」と(笑)。
    ――さすが昭和のビッグスター(笑)。
    小佐野 ちょうど手持ちがなかった輪島さんから「おい、ちょっとクレジットカードを貸してくれよ」と言われて困っていた記者もいたよ(笑)。
    ――ちょっと貸すもんじゃないですよ(笑)。
    小佐野 記者の財布から1万円を借りて買い物としたときも「お釣りはいらないから!」って(笑)。
    ――ガハハハハハ! 
    小佐野 輪島さんが親方を廃業したのは85年12月だけど、花籠部屋の後輩で全日本プロレスにいた石川孝志さんにプロレス入りを相談して。馬場さんに話を繋いでもらって、翌年の4月には全日本プロレスに入団。
    ――降って湧いた話に馬場さんは乗り気だったんですか?
    小佐野 輪島さんはビッグネームだからメリットはあるとは思ったんじゃないかな。でも、日本テレビは輪島さんが来るからって契約金を出したりはしない。輪島さんの特番を組むにあたってのお金を出すことはあるけどね。そのお金を全日本がどう使うかは勝手だから。
    ――新日本が選手を引き抜くだなんだってときは、テレビ朝日はけっこうなお金を出してましたよね。
    小佐野 そこは全日本の場合は違ったみたい。日本テレビがお金を出したのはアントン・ヘーシンクのときだけ。
    ――東京オリンピック柔道無差別級金メダルのヘーシンク。
    小佐野 ヘーシンクは日本テレビの契約選手だから。全日本が輪島さんにどれだけのお金を払ったのかはわからないけど、輪島さんをプロレスラーとして育てるためにお金はたくさん使った。トレーニングのために、ハワイ、セントルイス、バッファロー、シャーロットと行かせて、パット・オコーナーやデストロイヤー、ネルソン・ロイヤルとか錚々たるメンツに指導してもらったんだから。輪島さんは「馬場さんは自分のために超一流のコーチを呼んでくれた」と感謝していたしね。 
    ――なるほど。借金のためにプロレスをやったわけではなく、馬場さんも大金を弾んで横綱を獲得した……というわけではないんですね。
    小佐野 輪島さんもそんなに「お金、お金!」の人ではなかったよね。
    ――輪島さんを起用したことで全日本の中継がゴールデンタイムに昇格したんですよね?アメリカで輪島さんが握ったおにぎり、とんねるずとの出会い、天龍との抗争……ワジー秘話はまだまだ続く!
    いま入会すれば読める10月度更新コンテンツ
    続々と更新予定! 天心vs堀口徹底分析/「新日本プロレス内部対立」の噂とは何か?/「佐山先生をUFCの殿堂に!」……川口健次✕朝日昇シューティング対談/魔裟斗vs山本KID徳郁に見えた修斗四天王の輝き/『ルチャアンダーグラウンド』を経て世界に羽ばたくジェフ・コブ……
    http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201810

     
  • 全日本プロレスの「うっかり八兵衛」が明かす全日本秘話■木原文人✕小佐野景浩

    2018-09-18 12:32  
    108pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は全日本プロレスのリングアナウンサーなどでおなじみ「木原のオヤジ」こと木原文人氏との対談!全日本プロレスの秘話を16000字でお届けします! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!
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    最後のムーンサルトプレス……天才・武藤敬司WARからイッテンヨンへ! ライオン・ハート時代のクリス・ジェリコ
    「情」で生きる佐々木健介の激烈人生! 
    プロレスラーで初めて大臣になった男、馳浩嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生“四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
    癌に勝った絶対王者・小橋建太悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!  猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”

    小佐野 プロレスの世界でやったことのない仕事ってないでしょ?木原 リング屋、リングアナ、広報、営業、通訳、音響、照明……KAIENTAI-DOJOや『ガンバレ☆プロレス』でプロレスの試合もやりましたからね。やってないのはレフェリーくらいですよ。
    小佐野 オヤジ(木原のあだ名)が音響をやってなかったら、じつはテーマ曲ってここまでプロレス界に普及してなかったんだもんね。
    木原 自分で言うのもなんですけど、音響のパイオニアですよ(笑)。照明は(和田)京平さんに教えてもらいましたけど、音響は教えてもらう人がいなかったですから。東京工芸大学時代に習ったことも活かしました。
    小佐野 それまではテレビ中継のときだけ会場にテーマ曲が流れてて。普段の地方興行ではテーマ曲をかけてなかったよね。
    木原 地方の体育館には音響の設備もないし、当時のプロレス団体も音響担当がいなかったですからね。87年から89年くらいかな、第1試合目から入場曲をかけるようになったのは。
    小佐野 それこそ最初のほうは、用意したカセットデッキにマイクを近づけて場内に流していたでしょ(笑)。
    木原 だから音がメチャクチャ悪かったんですよ。開場時と大会終了後に流れる音楽や、勝者のテーマ曲もボクが勝手に流して始めたんですよ。それまでは日本のプロレス界にはそういう文化がなくて、無音の会場でしたよね。勝者のテーマ曲は、WWE(当時WWF)と仕事(日米レスリングサミット)をしたあとから機会があれば時々やるようになって。
    小佐野 あの当時、全試合テーマ曲を流すことは冒険だったと思うよ。
    木原 「前座の試合の入場にテーマ曲を流すのはおかしい」とよく怒られましたね。初めて第1試合でテーマ曲を流したのは小橋建太選手や菊地毅選手なんですけど。若い選手の試合にテーマ曲が流れると、先輩にイジメられちゃう時代でしたからね。
    小佐野 先輩方に「顔じゃねえぞ!」って言われてたよね。 
    木原 ボクはリングアナですけど、試合の担当じゃないときは売店に立ってないといけないんですが、音響をやるときは売店を抜けることになります。すると「オヤジがまた音楽で遊んでる」って日々言われていました。
    小佐野 全試合入場曲は新日本とどっちが先なんだろうね?
    木原 どうなんですかねぇ。どっちが先かはわからないけど。ただ、言えるのは全日本も新日本も当時はひとり何役かするのが常識でしたから、音響だけの担当はいなかったと思います。その後SWSには音響の業者が入ってたと記憶していますね。
    小佐野 SWSから興行もいろいろと変わった感じはあるよね。
    木原 いまは音響の設備もちゃんと整ってますからね。ボクが音響のやり方を教えた人間がプロレス界のたくさんあちこちに散らばってますよ。
    小佐野 宮原健斗の入場パフォーマンス、オヤジが音響じゃないと無理でしょ?
    木原 あの音を絞ったり上げたりは簡単にはできないですね。宮原選手と打ち合わせしてるわけじゃないんですが、「ここでほしいだろうな……」ってときに合わせて調整しています。
    小佐野 職人芸だよ、あれ。「ケント!!」コールと曲のバランスが絶妙で。
    木原 ありがとうございます。地方興行で「ケント!!」コールが起きないときはボクが声を出してるんですよ(笑)。
    小佐野 誰かの一声がないとね(笑)。 
    木原 宮原選手に「ボクの入場はボクと木原さんとで作り上げたと思ってます」って言われたときは凄く嬉しかったですね。音響係冥利に尽きますね。この世界って何か決まりがあるわけじゃなくて、ホント感性とセンスですからね。そういえば(仲田)龍さんに頼まれて、NOAHの後楽園ホールに音響の手伝いに行ったことがあったんですよ。
    小佐野 龍さんは全日本プロレス時代のリングアナの師匠だもんね。
    木原 龍さんからすれば、NOAHの人間におまえの仕事を教えてやってくれって意味もあったんですけど。なんと、そこにたまたま新日本の永田さんが試合に出てて、勝利を収めた永田さんの曲を流したらリング上の永田さんと目が合ったんですよ。永田さんは「なんでNOAHの会場にいるんだろう?」みたいな感じでボクを見つめたんですが、その瞬間ボクは思わず「THE SCORE」を流しました。すると永田さんが踊り出しちゃって……。
    小佐野 ナガダンスね。あれ、現場にいたけど、よく「THE SCORE」を用意してたなあと思って(笑)。
    木原 ほとんどの曲をボクは持っているので、すぐにスタンバイしました。聞くところによると、永田さんは、あれ以来NOAHでも踊ることになりましたからね。
    小佐野 「緑のマットを青に染め上げた!」って言って踊り続けてたもんね(笑)。
    木原 あれは誰の確認も取らないで、もちろん龍さんの確認も取らないで流したんですけど。プロレスってナマモノですから、ひらめきが大切だってことなんですよね。 
    小佐野 そもそもオヤジはいつ全日本に入ったんだっけ?
    木原 社員としてなら、長州さんたちがいなくなったときの後楽園ホール。
    小佐野 1987年4月だよね。菊地(毅)が入門した時期と一緒かな。
    木原 さかのぼること2〜3年前から全日本にはバイトとして出入りしてたんですよ。まだ学生でしたけど、小佐野さんとも会話はしてますよね。
    小佐野 してるよねぇ。
    木原 たとえば屋外の大会では控室はテントじゃないですか。そこに床屋さんを呼んで馬場さんが髪を切ってもらったり、みんなでキャッチボールをしたり。屋外試合って面白かったですよね。
    小佐野 はいはいはい(笑)。
    木原 屋外だと控室の仕切りがないから、そういうときにマスコミの皆さんとお話をさせてもらえる機会がありましたね。
    小佐野 バイトではいつぐらいから始めたの?
    木原 高校3年生になった頃ですかね。
    小佐野 ということはジャパンが全日本に来る前あたりかな。俺が全日本プロレスの担当になったあたりだね。
    木原 自分が付けたコーナーマットがテレビや雑誌に映っているのは感動モノでしたよ。全日本のアルバイトなのにUWFのトレーナーを着ていったこともあります。それで「UWF」というあだ名をつけられて、そのあと三沢(光晴)さんの命名で「オヤジ」になりました。あの頃の全日本ってボクみたいな若いバイトがいっぱい集まってたんですよ。龍さんがその走りで。
    小佐野 馬場夫妻ってプロレスファンの若い子たちが好きだったよね。いま新日本のレフェリーのレッドシューズ海野くんや、新生K−1プロデューサーの宮田充くんも手伝ってたでしょ。
    木原 そうですね。いまでも活躍してる人が多いですね。ボクの場合は、全日本の四日市大会を見に行ったときに売店で「リングの片付けを手伝ってもらえないか」と京平さんに誘われたのがきっかけです。ボクはプロレスが好きですけど、好きなのはプロレスだけじゃなく、プロレス記者、カメラマン、リング屋、テレビの作り方……など、すべてのプロレス業務に興味がありました。
    小佐野 それがいまのなんでもやることにも繋がってるわけね。あの頃の全日本って子会社がいろいろとあったでしょ。最初はB&Jの社員?
    木原 そうです。でも、ジャイアントサービスからも給料をもらったり、リングアナになってからは全日本からもギャラをもらったりして、ありがたかったです。
    小佐野 みんなそんな感じだよね。こないだ海野くんに話を聞いたときもジャイアントサービス、全日本プロレス、B&Jから給料もらったって。
    木原 さらにボクはTシャツやタオル、テレフォンカードのイラストやデザインも手がけていました。ある日、馬場さんがボクが描いたバスタオルを見て「オヤジは絵がうまいなあ。ようし、1枚書いたら俺が10万やる。だからこれからも頑張れ」と言ってきたんですよ。油絵もやられてる馬場さんに絵がうまいと褒められたのは励みになりましたね。
    小佐野 馬場さんに絵で褒められるのは凄いよね。リングアナはいつからやったの?
    木原 リングアナは89年にデビューしたんですけど、1年前の88年にやる話もあったんですよ。馬場さんから「オヤジ、次のシリーズからアナウンスせえ」と言われて。
    小佐野 なんで遅れたの?
    木原 ボクはリング屋の立場で毎日会社に行かなくてよかったんですけど、たびたび顔を出してたんですよ。ファンクラブの会報誌のお手伝いとか、もろもろ雑用もあったし、会社にいれば誰か選手が来て手伝うこともあったし。先輩スタッフの昔話を聞いてるだけで幸せでしたね。どこかでヒマを潰したり、遊んでるんだったら会社にいたほうが面白いと思って……。
    小佐野 プロレスという世界が好きだったんだね。
    木原 電話番もしてたんですよ。ある日、馬場さんにCM出演依頼が来て「馬場のCM出演に関しては、絵コンテや企画書を送ってください」と話をして電話を切ったら、元子さんが凄い目つきで睨みつけていて。「みんな、ちょっと集まって! この子、馬場さんのことを呼び捨てにした!」と突然怒られました。
    小佐野 うわあ〜(笑)。
    木原 だって、社外の方に対しては自分の上司の名前に「さん」付けはしないですよね。
    小佐野 「さん」を付けちゃダメなんだよね。 
    木原 ただ、当時の全日本はちょっとややこしい状況で。日本テレビから出向していた松根(光雄)さんが社長だったんですよ。元子さんは「馬場会長」という名前の意識が強くて……。
    小佐野 はいはい、初代社長だった馬場さんは会長になってて。元子さんからすれば「馬場会長」だもんね。
    木原 そんなときに電話口で「馬場」と呼び捨てしたボクが許せなかったんでしょうね。「この子にはリングアナをさせられない!」っていうことになって。全日本は元子さんが黒だと言えば、白いものも黒ですから(笑)、京平さんたちも「馬場さんを呼び捨てするなんて、とんでもない野郎だなっ!!」という話になって。
    小佐野 ハハハハハハハ。ありがちだね。
    木原 ボクも突然だったので「すいません、ボクが悪かったです」と謝るしかなくて。それでリングアナデビューが遠のきました。馬場さんからすれば「オヤジはなんで今シリーズからリングアナをやらんのだ?」ぐらいの感覚だったと思いますよ。
    小佐野 細かい事情は知らないだろうからね。
    木原 用意した衣装はトラックに何ヵ月も積んだままでした。そんなある日、木更津で興行があったんですけど、龍さんが大渋滞に巻き込まれて会場到着が遅れることになりました。すると元子さんが「オヤジは衣装を持ってるからリングアナができるわよ」ということになり、鶴見五郎vsリチャード・スリンガー戦からリングアナをやることになったんですよ。あのとき龍さんが遅刻してなかったら、その後もリングアナもやってなかったかもしれないですね。木更津でデビューなんて、奇遇なことに龍さんと同じ会場なんですよ。これも運命だったんですかね。
    小佐野 思ったんだけど、全日本のリング屋さんってみんな器用というか、“プロレスごっこ”もうまかったでしょ。受け身もちゃんと取れるしさ。
    木原 ボクが最高のやられ役で、全員の技を全部受けましたよ(笑)。
    小佐野 馬場さんは“プロレスごっこ”は嫌いじゃなかったよね。楽しくニコニコ見ていて。普通だったら「おまえら、リングで遊ぶな!」って怒られそうだけど。
    木原 「もっとやれ、もっとやれ。他の技もやれんのか? なんで教えてないのにこんなにうまくできるんだあ?」って感心してましたよ(笑)。じつはボクは学生の頃にウォーリー(山口)さんの店に出入りしてて、当時TPG(たけしプロレス軍団)の練習生だった邪道さんや外道さんと一緒にトレーニングしたこともありましたからね。
    小佐野 西馬込のマニアックスね。リングが置いてあって。
    木原 馬場さんから「オヤジは運動神経がいいなあ。レフェリーをやってみるか」という話になって。で、ボクの代わりに西永(秀一)がリングアナをやる話が浮上してきたんです。すると西永が「リングアナだけをやりたくない」って馬場さんに言ったみたいです(笑)。
    小佐野 あー、なるほどね(笑)。
    木原 馬場さんは「オヤジはリングアナとしてパンフレットにも載ってるしなあ」ということで、ボクのレフェリー転向の案はなしになりました。後日、龍さんが「西永の野郎、どうしてもリングアナはイヤだって言いやがって。俺らのことをナメてるよな」と。龍さんに「そうですね」と言いつつ、ボクもできることならレフェリーをやりたかったですけどね(笑)。
    小佐野 当時のレフェリーは新日本だとミスター高橋さん、国際だと遠藤光男さんとか、みんなゴツゴツした身体じゃない。全日本プロレスだけはレフェリーという専門の職業を作ったんだよね。そこは素晴らしいなと思った。
    木原 だからみんな身長は小さいですよね。選手より大きかったらマズイですから。西永は背が高かったからホントはマズイんですけどね(笑)。でも、ジョー(樋口)さんは身体がゴツかったんですよ。 
    小佐野 ジョーさんは元レスラーだもんねぇ。
    木原 ボクは全日本のレジェンドと呼ばれる人たちの家には遊びに行かせてもらってるんですよ。ジョーさん、ラッシャー木村さんや寺西勇さんとか。家で昔の写真を見せてくれるんですよ。若かりし頃のジョーさんがベンチプレスで160キロを挙げている写真は驚嘆でした。作/アカツキ
    小佐野 オヤジは木村さんたちから「モノマネをやってくれ」ってよく言われてたよね(笑)。
    木原 そうですね。ベテランの方々には仲良くしてもらいました。全日本が分裂してほとんどがNOAHに行くことになったじゃないですか。あのときNOAH勢が全日本の地方興行に4大会だけ出たことがあったんです。
    小佐野 分裂前に契約していた売り興行だから、NOAH勢も出なきゃならなかったんだよね。
    木原 あのときはさすがに両陣営がギスギスしていたんですけど、ボクだけNOAH勢の控え室に呼ばれて、永源(遙)さんに「おい、オジキ(木村)が馬場さんのマネを見ないと元気が出ないんだって言ってるぞ、おい」ってことで、木村さんの前で馬場さんのマネをやらされました(笑)。
    小佐野 活字では伝わらないけど、オヤジの馬場さんの形態模写はホントうまいよね。歩き方から薬を飲み方まで。馬場さんのそばにずっといたことの証だよ(笑)。
    木原 そうですね。たとえば握手の仕方、何気ない動作、息遣い。三沢さんに言わせると「オヤジのモノマネは普段の細かい動き過ぎて、テレビでは絶対にウケないよな」って言われてました。
    小佐野 リング上のプロレスラーのモノマネじゃないってことだよね。 でも、天龍さんのモノマネで全日本の合宿所に電話して小橋が焦ってなかった?(笑)。
    木原 いろいろやりましたね。最近だと店を予約するときは佐々木健介のモノマネです(笑)。
    小佐野 そういえば天龍さんはSWS時代、小橋を殴りに合宿所に行ったことあったでしょ。
    木原 なんかありましたねぇ。
    小佐野 あれは小橋が折原昌夫に「おまえはどうせSWSに行くんだろう?」ってイジったら、酔っ払った天龍さんが夜中に乗り込んだんだよね(笑)。そうしたら新弟子の浅子覚しかいなくて。天龍さんはゴルフクラブを持ってたから、浅子は怖くて2階まで逃げたんだけど、天龍さんが追っかけてきて万事休す。「おまえは誰だ?」「新弟子の浅子です!」「そうか、頑張れよ!」って高額の小遣いを置いていったもらった逸話があるよね(笑)。
    木原 単なるいい話ですよ(笑)。全日本プロレスとNOAHの分裂騒動、元子さんが激怒した天龍源一郎復帰秘話、ビンス・マクマホンを襲撃!?……16000字対談の続きは会員ページへ!
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  • プロレスラーが憧れたプロレスラー、マサ斎藤さん■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-08-20 22:09  
    75pt


    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「プロレスラーが憧れたプロレスラー、マサ斎藤さん」です! 
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    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
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    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿

     

    ――小佐野さんは晩年のマサさんを何度取材されていたんですよね。
    小佐野 ここ何年間かのあいだで3回ぐらい取材してるんですよ。マサさんの自宅におじゃましたりして、最後に会ったのは一昨年の6月ぐらいかな。
    ――マサさんはパーキンソン病の関係で、なかなかしゃべりづらそうでしたよね。
    小佐野 こっちも慣れたっていうのあるけど、けっこう聞き取れたよ。一度電話でインタビューしたこともあって。そのときマサさんはリハビリ施設に入っていてね。締め切りの問題があって電話取材になったんだよね。 
    ――ボクがマサさんを取材したときも、しゃべってるうちにだんだん饒舌になっていって。取材を受けるのもリハビリの一環だったのかなと。
    小佐野 プロレス技の解説をするときなんて身体を動かして身振り手振りだったから。記憶力が凄くてなんでも覚えてるんだよ。もっといろいろな話を聞きたかったなあ……。
    ――小佐野さんはプロレスファンの頃からマサ斎藤というプロレスラーのことを見てきたんですよね。
    小佐野 小学生の頃だけど、マサさんがサンフランシスコでキンジ渋谷さんとタッグを組んでいた試合を『月刊ゴング』で読んでいた。アメリカから帰国して、日本プロレスの第14回ワールドリーグに参加した試合もテレビで見てましたよ。
    ――どういうスタイルだったんですか? ボクは猪木さんと戦っていた40代の姿しか知らないんですよ。
    小佐野 コスチュームは田吾作スタイルなんだけど、反則をしないレスラー。まあそれは日本陣営だからなんだけどね。坂口(征二)さんと明大で同期、レスリングをやっていた……という知識はあったんだけど、毎シリーズに参加するわけじゃないから、あくまで助っ人という扱い。裏を返せば、その年の3月に新日本を旗揚げしていたから、猪木さんに取られないように日本プロレスに参戦させたところはあったんだと思う。もともとマサさんは東京プロレスで猪木さんと一緒にやっていたから。
    ――マサさんは新日本に参戦する意志はなかったんですか?
    小佐野 そのときマサさんはロサンゼルスのミスター・モトさんに世話になっていて。モトさんの意向もあって日本プロレスに戻ったんだって。マサさんとしては猪木さんのいる新日本プロレスに上がりたかったんだと思うよ。面白いのはその日プロに上がってる時期に、猪木さんと坂口さんを裏で引き合わせていたんだよね。
    ――マサさん仲介役で密会! 当時の坂口さんは日プロで、のちに新日本に合流しますよね。
    小佐野 マサさん本人は「3人で食事をしたのはたまたま」とは言っていたけどね。マサさんが猪木さんとメシを食べる約束をしてて、坂口さんに「一緒に行く?」と聞いて。
    ――それって猪木さんと坂口さんがトラッシュトークをやりあっていたあとのことですよね。
    小佐野 うん、そのあと。3人でメシを食ったことが坂口さんの新日本プロレス合流のとっかかりになったんじゃないかな。その件についてマサさんに突っ込んで聞いたら「あー、もう忘れた〜」ってウヤムヤにされたけど(苦笑)。
    ――3人それぞれ思うところはあっての行動だったんでしょうね。
    小佐野 マサさんがいなかったら、猪木さんと坂口さんが2人で会うきっかけもなかっただろうし。テレビ朝日としても日プロの先行きが見えない中、日本テレビが全日本プロレスを放送するようになったから、猪木さんと坂口さんをくっつけようとしていた。そこで意外なのは、坂口さんは合流したけど、マサさんは新日本プロレスに入らなかったこと。
    ――ああ、そういえば。
    小佐野 なぜ合流しなかったかといえば、アメリカで稼いでいたから。
    ――マサさんらしいですね(笑)。
    小佐野 マサさんが「入れてくれ」と頼んだら歓迎されたと思うよ。猪木さんが社長、坂口さんが副社長、マサさんは取締役として3番目のポジションに就いてもおかしくなかった。でもマサさん本人はアメリカでの生活を望んだ。まあアメリカに家族がいるという理由もあったんだろうけどね。
    ――そこまで猪木さんの信頼を得ていたんですね。 
    小佐野 マサさんの話を聞いてると、猪木さんのことが大好きなんだよね。猪木さんのことを絶対に悪く言わないもん。そこはやっぱり東京プロレスが大きいんじゃないかなあ。マサさんと猪木さんはそれからの付き合いだから。東プロが崩壊したあと、マサさんはアメリカに渡ったけど、おそらく猪木さんが道をつけてあげたんだと思う。マサさんとラッシャー木村さんは日プロは除名扱いで戻れなかったから。
    ――猪木さんは日プロにカムバックできるけど。
    小佐野 猪木さんの場合は豊登にそそのかされた若気の至り……という表向きの理由があった。日プロとしては、猪木さんを戻せる状況にしておきたかったんだよ。そこは馬場さんに次ぐエース候補だったしね。北沢(幹之)さんはちゃんと筋を通して日プロをやめてるから復帰できたんだけど、木村さんとマサさんは日プロを脱走しちゃったから。 
    ――そういった若手が二度と出ないように、見せしめじゃないですけども。
    小佐野 日プロに戻れたのは猪木さん、北沢さん、東プロでデビューした永源遙さんと柴田勝久さん。木村さんは国際プロレス、マサさんはアメリカに渡るんだけどね。
    ――猪木さんとの繋がりがあるから、帰国したときのリングは新日本なんですね。
    小佐野 フロリダではカブキさんとタッグを組んだり、天龍さんとか全日本系の人との付き合いのほうがあったんだけどね。向こうでどんな試合をしていたのかは私も直接見たわけじゃないんですけど、キンジ渋谷さんとのタッグのときは、トラディショナルな日系ヒール。フロリダはエディ・グラハムがプロモーターでレスリングが好きな人だから、そこではレスリング中心。レスリング、レスリングで最後に悪いことをやる。レスリングとスニーキーのミックスだよね。 
    ――そこはテリトリーにとって使いわけているんですね。
    小佐野 「アメリカでの試合を見たことない」と言ったけど、じつは見てるんです。でも、それはマサ斎藤の試合ではなくて……どういうことかというと、初めてマサさんと会話をしたのは81年8月5日の水曜日。なぜ曜日まで覚えてるかというと、マサさんは毎週水曜日にマイアミビーチで試合してたんです。当時のマサさんは火曜日はタンパ、水曜の昼間にタンパでテレビマッチの収録があって、セスナでマイアミビーチに飛んで夜に試合。それが終わったらセスナでタンパに戻って、翌日はジャクソンビル。
    ――水曜日のマイアミビーチでマサさんと出会ったんですね。
    小佐野 マイアミビーチの空港に着いてフロリダのオフィスに電話したんですよ。たまたまデューク・ケムオカさんが出てくれて「マサ斎藤が会場にいるから」ってことだったんだけど、マサさんはどこにもいなくてね。メインイベントはアサシンズの試合で、リングサイドで写真を撮っていたら、リング上のアサシン2号から「おい!!」って日本語で声をかけられて。
    ――まさか……(笑)。
    小佐野 「俺だよ!」「……もしかしてマサ斎藤さんですか?」「そうだよ!!」……アサシンズは全身タイツだから、マサさんだってわからなかったんだよ(笑)。
    ――マサさんはどうしてアサシンズをやってたんですか?
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  • スーパー・ストロング・マシンが戦った熱き時代■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-07-13 11:37  
    85pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「スーパー・ストロング・マシンが戦った熱き時代」です!【関連企画】
    おまえ平田だろ! 平田淳嗣の「スーパーストロングなプロレス人生」 




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    “四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!  猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――今回のテーマは先日引退された平田淳嗣さんを……。
    小佐野 (さえぎって)いや、平田さんが引退したんじゃなくてスーパー・ストロング・マシンが引退したんだけどね。
    ――あ、失礼しました(笑)。
    小佐野 平田さんは一度もマシンの正体を口にしていない。素顔の平田淳嗣で戦ったことはあるんだけどね(笑)。以前Gスピリッツでヒロ斎藤と対談をやったことがあったんです。カナダから帰ってくるまでの内容は平田淳嗣として語っていて、次号の帰国後の話はスーパー・ストロング・マシンが登場している。そこには強い拘りがあるんですよ。
    ――引退式の挨拶では、今年に入って奥さんが亡くなられたことを明かしていましたね。
    小佐野 そのことは知らなかった。新日本プロレスとの契約が切れた時期と、奥さんが亡くなったのが被っちゃったみたいで……本当に気の毒だよねぇ。
    ――言葉に詰まりますねぇ……試合からは遠ざかってましたが、道場のコーチとして練習生の指導をされていて。
    小佐野 私が道場に取材に行くと、平田さんだけじゃなくて道場管理人の小林邦昭さんもいたりして。新日本の選手が巡業に出ているときは、長州さんやヒロちゃんが練習に来たりするから、まるで昭和の新日本道場にタイムスリップしたかのような雰囲気なんですよ(笑)。 
    ――新日本の道場ってオープンですよね。
    小佐野 オーナーが変わって新しい会社になったけども、新日本のOBが顔を出しづらいとかはない。長州さんたちは功労者だから練習するぶんには全然OKなんでしょう。若い選手もOBと接することで何かしらの勉強になるわけだしね。そういえば、棚橋弘至がケガしてシリーズを欠場して道場に残っていたときに、長州さんと長らく話をしたらしいよ。
    ――そういう交流もあるんですねぇ。小佐野さんはマシンとはいつくらいから面識があるんですか?
    小佐野  私は『ゴング』に入る前に新日本プロレスファンクラブをやっていたから、もともと面識はあったんですよ。『ゴング』では全日本担当だったから、取材するようになったのは全日本を主戦場としていたカルガリー・ハリケーンズ時代になるんだけどね。
    ――ヒロ斎藤、高野俊二(高野拳磁)とのユニットですね。
    小佐野 カナダから帰ってきてストロング・マシンになった頃の彼は、反骨の人だったよね。
    ――温厚な性格という話ですけど……。
    小佐野 激しいものを芯に持っていた人だから、マスクを被ると別人格になるってよく言われるし、マスクマンが性に合っていたんだと思う。とくに帰国直後は新日本に対する怒りや不満が充満していた。会社不信の理由の一つは海外遠征でメキシコに行かされたこと。最初はカルガリーに行く予定で、当時新日本に参戦していたブレット・ハートとも仲が良かったんだよ。ところがメキシコに変更になったと聞かされたときは、合宿所の部屋の鍵をかけて閉じこもっちゃって、合同練習にも出てこなくなっちゃった。平田さんの心情を理解していた山本小鉄さんも怒らなかった。
    ――そこまでショックだったんですか!(笑)。
    小佐野 当時のメキシコは身体の小さい人が行かされる、島流しのイメージが強かったんだよ。「ああ、あいつはメキシコか」なんて残念がられてね。なぜメキシコに変わったかといえば、長州さんがメキシコに行っていたでしょ。帰国後に「噛ませ犬」発言でブレイクしたんだけど。その長州さんの代わりのヘビー級選手をよこしてほしいというリクエストがあったんだよ。当時の平田さんは黒のタイツに白いシューズ。長州さんと似たような出で立ちということもあって。
    ――本人からすれば、たまったもんじゃないですねぇ。
    小佐野 1年ぐらいして自力でカナダに渡って。アメリカ本土で試合をしたいからキラー・カンと話をしてテキサスに行こうとしたら、坂口さんから「テキサスの前に一度帰ってこいよ」と。当時の新日本はUWFや維新軍が抜ける直前で大ピンチだったから。 
    ――それで帰国してみたら……。
    小佐野 マスクマン計画があると。本人はイヤでイヤでしょうがなかったけど、仕方なく命令に従った。それが幻の「キン肉マン」。
    ――日本テレビでアニメを放映していた「キン肉マン」をテレビ朝日に登場させるって凄い企画ですよね。結局、契約がまとまらずボツになって。まあ乱入しちゃったんですけど(笑)。
    小佐野 凄い見切り発車だよ(笑)。本人もよくわかってなかったんだよ、裏事情は。とにかく「マスクマンになれ」という命令だけで。「キン肉マン」がダメになったら「素顔にするか」みたいな話にもなったんだけど、あそこまで大々的に仕掛けておいて、いまさら素顔で出ていくわけにはいかないでしょ(笑)。
    ――適当にもほどがありますよ!(笑)。そもそも「キン肉マン」ってベビーフェイスじゃないですか。
    小佐野 初乱入したときから若松さんがマネージャーについてるんだよね(笑)。本人はマスクを被って乱入を繰り返しているうちに「これはこれで楽しい」と魅力を感じるようになってね。いくつかのデザインの中からあのマスクを選んだ。目はメッシュで、口は裂けていて表情がまったく見えない。無機質なマスクで、まさにマシン。斬新なデザインだったし、マスカラスは別格として、タイガーマスクとマシンのマスクはプロレスファンなら誰もが欲しがったと思うよ。
    ――タイガーマスクや獣神サンダーライガーなんかはマンガの原作がありますけど、マシンはオリジナル。そのフォロワーも数多く生んでますし、日本のマスクマン史上最大のヒット作ですよね。
    小佐野 彼の帰国第1戦は猪木さんとのシングルマッチ。それも凄い話じゃない。だってキャリアはまだ5年程度だからね。でも、本人はまったく緊張しなかったんだって。 
    ――そこはマスクのなせる業なんですかね。
    小佐野 プロレスラーは喜怒哀楽を見せながら戦うものなんだけど、マシンはあのマスクデザインだから表情が見えない。そうやって人間性を殺しちゃったことで猪木さんとも普通に渡り合えた。無個性なところが個性になったし、ストロングマシン2号、3号……とドンドン増殖することになったわけだしね。あの増殖は自分のアイデアではないらしいけど。 
    ――魔神風車固めも必殺技としてかっこよかったですよね。
    小佐野 あれはね、苦し紛れに作ったみたい(笑)。
    ――苦し紛れであの完成度!
    小佐野 前田日明が12種類のスープレックスを引っさげて凱旋帰国したでしょ。何かの取材で「俺は20種類のスープレックスを使える」と言っちゃったんだって。そうなると新しいスープレックスを出さざるをえなくなって考えて、無理やり編み出したのが魔神風車固め。海外では一度も使ったことはないんだけどね(笑)。
    ――人材不足でマスクマンになったとはいえ、メインに抜擢されたのは才能を見込まれていたところはあったんですか?
    小佐野 三沢光晴は5ヵ月でデビューした天才と言われてたけど、あの人は3ヵ月だからね。まあ藤原(喜明)さんは入って1週間でデビューしたんだけどね(笑)。
    ――入門した際の、ドン荒川さんの盛り過ぎエピソードも有名で。 
    小佐野 「顔は三浦友和でジャンピングスクワットを何百回もやる奴が入ってきた」ってやつだよね(笑)。実際は小鉄さんの前で腕立てとスクワットをちょっとやってOKだったんだけどね。
    ――そして3ヵ月でデビュー。
    小佐野 2日前に猪木さんに言われてデビューしたらしいね。当時は受け身もロープワークもロクにできない。柔道はやっていてプロレスファンだったから、なんとなく試合はできちゃったみたいだけど。その頃の新日本の前座はグラウンドレスリングが中心だったからね。相手も藤原さんだったりするから道場の練習と同じ。あとは試合をしながら覚えていく。カルガリーでは安達さん(ミスター・ヒト)さんに教わって、現地で抗争していたロン・スターとの試合がいい勉強になったみたい。毎回違う試合をしてくるから「こうやってプロレスをやるもんなんだ」と。
    ――海外で幅を広げたんですね。
    小佐野 日本にいたら相手は決まっていたからね。毎回前田日明とガンガンやりあって、ニールキックで唇が取れた……みたいな試合ばっかですよ(笑)。
    ――強くはなりますけど、うまくはならないですね(笑)。
    この続きと、マサ斎藤、マシン引退、天心vsロッタン、北原光騎、WWEvs新日本……などの記事がまとめて読める「11万字・記事19本の詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/article/ar1639388
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  • あの日の全日本プロレス、SWSを語ろう■北原光騎×小佐野景浩

    2018-07-04 17:47  
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    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回の特別編! 小橋建太プロデュース「Fortune Dream5」でデビュー30周年&引退記念試合を終えた北原光騎さんと語らってもらいました! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!




    <関連記事>「佐山先生に言われたんです。俺の影になってくれと」…中村頼永インタビュー
    【男が男に惚れる天龍劇場】北原光騎インタビュー「俺にとって天龍さんは“神様”だよ」【濃厚18000字】トンパチ折原昌夫が明かす全日本プロレス、SWSの信じられない話!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!


    小佐野 初めて会ったのはジャパンプロレスに入ってきたときだよね。
    北原 ジャパンの合宿所かな。小佐野 87年5月。池尻にあったジャパンの道場に寝泊まりしてて。北原 入ったのはジャパンなんですけど、長州さんたちは新日本に戻っていたし、全日本の天龍さんや(阿修羅・)原さんの付き人の仕事もやることになったから「全日本の合宿所に来い」と言われて。
    小佐野 立場は正規軍の若手なのに、そのまま付き人としてレボリューションと一緒に行動するんだよね。
    北原 レボリューションは巡業のときジャパンプロレスのバスを使ってたんですよ。(百田)光雄さんや永源(遙)さんとか、全日本の“はぐれ親父”たちがコッチのバスに乗るようになって。あ、永源さんはジャパンだったからそのまま乗ってたのか。
    小佐野 ジャパンの残党や、クセのあるレスラーが正規軍から抜け出して、天龍さんのバスに乗ってたんだよね(笑)。あのとき何歳だっけ?
    北原 22歳とか23歳とか。
    小佐野 「今度の新弟子は佐山(聡)さんのスーパー・タイガージムのインストラクターをやっていた」と聞いて、これはまた毛色の変わった人が入ってきたなあと思ってましたよ。当時の新弟子ってみんな若かったでしょ。子供じゃなくて大人が入ってきたという印象。
    北原 いまは25〜26歳で入ってくる奴は普通にいるんですけどね。
    小佐野 大学を卒業してから入ってくる人なんかも多いから。中学を卒業したり、高校を中退してくる新弟子と違って“プロレス少年”ぽくない感じ。いままでの新弟子とは違った話やすさがあったよ。
    北原 ああ、そうだったんですか。
    小佐野 先輩レスラーよりもマスコミとしゃべっていたほうが楽だったように見えたけど?
    北原 どうですかね。たしかに先輩としゃべるのはイヤでしたけどね。……なんというか、「来るならこいよ?いつでもやってやるぞ?」って感じで(苦笑)。
    小佐野 ハハハハハハ。ギラギラしてたよねぇ。
    北原 いや、先輩の命令はちゃんと聞いてましたよ。でも、態度は凄くデカかったと思うし、新弟子なのに頭は坊主にもしてなかったし。
    小佐野 挨拶や礼儀はスーパータイガージムにいたからちゃんとしてるけど、先輩に対して「……コイツには勝てるんじゃないの?」っていう目で見てたよね?(笑)。
    北原 いつも、それ。俺にはそれしかなかったですよ。そんな俺を見て仲野信市さんが「コイツには絶対負けないぞ」と思ってたらしいです(笑)。
    小佐野 あの頃の全日本の合宿所は小橋建太や菊地毅もいたし、面白いメンツが揃ってたよね。
    北原 菊地は一つ下で、小橋が三つ下。
    小佐野 菊地は一応先輩になるんだよね。ちょっと前に入門してて。
    北原 小橋の一ヵ月後あとくらいに玉さん(田上明)が入ってきて。
    小佐野 高木功も入ってるからけっこう豊作の年だよ。お相撲さん2人にアマレスのチャンピオン、シューティングの選手。何もなかった小橋はそれがバネになったみたいだけど。
    北原 当時はまだ若いから、「……この子たち、できるのかな?」って思ってましたよ。いや、若いね、考えが(笑)。
    小佐野 シューティングをやってきてたんだから、普通はそう思うよね。
    北原 とくに先輩でも偉そうに言われると「おまえ、試合でやってやるぞ……」っていうプライドは持ってましたよ。そういうものは絶対に出しちゃいけないんだけどね。当時栗栖(正伸)さんから「リングの上で絶対に関節技の練習をやるなよ。逆立ち腕立て伏せなんてもってのほかだ」と言われて。その意味がわからなくて、あるとき逆立ち腕立てだけやってたら、ある先輩に「そんなことをやるんだったら受け身を取れ」と言われて。「ああ、栗栖さんが言っていたのはこういうことか」と。関節技も全日本プロレスには必要ないってことで。
    小佐野 不思議なのは、全日本がどこで関節の練習をやらなくなったのかはわからないけど、日本プロレス時代はやってたんだよね。もともと沖識名さんができる人だったし、途中でゴッチさんがいなくなってもその技術は残ってたんだよ。だからアキレス腱固めもあったんですよ、日本プロレス時代。それがいつのまにか……小橋なんかとはそういう練習をやってたでしょ?
    北原 やってましたよ。小橋のほうから「教えて」と。
    小佐野 彼らは覚えたいわけだもんね。
    北原 菊地はアマレス出身だから抑え込むのが得意だし。覚えるのは早かったですよ。でも、彼にはそんなに教えてないのかな、小橋のほうが熱心だったかな。さっき小佐野さんが「小橋には何もなかった」というところの貪欲さというか。俺から見ると「コイツ、いい身体してるな」って思ってたんだけど。入門したときから身体はデカかったし。
    小佐野 持って生まれたいい身体だよねぇ。小橋に関節技を教え、先輩の川田利明にはキックをコーチして。じつは新しい技術を全日本に取り入れてるけど、先輩に教えづらいよね、普通。作/アカツキ
    北原 前に川田さんと対談したときに聞いたんですよ。「あのときよく俺に聞こうとしましたね?」って。そうしたら「オマエはできるんだから、ちゃんと聞くのはあたりまえだろ」って。
    小佐野 巡業中も一緒に練習してたもんね。シューティングで後輩だったスーパーライダーの渡部(優一)さんが、高校のレスリング部で川田の先輩だったというネジれた関係だったけど。修斗初代王者/仮面シューター・スーパーライダー 渡部優一「東映の許可? 取ってますよ(笑)」
    北原 俺としてはラッキーでしたよ(笑)。水戸黄門の印籠みたいなもんで。でも、それがなくても川田さんは後輩に変なことしないんですよ。あんまり明るい人じゃないけど、意地悪をやったりするような人ではない。そういうのはまた別にいるから(笑)。
    小佐野 フフフフフ。 
    北原 そこらへんはキツかったですよね。でも、「やるならいつでもやってやるぞ」って思ってましたから。
    小佐野 「試合でおもいきり蹴ればいいんだ」ってあの頃言ってたもんね(笑)。
    北原 俺、試合で毎回ムカついてましたよ。どうしても先輩に気を遣うところがあるじゃないですか。
    小佐野 でも、やっちゃうんでしょ?
    北原 あるときスピンキックをやったらマイティ井上さんのアゴが外れちゃって。
    小佐野 うわあ……。
    北原 メチャクチャ怒られましたよ。やっぱりケガをさせちゃいけないっていう大前提があるから。
    小佐野 しかも井上さんも気が強いからね。 井上さんは山本小鉄さんと揉めたことがあるから。光雄さんはそんな感じじゃないでしょ?
    北原 光雄さんからは何か言われたことはない。「オマエの好きなことをやれ!」って。でも、光雄さんは試合内容には厳しかったですよ。第1試合の菊池が試合後にトイレで光雄さんに怒られてたんですけど、その説教がメインまで終わらないんですよ。先輩たちが「菊地はどこに行った?」って(笑)。
    小佐野 ターザン後藤さんも光雄さんのお説教タイムを食らってたなあ。付き人の仕事ができないぐらい延々と。
    北原 俺は怒られなかったなあ。バスの席が隣だったけど。
    小佐野 若手は大技を簡単に使っちゃダメな時代だけど、光雄さんに大技を試して、OKだったら他の試合でも使えるって感じだったけど。それでもあの頃キャプチュードとか普通に使ったでしょ。
    北原 俺、1試合目からドロップキックも普通にやってたし、佐山さんのサマーソルトを使ってましたからね。長州さんたちが抜けたあとで全日本も大変だったから、あまりうるさくなかったんでしょうね。
    小佐野 あのときの全日本が「若手でもやれることはやっていい」と変わりつつある時期だったのはラッキーだったよね。苦々しく思ってる先輩がいても、お客さんが喜ぶならいいやって感じで。だからって若手がレガース付けて佐山タイガーみたいな動きをするって凄いけど(笑)。
    北原  佐山さんとダイナマイト・キッドがやっていた試合を光雄さんとやってたんですよ(笑)。
    小佐野 「百田光雄キッド」(笑)。
    北原 そんな試合をやっていたらキッドの目にも止まって。キッドから「オマエ、なんであんな動きができるんだ?」と聞かれて、誰かが佐山さんの弟子だってことも教えたんでしょうね。「海外に行きたいか?」って聞かれて「行きたい」と。まあ、その場だけの適当な話だろうなって思っていたら、あとになって天龍さんに「行きたいか? 馬場さんからもオッケーをもらってるから」って。
    小佐野 それで当時の若手の中で誰よりも早く海外修行に行けたわけだよね。
    北原 天龍さんが凄いのは、みんながいる合宿所ではその話をしないんですよ。
    小佐野 嫉妬するもんね、周りの若手が。
    北原 「ちょっと外に行くぞ」と天龍さんの車に乗って、町内一周回ってるときに聞かされて。凄い気遣いですよね。
    小佐野 そうしてジョニー・スミスと一緒にカルガリーに入ったんだよね。
    北原 カルガリーのキッドの家に3ヵ月ぐらい住んでたんだけど、そのあいだキッドはイギリスに帰っていたりしてて。まあ向こうは大変でしたよ。当時のカルガリーのマーケットはクローズド寸前で。小切手が全部不渡りになっちゃったり。
    小佐野 カルガリーはWWEの侵攻を受けてヤバイ時期だったもんね。帰ってくる頃に完全にクローズドだったでしょ、プロモーション自体が。もう時効だと思うけど、観光ビザで試合をしてなかった?(笑)。
    北原 途中で捕まってから変わったんですよ。ダイナマイト・キッドとテレビマッチというときにイミグレーションに連れて行かれそうになって。スチュ・ハートがあいだに入って「明日行かせるから、テレビマッチだけは撮らせろ」と。
    小佐野 ハハハハハハ。
    北原 次の日にイミグレーションに行ったら、たまたま蝶野(正洋)さんの外国人マネージャーがいたから、手続きをやってもらったんですよ。「すぐに許可は出せないから仕事するなよ」と言われてたんだけど、隣町だったら大丈夫だろうということで、州をまたごうとしたときに交通事故に遭ったんですよね。
    小佐野 あの事故は夏のことだよね。
    北原 アメリカ独立記念日の日。7月4日。一緒に乗ってたデイビーボーイ・スミスも大ケガしちゃったから、その事故は新聞の一面にデカデカと出たんですよ。
    小佐野 デイビーボーイは有名だもんねぇ。 
    北原 一番前に乗っていたデイビーボーイはフロントガラスに頭突きしちゃって、髪の毛がガラスにへばりついてて。俺はクリス・ベノワと一番後ろの席に座ってたんですよ。ちょうど食べていたソフトクリームがどっかへ飛んで行っちゃって「俺のアイスクリームはどこに行ったんだ?」って探しましたよ。
    小佐野 それどころじゃないのに(笑)。
    北原 それでちょっと仕事が途切れましたよね。デイビーボーイがケガしちゃってスターがいないから。
    小佐野  当時のカルガリーには大剛鉄之助さんと、安達(勝治、ミスター・ヒト)さんが日本人選手の面倒を見てたけど、その人間関係も面倒くさくなかった?
    北原 そうなんですよ(苦笑)。
    小佐野 あの2人、仲が悪いもんね(笑)。
    北原 俺はプロレスファンでもなんでもなかったから、よく知らないんですよ。「ミスター・ヒト? 誰それ?」って感じで。向こうから声をかけられて「オマエか、今度来た日本人は」って。「どうも、はじめまして」って挨拶はしましたけど。
    小佐野 向こうは先輩だもんね。あの頃の人間関係でいうと、全日本系は安達さんになるのかな。
    北原  一応そうなんだけど、あの頃は馬場さんともダメだったのかな。健坊はいつも大剛さんと食事をしていて、俺も何回か呼ばれたことはあるんだけど。オフィスが違うわけだから凄く困りましたよ。 
    小佐野 健介とタッグを組んだのは帰ってくる間際だよね?  サムライ・ウォリアーズ。
    北原 そうですね。健坊とやってるときに全日本プロレスに上がったオペラ座の怪人みたいなやつでしょ。
    小佐野 ザ・ブラックハーツ。
    北原 そいつがUWFファンで「コレで行くか?」って聞いてきたから「いいよ」って。
    小佐野 フフフフフ。
    北原 健坊も「いいよ」って。テレビマッチなのにボコボコしたなあ。最後は簡単にワン・ツー・スリーを取られてね(笑)。

    この続きと、マサ斎藤、マシン引退、天心vsロッタン、北原光騎、WWEvs新日本……などの記事がまとめて読める「11万字・記事19本の詰め合わせセット」はコチラ  http://ch.nicovideo.jp/article/ar1639388
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  • 最後まで全日本プロレスを愛した馬場元子さん■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-05-05 14:48  
    85pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「最後まで全日本プロレスを愛した馬場元子」です! 



    <これまでの連載記事! クリックすると試し読みできます!>中邑真輔、棚橋弘至、柴田勝頼……新・闘魂三銃士最後のムーンサルトプレス……天才・武藤敬司縁の下の力持ち!! 坂口征二の荒鷲人生
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    「情」で生きる佐々木健介の激烈人生! プロレスラーで初めて大臣になった男、馳浩大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE 暴走親方、諏・訪・魔!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生
    “四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
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    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――小佐野さんは馬場元子さんの訃報をどのタイミングで知ったんですか?
    小佐野 私は全然知らなかった。『Gスピリッツ』編集部からの電話で『東スポ』のウェブに元子さんの記事が載っていることを初めて知ったんですよ。
    ――小佐野さんが知らないとなると、近親者以外は誰も……。
    小佐野 おそらく渕(正信)さんや和田京平さんさえも知らなかったと思う。告別式とかすべて終わった段階で『東スポ』に連絡したんじゃないかな。おそらく全日本プロレスがチャンピオンカーニバル中だったという配慮もあったんだろうね。
    ――馬場さんが立ち上げた全日本プロレスを最後まで気にかけていたということではありますねぇ。
    小佐野 あくまで私の推測ですけどね。どこにも知らせないわけにはいかないから、時期を見て『東スポ』さんに報道してもらいなさい……という流れだったんじゃないかと。
    ――元子さんと最後にお会いになったのはいつだったんですか?
    小佐野 それは去年の1月23日、元子さんの喜寿のお祝いです。喜寿の会での元子さん。ハワイ好きの元子さんのためにハワイアンな雰囲気に小佐野 元子さんの体調はあまりよくなかったということで、元子さんを元気づけようという趣旨もあってね。入院されていたこともあって、電話でしゃべれる機会はここ1年はなかった。私も元子さんもハワイ好きなので、ウチの家内が作ったフラワーレイを時々送ったりはしていて、そのお礼のメールが元子さんの姪御さんを通じて送られてきたり、昨年末には元子さんからハガキをもらったりはしてたけど。
    ――訃報を聞いたときはどう思われました?
    小佐野 やっぱりショックだった。元子さんには取材抜きにして、ずっとお世話になっていたから。元子さんはもうプロレス界の方ではないし、ここ最近は個人的な付き合いをさせてもらっていたので、知り合いの方がお亡くなりになったという寂しさですよね……。
    ――小佐野さんと元子さんのお付き合いは相当長いですが、初めてお会いしたのはいつなんですか?
    小佐野 1980年、私が大学1年のときに『月刊ゴング』でアルバイトを始めたんだけど、そのときに竹内(宏介、当時『月刊ゴング』編集長)さんに全日本の会場で「馬場さんの奥さん」として紹介されて。もう驚きましたよ。その当時、馬場さんが結婚していたなんてことは公にはされてなかったから。
    ――噂にもなってなかったんですか?
    小佐野 何も知らなかった。プロレス界の中で隠してるわけでもなかったけど、わざわざ記事にする人もいなかった。プロレス業界の人はみんな知っていて、みんな馬場さんの奥さんとして接してるんだけど、世間には知らされてないだけ。公表されたのは82年の夏のことだから。
    ――小佐野さんが『月刊ゴング』でバイトを始めた2年もあとですね。
    小佐野 馬場さんと元子さんはもともと1971年にハワイで結婚式を挙げてるんですよ。それからは一緒には住んでいるし、元子さんは巡業もついて回っていた。これは聞いた話だけど、ハワイで結婚式を挙げたときにある週刊誌にスクープされそうになった。でも入籍はしてない。そこは元子さん側の親の反対とかいろいろな理由があったみたいで。
    ――だから結婚式だけで籍は入れなかったんですね。
    小佐野 だからその週刊誌には「記事にはしないでくれ。入籍したら記事にしていい」という話をして。そこの編集長は了解してくれて、その週刊誌の編集長が馬場さんとの約束を代々受け継いで、82年に入籍したときに「じゃあ書きますよ」と。そうなったら馬場さんもダメだとは言えない。
    ――それで元子さんの存在を公表することになったんですね。
    小佐野 82年の七夕の日に、馬場さん1人で記者会見をやって結婚してることを明かしたんですよ。
    ――七夕に!(笑)。それまで世間的には馬場さんは独身として通ってたわけですよね。
    小佐野 私だって馬場さんは独身だと思ってたくらいだからね。当時の私は18歳、元子さんは40歳、馬場さんは42歳ですよ。それから『ゴング』が週刊化されて、私は全日本プロレスの担当記者になったんだけど。広報の担当はいるんだけど、重要な取材のゴーサインを出すのは元子さんだった。
    ――その若さで馬場夫妻と向き合うのは大変だったんじゃないですか?
    小佐野 巷でも言われてることだけども、元子さんは厳しい方だったからね。こっちも血気盛んなだから当然ぶつかるし。元子さん「これはなぜダメなんですか?」って聞いたら「私がイヤだからよ!」って言われてね(笑)。
    ――ハハハハハハハ!
    小佐野 「それじゃあ話にならないですよ!」なんて食い下がってね。そんな会話の繰り返しですよ。マスコミの中には元子さんが苦手だっていう人が多かった。私も何度かケンカしながらこうして最後まで付き合えたのは、何かあっても後に残らなかったからだと思う。元子さんもガーッと言うけども忘れちゃうし、私もあまり気にしない。何か言われたからといって元子さんのことが嫌いにはならなかった。
    ――受け止められる小佐野さんが凄いですね(笑)。
    小佐野 私は子供でまだ若かったから反論してケンカになっちゃうんですよ。「おかしいですよ!」「ダメなものはダメ!」なんてやってるうちに笑い話になっちゃうから(笑)。
    ――その「ダメなものはダメ!」は元子さんの感性による判断なんですかね?
    小佐野 元子さんには「悪意を持って馬場さんのことを書かれたくない」という気持ちが強かった。馬場さんにインタビューするときも悪意を持って質問しないでほしいと。80年代前半、全日本と仲の悪かった『週プロ』は、聞き手がフリーの菊池孝さんじゃないと馬場さんインタビューができなかったから。『週プロ』の記者だとダメ。
    ――菊地さんは昔からの付き合いで信頼できたってことですね。原稿チェックも厳しかったんですか?
    小佐野 原稿チェックはなかった。あの当時は誰も原稿チェックしなかったんですよ。
    ――記者にお任せだったからこそ、馬場さんを理解してるマスコミを選んでいたところはあるんでしょうね。
    小佐野 そういうニュアンスでしゃべっていないのに、曲解されて書かれたりすることはあるでしょ。元子さんは馬場さんに限らず全日本プロレス所属選手全員のことをそうやって気にしてたんだよね。『ゴング』も時には信頼され、時には抗議され(笑)。
    ――『ゴング』の記事にも目を光らせてるんですね。
    小佐野 こっちだってなるべく刺激的な発言が欲しいわけでしょ。誇張もしないけど、削る気もないから。たとえば天龍同盟の頃の天龍さんは平気でいろんなことをしゃべるんですよ。こっちが面白がって載せると、元子さんはピリピリする。
    ――当時の全日本は新日本と比べてスキャンダル性に欠けていたから、はみ出した発言なんかがないと表紙や巻頭カラーは取れなかったそうですね。
    小佐野 天龍さんとスタン・ハンセンがタッグを結成する直前の頃、何もネタがないからキャピタル東急まで馬場さんに会いに行ったんだよ。
    ――馬場さんはキャピタルのレストラン「オリガミ」が行きつけだったんですよね。
    小佐野 そこで私は馬場さんに「この流れからすれば天龍さんとハンセンがタッグを組むしかないですよね? そういう書いていいですか?」と聞いたら「好きに書いていい」と。『ゴング』でそう書いたら実際にタッグを結成することになったんだよ。そうしたら、その頃の馬場さんのブレーンだったターザン山本さん(当時『週刊プロレス』編集長)が怒ったみたいなんだよね。
    ――自分が馬場さんのブレーンをやってるのに、ライバル誌にスクープされるのが許せなかったんでしょうね(笑)。 
    小佐野 馬場さんからキャピタルに呼び出されて「なんでこんな記事を書いたんだ?」と怒られてね。でも、そのときは元子さんは私の味方になってくれた。「馬場さんはあのとき好きに書いていいと言ったでしょ。これは馬場さんが悪い」と。そこは筋を通してくれたんですよ。
    ――元子さんはそういうときに馬場さんの味方をするというイメージがありますね。
    小佐野 そういうわけじゃないんだよね。曲解して書かれるのがイヤなだけであってね。ちゃんと書いてくれれば問題ない。それでも元子さんには何度か怒られたことはあったし、取材拒否されたこともあった。それは全日本の許可なく天龍さんを連れ出して、藤波さんと対談させたことなんだよね。
    ――許可なく対談やったら怒られますよ!(笑)。
    小佐野 絶対に問題になるよ(笑)。私も会社に「勝手にやったら絶対にマズイですよ!」と言ったんだけどね。会社は「いいからやれ」と。仕方なく対談を組んだら「小佐野が勝手にやった」ということになっちゃったんですよね(笑)。
    ――ハハハハハハ!
    小佐野 それで『ゴング』としては取材できるけど、私個人は全日本を取材拒否。「ジャイアント馬場」の名前が入った手紙が届いて「小佐野景浩を取材拒否にする。全日本プロレス担当記者から更迭を求める」と。そうしたら元子さんから電話があってキャピタルに呼び出されたんですよ。馬場さんは「オマエ一人でこんな勝手をやるわけないよな?」と。
    ――普通はそう思いますよね。
    小佐野 私は「そう思っていただけるのは大変嬉しいんですけども、会社員なので言えません」と(笑)。その時点では馬場さんと私の中では手打ちになってるんだけど、取材拒否を解くタイミングがあるから。落とし所は馬場さんの誕生日。取材拒否とは言っても控室に入れないだけで会場に潜り込めたんですよ。そうしたら「馬場さんが控室に呼んでるよ」ということで行ってみたら「今日からいいよ。俺の誕生日だから」と。
    ――「誕生日恩赦」ですか(笑)。この続きと、サバイバル飛田、朝日昇、馬場元子、RENA劇場、倉持隆夫などの記事がまとめて読める「13万字・記事23本の詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • 中邑真輔、棚橋弘至、柴田勝頼……新・闘魂三銃士■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-04-09 10:22  
    75pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「中邑真輔、棚橋弘至、柴田勝頼……新・闘魂三銃士」です! 



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    WARからイッテンヨンへ! ライオン・ハート時代のクリス・ジェリコ
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    “四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!  猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――今回のテーマは中邑真輔、棚橋弘至、柴田勝頼の「新・闘魂三銃士」ですが、彼らがデビューした当時の小佐野さんは日本スポーツ出版内の異動もあって、プロレス現場取材はあまりできていなかった時期なんですよね。
    小佐野 『週刊ゴング』編集長から編集企画室室長という役職に変わったのが99年1月のことなんですが、編集長としての最後の号は、あの橋本真也vs小川直也なんですよ。
    ――とんでもない大事件が最後に起きちゃったんですね(笑)。
    小佐野 柴田や棚橋はその年の10月にデビューでしょ。中邑真輔は2002年8月のデビューだから、私は現場にいなかったんですよ。全日本プロレスはテレビの解説をやっていたから会場には行っていたし、新日本の会場にも顔を出せるかぎりは出していた。ただ取材ではないから、若手の頃の彼らとは接点がほとんどなかったし、とくにいまでも接点がないのが真輔。棚橋や柴田はその後、接点ができるんだけど、真輔は本当になかった。
    ――現場から離れた立場から、1・4事変以降の新日本をどのように見えたんですか?
    小佐野 プロレスをやりたいのか、格闘技がやりたいのか、もうブレブレでわけがわからない感じ。中邑真輔も格闘技とプロレスどっちつかずで、両方できる人として育てられてしまっていたよね。あの時期だからこそ、そういう宿命を無理に背負わされてしまって「なんて中途半端なプロレスラーができてしまったんだろう……」という感想はあったんだよね。
    ――まあ、そう見えちゃいますよね。 
    小佐野 あとから真輔がプロレスファンだったと聞いてビックリしたんだけど、そうは見えないぐらいプロレスがうまくなかった。サブミッションをやったかと思えば、急にラリアットをやってみたり、わけがわからなかった。サブミッションで勝負するならサブミッションでいけばいいのに、そこでなぜラリアットが必要なのか全然伝わってこないというかね。サブミッションをフィニッシュにするのはやめたほうがいいんじゃないかとすら思ったり。
    ――あの当時は総合格闘技が人気でしたし、プロレスでサブミッションを使うことは逆にマイナスなんじゃないか……っていう見方もありましたね。
    小佐野 説得力がなく見えてしまうということだよね。プロレスリングではプロレスの技で戦って、総合では総合の技術を見せるような使い分けをすればいいんじゃないかって。混ぜたことでよくわからなく見えちゃっていたから。 
    ――暗黒・新日本は格闘技っぽさを求められたこともあって……。
    小佐野 それからゲーム制作会社のユークスが新日本の親会社になったあと、武藤敬司が真輔からIWGPのベルトを奪ったときに「真輔はどうだった?」と聞いたら「いやー、新日本プロレスは、時としてああいう中途半端なレスラーを作っちゃうんだよなぁ」って言っていた。 
    ――低い評価だったんですね。
    小佐野 「かわいそうなのは彼はトップだろ? 下からやり直せないじゃん」って。それが2007年、いまから10年前ぐらいのことだよ。
    ――その直後に中邑真輔は覚醒するわけですから面白いですね!(笑)。武藤さんが「ああいうレスラー」とは何を指してるんですかね。
    小佐野 具体的に誰というわけではないんだけど、武藤は新日本の格闘技かプロレスかのどっちつかずがイヤで全日本に移ったでしょ。「このまま新日本プロレスにいたら俺のキャリアが潰されてしまう」ということで離れた。そういう中途半端なものを中邑真輔からも感じたんじゃないのかな。真輔も最初はどちらかといえば格闘技のほうで売り出されていたわけだしね。 
    ――国内2戦目は大晦日『猪木祭り』のダニエル・グレイシー戦でしたしね。
    小佐野 真輔は8月に安田忠夫戦でデビューして、すぐにロス道場に行ったでしょ。その最中の11月頃、猪木さんと新間(寿)さんが和解したんですよ。
    ――そんなことがあったような、なかったような(笑)。
    小佐野 なぜそんなことをおぼえてるかといえば、2人が和解した席に私がいたんですよ(笑)。
    ――あらま(笑)。
    小佐野 帝国ホテルの『北京』という中華料理屋さんで、桜井康雄さんを仲介人にして2人は和解したんです。私は新間さんから電話をもらって「今日、社長と和解するから取材に来てくれ」と。別の部屋で待機してしばらくして部屋に呼ばれたら、みんな紹興酒を飲まれてて、猪木さんは「これは魔界倶楽部じゃなくて和解倶楽部だな」なんて言ってて(笑)。
    ――アントンジョーク!(笑)。
    小佐野 猪木さんが凄く言いそうだよね(笑)。そのときに真輔の話題が出たんだよ。新間さんが「社長、いまの新日本で一番有望な若手は誰なんですか?」と聞いたら、猪木さんは「いまロスに中邑って奴がいるんだ」と。
    ――へえー、まだデビュー戦しかやってないのに。
    小佐野 そうしたら新間さんは「私はいまだにビンス・マクマホンと繋がりがありますから WWEデビューさせましょう!」なんて新間節が炸裂したわけですよ。
    ――さすが新間さんです!
    小佐野 私にも「おい小佐野!ビンス・マクマホンに送る写真を用意してくれ」なんて言われてね(笑)。それで写真を用意したんだけど。
    ――早すぎたWWEデビュー計画があったんですね(笑)。
    この続きと、朝日昇、アンドレ特番、宮戸優光×中井祐樹、レッスルマニア、安田忠夫、RIZINジャッジ対談などの記事がまとめて読める「15万字・19本の記事詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • 最後のムーンサルトプレス……天才・武藤敬司■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-03-12 10:51  
    80pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「最後のムーンサルトプレス…武藤敬司」です! 



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    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――武藤敬司が両ヒザを人工関節にする大手術を行ないます。リング復帰は可能だそうですが、代名詞のひとつだったムーンサルトプレスは医者から使用を禁じられるため、手術前最後の試合となる3月14日後楽園大会が“ラスト・ムーンサルトプレス”になるようです。
    小佐野 武藤はずっとヒザのケガに苦しんできたからね。たしか最初にヒザを手術したのは、若い頃に2度目の海外遠征でプエルトリコに行く前だったかな。
    ――かれこれ30年前のことになるんですねぇ。
    小佐野 若い頃はムーンサルトプレスをバンバン使っていたけど、歳を取るごとに使う頻度も減っていったり、バンと落ちるんじゃなくて、スライドして落ちるやり方に変わったりね。武藤は相手をコントロールできないような技は使わない。身体が動けないなら動けないでもプロレスができる術を持ってるのが武藤本人のプライドだよね。
    ――ヒザのダメージは日常生活にも支障をきたすレベルのようですね。
    小佐野 本当はもっと前に人工関節の手術を受ける予定で、手術日も決まってたんだよ。それがちょうど全日本プロレスの分裂騒動が起きて、土壇場でW-1を立ち上げることになったから手術をキャンセルしてね。手術しないでここまできちゃった。それこそ若い頃は「足の一本ぐらいはくれてやる!!」くらいのことは言ってたけど、飄々としながらもプロレスに対しては熱いものを持ってるということだよね。
    ――武藤さんってその時々によってスタイルをチェンジしてますね。
    小佐野 プロレスラーの中にはずっとスタイル変えない人もいれば、武藤のようにコスチュームから何から全部変えてる人もいるよね。彼は絶えず変えてきた。たとえば20代の頃はオレンジタイツだったけど、うまくロングタイツに変えていったしね。
    ――スキンヘッドにしたときもインパクトがありましたね。2000年大晦日プロレスイベントだったときの『猪木祭り』。髙田延彦のプロレス復帰が目玉だったんですが、タッグパトーナーの武藤さんがスキンヘッドにしてきたことでその話題を食ってしまって(笑)。
    小佐野 あれはアメリカから帰ってくる数日前に剃ったそうだよ。バリカンなんか持ってないから奥さんにハサミで切ってもらってね。青々としてるとカッコ悪いから、日光浴で日焼けして、なじませてから帰国するという(笑)。
    ――どの時代の武藤敬司を切り取っても印象深いですねぇ。
    小佐野 彼にとってラッキーだったのはグレート・ムタという存在があったことだよね。武藤敬司がマンネリ化したらムタになって、ムタがマンネリになったら武藤敬司に戻ればいいし。
    ――グレート・ムタも最初と比べると全く違うキャラクターになっていて。
    小佐野  『Gスピリッツ』でムタ特集をやったときにWCW時代の映像も見たんだけど、動きが本当に素晴らしいし、全然ヒールじゃないんだよ。WCW時代のグレート・ムタのファイトスタイルって武藤敬司そのものだからね。“悪の化身”としてのグレート・ムタは日本に戻ってきてから作られたんだよね。
    ――なかったはずの“悪の化身”を作り上げちゃったってのも凄いですね(笑)。
    小佐野 「ムタってそんなに悪くないんだけどなあ……」って武藤本人がボヤいてたんだから(笑)。日本のムタって最初は喋ってたしね。途中からだから、喋らなくなったのは。
    ――WCWでライバルだったスティングがベビーフェイスだったから、勝手に極悪ヒールのイメージを持ってしまったんでしょうね。
    小佐野 アメリカのムタは武藤敬司がちょっと悪いことをするぐらいで。使っていた技はムーンサルト、ジャーマンスープレックス、鎌固め、あとアキレス腱固めなんかも使ってたよ。
    ――フラッシングエルボーや側転エルボーという飛び道具もあって。
    小佐野 ムタの動きはベビーフェイスでもヒールでもなかった。現地では「USA!」コールと「MUTA!!」コールが同時に起こるくらいだったんですよ。だから日本人プロレスラーのイメージを変えちゃったところはありましたね。昔の日本人レスラーはプロモーターから「技なんか使うんじゃない」と怒られてね。使っていい技はチョップ、クロー、首絞めぐらいで、変にうまいレスリングをやっても仕方ない。日本人は姑息なやり方で勝たないといけなかったんですよ。
    ――履いていた下駄で殴ったり……の世界ですね。
    小佐野 でも、武藤はとくに制約を受けなかったらしいね。動きのあるプロレスだったからテレビ的にも見栄えがよかったんだろうね。
    ――たしかに鎌固めやアキレス腱固めはアメリカでは新鮮に見えますし。
    小佐野 当時のアメリカではブリッジする技自体が珍しかったんですよ。WCWにはロード・ウォリアーズがいたし、WWEはハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーがトップ。筋肉マン全盛だったから、技術が強力な武器になる時代だったんですよね。面白いのはムタの最初のフィニッシュは首4の字だったこと。
    ――首4の字が!
    小佐野 それでもお客さんには大受けだったし、毒霧も最初は使ってなかった。プエルトリコのブラックニンジャ時代は使ってたんだけど、WCWのときは初めから全ては見せない。最初は緑色の液体を口からダラダラと不気味に流すだけで。
    ――そこは見せ方を計算してるんですねぇ。
    小佐野 テキサスのスーパーブラックニンジャのときは、手に緑色の毒霧を吹きかけてからのアイアンクローが必殺技。
    ――いいですねぇ、やられた相手の顔が緑色に染まって!
    小佐野 スーパーブラックニンジャは「その昔フリッツ・フォン・エリックにやられた日本人レスラーの息子が復讐のためにテキサスにやってきた」という触れ込みだから、エリック兄弟にそのクロー技で追い詰めるという。武藤いわく「アイアンクローは一番難しいは技だ」って。やみくもに相手の顔を握っても仕方がないし、お客さんに「この技が出たらオシマイだ!」と思わせるのは意外と難しいんだって。
    ――武藤さんといえば身体能力オバケみたいなところがありますが、プロレスの考え方もスマートですね。
    小佐野 凄く考えているプロレスラーだよね。あの人は日本でデビューして1年ですぐにアメリカに行ったでしょ。新日本のリングでプロレスの基礎をおぼえて、アメリカではリング外の仕組みをおぼえたと言っていた。アメリカのプロレスはサーキットしながら連続ドラマで見せていくから「プロレスは紙芝居みたいだな」と思ったり。リック・フレアーがタイトルマッチをやると、いつもよりお客さんが入ってほかのレスラーのギャラもアップして、みんながフレアーに感謝する。アメリカでプロレスのチャンピオンのあり方を勉強できたんだよね。他のレスラーを稼がせるのがチャンピオンなんだと。
    ――アメリカで興行の仕組みを理解していったんですね。
    小佐野 当時から技術的なことはもう問題なかったから、あとはどうやってファンにインパクトを与えるか。あの当時の日本人レスラーはアメリカではヒールを必ずやるでしょ。だいたいの人は「いまはヒールをやってるけど、日本に帰ったらどうするか」と先のことを考えてる。要はいまやってるヒールは二の次なんだけど、武藤はアメリカで成功することを考えていたから。この続きと、「プロレスとヤクザ」、中井りん、山田学、告発者B氏、安田忠夫、池田大輔などの記事がまとめて読める「15万字・24本の記事詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • 縁の下の力持ち!! 坂口征二の荒鷲人生■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-02-14 12:10  
    80pt
    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「世界の荒鷲・坂口征二」です! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」冬木弘道版つきでお届けします。


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    「情」で生きる佐々木健介の激烈人生! プロレスラーで初めて大臣になった男、馳浩大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE 暴走親方、諏・訪・魔!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生
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    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
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    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――今月のテーマは“世界の荒鷲”坂口征二さんです!
    小佐野 坂口さんといえば、プロレス大賞授賞式の乾杯の音頭はずっと坂口さんだったけど、小橋(建太)に代わってね。坂口さんは33年間やってましたからね。
    ――33年もやってましたか(笑)。
    小佐野 坂口さんが日本プロレスで売り出されたとき私は小学3年か4年生だったんですよ。
    ――小学生時代の小佐野さん!! 時の刻みがねじれてる感があります(笑)。
    小佐野 声を大にして言いたいのは、坂口さんはアイドルレスラーの元祖だったんです(笑)。
    ――えっ、あのビッグサカがアイドルレスラー? 
    小佐野 というのは、あの頃の坂口さんは“黄金の若鷲”と呼ばれてまして。馬場さんに継ぐ身体の大きさに加えて、均整の取れた肉体を誇ってて、顔も昔風の美男子。だから“昭和の桃太郎”とも呼ばれてて(笑)。
    ――“昭和の桃太郎”!(笑)。息子さんが人気俳優(坂口憲二)になるのもわかるというか。
    小佐野 日プロ入りした坂口さんは修行先のロサンゼルスでデビューしてて。こんがりと日焼けした日本人プロレスラーの第1号だったんだよね。かつて日本人の憧れだったカルフォルニアのムードもあって。
    ――だからアイドルレスラーの元祖だったんですね。言われてみれば、石原裕次郎の青春映画に出てきそうな雰囲気がありますよね。
    小佐野 そうそう。それにあの頃は馬場さんも猪木さんもコスチュームはガウンだったけど、当時の坂口さんは金のスパンコールのジャンパーがコスチュームだったんです。
    ――へえー、坂口さんはガウンのイメージが強いですけど。
    小佐野 アメリカ武者修行中は、仲の良かった竹内(宏介)さんにしょっちゅう手紙を送ってたみたいで。それがそのまま雑誌の企画になるくらい筆まめだったみたい。
    ――大物柔道家のプロレス転向はインパクトはあったんですよね。
    小佐野 その頃の私は子供だったからよくわからなかったけど、売りは「柔道日本一」だったよね。ジャイアント馬場の後継者になれるかもしれない逸材。いままでの日本人レスラーが使ってなかった技を使って。例えばネックハンギングツリーとか。アトミックドロップも馬場さんを使ってたけども、坂口さんは決め技として使ってね。ショルダーバスターやアルゼンチンバックブリーカーも坂口さんが日本人として初めて使ったんだよね。
    ――超期待の大型新人だったわけですね。
    小佐野 外国人のパワーに負けなくて、ビジュアルもかっこいい。それが坂口征二というプロレスラーのイメージ。猪木さんが日プロから東京プロレスに移籍したときに、日プロが対抗するために坂口さんを獲得したんです。ただ、坂口さんが入った2ヵ月後には猪木さんは日プロに戻ってきちゃったから。
    ――坂口さんは馬場さん、猪木さんに次ぐ三番手の位置づけになったんですね。
    小佐野 坂口さんは年齢的には猪木さんよりひとつ上なんだけど、猪木さんには“力道山の弟子”という血筋があるでしょ。坂口さんは柔道界からスカウトされたプロレスラーだし、猪木さんのほうが格上に見えちゃうよね。やっぱり馬場さん、猪木さんとは7年もキャリアが違うから。
    ――やっぱり力道山直系の肩書きは強いんですねぇ。
    小佐野 そのぶん坂口さんにはフレッシュさがあったんだけどね。力道山の流れじゃないところから生まれたスターだったから。
    ――プロレスラーとしての評価は低くなかったんですよね?
    小佐野 そのうち馬場さんも日プロを抜けて坂口さんがエースになるんだけども、形的には大先輩の大木さんがトップということにしなきゃならない。だから伝統のインターナショナルのベルトは大木さんが巻いた。だけど、大木さんがトップでは日プロはやっていけないから、坂口さんが実質的なエースなんですよ。
    ――それくらいのレスラーだった。 
    小佐野 ちょっと話は前後するけど、猪木さんがクーデター未遂を理由に日プロを解雇されたあとは、猪木さんが持っていたベルトを坂口さんがすべて獲得するんです。UN、アジアタッグ、インタータッグ。馬場さんと東京タワーズを結成してね。あのままにいけば馬場・猪木クラスのトップレスラーなっても全然おかしくなかったけど、新日本では一歩引いた立場で。
    ――坂口さんはナンバー2のイメージが強いですね。
    小佐野 坂口さんは二番手に収まる気はなかったんだよ。有名な「片手で3分事件」もあったでしょ。
    ――新日本を旗揚げした猪木さんとは派手な挑発合戦をやっていて。小佐野 新日本に合流したときも坂口さんはギラギラしていた。ただ途中から会社のためを考えたら〝両雄並び立たず〟だろうと悟って、坂口さんは一歩引いたかたちになったんだよね。猪木vsウィレム・ルスカの異種格闘技戦があったときも、最初は坂口さんに話があって。ほら、坂口さんは柔道日本一だから。
    ――ルスカは柔道五輪の金メダリストですから、柔道対決を考えちゃいますよね。
    小佐野 でも、当時の営業本部長だった新間(寿)さんは猪木さんにやってほしかった。そこを坂口さんが理解したってことだよね。「自分よりは猪木さんがやったほうが世間的にも話題になる」と。そこで初めて猪木さんをエースにしてやっていくことを自覚したと言ってたね。
    ――猪木さんの坂口さんへの信頼感も厚かったですよね。
    小佐野 そりゃ信頼するでしょ。坂口さんはあれだけ気配りができるし、細かい実務的なこともやってくれるんだもん。昭和の新日本が好調だった時代のマッチメーカーは坂口さんだったしね。
    ――いわゆる現場監督的立場だったんですね。
    小佐野 金曜夜8時のテレビ生中継のことも考えて、8時になればタイガーマスクの試合が始まり、長州さんと藤波さんの試合があって、最後は猪木さんが締めるという。団体の窓口も猪木さんより坂口さんのほうが都合がよかった。NWAも坂口さんが会員として加盟できたんですよ。
    ――ああ、そうでしたね。
    小佐野 結局何かトラブルがあると坂口さんが表に出ていった。全日本プロレスと揉めたときも坂口さんが馬場さんと話をしてね。
    ――馬場さんも坂口さんなら信頼できるということだったんですね。
    小佐野 馬場さんとの関係性を考えたら、坂口さんはむしろ日プロから全日本に移らなかったほうが不思議なくらいだよね。
    ――そこで全日本に移っていたら新日本の歴史はかなり……。
    小佐野 日プロを放映していたNET(テレビ朝日)の方針は、来年には日プロの中継を打ち切ると。日プロには新日本と合併するなるなら面倒を見るという条件を出していて。そこで猪木さんと坂口さんが話し合って、新日本も日プロも解体して、新しい団体を作るということで合意したんだよね。五分のかたちで合体しようと。
    ――坂口さんは新日本に移りますけど、日プロと新日本はは合併はしませんでしたね。
    小佐野 大木(金太郎)さんが反対して合併案が却下されちゃったんだよ。最初は選手全員が納得していたんだけども、オフで韓国に帰国していた大木さんが戻ってきたら「そんな話は聞いてない。猪木が日プロを乗っ取ろうとしたときと同じじゃないか!?」と怒ってね。結局大木さん側につく選手も現れて、新日本に移ることになったのは坂口さん、キラーカーン、木村健吾、大城大五郎、田中米太郎、その5人だけだった。
    ――そこで大木さんが話を飲んでいたら、プロレス史は変わっていたでしょうねぇ。
    小佐野 結局日プロは崩壊して、あとになって大木さんが新日本に参戦したときに坂口さんと壮絶なケンカマッチをやってね。坂口さんは普段は温厚なんだけど、柔道で日本一になった人だから。怒らせたら本当に怖かった。感情むき出し。仲の悪かった前田日明との試合もそんな感じだったよね。
    ――坂口さんがマジでやったら強いでしょうねぇ。
    小佐野 坂口さんは大木さんと「試合もしたくない!!」と拒んでたんだから。大木さんが絡んだ新日本の韓国遠征には一度も行ってないし。
    ――カテエ!
    小佐野 そういうところは坂口さんは頑固。大木さんとの試合は2回やって2回ともに無効試合になったのかな。もうグチャグチャの試合になってね。新間さんがどこかの巡業先で2人に握手させたとか言ってたかな。「このままじゃ困るから」っていうことで。
    ――坂口さんが日プロから出ていく最後の日も修羅場だったとか。因縁は根深いんでしょうねぇ。
    小佐野 坂口さんと一緒に新日本に移る大城さんが桜田(一男)さんに試合でボコボコにされたってやつだよね。あの日、坂口さんは会場近くのビジネスホテルにチェックインして、そこで着替えて車に乗って会場入り。そうしたら試合で大城さんがボコボコにされて、坂口さんはセミファイナルで大木さんと組んでのタッグマッチだったんですよ。
    ――うわっ〜!! 痺れますねぇ。
    小佐野 大木さんのほうはセコンドで周囲を固めていて臨戦態勢ですよ。どうやら「坂口が試合で変なことをするんじゃないか」と囁かれていたから。坂口さんにはそんなつもりまるでなかったんだけどね。
    ――大木さんたちも疑心暗鬼だったんですね。
    小佐野 坂口さんは試合が終わっても控室に戻らないで、メインも見ずにそのまま車に乗ってビジネスホテルに帰ったんです。日プロ側も坂口さんたちが控室に戻ってこないことに気がついて「あっ、逃げやがった!!」と追っかけてきて。
    ――やるか、やられるかですねぇ。
    小佐野 そのビジネスホテルにも留まってると危険ということで、着替え終えたらそのまま新日本道場に向かったんですね。道場には藤波さんと小鉄さんが「よく来てれました」と出迎えてくれて。シリーズ中も新間さんが坂口さんに電話を入れて「試合に出ないで休んだほうがいいんじゃないか」と心配したんですよ。やっぱり無事に新日本に合流してほしいから。
    ――坂口さんもよく最後までやりきりましたねぇ。
    小佐野 そのシリーズ中に坂口さんとジョニー・バレンタインとのUN選手権が横浜であったときも、日プロから頼まれたバレンタインがセメントを仕掛けるんじゃないかという噂が流れて。そこで猪木さんが極秘にバレンタインと会って「変なことはしないでくれないか」と頼んだという話もあったり。
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  • 「情」で生きる佐々木健介の激烈人生!■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2017-12-16 13:48  
    85pt
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    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!  猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
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    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――今月のテーマは佐々木健介さんです! ヴァー!!
    小佐野 健介とはこないだ久しぶりに会ったんだよ、天龍プロジェクトの島田紋奈代表の披露宴で。その前に会ったのは2015年3月のサイパン。レストランで奥さんとメシを食っていたら健介ファミリーと偶然会って。
    ――健介さんとはいつからの付き合いなんですか?
    小佐野 ジャパンプロレスで彼がデビューする前から知ってるんだけど。新弟子時代から引退まで見届けた選手ってそんなにいないんですよ。あの時代でデビュー前から知ってるのは小橋建太、菊地毅、小川良成とかになっちゃうんですよね。
    ――小佐野さんにとって健介さんも思い出深いレスラーのひとりになるんですね。
    小佐野 ジャパンプロレスの歴史自体は短かったけど、健介と私を結びつけたのは、あの団体なんです。ジャパンが崩壊して、彼が長州さんたちと一緒に新日本プロレスに移ったあとも、私個人に連絡はあってね。海外遠征先のハノーバーから電話をくれたんだけど、当時の健介の気持ちはジャパンプロレスのままなんですよ。「いまの新日本は、いまの長州さんは……」って批判をしてて。彼は新日本に移籍したわけじゃなくて「長州軍団として殴り込んでる!」という意識が強かったから。
    ――でも、ボスの長州さんは新日本の現場を仕切ってますよね。
    小佐野 長州力は新日本の中枢に入っていった。でも、健介は「なんで同じ控室で新日本の奴らと仲良くなきゃいけないんだ!?」っていう感情があったんです。だから本人は新日本に移ってからもジャパンのジャージを着ていたし、新日本の控室に入らない。通路や階段のところにいたんです。
    ――反骨精神ですねぇ。
    小佐野 話は前後するけど、健介は馳浩より2ヵ月先にジャパンに入門したんだけど、そのときはデブだったんですよ。身体を大きくしないと入門できないと思ってかなり太ってた。
    ――健介さんは背丈はないですから、厚みを増そうとしたんですね。
    小佐野 でも、馳が入門した頃には20キロ近く痩せていてね。なぜそんなに激ヤセしたかというと、もちろん練習も厳しかったんだけど、雑用がもの凄く大変だった。当時ジャパンの新弟子は健介ひとりだったから。
    ――すべての雑用を健介さんがこなしていた。
    小佐野 練習が終わりそうになると、買い出しに出かけて、1時間以内にひとりでちゃんこを作る。巡業のときはひとりでセコンドについて、その合間に先輩たちがホテルに戻るためのタクシーを呼んで、控室では先輩レスラーの汗を拭いたりする。ホテルに帰ったらみんなの洗濯。
    ――休むヒマもない!(笑)。
    小佐野 ホテルの近くにコインランドリーがない場合は、自分の部屋の風呂場で洗濯。洗濯ヒモを持ち歩いていたから、ホテルのボイラー室で洗濯物を乾かして。やっと雑用が終わっても、当時は24時間のコンビニなんかないから、メシもろくに食べられない。早起きして先輩たちを起こさないといけないから、寝る時間もない。そうやって20キロも痩せたところに馳がさっそうと入団したので「この2ヵ月はなんだったんだ!?」と(笑)。
    ――心がボルケーノと化したんですね(笑)。
    小佐野 しかも馳は年上だから「さん付けで呼べ」と命令されて。馳は長州さんの付き人だけが仕事。長州さんの面倒を見ればいいけど、健介は全員の面倒を見る。
    ――もしかして健介さんは新弟子というよりは、雑用係として採用されたいうか……。
    小佐野 たぶんそうだろうね。前回の馳でも言ったけど、長州さんは「育てるのに時間のかかる選手は獲らない」と即戦力以外は欲しくなかったんだから。健介は一番下っ端でつらい思いをしたからなのか、全日本で同じ境遇だった小川良成と仲が良かった。全日本もずっと新弟子が入ってこなかったから、小川良成がひとりで雑用をやっててね。晩年健介がNOAHに上がっていた頃も凄く仲が良くてね。「小川」「佐々木」と呼び合う仲。
    ――苦楽を共にしたんでしょうねぇ。
    小佐野 健介は新日本に移ったあとも全日本の会場に来てたからね。試合を見たり、小川に会うために。それが許されていた。入り口には元子さんがいるから、新日本に移ったレスラーたちは出入り禁止なんだけど、健介はオッケーだった。元子さんからすれば「この子は何も事情がわからないまま、先輩についていくしかなかったのね」ということで。
    ――小佐野さんは前座時代のプロレスラー佐々木健介には、どんな印象があったんですか?
    小佐野 試合はね、正直モノにならないと思った。不器用だし、身体は小さいし。回転エビ固めをやってもきれいに回れない。新日本の前座時代は見てないんだけど、藤原(喜明)さんに教わったりしてたみたい。あとはマサ(斎藤)さんのマンションに住んだことが大きかったらしいね。マサさんは「おまえは身長がないんだから、身体を大きくしろ!!」と。マサさんも背は低いけど、身体をブ厚く鍛えることでアメリカで生き抜いてきたでしょ。
    ――「パンプアップしろ!」ってことですね。
    小佐野 マサさんの影響で健介もああいう頑丈な身体になった。マサさんには凄く感謝しているから、健介オフィスを法人化したときにアドバイザーとして迎え入れたんだよ。
    ――WJ崩壊後行き場を失っていたマサさんに恩返しをしたんですね。
    小佐野 健介はいろいろと言われがちだけど、情は深いんですよ。涙もろいところもあってね。海外遠征は最初プエルトリコ。「ササキサン」というリングネームを勝手につけられて、ミスター・ポーゴと組んでたんだけど。そのときにジャパン女子からイーグル沢井とムーン章子も遠征に来てて。彼女たちが先に日本に帰るとき、空港に見送りに来ていた健介が涙を流すという(笑)。
    ――なぜだ(笑)。
    小佐野 さびしかったのかな。イーグル沢井は健介のことをなぜか「クジラくん」と呼んでいたんだけどね(笑)。そのあとはカルガリーで北原(光騎)とタッグを組んで、そのあとハノーバー。90年春に凱旋帰国した。
    ――同時期に華々しくし帰国した武藤(敬司)さんとは、扱いに差がありましたよね。
    小佐野 健介本人は「……またか!」と憤ったんだって。ジャパンのときは馳がポンと入ってきて、凱旋帰国のときは武藤だけがスポットライトを浴びる。だから新生UWFに行く可能性があったんだよ。
    ――“選ばれし者”佐々木健介誕生の可能性!
    小佐野 新日本の前座でやりあっていた鈴木みのるから誘われたんだと思う。健介に「なぜ行かなかったの?」って聞いたことがあるんだけど、本人は「情」と言っていた。自分ひとりの力ではなく、みんなのおかげでプロレスラーになれたからUWFには行けなかった。新日本のほうがUWFより団体として魅力があるとかじゃなくてね。
    ――自分を育ててくれた長州さんやマサさんのもとでやっていきたいという。
    小佐野 それまではジャパンプロレスの意識が強かったけど、「自分の根っこは新日本だ」って折り合いをつけたみたいだね。そこから新日本に順応するのは早かった。だって馳と一緒に道場のコーチをやってたくらいだし。
    ――外様の2人があのキャリアで道場を仕切るって凄いですよね。
    小佐野 当時の新日本って専属のコーチはいなかったんじゃないかな。昔は山本小鉄さんが教えてんだろうけど、その時々道場に熱心にくるレスラーが自然に……。
    ――一番練習熱心だったのは馳と健介だったそうですし。
    小佐野 橋本は道場にいる時間だけは長かったんだろうけど。エアガンでスズメを撃ったりとか遊んでいたからね(笑)。
    ――道場滞在時間は同じでも内容が違う(笑)。
    小佐野 健介は橋本真也のことを凄く意識してたよね。2人は感情をガンガン出していくタイプだったし、年齢も近い。でも、健介は橋本のように身体が大きくないから練習するしかない。馳が「なぜ三銃士と互角に試合ができたかといえば、あの人たちはナマクラだから」って(笑)。
    ――そこまで三銃士って練習してなかったんですか(笑)。
    小佐野 彼らが新日本に入った頃のコーチは荒川さんでしょ?(笑)。
    ――ハハハハハハ! 荒川さん、亡くなってしまいましたねぇ。ご冥福をお祈りいたします!
    小佐野 荒川さんにはダンスを踊らされたとか、ソープランドに連れて行かれたとか、そんな話ばっかだから(笑)。練習に耐えられなくなった武藤が小鉄さんに「やめます」と言ったら、「やめるな!」と引き止められた世代だし。
    ――早すぎた“ゆとり世代”だったんですかね(笑)。
    小佐野 試合会場に置いたあった祝杯用のビールを橋本と武藤が「これはいいや」って試合前に飲んじゃったとか(笑)。
    ――とてもコーチを任せられない!!(笑)。
    小佐野 そうじゃなかったら、あの3人がいるのに馳と健介がコーチをやってるのは変だもん(笑)。そこから健介の“鬼コーチ伝説”が始まるわけだけど……
    ――健介さんの鬼指導はいろいろと伝説になってますね。
    小佐野 みんな言うよね。小島聡は「石鹸の匂いを嗅ぐと、新弟子の頃と思い出す……」と。風呂場の掃除がダメだと殴られるから。真壁刀義は包丁で野菜を切るときに健介を刺すことを想像しながら、ちゃんこを作ってたとか(笑)。
    ――ど、ど、ど、どんな目に遭ってたんですか!!(笑)。この続きと、村浜武洋、日馬富士、ヤマモ騒動、ジェリコvsケニー、『プライド』解説の記事がまとめて読める「11万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     
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