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  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第7回 〈鉄人28号〉から〈マジンガーZ〉へ――戦後ロボットアニメは何を描いてきたか

    2017-07-24 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。 今回からはロボットアニメがテーマです。日本独特の「乗り物としてのロボット」が生まれた経緯を『鉄人28号』『マジンガーZ』という草創期のヒット作から紐解きます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです/2016年8月5日に配信した記事の再配信です)。

    戦後日本で奇形的な進化を遂げた「乗り物としてのロボット」
     今日はロボットアニメについて講義をしていきたいと思います。
     日本の戦後アニメーションにおいて、ロボットは中心的なモチーフでした。ロボットアニメの歴史を追うことによって、戦後アニメーションが何を描こうとしてきたのかが見えてくると言っても過言ではありません。ところが、日本の戦後アニメーションが描いてきたこの「ロボット」はちょっと変わっている。今日はそこから話していきたいと思います。

     ここに日本のアニメーションを代表する「ロボット」たちが並んでいます。
     鉄腕アトム、鉄人28号、マジンガーZ、ガンダム、そしてエヴァンゲリオン――みなさん、どうですか? 実はこの中に厳密には「ロボット」とはいえないものが混じっています。どれかわかりますか?
     正解は、鉄腕アトム以外全部「ロボット」ではありません。ほかは全部、「ロボット」ではなく人型の道具で、マジンガーZ、ガンダム、エヴァンゲリオンは「乗り物」です。実は戦後アニメーションは厳密な意味では「ロボット」をほとんど描いてこなかったんです。
     そもそも「ロボット」とは何でしょうか。実はロボットの定義とは、「人工知能をもち、自律的に動くもの」です。だから鉄腕アトムはロボットだけれど、リモコンで動く機械である鉄人28号はロボットではないし、ガンダムに至っては「人型の乗り物」にすぎません。逆に、現代では人型をしていなくても人工知能で制御されていればロボットだと分類されていますね。
     特にこの「乗り物としてのロボット」は日本アニメーションの発明です。要するに、戦後アニメーションは間違ったロボット観を普及させてしまって、その結果日本人のほとんどが「ロボット」とは何か、そもそも分からない状態になってしまっていると言っていいでしょう。ただこの「乗り物としてのロボット」が20世紀の映像文化やその周辺のサブカルチャーに与えた影響は絶大で、たとえば2013年に公開され話題になった『パシフィック・リム』というハリウッド映画では「乗り物としてのロボット」が出てきますが、これは監督のギレルモ・デル・トロが日本のアニメや特撮に強く影響を受けているからですね。
     本来は人工知能の夢の結晶だったロボットに対して、「乗り物としてのロボット」というまったく別の文脈を与え、奇形的な進化を遂げたのが日本のロボットアニメなんです。今日はその歴史を考えていきたいと思います。
     みなさんは「ロボット工学三原則」を知っていますか? アイザック・アシモフという20世紀のSF作家の『われはロボット』(早川書房、2004年)という有名な小説に出てくる、科学者がロボットを作る上で守るべき三つの原則で、こういう内容です。

    第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
    第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
    第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

     この原則は、人工知能が暴走して人類や社会に害をなしたり事故を起こすことのないように考え出されたものです。科学技術が飛躍的に進歩し、人類がコンピュータを生み出した1950、60年代には「科学の力で疑似生命を生み出すことができるんじゃないか?」という期待が膨れ上がっていました。そういう状況のなかで、SF小説でロボットがテーマとして扱われるようになります。そうなると必然的に「擬似生命を生み出せるというのは、人間が神になるってことじゃないか?」「ロボットが自由意志を持ったとき、本当に社会に有用なものになるのか?」「本当に人間にとって友好的な存在になるのか?」という問いも生まれていくんですね。人工知能の正の可能性、負の可能性の両方を検討するなかでSF小説が発展していったんです。
     ところが、ロボット工学三原則が代表する20世紀的な人工知能の夢というテーマは、少なくとも戦後のロボットアニメというムーブメントの中では主流になることはありませんでした。初の国産アニメーションである『鉄腕アトム』は、人工知能の夢を正面から扱った作品です。そこには、人間が人工知能を生むことによって生命を創りだすことができるのか、つまり「人間は神になることができるのか?」という問いや、ロボットの人権や政治参加といったテーマ、あるいは人工知能が独自の意志で人類に反乱を起こすといったエピソードが頻出します。少なくともその誕生時において、日本のアニメーションは正しく「ロボット」と向き合っていた。しかし、そんな時代はすぐに終わってしまいます。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第25回 〈近さ〉から〈遠さ〉へ――48Gの停滞と坂道シリーズの台頭【金曜日配信】

    2017-07-21 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、10年代半ば以降の48Gの停滞、坂道シリーズの台頭で見えてきた、今後のアイドルカルチャーの課題を語ります。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    ブレイク後のAKBに立ちはだかる「戦後日本の芸能界」という壁
     AKB48が停滞してしまった理由のもうひとつは、やはり「慣れ」でしょう。昔は多くの人が「人気投票でアイドルを選抜し、それにファンが盛り上がるなんて常軌を逸している」と思っていた。ところが、もうみんな慣れてしまったし、後発のアイドルたちもみな似たようなことをやるようになって、珍しさが薄れてしまった。アイドルの選抜総選挙という特異なシステムによってAKB48は注目を集めることができたけれど、今はそうではなくなっているわけです。
     それと、実は地方展開もあまりうまくいっていません。もちろんSKEもNMBもHKTも、他のアイドルよりははるかに売れているし動員力もある。でも結局のところ、指原莉乃が象徴するように、芸能界で生き残っていくには東京のメディアに出て、〈テレビタレント〉になるしかないわけです。昔ながらの戦後日本の芸能界の構造を、48グループは結局は崩すことができていない。地方グループの人気メンバーになるより、東京のAKBの不人気メンバーでいるほうが有利なんです。SKEなんかは、いつ崩壊してもおかしくない状態です。
     それと、規模の問題も大きくなっています。僕が好きになった頃は推しメンに100票入れるだけでも順位が変動するような状況だったんです。ところが今では総得票数が何百万票になっていて、1位の指原なんて24万票ですから、1人の人間が投じられる票数で状況を変えることが難しくなっている。そのことも停滞の原因になっています。まあ、これはゲーム設計の問題だから仕組みで対応できると思うのですが。
     総じて言えるのは、テレビの問題が大きいということです。たとえば最近の総選挙では中継の演出ひとつとっても仕掛けがすべてテレビバラエティ的になってきています。「にゃんにゃん仮面」とかね(笑)。
     〈ライブアイドル〉というジャンルを作ったのはAKBなんだけれど、ある程度の規模を維持しようと思ったら指原=〈テレビタレント〉にならざるをえず、結局は昔のテレビカルチャーに回帰していくしかない――だとしたら、これまでAKBがやってきたことは何だったのか、ということになります。
     さらに、秋元康も自信を失っていると思いますね。AKBはもともと高校野球とかと同じで、若い子たちが過酷なゲームを戦わされて、喜んだり傷ついする姿を僕らが見て楽しむというリアルドキュメントだった。でも、今のAKBは自然発生するドラマだけではもう人々の関心を引きつけることはできないのではないか、という認識がある。だからテレビバラエティ的な「仕掛け」が多くなっているのだと思います。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第24回 AKB48は〈戦後日本〉を乗り越えられたか【金曜日配信】

    2017-07-14 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、ゼロ年代末に社会現象となっていったAKB48の軌跡を振り返ります。〈ライブアイドル〉として出発したAKBが、やがてぶつかることとなった「壁」とは?(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    ブレイク期のAKBを象徴する「大声ダイヤモンド」「RIVER」
     AKBは大手レコード会社「キングレコード」に移籍し、やがてメジャーな存在になっていくのですが、同時に地方展開も始めています。その時期を象徴する曲が、2008年の「大声ダイヤモンド」です。
    (AKB48「大声ダイヤモンド」映像上映開始)


    (画像出典)
     MVの最初のシーンで階段を駆け上がっているのが、新しく名古屋にできた「SKE48」のセンター、当時小学5年生の松井珠理奈ですね。「これからAKBはマスメディアに打って出ていくぞ」「地方展開もしていくぞ」ということが象徴的に表現されています。MVの内容は、普通の女子高校生たちが様々な障害を乗り越えて学園祭での出し物を成功させていくというストーリーで、まさにAKBの売りである「親しみやすさ」という立ち位置が表現されています。
     このあたりから、秋元康の書くAKB48のシングル曲の歌詞には「僕」という一人称が増えていきます。アイドルソングとしては「私」という女の子の目線から相手の男の子のことを想う歌詞が王道なのですが、これはその逆になっている。これはどういうことかというと、要するに参加型のアイドルであるAKB48では、アイドルは疑似恋愛の対象であると同時に自己同一化の対象なんですね。アイドルとファンが一丸になってこの社会をのし上がっていく、そんな構造を歌詞で表現しているわけです。
     そしてこの時期AKB48は現場+インターネットで培った勢いをベースに、2009年くらいからテレビに出ていき、一気にメジャー化していきます。そのときに秋元康が勝負曲として彼女たちに与えたのが、「RIVER」という曲です。
    (AKB48「RIVER」映像上映開始)


    (画像出典)
     かつて1989年に秋元康は、美空ひばりの生前最後の曲である「川の流れのように」を作詞しています。ここでいう「川」は戦後日本の比喩なんです。美空ひばりは「昭和」を象徴する歌姫で、この曲の歌詞には「戦後っていろいろあったけれど、トータルに見れば経済発展したし平和になったし、良かったよね」という感慨が込められている。戦後日本という「川」に、「おだやかに身をまかせ」ることを肯定する曲なんですね。
     そして「RIVER」は、20年前の「川の流れのように」へのアンサーソングなんです。川=戦後日本を若者たちに立ちはだかる障壁に見立て、その古い時代を乗り越えていこう、という歌詞になっています。秋元康は、そういう歌詞の曲を、自分の勝負企画であるAKBに歌わせた。「この先、AKBは古いものを終わらせてどんどん拡大していくぞ」と宣言しているわけです。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第23回 〈メディアアイドル〉から〈ライブアイドル〉へ――情報環境の変化とAKB48のブレイク【金曜日配信】

    2017-07-07 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は90年代末〜ゼロ年代半ばのアイドルシーンを扱います。モー娘。やPerfume、AKB48のブレイクを、世相や情報環境の変化と絡めて論じます。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    歌謡曲的なアプローチを復活させたモーニング娘。
     しかしそんななかで、90年代後半に出てきて時代を席巻したのが、つんく♂がプロデュースするモーニング娘。とハロー!プロジェクトでした。モーニング娘。はテレビ東京の「ASAYAN」というバラエティ番組から出てきたのですが、やっていることは「夕やけニャンニャン」とほぼ同じで、オーディションの過程からすべてテレビで放映していく、〈楽屋〉を意図的に半分だけ見せるというものでした。半分虚構、半分現実みたいなもので、ある程度作っているところも当然あります。
     今って新しいアイドルが出てくると、みんながその人のTwitterをフォローしてどういう人間かを見ますよね。そういうものが、この当時はまだない。カメラがオーディションに入っていって、アイドル(候補)の表情だけを見せて、親近感を演出したわけです。モーニング娘。はそういった〈楽屋〉を半分だけ見せるという手法を使って人気を得ていったという意味では、ネット以前の最後のアイドルだといえます。
     それと、モーニング娘。は歌番組ではなくミュージック・ビデオ(MV)を重視していました。当時すでに歌番組の衰退が始まっていて、プロモーションツールとしてMVが重要になっているんです。
     もうひとつ特徴的だったのは、つんく♂が明確に「70年代、80年代の歌謡曲を今風にアレンジして復活させたい」と言っていたこと。代表曲である「LOVEマシーン」の歌詞を見るとそれがすぐにわかります。
    (モーニング娘「LOVEマシーン」映像上映開始)

    (画像出典)
     これは、当時日本が右肩下がりになり始めていて「このままズルズルいくとヤバいよね」という空気がある中で、もう一回社会を勇気づけようというコンセプトの曲でした。〈自分の物語〉ではなく〈社会の物語〉を歌うというのは非常に歌謡曲的なアプローチですね。だから「LOVEマシーン」は若者だけでなく中高年男性などの幅広い世代に受け、大ヒットになりました。僕より少し上の40歳くらいの人は、会社の忘年会の出し物で無理やりこれを踊らされた人がすごく多いと思います。
     僕は「スッキリ!」という朝のワイドショー番組にコメンテーターとして出ていますが、毎回、芸能人の内輪ネタクイズをやっていて、まったく興味が持てないんです。ああいったものは「世界の人間はすべてテレビを見ていて、テレビ芸能人が好きなはずだ」という謎の前提をもとに作られています。僕はそもそもバラエティ番組を見ないから基本的に芸人やタレントを知らないですし、ドラマは好きだし役者の演技に興味はあるけど、プライベートには興味がない。普段からテレビをつけっぱなしにしていて、バラエティをだらだら見る習慣のない人にとって、芸能人の芸はわかるけれどもキャラクターはわからない。だからああいう芸能界内輪トークみたいなものばかり見せられると冷めますよね。今のテレビの製作者はそういうことをまったくわかっていません。
     80年代のテレビバラエティが芸能界のタレントたちの内輪話、楽屋ネタばかりをやっていたのは視聴者に親近感を与えるためで、しかもそういう手法は当時としてはトリッキーで斬新だったんです。しかし、今のテレビ製作者は、「テレビ=芸能界の内輪話をするもの」だと思いこんでしまった。80年代のテレビバラエティがどういうロジックで作られているものだったのかという前提を知らないまま、製作者になってしまったんですね。今ではテレビは新しいお客さんを作ることに失敗していて、最初からテレビが好きなお客さん以外は楽しめないものになってしまっている。これは非常に悲しいことですね。

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  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第6回 坊屋春道はなぜ「卒業」できなかったか――「最高の男」とあたらしい「カッコよさ」のゆくえ

    2017-07-03 07:00  
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    ご好評をいただいている特別再配信、今回は本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』です。『クローズ』『頭文字D』を題材に、男性向けマンガが切り拓いた新境地とその限界について論じます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年4月29日の講義を再構成したものです/この記事は2016年7月22日に配信した記事の再配信です)。
    宇野常寛が出演したニコニコ公式生放送、【「攻殻」実写版公開】今こそ語ろう、「押井守」と「GHOST IN THE SHELL」の視聴はこちらから。
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    『クローズ』とヤンキーマンガのカッコよさ
     さて、前回までは「週刊少年ジャンプ」を中心に少年マンガと戦後日本人の「成熟」感、とりわけ消費社会下の男性性の問題について考えてきました。
     そしてここからは少し角度を変えてこの問題を掘り下げていきたいと考えています。その上で僕がとても重要だと考える作品があります。それは高橋ヒロシの『クローズ』です。いわゆる「ヤンキーもの」のマンガですね。1990年から1998年まで「月刊少年チャンピオン」で連載されていた全26巻のちょっと長い作品です。最近は『クローズZERO』(2007年)で小栗旬、『クローズEXPLODE』(2014年)で東出昌大の主演で話題になったので、知っている人も多いと思います。
     やたらめったらヤンキー高校生が出てきて、延々と派閥抗争を繰り広げる例のアレですね。舞台は鈴蘭高校という、とある地方都市の底辺校です。この鈴蘭高校は「カラスの学校」と呼ばれる不良たちの掃き溜めで、ここでは生徒の大半を占める不良少年たちがいくつかの派閥に別れて、高校の支配者の座をめぐって十年以上ものあいだ抗争を繰り返しています。そして鈴蘭周辺の高校の不良少年グループもこの抗争に外側から干渉し、ほとんど戦国時代のような様相を呈しています。しかも抗争が激しすぎて、この鈴蘭高校は史上まだひとりも校内の派閥を統一した「番長」が生まれていない。こうやって改めて紹介するとなんだか笑ってしまいますが、僕はこのマンガこそが、これまで議論してきた少年マンガと戦後の男性性の成熟の問題を、決定的なかたちでえぐり出してしまっていると考えています。そしてこの『クローズ』はヤンキーマンガに革命を起こしたと言われています。
     では、この『クローズ』のどこがすごいのか。
     まず、このマンガには「大人」がまったく出てきません。それまでの70、80年代のヤンキーマンガは「大人社会へ反抗する」ということを中心的なモチーフにしていました。不良は大人社会に対するカウンター的な存在だったわけです。
     ところが90年代の『クローズ』になると、「大人への反抗」というモチーフがなくなってしまうんです。第1話で主人公が転入手続きをするシーン以外、先生が出てこない。ほかに働いてる普通の大人の人も、OBのおじさんがひとり、たまに顔を出すだけでほとんど出てこないんです。そして次に「女子」がまったく出てこない。
     このふたつはとんでもないことです。要するに『クローズ』の世界には「超えるべき父」も「守るべき女」もない。かつてのように目指すべき大人や、超えるべき「父」は、もうこの世界には存在していない。かといって「女の子をゲットする」ことで男の証を手に入れようとしても、この世界には「女の子」がいないのでそれも不可能です。
     つまり『クローズ』では、昔のような「強くたくましくなり、父を超えて女を守る」という従来のマチズモが信じられなくなった時代のヤンキーもののマンガだったと言えます。その結果、大人社会へ反抗するのではなく不良少年同士の抗争だけが描かれることになった。
     さて、その『クローズ』の物語は主人公の坊屋春道が鈴蘭高校に転校してくるところからはじまります。この主人公の坊屋春道のもつ「カッコよさ」こそが、この作品のメッセージそのものだと言えるでしょう。
     その春道が第1話で「お前は何者だ?」と尋ねられます。そこで春道はこう返すんですね。「オレはグレてもいねーしひねくれてもいねぇ! オレは不良なんかじゃねーし悪党でもねえ!!」と。ヤンキーマンガの主人公がこれを言っちゃうのはすごいですね。大人社会への反抗としての不良、ヤンキーというものがこの時点で全否定されている。
     この時点で作者の高橋ヒロシが、かつてのヤンキーマンガを捨て去り、新しいヤンキーマンガを始めようとしていることが明確にわかります。不良でもなければ悪党でもない、この少年をヤンキーマンガの主人公にしたのは、当時としては画期的でした。では坊屋春道というあたらしいヤンキーがどんな男の「カッコよさ」を示していったのか、見ていきましょう。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第22回 〈テレビアイドル〉の最終兵器としてのおニャン子クラブ【金曜日配信】

    2017-06-23 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、80年代半ばのおニャン子クラブの登場から、「歌謡曲からJ-POPへ」移り変わるなかで拡散していく90年代のアイドルシーンを振り返ります。 (この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    おニャン子クラブの衝撃とアイドルブームの終焉
     角川三人娘が活躍したのとほぼ同時期、80年代半ばに大ブームを起こしたのが、秋元康プロデュースのアイドルグループ「おニャン子クラブ」でした。
    (おニャン子クラブ「セーラー服を脱がさないで」映像上映開始)

    (画像出典)
     知っている人も多いと思いますが、AKB48の原型となったのがおニャン子クラブです。ほとんど素人に近いような女の子が何十人もいるという形態ですね。まあ、身も蓋もないことを言えば人の好みは様々ですが、何十人か揃えておけば、好みのタイプの女の子が一人ぐらい見つかるでしょ、ということで大人数になっているんですが、それ以上に重要なのはこの「普通さ」「素人っぽさ」です。それが「作り込まれていない本物」感として人々を惹きつけたわけです。
     おニャン子クラブは、「夕やけニャンニャン」というフジテレビのバラエティ番組から生まれています。歌番組ではなく「バラエティ番組」、というところがひとつの特徴ですね。当時フジテレビは非常に勢いがあって、「オレたちひょうきん族」があって「笑っていいとも!」があって、そしてこの「夕やけニャンニャン」がある。これらの番組の共通点は、「内輪感」です。楽屋でタレントかアイドルがしている芸能界の内輪話があえてそのまま放送されていた、というところが画期的でした。
     普通に考えたら「お前たちの内輪話なんて知らないよ」ということになりそうですが、そうではないんですね。東京の芸能界で楽しそうにやっている人たちの内輪話を眺めることで、視聴者は一見遠くにある東京の芸能界を身近に感じることができる。自分もテレビ番組のなかに入っているような錯覚が感じられるわけです。これは当時大流行した手法でした。「笑っていいとも!」とかを毎日見ていると、自分もその一員になったような気がしてきますよね。いまのテレビのバラエティ番組って、当たり前のように芸能人同士がキャラいじりとか内輪話をたくさんしていますが、あれはこの頃生まれた手法なんです。
     80年代当時、まだそれほどグローバル化も進んでいないなかで、一番かっこいい世界は東京のメディアの「ギョーカイ」でした。出版、放送、広告ですね。比喩的に言えば「東京でテレビの仕事をしている」というのが一番かっこいい時代だったから、テレビ業界人たちが楽しく集まって内輪トークをしているのがすごく輝いて見えたわけです。たとえば当時の「ギョーカイ」のスターとして糸井重里がいますが、彼が作っている雑誌の投稿欄に、一般読者と同じ感じで糸井重里が自分の意見を載せたりするんです。糸井重里は編集する側なのに、ですね。そういった手法によって、「糸井さんと僕たちは友達なんだ」という感覚を一般読者にも感じてもらうような仕掛けになっていた。
     「夕やけニャンニャン」は、アイドルをオーディションで選んでいく段階すらもテレビで放映してしまっていた。素人に近いような、どこにでもいそうな女の子たちがアイドルデビューしていく様子を見守るわけです。彼女たちはとんねるずとかと一緒に、なんでもない他愛のない内輪話をしているんですが、その楽しそうな様子を観ることでみんながアイドルたちのことを好きになっていく。あえて〈楽屋〉を半分見せることによって、視聴者の親近感を得る。これが80年代のフジテレビ的な演出手法の特徴で、その後のテレビバラエティの演出のひとつの大きな流れになっていきます。

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  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第5回 補論:少年マンガの諸問題

    2017-06-19 07:00  
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    「特別再配信」の第10弾は『京都精華大学〈サブカルチャー〉論講義録』をお送りします。今回は、前回までの少年マンガ論の補論です。部数的なピークを過ぎた「週刊少年ジャンプ」が、自身を題材にすることで、ある種の限界を露呈してしまった『バクマン。』。そして、高橋留美子の『うる星やつら』の世界、ラブコメの母胎的な箱庭を相対化した、押井守の映画『 ビューティフル・ドリーマー』について取り上げます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年4月29日の講義を再構成したものです)。
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    『バクマン。』の七峰くんは本当に「悪」なのか?
     さて、ここまで「週刊少年ジャンプ」を中心に少年マンガについて考えてきました。「少年ジャンプ」の歴史はこの国の消費社会の歴史でもあり、とくにその中で「成熟」や「老い」という問題が作家や編集者の意図を超えたところで現れてしまっているところがあります。
     ただ、僕が最近強く感じるのは現在のジャンプは、この授業で取り上げたようなかつてのものからはかなり変わりつつあるように思います。たとえば最近『バクマン。』の映画版がヒットしていましたよね。この作品は『DEATH NOTE』を送り出した大場つぐみと小畑健の原作、作画コンビが自分たちの体験を素材にしたマンガで、主人公はマンガ家を目指す二人組の少年です。舞台はそのものずばり集英社の少年ジャンプ編集部で、彼らは次々と交代する担当編集者と格闘し、そして毎週の読者アンケートの結果に一喜一憂しながら作家として一本立ちしていく。なかなかよく出来た作品で、二人の少年がプロデビューしていく過程がそれこそ「少年ジャンプ」のバトルマンガのようにスピーディーでメリハリの効いた展開で描かれています。マンガ家の世界も分かりやすく紹介されていて、知識欲も程よく満たしてくれる。しかし、端的に言ってこれって「ジャンプ礼賛マンガ」になってしまっている感は否めない。
     たとえば、主人公たちの最大の「敵」に設定されるのは、「七峰くん」という同世代の少年マンガ家です。彼は外部スタッフを活用して組織的に、そして集合知的に作品を作り上げていくスタイルを採用しているのだけど、なぜか『バクマン。』では彼のスタイルは「卑怯なこと」であるかのように描かれてしまっている。
     でも、僕には考えれば考えるほど、七峰くんのどこが悪なのかさっぱり分からない。っていうか七峰くんのやっていることって、「マガジン」の手法ですよね。もっと言ってしまえば樹林伸の手法です。彼は外部のスタッフを含めた集団によるマンガ制作のノウハウを確立しようとした。しかしジャンプは作家主義を貫いてきたことにプライドを持っている。だから七峰くん=マガジン的な手法はすごく嫌いなんですね。要するにライバル雑誌のノウハウを「悪」として描くことでこの作品は成立している。これはちょっとかっこ悪いんじゃないか、というのが僕の正直な感想です。「自分たちの歴史最高!」とか「僕らが今まで積み上げてきたものをリスペクトしなさい」って自分で言うのってカッコ悪くないですか?

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第21回 テレビ文化へのカウンターとしての角川三人娘

    2017-06-08 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、80年代アイドルブームのもうひとつの側面を語ります。テレビではなく映画を主戦場とした「角川三人娘」が日本アイドル史に与えたインパクトとは?(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    斉藤由貴、南野陽子、浅香唯を輩出した『スケバン刑事』
     アイドルブームと80年代の空気感をもう少し味わってみてほしいので、この映像を観てみましょう。
    (『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』映像上映開始)

    ▲スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説 VOL.1 [DVD] 南野陽子 (出演), 相楽ハル子 (出演) 
     これは1985年から3年間やっていた『スケバン刑事』というドラマシリーズですね。原作は和田慎二による少女漫画で、主人公はスケバンだけど実は政府の密命を受けて刑事として活動している、というお話です。
     ドラマでは初代が斉藤由貴、二代目が南野陽子、三代目が浅香唯が主演でした。これは二代目ですね。主人公は五歳の頃から悪の組織に鉄仮面を被せられてしまっていて、やがて自分の両親を殺した悪の組織に立ち向かっていくというストーリーです。「重合金ヨーヨー」っていう特殊な合金で作られたヨーヨーを使って敵を倒していくんですね。当時のトップアイドルが主役を演じて、アクションシーンはだいたい吹き替えでやっています。
     で、このドラマが子どもに大受けして、僕が小学生の頃はクラスでヨーヨーが流行ってました。このドラマのせいで当時の小学生はヨーヨーは人に投げつけるものだと誤解してましたね(笑)。あと、南野陽子演じる主人公は高知出身という設定で「おまんら、許さんぜよ!」って土佐弁っぽい、坂本龍馬っぽい喋り方をするので、みんな間違った土佐弁を喋ったりしてましたね。
     このドラマはフジテレビと共同で東映が制作して、大野剣友会も関わっていて、つまり昔の『仮面ライダー』のスタッフと近い人たちが作っていたんです。だからアクションは全部吹き替えです。「馬鹿馬鹿しいことを全力でやることが一番かっこいい」という、当時のフジテレビを代表格とする80年代の文化を、ここにも見て取ることができると思います。
     主人公側は南野陽子を含めた三人組で敵と戦うんですが、主題歌(「なぜ?の嵐」)はそのうちの一人で当時おニャン子クラブに在籍していた吉沢秋絵が歌っていて、作詞は秋元康です。
     三作目(『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』)はなぜか忍者ものになっていて、忍者の末裔の三人が敵と戦うという話です。なんで忍者なのかというと、要するに東映が作っていたからです。アイドルという言い訳を駆使して、忍者ものというすでに終わったジャンルを再生しているという側面もあるわけです。
    (風間三姉妹「Remember」映像上映開始)

    (画像出典)
     この『スケバン刑事』の頃はアイドルブームが終わる頃で、そのひとつのクライマックスとして社会現象化したのが「おニャン子クラブ」と「角川三人娘」でした。アイドルブームが続いていくなかで変わり種が出てくるんです。今まで見てきたアイドルは全員基本的には最初歌手としてデビューして、人気が出たら女優もやっていくというルートでした。だから基本的に最初は、歌番組が主戦場だったんです。

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  • 【春の特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第4回 〈ジャンプ〉の再生と少年マンガの終わり

    2017-06-05 07:00  
    540pt

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    6月も続きます!「2017年春の特別再配信」第8弾は「京都精華大学〈サブカルチャー〉論」の第4回をお送りします。『ONE PIECE』『HUNTER×HUNTER』『銀魂』『DEATH NOTE』などの作品を例に挙げながら、90年代の黄金期終焉以降、「週刊少年ジャンプ」が復活するまでの様々な試行錯誤を分析します。(2016年7月1日に配信した記事の再配信です。この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年4月29日の講義を再構成したものです)。 宇野常寛が出演したニコニコ公式生放送、【「攻殻」実写版公開】今こそ語ろう、「押井守」と「GHOST IN THE SHELL」の視聴はこちらから。
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    樹林伸とマガジンの逆襲
     1995年から翌年の96年にかけて、週刊少年ジャンプの黄金期を支えた三大連載が終了し、その直後にライバルであった週刊少年マガジンの発行部数が――ほんの少しの間ですが――ジャンプを追い抜きます。
     この90年代半ばのマガジンの原動力になったのが『金田一少年の事件簿』で、この作品を立ち上げたのがカリスマ編集者として有名な樹林伸ですね。彼は講談社の編集者として、そして事実上の原作者として『金田一少年の事件簿』『シュート!』『GTO』など数々のヒット作を世に送り出しました。その後独立して、「天樹征丸」をはじめとして様々なペンネームでマンガ原作を手がけるようになっていきます。
     この樹林伸という編集者の手法は2つの点で革命的でした。ひとつは一本のマンガ作品をひとりの作家とその担当編集者のタッグで作っていくのではなく、原作者、シナリオライター、作画者といったチームによる制作手法を洗練させたことです。いま挙げた作品の中では『金田一少年の事件簿』がこの手法で制作されています。
     最近映画化もされた『バクマン。』で題材になっていますけれど、ジャンプ編集部はほとんどこういう作り方をしませんね、あくまで才能のありそうな若い作家を編集者が一対一で鍛え上げていくというやり方にこだわっています。ある種の作家主義的な信仰が強いのがその編集方針の特徴です。対してマガジンにはこうした信仰があまりない。『巨人の星』や『タイガーマスク』で60年代後半のマガジンを支えたのが梶原一騎という原作者だったことが象徴的ですが、マガジンには原作者を別に立てたマンガが相対的に多かったし、何より編集者が事実上の原作者として機能するケースが以前から多かったようです。そして樹林伸はこうしたマガジンの編集文化を発展させて、企画のできる編集者、しっかりしたシナリオが書けるライター、絵の上手いマンガ家のチームというスタッフワークで作品を生むシステムを組み上げた。
     たとえば当時、島田荘司を代表格とする「新本格」といわれるミステリ小説の潮流があったのですが、そのノウハウを上手く少年マンガに落とし込んで成功させたのが『金田一少年の事件簿』だった。要するに、隣接ジャンルの流行りものを、ブレーンをつけて調べさせてそれを少年マンガのフォーマットに落とし込めるようにしていったんですね。
     たまたまですが、僕の友人には講談社のマンガ編集者が何人かいて、この樹林伸の弟子筋にあたる人を2、3人知っています。彼らはやっぱり憧れがあるんでしょうね。アイドルだったりゲームだったり、他のジャンルの流行を意識した企画色の強い編集主導の作品を作りたがる傾向があります(笑)。
     そしてこれは彼らから聞いた話ですが、樹林伸が確立したもうひとつの手法が、マンガのコマ割りに関するものだそうです。彼は、独自にコマ割りの演出方法を分析して、その理論を理解すれば経験不足の若手編集者でもマンガ家のコマ割りを必要があればある程度直せる理論を開発した、と言われています。要するに樹林伸という人はマンガに対して、物語やコマというものに対してとても工学的な発想を持っている人なのだと思います。もっと言ってしまえば、究極的には特定の作家の才能に頼らなくても質の高いマンガを作ることができる、と考えているという確信が彼の思想を支えている。もちろん、その思想はまだ完全に実現されたとは言えません。少なくともマンガの世界では、まだまだジャンプが代表する作家主義のほうが主流です。しかし樹林伸のような集団的なクリエイティビティの優位を主張している人たちの存在感は、この頃よりもずっと大きくなっているのは間違いないですね。たとえば、ちょうどマガジンがジャンプに追いつこうとしていた時期に、『トイ・ストーリー』を引っさげて世界をあっと言わせたアメリカのピクサー・アニメーション・スタジオがそれです。ピクサーはいま、事実上の経営統合によって仮想敵だったディズニーを乗っ取り、世界のアニメーションの頂点に君臨しています。あるいは、国内で言えばこの数年、ニコニコ動画やピクシブなどの創作系SNSを舞台にしたボーカロイドなどの二次創作が一大市場を形成するようになっています。こちらは、ピクサーのようなプロフェッショナルによる集団創作というよりは、ソーシャルメディアの特性を活かしたボトムアップの集合知的な創作ですが、どちらにせよ、僕たちが未だに強固に抱いている作家性の神話、とくに個人の天才だけが創作に寄与して集団的な思考はそれを阻害する、という物語はこの時期から内外で大きく相対化されはじめたと言えます。そしてこの時期のジャンプ対マガジンの戦いは、実はその一局面でもあるわけです。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第20回 日本的〈アイドル〉の成立と歌番組の時代

    2017-06-02 07:00  
    540pt

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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回からは「アイドルの戦後史」がテーマです。60年代から徐々に「アイドル」という存在が日本社会に定着し、80年代に一大ブームを迎えていった歴史を辿ります。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    「アイドル」は日本にしかいない?
     今日の講義のテーマは「アイドル」です。この10年くらいで日本のサブカルチャーの中心はすっかりアニメからアイドルに移動してしまった。だから、いま大学生のみなさんの世代にとってはアイドルがサブカルチャーの中心にいるというのは当たり前のことかもしれません。しかしアイドルの歴史をさかのぼっていくと、実は80年代に盛り上がって、そのあと一度下火になったもののこの10年くらいでまた盛り返してきた、という文化だということが分かります。
     みなさんぐらいの年齢の人にはわからない感覚かもしれないですが、僕と同世代だとアニメファンとアイドルファンって仲良くないんですよ。と、いうかアニメファンの中にアイドルを毛嫌いする人が少なくない。アイドルファンのほうに「アニメも好き」という人はたさくんいるんですけれど、逆はそうでもない。アニメファンのなかにはアイドル嫌いが多くて、「三次元は許さん!」とか言ったりするんですね。2ちゃんねるやニコ動にも多いと思いますが、今の30代、40代の男性アニメファンは「二次元のキャラクターにハマるのはいいけれど、三次元にハマるのはよくない」という謎の思想を持っている人が多いんです。僕なんかはアニメも好きだけどアイドルも好きでAKB48関連の仕事もをしたりもしているけれど、「お前はアニオタのくせになぜAKB48の番組に出るんだ、ふざけるな!」って怒られたりします。これはなぜかというと、30、40代の古い世代のアニメオタクにとって、サブカルチャーって「現実から切り離されていること」が重要だからですね。アイドルは半分が現実、半分が虚構の存在です。そういう思想的な反発があるんだと思います。
     では、今のサブカルチャーの中心部であるアイドルとはどういうものなのかを、ここからは話してみたいと思います。
     アイドルという言葉を直訳すると「偶像」ですよね。でも、いわゆる僕らが使っている意味の「アイドル」は日本にしかいないんです。そこでまずはこの言葉の定義から見ていこうと思います。
     まず、Wikipediaの「アイドル」の項目を見ていきましょう。Wikipediaって色んな人の断片的な記述をつなぎ合わせているからいい加減なことも多いんですが、Wikipediaの「アイドル」はよくできていると思います。ここでの「アイドル」の定義はこうです。

    「成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物」
    (アイドル - Wikipediaより) 

     アイドルって必ずしも歌がうまいとか演技がうまいとか、そういうわけではないですよね。ファンはその人の成長過程を共有し、存在自体を応援する。定義的には、「人気者」としか言えないですよね。
     日本の芸能って、こういうものが多いんです。伝統芸能である歌舞伎もそうだし、宝塚歌劇団もそうですが、完成されたプロの芸を受け取るのではなく、未熟なプレイヤーがだんだんとうまくなっていく過程をファンコミュニティが応援する文化なんです。だから日本におけるアイドルというものは、日本的な芸能界の延長線上にある、トラディショナルな概念だと思います。たとえばお隣、韓国のK-POPアーティストはプロフェッショナリズムを徹底しますよね。大陸や半島はこうはならないんです。同じ東アジアでも、日本独自の感覚ですよね。
     アイドルという言葉が日本で使われ始めたのは、Wikipediaに載っているように50、60年代ですね。この時期、アメリカではエルヴィス・プレスリーやビートルズといった歌手たちが大ブームを巻き起こしていて、それが日本にも輸入されて流行しました。向こうで「女学生のアイドル(bobby-soxer's idol)」と呼ばれていた言葉が、日本では和製英語「アイドル」として定着していったわけです。

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