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  • 第一章 世界文学の建築者ゲーテ――翻訳・レディメイド・ホムンクルス(後編)|福嶋亮大

    2023-04-25 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。 郵便システムができあがり、書物として「思想」までもが商品として扱われるようになった近代に、文学作品はどのようなかたちでコミュニケーションの対象となったのか、その歴史を振り返ります。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ4、《ゲーテ》の制作――郵便局と事務局
     このように、ゲーテの言説を読み解いていくと、各国の作品が相互に翻訳=批評される世界文学の時代が、一種のコミュニケーション革命の時代でもあったことが浮かび上がってくる。なかでも、ゲーテとカーライルの往復書簡は、コミュニケーション史やメディア論の文脈においても特別な位置を占めている。なぜなら、彼らはともに当時の郵便システムに依拠していたからである。
     精神=商品の交易を成り立たせるのに、郵便というインフラは欠かせなかった。例えば、カーライルに対して「現在のように本や雑誌がいわば速達便で諸国民を連絡する時には、聡明な旅行者などはこの点ではほとんど役に立ちません」と書き記したゲーテは、思想が対面的コミュニケーションなしに、郵便物として高速で流通する状況を鋭く言い当てている[12]。さらに、カーライルも精密化された郵便システムの恩恵にあずかっていることを自覚していた。
    こわれ易い物が見知らぬ国々や喧騒を極める都市や荒海を越えて、大陸の奥地からこんな荒野までも達しうるのは、まったくこの完全な輸送手段のおかげです。もっと不思議なことは、私たちが現代で最も尊敬する精神から、愛情の声が、いかなる意味においても遥かにへだたっている者へ伝えられうることです。六年前には、ゲーテから私へ手紙や贈物をいただくなどという可能性は、シェイクスピアやホメロスから送られるのと同じくらい、奇蹟であり夢であると私は思っていました。[13]
     カーライルは後に産業社会を批判し、英雄崇拝論を掲げるようになるが、その主張こそが、ゲーテのような異国の英雄の「声」を輸送する郵便産業のもたらしたものである。カーライルにとって、ゲーテとの文通はシェイクスピアやホメロスとの文通に等しい奇蹟であった。郵便システムを利用した遠隔コミュニケーションは、対面では決して聴くことのなかったゲーテの「声」をいっそう神秘化したのである。
     そもそも、ゲーテはその出生のときから郵便システムに取り憑かれていた。というのも、彼のフランクフルトの生家は、数世紀にわたってヨーロッパの郵便事業を導いてきた大企業トゥルン・ウント・タクシス――そのパイオニアである貴族フランツ・フォン・タクシスはしばしば同時代のコロンブスと並び称される――の大邸宅に隣接していたからである。タクシス郵便は巨万の富を築き、ヨーロッパの郵便システムそのものの模範となった。後に『詩と真実』でも、ゲーテは「タクシス郵便はきわめて迅速に配達し、開封されることもなく、郵送料はあまり高くなかった」とその効率性や信頼性を賞賛している。「手紙の時代」と呼ばれるほどに書簡熱が高まった一八世紀に生まれたゲーテは、まさに郵便システムの申し子であった。
     しかも、郵便システムの発達は、たんに遠隔地との文書的なコミュニケーションを可能にしただけではなく、世界市民たちの「精神」のハーモニーを物質的に実現するという壮大な野心をも生み出した。興味深いことに、タクシス家はゲーテや皇帝ヨーゼフ二世と同じく、「兄弟のようにひとつになった世界市民的な夢」を抱くフリーメイソンに傾倒しており、トゥルン・ウント・タクシスの手掛けた多くの文化事業(郵便部門に限らない)はこのフリーメイソンの理想と内的に連関していたことが知られている[14]。ゲーテの世界文学論にフリーメイソンの痕跡を見出すことも、あながち不可能ではないだろう。
     ゲーテが生きていたのは、精神が翻訳されるだけではなく、物質的な郵便として送受信されるようになった時代である。この時代には、世界市民的な夢は郵便のインフラに寄生して増殖する。ドイツのメディア理論家ベルンハルト・ジーゲルトによれば、「ゲーテの郵便帝国」においては、手紙と精神がほとんど同一のものとなり、手紙を受け取った読者は作者の内なる精神のピースを分有することになった。流通する手紙は「作者からのフィードバックを経由した精神の鏡」となったのである[15]。翻訳者カーライルが感激したのも、まさに遠方の英雄のフィードバックが実際に行われたという事実によってである。
     もとより、この郵便的なフィードバック・システムは、決してゲーテが独力で構築したものではなかった。ゲーテの書簡の相手を時系列で見ると、当初はヴァイマルの有名な女性文人シャルロッテ・フォン・シュタインや、ヴァイマル古典主義を牽引した盟友であるフリードリヒ・シラーとのやりとりが目立つが、次第に、気の置けない友人の音楽家カール・フリードリヒ・ツェルター(フェリックス・メンデルスゾーンの師)や異国のカーライルとのやりとりが多くなってゆく。ゲーテが卓越した作家としてブランド化されたのは、この人的ネットワークのなせる業であった。ベンヤミンはまさにそのことを鋭く指摘している。
    地元ヴァイマルでは、詩人[ゲーテ]は徐々に協力者や秘書の一大グループを作りあげた。彼らの協力がなかったならば、彼が晩年の三十年間に整理編集した、あの厖大な遺産となる言葉の数々は、決して確保されえなかったことだろう。最終的に詩人は、まさに中国式に、自分の全人生を〈書かれたもの[シュリフト]〉というカテゴリーのもとに置いたのだ。エッカーマン、リーマー、ソレ、ミュラーといった補佐役をつとめた人びとから、クロイターやヨーン等の書記官に至るまでを擁した、一大文献・雑誌整理用事務局は、この意味において捉えられねばならない。[16]
     ゲーテはヴァイマルの協力者たちを一種の記録装置として組織し、放っておけば虚空に消えてゆくだけの自らの言葉を、逐次書き取らせた。対話や書簡の類をゲーテほど多く残した作家はほとんどいないが、この巨大な文学資本は、秘書エッカーマンを中心とする「一大文献・雑誌整理用事務局」の仕事の所産である。この優秀な事務局の取りまとめた文献的遺産が、偉大な世界市民ゲーテという賢人的なイメージの形成に寄与したことは、想像に難くない。その意味で、われわれが知る《ゲーテ》とは集団制作された作品なのである。
     ベンヤミンが言うように、ゲーテは文人としての自己を「書かれたもの」に集中させ、翻訳を通じてそのテクスト群の価値を高めたが、それは資本の蓄積や増殖とよく似ている。ヴァイマルにはゲーテやその友人たちのテクストが集まり、それが財となって国境を超えて交換された。この文学資本の膨張は、フローを司る郵便局(=テクストを送受信するシステム)とストックを司る事務局(=テクストを整理・編集するシステム)抜きにはあり得なかった。この点で、ゲーテには二一世紀の情報産業の先駆者としての一面がある。 
  • 第一章 世界文学の建築者ゲーテ――翻訳・レディメイド・ホムンクルス(前編)|福嶋亮大

    2023-04-19 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。 19世紀の出版革命以後、文学作品の急激な民主化が起こった時代に「世界文学」はどのような概念として持ち出されたのか、その歴史を辿ります。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ1、ヴァイマルの文芸ネットワーク
     序章で述べたように《世界文学》という概念の発明はもっぱら、一七四九年に生まれて一八三二年に亡くなったヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに帰せられる。つまり、一八世紀ヨーロッパの文化的財産の継承者であり、かつ一九世紀前半にますます世界化してゆくヨーロッパの資本主義社会を生き抜いたドイツの哲人文学者が、《世界文学》に新たな生命を吹き込んだのである。
     二つの世紀にまたがるゲーテの長い人生は、ヨーロッパの大変貌の時代と重なりあっている。近年のグローバル・ヒストリーを牽引する経済史家ケネス・ポメランツは主著『大分岐』のなかで、《一七五〇年》を世界史的な分水嶺と見なした。一八世紀半ばまではヨーロッパも東アジアも、経済成長に関しては並行的な進化を遂げてきた。ポメランツによれば、中国、日本、インドでも「スミス的成長」(商業的農業とプロト工業をベースとする経済成長)が顕著に見られたのであり、ヨーロッパだけが経済的に突出していたとは言えない。しかし、一七五〇年以降、ヨーロッパは豊富な石炭資源とアメリカ新大陸の市場を背景として急速な経済発展を遂げ、アジアをはじめ他地域を圧倒するようになった[1]。このポメランツの興味深い仮説に従うならば、まさに「大分岐」の生じるタイミングで生まれたゲーテは、ヨーロッパの奇跡的な躍進とともに成長した作家であったと言えるだろう。
     ゲーテの世界文学論も、ヨーロッパそのものが世界的存在に成長してゆく状況と連動している。ただ、ゲーテは《世界文学》のアイディアを体系的な論文のなかで熟成させたわけではなかった。それは一七九二年生まれの弟子ヨハン・ペーター・エッカーマンが記録した、一八二〇年代のゲーテの談話に登場する考え方である。
    国民文学というのは、今日では、あまり大して意味がない。世界文学の時代が始まっているのだ。だから、みんながこの時代を促進させるよう努力しなければだめさ。(一八二七年一月三一日。以下、年月日を記した引用はすべてエッカーマン『ゲーテとの対話』[山下肇訳、岩波文庫]に拠る)
     偏狭なうぬぼれに陥らないために「好んで他国民の書を渉猟しているし、誰にでもそうするように」推奨していたゲーテにとって、世界文学とは何よりもまず実践的な目標であった。ゲーテは《世界文学》を新時代のミッションとして位置づけ、今後の文学は否応なく国境を越えて流通するだろうし、作家たちはその流れをいっそう加速させるべきだと主張した。このような文学の「自由貿易」のモデルは、作品の販路を拡大させる市場の成立と不可分である。
     ゲーテにとって、文学作品の流通の拡大は、文学の内容にも質的な変化をもたらすものであった。イギリス人、ドイツ人、フランス人がお互いの作品を批評し「補正」しあうことが「世界文学にとっては大きな利点となり、この利点はますます現れてくるだろうね」とゲーテは楽しげに述べている(一八二七年七月一五日)。ゲーテ自身、ヨーロッパ文学はもちろんのこと、中国やアメリカの文芸まで目配りしていた。先に引用した世界文学についての意見も、ゲーテが翻訳で読んだ中国小説(清の『花箋記』と推測されている)への好印象――その自然描写や説話の用い方をゲーテは称賛している――をきっかけとして語られたものである。
    もとより、このような批評や補正をやるには、知識の迅速かつ正確なやり取りが欠かせない。《世界文学》のアイディアが、エッカーマンとのくつろいだ座談の場で語られたことは、このアイディアそれ自体がコミュニケーション環境と一体であったことを示唆している。知識を交換し伝達するのに、ゲーテは談話や書簡というメディアを存分に活用し、それによってゲーテという存在そのものが、世界性を帯びた知の集積回路のように機能することになった。後述するように《世界文学》は一九世紀の新たなコミュニケーション革命を背景としていたのである。
     そもそも、政治の中心都市ベルリンから離れたヴァイマルのゲーテ邸には、王侯貴族だけではなく文芸に関わる翻訳家や業者も、しきりに出入りしていた(ゲーテは都市の喧騒を嫌っていた)。ゲーテはときに、その翻訳業者の浅薄さに強い苛立ちを覚えることもあった。「文学という点では、全くのディレッタントのようだな。というのも、彼はドイツ語などさっぱり出来ぬくせに、早速やるつもりの翻訳やら、その扉に印刷する肖像やらの話をしたりする始末だからね」(一八二七年一月二一日)。しかし、このような一知半解の業者も含めた出版や翻訳のビジネスの隆盛がなければ、世界市場=世界文学も成り立ちようがなかったのは明らかだろう。辺境のヴァイマルは文芸ネットワークの結節点となり、精神の自由貿易をいっそう加速させたのである。 
  • DE CLINAMEN (逸脱について)|髙木陽之介

    2023-04-14 07:00  
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    本日のメルマガは、髙木陽之介さんによる『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』評をお届けします。 紀元前の哲学者・ルクレティウスによる『物の本性について』が描いたエピクロスの唯物論と、それがルネサンス期に発見されたことの衝撃を解説します。

    DE CLINAMEN (逸脱について)|髙木陽之介

    『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』スティーヴン・グリーンブラット著、河野純治訳 柏書房 2 4 2 0 円 2 0 1 2 年

    15 世紀のイタリアのブックハンター、ポッジョ・ブラッチョリーニの、一冊の本をめぐる旅の物語。あるとき、彼は南ドイツの修道院でルクレティウスの『物の本質について』を発見する。紀元前50 年頃、エピクロス派の思想を元に編まれたこの詩集には世界の真理が書かれており、やがてヨーロッパにルネサンスを巻き起こしていく。

     快楽主義の哲学者として知られるエピクロス(BC341 年 ‒ BC270 年)だが、彼自身の作品は今ではほとんど残っておらず、その哲学を研究する上で最も重要な作品は、彼の信奉者であったローマの詩人が詠んだ哲学詩であったことはあまり知られていない。
     詩人の名はティトゥス・ルクレティウス・カルス(BC99 年頃 ‒ BC55 年)、哲学詩は『DE RERUM NATURA(物の本性について)』という。ルクレティウス自身の生涯についてはほとんど明らかではない。聖ヒエロニムス(347年頃 ‒ 420 年)による《媚薬を飲んで発狂し、後にキケロが手を入れた数巻の書を発作の合間に記したが、四十四歳で自殺した》という記述が、ほとんど残された唯一のものだが、エピキュリアンの評判を貶める風説の類と見るのが多くの歴史家の見解のようである。
    1 THE SWERBE(逸脱)
     スティーヴン・グリーンブラットによる『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(THE SWERBE -How theWorld Became Modern-)は、ルネッサンス(古代の再生)、つまり近代の起源の象徴的出来事として、ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380 年 ‒ 1459 年)によるルクレティウスの写本の発見を扱ったノンフィクションである。グリーンブラットはこの自らの著書に、エピクロス=ルクレティウスの重要な概念〝CLINAMEN〞の訳語として〝THE SWERBE〞(逸脱)と名付けた。
     この発見についてグリーンブラットは以下のように記している。―この信奉者(筆者註/ルクレティウス)のかつて賞賛された詩が残っていたのは、まさに幸運だった。『物の本性について』の一冊が、修道院の図書館に、喜びを追求するエピクロス哲学を永遠に葬り去ったかに見えた場所にあったのは、たんなる偶然だった。どこかのスクリプトリウム(写本室)か何かで働いていた一人の修道士が、その詩が朽ち果てる前に書き写したのも、たんなる偶然だった。そしてこの一冊がおよそ五〇〇年もの間、火事にも洪水にも遭わず、時の試練にも耐えて、一四一七年のある日、ポッギウス・フロレンティヌスすなわちフィレンツェのポッジョと自慢げに名乗っていた人文主義者の手に渡ったのも、たんなる偶然だった。(『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』p 139)
     この近代的な歴史観は、世界は神の摂理とは無関係の偶然によって動かされているとしたエピクロスに由来している。宇宙は虚空と原子で構成されているが、必然性のみが支配するデモクリトスの唯物論と違って、エピクロスの唯物論においては、原子はわずかな角度曲がることがある、クリナメン(逸脱)が生じるという修正が加えられた。これは物体の運動にはある程度の揺れ幅、揺らぎがあると理解すると分かりやすいが、この原理によって、必然性に支配されていたはずの世界は、偶然性に溢れたものとして見えてくるのだ。
     上記を含めてルクレティウスの『物の本性について』が示す世界観は、近代以降の世界理解の基本原理となっているが、すでにそれが浸透してしまった我々が読んでもその衝撃を理解することは難しくなっている。しかし、だからこそグリーンブラットは、それが発見されるまでと、発見されてからの歴史を語らなければならなかったのであり、それは近代(modern)と呼ばれる時代がいかなる運動の中にあるのか、あるいは、いかなる運動と見做されているのかを改めて知ることなのだ。
     
  • ニューヨークのイノベーションシーンについて(中編)|橘宏樹

    2023-04-07 07:00  
    550pt

    現役官僚である橘宏樹さんが、「中の人」ならではの視点で日米の行政・社会構造を比較分析していく連載「現役官僚のニューヨーク駐在日記」。今回は、世界最高峰の研究機関で、日本の「理研」とも共同研究を行っているブルックヘブン国立研究所について紹介します。最先端の物理学研究が持つ実利的な側面と、それを国際競争に応用する日米それぞれの戦略とはどんなものなのでしょうか。
    橘宏樹 現役官僚のニューヨーク駐在日記第9回 ニューヨークのイノベーションシーンについて(中編)
     おはようございます。橘宏樹です。4月のNYはさすがに暖かくなってまいりました。うっかりダウンなんて羽織って通勤してしまえば、オフィスに着くまでには汗ばんでしまいます。
    ▲国連本部近くの静かな公園。ようやく春がやってきました。
    ▲トランプ前大統領の刑事起訴の発表直後のトランプタワー前。大勢のメディアの前で反トランプ派の人物がアピール。