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記事 58件
  • 【特別寄稿】三宅陽一郎「解題『正解するカド』」【PLANETSアーカイブス】

    2020-06-12 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、2017年放送のアニメ『正解するカド』について、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんによる寄稿をお届けします。『2001年宇宙の旅』や『スタートレック』といったSF作品の系譜を継ぐ、正統的な「ファーストコンタクトもの」である本作。異方存在ヤハクィザシュニナの現代性、そして、この物語が最後に辿り着いた「正解」とは?(※注意:本記事には作品に関するネタバレがあります)※この記事は2017年7月12日に配信した記事の再配信です。
    カド
     『正解するカド』は、大ヒットとなったフル3D劇場アニメーション『楽園追放』(2014年)を放った東映アニメーションが、同作品の野口光一プロデューサーの指揮のもと、ユニークな作品群で注目を集める野崎まど氏を脚本に擁し、満を持して放つフル3Dテレビアニメーションである。ゲームエンジンUnity3Dを用いた計算による表現が「カド」の時間結晶運動の表現に用いられている。
     『正解するカド』は彼方からやってくる存在「異方」との出会いの物語である。それは極めて仕組まれた出会いであり、「ファーストコンタクト」と言ってもまったく一方的な出会いである。それは降臨と言ってもいいし「押しかける」と言ってもいいし、あるいは「取り立てる」と言うべきかもしれない。何百億年と異方から長らく宇宙を見守っていた存在が、満を持して会いに来た、そんな出会いなのである。

    図 「正解するカド」設定見取り図
     出現する異次元からの立方体は「カド」と呼ばれる、多次元の存在が幾重にも折りたたまれたフラクタル立方体である。第一話で飛行機をまるごと飲み込んでしまうが、乗客の安全は保障される。飛行機は一つの比喩であり、いつでも地球全体を飲み込めることを暗示している。「カド」は人類を超えた圧倒的な存在であることを証明したのだ。「カド」は3次元の空間ではなく、この宇宙とは異なる物理法則を持つより高次元の存在(3+37次元)である。「カド」によって「異方」より来たりしは「ヤハクィザシュニナ」一人である。その高次元の存在体は、人間の警戒心を抑えるために白い装束に身を包み、真っ白い髪を持つ男性として顕現する。人間の言語を一瞬で学習し、人間とのコンタクトを始める。物語はこのカドを代表する「ヤハクィザシュニナ」と、人類を代表して外務省 国連政策課の交渉官(ネゴシエーター)である「真道幸路朗(しんどう・こうじろう)」との交渉を軸として展開される。

    ヤハクィザシュニナ(1)
     ヤハクィザシュニナの東洋的な姿、そして彼がそこから来た場所である「異方」はその根底に東洋的神話を思わせる。一つの世界に、その世界に属さない客人(まろうど)、あるいは「まれびと」として現れる存在である。世界に新しい兆しをもたらし、去って行く存在である。
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  • 『心が叫びたがってるんだ。』のヒットが示すもの――深夜アニメ的想像力の限界と可能性(石岡良治×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)

    2018-08-27 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』をめぐる石岡良治さんと宇野常寛の対談です。『とらドラ!』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の長井龍雪・岡田麿里・田中将賀が手掛け、興行収入10億円突破のヒットとなった本作と、それを取り巻くアニメ市場の状況。さらに、当時放送が始まったばかりの『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』の展望についても語りました。(初出:「サイゾー」2015年12月号) ※この記事は2015年12月23日に配信した記事の再配信です。
    Amazon.co.jp:『心が叫びたがってるんだ。』 ■ 深夜アニメブームが生み出してしまった「お約束(コード)」
    石岡 『心が叫びたがってるんだ。』(以下、『ここさけ』)は、予告編の段階では、舞台が秩父だったりで『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』【1】(以下、『あの花』)の二番煎じという印象でしたが、結果的には別物でしたね。
    『アナと雪の女王』以降、日本のアニメ業界は『アイドルマスターシンデレラガールズ』【2】や『Go!プリンセスプリキュア』【3】など、プリンセス要素を表面的に取り入れた。『アナ雪』は本当はむしろ、プリンセスモチーフが無効になったことを示していたはずなんだけど。一方、『ここさけ』ではヒロインが憧れるお城を「ラブホテル」というペラペラな空間に設定した。「聖地巡礼」というけれど、実際、北関東でランドマークになるものなんて、こうしたラブホテルぐらいしかないわけです。まず、そうしたところから心をつかまれた。
     登場人物たちの才能が高校生としてちょうどいい、というあたりも重要だと思う。つまり、ありもののミュージカルナンバーに歌を乗せる程度の才能というか。実際にこんな子がいたら高校生としては才能ありすぎなんですが、とはいえあり得なくない程度の才能になっていて、『ウォーターボーイズ』的な“みんなでミッションを成し遂げる”系の部活ものとして作られていた。同時に、あからさまなまでにアメリカの王道ハイスクール映画的な、野球部員とチアリーダーをメインキャラに配置してスクールカーストを取り入れたりして、最後は「順ちゃん、まさかその野球部と付き合うのかよ!?」と、ある種のオタクが怒るような(笑)エンディングになっていた。そこまで含めて、よく研究されていると思いました。
     一方で、深夜アニメというオタクコンテンツ発の作品がどこまで一般向けにリーチするかの、ある意味マックスの限界がここにあると思った。学園ものアニメでシビアなスクールカーストを描くと、『響け! ユーフォニアム』【4】みたいに「実写でやれ」と言われてしまったりするけど、『ここさけ』を実写にすると、ヒロインの成瀬順がイタすぎて見てられないだろうな、と(笑)。『あの花』の実写版はわりと評判が良かったですが、やっぱりヒロインのめんまだけはコスプレにしかなっていなかった。『ここさけ』では順がそういうキャラクターで、どう考えてもアニメの住人。だからこのキャラがいければOKなんだけど、全然受け付けないと完全にアウトっていう。

    【1】『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』放映/フジテレビ系にて、11年4~6月放映、13年劇場版公開:幼い頃は一緒に遊んでいた「じんたん(仁太)」「めんま(芽衣子)」「あなる」「ゆきあつ」「つるこ」「ぽっぽ」の6人。しかしめんまの突然の死をきっかけに距離が生まれ、高校進学時には疎遠になっていた。ひきこもりになった仁太のもとにめんまが現れ、「願いを叶えてほしい」と告げる。アニメファン以外からも人気を獲得し、秩父は「聖地巡礼」の代表格として扱われるようになった。
    【2】『アイドルマスターシンデレラガールズ』放映/TOKYO MXほかにて、15年1月~:バンダイナムコによるソーシャルゲームを原案に、今年1月からアニメ化。「シンデレラ」をキーワードに、アイドル養成所に通う少女たちの奮闘を描く。
    【3】『Go!プリンセスプリキュア』放映/テレビ朝日にて、15年2月~:2015年の『プリキュア』シリーズ作品(10代目プリキュア)。「プリンセス」をキーワードにした、全寮制の学園モノ。
    【4】『響け! ユーフォニアム』放映/TOKYO MXほかにて、15年4~6月:シリーズ3作累計18万部発行のティーンズ小説を、京都アニメーションがアニメ化。弱小高校の吹奏楽部で部活に励む高校生たちの姿を、リアルな青春ドラマとしてシリアスに描くことを志向していた。

    宇野 『ここさけ』は、岡田麿里【5】がこれまでやってきた10代青春群像劇の集大成だと思うんですよ。例えば『true tears』【6】では、オタクが持っている“不思議ちゃん萌え”の感情を利用して、自意識過剰な女の子の成長物語を効果的に描いてきた。あのヒロインが主人公にフラれることで、逆説的に自己を解放するというストーリーは今回も若干アレンジされて使われている。あと「鈍感なふりをすることが大人になること」だと勘違いしちゃったハイティーンの青春群像劇、という要素は『とらドラ!』【7】の原作にあったもので、それを岡田さんはうまく自分のものにした。そして『あの花』では、近過去ノスタルジーを描くには、実写よりも抽象度を上げたアニメのほうが威力が高い、ということをマスターしたんだと思う。『あの花』の路線でもう一回劇場作品をやってみた、くらいの企画かと思って観に行ったら、そういう意味で非常に集大成的な作品になっていて、よくできていましたね。
     一方、集大成なだけに弱点も出てしまっている。それはどちらかというとクリエイターの問題ではなくて、今のアニメ業界やアニメファンといった環境の問題なんだけど。つまり、今やアニメにおいては「消費者であるオタクとの間にできたお約束(コード)を逆手に取る」というアプローチ以外、何も有効ではなくなってしまっている、という息苦しさがあった。この映画はヒロインが順のようなキャラクターだから成り立っているわけであって、“リア充”感の強い女の子が主役だったら、絶対キャラクター設定のレベルで拒否されてしまう。あるいはエンディングで、ヒロインが野球部の男と付き合うかもしれない、という描写なんて、お約束を逆手に取った明らかな悪意なんだけど、あれがギリギリだと思うんだよね。岡田・長井龍雪【8】コンビくらいの能力があるんだったら、もっと自由にやってほしいなと思うところは正直あった。

    【5】岡田麿里:1976年生まれ。脚本家。近年では『黒執事』『放浪息子』『花咲くいろは』『AKB0048』『Fate/stay night』などの話題作・人気作の脚本・シリーズ構成を手がけている。
    【6】『true tears』放映/08年1~3月:複雑な家庭に育った少年が、あることから涙を流せなくなった少女と出会い、自身や周囲との向き合い方を考えながら成長していく──という青春成長譚。
    【7】『とらドラ!』放映/08年10月~09年3月:当時圧倒的な人気を誇っていた同名ライトノベルのアニメ版。長井・岡田コンビの初タッグ作。高校生のドタバタ青春ラブコメもの。
    【8】長井龍雪:1976年生まれ。アニメーション監督・演出家。『ハチミツとクローバーII』で監督デビュー、『とある科学の超電磁砲』などを制作。

    石岡 それはさっき僕が言った、深夜アニメ発の想像力は最大限に拡張して『ここさけ』が限界、という話と同じことですよね。
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  • もはやサブカルチャーは「本音」を描く場所ではなくなった――『バケモノの子』に見る戦後アニメ文化の落日(宇野常寛×中川大地)(PLANETSアーカイブス)

    2018-07-09 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは『バケモノの子』をめぐる評論家の中川大地さんと宇野常寛の対談をお届けします。『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』などでヒットを飛ばし、ポストジブリの最右翼と目される細田守監督とスタジオ地図。その最新作が逆説的に示してしまった戦後アニメ文化の限界とは? 初出:「サイゾー」2015年9月号(サイゾー) ※この記事は2015年10月7日に配信した記事の再配信です。
    Amazon.co.jp:バケモノの子
    大作化で発揮されなくなった細田守の批評性
    中川 どうしても面白いとは思えない作品でした。「“夏休み映画”を作らなければ」という形骸的要請ばかりが先だって、ワクワク感が全然なくて。異世界ファンタジーとしての体裁が、ほとんど機能してなかった気がします。
    宇野 僕はちょっと評価が複雑で、観ている間はそんなに気にならないんですよ。でも、観終わったあとに何か言おうと思うとまぁ、誰も傷つけずによくできていたな、ということしか浮かばない。
    中川 基本的には、シングルマザーの子育てを描いた前作『おおかみこどもの雨と雪』【1】と対の構造になっている。つまり、親が一方的に子を導くのではなく、親の側が子から教えられる相互性とか、熊徹【2】だけではなく、友人の多々良と百秋坊【3】らにも子育てのタスクを分散させるとかで、細田守監督なりの新たな父性や家族像を追求しようとしたわけですね。そのメッセージ性自体にはなんら異論はないのだけれど、『おおかみこども』とセットだと「母にはあれだけ苛酷な運命を押しつけといて、父はここまでユルユルに免責すんのかよ!」という見え方になってしまう(笑)。

    【1】『おおかみこどもの雨と雪』
    公開/12年7月 
    細田守のオリジナル長編2作目。
    “おおかみおとこ”と結婚し子どもを産んだ女性と、その娘と息子の“おおかみこども”の物語。シングルマザーとなった主人公の花を通じて描かれる母性信仰の強さが、一部から批判を集めた。
    【2】熊徹
    熊の容姿をした半獣人で、武道家。バケモノの世界で次期宗師の座を猪王山と争っている。人望が厚い猪王山に比べ、荒くれ者で我が強い。蓮を拾い、名前を名乗らなかった9歳の彼を「九太」と名づける。
    【3】多々良と百秋坊
    どちらも熊徹の幼なじみで、多々良はヒヒの半獣人、百秋坊は豚の半獣人で僧侶。多々良は大泉洋、百秋坊はリリー・フランキーが声を当てている。

    宇野 『おおかみこども』では「女性賛美の形をとった女性差別」の典型例みたいなことをやってしまって、ちょっと過剰に叩かれすぎた面もあるけど、まあ、さすがにあれは今の40代男性の自信のなさと、屈折した男根主義が悪い形で全面化して作品を狭くしていた側面は否めない。その反省か、今回、現代的な家族観・コミュニティ観を最小公倍数的にきれいに描いていて、こういう関係が美しいという美学はわからなくもないけれど、今度はその分、批判力のあるファンタジーではなくなってしまった。
    中川 まぁ『おおかみこども』での批判に誠実に対応した結果、たまたま男性側の免責に見えてしまっただけかもしれないからジェンダー論的な批判は留保するとして。もっと問題なのは、「渋天街」のイメージの弱さでしょう。『千と千尋の神隠し』的な、この世とは違う理で動く摩訶不思議な異界としての設定も映像的快楽も希薄で、ただステレオタイプな都会としての渋谷に対比させるためだけの、素朴な共同体社会でしかなかった。
    宇野 あそこで描かれているものって、完璧に正しくてそこそこ美しいと思うんですよ。でも、いま期待をかけられているスタジオ地図【4】の新作アニメーションで、夏休みの最大のごちそうとしてみんなが観に行って、この作品が出てきた時の物足りなさは否めないと思う。ポスターから想像できるストーリーの半歩もはみ出ていない。
     結局細田さんって、美少年というモチーフに一番興味があると思うんですよ。『サマーウォーズ』【5】を観ると明らかじゃないですか。一番思い入れがあるのはカズマだったでしょう。カズマは脇役だったのが『おおかみこども』で“雨”を経て、『バケモノの子』では完全に少年が主役になっている。モチーフレベルでは正直になってきているんだけど、その間に細田守の社会的地位が上がって、表現レベルではどんどん丸くなってしまって、とうとう誰も傷つけない代わりに何もない作品になってしまった。
     特に九太が青年になって以降、後半のシナリオが完全に“段取り”になってしまっている。一郎彦【6】が実は人間の子どもだというのは観ていればすぐにわかるし、クライマックスのアクションシーンが必要だからという理由だけで渋谷に出るのも……。あと、九太の社会復帰が、勉強して高認をとって大学に行くことを決意する【7】って展開に到っては、だったらなんのためにファンタジーが存在するのかよくわからなくなってしまう。異世界で修行をすることで、大学では学べないような世界の豊かさを学んできたんじゃなかったのか、と(笑)。この映画の中でいちばん豊かに描けているのって、少年期の修行時代の擬似親子+2人の傍観者(多々良・百秋坊)というあのコミュニティですよね。

    【4】スタジオ地図
    『時をかける少女』『サマーウォーズ』を手がけたプロデューサーが、細田守と共にマッドハウスから独立して設立したアニメ制作会社。
    【5】『サマーウォーズ』
    公開/09年8月
    17歳の健二が、ふとしたことから憧れの先輩の田舎に共に帰省し、
    大家族の仲間入りをする。同時進行でインターネット上の仮想世界「OZ」ではサイバーテロが発生。田舎の大家族とネット上の仮想世界での出来事がリンクしながら進んでゆく。
    【6】一郎彦
    熊徹と宗師の座を争う猪王山の長男。実は拾われてきた人間の子ども。少年期はさわやかで聡明な子どもだったが、成長するにつれて心に闇を宿し、最後に暴走する。
    【7】勉強して高認をとって~
    17歳になってから人間社会に再び足を踏み入れた九太は、図書館で出会った楓(後述)の存在をきっかけに勉強を始め、楓の勧めもあって大学受験を考えるようになる。結果、熊徹とぶつかり、渋天街を飛び出してしまう。

    中川 映像的には、細田さんが自分の本当に得意な表現を純粋抽出して組み合わせることで構築されてますよね。要は『サマーウォーズ』でも好評だった対戦格闘アクションを核に、『おおかみこども』での人獣のメタモルフォーゼの要素を盛り込むなどの手法で、ドラマの軸線を作った。熊徹からの見取り稽古をアニメーションのシンクロで示した修行時代や、猪王山とのバトルなどは、すごく良かった。
     渋天街のイメージの弱さも、肯定的に捉えるなら、これまでの細田作品における現実社会と異世界──『デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!』【8】や『サマーウォーズ』ならデジタル空間だったり、『おおかみこども』なら狼たちの自然世界だったり──とを等価に描く表現の延長線上に発想されたがゆえの帰結ともいえる。渋天街って、設定上は人間界の渋谷の地形と対応している〈拡張現実〉的な世界ということなので。そういう感じで、異世界を人間社会とフラットに捉えて特別視しない点が、自然/空想賛美的なジブリ作品に対する、細田守の現代的な作家性だったわけです。
     しかし今作については、画面を見ていても2つの世界の対応が全然伝わらないし、作劇上も活かされていない。結局、世界観構築に際しての批評性が弱いので、前半と後半でファンタジー世界と現代社会を対置するプロットが作劇意図ほどには機能していないんですよ。それが“段取り”感につながっているのだと思う。
    【8】『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』
    公開/00年3月 
    細田守監督作品。ネットに出現した新種のデジモンの暴走を止めるべく、少年たちが戦いに乗り出すストーリーで、『サマーウォーズ』公開当初から類似性が指摘されていた。

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  • 戦後史としてのロボットアニメと〈移体性〉――フランス人オタクと日本アニメ熱狂の謎に迫る 『水曜日のアニメが待ち遠しい』著者 トリスタン・ブルネ インタビュー・後編(PLANETSアーカイブス)

    2017-10-19 07:00  
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    今回のPLANETSアーカイブスは『水曜日のアニメが待ち遠しい』著者で、日本のアニメ・漫画のフランスでの受容構造を研究しているトリスタン・ブルネさんへのインタビュー後編です。ブルネさんの提唱する「移体性」という概念のもつ可能性について、丸山眞男の「無責任の体系」等とも比較しながら、宇野常寛がお話を伺いました。 ※この記事の前編はこちら
    ■ 主体性なき日本人の「移体性」
    宇野:ブルネさんは研究者としては、日本の歴史を専門にされているそうですね。
    ブルネ:日本の「史学史」、つまり日本における歴史の描かれ方を研究しています。博士論文のテーマは、55年に刊行された遠山茂樹らによる『昭和史』と、それへの批判から起こった、いわゆる「昭和史論争」です。この論争は、日本がなぜ戦争という悲惨な歴史を歩むことになったか、そこに至る歴史の描き方を、当時のマルクス主義者である遠山たちと、評論家・亀井勝一郎をはじめとする批判者が議論したものでした。僕はそれを、日本アニメの物語構造を読み解くヒントとしても、重視しているんです。
    宇野:なるほど。僕が、ブルネさんは戦後の日本思想の研究者でもあると知って思ったのは、「移体性」という概念が、丸山眞男の言う「無責任の体系」と近いということなんです。つまり、社会にコミットしている自分はじつは自分ではなく、大きなものの顔色を伺った結果、主体的な判断なしで生み出された自分だ、と。ブルネさんの言う、主体でも客体でもない日本人の自己意識の持ち方には、これとの密接なつながりがある。戦後の中流文化を代弁しうる日本のロボットアニメは、同時に、独裁者のいないファシズムを生んでしまう「無責任の体系」と、表裏一体の関係にあると思うんです。
     これに対して日本の多くの知識人は、その移体性を捨てろと言ってきた。要するに、近代的な主体になれ、と言ってきたわけです。しかし果たして、そんな単純な問題なのか、という疑問がある。ブルネさんの本で描かれていたのは、むしろそれを捨てることで、戦後の中流家庭はアイデンティティーを見失い、新たな空白が生まれるかもしれない、ということでしょう。その意味であの本は、丸山批判でもあるのではないか。
    ブルネ:たしかによく言われる「日本人の主体性のなさ」は、移体性とも関係するかもしれませんね。ただ、日本で梅本克己のようなマルクス主義者が主体性の確立を叫んでいたころ、フランスでは存在論のブームがありました。とくに作家のアルベール・カミュの存在論なんかは、主体と客体の間の不条理を強調している。フランスにも、主体性は自明的にずっとあったわけではないんですね。もうひとつ、第二次世界大戦以前のフランスを含むヨーロッパの国々には、じつは日本的な移体性や、勧善懲悪的ではない大衆文化が多くあったんです。たとえば怪盗をヒーロー化した『アルセーヌ・ルパン』もそうです。しかし戦後に残ったのは、アメリカ型の物語だけだった。善悪はくっきり分けられるようになり、移体性を可能にする抽象的なスペースは失われていった。
    宇野:一方の日本の戦後アニメは、移体性を捨てずにどう成熟するのかをずっとテーマにしてきました。ヨーロッパでは失われたのに、なぜ日本では移体性が生き残ったのか。僕の仮説は、日本には元から主体性はなく、移体性しかなかったからというものです。
    ブルネ:なるほど。反対にフランスでそうした文化の側面が失われたひとつの原因は、移体性に目を向けることが「ナチス的」と捉えられがちだったからかもしれません。
    宇野:実際にナチスのデザイン面は、現代のサブカルチャーに大きな影響を与えていますよね。
    ブルネ:そうですね。日本アニメを輸入し始めた1970年後半には、すでにエリートを中心にした大人たちが、戦うロボットに自身を投影して熱狂している子どもたちの姿を見て、「ナチ的だ」「大衆に悪い影響を与えている」「暴力の賛美」などと言っていました。もちろんそこには、戦中の日本の軍国主義のイメージから来る偏見もあります。あと蛇足的なことですが、『グレンダイザー』のオープニングテーマが仏語訳された際、そこに「土地」という単語が入ったんですね。「我々の土地を守れ」といったような歌詞として届けられた。それで「やっぱり差別的だ!」という反応を生んだんです。
    宇野:そんな経緯もあったんですね。
    ブルネ:ただそうやって、日本アニメが与えてくれる移体性の経験を隠蔽しようとした結果のひとつとして、一部の人々の極右化を招いたと僕は思いますね。
    宇野:自分たちのアイデンティティーを表現するカルチャーを持ってないがために、ネオ・ナチのような極右化が起こってしまった、と。
    ブルネ:いまのフランスが直面している移民問題の拡大も、それとは無関係ではないはずです。自分たちを物語に仮託できないこと、つまり移体性を経験できない不満を解消するために、「排外主義」という最悪の物語に染まってしまったんじゃないか。僕の少年時代の経験からすると、日本アニメは差別的でも何でもなく、フランス人の子どもも移民系の子どもも、同じように楽しむことのできる、共通の話題だったんですよ。
    宇野:日本は先進国の中でも階級差が少ない国だと思うんですが、日本のサブカルチャーの特徴は、エリートからブルーカラーの子どもまで、みんな同じ作品を愛していたことにあると思います。戦後の中流化、つまりフラット化と、アニメ受容のフラット化は重なりながら進んだ。しかし問題は、いまそのアニメの力が失われていることです。
     日本では80年代前半に若者向けのサブカルチャーが大きく発展するのですが、その受容者というのは、基本ノンポリです。彼らはベビーブーマーたちを揶揄して「政治的な話をするのはカッコ悪い」と主張していた。ただ、サブカルチャーの受容者たちの中でも、アニメファンを中心とした今で言う「オタク」たちはちょっと違った。彼らは同世代の中では相対的にだけど政治的だったと思います。ただ、それは旧世代のようにイデオロギー回帰しているという意味ではなく、プラグマティズムとリアルポリティクスに基づく態度でした。ところが90年代後半以降になると、このオタクたちの多くは排外主義的な右翼になってしまった。その背景には、かつてアニメが持っていた移体性の力を、日本のアニメファンたちが信じられなくなったことがあると思う。
     僕の理解では、かつてのオタクたちが保持していたプラグマティックな政治性は、戦後中流文化の生んだ独特の社会的な立ち位置と、その表現としてのブルネさんのいう「移体性」と深く結びついていた。要するに、戦後中流的な「移体性」的な社会へのコミットの抽象化された表現が「ガンダム」の代表するロボットアニメだった。
     しかし、日本社会からは戦後的中流文化は後退し、アニメも移体性の表現を担いきれなくなっていっていると思うんです。
    ブルネ:移体性には、自分の欠落を埋め合わせる部分があるので、それがアニメなどのカルチャーから与えられないと、「国民的なプライド」という方向に向かってしまうんでしょうね。アニメも誰かから与えられたものである点は変わらないけれど、想像力という媒介を経ていました。いまの排外主義には、想像力の枯渇しか感じません。
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  • 戦後史としてのロボットアニメと〈移体性〉――フランス人オタクと日本アニメ熱狂の謎に迫る 『水曜日のアニメが待ち遠しい』 著者 トリスタン・ブルネ インタビュー 前編(PLANETSアーカイブス)

    2017-09-25 07:00  
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    今回のPLANETSアーカイブスは、日本史の研究者であり翻訳家でもあるトリスタン・ブルネさんのインタビューの再配信です。フランスにおける日本のサブカルチャー受容の過程をまとめた著書『水曜日のアニメが待ち遠しい』を下敷きに、オタク文化、特にロボットアニメのグローバルな視点から見た本質について語り合います。 (2015年12月4日に配信した記事の再配信です)
    なぜ日本のアニメはフランスで受容されたのか 
    宇野:ブルネさんのご著書『水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす』を読ませていただきました。本当に素晴らしかったです。たいへん勉強になりました。
    ブルネ:ありがとうございます。

    ▲トリスタン・ブルネ『水曜日のアニメが待ち遠しい』誠文堂新光社
    宇野:フランスで日本のアニメやマンガがポピュラリティーを得ているというのは、日本国内でも有名な話です。ただその紹介のされ方は、「フランス人にもわざわざ日本のアニメを追いかけている変わった人がいる」という文脈で、面白おかしくデフォルメされている場合がほとんどだった。また、これは僕自身が日頃から感じていることですが、日本のアニメが海外で支持されている、という話を過剰に解釈して安易なナショナリズムに結びつけてしまう日本人のファンも少なくありません。その中でこの本は、その受容の実態を、フランス人個人の経験とアカデミックな視点の両面からまとまって紹介した、初めての例だと思います。
    ブルネ:まさにそれが、この本で目指したことです。僕自身はこれまで計6年ほど日本に住んでいますが、1976年に生まれてから20代半ばまでは、日本アニメを浴びるように見て育った一人のフランス人オタクでした。それが2004年の初来日の際、たまたま日本の踏切の音を聴いて、初めて触れたはずのその音にノスタルジーを感じたことから、自分の人格形成における日本アニメの大きさに気づき、この問題を歴史的に考え始めたんです。ただ状況はフランスでも同じで、日本のアニメやマンガを深刻なイシューとして語ろうとしても、「単なる社会現象だ」と済まされてきた。今回の本の出発点は、「僕たちが生きてきた時代は何だったのか?」ということを、アカデミックな観点を含めて、個人の経験からわかりやすく追おうとしたことにあったんです。
    宇野:ご自身が強く惹かれてきた日本アニメの奇妙な魅力と、その結果生まれた、フランスでのポピュラリティーの謎を解き明かしたい、と? 
    ブルネ:そうですね。「解き明かしたい」と同時に、そもそもそこにある巨大な「謎」の存在を多くの人に知ってほしい、という気持ちでした。誰もが当然のように「日本のアニメはフランスで人気がある」と言いますが、それ自体がすでにおかしな話でしょう。日本とフランスは、社会も文化のあり方も、基本的にはまったく異なる国ですから。
    宇野:この本の面白さの最大のポイントは戦後の日本のアニメが結果的にですが、戦後の西側諸国が広く共有していた中流家庭、アッパーミドルのライフスタイルや価値観を表現するものになっていて、それが世界的なポピュラリティーの源泉になった、ということを指摘しているところだと思います。日本アニメのポピュラリティーを語ろうとするとき、アニメが好きな人も嫌いな人も、むしろ逆に日本の独自性に結びつけて考えがちですよね。つまり、アニメ肯定派は、日本の伝統的な価値観が現代の映像文化に引き継がれて開花した、と主張する。一方の否定派は、それをオリエンタリズムと批判する。どちらもグローバルな評価の根拠に、一種の日本性を見ていることは変わりません。が、ブルネさんの本は逆です。むしろ、戦後の先進国に薄く広く共有されていた、アッパーミドルの価値観に注目をされている。
    ブルネ:おっしゃったように、日本でもフランスでも、すべての先進国は、戦後の20世紀後半に、それまでの価値観が大きく変わる経験をしました。高度経済成長で物質的に豊かになっただけでなく、人々の人間関係や、日常生活のあり方が変わったわけです。たとえば僕は、パリ郊外の新興住宅地の生まれですが、この「郊外生まれ」という経験も、戦後の先進国ではありふれたものになっていきました。しかし問題は、こうして厚みを増した中間階層の存在を、歴史の上で位置付ける視点がない、ということです。
     意外かもしれないんですが、フランスは国家の力が強い国で、いまもエリートを頂点にした階層的な価値観がある社会です。そして国の物語である歴史も、「エリートと民衆の対立」という構図で記述されてきました。ところがこの構図には、支配層であるエリートとも、従来の民衆とも違う、戦後に増えた中間階層の位置がない。歴史から自身の正当性を与えられないことは、不安です。僕は、日本アニメの人気の背景には、こうした中間階層の不安や不満を解消したという点があると思っているんです。
    宇野:ただ、ここで素朴な疑問として浮かぶのは、それがなぜアメリカのホームドラマやハリウッド映画ではなかったのか、ということです。これについてはいかがですか?
    ブルネ:西ヨーロッパとアメリカは、いつもセットで「西洋」と呼ばれますよね。しかし、ヨーロッパの社会の基本的なユニットは「村」ですが、新大陸であるアメリカにはそれがない。ただ、荒野が広がっているだけです。人の経験の出発点となるものが違うので、フランスからアメリカに行くと違和感があるんですね。一方、一見かけ離れた日本には、フランスと同じような村のユニットがある。その意味で、じつは日本の方が、空間のあり方や、そこでの人々の営みの形態が近いんじゃないでしょうか。
    宇野:ユーラシアとアメリカでは、根本的に地理感覚や空間感覚が異なるせいで、ハリウッド映画やアメリカのテレビドラマは、フランスの中産階級のカルチャーを表現するツールになり得なかった、と。
    ブルネ:フランスも日本も、郊外の広がりによって何かが失われるという経験をしています。でもアメリカの郊外は、いわばゼロから作られたものでしょう。
    宇野:郊外化もモータリゼーションも、日本やヨーロッパにとっては、トラディショナルなものの喪失だったけれど、アメリカにはその喪失感がないということですね。中流化や郊外化を言い換えると、アメリカ的なライフスタイルの受容でもあったと思います。もっとはっきり言うと、ヨーロッパではマーシャル・プランによって、日本ではGHQの占領政策の中で、既存のスタイルを上書きしながら進行したものだった。
    ブルネ:実際、日本アニメでは、その喪失感がよく主題になりますよね。たとえば『となりのトトロ』も『平成狸合戦ぽんぽこ』も、埼玉の郊外や多摩ニュータウンで失われたものをテーマに扱っている。しかし同じ経験をしたはずのフランスには、なぜかこの種の物語があまりないんです。フランス人が求めるものがそこにはあったんですね。
    宇野:僕は本州で生まれたのですが、10代の頃何年か、北海道に住んでいたんです。今の話で言うと、北海道はアメリカですね。100年前から人が住んでいなかったところがほとんどなので、一見、本州と同じような郊外都市が広がっていも、今おっしゃったような喪失感はありません。しかし本州は違う。中流化を支えた郊外都市はクリーンで明るい一方でどこか物悲しい喪失感が漂っている。国外に住んだことはないですが、北海道と本州の両方を住んだ経験から、その違いは非常に共感できます。
    「偽の成熟」としての巨大ロボット
    宇野:その一方で、アニメというのは風景を絵に置き換えるわけで、現実より一段、抽象性が高いですよね。そのことによっても、共感性は高まったと思うのですが? 
    ブルネ:抽象性も大事な要素ですよね。たとえば、フランスで初めて大人気になった日本アニメは、1978年に放送が開始された『UFOロボ グレンダイザー』でした。このグレンダイザーのような巨大ロボットも、抽象性の高いひとつのモチーフです。
    宇野:そしてロボットは定義上、人工知能を持つもののはずですが、日本の巨大ロボットは、なぜか乗り物です。ここには直接何かにコミットするのではなく、間接的なコミットでありたい、という欲望があると思うんです。
    ブルネ:そうですね。操縦者が必要です。
    宇野:日本のロボットアニメはマーチャンダイジングと関係があって、小さい男の子の成長願望に訴えかける表現でした。非常に力強く、大きな身体への憧れでもあった。しかしその一方、どこかであれは偽物だ、という感覚があります。同様に、日本でもヨーロッパでも、アメリカのライフスタイルを取り入れて郊外に家を持ち、中流的な生活を築くことが憧れであると同時に、偽物でもあるという感覚があると思うんです。
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  • 【特別再配信】『Gレコ』で富野由悠季は戦後アニメを終わらせたのか――石岡良治、宇野常寛の語る『Gのレコンギスタ』

    2017-08-21 07:00  
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    アニメでありながら「現実よりも乖離した世界」を描こうとした『Gレコ』。この意欲作に富野監督が込めた思いとは何だったのか――アニメ史的観点から石岡良治さんと宇野常寛が対談形式で読み解いています。
    (本記事は2015年7月21日に配信した記事の再配信です/「サイゾー」2015年7月号)

    (画像出典)

    ▼作品紹介
    『Gのレコンギスタ』
    監督・脚本/富野由悠季 制作/サンライズ 放送/2014年10月~15年3月(MBSほか)
    宇宙世紀が終わって1000年が経ったとき、人類は技術進歩に制限をかけることで新たな繁栄を作り出していた。 地球上のエネルギー源として宇宙からフォトン・バッテリーがもたらされ、その輸送経路である軌道エレベーター「キャピタル・タワー」と周辺地域は神聖視されている。そのエリアを守護する組織キャピタル・ガードの候補生であるベルリ・ゼナムは、初の実習で未知の高性能モビルスーツ「G-セルフ」の襲撃を受ける。それがすべての始まりだった──。

    アニメなのに「現実よりも乖離した世界」を描いた『Gレコ』
    石岡 近年、宮﨑駿の『風立ちぬ』、高畑勲『かぐや姫の物語』と、アニメ界の巨匠の引退作らしき作品が続きましたが、正直どれも「これで引退は許されないんじゃないか」と思うところがありました。その中にあって、『Gのレコンギスタ』(以下、『Gレコ』)は意欲作だった。73歳の富野由悠季が、枯れることなく変なことをやっている。ただ、いきなり新しいことを始めてしまってそれをモノにしきれなかった。例えば、5つの勢力を同時展開させることがそう。基本的には、これはすごくいいんです。『機動戦士Zガンダム』(85年)以来、富野ガンダムの基本は「三つ巴」だった。二大勢力が争っていて、そこに3番目の新興勢力が現れる構図。それが『Gレコ』では中盤で勢力が増えていって、最終的に「五つ巴」になる。普通なら作家として脂が乗っている若手~中堅のときに持ち込むような新しい試みを73歳がやっていること自体は買いたいんだけど、そのせいで難解になってしまっていた。そもそも尺が短すぎた。1年間かけないと語りきれない話を2クールでやったことによる混乱があって、それを解きほぐす作業をまだ誰もできていないんじゃないか。僕も3周しましたが、まだよくわかっていないところがあります。
    宇野 僕は本当に最初は話がまったく理解できなくて8話あたりで一度挫折して、しばらくして15~16話まで観てまた挫折して、その後ようやく最終話まで観終えました。まあ、内容がまったく理解できない、説明不足で情報量を詰め込み過ぎだという批判は正しいと思うけれど、ラスト数話はそれでも流れで見せてしまう演出の力技のほうが勝っていたと思うんですよね。全話このクオリティが維持できれば、普通に傑作扱いだったんじゃないかとすら思う。逆にいえば、ラスト数話まで「これはなんだろう」と思って観ていた。ただそれは必ずしも批判じゃなくて、富野由悠季がすさまじいことをやっているから。もともと彼の演出テクニックとして、物語的に整理されていないところを意図的に残すことによってリアリティを出すというのは80年代以前からよくあった。けれど、なんと『Gレコ』は全部それで作られている。
     これは結構恐ろしいことで、そもそもこんなに映像というものが20世紀に発達したのは、三次元の体験は特定の狭い共同体の中のコンテクストをわかっていないと共有できないけれど、一度それを二次元に焼き直して映像にして、虚構にしてしまうとわかりやすく整理できるから。だから映像メディアというものが生まれたことによって初めてグローバルコンテンツが生まれたし、今までにない規模で社会というものを運営することができるようになっていった。
     その意味では、作家の意図したもの以外配置できないアニメは、究極に統合された、現実の解離性を全く孕まない映像を生むことができる究極の映像装置なわけです。だからグローバル化の進行と並行して、世界的にメガヒットする映画がアニメ中心になっていったわけだけど、その状況下において『Gレコ』は、わざわざアニメで現実以上に乖離した状態を執拗に描いている。これは要するに富野由悠季の反時代的なメッセージだと思う。誰もが映像=統合されたリアリティにカジュアルに接することができる時代にあって、もはや作家が100%コントロールできる映像でしか、バラバラに乖離した現実に人々が向き合うことはできないってことだと思うんですよね。
     例えばベルリ[1]がカーヒル[2]をなぜ殺したのかはよくわからないけれど、そのよくわからないところも含めて、うまく説明できない、腑に落ちない「現実」をわざわざアニメでシミュレーションしている。話が終始噛み合っていたり、人物の行動がいちいち腑に落ちるのは物語の中だけ。というか、そもそも我々が物語に求めるのは説明可能な、統合された世界という虚構なんですよね。でも『Gレコ』はほとんど嫌がらせのようにそれを拒否していて、アニメでわざわざ、それも執拗に現実並みに乖離した世界をシミュレーションしている。
    石岡 そう、全員の思惑がどうもフワフワしてるんですよね。公式サイトのあらすじを読み返しても、いまいち掴めない(笑)。確かに、“非統合”の可能性がここにはあるのかもしれない、と思わされますね。
    主人公に恋人ができなかったのはなぜか
    宇野 メカ演出は普通に素晴らしかった。あれだけバラバラのデザインワーク[3]で作られたものを同じ絵に収めて、あの尺でまとめあげるということをやれる演出家は世界中で富野由悠季だけだと思う。これは押井守がよく言うことだけど、通常はアクションを入れると物語は停滞するもの。それが、モビルスーツ戦闘自体が登場人物たちの思想のパワーバランスとリンクされていて、物語的な緊張感を演出することができていた。

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  • 【最終回】「ポストギアス」と今後のロボットアニメ/『石岡良治の現代アニメ史講義』第5章 今世紀のロボットアニメ(9)【不定期配信】

    2017-07-20 07:00  
    550pt


    「日本最強の自宅警備員」の二つ名を持つ批評家・石岡良治さんによる連載『現代アニメ史講義』。最終回となる今回は、「ポストギアス」の諸作品や、『ガンダム』『マクロス』などの最新作の動向からロボットアニメの今後を展望します。

    「ポストギアス」をめぐる試行錯誤――『ギルティクラウン』『ヴァルヴレイヴ』
     前回は『コードギアス』の達成について、主として終盤の主題展開の独自性という点から考察しました。今回は「ポストギアス」アニメをいくつか検討した上で、あらためて今世紀のロボットアニメについての総括を試みたいと思います。『ギアス』前後の谷口悟朗監督作品はすでに検討しましたが、彼は『ギアス』以降は仕事のペースを一時緩めています。『ジャングル大帝 -勇気が未来をかえる-』(2009)監督、『ファンタジスタドール』(2013)原作などですね。2015年の『純潔のマリア』をきっかけに、2016年の『アクティヴレイド -機動強襲室第八係-』、2017年の『ID-0』と立て続けに監督をつとめ、いずれも渋い佳作ですが、ややベテランアニメファン向けのきらいがあります。「コードギアス10周年プロジェクト」ではそうした円熟した作風を一部手放す必要があるかもしれません。
     むしろシリーズ構成・副構成をそれぞれつとめた大河内一楼と吉野弘幸が、『ギアス』のテイストを意識したかのような展開をいくつかのアニメで入れたさいに、反発を呼んだケースの方が目立つように思われます(もっとも、アニメファンが「苦手な展開」をもっぱらシリーズ構成に帰す慣習が実際のスタッフワークと一致しているとは限らないと思いますが)。
     以下、この二人が関わっているか否かを問わずに次の3つのアニメを簡単に検討したいと思います。『ギルティクラウン』『革命機ヴァルヴレイヴ』『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞(ロンド)』です。
     まず『ギルティクラウン』ですが、これはロボットアニメというよりは異能力もので、ギアス能力をめぐる人対人のバトル要素を、ギスギスした展開込みで取り入れしようとしたところがあります。けれども実際にはメインヒロインいのりの造形(かわいさ)に大幅に依拠しつつも、本編では空気ヒロイン気味、といった風情の作品でした。これはちょうど、最初は男女双方の視聴者獲得を目指していたと思しき『K』で男性視聴者を狙いに行った女性キャラ「ネコ」の存在感と似た事態です。『K』は「抜刀」アクションが盛大に女性受けした結果、男性狙いの方向性は後退していったがゆえに、宙に浮いた形となったわけです。『ギルティクラウン』は企画の随所に野心的なところがありつつも、それらがうまく機能したとはいえませんが、2017年にまさかのパチスロ展開をみているので、今後再評価される可能性がないとはいえません。
     さて『革命機ヴァルヴレイヴ』は今では主題歌とラストの「銅像エンド」が有名かもしれません。すでにこの連載では「性的な場面」について触れました(ティーンズの「性と死」を描けるジャンルとしてのロボットアニメ/今世紀のロボットアニメ(3))。学生だけのコミュニティがギスギスしていき崩壊の危機を迎える、というアイディアは『無限のリヴァイアス』を思わせますが、「ポストギアス」ゆえによりエクストリームな展開になっています。共感性にあまり寄り添わないキャラクターたちの恋愛感情をめぐるゴタゴタは興味深く、ロボットアニメでなければ成立不可能だったと思わせますが、ルルーシュやスザクのようにはいかなかったきらいがあります。両作はどちらも「クリフハンガー」「全方位を少しずつ苛つかせる」など、『コードギアス』メソッドを志向したところがありますが、なかなかうまくいかないようにみえます。まとめると、『ギアス』が出した解決も、「ポストギアス」の困難も、ともに作品が抱える「卑近さ」の扱いに起因するのではないでしょうか。ギアスの場合、ルルーシュの卑近さ=シスコンというシンプルなフェチに駆動されつつ、国際政治や戦闘をめぐるポリティカル・フィクションともうまくブレンドされていたわけですが、「ポストギアス」アニメの多くはそこを短絡的に流用してしまった感があります。
    ロボットアニメのポテンシャルを十全に発揮した『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』
     そんな中、スタッフ的にはあまり『ギアス』と関連するところはないのですが、個人的に「ポストギアス」アニメの快作といってよいのが『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』だと考えています。なぜなら、『コードギアス』の重要な点としては、卑近な欲望と「高貴」な主題の並置という、富野由悠季が得意としたロボットアニメならではのスタイルを『クロスアンジュ』が巧みにアレンジしていると思うからです。ハイファンタジー志向だった『聖戦士ダンバイン』の後半では結局東京が舞台になるのですが、こうした側面は、例えば宮崎駿作品と比べると、ファンタジーを作りきれていないという批判となるでしょう。大きなテーマを卑近な欲望に落とし込む手法がいわば嫌われているわけで、『ダンバイン』後半の東京はその象徴といえます。けれども『ダンバイン』終盤の魅力は、舞台が東京であるがゆえに生まれているところは無視しえません。
     『クロスアンジュ』が興味深いのは、『ガンダムSEED』で今世紀のロボットアニメとしては記録的なヒットを飛ばし、続編の『ガンダムSEED DESTINY』もヒットさせながらも、納期に間に合わなくなる事態の多発などもあってか、しばらく沈黙を余儀なくされたようにみえる福田己津央が、「総監督」として見事に復活したことでしょう。端的にいうと、「ポストギアス」アニメの多くが扱いかねていた偽悪要素を、うまくシナリオ展開と結びつけているがゆえに、卑近な要素がかえって爽快な物語になるという結果をもたらしています。主人公のアンジュは「ミスルギ皇国」の皇女として、特殊能力「マナ」を使えない「ノーマ」と呼ばれる人々を侮蔑する選民思想を抱くようになっていたのですが、ある日自分自身がノーマだったことが判明し、皇女の地位を剥奪されたあと、ほぼ牢獄といってよい「アルゼナル」へと追放されます。そして当初は「私はミスルギ皇国の皇女よ!」とあくまでも過去の栄光にすがるかのような言動をみせていたアンジュですが、しだいにアルゼナルの劣悪な環境に馴染んでいきます。実はこの初期設定が、図らずも福田己津央の巧みな自己批評になっているように思われます。なぜなら、このアンジュの状態はまさに「私はガンダムSEEDの福田己津央だぞ」と主張しているのも同然だからです。けれどもそうした過去の栄光は今やなく、一度底辺にまで落ち込んだ境遇からたくましく再起を図るしかない。そういう醒めた自己批評ができていることが、『クロスアンジュ』にある種の凄みを与えているのではないでしょうか。そして実際に福田己津央は再起を果たしたのではないかと考えています。
     『クロスアンジュ』のジャンル的な位置付けをざっくりとまとめるならば、映画『女囚さそり』シリーズ(1972-1973)の流れをくむ「女囚もの」といえるでしょう。興味深いのは、『クロスアンジュ』では「自称正義」を揶揄する要素は少なめなので、オタクコンテンツでしばしばみられる「正義をやっつける欲望の肯定」原理が嫌味にならず、むしろラスボスがコテコテの童貞臭漂うキモオタ博士であることがうまく活かされています。
     『クロスアンジュ』にはある部分では『ガンダムSEED』の性別逆転シナリオといえるところがあって、それは後にアンジュのパートナーとなる男性「タスク」と出会う第5話にあらわれています。無人島と思しき島に行くと実はそこには人が住んでいて……という流れのこうした単発回は、ファーストガンダムの異色エピソード『ククルス・ドアンの島』(15話)に由来します。本編から切り離され、別の視点で物語を展開できるメリットはありますが、『ふしぎの海のナディア』の「島編」のように、制作リソースの不足を補うための「水増し」であったり、キャラクターの「記憶喪失」並に濫発される「デバイス」となっている感も否めません。『ガンダムSEED』では24話でのアスランとカガリのエピソードがよく知られており、男女が(昨今では性別を問わないですが)島から出られないというシチュエーションからは、恋愛ないし性的な展開が期待されることも多いわけです。

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  • 【特別寄稿】三宅陽一郎「解題『正解するカド』」

    2017-07-12 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガでは、今期話題のアニメ『正解するカド』について、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんによる寄稿をお届けします。『2001年宇宙の旅』や『スタートレック』といったSF作品の系譜を継ぐ、正統的な「ファーストコンタクトもの」である本作。異方存在ヤハクィザシュニナの現代性、そして、この物語が最後に辿り着いた「正解」とは?(※注意:本記事には作品に関するネタバレがあります)
    カド
     『正解するカド』は、大ヒットとなったフル3D劇場アニメーション『楽園追放』(2014年)を放った東映アニメーションが、同作品の野口光一プロデューサーの指揮のもと、ユニークな作品群で注目を集める野崎まど氏を脚本に擁し、満を持して放つフル3Dテレビアニメーションである。ゲームエンジンUnity3Dを用いた計算による表現が「カド」の時間結晶運動の表現に用いられている。
     『正解するカド』は彼方からやってくる存在「異方」との出会いの物語である。それは極めて仕組まれた出会いであり、「ファーストコンタクト」と言ってもまったく一方的な出会いである。それは降臨と言ってもいいし「押しかける」と言ってもいいし、あるいは「取り立てる」と言うべきかもしれない。何百億年と異方から長らく宇宙を見守っていた存在が、満を持して会いに来た、そんな出会いなのである。

    図 「正解するカド」設定見取り図
     出現する異次元からの立方体は「カド」と呼ばれる、多次元の存在が幾重にも折りたたまれたフラクタル立方体である。第一話で飛行機をまるごと飲み込んでしまうが、乗客の安全は保障される。飛行機は一つの比喩であり、いつでも地球全体を飲み込めることを暗示している。「カド」は人類を超えた圧倒的な存在であることを証明したのだ。「カド」は3次元の空間ではなく、この宇宙とは異なる物理法則を持つより高次元の存在(3+37次元)である。「カド」によって「異方」より来たりしは「ヤハクィザシュニナ」一人である。その高次元の存在体は、人間の警戒心を抑えるために白い装束に身を包み、真っ白い髪を持つ男性として顕現する。人間の言語を一瞬で学習し、人間とのコンタクトを始める。物語はこのカドを代表する「ヤハクィザシュニナ」と、人類を代表して外務省 国連政策課の交渉官(ネゴシエーター)である「真道幸路朗(しんどう・こうじろう)」との交渉を軸として展開される。

    ヤハクィザシュニナ(1)
     ヤハクィザシュニナの東洋的な姿、そして彼がそこから来た場所である「異方」はその根底に東洋的神話を思わせる。一つの世界に、その世界に属さない客人(まろうど)、あるいは「まれびと」として現れる存在である。世界に新しい兆しをもたらし、去って行く存在である。

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  • 【特別配信】おそ松さん――社会現象化した"覇権アニメ"が内包するテレビ文化の隔世遺伝(石岡良治×宇野常寛)

    2017-06-26 07:00  
    550pt


    「特別再配信」の第11弾は、話題のコンテンツを取り上げて批評する「月刊カルチャー時評」より、『おそ松さん』をめぐる石岡良治さんと宇野常寛の対談です。『おそ松さん』が社会現象化した理由を、テレビバラエティの伝統を背景に語ります。(初出:「サイゾー」2016年4月号(サイゾー)/構成:金手健市/この記事は2016年4月27日に配信した記事の再配信です)
    宇野常寛が出演したニコニコ公式生放送、【「攻殻」実写版公開】今こそ語ろう、「押井守」と「GHOST IN THE SHELL」の視聴はこちらから。
    延長戦はPLANETSチャンネルで!



    (出典)株式会社ぴえろ 作品情報「おそ松さん」より


    ▼作品紹介
    『おそ松さん』
    原作/赤塚不二夫 監督/藤田陽一
    シリーズ構成/松原秀 キャラクターデザイン/浅野直之 制作/スタジオぴえろ 放映/テレビ東京ほか(15年10月~16年3月)
    『おそ松くん』の世界から月日が流れ、ニートで童貞の大人になった六つ子が描かれる。各話が完全な続きもののストーリーになっているわけではなく、1回の放送で複数のショートネタが入っている回もある。

    もはや社会現象化した“覇権アニメ”が内包するテレビ文化の隔世遺伝
    石岡 『おそ松さん』、まさかここまで圧倒的な作品になるとは、始まる前は予想もしてませんでした。もはや深夜アニメの1作品というより、これ自体がひとつのジャンルなんじゃないかっていうくらい、コンテンツが広がりを持っている。監督・脚本は『銀魂』と同じ組み合わせ【1】ですが、『銀魂』がいま動かしにくくなっている中で、そこで本来やりたかったことのコアな部分を非常に拡大してやれてしまっているというか。正直この企画は、コケていたらめちゃくちゃサムかったはずの相当リスキーな作風だった。
     『おそ松くん』はこれまで2度アニメになっている【2】けど、どちらもイヤミの「シェー」で当たった作品だった。チビ太とイヤミの人気が出て、タイトルこそ『おそ松くん』だけど六つ子は完全な脇役。ただしそれは作者の赤塚不二夫が六つ子の描き方も台詞もほぼ区別していないという、いってみればポップアートのようなコンセプチュアルなネタだったからでもある。それを『おそ松さん』では六つ子それぞれに人気声優【3】を当てて、キャラをつけまくった。
     その上で、なぜ「コケていたらサムかった」と思ったかというと、「(六つ子の)こいつはこういうキャラ」というのを前提にして、そのキャラならやらなそうなことを急に豹変してやってしまうという、ハイコンテクストなネタをどんどんぶち込んでくる。これはいま観ると大ヒット前提で作り込んできたように見えるんだけど、外したらかなり痛々しいことになっていたはずで、そこをきっちり決めてきたのはすごい。“スベり笑い”も多くて、2話を観たときに「大丈夫か?」ってちょっと思ったんですよ。ローテンションな話が延々繰り返されて、ギャグも投げっぱなしであまり回収しない。人によっては本当につまらないネタも必ずあるはず。それを補ったのが、さっき言った通りひとつのジャンルと言ってもいいくらい幅広い作風にする、手数を増やすというリスクヘッジだった。つまりネタのバリエーションが広い。僕はそんなにバラエティを多く観るほうではないけど、お笑い番組的な知性が発揮された構成の良さが出たんじゃないかと思った。

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  • 精神分析的物語構造への批評としての『コードギアス』/『石岡良治の現代アニメ史講義』第5章 今世紀のロボットアニメ(8)【不定期配信】

    2017-06-15 07:00  
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    「日本最強の自宅警備員」の二つ名を持つ批評家・石岡良治さんによる連載『現代アニメ史講義』。前回に引き続き、ロボットアニメのお約束展開を次々に踏み越えていった『コードギアス』の画期性を分析します。

    「家族の物語」を展開した『新世紀エヴァンゲリオン』
     これまで今世紀のロボットアニメについて考察してきたわけですが、『コードギアス 反逆のルルーシュ』にかなりのスペースを割いています。その理由としては、『ガンダム』や『マクロス』のような老舗シリーズを除くと、他の佳作群(『エウレカセブン』『グレンラガン』『ゼーガペイン』etc.)と比べて傑出した点を多く見いだせるということがあります。とりわけ「ロボットアニメ好き」の外に届けた点において、前回考察したようにCLAMPデザインがもたらした効果は無視できません。その上でここからは、『ガンダム』や『マクロス』も含めて、ロボットアニメの歴史の中に再び『コードギアス』を位置付けつつ、このジャンルについての簡単な展望を示してみたいと考えています。
     前回は『スター・ウォーズ』以来の神話構造論を用いたシナリオライティングとの関係で、「ラスボスが父親」というひとつの黄金律がみられること、そしてその黄金律の既視感について簡単に触れました。ここでいう「ラスボス」は、ダース・ベイダーの上に銀河皇帝がいたように、端的な敵組織のボスとして現れるとは限りません。例えば『エヴァンゲリオン』では、主人公のシンジは基本的には「使徒」を殲滅するオペレーションを遂行しており、父親が敵対組織にいるわけではないのですが、人間関係の配置においてはどうみても、シンジは使徒のことは大して気にしておらず、父親との関係性に最後まで固執し続けるような作劇がなされています。父親への苦手意識を克服できるかどうかが作劇のメインとなっており、その意味で父ゲンドウは「ラスボス」となるわけです。物語開始時点で不在の母親に関しても、結果的に「同僚」の綾波レイが母親のイメージを強く身にまとう存在であることが判明することで、非常にわかりやすく「家族関係をめぐる心理的葛藤」が描かれていたわけです。
     『エヴァンゲリオン』の魅力と欠点は、このように閉じた濃密な人間関係に由来しています。私は最初に視聴した時、しばしば精神分析との関係で語られうる「オイディプス・コンプレックス」とのダイレクトな連想、すなわち古代ギリシア悲劇の構造よりは、シンジの「行動不能性」などが目立つので、シェークスピアの『ハムレット』のような近代悲劇に近い「碇ゲンドウ王朝の物語」という印象を持ちました。ネルフは基本的にゲンドウが私物化している組織であるがゆえに、シンジのゲンドウへのこだわりが「はっきり決断しない」鬱陶しさの印象を与えるだけでなく、「こんな環境に中学生が置かれたら病むのは当然だろう」という読解を同時に誘います。つまり、『エヴァンゲリオン』についてはロボットアニメにおける「敵を倒す」構造よりも、家族の葛藤という主題が表に出ているがゆえに、1990年代を席巻していたサイコサスペンス(『羊たちの沈黙』のような)のような受容が可能になり、ふだんロボットアニメに関心を抱かない層にアピールしたのでしょう。しかし、ここには神話的なヒーロー物語の「心理主義化」という大きな代償もありました。精神世界描写の肥大化は、『エヴァ』ぐらいテンションがあればまだしも、後続作では「父に認められたかった」といった安直な説明原理をそのまま展開するものも少なからずあったように思います。

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