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  • 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第38回 第5章-4-5循環のバリエーションを考える:4つの観察モデル|井上明人

    2023-12-20 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。 
    「レベル上げ」や「素材集め」などの「作業」が一概に攻略のための「手段」とは言い切れないように、ビデオゲームにおける「目的ー手段」の関係は構造的に不安定さを抱えます。今回はゲームにおける「目的ー手段」関係の揺らぎを理論化し、ゲームを楽しむ体験がどのように構築されているか考察します。

    井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて第38回 第5章-4-5 循環のバリエーションを考える:4つの観察モデル
    5.4.5.1 共通の性質をもったものたちは、どこまで同じものか?
     さて、少し話の論点が増えてきたので、話をあらためて整理していきたい。  ここまで大雑把に、逸脱と循環の双方があるようなプロセスについて述べてきたが、逸脱と循環の双方の側面を持ちうるようなプロセスとして、いままで挙げてきたものは次のようなものだった。 ・プロスポーツ選手による、上達戦略のメタ的再構築(意図的な再構築によるもの)を通した訓練[19]・プロスポーツ選手による、同じ訓練に「飽きる」ことを肯定した上での訓練[20]・組織における旧式の評価基準の見直しを伴う、組織の再構築や訓練[21]・社会における旧式の評価基準の見直しを伴う、社会制度の再構築や訓練[22] ・子供の砂場遊び[23] ・パフォーマンス芸術[24] ・意図せざる行為の自己目的化が起こり、行為自体が複雑化し、当初期待されていた範囲から抜け出ていくもの(やりこみなど)[25] このように並べてみると、これらは逸脱であると同時に適応であるような側面のある一連のリストになっているのかもしれないが、冷静に見つめ直してみると、本当に同じものだと言っていいのか不安になってくるリストでもある。共通する性質を見出すことはできるのかもしれないが、これらの中にはかなりの違いもある。  遊び-ゲームを循環としてみなす議論の類型について、なるべく基本的な概念からはじめて整理をしてみよう。
    5.4.5.2 固定層モデルと可塑層モデル
     循環をめぐる観察のバリエーションについて、上記のリストを眺めてみて思うのは、これらは安定と変化のようなものをどのように構造化し、どのようなバランスで共在させているかということのバリエーションだという印象を持つことができそうだ。   この、安定と変化というものを、もう少し丁寧に概念化していくための概念を導入しよう。  何かの力を加えられたとき元の構造を維持する力が強いものと、元のあり方自体が変化してしまうものを区分する概念として「可塑的(plastic)」という概念が、人間の認知について語る上でしばしば用いられる。  この概念を用いて遊び-ゲームをめぐる観察のモデルの差を、まずは二つに分けてみたい。  第一の観察のモデルは、ゲームの展開を生み出す前提自体は確固たる不変のものとして存在し、ゲームプレイヤーはそこから生成されるものと戯れているものがゲームであると考えるモデルである。この発想では、ゲームを遊ぶということは(1)固定されたゲームメカニクスの構造と、(2)そこから現象する活動、という複層構造を持つものとして記述することができる。あらかじめ設定されたゴールや勝利条件を達成する行為だけがゲームを遊ぶというものだと考えるものだ。こうしたゲーム観はビデオゲームにおいては一般的なものだといえるだろう。この発想からすると、ゲームプレイヤーは、もともとプログラムされたビデオゲームによって展開しうるバリエーションを実行するための媒介者に過ぎない。ビデオゲームの前提自体は固定されており、ゲームプレイヤーが何をしようともビデオゲームのプログラムに影響を与えることはない。この複層的だが、前提が固定されて変わることのないモデルを、固定層モデルとしてここでは名付けよう[26]。  第二は、ある程度まで安定的な構造があり、その構造から現象するものが循環的に構造を自己変容させていくという観察だ。ゲームプレイヤーは、ゲームの遊び方や上達の仕方に、しばしば変化を加えていく。コントローラーを変えたり、裏技を使ったり、縛りプレイもあれば、ズルとみなされる類のテクニックを使うプレイヤーは少なくない。遊ぶ活動を通して、ゲームメカニクス自体に変化をもたらしたいという欲求が生じ、その結果としてゲームのそもそもの構造自体を改変させていくという関わり方は遊び方としてかなり広範に観察される行為である(Consalvo 2009)[27]。この状況下では(1)ゲームメカニクスの構造は少しずつ変化を加えてよいものであり、(2)ゲームのメカニクスとゲームを遊ぶという二層の構造は、相互作用を起こすもの、という形で整理できる。この構図は「循環」という概念によって想起されうるモデルだろう。このモデルでは、もともと設定された勝利条件から離れた遊び方は、特殊なものではない。むしろ遊ぶという行為のごく標準的なあり方として捉えることができる。この可塑的で複層的なモデルを可塑層モデルと名付けよう。可塑層モデルと固定層モデル
    5.4.5.2.1 可塑的なものと固定的なものの並列
     固定層・可塑層という二つのモデルは、同じものを再生成しつづける構造と、何かを生成することを通じて生成の構造自体が変化するものという区別である。この固定層・可塑層といった二つの説明モデルを通じて、ここまで述べてきた議論――学習の仕方が固定されているものと学習の仕方自体を再構築されていくもの――という二つを考え直してみよう。  ざっくりと言えば、学習の仕方が固定されている前者が固定層モデルで、学習の仕方の再構築があるものが可塑層モデルにあてはまるように考えたくなるところだ。しかし、そのように直接的な当てはめをするのであれば、丁寧な概念化をする必要ない。  人間が学習し、上達するというプロセスはそれ自体が可塑的なものだ。人間の理解の枠組み自体は(脳の病気などが無い限りは)可塑的な柔軟性を持っている。つまり、学習や上達を含む一連のプロセスは、可塑的な側面を持つ。  一方で、「目標」については、目標自体が固定される場合と、固定されない場合とで分けてしまうことができる。目標の方向性が固定されていれば、シングル・ループの学習となり、飽きることや学び方の目標を変更することのできるものであればダブル・ループの学習に繋がりうるものだ。  すなわち学習の仕方が固定されている場合というのは、「認識は可塑的に変化しているが、目標は固定的」で、学習の方策自体が再帰的に変化するものは「認識が可塑的であると同時に、目標も可塑的である」という形をとる(下記の図を参照)。下部二層:シングルループ/ダブルループ  これで、シングル・ループの学習と、ダブル・ループの学習の間の差は整理できそうだ。  しかし、これでもスポーツ選手の訓練と、ゲーマーが様々なモードを揺蕩うことの差は区別できない。 スポーツ選手など、自己の行為を律するタイプの人が行為のメタ認知を行いながら学習を再帰的に変化させていくのと、ゲーマーが思いがけず行為の自己目的化を行ってしまった結果として、どう評価すればよいのかわからないような複雑さを手にしていくようなプロセスはどちらも、行為の目標の水準で学習を再帰的に変化させていくという意味では同じものだ。  ゲームを遊ぶという行為のなかで、社会的評価が変わりやすい、これらの行為の違いはどこにあるのか。少し注意深く考えれば、この両者には「目標」の制御の内実に違いがある。  スポーツ選手による訓練方針の再構築では、行為のおおもとの大目標の部分はあまり変化しないことの方が多いだろう。スポーツ選手であれば、訓練の方針が変わったとしても、スポーツで良い結果を残すという基本的な方向性自体は変わらないはずだ。  一方で、自宅でゲームをする人が、うっかりゲームをやりこんでしまうときには守らなければならない大目標はそれほど固定的ではない。ゲームを楽しむとか、ラスボスを倒すとか、ゲームに上達するといった大目標が変化することを許容する性質をもっている。(下記の図を参照)   下部三層:目標だけが可塑性を持たないケース 
  • 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第37回 第5章-4 「循環」概念をめぐって|井上明人

    2023-12-08 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。 「逸脱」としての「遊び」と「同化(洗練)」としての「ゲーム」、両者の「循環」がある種の理想として語られがちなゲーム研究において、その視点の妥当性を改めて検討し直します。
    井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて第37回 第5章-4 「循環」概念をめぐって
    5.4.1 遊ぶ/遊ばれる
     「循環」概念は、遊び-ゲームをめぐるキー概念の一つである。  そして、おそらくこの、遊びの「循環」をめぐる現象は遊び-ゲームをめぐる多様な現象を、一つの現象のような形で統合させている主犯の一つであろう。  遊び-ゲームをめぐる循環の問題は、特にドイツ系の遊び-ゲームの論者(およびそれに影響を受けたドイツ哲学に強い研究者)においては強調される。   シラーの議論の後、20世紀前半にはボイデンディクが、シラーやフロイトへの批判を行う。ボイテンディクによれば、シラーやフロイトの議論が主観的な精神活動の内部の活動のみに注目しており、その外部との関係が意識されていないということに着目しはじめた。  ガダマーもボイテンディクの議論を読んだ上で「すべての遊びは遊ばれることだということである。」と述べる[1]。ガダマーは「遊び手」が状況を制御するという特権性を持たないということを述べるため、いくつかの例を挙げている。一つには、遊び相手の必要性である。ガダマーは次のように述べる。
    「遊びであるためには、たしかに現実に他者が加わる必要はないにしても、遊ぶ者の遊び相手、すなわちその一手に対して自ら逆襲する別のものがいつも存在しなければならない。遊んでいる猫が毛糸の玉を選ぶのは、毛糸の糸が一緒に遊んでくれるからであり、ボール遊びが無限に続くのも、いわばそれ自身が思いもよらないことをしてくれるボールのまったく自由な動きによるのである」[2]
      西村清和もガダマーやボイテンディクの視点に影響を受けつつ「遊びつつ、遊ばれる」[3]という視点を重視し、遊びに関わる広範な現象をこの視点から説明しようと試みている。  ガダマーの述べるとおり、遊ぶという行為は、遊び手が全てを制御できるものではない。遊ぶという一連のプロセスは遊び手の意図の外側にあるものによって遊ばれる現象でもある。  この循環的な側面は、かなり広範な説明力をもっている。 まずは、前回の最後で述べたとおり、循環的な概念の「理想化」の問題から議論をはじめることにしよう。
     
  • 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第35回 第5章 ゲーム/遊びはなぜ分かれ、接続するのか|井上明人

    2023-07-18 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。 連載本編としては実に4年ぶりとなる論考です。本章から「ゲーム(game)」と「遊び(play)」の定義を分析しながら、文化人類学的視点で「ゲーム」の本質を探ります。複数の言語での定義や、ホイジンガ、カイヨワといった古典を参照しながら、近年の研究において「ゲーム/遊び」の分節・重なりがどのようにみなされているか概説しました。
    井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて第35回 第5章 ゲーム/遊びはなぜ分かれ、接続するのか
    5.1 gameとplayの分節と連結
     さて、学習、コミュニケーションの問題を扱ってきたが、最後の大きな論点として「プレイ≒遊び」の概念を考えたいと思う 。  「遊び」の概念は、「ゲーム」の概念を考える上で、しばしば重要な論
  • 我々は「事件」の起こらない世界をどのようにして見つめればよいのか|井上明人

    2021-12-07 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。今回は、何気ない「散歩動画」やゲーム実況動画がなぜ視聴されるのかについて考察します。人間の動機付けに介入する「ゲーミフィケーション」についての著書もある井上さんが、改めて「没入」を可能にする体験デザインとは何かを捉え直しました。
    井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 我々は「事件」の起こらない世界をどのようにして見つめればよいのか
    ▲散歩動画を探すための100万人以上の都市マップ(※PCからのアクセスで検索可能)
    じっくりと増えてきている「散歩動画」
     ここ数年の間に、主観視点で撮られた無編集のYouTubeの散歩動画のアップロード数がゆっくりと増えてきている。100万人以上の都市部であれば、世界のほとんどの地域で、その風景をYouTube経由で散歩しているのを見ることができる。アフリカや、アジアの貧困地域では、やや動画が見つかりにくい地域もあるが、それでも世界の大半の都市風景が動くところをたちどころに見ることができるようになってきている。風景を見るだけであれば、Googleストリートビューでも見ること自体はできるが、都市の人々が、動き、生活するその様を高解像度で確認することができる。世界遺産も見ることができるし、日本に限って言えば、急行の停まるような駅ならだいたいの駅周辺の風景が収められている。  こうした動画が急増しつつある背景には、手ブレがほとんど気にならない高解像度の屋外映像が、簡便に撮りやすくなってきたことがその一因にある。2020年前後の段階で、iPhone 11 Pro MAX以後のPro MAXシリーズや、Osmo Pocketシリーズ、GoPro、Sony ZV-E10などといったおよそ3万円~10万円強ぐらいで手に取れる屋外撮影に適した小型カメラの選択肢が揃うようになってきた。
    ▲YouTubeビデオを前に歩く
     これらの動画は、とくに何か劇的なことが起こるわけではないのだが、ものによっては数万、数十万の再生数になっている動画も少なくない。誰がどのように楽しんでいるのか、その全貌はいまひとつよくわかりきらないところがあるが、私個人としては、散歩の動画をを映し出しながら、同期して、画面の前で足踏みするというのが面白いよ、というのを広めている。特に、画面の前で足踏みをしながら、友人や家族など誰か親しい人と数十分ほど一緒に歩くと、あたかもその土地に旅行にでも来たかのような気分を味わうことができる。  去年から、ちくちくと動画を探して、おすすめの散歩動画の一覧も作った。コロナ禍のなかにも関わらず、サマルカンドや、ウイグル、ジャマイカなどの世界の都市風景に親しみを感じるようになってきた。
    暴動とデモの境を歩く
     こういった動画は、単にさまざまな都市の風景を観光的に記録するだけでなく、その地域の重要な時間も記録している。  この文脈でさまざまな動画を探し歩いているのだが、特に印象深かったものの一つが、2020年のBlack Lives Matterのデモ隊に参加した人の動画だ。抗議活動の風景をそのまま歩きながら主観視点で撮影した無編集の動画がYouTubeにいくつもアップロードされている。
    ▲「protest 4k walk -vlog」でYouTubeで検索をかけた結果
     私は、その動画を大きなモニターで映し出しながら、デモ隊と供に数十分の道程を歩いた。  最初、デモ隊は、警察の庁舎を抗議活動に参加した全員で取り囲むことを目標に据えて、行進は、おだやかに開始される。「Black Lives Matter!」「Black Lives Matter!」の掛け声とともにデモは進む。  しかし、十数分したところで、デモ隊は数十人の警察官によって行進を制止させられる。警察官の指示によれば、この先を直進せずに、左に曲がれという。警察からの要請は「左に曲がれ」それだけだ。  その要求を聞いたデモ隊の人々は、急速にざわつきはじめ、デモ隊に参加している黒人の男性が、悲痛な表情とともに警察に対して絶叫をはじめ、デモ隊の他のメンバーが彼に説得をはじめる。  それまで、平和的に歩いていた人々の行進が、たった3分で急激に雰囲気が変わり一触即発の空気が流れる。他の地域でのこの抗議活動ではすでに死者も出ているときだ。  現場の空気感は、この抗議活動が平和なデモとして終わるのか、それとも暴動と見分けのつかないようなものに変わりうるのか、そのぎりぎりの瞬間を映し出す。
    ▲ざわつきはじめるデモ隊(出典:https://www.youtube.com/watch?v=tdo2_0affNU<2021年11月5日閲覧>)
     デモの参加者たちからは、警察を罵る絶叫をする人間が現れ、警官隊も、このデモが暴動に発展したとしても対処ができるように、陣形を組み始める。  数分ほど、何人かのデモ隊参加者からの絶叫が続く。供に歩いていると、直接的な暴力による衝突が発生するかと思われる雰囲気に飲まれそうになる。その場で、必死の形相をしている人々を前にして、この場でどう動くべきか、ということを考え始めようとしている自分に気づく。実際は、その場にいるわけでもないのに。  その後、しばらくしてデモ隊は、警察の要請どおり、ルートを変更して左折しはじめる。ぎりぎりのところで、このデモ隊は暴動には発展せずに、デモ隊も、警察もともに際どい雰囲気のなかをどうにか終わらせることに成功する。   結局、この動画では、直接的な衝突は起こらない。  緊張感のある場面はあるものの、この動画は、暴動という事件が起こらなかった動画だ。
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  • なぜ異世界は、100周目ではなく2周目なのか|井上明人

    2021-06-01 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。いまやアジアの共通言語になっている「異世界転生」について考察した前回に続き、さらにそのストーリーテリングの本質を掘り下げます。日本でのその隆盛の発信源となった「なろう系」の作品傾向で突出する、異世界で「2周目」の人生をやりたい放題に生きるという物語。たとえば2000年代には同じ人生を何十、何百周もやり直す「ループもの」が流行したのに対し、なぜ圧倒的に「2周目」なのか? ゲーム体験の掘り下げから、その疑問を分析します。
    井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 番外編 なぜ異世界は、100周目ではなく2周目なのか
    やたらと多い「2周目」の転生の物語
     なぜ、異世界はやたらと「2周目」が多いのだろう。  3周目や、100周目の話も存在はしているが「2周目」を主軸とした話がやたらと多い。『無職転生』『転生したらスライムだった件』などはその筆頭だろう。長い話のどこかに3周目以後の問題が挟み込まれていることがあっても、主軸となるストーリーラインは、現代社会から転生して異世界で2周目をやりたい放題する話である。もしくは、異世界の住人が異世界に転生して、やりたい放題の2周目を生きる。こういった話が多い。  この傾向は、「小説家になろう」のランキング上位作品につけられた作品内容を示すタグの中身をみてみると確認できる。次に示すのは、上位300作につけられたタグを集計したものだ。(2021年5月5日時点)

    1位 異世界転生 97作品 32% 2位 異世界転移 86作品 29% 3位 チート 85作品 28% 3位 異世界 85作品 28% 5位 ファンタジー 78作品 26% 6位 魔法 70作品 23% 7位 男主人公 65作品 22% 8位 冒険 61作品 20% 9位 主人公最強 59作品 20% 10位 書籍化 54作品 18% 11位 ハーレム 47作品 16% 12位 成り上がり 44作品 15% 13位 ハッピーエンド 33作品 11% 13位 ほのぼの 33作品 11% 13位 女主人公 33作品 11% 16位 オリジナル戦記 30作品 10% 17位 恋愛 29作品 10% 18位 転生 28作品 9% 19位 ざまぁ 27作品 9% 20位 悪役令嬢 26作品 9% 20位 日常 26作品 9% 22位 コミカライズ 25作品 8% 22位 ダンジョン 25作品 8% 24位 ラブコメ 24作品 8% 25位 ご都合主義 23作品 8% 25位 剣と魔法 23作品 8% 27位 貴族 22作品 7% 27位 魔王 22作品 7% 29位 学園 21作品 7% 30位 追放 20作品 7% 30位 内政 20作品 7%

     レーティングを示す「R15作品(78%)」、「残酷な描写あり(71%)」を除くと、そのほとんどが2周目を示す「異世界転生」タグは、上位300作品中の三つに一つに見られている。  より上位の作品になるとその傾向はさらに顕著になり、累計ランキング上位30作品だと、ちょうど半数の15作品に〈異世界転生タグ〉が付けられている。下記は、異世界転生タグの付けられているランキングのトップ作品だ。

    〈異世界転生タグの付けられた累計上位30位以内作品〉[1]
    ・伏瀬『転生したらスライムだった件』 ・理不尽な孫の手『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』 ・馬場翁『蜘蛛ですが、なにか?』 ・ハム男『ヘルモード ~やり込み好きのゲーマーは廃設定の異世界で無双する~』 ・愛七ひろ『デスマーチからはじまる異世界狂想曲』 ・逢沢大介『陰の実力者になりたくて!』 ・Y.A『八男って、それはないでしょう!』 ・香月美夜『本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~』 ・FUNA『私、能力は平均値でって言ったよね!』 ・甘岸久弥『魔導具師ダリヤはうつむかない』 ・錬金王『転生して田舎でスローライフをおくりたい』 ・ひよこのケーキ『謙虚、堅実をモットーに生きております!』 ・沢村治太郎『元・世界1位のサブキャラ育成日記 ~廃プレイヤー、異世界を攻略中!~』 ・夜州『転生貴族の異世界冒険録 ~自重を知らない神々の使徒~』 ・吉岡剛『賢者の孫』

     ここに挙げたほとんどの異世界転生小説は、その多くが「2周目」の物語だ。これは、男性向けの異世界ハーレム、チート系と言われる作品だけでなく、女性向けの悪役令嬢ものでも、2周目の転生というフォーマットが踏襲されがちである。  単に、主人公が強いという設定が必要なのであれば、10周目や、50周目の存在のほうが、よほど強いはずである。しかし、なろう小説ではそういった話は多数派ではない。  よく言われるように、もし、なろう小説が単に「ゲームの想像力をそのまま反映した小説」であるということであれば、20周目の主人公とかが、もう少し登場してもよいはずなのにも関わらずだ。  なろう小説の外に目を向ければ、同じ人生を何十周もする話は数多くある。比較的物語の文化として近いところにあるライトノベルであれば『オール・ユー・ニード・イズ・キル』[2]しかり、ノベルゲームならば『ひぐらしのなく頃に』(以下『ひぐらし』)しかり。  人生を何十周もするという世界観がベースになっている話自体は、今どきまったく珍しくない。 (以下、いくつかの『ひぐらし』のネタバレを含む)。  『ひぐらし』では、物語世界内で他のキャラクターに対して、かなり強い立場の人間として、昭和50年代の雛見沢村を何周もしていることを自覚しているキャラクターが登場する。このキャラクターが『ひぐらし』の世界内において強力な立ち位置を占める理由は、もちろん人生を何十周もしているからにほかならない。同じ事件がおこる昭和58年6月の雛見沢村を何度も何度も見ていれば、雛見沢村で起こりうることに精通するのは当然で、問題を解決するのに一番近い地位にいる立場になることができる。あたりまえである。  「繰り返される世界で強い立場を得る」ことを、少ない設定で説得的に描くならば、ゼロ年代ノベルゲームで普及したループ式の物語形式を踏襲しても良さそうなのにも関わらず、なろう小説ではそれが踏襲されていない。『ひぐらし』はもちろん「Fate」シリーズ、『月姫』、『CROSS†CHANNEL』『Steins;Gate』など、ゼロ年代にヒットしたノベルゲームだと、ループものは、現在の異世界転生に匹敵するほどによく普及した形式だった。なろう小説のヒット作品でこのループ形式を明確に受け継いでいる作品もある(『Re:ゼロからはじめる異世界生活』)。だが、なろう小説群の中ではあまりメジャーな設定ではない。転生系と同じぐらいか、それ以上に「追放復讐系」「転移・召喚系」もかなりの数を占めているが、この「2周目」フォーマットの興味深い点は、韓国発のなろう系(ウェブトゥーン)でも、中国のなろう系(閲文集団)でも、メジャーな形式として受け入れられているということだ(もちろん、2周目以外のフォーマットもある)。  主人公が強くなるという点以外に、2周目の転生物語と、ループの物語は何が違うのだろうか。
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  • アジアを羽ばたいてしまっている異世界転生|井上明人

    2021-02-02 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。今回は番外編として、韓国・中国での「異世界転生」ものの方向性の違いを考察します。いまやアジアの共通言語になりつつある「異世界転生」ジャンル。その多くが「復讐劇」の形態をとる点はよく似ていますが、日本ではいじめられっ子が個人的動機から強者を見返すパターンが多い一方、中国・韓国ではそれぞれの社会の特質を反映し、復讐にまつわるモチベーションのあり方が大きく異なるようです。
    井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 番外編 アジアを羽ばたいてしまっている異世界転生 
    「ピッコマ」から見える韓国・中国での転生ものの隆盛
     最初に異世界転生ものについて書いたのは、2017年だった。2017年時点では、ウェブ小説をベースとした異世界作品の消費はピークなのではないかと思っていた。しかし、異世界ものの快進撃は、2021年現在になっても、とどまることなくウェブ小説のコミカライズやアニメ化の波は多くの読者諸氏が知るところだろう。  そして、この波は、国内のみの状況にとどまらず、2010年代後半には、もはや韓国・中国を含むアジアをまたぐ一大文化現象になっていると言っていい。  この状況をもっとも、わかりやすく把握できるのは、2016年にサービスがスタートした、ウェブマンガアプリのスマートデバイス向けの漫画・小説アプリ「ピッコマ」である。  「ピッコマ」は韓国資本のアプリであり、ベースになっているサービスが韓国の「カカオページ」である。日本のマンガも数多く掲載されているが、韓国と中国のウェブマンガが多数日本向けにローカライズされている。そして、その多くに「転生」もののストーリーが含まれ、また、人気作品の多くが各国のウェブ小説をベースにしている。  たとえば、2020年の「ピッコマ」内でよく読まれた人気作品を見てみると、2020年に国内で歴史的な大ヒットを遂げた『鬼滅の刃』は、3位にとどまり、1位は韓国発の『俺だけレベルアップな件』(2016-、Chugong・h-goon・DUBU(REDICE STUDIO)、原題:나 혼자만 레벨업)、2位も韓国の『極道高校生』(2017-、原作lee hoon young、作画KIM EUI KWON、原題:보스 인 스쿨)(もとは、カカオページではなくtoomicsという別のサイトの人気作品)と韓国勢が上に並ぶ。そして、『鬼滅の刃』の次に並ぶのは、中国版の「なろう」とも言えるウェブ小説サイト「阅文集团」の人気作品『Retry〜再び最強の神仙へ〜』(2016?-、原作:十里剣神 作画:大行道動漫、原題:重生之都市修仙)となっている。
    中世ヨーロッパ風ファンタジー世界ではなく、武侠世界に転生する中国系転生小説
     では、「ピッコマ」でローカライズされるような作品は、「小説家になろう」のような異世界転生もの小説そのものかというと、似た点は多いのだが、全く一緒というわけではない。  大きな違いの一つを、ざっくりといえば、転生する先が、中世ヨーロッパ風の謎ファンタジー世界ではなく、中世中国風の謎ファンタジー世界である「武侠世界」に転生することが多い。  なろう小説であれば、D級冒険者・C級冒険者、B級冒険者……といった強さのランキングシステムがあるが、武侠ものであれば、一成、二成、三成……(あるいは、達人、一流達人、超一流達人……など)といった形で概念系が変わる。この概念系は、かなり普及しているようで、中世ヨーロッパ風ファンタジーであっても、中国・韓国の作品では、「一成、二成……」の概念が使われていることも多い。たとえば、『4000年ぶりに帰還した大魔導士』(2017-、kd-dragon(REDICE STUDIO)・落下傘・フジツボ、原題:4000년 만에 귀환한 대마도사)などは、ほとんどヨーロッパ風の登場人物しか登場しないが、強さの概念系だけは、「一成、二成……」がベースとなっている。  武侠世界観というジャンルは日本ではマイナージャンルだが、中国・韓国のコンテンツマーケットにおいては、もともと20世紀の中頃から広く受容されてきた超メジャージャンルである。この世界観が、いかに支配的なものかがわかるだろう。  物語のベースも、その影響があり近年の「転生」モチーフと、武侠世界観モチーフをかけ合わせたようなものも少なくない。たとえば、『神魔驚天記』(2016-、GomGuck・O'Emperor、原題:신마경천기)や、『華山転生』(2016-、tomassi・JUN、原題:화산전생)は、いずれも無念のなか死んだ主人公が前世の記憶をもって次の生に転生し、次の生で無双する。また、「もともと伝説的な武人だった主人公が死んだのち、数千年後に転生する話」などの設定も数多くあり、連載を追っていると、あまりにもそれぞれの作品の設定が似かよっているので、どの話がどの作品だったのか混乱してしまいそうになる感じなどは、まさに「なろう小説」を読んでいる感覚に近い。
    復讐劇の日・韓・中
     「なろう小説」が、設定だけは、一見して似ているが、中身にいくつかのクラスターがあるように、「ピッコマ」の転生物語群にも、いくつかの作品の方向性がある。  アジアの転生もの作品は、「復讐劇」の形態をとる作品が非常に多いのだが、復讐にかかるモチベーションのあり方がそれぞれに大きく異なっている。
    (1)日本:いじめられっ子の復讐からの発展
     まず、日本の復讐劇シナリオから確認しておくと、このジャンルは、すでにブームが一周した感があるが、2010年代前半からすでに、白米良『ありふれた職業で世界最強』(2013-)や、アネコユサギ『盾の勇者の成り上がり』(2012-)があり、2010年代後半には、勇者パーティーから無能の烙印をおされて追い出された主人公が、やりかえすというタイプのテンプレートが量産された。基本の物語フォーマットは、いじめられっ子がいじめっ子を見返すタイプの怨念系の話の亜種が多かった。最近は、復讐物語が基本フォーマットになりすぎたため、もはやいじめられっ子ストーリーとも言い切れなくなってきたが、日本の作品における復讐の対象は、クラスメイトだとか、もともとは対等な立場だった人間にたいする復讐がかなり多く見受けられると言っていいだろう。そして、追い出された主人公は何かしらの正義を主張できる立場にあることが多い。
    (2)韓国:権力者に対する抵抗としての復讐
     そして、韓国系の復讐劇シナリオだが、これは怨念の強さが日本よりもグレードアップする感触が強い。たとえば、ピッコマで連載され、国内で話題となっている作品に『梨泰院クラス』(2017-2018、Kwang jin、原題:이태원 클라쓰)(「ピッコマ」では、ローカライズの結果『六本木クラス』と改題)などはわかりやすいが、対決する相手が同じクラスのいじめっ子であるにしても、そのいじめっ子は、大財閥の息子であり、主人公を追い込んでくる存在は、社会的な権力者であり、韓国系の復讐劇シナリオの多くは、個人的な復讐劇である以上に、不当な権力に対する社会正義の実現という形式をとって表現されていることが多い。  先に紹介した、武侠ものの『神魔驚天記』や、中世ヨーロッパ風の『4000年ぶりに帰還した大魔導士』のどちらでも、権力者や支配者による陰謀が物語の大きな主題となっている。  韓国の「復讐モノ」は、日本人の読者である私にとっては、正直、やや情念が濃すぎる印象をもってしまうが、近代韓国社会において「権力者の陰謀」は日本よりも遥かに切実で実際にたびたび大きな事件が起こっている社会でもある(光州事件や、6月民主抗争など)。  日本的なコンテンツとは明らかに異なっているが、「韓国」という社会の特質がこういったところにも流れ込んでいるのをみることができるのは、興味深くもある。
    (3)中国:弱肉強食の世界における復讐 
     さて、韓国の復讐劇までは、日本の多くの読者にとっても比較的、読みやすいというか日本の物語の類型の一種としても回収できないわけでもない。実際、日本の物語でも、権力者への復讐が要素として含まれていることは珍しくはない。その意味で、韓国と日本の物語の違いは、あくまで全体的な傾向性の話であって、いずれも「虐げられた弱者が正義の実現を図る」という点では、大まかには類似した物語である。復讐のモチベーションが個人的なものが強いか、社会的な文脈が強いかという違いがあるという程度の問題でしかないと言えば、そうなのである。  他方で、カルチャーショックを受けてしまうのは、やはり中国ウェブ小説発のいくつかの作品群である。一部の中国作品の復讐ものには、正義の問題というものが存在しない。  予め断っておくと、「ピッコマ」では、中国系コンテンツのローカライズは、韓国作品に比べると、そこまで多いわけではないので、ここで紹介する作品が中国という巨大国家の全体を代表していると言い切れるわけではない。……しかし、それでも、次に挙げるいくつかの作品を挙げたいと思うのは、やはり、どう捻っても、日本の物語の作品系譜からは出てこないからである。  まず、軽いジャブ的に紹介しておくと、たとえば、『最強課金プレイヤー』(2019?、原作:SHIWUSHUANG、作画:XIANGPIZHA、中国語原題:氪金玩家)は、その傾向をもった作品の一つだ。現実世界で、とある富豪にひどい目に合わされた主人公は、VRMMOの世界で再起を図り、自分を軽んじた相手にやりかえすのだが、そもそも、主人公自体がいささか落ちぶれたとは言え大富豪なのである。『最強課金プレイヤー』というタイトルがあらわしているように、主人公はゲームの世界に億単位の金額を使ってゲーム内世界で最強になっている。

    『Retry〜再び最強の神仙へ〜』:登場人物の全員が悪役の発想
     中国作品で、特筆すべき作品は、『Retry〜再び最強の神仙へ〜』である。最初に言及したとおり、2020年の「ピッコマ」ではアクセス数が、3位の『鬼滅の刃』に次ぐ4位の人気作品であり、「ピッコマ」内で、もっともたくさん読まれた中国ウェブトゥーンになる。  主人公は、500年修行した仙人だったのだが、仙人として命を失ったあとに大学生時代(日本では2019年)にタイムリープをして、人生をやりなおす。  本作は、弱肉強食の世界観なのであるが、この作品の提示する力こそが全ての世界というのは、たとえば『グラップラー刃牙』シリーズ(1991-、板垣恵介)など以上に一貫した「力」への信頼がおかれている。  比較のために刃牙シリーズとの違いを確認しておくと、刃牙シリーズの世界の中で「世界最強」というような概念が登場するとき、「最強」という価値観が重要な作品世界であることは、読者にむかって繰り返し説得される。銃が登場した近代以後の世界において、個人的な力を磨き上げることが無意味なのではないかというような、ごくあたりまえの考えを、あえて否定するために、刃牙シリーズの格闘家たちは一人で野生の猛獣を倒し、軍隊と立ち向かい、アメリカ大統領を震えさせる。刃牙シリーズは、そのようなフィクションのリアリティを説得的に繰り返し描くことではじめて成立する魅力的な法螺話である。  一方で、『Retry〜再び最強の神仙へ〜』は力が重要であるということを一切、誰も説得しない。説得しないし、それが重要であるとか、重要でないといったメタ的な価値について誰も、疑問を挟まない。登場人物の全員が、個人的な武力、財力、政治力、美貌といった現世的な「力」が何よりも重要だということについて、一切の疑問を持っていない。そして、誰も、復讐者の正義だとか、弱者の権利だとか、そういうことを口にしない。  復讐をするならば、ただ単に力でもって、相手を制圧すればよい。虐げられたら、ただ単にやりかえす。何だったら、殺したければ殺してもよいので、主人公は、けっこうどんどんと相手を殺す。
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  • 『ダンガンロンパ』は「バトルロワイヤル的想像力」をどう更新したのか?──西尾維新、ゲーム的リアリティ、“ダークナイト以降”のキャラ造形から考える (井上明人×中川大地)【PLANETSアーカイブス】

    2020-06-19 07:00  
    550pt

    ▲『ダンガンロンパ』生誕10周年記念トレーラー

    今朝のPLANETSアーカイブスは、第1作発売から10周年を記念し、ゲーム研究者の井上明人さんとPLANETS副編集長・中川大地が、人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』を語った対談記事をお届けします。2010年の第1作『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』(以下『1』)、2012年発売の続編『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』(以下『2』)はともに20万本を超える堅調な売上を記録し、2013年にはテレビアニメ化。若い世代のコスプレや二次創作シーンにも定着し、2010年代の家庭用ゲーム発の国産IPとしては特異な存在感を誇るタイトルになった本作。「ゲーム」の範囲にとどまらないこの作品の文化史的/批評的ポテンシャルを改めて語り尽くします。※この記事は2014年10月10日に配信した記事の再配信です。

    ※ネタバレが重大なゲームですので、ゲーム未プレイ/アニメ未視聴の方は注意してお読みください。

    ※この記事は、2014年9月3日にPLANETSチャンネルで放送されたニコ生番組を加筆・再構成したものです。
     
    ▼『ダンガンロンパ』とは
    学級裁判の中で相手の矛盾を論破し、殺人事件の犯人を暴いていくゲーム。ハイスピードでテンポよく展開する学級裁判の中、捜査パートで集めてきた証言や証拠を弾丸としてトリガーにセットし、相手の主張の矛盾をアクションゲームのように撃ち抜くことで論破する。推理とアクションの融合により、これまでにない。まったく新しいエキサイティングなゲーム体験を表現。(公式サイトより)
     
    ▼ストーリー
    舞台は、あらゆる分野の超一流高校生を集めて育て上げる為に設立された、政府公認の特権的な学園「私立 希望ヶ峰学園」。国の将来を担う希望を育て上げるべく設立されたこの学園に、至極平凡な主人公、苗木誠もまた入学を許可されていた。 平均的な学生の中から、抽選によってただ1名選出された超高校級の幸運児として……。入学式当日、玄関ホールで気を失った誠が目を覚ましたのは、密室となった学園内と思われる場所だった。「希望ヶ峰学園」という名前にはほど遠い、陰鬱な雰囲気。薄汚れた廊下、窓には鉄格子、牢獄のような圧迫感。何かがおかしい。 
    入学式会場で、自らを学園長と称するクマのぬいぐるみ、モノクマは生徒たちへ語りはじめる。──今後一生をこの閉鎖空間である学園内で過ごすこと。外へ出たければ殺人をすること。──主人公の誠を含め、この絶望の学園に閉じこめられたのは、全国から集められた超高校級の学生15人。生徒の信頼関係を打ち砕く事件の数々。卑劣な学級裁判。黒幕は誰なのか。その真の目論見とは……。
    (『1』のAmazon商品説明より)

    ポスト「逆転裁判」の系譜と「西尾維新」的文芸センスの融合 
    中川 今回は、PLANETSチャンネルで連載中の「中川大地の現代ゲーム全史」の番外編として、新作『絶対絶望少女』が発売されたばかりの人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』について、ゲーム研究者の井上明人さんをお招きして、いま改めて語ってみようという企画です。井上さん、よろしくお願いします。
    井上 よろしくお願いします。
    中川 この『ダンガンロンパ』シリーズですが、まず第1作が発売されたのは2010年末ですよね。2010年といえば、ソーシャルゲーム市場が急激に成長して、家庭用ゲームがどんどん不振に陥っていった時期です。つまり『怪盗ロワイヤル』などが登場して一般のゲームユーザーの可処分時間を圧迫していった時期に、この『ダンガンロンパ』はクラシックなパッケージゲームの新作シリーズとして登場しつつ、比較的若い世代のライトオタク層を掴んで健闘したタイトルだった点が特徴です。井上さんが最初に『ダンガンロンパ』に注目されたきっかけは何だったんですか?
    井上 実は体験版が出た最初の段階で、ちょっと話題になっていたのでやってみたんですよ。僕はプレイステーション・ネットワークのストアで体験版を漁る習性があるんです(笑)。それでプレイしてみたら「あっ、これは『逆転裁判』をすごく意識して、変種を打ち込んできたぞ」と思いました。体験版のときは難易度調整に若干失敗気味だったんですが、非常に野心的な試みだと思いましたね。
    中川 やっぱり僕らのような30代ゲーマーからすると、まず思い浮かぶのが『逆転裁判』からの脈絡ですね。あれは第1作が出たのが2001年ですが、ゲームボーイアドバンスを代表する最初のオリジナルヒットシリーズでした。殺人事件の聞き込みや証拠品集めなどをする捜査パートと、容疑者や証人の証言の矛盾を指摘したり証拠を突きつけあったりする論争を通じて真相がつまびらかになる裁判パートの繰り返しで進行していくという構成のルーツは、ここから来ています。実際には「裁判」というよりも、ミステリーの王道の真犯人当ての形式的な趣向を置き換えただけだったわけですが、推理アドベンチャーゲームの作劇と体感性を大きく変えました。
     

    ▲『逆転裁判123 成歩堂セレクション』(発売元:カプコン/ニンテンドー3DS)
     
    その後、『逆転裁判』のフォロワーがなかなか出てこなかった中で、10年を経てようやく新しい意匠とシステムで出てきたのがこの『ダンガンロンパ』シリーズなのかなと思うんですが。
    井上 いや、『逆転裁判』のフォロワー的なタイトルは、売れていなかっただけで実はあるにはあったんです。たとえば、『有罪×無罪』『遠隔捜査 真実への23日間』なんかですね。少し離れたところでは『銃声とダイヤモンド』なんかはすごく良かった。『銃声とダイヤモンド』は、『街 〜運命の交差点〜』『かまいたちの夜』の麻野一哉さんがシナリオを手掛けていて、ゲームシステム自体もよくできていたんだけど、主要登場人物がおっさんが多めというのもあり(笑)やや渋めで、あんまり売れなかった。でも、『銃声~』はほんとにすごい作品でした。そういう作品も過去にはあったんですが、それらと『ダンガンロンパ』が何が違ったかといえば、『ダンガンロンパ』はシステム、キャラ、シナリオ、グラフィックなど多面的にK点越えをしていてグイグイ引っ張れる要素が本当にたくさんあった。ほんとに、いい作品なので、売れてよかったなぁという感想を持ちましたね。
    中川 そんな中、『ダンガンロンパ』は推理パートと裁判パートで進むゲームシステムを『逆転裁判』から継承しつつ、そこに2000年代初頭から大きく盛り上がった講談社BOXや西尾維新の一連の作品のような、フリーキーなキャラクターたちが常識ではありえないフィクショナルな状況での推理を繰り広げる、いわゆる「新伝綺」と呼ばれるミステリーとライトノベルの中間領域のような文芸センスを導入してみせたことで、それまでのフォロワータイトルとは一線を画する支持を獲得した。
    井上 『ダンガンロンパ』ですごいなと思ったのは、非常にアイロニカルで批評性があって問題意識がグネグネしたものなのに、『1』『2』ともそれぞれよく売れて、マニアックなサブカルっ子以外にもちゃんと受け入れられたことですね。それは素晴らしいことだと思う一方で、『ダンガンロンパ』や、その先駆者である西尾維新もそうだけど、グネグネしたことをやっていそうでいて、実はそんな難しい問題意識を持っていなくても楽しめるようにもなっている。そこの両立の仕方というのがすごいな、と。
    中川 単純にキャラクターコンテンツとして秀逸です。男性と女性両方のファンがついていて、ノーマルなカップリングを喜ぶ層もいるし、男どうしあるいは百合カップルでの組み合わせの要素もあるし、全方位に向いていて、10代から20代までの若い層にも受けていますよね。それに加えて、ムダに豪華な声優陣の存在もありますよね。
    井上 これは本当に豪華ですよね。
    中川 やっぱりなんといっても特筆すべきは、マスコット兼悪役で、生徒どうしのコロシアイを操るモノクマ役への大山のぶ代さんの起用。ドラえもんの声に新たなイメージを付け加えたのは、この『ダンガンロンパ』シリーズの功績(?)ですよね。
    井上 今のドラえもんの声優は水田わさびさんに代わっていて、今の子どもたちは大山のぶ代のドラえもんを知らない可能性もあるぐらいですよね。
     

    ▲ゲームを操る「モノクマ」中川 そう。別格感あふれる大山さんをはじめ、声優陣は豪華は豪華ながら、実は懐かしい感じのラインナップだった。たとえば『1』の主人公の苗木誠くんを演じたのは『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役の緒方恵美さんだし、『2』の主人公の日向創役はコナンで有名な高山みなみさん、メインキャラの一人である十神白夜役は同じく『エヴァ』の渚カヲルとか『ガンダムSEED』のアスランで有名な石田彰さん等々、主に1990〜2000年代のヒットアニメを代表作とするベテラン勢が中心。かろうじて現役の声優ヲタの文脈に訴求する若手と言えるのは、霧切響子役の日笠陽子さんや『2』の七海千秋役の花澤香菜さんくらいですかね。
    でもこういった今時の深夜アニメ等での旬よりは一回り年齢層高めなレジェンドクラスが起用されたことで、われわれ団塊ジュニア世代のオタク教養的なものと、近年の10-20代のニコニコ世代というか、ジュブナイルライトオタク層との共通言語ができた側面もある気がします。かつてのアニメやマンガなどの小ネタを縦横無尽に引用して詰めこみながら、それを若い世代向けに届けることに成功しているという意味では、やはり西尾維新とも通ずるところがありますよね。
    「学級裁判」が体感させる“推理”と“理不尽”の詐術
    井上 『逆転裁判』との比較をさらに掘り下げてみましょうか。『逆転裁判』の場合は、単に選択肢を選ぶのではなくて、選択肢を選ぶことに対して「なぜこの選択肢の方がいいのか」という合理的推論をする仕組みが提供されてましたよね。これは、ものすごい発明だったわけです。
    まず第一に現実のコミュニケーションを簡単なゲームシステムに変換するということが難しいわけです。で、とりあえずアドベンチャーゲームは、選択肢で会話をするという方式をだいぶ初期につくりだしたわけです。ただ、その次にどの選択肢が正解か、ということについて、納得感をどう演出するか、というのが難しい。すごいゲームデザインというのは、ここの納得感の演出というのが神がかっているわけです。
    たとえば今僕はこうやって中川さんと話していますが、僕が「中川さん、最近どうですか」とか言ったときに中川さんからいきなり「ボンッ! 不正解だ!」みたいなことをバシッと言われたら困るわけです。中川さんがそれを言ったら「この中川さんって人はちょっと、イっちゃった人だな」って感じがしますよね?
    中川 なるほど(笑)。裁判ならそれを言ってもいい、という。
    ▲『ダンガンロンパ』の学級裁判パート
     
    井上 そうです。そこまでが『逆転裁判』が切り開いた地平です。
    さらにその上の第三の地平があるわけです。『逆転裁判』との違いは、『ダンガンロンパ』って学級裁判パートがリアルタイム制であることですね。リアルタイムで議論しているなかで議論の進め方のおかしな点を指摘しないといけなくて、それがゲームとしての緊張感を生んでいた。ちなみに『逆転裁判』も最初はリアルタイム制にしようとしていたらしいんですが、ただし、さすがにそれだと難易度が高すぎるということで実装しなかった。『ダンガンロンパ』はそれをある程度、なんとか遊べる形にしてしまった。
    中川 まあ、ミスをすれば同じ議論が再びループするので、厳密な一回性という意味でのリアルタイムではなく、静的な『逆転裁判』のテキストメッセージに比べ、『ダンガンロンパ』の方が、1ターンの中のタイミング演出が動的になったというだけのことではあるんですが、アクション性が大きく高められたのは間違いない。こういう難易度調整の考え方って、基本的にアクションRPG的だと思うんですよ。ターン制のRPGは静的なパラメータに規定されていて、レベル上げやアイテム収集などプレイヤー本人の腕前によらず根気があれば誰でもできる反面、臨場感に欠ける。対して、ただのアクションゲームの場合は本人にアクションの腕前がないとゲームを進められない。
    アクションRPGはその中間で、パラメータ管理とプレイヤー本人のアクションの腕前をミックスしたゲームデザインになっている。この折衷性が、2000年代以降は『モンハン』シリーズやオープンワールド系RPGでの標準になっていますよね。それと似たようなことを、ストーリーゲームの領域でやったのがこの『ダンガンロンパ』のシステムだったんじゃないのかな。
    捜査パートで他のキャラクターと親しくなると、学級裁判でのアクションを有利にできるアイテムをもらえたりするあたりとかも含め。
    井上 今まで混ざっていなかった「アクション」と「謎解き」のふたつの要素を混ぜて、何とかいい感じに納めたのは偉業と言っていいと思います。
    中川 あと学級裁判パートで面白いのは、推理のプロセスを別種のミニゲームで置き換えていることですね。つまり、いくらプレイヤーに自分の頭で推理するリアルタイム論争に近づけると言っても、所詮は与えられた選択肢から正解を選んで一定のストーリーをなぞっていくAVGとしての本質は変わらない。そのお仕着せ感を軽減すべく、本来なら主人公が能動的な思考をするところを、パズルゲームや音ゲーなどの異なるゲーム的障壁を乗り越えていく体感性で代替して疑似体験性を補っているわけです。
    コンシューマーゲームでは、『ファイナルファンタジー』シリーズぐらいから全体のゲームシステムと関係ないさまざまなミニゲームを入れ込む流れがあって、特に『レイトン教授』シリーズは、大きな推理ストーリーの骨格の中に「脳トレ」的なクイズを組み込むことで、自分が謎解きのプロになった気分を味わえるロールプレイングの詐術を使ったのは大きかった。ああやってゲーム内にミニゲームの多様性を入れ込み「体験を体験で置き換えていく」手法は、ストーリー演出のエフェクトとは無関係なゲーム的要素をすべて取り払っていく方向にAVGシステムを特化させていった1990〜2000年代のPCノベルゲームの台頭に対する、コンシューマーならではのリアクションでもあったのかなと。
    井上 あー、ただ学級裁判のミニゲームに関してはちょっと僕は悩ましい気持ちになりましたね。特に『2』で出てきた「ロジカルダイブ」と称したスノボゲーム(下図参照)とか、さすがに「これは推理のスキルと関係が何もないのでは?」というところがありますよね。
     

    ▲『ダンガンロンパ2』に登場するゲーム内ゲーム、「ロジカルダイブ」の画面
     
    ゲームデザインにおいて、プレイ中にずっと同じことをしていると飽きるので、刺激の多様性は必要なんだけど、そこの多様性の与え方って難しいポイントなんですよね。完全に別ゲームにすると、「関係ないことをやらされるストレス」が発生しやすくなってしまう。経験としては連続していて、かつ多様な展開というのが重要なわけですが、『ダンガンロンパ』に関しては、そこは少し振り切りすぎてしまって、もう完全に別のミニゲームになっているな、とは思いました。もちろんトータルで素晴らしいゲームであることは前提として、ですがこのゲーム設計はちょっとダメなストレスの与え方だな、と感じました。
    中川 なるほど。ただ、あのスノボゲームに関して無理やり深掘りすると(笑)、『FFⅦ』でヒロインのエアリスが死んだあと、ものすごい衝撃を受けて悲しい気分になっているときにスノボゲームをやらされましたよね。それを彷彿とさせるところがあって。で、『ダンガンロンパ』ってそもそも理不尽なゲームをやらされているゲームですよね。
    井上 ああ、なるほど、あれも含めてモノクマの陰謀であると。たしかにそれなら、一貫性がとれてますね(笑)。
    『ダンガンロンパ』に埋め込まれたゲーム史的な自己言及性
    中川 『ダンガンロンパ』って、ゲーム内で『ジョジョの奇妙な冒険』や『るろうに剣心』など、団塊ジュニア以降の世代が親しんできたサブカルネタをちょくちょくぶっこんできているわけですが、その中でゲーム自体の言及もすごくあったりするので、あのスノボゲームも『FFⅦ』のオマージュなんじゃないか、なんてことも思ったりするんですよね(笑)。
    これがあながち邪推すぎるわけでもないかと思うのは、『2』に『トワイライトシンドローム』っていう妙なサイドビュー画面のゲーム内ゲームが出てくるじゃないですか。実際、本作を制作したスパイクの前身の会社が同名のシリーズをちょうど1990年代後半にPSで出していて、さらに後には『夕闇通り探検隊』という伝説的な後継作品にもなっていますが、そういうセルフオマージュを入れてきているわけです。
     

    ▲ゲーム内ゲームとして登場する『トワイライトシンドローム』の画面。
     
    ここにはちょうど、『FFⅦ』までのPS第一世代的なローポリゴンの不気味の谷(3D表現の進化過程で人間の造形が中途半端に再現されると妙に不気味に感じられる段階があること)や構成のチグハグさ、操作系の未洗練さなどが結果的に恐怖や理不尽さの表現として独特の味わいを醸し出していた時代のゲーム史的な記憶を、意識的に埋め込む姿勢が感じられるんですよ。
    井上 『moon』(1997年にラブデリックが開発しアスキーが販売したPS用ゲームソフト。王道RPGやゲームそのものを批評的に捉え返した名作とされる)と同じく、ゲーム内ゲームを構築して、その中でゲームに対する批評性みたいなものをちゃんと獲得していくというやり方ですよね。
    中川 そもそも『ダンガンロンパ』という作品全体が、ゲーム内で登場人物たちが理不尽なデスゲームをやらされているという二重構造になっていて、それに対する言及が1作目のときからキモだったんだけど、それをさらにメタ視点で捉え返すかたちで2作目がつくられていますからね。
    プレイしていて思い出したのが『メタルギアソリッド』の1、2の関係です。メタルギアは第1作の主人公・スネークがシャドーモセス島事件でああいう経験をして、2作目の主人公の雷電はその1の体験のコピーを仕組まれたゲームとしてやらされていて、それを1の主人公だったスネークが最後に解き明かして導いていくという構造があった。これはまさに『ダンガンロンパ』の1、2作目の作劇構造と同じですよね。
    井上 なるほど。ただ僕としては、中川さんとは少し違う感想を持っていて。『ダンガンロンパ』は1作目の時点ですでにリアリティショー(台本や演出なしで素人の出演者がさまざまな状況に直面するさまをドキュメンタリー形式で放送するテレビ番組の一形態)として、中のコロシアイの様子が全世界に中継されていたわけですよね。続く『2』ではそのリアリティショーをさらにバーチャルリアリティに嵌め込んでいるというわけのわからないことをやっていて、これは「お約束をことごとく覆していく」という意味で、すごく西尾維新的な構造だなと思ったんですよ。
    中川 たしかにそうですね。『1』では、閉鎖空間でコロシアイをさせられている学園内がディストピアだと思っていたら、実は世界全体のほうがすでに絶望病に冒されていて『北斗の拳』みたいな終末的な世界になっていて、むしろ学園のなかのほうが守られていた、というどんでん返しがあるわけです。そこにさらにモノクマが登場して学園をコロシアイの舞台にしてリアリティショーとして外の世界に中継していた、という。
    『ダンガンロンパ』に結実した「バトルロワイヤル」な想像力の系譜
    井上 これは『ダンガンロンパ』に限らない話ですが、バトルロワイヤルとリアリティショーはなんでこんなに相性が良いのか、というのも論点の一つかもしれないですよね。
    中川 2000年代以降に台頭してきたバトルロワイヤル的な想像力って、学校やクラスの狭い人間関係の持つ日常の残酷さの表象として、クローズド・サークルのなかで疑心暗鬼になってコロシアイをさせられるというようなものですよね。で、そもそもバトルロワイヤル系の語源である『バトル・ロワイアル』(高見広春による小説。1999年刊で2000年に映画化され大ヒットした)がまさに、「少年たちがバトルする様子を大人たちが見て楽しむ」という構造でしたよね。僕の考えでは、00年代前半の時点ですでにゲームの体験がある程度、人々のリアリティに刷り込まれていたからこそ、殺し合いとリアリティーショーを結びつけるバトルロワイヤル系の想像力が出てきたのかな、と。その感覚が映画や小説に波及して、それをもう一回ゲームのほうに持ち帰ってきたのが『ダンガンロンパ』だったとも位置付けられるんじゃないでしょうか。
    井上 なるほど。ゲーム発だったどうかかは、はっきりと断言できないですけど、その説明は説得的だと思います。
    ちなみに僕の知り合いの20代前半の子が『ぼくらの』とか、バトルロワイヤルものがすごい好きで「こういうものにこそ人間の真実があると思うんですよ」ということをずっと言っていたんですよ。で、案の定『ダンガンロンパ』にはドハマりをしていました。20代前後の子が「ここにこそ人間の真実が!!」という感想を持つのは、頭では理解できなくはないけど、直感的には今ひとつピンとわからない。おそらく、僕が1990年に生まれていたら理解できたのかもしれませんけれど、そこの感覚が今ひとつ腑に落ちる感じがありません。中川さんはどうですか?
    中川 やっぱり1970年代生まれの自分自身のリアリティとして、そういう感覚はないですよ(笑)。でもそれこそ、宇野君が『ゼロ年代の想像力』で書いていたように、『新世紀エヴァンゲリオン』以降の世代にとっては、ある種のバトルロワイヤル的な想像力が身の周りの社会をイメージする上での前提的なリアリティになっていて、まだ引きこもる余裕のあった『エヴァ』以前に思春期を過ごした世代にはその感覚があんまりわからない、というのはあるんじゃないですか。
    80年代に実現された高度消費社会って、あくまで誰かに構築された偽物で、これはいつ壊れてもおかしくないものであるという感覚があり、それは『トゥルーマン・ショー』のような「この平和な日常は本当は存在しない、仕組まれたバーチャルなものなんだ」という想像力を生み出しましたよね。その一方で、旧ソ連が崩壊する前までは「核戦争が起こって世界が終わる」ということにリアリティがあって、そういった終末世界を描くフィクションもたくさんありました。
    つまり『ダンガンロンパ』を規定している構造として、子供たちの2000年代以降のリアリティ(教室内でのバトルロワイヤル)を、大人が構築した1980年代的リアリティ(トゥルーマン・ショーと終末的な世界)が取り巻いている、という重層的な構造があるとも言える。
    井上 ただ、今日び「終末後の世界」をそこまで気合を入れて描く気はないのだろうなっていう感じもしませんでした? 「人類史上最大最悪の絶望的事件」って、えらくざっくりとした表現ですし……。
    中川 まあ、そこにはリアリティはないですよね(笑)。ポスト『エヴァ』の想像力としてバトルロワイヤル系と比肩される、いわゆるセカイ系的な想像力の流行って、新海誠のアニメやノベルゲームのような個人レベルのミニマムな制作環境と親和性が高かったと思うんですよ。他方、集団制作を前提としたコンシューマーゲームだと、もうすこし大勢のキャラクターを表現できるという事情もあって、教室レベルのクローズドな人間関係を主題化するリアリティサイズが表現できた。
    しかし、その外側は後景としてボンヤリとせざるをえないあたりは共通している。それでも2000年の『高機動幻想ガンパレード・マーチ』なんかは、教室外のマクロな世界の戦争状況をうっすらとパラメータ化して関連させていたわけですけどね。
    井上 セカイ系という物語形式って、要は「世界が滅ぶ/滅ばない」という大きなスケールの話が、主人公の周りのローカルな人間関係と直結するというものでしたよね。で、同学年の同じ部活の友達だけで楽しく過ごす日常を描いた『けいおん!』のようなものを「空気系」というわけですが、実は近場の人間関係だけ選んでいるという意味ではバトルロワイヤルものもそうで、この二つは近い関係にあるのかなと思ったりするんですけど。
    中川 まさに、その二つは表裏一体ですよね。近場の人間関係のユートピア感だけを取り出すと空気系のぬるい世界になり、逆に残酷な面を戯画化して描くとバトルロワイヤル系になるという。『2』は最初に、(後でモノクマの妹という設定に無理やりされる)「モノミ」というキャラが出てきて、「みなさん、この南国の島で、修学旅行を永遠に楽しみまちょうね〜」って言っていて、実際に本編とは別にモノクマが登場しない平和な日常を楽しく過ごす「アイランドモード」というモードもありますが、それはまさに空気系的な世界観が表裏一体の構造として、この作品に埋め込まれているということの証左でもありますよね。
    2010年代的なキャラクター造形とゲームの形式的必然が生んだ「黒幕」
    井上 ……と、裏のほうから「キャラの話をしてくれ」というオーダーがきているので、すこし強引な振りになりますが(笑)、『ダンガンロンパ』が空気系的な構造すらも取り込んでいるとすると、空気系においてやっぱり重要なのはキャラ描写ですよね。『ダンガンロンパ』は本当にキャラづけが強いゲームだということがあると思いますが、
    中川 『逆転裁判』の頃から成歩堂くんとか真宵ちゃんみたいな感じで記号的かつフリーキーにキャラを立てていく流れがありましたが、『ダンガンロンパ』はその傾向をさらに押し進めつつ、2010年代のボカロ世代や「カゲロウプロジェクト」好きなどにも通ずる、ジュブナイルライトオタク層の感性に適した元ネタをぶちこんだキャラクター造形へとアップデートできた点に勝因がありました。ちなみに井上さんが一番好きなキャラは?
    井上 僕は『2』に登場する超高校級の飼育委員・田中眼蛇夢くんが、ペットであるハムスターを「破壊神暗黒四天王」と呼ぶ、あのパッケージングが好きですね。ハムスターだけ出されてもげんなりですが。
    中川 なるほど(笑)。まさに彼なんかは、「厨二病」という2000年代後半以降のライトオタク層が自嘲的に共有するに至った属性を取り込んだ典型例ですね。実際人気も高いですし。僕は男性キャラでは、やはり『2』の狛枝凪斗くんの造形に度肝を抜かれました。狛枝くんは名前が1作目の主人公の苗木誠のアナグラムで、声優も同じ緒方恵美さんだし「超高校級の幸運」というところも同じなのに、第1話でいきなり前作の記憶のあるプレイヤーの予期を覆してみせる攪乱者ぶりが見事すぎました。彼のクライマックスである第5話でもそうだけど、彼の能力をああいうかたちでトリックに活かすというのも狂っていたし。
    井上 たしかに狛枝くんのあのトリックは、本当にゲームデザインとシナリオを融合させた非常に素晴らしい、歴史に残したいトリックといってもいいですね。
    中川 シナリオ自体が強烈にキャラクター性を引っ張っていましたよね。このシリーズを手がけている小高和剛さんのシナリオライターとしての力をすごく感じさせられたキャラだった。
    一方、女性キャラでインパクトが強かったのは『1』の大神さくらちゃんですね。明らかに『北斗の拳』のラオウや『グラップラー刃牙』の範馬勇次郎みたいな格闘マンガのラスボスをムリヤリ女子高生化したネタキャラ枠なのに、それをシナリオの力で最後にはあれだけ可憐な乙女っぽく思わせたのも圧巻でした。
    井上 さくらちゃんはすごい露骨ですけど、超高校級のアイドルとか、超高校級の野球選手とか、超高校級の文学少女とか、全部マンガ違いのキャラですよね。そういうジャンル違いのキャラクターを一同に会させてバトルロワイヤルさせるというのがこのゲームのコンセプトでもあった。
    中川 キャラクターの話が出たので、重大なネタバレですが、ここからはあのキャラクターの話をしましょうか。
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  • 【特別寄稿】井上明人 それはどこにある「現実」なのか:作品について書くということ

    2020-04-15 07:00  
    550pt

    ゲーム研究者の井上明人さんの特別寄稿をお届けします。10代の頃、岡崎京子の『リバーズエッジ』の「露悪的な現実」を賛美する批評界隈の風潮に、反感を抱いていたという井上さん。しかし年齢を経たあとで、批評に内在する、違う誰かの生き方への想像力に開かれた、コミュニケーションの可能性に気付いたといいます。
     しばしば指摘されてきたことであるのにも関わらず、作品について論じること、すなわち「批評的な行為」がコミュニケーションとしての属性を持っているということを言うと、なかなか通じないと思うことが多い。学生にも通じないし、人文系の研究者にすら通じないことが多い。  作品というのは、作者と読者のそれぞれの「現実」の観察を映し出す鏡のような性質をもっている。そのため、作品について論じるということは、コミュニケーションとしての側面を持つ。そのことについて、私なりに簡単に整理しておきたい。
    「この物語は、現実である」とみなすこと。:『リバーズエッジ』
     十九歳のとき、岡崎京子の『リバーズエッジ』をはじめて読んだ。この作品を褒める批評家の言葉に従って、作品を手にとって、最後まで読んだ。  そのとき、私はこの作品を「露悪的」な作品だと、最初におもった。そして、この作品を褒める批評家達に、軽い嫌悪を覚えた。物語の技術的な質の高さという意味では、この作品を褒める文脈がありうることはそのときの私にも理解できた。だけれども、この作品を安易に褒める批評を軽蔑した。
     十九歳の私は、批評家たちのあさましさを憎んでいた。  今思えば、その憎しみは、私が今よりも、若かったからだ、と思う。   *
     当時の私が気に入らなかった批評は次のようなものだ。リバーズエッジが語られるとき、この作品は1990年台当時の「時代」とむすびつけて語られることが多かった。作者もまさにそのように書いている。この作品は、現代の日本を象徴的にうつしとった作品なのだ、と書いていた。  しかし、私にとって、この作品は私の生きる生活とは、ほとんど結びついていなかった。同性愛者の友人はさておくとしても、女性をレイプするような乱暴な友人もいなかったし、寂しさをまぎらわすためにセックスをしてまわるような女性もまわりにいなかった。あるいは、いたとしても、気づいていなかった。私の10代は、進学男子校の生徒として本を読んだりゲームをしたりして生活を送る日々であり、友人のほとんども文化系のおとなしい男の子たちだった。そういうリアリティの持ち主に、こういう作品を「現代という時代を反映した問題作」として語られても、私は同じ世界のリアリティを共有できない。私の生のリアリティは、なんだかんだで、おおむね穏やかな日常に彩られていたと思う。そういう人間にとっては、同時代のセンセーショナルで残虐な話をつきつけられても、そこに同時代性を見いだせるはずもない。まず、この点で、私はまったく岡崎の描いた物語が嘘くさいと思った。  それに、岡崎京子がしばしば、ある種の残酷さを、何かロマンティックなものとして描くことに、酔うような話が多くて辟易したということもある。
     もっとも、岡崎は「現代性」を僭称することの「うそくささ」に単に鈍感であったわけではない。岡崎は、現代のメディア環境の「うそくささ」に気付かずにはいられない人々についてたくさん描いている。  それは、たとえば、チェルノブイリを語るメディアの風景やら、環境問題を語るメディアの風景やら、そしてCMをにぎやかにしているやらイメージたちなどの象徴的にあらわれている、という。  それはそうだ。  それはそうだろう。  あれは、テレビというメディアのもたらしたものに他ならない。  だけれども、岡崎がテレビの「うそくささ」を登場人物に喋らせる以上に、私にとっては岡崎が「うそくさいもの」に見えて仕方がなかった。  テレビの「うそくささ」を「ウソだ」と指摘することでしか、自身のリアリティを担保できていないように思えた。岡崎の作品は、マスメディアを「ウソだ!」と指摘することで、その真逆のリアリティを肯定しようとしているだけのように思えた。極端に善良できらびやかな風景を「うそだ」と攻撃してみせることが、その真逆に位置している極端に残酷でわけのわからない風景を「ほんとだ」と言うための方法になっているようにしか思えなかった。単に安易な敵を攻撃しているようにしか、見えなかった。
     これが「現代」だなんて。  なんて、馬鹿げた悲壮感ただようロマンティズムに酔っているのだろう、と。  こんな、手軽な、ロマンティズムが、ある種の「文学性」だとして語られるのであれば、そんなもの、クソくらえだと思った。おそらく「文学」という言葉を語る人種の中でも、自分が最も軽蔑すべき種類の人間だろうと思っていた。
    **
     しかし、今は十代の頃とは違う感想を持っている。  岡崎京子のロマンティズムが、岡崎京子の描く現実は、そこまで露悪的である、と断定できる気分ではなくなったことだ。私は、なんだかんだで、あまり極端に治安が悪い地域で生まれ育った友人は少ない。岡崎京子の描く現実は、「わからなかった」。こんな現実が描かれているということが、どの程度まで岡崎京子の判断によるもので、どの程度までが判断によらないものなのか――すなわち、一部の人々の「日常」にどの程度まで対応しているのか、いないのか――ということが、理解できなかった。  ただ、はじめて読んでからだいぶ経ってみてわかったのは、岡崎の描くよう世界に近いリアリティを生きている人たちは、同時代の日本に、どうやら、ほんとうにいるようだということ。少なくとも、「いない」とは言えない。  つまり、私が十代の時に感じていたこと――岡崎の描く現実は、岡崎によって都合良く露悪的に粉飾された「現実」であるという感覚――は、私という読者にとっての真実であっても、別の読者には別の真実があったということだ。リバーズエッジが過度に「露悪的」ではなく、それが実際の日常の感覚の延長に位置するものとして受け止められることは十分ありうるということは、否定できなくなった。やはり、一部の読者にとっては、これは、それほど、日常の風景と遠いわけではないはずだ。  実際に、岡崎の描く世界が自らの十代の日々のそれに近かった、という告白を人からうけたこともある。そういう人にとってみれば、岡崎の描く物語は、彼/彼女らの日常へと、極めて鋭く世界の再解釈を迫るような物語として機能したであろうことは想像に難くない。そして、さきほど少し記したような、十九歳の頃の私の岡崎への「嫌悪感」は、考えようによって、とても、乱暴で、粗い感想に聞こえて仕方ないものだろう。
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  • 井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 番外編 2019年の「推し」ゲーム三選

    2020-01-14 07:00  
    550pt

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は番外編として、2019年の「推し」ゲームを紹介します。司法制度に対する批評性を備えた『Legal Dungeon』、プログラミングをパズルゲーム化した『BABA IS YOU』、そして今年最大の話題作『デス・ストランディング』の緻密なゲームデザインについて論じます。
    2019年の「推し」ゲーム三選
     2019年は2018年と比べると、私の時間があまりなかったせいもあってか昨年ほどまでには良いゲームとのめぐり合わせがなかったのだが、今年も「推し」のゲームをいくつか、紹介させてもらいたい。  まず、本題に入る前に、印象に残ったゲームをざっと挙げておこう。  ゲーマーコミュニティに大きな話題を読んだ作品としては『リング・フィット・アドベンチャー』『フィット・ボクシング』『ACE COMBAT 7 SKIES UNKNOWN』『デス・ストランディング』は、確かに革新的と言えるポイントがあった。  また、オープンワールドの元祖と言っていいのか、中興の祖というべきか、『シェンムー』シリーズの最新作『シェンムー3』もリリースされ、出来上がりの水準についてさまざまな評価はあったが長年の同シリーズのファンとしては感慨深い。  インディーズ作品では、『BABA IS YOU』『The MISSING: J.J. Macfield and the Island of Memories』『Unpacking』『マイ・エクササイズ』『HEADLINER』『Legal Dungeon』など今年も素晴らしい作品に数多く出会うことができた。  純粋なデジタルゲーム作品以外にも言及しておくと、アナログゲームでは、なかなか遊べていなかった米光一成による『はぁって言うゲーム』は、人々の言語表現の多義性を見事にすくいとった作品として、優れたものだった。また、ICCで開催されたデジタルゲームの展覧会「イン・ア・ゲームスケープ」展はデジタルゲームがいかにファインアートの文脈の中で再構成されうるかの可能性を端的に示してくれるエポックメイキングなものになっていた。
     さて、本年は、この中から『Legal Dungeon』『BABA IS YOU』『デス・ストランディグ』の三本を取り上げておきたい。  とは言え、まだ『SEKIRO』『CONTROL』など、遊ぼうと思いつつも時間がとれていない作品があるので、例によって網羅的にやっているとは言い切れないこと、また致命的なネタバレではないものの序盤についてのネタバレは含んでいることは予めご了解いただきたい。
    組織におけるインセンティブの表現:『リーガル・ダンジョン』
    ▲『Legal Dungeon』
     近年、社会的な問題をゲームのメカニクスとして抽象化し、再現するという作品が確固としたジャンルを構築しつつある。昨年は、カナダのNicky Caseの作品群を挙げたが、今年はこの路線では、韓国のインディーゲーム作家であるSOMIの作品を挙げたい。  前作『Replica』(2016)では、権力者の側から、テロリストとして疑われた若者の情報を集めるというアドベンチャー作品だった。
    ▲『Replica』
     今作『リーガル・ダンジョン』も、権力者の側からの制度の危うさを問題とした作品となっており、プレイヤーは警察官となって被疑者の書類を整備する仕事をする。 「被疑者の書類整備」というと、いかにも地味に聞こえるかもしれれないが、そんなことはない。実質的には、この作品における警察は検察官の役割を果たしている。被疑者を軽犯罪として裁くのも、重犯罪として裁くのも、プレイヤーの裁量で決めることができる。そして、適切な法の運用をすることが評価されるだけでなく、いかなる形であれ重犯罪者を多く挙げても評価がされるようになっている。コアとなるゲームメカニクスは、『逆転裁判』や『ダンガンロンパ』のようなものに概ね近いものと思ってもらえればよいだろう。  プレイヤーの裁量によって、公正であるべき制度が歪んでしまいうることを表現しようとしたゲームは少なくない。インディーゲーム界隈における社会批評的な領域を切り開く記念碑的作品となった『Papers, Please』では、入国審査官となってチェックをしていくというものだし、先に挙げた『HEADLINER』は新聞社のデスクとなって新聞報道のありようを任意に操作することができてしまう。
    ▲『HEADLINER』
     我々の世界の「公正であるべきもの」が、いかに貧弱な組織構造によって成立しているか、という点では、これらの作品は共通したテーマを表現し、「公正さ」を要請される役職者がいかにさまざまな現実的な利害関係のトレードオフの中での葛藤を突きつけられているかということを擬似的に体験させてくれる。  現実のシュミレーションとして、ジレンマ状況を体験させる教育用のゲームなどは今までもあった(たとえば、防災ゲーム『クロスロード』)し、『逆転裁判』をよりシリアスゲーム風味にした作品もあった。たとえば、『有罪×無罪』などは陪審員として裁判に参加するゲームだが、事件とへと関わらせる展開のさせ方も丁寧につくられている。
    ▲『有罪×無罪』
    『Legal Dungeon』は、こうした作品の系譜のなかでも、いくつかの重要な達成を成しているが、一点だけに絞るならば、小さな権力者であるプレイヤーにどのような社会制度的なインセンティブが与えられているか、を強力に示していることだろう。
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  • 井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 番外編 並列するゲーム的コミュニティ

    2019-11-25 07:00  
    550pt

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は番外編として、キーボード配列のカスタマイズ文化について考察します。キーボードの設計・自作は「沼」と呼ばれるマニアックな世界ですが、そこではインターネット黎明期を思わせる、濃密で快適なコミュニケ―ションが展開されているようです。
     いま、この原稿を20gに換装したgateronクリア軸にしたzincで書いている。  配列は、飛鳥配列を40%用にセルフカスタムしたものを使っている。
     ………こう言われても、何のことか理解できる人は中々いないだろう。これはキーボードと、キーボードの配列の話だ。  私はここ半年ほどキーボード配列関連の「沼」(マニアのコミュニティ)にはまっている。ここから、沼関連の鉄板ネタを展開することもできるのだが、今回、書きたいのはこの沼の「居心地の良さ」がどのような仕掛けによって成立しているのかについてである。
     キーボード配列についての沼は、おおまかに3つぐらいに分かれている。物理配列沼(自作キーボード沼)、ソフト配列沼、タイパー沼の3つである。どの沼もゲーム、マンガ、アニメなどのオタコミュニティより参入障壁が高い。  とりあえず、そのことだけわかってもらえれば、下記は、いささかオタトーク気味な話になるので、次の小見出しまで、進んでもらってもいい。  この沼に入る動機として一番わかりやすいのは、タイパー(高速タイピング)の沼だ。高速入力ができたらいいな、と考えたことのある人は多いだろう。最近は、音声入力が扱いやすくなったため、かなり速く入力できるようになったが、固有名詞や専門用語が多い話になると、まだまだ、物理キーボード入力のほうが早い。究極レベルのタイパーは、テレビの字幕放送などの速記者たちで、彼/彼女らは、StenoWordという特殊なキーボードを用いて、恐ろしい速度で文字入力を達成している。たとえば、「コミュニケーション」と打つのに、QWERTYローマ字ならば、「kommyunika-shon」と15回ほどキーを打たなければならない。親指シフトやカナ入力なら9打。それが、StenoWordならば、たった一回の打鍵で打てる。StenoWordは、頻度の高い数千の単語を予めシステム的に登録してあり、複数のキーを同時押しすることで一発で打てる。ただ、このレベルのタイパーになるには、学習コストが半端ではなく、数年間の修行が必要になる。ここまで、いかなくともQWERTYや、カナ入力でのタイピングの大会でランキングに残るような成績にいる人々は、かなり熱心なトレーニングを日々積んでおり、これはかなり、eスポーツ的な世界になっている。タイピングの国内大会である、Realforce Typing Championshipなどは、決勝動画をYouTubeで見られるが、e-Sportsの世界の一種だと言ってしまって問題がなさそうな雰囲気が漂っている。  2つめは、物理的にキーボードの配列を設計・自作する沼である。エルゴノミクスキーボードなどでイメージされるような変わった形状のキーボードを設計したり、作りたい人たちが集っている。この沼が盛り上がりはじめた直接的な理由は、技術プラットフォームの構造変化のためだ。メカニカルキーボードの世界的企業だったCherry社の特許が切れたことで、2010年代中盤から安価な中華系キースイッチが登場しはじめ、「自作キーボード」や「自キー」というキーワードで、日本では、特に2018年ぐらいから本格的に盛り上がっている。個人が設計したキーボード組み立てキットを、ネット経由で簡単に手に入れられるようになった。この沼に入ることによる、即物的な御利益がなにかあるかというと、肩こりがよくなることが多い。ちなみに、下記は、マイ・キーボードの写真である。

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