• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 23件
  • 【詰め合わせセット】村上和成、安西グレイシー、冬木弘道、内藤のび太、ノブ・ハヤシ、多重ロマンチック

    2014-11-30 23:59  
    550pt
    非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! par10は大好評インタビュー7本、7万字が540円!!  <詰め合わせ記事内容>①村上和成ロングインタビュー 命懸けのプロレス道!!初期・和術慧舟會の実態、アントニオ猪木との出会い、最強UFO軍団、生死をさまよった“1・4事変”、小川直也との別離の真実、上井文彦に酷い目にあったビッグマウス時代などを激語り!②元『格闘技通信』記者・安西伸一 俺が愛したグレイシー柔術第1回UFCの衝撃、グレイシー伝道活動、UWFへの複雑な胸中、格通vs高田道場――アンザイ・グレイシーが見た総合格闘技界黎明期とは?
    ③大反響! 小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――冬木弘道物語壮絶!癌にプロレスで向かい合った男・冬木弘道……「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った。④修斗世界王者・内藤のび太  のび太のキャラはファンタジーではリアルだった!!⑤白血病からの復活! 元K−1戦士ノブ・ハヤシ高校生の夏休みにリングス道場入り、デビュー前にモーリス・スミスのジム、単身オランダ修行……90年代の格闘ロマンの塊がここにある!!⑥多重ロマンチック主宰・漁師JJさん/あなたはなぜブログを更新するのか人気ブロガーはどうやってプロレスに出会い、プロレスの魅力を伝えているのか?テン年代の活字プロレスを探る新シリーズ!! ⑦MMAファイターは干されることがあるのか〜あるいは旧・和術慧舟會の伝説〜大沢ケンジの格闘技解説! 選手、ジム、プロモーターの気になる三角関係……伝説の格闘技集団・和術慧舟會の笑撃エピソードも溢れだす!プロレスと格闘技の境界線が曖昧だった「プロ格・大航海時代」の90年代――格闘家のプロレス転向の嚆矢ともいえた存在が村上和成である。初期・和術慧舟會を知る男は、伝説の格闘技イベント『トーナメント・オブ・J』やバーリトゥードと呼ばれていた時代のアメリカを体験し、日本では『PRIDE・1』の記念すべきオープニングマッチを務めた。プロレス転向後はアントニオ猪木が率いる最凶軍団UFOに参加し、“暴走王”小川直也の片腕として活躍。100年に1度のシュートマッチ、小川直也vs橋本真也の通称“1・4事変”では、UFO軍団の暴挙に怒り狂った新日本プロレス勢に集団で踏みつけられ意識不明の重体に追い込まれた。そのアクシデントをきっかけに新日本勢との抗争劇が開始。「平成のテロリスト」として多くの団体で存在感を示していたが、脳挫傷を負って以降はリングとは距離をおいている。そんな村上和成の命懸けのプロレスロードを16000字でロングインタビューで振り返ってみた。
    ――いまは格闘家が気軽にプロレスのリングに上がれる時代ですけど、村上さんは意識不明に脳挫傷……命がけでプロレスに取り組んでましたよね。
    村上 あー、そこは時代的なものもあると思うんですね。ボクの場合は佐山(サトル)先生や小川直也という人間に出会って、もっといえばアントニオ猪木にプロレスというものを教えられたわけですから。
    ――プロレスデビュー当時から濃い方々との付き合いがあって。
    村上 じつはボクはガキの頃からプロレスをバカにしていた人間で。格闘技やってた頃も「なぁ〜にがプロレスだよ?」と文句を言っていたほうなので(笑)。それがこんなにもプロレスに惚れこんでしまって……。ボクの人生でプロレスくらいなんですよ、ここまで惚れ込んでしまったものって。
    ――村上さんは新弟子生活を経てデビューしたわけじゃないですよね。
    村上 はい。だからプロレスの練習をしたことがなかったんですよね。それに猪木さんが小川さんに出した指令が「村上にはプロレスの練習をさせるな!」ですから(笑)。
    ――ハハハハハ! プロレスをやるのに!
    村上 「おまえは本能のままに戦え!!」と。それはいまでもそうなんですけどね。受け身とかは現場で勉強していくというか、「これは痛いな」「このまま受けるとヤバイな」ってそんな状態。だから最初は「なんでみんなロープに振られるんだろう?」ってバカにしてたんですけど。でも、ちゃんと背中にロープを当てて返らないと危険なんですよね。
    ――ロープの中には鉄のワイヤーが入ってるから、ヘタに受けると危険ですね。
    村上 それでロープを利用したほうがいいことがわかったんですよね。それでも理解するのに5〜6年はかかりましたけど(笑)。あとボクがラッキーだったのは「本能のまま戦え!」とは言われたけど、実際にそう戦ったら相手が大怪我することもあるじゃないですか。「本能のまま戦え!」という猪木さんの難しい言葉を具現化してくれたのは、バトラーツの石川(雄規)社長だったんですよね。
    ――なるほど! 石川さんって“猪木プロレス”を真剣に考えて実践してましたね。
    村上 そうです、そうです。石川さんは猪木さんの黒いタイツや赤いタオルも真似てましたし、猪木さんのような試合をしていた。ボクがバトラーツに上がったときに「何をやってもどんなことをやってもいいんだよ」と言ってくれたのがその石川社長で。その言葉を受けてボクは試合になるとケガをさせたり、ケガをしたり……たいていはケガをさせるほうだったんですけど(苦笑)。
    ――そうやって場数を踏むことで、村上さんの暴走スタイルが確立されていったんですね。
    村上 はい。バトラーツで経験が積めたのは大きいですよね。
    ――小川さんとはその経験の違いがあったのかもしれませんね。
    村上 小川さんはWWEとかアメリカンプロレスが大好きだったりするじゃないですか。
    ――ハルク・ホーガン大好きですからね(笑)。
    村上 そうなんですよね(笑)。それでいて猪木さんや佐山さんにプロレスとは何かを教えられ、新日本プロレスとも緊張関係がある中で、リングに立ち続けてきたので、小川さんはどうしても「コノヤロー!」というスタイルにはなっていきますよね。
    ――経験が浅い時期から先鋭的なストロングスタイルが求められてしまった、と。
    村上 それは小川さんしかできない役割でしたし、一緒に長くやってきましたけど、ボクとは立場は違いましたよね。あとUFOのときは小川さんの命令もあって身体を絞ってたんですよ。でも、永田裕志の蹴りをもらったときに「この身体ではダメだ」と思って。永田裕志もボクと同じ本能のまま戦ってくるタイプですけど、それだけに細身だとあの蹴りは耐えられないんですよね。
    ――永田さんのキックでプロレスに目覚めたところもあるんですね。
    村上 当時のボクは90キロもなかったですからね。ボクと戦う相手は蹴ったり殴ったりバンバンくるわけで、ボクはその攻撃をガッチリ受けて「そんなの効かない!」とアピールしなくちゃならないですから。それで肉を付けるようになったんですよ。
    ――村上さんは格闘家の頃からプロレスラー志望ではなかったんですよね?
    村上 考えもしてなかったですよね。というか、ボクの場合、人生の分岐点がほぼほぼ自分の意思じゃないんですよ。高校の柔道部の監督の命令で拓殖大学に入りましたし、大学卒業間際に拓大の先輩にあたる西良典先生が東京で和術慧舟會の大会をやったんですけど、意味もわからず出ることになったり(笑)。
    ――総合格闘技も自分の意志ではなかった、と。
    村上 そうなんです。「おまえ、殴って蹴って骨を折ったら、みんなから拍手されるんだぞ? 喧嘩しても拍手はされないだろ?人生の記念になるぞ!!」とか言われて(笑)。しかも大学の先輩後輩の関係ですから断ることなんかできないんですよ。先輩の言葉に「NO」はない。それで大会に出たら優勝してしまって。
    ――それが「真・格斗術トライアル・トーナメント」なんですね。
    村上 あれは新宿スポーツセンターでやったんですよ。1回戦の相手がトーワ杯3位の方で。柔道着にグローブをつけさせられて「先輩、これだと相手を掴めないんですけど」って言ったら「馬鹿野郎!とにかく相手をぶん投げて骨を折ればいいんだよ!」と怒られて(笑)。
    ――ハハハハハハハ! 総合格闘技の知識はあまりなかったんですね。
    村上 まったくないです。柔道と相撲と喧嘩殺法だけ。とりあえず格闘技をやらなきゃいけないと紹介されて通ったところが黒崎道場だったんですよ。「誰だよ、黒崎って?」という感じだったんですけど。
    ――“鬼の黒崎”を知らなかった!(笑)。
    村上 まったく知らなかったです(笑)。黒崎先生には「つま先で立って構えていろ」と言われて。ボクはバカだからそのままの姿勢で立ってたんですけど、何時間経っても先生が来ないんですよ(笑)。
    ――必殺・放置プレイ笑)。黒崎道場にはセメントでできたリュックを背負って歩くという練習もあったそうですね。
    村上 ありましたねぇ。二宮金次郎のようにマキが入ったカゴを背負って走ったり、砂袋が入ったタイヤを引っ張りながら走ったり。そのうちに「佐山のところに行ってこい」ってことで佐山先生のところでキックの練習をするようになりました。それでトーナメントで優勝したら「フリー」だった所属がいつのまにか「和術慧舟會」に変わっていて。
    ――あ、入門した記憶がない(笑)。
    村上 「えっ、和術慧舟會ってなんだろ?」って感じですよ(苦笑)。
    ――村上さんの頃って東京本部の道場はあったんですか?
    村上 道場はボクがアメリカで試合をする半年くらい前にできたんですよね。東京での活動自体は、久保(豊喜)社長と、亡くなられた守山(竜介)さんが拓大出身だったことで、西先輩に頼まれて始まったんですけど。
    ――そこも拓大の上下関係から生まれたんですね。
    村上 久保社長は当時、不動産の仕事をやっていて。その久保社長の事務所の中に間借りするかたちで、守山さんは中古車ディーラーの仕事をやってましたね。
    ――当初は仕事の合間に東京本部の活動をされていたんですね。
    村上 新宿スポーツセンターや区の柔道場を借りて、守山さんと2人きりで練習してたんですよね。ただ広い柔道場に2人だけで(笑)。
    ――それが和術慧舟會東京本部の原点だったんですねぇ。
    村上 そのうち宇野(薫)くんとかあのへんのチームが練習に来るようになって、そのうち東京本部の道場ができたんですよね。
    ――のちに和術慧舟會のエースになる小路(晃)さんと村上さんと同郷ですよね。
    村上 アイツとはまったく接点がないんですよ。高校が同じ柔道部なんですけど、大学に進んだボクが格闘技をやってることを知っていて、「格闘技をやりたい」という電話があったので慧舟會に入るように薦めたくらいで。どこかで会えば「おう!」と話はしますけど。
    ――話を戻すと村上さんは「トーナメント・オブ・J」にも出ることになりましたけど。高阪剛さんをはじめ、のちの有名格闘家がこぞって参加した伝説のイベントですよね。
    村上 ボクは1回戦で郷野(聡寛)選手と闘ってハイキックで負けて。そこで初めて火が付いたんですよ。「コイツにはリベンジをしないといけない!」って。蹴り一発で負けた自分が情けなくて、就職活動を一切放棄して格闘技に集中したんです。
    ――無茶しますねぇ。
    村上 いろいろと就職の話はあったんですけどね(笑)。それで翌年の「トーナメント・オブ・J」で郷野選手にリベンジを果たして、格闘技をやってることがだんだん楽しくなってきたんですけど。働かないと当時は格闘技だけで食べていけないじゃないですか。
    ――「プロ格闘家」が成立しない時代でしたね。
    村上 それで築地の市場で働くことにしたんですよ。築地の仕事って早朝に始まって昼に終わるという感覚があって、それなら練習もできるかなと考えていたら、ボクが働いていたところは朝早くて夜遅いんです(苦笑)。そんな中、アメリカのエクストリームファイティングからオファーがあって。慧舟會を通しての話だったんですけど、試合の3週間前に「行け!」と言われて。
    ――そこも断れない命令でしたか(笑)。
    村上 なんで自分にオファーがあったかというと、ボクが木村政彦先生の孫弟子にあたるという話題性もあったと思うんですよね。強かろうが弱かろうが、柔術発祥の地である日本の格闘家に勝ったら「凄い」という話になりますし。
    ――木村政彦の名前はやっぱり轟いていたんですね。
    村上 本当に木村先生は凄いですよ。とくに大外刈りは倒されたら一本だし、倒されなかったら足の骨が折れますから。
    ――ファッ!?
    村上 拓大では木村先生式の大外刈りの練習させられるんですけど、それは木村先生にしかできなくて。ボクの拓大時代の柔道部監督だった岩釣(兼生)先生が、木村先生の弟子の中でも唯一習得したと言われてるんですけど、木村先生に言わせるとそれでも半分の出来らしくて。岩釣先生にその大外刈りをかけられたんですけど、足の骨が折れるかと思いましたね(笑)。
    ――半分でもその破壊力(笑)。
    村上 当時の岩釣先生って60歳近かったたんですけど、身体を持たれたら動けなかったです(笑)。で、アメリカの試合に出ることになったんですけど、試合に備えるとなると仕事をやめないといけないじゃないですか。そこで困っていたら、働いていた会社の専務がバスケのジュニア五輪の選手だったことがあるんです。その方が社長に「村上が試合に出るから試合前後は休まないといけない」と頼み込んでくれて。
    ――元スポーツマンとして親身になってくれたんですね。
    村上 社長も最初は「総合格闘技ってなんだよ、それ?」って半信半疑だったんですけど、ボクが取り上げられてる『格闘技通信』を見せたら「おまえは雑誌に載るくらい選手なのか?」って納得してくれて。ボクが働いていたのは仲卸の青果だったんですけど、店の前にカンパ箱を置いてくれて。毎朝1万円を入れていってくれるオジサンもいたんですよ(笑)。
    ――築地を挙げて応援されてわけですか(笑)。
    村上 1週間か10日くらいで20万円くらいになりましたねぇ。でも、対戦相手の写真を見せたら「おまえ、こんな身体のでかいヤツには勝てねえだろ!?」って。
    ――バート・ベイル。スーパーヘビー級の体格でリングスや藤原組にも出てましたね。
    村上 そんなことはまったく知らなくて。アメリカに行ったら、ほかの選手たちが「頼むからアイツをぶっ飛ばしてくれ!」って口を揃えて言ってくるんですよ。通訳が言うには「ベイルはみんなから嫌われてるらしいんだよ」って。
    ――ちなみにファイトマネーはどれくらいだったんですか?
    村上 慧舟會を通してたので正確な金額はわからないですけど。あんときは面白いシステムで、相手のファイトマネーが100万、ボクが10万だとしますよね。ボクが勝ったら金額がひっくり返るんですよね。
    ――それは面白いですね。
    村上 イベント側はバート・ベイルを看板選手にしたかったみたいですけど、ボクが勝ってしまったから相撲といえば金星ですよね。ボクは10万円もらってなかったですけど(笑)。
    ――ひっくり返ったお金は届かなかった、と(笑)。
    村上 まあ、アメリカで試合ができるだけで満足でしたけどね。相手はホントに力が強くて、ハンパじゃなかったんですよ。もう柔道の原理が通用しない。「殺さなかったら殺される!」と思って、そこからはもう喧嘩殺法ですよね。しこたま殴りまくって、それでレフェリーに止められてコーナーに戻るように言われたんですけど、ドクターチェックみたいなことをして試合を再開させようとするんですよ。
    ――看板選手を負けさせることはできなかったんでしょうね。
    村上 でも、ベイル本人が「もうできない……」ということで。それで後日、ベイルが出る予定だったタイトルマッチにボクが出ることになったんです。
    ――それがモーリス・スミス戦なんですね。
    村上 そこではモーリスに負けてしまったんですけど。当時の格闘技興行って「生きるか、死ぬか」みたいなところがあって、控室で「俺は何人殺したぞ!」とかうそぶいてるような連中ばっかなんですよ。
    ――ならず者の集まりという。
    村上 試合も危なくて、どんなに殴られても、完全に伸びてる状態でもレフェリーが止めない。いまの10倍は殴られたあとでようやく止めるから、負けた奴はみんな救急車で運ばれますよね。
    ――いまからするとホント危ないですよね……。
    村上 レフェリーが総合格闘技というものをよくわかってなかったんですよ。だからセコンドが割って入って試合を止める。あとルール上は噛みつき、金的、目潰しは禁止だったんですけど、噛み付き以外は全部やってきますからね。パンチを打つふりして目に指を入れてきますし、ファールカップをズラしてきますし。
    ――まさに“なんでもあり”という。
    村上 あとエクストリームファイティングの第2回大会に出場した選手は全員逮捕されてますからね。
    ――地下格闘技でも一斉摘発はされないですよ!(笑)。
    村上 なんで逮捕されたかというと、グローブをつけることは州の規則で決まってるんですけど、試合前にみんなグローブを外して素手で戦ったんです。それで宿泊先のホテルに帰ったら警官隊に囲まれて全員逮捕(笑)。ボクの出場した回からグローブをちゃんとつけるようになりましたから。
    ――あの頃のMMAイベントは開催するだけでも一苦労でしたね。
    村上 あのときはボクシングを脅かす存在だったんですよね。お客なんて5割も入ってないんですけど、PPVがたくさん売れたみたいで。翌日にショッピングモールに買い物に出かけたら、みんなから声をかけられて驚きましたね。
    ――そのあと村上さんは「PRIDE・1」の記念すべき第1試合に出られて。
    村上 それで「もう格闘技はいいかな」と思ったんですよ。もともと好きで始めたことではないし、ある程度やったんでこれでいいかな、と。UFOに入ってからも自分の意志で格闘技のリングに上がったことは一度もないんですよ。すべて会社なり小川さんが「行け!」ってことで。
    ――伝説の2003年『猪木祭り』のステファン・レコ戦も急なオファーだったじゃないですか。
    村上 オファーから試合まで2週間なかったですね。ルールも総合にするかどうかという話になったんですけど、「なんでK−1の選手と戦うのに総合なんですか。プロレスラーはどんなルールでも戦うんですよ」ってことであえてK−1ルールで戦って。
    ――プロですね!
    村上 でも、ギャラもらってないんですけどね(苦笑)。
    ――あら、村上さんも『猪木祭り』被害者の会でしたか!(笑)。
    村上 半分もらってないです。半分は事務所に言ってもらいましたけど。けっこうもらってないことがあるんですよね。『真撃』とか。
    ――ゼロワンが主体となったプロ格イベントですね。主催したステージアはじつは第1回『猪木祭り』も主催していて。
    村上 大阪城ホール、超満員だったんですけどねぇ(笑)。ジョシー・デンプシーというボクサーにおもいきりフックでぶっ倒されてるのにノーギャラだったんだよなあ……。
    ――話を戻すと、村上さんは猪木さんが主宰するのUFOでプロレスデビューすることになりますね。
    村上 きっかけはホント偶然で。ちょうどゴールドジムが日本にやってきたんですけど、行徳のゴールドジムを間借りするかたちで「何かをやってもらえないですか?」という話になって。そんなにやる気はなかったんですけど、順道会館という道場を始めたんですけど、格闘技界って閉鎖的じゃないですか。「俺のところには連絡が来てないぞ!」という声が凄くあって。
    ――道場をやるなら挨拶してこい!と。
    村上 そうなんですよ。お金もないし、手書きの文章を作って、いろんなジムや道場にFAXを送って。そうしたら以前練習をさせてもらった佐山先生から連絡があったんですよ。「村上くん、六本木の事務所に来てよ。会長がいるからさ」と。会長って最初は誰のことかわからなかったんですけど(笑)。それがプロレスの始まりですね。
    ――FAXを送ったことで佐山先生の目に止まったわけですか。
    村上 そうなんですね。それで事務所に行ったら猪木さんと佐山さんがいて。「会長、彼です。2年前から言っていたのは」と言われて。「はじめまして、村上です」と挨拶したら猪木さんは「おお、頑張れよ!」とおっしゃられて。何を頑張るのかわからなかったんですけど(笑)。そうしたら1週間後にまた佐山さんから電話があって「3日後にロサンゼルスに行ってくれない? オーちゃんも行くから」と。「誰だよオーちゃんって?」感じで。
    ――「会長」だの「オーちゃん」だの(笑)。
    村上 あらためて事務所に行ったら小川さんがいたんですよ。「オーちゃん=小川直也のことかよ!?」ってビックリしちゃって(笑)。柔道家のボクからすれば小川直也というのは雲の上の存在ですよ。直立不動になりましたし。
    ――それで小川さんと一緒にロサンゼルスに格闘技修行に行くことになったんですね。※最強UFO軍団、試合前から異様だった小川直也vs橋本真也“1・4事変”、試合後大乱闘で意識不明、小川直也喧嘩別れの真相、上井文彦に騙されたビッグマウスラウド……16000字ロングインタビューはまだまだ続く! 
  • 柔術の授業料を調べてみた■二階堂綾乃のオールラウンダーAYANO⑭

    2014-11-28 18:57  
    新日本プロレスの選手イラストを描いてキャッキャしていたプオタ女子・二階堂綾乃がいつのまにかMMAジムに通いだした! その模様をイラストレポートすることになった当コーナー。今回は授業料について!★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★月額540円! Dropkickメルマガ今月のラインナップ!村上和成ロングインタビュー、壮絶!!冬木弘道物語、安西グレイシーほか多数掲載!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201411試し読み可能! 非会員でも購入できる「大好評インタビュー詰め合わせ」シリーズ一覧http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar672043★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★私が通っているジム
  • キックボクシングの一大メジャー、GLORYのいま■MMA Unleashed

    2014-11-28 09:55  
    51pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回はK-1亡き後のキックメジャー「Glory」の現在――
    キックボクシング界の雄、Glory World Seriesは今年8月、アンドリュー・ワイテカー氏に代わってジョン・フランクリン氏がCEOに就任することを発表した。Gloryといえば、かつては日本大会も4回行い、特に2012年の大晦日にはさいたまスーパーアリーナでDREAMとのジョイント大会を開催するなど、救世主的存在としてキックのみならず格闘技界を席巻するかに見えた時期もあった。その後、日本でのテレビ放送も途絶え、日本のファンからはすっかり縁遠くなったGloryは、いまどうなっているのであろうか。今回はGloryの現状と課題をまとめてみたい。
    Gloryは2012年に、ゴールドマン・サックス証券出身、オイルヘッジファンドのBlue Gold主宰であるピエール•アンドゥランド氏が「It’s Showtime」、「United Glory」、およびオランダのキックボクシングジム「ゴールデングローリー」を買収した上で、Glory Sports Internationalとして創業した。アンドゥランド氏は、共同創業者で初代CEOであったマーカス・ルアー氏とともに、2012年大晦日大会の記者会見に来日していたことをご記憶の方もおられるだろう。
     
  • MMAファイターは干されることがあるのか?■大沢ケンジ

    2014-11-26 16:44  
    51pt
    和術彗舟會HEARTS総帥・大沢ケンジの格闘技界解説コーナー。今回のテーマは「選手を干す・干される」!!  旧・和術慧舟會時代のぶっ飛びエピソードも必読です!月額540円! Dropkickメルマガ今月のラインナップ!村上和成ロングインタビュー、壮絶!!冬木弘道物語、安西グレイシーほか多数掲載!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201411試し読み可能! 非会員でも購入できる「大好評インタビュー詰め合わせ」シリーズ一覧http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar672043
    ――キックボクサーの佐藤嘉洋選手が「野杁正明と秋元皓貴はなぜキック界から干されたのか」というブログを書かれて大きな反響を呼んでいましたが、MMAでも“干される”ことってありますか?
    大沢 ジム単位ではあまり聞いたことないですよね。
    ――90年代やゼロゼロ年代前半だったら団体側が特定の選手を使わないように関係各位に根回しを……なんて話を耳にしたことはあります。
    大沢 いまのMMAは自由ですよね。移籍も自由だし、どこのイベントに上がってもいい。水面下で細かいトラブルがあるのかもしれないですけど、完全に干されることってないですよね。ボクシングなんて試合には出られないし、名前が知れたボクサーになるとウン百万の移籍料を請求されるって言いますけど。
    ――MMAで“移籍料”が発生したケースは聞きませんね。
    大沢 ボクシングの場合は協会がひとつだからそうやってプレッシャーはかけられるんでしょうけど、キックはいろんな団体に分かれてるじゃないですか。それでも移籍のときは他の団体も出してくれないといいますよね。けっこう名前のある選手でも、ほかの団体は手を引くんだなって。
    ――佐藤選手のブログに書かれてた2選手は有名ファイターですね。
    大沢 野杁正明選手と秋元皓貴選手(野入選手はKrushでの復帰が発表された)。秋元選手は19戦無敗でムエタイのチャンピオンとか倒してるじゃないですか。いま1年半くらいキックに出てなくて、空手の大会とかに出てるみたいですよ。門外漢からすると、そんなに交流がない団体なら出してもいいじゃんと思っちゃうんですけどね。
    ――簡単に許しちゃうと歯止めが効かなくなるんじゃないですかね。
    大沢 ああ、誰かを許しちゃうと自分のところの選手も出て行ってしまうと。
    ――紙でちゃんと契約を結んでるわけでは場合は感情の問題になってきますし、それほど大きなビジネスでもないとお金での解決も難しいですよね。
    大沢 もうちょいしたらMMAもいろいろと問題が出てくると思うんですけどねえ、おそらくですけどね。こんなになんでもかんでも許していたら秩序がなくなるんじゃないかなって。
    ――なんでもかんでも許してますか(笑)。
    大沢 いやあ、かなり自由ですよ(笑)。協会や連盟があるわけでもないから、ジムとケンカしてもべつのところで練習すればいいし、別の団体で試合ができますから。
    ――大沢さんが所属していた旧・和術慧舟會ってそこは厳しくなかったですか?
    大沢 社長(久保豊喜)はけっこう厳しかったですよね。でも、あのときの慧舟會が崩れたのって、選手の離脱が相次いだことも理由だったりしたんで。ボクも社長にはいろいろと不満を持っていたんですけど、やめることは考えてなかったんですよ。慧舟會を抜けたのは社長との信頼関係が強かった選手たちなんですよね。
    ――へえー。
    大沢 出て行った人たちは「ほかの団体からオファーがあったのに知らされてなかった」とか「ファイトマネーが実際の金額から下げられた」とか理由があって。それはボクにもあった不満なんですけど、ボクは社長にそんなに信頼関係なかったのでべつにショックはなかったんです(笑)。信頼関係が強かった人たちはそこのギャップでやめちゃったんじゃないですかね。
    ――大沢さんはもともと印象が悪かったからやめるに至らずで。
    大沢 そうなんですよ(笑)。それに慧舟會ってメチャクチャ自由だったんですよ。凄くやりやすかった。強い人たちと練習ができるし、下っ端のほうの選手は好きにジムをやめられるし。末期以外で成績を残してる選手でやめたのは高瀬(大樹)くんぐらい。選手にとって居心地はよかったと思うんですよね。いま思えばですけど、社長も格闘技がホント好きだったんだなって。
    ――各団体に顔がきくし、自前でイベントをやるしで理想的な環境ではありますよね。
    大沢 強いてあげればPRIDEやZSTには出れなかったけど。
    ――政治的な問題はあったわけですね。
    大沢 でも、慧舟會は自分のところでイベントをやり始めたから選手もとくには困らないんですよ。PRIDEには出られないけど、メジャーはFEGと繋がってましたし。それに社長は自分のところの選手を勝たすようなマッチメイクばっかりするんですよ(笑)。そのやり方で育てられたなと思うんですよね。
    ――自前のイベントがあれば、そこはやりやすいですね。
    大沢 強い選手はどうやっても生き残るんですけど。そうでもない奴は勝ち癖をつけて這い上がらせるとかね、社長はそういうことをやってたなって。
    ――いまあのくらいの規模でジムを運営しててマネジメントまで手がけてるところはないですね。
    大沢 慧舟會くらいの規模はもう出てこないんじゃないですかね。そもそもプロの選手をあれだけ集めて練習やってたわけですから。いま◯◯◯◯◯◯が当時の慧舟會に近いんですかね。夜にプロたちが集まって練習して、一般会員さんがいづらいみたいです(笑)。
    ――ひえ〜〜(笑)。
    大沢 慧舟會もプロしかいないジムだったんですよ。いまの格闘技ジムって一般的な常識がないと生きていけないんですけど。あの当時は強烈な奴が多かったですよねぇ。慧舟會A3ジムに入ったときにビックリしましたもんね。ボクは知り合いの紹介で入ったんですけど、「ああ、会費を払わなくていいから」って。それで払わなかったんですけど(笑)。
    ――会費がいらないジム(笑)。
    大沢 あの当時の慧舟會って会費を払わない奴が多かったんですよ。社長がホントに凄いなと思ったのは「プロになりたくて頑張ってる奴だったら払わなくていい」と。そうなると会員さんの中でも払わずに通おうという奴が出てきますよね(笑)。
    ――「じゃあ俺も!」って(笑)。それでよく経営してましたねぇ。
    大沢 だからホントに頭がおかしい奴が集まりだすんですよね。プロやプロ志望が集まってくると「一般会員が残らなくていいや」って雰囲気になってきて。そうなると「格闘技が強くなればいい」って考えのだけの奴が残るから一般常識からかけ離れていきますよね。
    ――腕力や声が大きい人がルールになってきますよね。★記事の続きと村上和成、安西グレイシー、冬木弘道、内藤のび太、ノブ・ハヤシ、多重ロマンチックのインタビューが合わせて読める詰め合わせセットはコチラhttp://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar676078 
  • 大好評インタビュー詰め合わせシリーズ一覧

    2014-11-24 10:36  
    【非会員でも購入可能 インタビュー詰め合わせセット各540円 見出しをクリックすれば試し読み可能】


    part1■ 中井祐樹「ボクシングができるアントニオ猪木が理想でした」■朝日昇「本当に怖い昭和格闘技」、他インタビュー
     
    part2 ■菊田早苗「新日本は刑務所、Uインターは収容所だった」■矢野卓見、堀辺正史を語る「骨法は俺の青春でした」
    part3■【元レフェリーの衝撃告白】「私はPRIDEで不正行為を指示されました……」■小比類巻貴之「ミスターストイックのキャラは正直、しんどかったです」
    part4■エロマンガ家・師走の翁が語る「JKリフレプロレス技事件」■ヤノタク、再び骨法と堀辺正史を語る■平成の仕掛け人・永島勝司「アントニオ猪木と北朝鮮」■クロン・グレイシーのMMAデビューを10倍楽しむ方法 
    part5 ■地獄の合宿から前田日明襲撃事件まで!山田学が無謀な冒険を続けた理由■元
  • 「多重ロマンチック」漁師JJさん■アナタはなぜブログを更新するのか①

    2014-11-24 10:11  
    51pt
    OMASUKI FIGHTさんやオレンジさんといったプロレス格闘技ブロガーがコラムを連載中のDropkickメルマガ。ほかの有名ブロガーさんの生態にも迫ってみようということで「多重ロマンチック」主宰の漁師JJさんにご登場願いました!月額540円! Dropkickメルマガ今月のラインナップ!村上和成ロングインタビュー、壮絶!!冬木弘道物語、安西グレイシーほか多数掲載!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201411試し読み可能! 非会員でも購入できる「大好評インタビュー詰め合わせ」シリーズ一覧http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar672043――『多重ロマンチック』主宰の漁師JJさんは現在何歳なんでしょう?
    漁師 36歳ですね。
    ――プロレスを見始めたいつ頃になるんですか?

    漁師 小学生ですね。その頃は夕方に新日本プロレスのテレビ中継があって。
    ――毎週土曜16時時代の『ワールドプロレスリング』ですね。蝶野正洋のパワートレーナーCMとゴルフ特番でよく潰れていたことでおなじみの(笑)。
    漁師 そうですね(笑)。初めてプロレスを見た記憶があるのがライガーのデビュー戦なんですよね。
    ――新日本が初めて東京ドームに進出した89年の小林邦昭戦ですね。
    漁師 『ワールドプロレスリング』のあとにアニメの『獣神ライガー』がやってたんですけど。そちらを先に見ていて、あるとき早めにテレビをつけたら獣神ライガーを名乗る覆面プロレスラーが出ていたことに衝撃を受けまして(笑)。自分のちょっと上の世代だとタイガーマスクがそうなんでしょうけど。
    ――いわゆるアニメとのメディアミックスですね。
    漁師 「なんだ、これは?」って驚きましたね。デビュー当時のライガーのコスチュームは不格好だったんですけど(笑)。そこからテレビでプロレス中継をやっていれば見るという感じですよね。あくまで、そのあとにやってるアニメや戦隊物がメインなんですけど。
    ――興行を行くようになったのは?
    漁師 小学校の下校時に校門の前でFMWの割引券を配ってたんですよね(笑)。それで見に行ったことはおぼえてますね。
    ――初観戦はFMWですか(笑)。
    漁師 記憶が凄くぼんやりしてるんですけど。大仁田(厚)さんがメインでスクランブルバンクハウスかなんかの6人タッグで(笑)。
    ――というと、最初からプロレスに熱中していたわけではないんですね。
    漁師 熱心に見るようになったのは反選手会同盟の頃ですよね。小原(道由)さんが途中で血まみれになって裏切ったその頃から登場人物を覚え始めました。新日本のテレビ中継を見るのが基本で、雑誌とかもチェックし始めて。その頃はジュニアが盛り上がっていた時期でもあったんですよね。それでスーパーJカップを見ているうちにジュニアにドはまりして。
    ――メンバーはとんでもなく豪華でしたよね。各団体からトップが集結して。
    漁師 他団体に興味を持つようになったのはそこがきっかけですね。「ハヤブサはどんな選手なんだろう?」「みちのくプロレスってどういう団体なんだろう?」って幅が広がっていきましたから。
    ――ジュニアを超えた意義があったわけですね。
    漁師 ただ、ワープロが深夜の時間帯に移行にしてからあまり見なくなったんですよねぇ。雑誌だけはチェックしていて興味のある試合があればビデオで見るという。たまにゴールデンでやっていれば見ましたけど。橋本真也vs小川直也とか。
    ――やっぱりテレビの影響は大きいんですね。潜在的プロレスファンだった漁師さんがどうしてプロレスネタのブログを書くようになったんですか?
    漁師 ボクが20代前半の頃、チャットがブームだったんですよね。寝る前にチャットを覗いてやりとりする習慣があったんですけど。あるときプロレスのことをよく知らない相手に『ハッスル』の話題を出したら「橋本真也だったら知ってる」というので、深夜にプロレス番組があることを教えて。その頃は商業ブログが続々と立ち上がった時期で、自分もブログをやる中で、チャット仲間にプロレスを教えるためにちょいちょい書き始めたのがきっかけなんですよね。
    ――当初はあくまでプロレスはひとつのコンテンツに過ぎなかったわけですね。
    漁師 そうですね。最初の3ヵ月くらいは日記みたいな感じだったのが、そのうちプロレスばっかになったんですけどね(笑)。それにともなって観戦する機会も増えていって。
    ――『多重ロマンチック』は新日本プロレスがメインですね。
    漁師 新日本と、あまり注目されていないネタを交互に書くように意識してますね。これは90年代ジュニアから入ったボクの原体験がもとになっていて。読み手は新日本ファンがほとんどだと思うので、インディーにもこんなプロレスがあるんだよというのを少しでも伝えたいなあと。初期は読み手の対象がプロレスを観てない人だったので、地上波でもやってる新日本のみを書いて。ただ、当時の新日本はグダグダだったんですけどね(笑)。
    ――猪木さん横槍り全盛の暗黒時代から抜けだした直後くらいですかね(笑)。★記事の続きと村上和成、安西グレイシー、冬木弘道、内藤のび太、ノブ・ハヤシなどのインタビューが合わせて7本も読める詰め合わせセットはコチラhttp://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar676078 
  • 女優ジーナ・カラノ■高橋ターヤンのバトル映画地獄変⑧

    2014-11-24 09:53  
    51pt
    映画ライターで北米MMA事情通の高橋ターヤンがプロレス格闘技関連の映画を紹介するコーナー。今回取り上げるのはロンダ・ラウジー以前の女子MMAの象徴だった「ジーナ・カラノ」。しばらくファイトから遠ざかっている彼女の現在は……『エクスペンダブルズ3』に登場したロンダ・ラウジーが好評だ。映画に登場する新兵チームの中では見せ場も多いし、作品中紅一点という扱いも良かった。演技力に関しては、まあそんなもんかというレベルではあったが、存在感は充分に見せ付けたと言って良いだろう。これによってロンダへの映画出演オファーは増えるであろうし、現在出演が確定している作品として『ワイルドスピード』の新作と、マーク・ウォルバーグ主演のスリラー『Entourage』への出演が決まっている。ロンダは今後、俳優業と格闘家業の両立を進めていくようで、その活躍の場は大きく広がっていくことであろう。
    そんな格闘家兼業俳優の道を大きく開いた選手と言えば、ランディ・クートゥアやバス・ルッテン、そしてクイントン“ランペイジ”ジャクソン。そして忘れてならないのが、一応今でも引退宣言はしていない現役格闘家のジーナ・カラノである。 
  • 視聴率競争でUFCに激勝!新生ベラトールは「ネオPRIDE」風味!■MMA Unleashed

    2014-11-21 09:14  
    51pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回はスコット・コーカーの手によって生まれ変わったベラトールについて!
    11月15日に、米国の3大メジャーMMA団体、UFC・ベラトール・WSOFが同日興業・テレビ戦争を繰り広げた。日本のMMAファンにはある程度なじみ深い3番組同時放送であるが、米国のMMAファンにとってはまったく初めての体験である。結果的に視聴者数競争で圧勝したのは、ベラトールであった。スコット・コーカーの色が初めて強く打ち出されたこの大会では、「ネオPRIDE」とでもいうべき、日本的な細かなサービス精神や演出がさまざまに組み込まれていたのだという。そこで今回は、この大会を通して、ベラトールがどこに向かおうとしているのかを分析した海外MMA記事の中から優れていたものを2本紹介する。おりしも会場には榊原伸行氏の姿もあったと報じられている。これからのベラトールの動向が楽しみだ
  • 【K-1逆輸入ファイター】白血病からの復帰……ノブ・ハヤシ インタビュー

    2014-11-20 18:05  
    102pt
    白血病によりリングから遠ざかっていたノブ・ハヤシが12月29日『BLADE1』大田区総合体育館で復帰することになった。ノブ・ハヤシといえば、オランダからの“逆輸入ファイター”としてK-1 JAPAN GP '99に登場。準優勝を果たして一躍脚光を浴び、その後もK−1などのリングで活躍。6年ぶりの試合への意気込みとこれまでの格闘技人生を振り返ってもらった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

    非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! part9は大好評インタビュー7本、7万字オーバーが540円!!  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar654402

    ■伝説のUWF戦士・中野巽耀は“欠席王”だった!「UWFのメンバーが話し合いをやったって、まとまるわけがないんだよ」■アンデウソン・シウバを極めた元カリスマブロガーの懺悔録! 高瀬大樹ロングインタビュー「俺は本当に悪い奴でしたよ……」

    ■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」! 阿修羅・原物語失踪後、阿修羅が身を寄せていた北海道の寿司屋に盟友・天龍が訪れた……

    ■喧嘩日本一!ケンドー・ナガサキこと桜田一男の日米を股にかけたの黄金プロレス人生!!「SWSが使った金は100億円。凄くいい団体だったよ……」「メガネスーパーの田中社長が亡くなる直前、あることを頼まれたんだよ」

    ■不良格闘技イベント『アウトサイダー』で超有名アマチュアファイターに”“リアル神代ユウ”佐野哲也「格闘技を続けるために警察学校をやめたんです」■無謀か、勇気か? 男・佐伯繁、大晦日さいたまスーパーアリーナに進出!「今年DEEPがやらなかったら、大晦日のたまアリで二度と格闘技興行はできないかもしれない」■女王が結婚、出産、育児を経て6年ぶりに復帰!!しなしさとこインタビュー「総合格闘技と女性の戦い」

    ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■そのほかの詰め合わせセットはコチラ→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar634402
    ――ハヤシ選手の格闘技人生は長いですよね。
    ハヤシ いま36歳でK-1は20歳のときですから長いですね。高校のときに空手を始めたんですけど、まあ20年もやってないんですけど(笑)。
    ――格闘技との出会いは、新生UWFの支援者であった福田典彦氏が経営する徳島のフクタレコードがきっかけなんですよね。

    ハヤシ ああ、そうなんですよ。ボクが中学3年のときにK−1が始まったんですけど、その前からリングスやUWFを見るのが大好きで「自分もやりたいなあ」と思ってて。調べたらフクタレコードにプロレスや格闘技のビデオがたくさん置いてあることを知って。
    ――フクタレコードには一度取材に行ったことがあるんですけど、特殊なレコード屋ですよね(笑)。
    ハヤシ 特殊っす(笑)。行ってみたらボクの身体が大きかったので声をかけられたんですよ。
    ――そこで福田の大将にスカウトされて。その巨体だったら目を引きますよね(笑)。
    ハヤシ そこから福田さんと仲良くなったんですけど。そのとき前田(日明)さんが好きだったのでリングスに入りたいってことを福田さんに言ったら「話したるわ〜!」と。それで高校生1年生の夏休みに10日間だけリングス道場に入ったんですよ。
    ――凄い夏休み体験ですね(笑)。 
    ハヤシ 高阪(剛)さんや坂田(亘)さんがまだデビューしてなかったんですよ。道場には長井(満也)さん、山本(宜久)さん、成瀬(昌由)さんもおって。
    ――ハヤシ選手は高校生でしたけど、身体は見劣りしなかったんじゃないですかね。
    ハヤシ そのとき185センチで120キロくらいあったんですよ。
    ――高1で!
    ハヤシ でも、練習についていけなかったんですよね。練習だけじゃなくて掃除洗濯、飯を作る。ああいう世界に当時のボクはついていけなかったですよ。まだ高校1年生だったから考えが甘かったんですよねぇ。
    ――練習だけやればいいという世界ではなくて。
    ハヤシ ボクは練習だけやっていればよかったと思ったんですけど、それがもうまったく。それに練習といってもスクワットとか当時のプロレスの練習じゃないですか。最初に走りに行って帰ってきたらスクワットやって、メシを作るために買い物に行って。あのときは高阪さんか坂田さんがメシを作ってましたね。
    ――それは貴重な光景ですねぇ。
    ハヤシ 高阪さんはその月にプロデビューしたので凄く練習してましたね。坂田さんとは寮で同じ部屋でした。
    ――どんな話をされたんですか?
    ハヤシ もう昔のことなのでおぼえてはないんですけど、最初に道場で言われたのは「前田さんを怒らせるな!」ってことで。それだけです。
    ――たしかに重要なことですけど(笑)。
    ハヤシ 「前田さんはキレさせるな。骨が2〜3本折れるぞ!!」と(笑)。
    ――ハハハハハハ!
    ハヤシ ああ、やっぱりヤバイんだあって(苦笑)。でも、ボクは10日間くらいしかいなかったんで、前田さんとは2〜3回くらいしかお会いしなかったです。キレさすどころか近寄ることもできなかったので。
    ――予定ではどれくらいいるつもりだったんですか?
    ハヤシ 夏休み中おるつもりだったんですけど、10日くらいで帰ってきました。「これはヤバイ……無理」と思って。でも、体験しといてよかったですよ。オランダに行ったときに全然、楽でした。
    ――いい経験になったんですね。
    ハヤシ オランダでは自分のことだけをやっていればいいわけですから。
    ――しかし、高校の夏休みはリングス道場、卒業後はオランダ修行って格闘ロマンの塊ですね(笑)。
    ハヤシ 高2の頃からオランダに行きたいなあとは思ってましたね。ただ、向こうのジムに所属するつもりはなくて、とりあえずオランダで練習したいと。
    ――当時はオランダで修行される格闘家は多かったですね。
    ハヤシ でも、プロで活躍する人が多かったじゃないですか。小林聡さんや新田明臣さんとか。
    ――ハヤシ選手はプロ経験なしですね。
    ハヤシ そうなんですよ。ボクみたいな素人が行くケースは珍しかったみたいで。オランダに行く前にアメリカのモーリス・スミスのジムに行ってるんですけど。
    ――それもまた行動力ありますねぇ。
    ハヤシ オランダに行く前に海外に慣れなあかんかなと思って(笑)。ボクは大学に行かなかったんですけど、大学に行くお金を親が貯めていてくれて「好きに使っていいよ」と言われて。じゃあアメリカに1ヵ月くらい行ってみようかと福田さんと話をしていたんですよ。そうしたら福田さんが「いまモーリスのジムにフランシスコ・フィリオとかいるんちゃうか」って。ちょうどフィリオがK−1でデビューする前だったんですよね。そうしたら、あれよあれよとモーリスのジムに行くことになって。着いたらフィリオやニコラス・ペタス、ギャニー・オニールがいて。
    ――そうそうたるメンツ! 極真勢の対K−1合宿の最中だったんですね。
    ハヤシ 同じモーテルに住んで練習に一緒についていったりして。松井(章圭)館長にもお会いしましたし。最後の最後はフィリオひとりだけになったんですよ。だからいつも一緒に行動するようになってフィリオが作ったメシを食べたりしましたよ(笑)。
    ――プロデビュー前から貴重な経験をしすぎというか(笑)。フィリオってやっぱり凄いですか?
    ハヤシ あのね、凄くないところが凄いんですよね。蹴りとか凄いんですけど、人間としてどんと構えていて「こいつは強いな!」という雰囲気がないんですよね。
    ――自然体なんですね。
    ハヤシ そうそう。普段はホントいい兄ちゃんなんですよ。
    ――モーリスのジムってまだキックボクシング専門の頃ですよね?
    ハヤシ そうです、まだ小さいジムで。当時のモーリスはまだ現役で、UFCでランディー・クートゥアとやるかやらないかの時期ですよね。
    ――モーリス自身はどんな練習をしてたんですか?
    ハヤシ キックだけですね。総合の練習はほとんどしてなかったですよ。
    ――モーリスって練習はあまりやらないけど強いという天才肌だとか。
    ハヤシ 天才ですよ。な〜んにもやってなかったです(笑)。「なんでUFCに出るんだ?」って聞いたら「楽だから」って言うんですよ。キックより総合のほうが楽だって。
    ――当時のMMAって削り合いにはなりにくかったですね。
    ハヤシ キックって3分5ラウンドずっと動いて打ち合わないとダメじゃないですか。総合は足を痛めていても数を蹴らんでええ。キックボクサーはみんな同じことを思ってるはずですよ。マーク・ハントもヒザが悪いでしょ。キックの試合でヒザを蹴られ続けたらヤバイですよね。
    ――そのアメリカのあとにオランダに渡ったんですね。★記事の続きと村上和成、安西グレイシー、冬木弘道、内藤のび太、多重ロマンチックのインタビューが合わせて7本7万字が読める詰め合わせセットはコチラhttp://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar676078 
  • 【格闘技ゲーム列伝】ファイプロ版DEEP×パンクラス完全予想!!■MMAオレンジ色の手帖<File⑩>

    2014-11-20 10:30  
    51pt
    格闘技ブログ「MMA THE ORANGE」の管理人オレンジがディープなエピソードをお届けする「MMAオレンジ色の手帖」! File⑩は俺たちがハマった「プロレス格闘技ゲーム列伝」!! ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■Dropkickメルマガは月額540円! 今月の更新記事は村上和成ロングインタビュー、壮絶・冬木弘道物語、元『格闘技通信』安西“グレイシー”伸一インタビューなど多数掲載!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201411■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■一丁前に格闘技について語っている私ですが、実はかなりの運動音痴。先日も歩行中に転倒して骨折する体たらく。万が一にもオープンフィンガーグローブをつけようものなら、瞬時にボコボコにされるのが関の山です。それでも試合を見て熱が入ると、堀口恭司のパウンドアウトに憧れたり、内藤のび太ばりの無尽蔵のスタミナでフルラウンドを動き回りたくなるから始末が悪い。そんなときによく潜り込んでいたのがテレビゲームの世界。最近でこそやらなくなりましたが、その昔は流行りの格闘技やプロレスゲームの世界に入り浸って格闘家気分を味わっていたものです。そこで今回は、ファミコンからスーファミ、PCエンジンやセガサターンを経由して、これまで熱狂してきた懐かしの格闘技・プロレスのゲームを取り上げていきたいと思います。さらにマニアが愛して止まないあの大人気ゲームで大晦日のDEEP×パンクラス全面対抗戦を完全再現! 勝利の女神はどちらに微笑むのか!? 最後までお付き合いいただけると幸いです。さて、まず最初にハマッたのは、「総合格闘技」という言葉が一般的になるずっと前。プロレスがゴールデンタイムで放送されていた時代にナムコからファミコンで発売された「タッグチームプロレスリング」です。http://youtu.be/E1D-aAFQle8操作出来るのは1チーム(タッグなので2名)だけといういまでは考えられない構成。しかも対戦相手も1チームのみ(笑)。1Pモードはひたすら同じ相手と試合を重ねて35回連続勝利するとチャンピオンになってエンディングというまさにプロレス無間地獄になっています。それでも、場外乱闘、凶器攻撃、「ギブアップ」という合成音声、2コンのマイクを使用したカット等、マニアが歓喜する要素がふんだんに散りばめられていたのがヒットした要因かなと。ボタンを連打する単純なゲームが多かった当時に、パンチで動きを止めてその隙に技を決めるという操作方法も斬新でした。