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  • 第六章 長い二日酔い――一九世紀あるいはロシア(後編)|福嶋亮大

    2023-09-26 07:00  
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    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。前回に引き続き、19世紀ヨーロッパの社会思想について分析します。「アジアからヨーロッパへ」という単純な図式に収まり切らないアメリカやロシアを、当時の知識人たちはどのように捉えていたのでしょうか。 前編はこちら。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    6、ヘーゲル、トクヴィル、マルクス
     一七七〇年生まれの哲学者ヘーゲルは、世界史をアジアからヨーロッパへと進歩するプロセスとして捉えた。ただ、その場合アメリカはどうなるのか。一口に言えば、ヘーゲルの狙いは、世界史と≪新世界≫のデカップリング(分離)にあった。 ヘーゲルの独断的な見解によれば、アメリカ大陸は社会を結集させる力を欠いている。そこでは動物も人間も弱々しく、衰亡の瀬戸際にある。「新世界は旧世界よりずっと脆弱であることが示されており、また鉄と馬という二つの手段が不足している。アメリカは新しく、脆弱で力を欠いた世界である。ライオン、トラ、ワニはアフリカのものよりも弱く、そのことは人間に関しても同様である」「この国〔アメリカ〕は生成途上の未来の国であり、それゆえこの国はわれわれにはまだ関わりのないものである」[20]。ただ、ヘーゲルの口調が自信たっぷりであるように見えて、最終的な判断を保留するような含みをもつことも見逃せない。彼はこの脆弱な≪新世界≫が、いつか世界史に関係してくる未来を否定しきれていないのだから。 一八〇五年生まれのフランスの政治家にして思想家のトクヴィル――二月革命の折に外務大臣を務めた経験を、後に『フランス二月革命の日々』で回想している――になると、≪新世界≫の勃興は世界史の転換点として捉えられた。彼の『アメリカのデモクラシー』第一巻(一八三五年)の末尾には、アメリカおよびロシアという新興国が「いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになる」という、きわめて正確な予想が記された。後年カール・シュミットは、頑固なヨーロッパ中心主義者ヘーゲルと違って、若きトクヴィルが「ヨーロッパ精神の刻印を受けつつなおヨーロッパ的でないこの新興二大国」を明確に名指ししたことを「驚きの極みである」と評している。シュミットがトクヴィルを「一九世紀最大の歴史家」と呼ぶのは、いわばヨーロッパの私生児であるロシアとアメリカにこそ人類の未来を認めた、その並外れてシャープな時代認識のゆえであった[21]。 しかも、慧眼なトクヴィルは、この両国の尋常ではない発展速度に注目していた。「[ロシアとアメリカは]どちらも人の知らぬ間に大きくなった。人々の目が注がれているうちに、突如として第一級の国家の列に加わり、世界はほぼ同じ時期に両者の誕生と大きさを認識した」[22]。私は先ほどから、フランスの二月革命や『レ・ミゼラブル』を例にして、事態の「不意打ち」や「急転」が一九世紀の特徴だと述べてきた。二日酔いでふらつく一九世紀的人間は、社会の安定構造のなかでまどろみながら、ときにそれを出し抜く急転に巻き込まれる。変化を加速させ、ヨーロッパ人のしらふの意識を追い抜いてしまったロシアとアメリカは、まさに異常なアゴーギクを国家形成のプロセスにおいて実現した。トクヴィルは一種の速度論(kinetics)の立場から、この両国の地滑り的な変化の速度そのものに注目したのだ。 さらに、ヘーゲルともトクヴィルとも異なるやり方で≪新世界≫の世界史的位置を考えたのが、一八一八年生まれのマルクスである。一八五二年に『ブリュメール一八日』を刊行したマルクスは、それに続いてロシアの分析に取り組んだ。クリミア戦争(一八五三~六年)の時期に構想された彼のロシア論は、ヨーロッパとは異なる政治経済のシステムを「タタールのくびき」(モンゴル帝国による支配)以降のロシアの専制政治に認め、その形成プロセスを批判的に検討したものである。 後にマルクスは一八六七年刊行の『資本論』で、亡命先の経済先進国イギリスを拠点として、資本主義を分析した。そこでは、資本主義のグローバルな拡大が前提とされている。ただ、一八五〇年代のマルクスによれば、ロシアの政治経済システムはむしろ資本化の作用をせきとめる専制主義を内包していた。この悪しき障害物がある限り、たんに資本主義の揚棄をめざすだけでは、人類の真の解放には到らない。マルクスはこの「東洋的専制」のシステムが、一八世紀初頭のピョートル大帝によって強化されたと見なした。ピョートルは西欧文明を効果的に利用しながら、国境に近いバルト海沿いに「中心から外れた中心」しての新都ペテルブルクを急ピッチで建設した。マルクスはこの驚くべき「速成的創造」に、ロシアが海の帝国に変わった瞬間を認めたのである[23]。 このマルクスのロシア論が、クリミア戦争の渦中から出てきたことは見逃せない。一九世紀ヨーロッパは相対的な安定期であったが、クリミア戦争は例外的に、膨大な死者を出した史上初の「全面戦争」であった。ロシア帝国とオスマン帝国の軍事衝突で始まったこの戦争は、やがてカフカス(コーカサス)から黒海沿岸にまで戦域を広げ、ヨーロッパ諸国の参戦も招いた。そこでは、新型兵器や電報のような通信テクノロジー、最新の軍事医学までもが動員され、まさに総力戦の様相を呈した[24](クリミア戦争に従軍し、軍の衛生環境と看護婦の地位を改善したイギリスのフローレンス・ナイチンゲールはその象徴である)。このヨーロッパとアジアのコンタクト・ゾーンにおける熾烈な世界戦争を背景としながら、マルクスはロシア特有の政治経済システムを考察した。 ヘーゲルにとって、いわば世界史の時計は一つであった。その途上でいかなる困難があろうとも、ヨーロッパの理念が次第に自己完成に向かうという原則は疑われていなかった。しかし、一八五〇年代のマルクスはむしろ人類が複数の時計をもつこと(ピョートルのロシア)、さらに時計が逆戻りし得ること(ナポレオン三世のフランス)を認めていた。この認識は二一世紀のわれわれにとっても示唆に富む。現に、いったん全面的に勝利したはずのポスト冷戦期の自由主義的なグローバリズムが、かえってその反動としてのプーチン(いわばピョートルの劣化コピー)や習近平(いわば毛沢東の劣化コピー)を生み出している現状は、マルクスの先見性を示すものだろう。
    7、アンチ・ファウスト――プーシキン
     このように、ヨーロッパ中心主義者のヘーゲルは世界史と≪新世界≫のデカップリングを試み、トクヴィルはむしろ≪新世界≫にこそ人類の未来を認め、マルクスはロシアの政治経済システムのもつ特殊性を強調した。この三者三様の言説から分かるように、ヨーロッパの第一級の知識人にとっても、ロシアやアメリカは知的に解決しがたい謎であった。 ここで興味深いのは、当のロシア人自身が自らを奥深い「謎」として了解したことである。ロシア近代文学の祖となった一七九九年生まれの作家アレクサンドル・プーシキンは、一八二二年に「ロシアはいまだ未完成である」と端的に述べた[25]。これはロシアが今後何にでも変わり得ること、そこには無限の可塑性があることを意味する。ロシアの知識人は総じて、自らが創出したロシアという謎に酩酊した。過去と未来にアクセスしながら、ロシアをたえず発見・発明し続けようとする未完の思想運動の中心にいたのが、まさにプーシキンのような詩人であった。 ロシア史家のオーランドー・ファイジズが強調するように、ロシアへの回帰を促したのは、一八一二年のナポレオン侵攻である。もともと、ロシアの上流貴族はフランスにすっかり夢中であり、家庭での教育もフランス語でなされていた。ナポレオン戦争を描いたトルストイの『戦争と平和』が、フランス語の会話で始まるのは、それを諷刺したものである。しかし、ロシアがナポレオンを撃退した後、農民とともに戦った兵士たちは、むしろロシア人のネーションとしての一体性を強く自覚するようになり、それが一八二五年のデカブリスト(農奴解放を訴える自由主義的な将校)の蜂起へとつながってゆく[26]。この国民統合をめざす新しいナショナリズムが、プーシキン以降のロシア近代文学の枢軸になったと言えるだろう。 もとより、ロシアが未完であることは、バラ色の未来を約束するものではない。現に、プーシキンはロシアを晴れやかな進歩にではなく、むしろ底なしの混沌に接続した。その文学上の拠点となったのが、ピョートルの築いた新都ペテルブルクであった。バルト海沿岸の湿地に工学的に築かれたペテルブルクは、その狂気じみた都市計画の代償として、たびたびネヴァ川の凶暴な洪水に襲われてきた。プーシキンの『青銅の騎士』は、若く貧しい下級官吏エヴゲーニーの視点から、この自然からの復讐を描いた長編叙事詩である。 ピョートルの騎馬像が傲然とそびえたつペテルブルクに、あるとき獣じみた洪水が襲来する――この粗暴な侵略者の創造した黙示録的光景を前にして、エヴゲーニーをはじめ民衆はただ茫然とするしかない。見慣れた街角は戦場のような廃墟に変わり、都市の繁栄はリセットされる。しかし、洪水が収まった後、ペテルブルクの生活は再び元通りになり、お互いに対して冷たく無関心な態度がよみがえる。エヴゲーニーにとっては、洪水という非日常よりも、洪水の後の退屈な日常こそが耐えがたい。世間からすっかり疎遠になった彼は、やがて荒々しいピョートルの騎馬像に取り憑かれ、狂気のなかで孤独な死を迎える。 ピョートルの悪魔じみたエネルギーの所産であるペテルブルクでは、破局と退屈が背中あわせになっており、人間的な生には何ら意味が与えられない。ボードレールはパリの商品世界を破局の集積として捉えたが、プーシキンは悪魔の創造したペテルブルクが、いわば誕生時にすでに破滅しており、その住民たちはたかだか人間の影絵でしかないことを示していた。ネヴァ川の荒々しい暴力は、このあらかじめ終わった都市を、何一つ変えなかったのである。 してみると、ロシア文学者のミハイル・エプスタインが『青銅の騎士』を「アンチ・ファウスト」の文学として位置づけたのも、不思議ではない。「プーシキンの作品は『ファウスト』が事実上終結したところに始まる」[27]。究極の人工都市ペテルブルクは、まさに自然を克服しようとするファウスト的な労働の一大成果である。しかし、それは人間の完成という達成感どころか、敗北感ばかりを募らせる。エヴゲーニーはペテルブルクの洪水を経て、精神的な二日酔いにいっそう深く沈み込んでゆく。ショッキングな洪水=革命の酔いは、退屈な日常がよみがえった後も、彼にだけはいつまでも残り続けた。ペテルブルクの化身であるピョートルは、この覚醒と酩酊の狭間にいるエヴゲーニーを罰するように、みじめな死に到らしめる。 かつて井筒俊彦は、意識の殻を吹き飛ばす「ディオニュソス的暴風圏」――ペストや洪水のような負の祝祭も含めて――を、プーシキン文学の核心と見なした[28]。それに付け加えれば、『青銅の騎士』の仕掛けは黒い祝祭を歌い上げるディオニュソス的な声が、かえってアンチ・ロマン的な日常に吸収されたことにある。この二重写しには、ロシア文学を深く規定する「パラドックス」(エプスタイン)を認めることができるだろう。 
  • 第六章 長い二日酔い――一九世紀あるいはロシア(前編)|福嶋亮大

    2023-09-19 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。今回は19世紀ヨーロッパにおける社会思想について分析します。アメリカ独立戦争やフランス革命の反省から、個人の人権尊重への意識が高まった前半期から、自然科学が優勢となった後半期にかけてどのような思想の変遷があったのでしょうか 。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、消費社会と管理社会の序曲
     一九世紀ヨーロッパの社会思想史は、大きく前半と後半で分けることができるだろう。アメリカ独立やフランス革命を経た一九世紀前半には、誰もが自由や幸福を追求する権利をもつという理念が、多くの思想家たちに抱かれていた。彼らは、恐怖政治に陥ったフランス革命の限界を見据えつつ、貧困をはじめとする産業社会の問題に立ち向かう新しい社会体制を構想した。 特に、一八二〇年代から四〇年代のフランスでは、サン゠シモンおよびその後継者たち(生産の優位を掲げ、人間による地球の開発を正当化し、社会を束ねる世俗宗教を支持した)からルイ・ブラン、ブランキ、さらにはプルードン(中間集団を一掃して個人を国家に依存させるサン゠シモンとは異なり、自立した個人がその労働を通じて自由と尊厳を得るアソシエーションを構想した)に到る社会主義者が、さまざまな国家像や労働観を示した。彼らはイギリスの産業革命のインパクトを強く受けつつ、しかしイギリスを「反面教師」として、労働者を中心とする社会革命のシナリオを描いた[1]。 しかし、このような変革の機運は、一九世紀後半のヨーロッパでは萎んでしまう。革命運動が下火になる一方、自然科学や医学の重要な発見に伴って、形而上学よりも実証主義が優勢となり、経済的には繁栄期を迎えた。むろん、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争といった争いはあったが、それらはいずれも短期間に終わり、その戦域も限られていた。このおおむね安定した社会では、変革のエネルギーはビジネスや科学に向けられた。芸術家もそれと無関係ではいられない。例えば、一九世紀後半のドイツの教養市民層に根ざしたブラームスは、社会問題には無関心を貫く一方、ナショナリズムには熱烈に反応した。彼の音楽も、人類全体に呼びかけるベートーヴェン的な交響曲よりも、小規模で親密な室内楽に傾いた[2]。 現代の政治学者ジョン・ミアシャイマーは、ナポレオン戦争後の一九世紀の大半が「多極的な安定構造」の時代であり「ヨーロッパ史の中で最も紛争の少ない時代になった」と評している[3]。フランス革命やナポレオン戦争のような血なまぐさい沸騰を目の当たりにすれば、その後にすさまじい変革の時代がやってくると考えるのが自然である。しかし、一九世紀ヨーロッパはかえって、大国どうしがバランスをとる相対的な安定期に入った。このような政治的不発の感覚が、当時のヨーロッパ的精神風土の根底にある。 騒乱と変革の時代から、安定と均衡の時代へ――その折り返し点を示す象徴的な出来事が、フランスの二月革命のたどった奇妙な顛末である。一八四八年二月、経済政策に不満を抱いたブルジョワたちが、フランス国王ルイ゠フィリップの体制(七月王政)を倒して新政権を樹立した。このほとんど誰にも予見できない不意打ちとして起こった革命は、ただちにヨーロッパ各地に飛び火する。フランス革命以前のヨーロッパへの回帰を企てた「ウィーン体制」の旗振り役であった保守派のメッテルニヒも、オーストリアからロンドンへの亡命を余儀なくされた。フランスの革命はヨーロッパの「諸革命」(いわゆる諸国民の春)へと発展したのである。 しかし、この不意に始まった諸革命は、あっという間に沈静化してしまった。革命運動が行き詰まるなか、ナポレオンの甥ルイ゠ナポレオン・ボナパルトが、一八五一年にクーデタを起こし、市民の絶大な支持を集め、翌年にはナポレオン三世として帝政を樹立した。彼がよく弁えていたのは、たとえ独裁者であってももはや民衆の「世論」を無視できず、禁止や抑圧という強権的なやり方では政権を保てないという、政治の新しいルールである。彼の体制はあくまで普通選挙の結果であり、民意の支持なしには成り立たなかった。 こうして、いったん勝利したはずの市民革命が、皮肉なことにかえって反動的な帝政を呼び込んでしまう――しかも、このドタバタ劇の後、社会は表面的には安定と繁栄に向かった。オリジナルのナポレオンが軍事的な拡大をめざしたのに対して、そのシミュラークルとしてのナポレオン三世はむしろ商業的・平和的な社会を望んだ。彼の政権下で開催された一八五五年および六七年のパリ万博では、産業社会そのものが神聖化され、不衛生であったパリの街もジョルジュ・オスマンの指揮のもとで「改造」された。さらに、「貧困の根絶」を目標とするナポレオン三世は、金融と産業の発達によって貧困を除去しようとするサン゠シモン主義の継承者であり、労働者用の共同住宅やリハビリ施設を建設しつつ、新しいベンチャー・キャピタルの創設にも手を貸した[4]。 この「第二帝政期」のフランスを覆ったのは、ナショナリズムとポピュリズムを背景としながら、産業そのものを宗教として、労働者の福祉や社会保障にも配慮するマイルドな権威主義であった。この新たな統治システムは、上からの一方的な禁止ではなく、ミシェル・フーコーの言う「管理」の技術を駆使しながら、世論を味方につけようとする[5]。そう考えると、一九世紀後半のフランスが、今日のポストモダンな消費社会・管理社会の序曲になっていることが分かるだろう。この時代を批評することは、ポストモダンの前駆的環境でいかなる芸術や社会思想があり得たのかという問いを惹起せずにはいない[6]。 
  • 勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」(後編)

    2023-09-12 07:00  
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    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。シリーズ前作にあたる『勇者エクスカイザー』に対し、物語の舞台が国内から地球全体へと広がっていった『太陽の勇者ファイバード』。世紀末的グローバリズム精神を見出せる本作において、「火の鳥」のモチーフは何を表していたのでしょうか。 前編はこちら。
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」
    ■「武装」するロボットと脱税
    さて、それではモチーフについても論じていこう。今作において、ファイバードたち宇宙警備隊が身を寄せるのは「天野平和科学研究所」である。これは天野博士(ひろし、という人名であるが、おそらく学術博士でもあるだろう)によって設立された民間の研究所である。宇宙のマイナスエネルギーを観測した天野博士が、その災いから人類を守ることを目的として設立されたものだ。ファイアージェットも元はレスキュー用の航空機として開発されたものと設定されており、戦う際は武装を搭載した別の支援戦闘機フレイムブレスターと合体する。これは玩具にも反映されており、頭部と胸部のデザインが大きく変わることでパワーアップした印象を与えるギミックとなっている。航空機という「鳥」が「炎」をまとうことで、戦う存在へと変わるわけだ。ファイバードとチームを組むサンダーバロンは特殊作業ビークル群の合体ロボットであるし、同様にガーディオンはパトカー・救急車・消防車という緊急救助車両の合体ロボットである。ファイバードは一応「武装」前にもいくつかの武器を搭載しているものの、そのすべてを折りたたんだり格納することを徹底している。こうしたギミックは、「本来は非戦闘用のマシン」が、危機に際して「やむを得ず武装する」という構図を強調する表現であると見ることもできるだろう。
    こうした手続きの意味は、敵対勢力と突き合わせるとよりその色彩を明確にする。敵は宇宙皇帝を名乗り地球を支配しようとするマイナスエネルギー生命体ドライアスと、Dr.ジャンゴという悪の科学者のタッグである。つまり一種の帝国主義と、それを支援する科学技術の組み合わせ――政治と科学の短絡が争いを呼ぶ悪しき存在として設定されているわけだ。一方で、天野平和科学研究所は民間の研究施設であり、ファイバードたち宇宙警備隊もあくまで侵略という「犯罪」に抵抗するために戦う警察組織ということになっている。
    そしてこの政治からの分離という価値観は徹底されている。天野平和科学研究所の財源は先祖の山々を売却した資産であるのだが、驚くべきことに天野博士は巨額の脱税を行うことでその資産を研究に費やしたことが語られる。もちろんDr.ジャンゴのように破壊と侵略に加担するのは悪だろうが、脱税も犯罪である。しかしファイバードの美学においては、税金を収めることはある政府に肩入れすることであり、それは科学の純粋性を損ね、政治との短絡というドライアス側の価値観に接近することなのである。
    また『勇者エクスカイザー』が主に日本を舞台にしていたのに対して、『太陽の勇者ファイバード』では世界を舞台にした国際色豊かなエピソードが見られることも重要だ。ドライアスは、ときに地震兵器や気象兵器を使って、「地球」を単位に侵略を行う。Dr.ジャンゴは自分がノーベル賞を得られないことに憤慨するし、ケンタ少年が想いを寄せるクラスメイトはニューヨークに引っ越す。さらにはアメリカがドライアスに支配され、それを宇宙警備隊が開放、大統領に感謝されるエピソードさえ描かれる。
    こうした設定は「お宝を奪う」という目的を持った「海賊」と戦う『勇者エクスカイザー』を継承しつつも、かなり踏み込んだものである。20世紀に対する反省からグローバリズムの文脈で平和を求める方向性が、世紀末の同時代的なトレンドであったことはすでに何度か述べた。グローバリズムにおける警察的な役割とは、戦後の世界秩序においてアメリカが果たそうとしたものであり、それはむしろ政治的な力を持った科学――強大な軍事力によって実現され、そしてそれゆえにさまざまな軋轢を生んだ。そして日本もまた、戦争の放棄という日本国憲法の理念と、日米安保という現実の間で揺れ動くことになった。その立場に対して脱税を描いてまで「政治的でないこと」を貫く美学、そして科学や技術に対する礼賛は、日本の戦後民主主義的な色合いを強く感じさせるものだ。天野平和科学研究所の掲げる「平和」とは、政治からの分離を意味する。そしてその美学が、玩具のデザインとも手を取り合っているのである。
     
  • 勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」(前編)

    2023-09-05 07:00  
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    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回取り上げるのは、「勇者シリーズ」2作目にあたる『太陽の勇者ファイバード』です。本作で掲げられる「脱政治的な平和」は、戦後民主主義的なメンタリティからはどのように読み解かれるのでしょうか。
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」
    前回はエクスカイザーが確立した勇者シリーズの基礎構造について次のように整理した。前身となる『トランスフォーマーV』においてジャン少年とスターセイバーが「子」と「父」の関係であったのに対して、コウタ少年とエクスカイザーは相補的な関係にある。本稿では、「魂を持った乗り物」という想像力の特徴を、その主体の曖昧さ、中間性・相互性に見出してきた。勇者シリーズは、完全に人間から分離した「魂を持った乗り物」が、人間と相互作用しながら互いに成熟していく構造を持った。これは子供がおもちゃを率いて遊び、一方でおもちゃに理想像を見出すことで成熟していく遊びの構造と対応することで、子供が子供のまま成熟のイメージへと接近することを可能にしている。ゆえに勇者シリーズは、単に物語としてだけではなく、玩具として高い強度を持つ想像力を提示したのである。
    それでは「谷田部勇者」の残りの作品についても、この構造を基準に見ていこう。
    ■「兄」を導入した『太陽の勇者ファイバード』
    『勇者エクスカイザー』に続いたのは、『太陽の勇者ファイバード』(1991年)だ。本作は世界観を『勇者エクスカイザー』と同じくし、その9年後を描いた作品とされている。これは後の勇者シリーズが基本的に世界観の繋がりを持たないことを考えると例外的である。とはいえ、いくつかの設定にその名残はあるものの、これは映像作品中ではっきりと名言されない。玩具それ自体にも特に連動する要素がないこともあるし、そもそもこうした年表的世界観設定が玩具の想像力に与える影響は限定的である。そのためこの設定は本稿ではさほど重要なものと見なさないことにする。
    では本作の玩具とそれにまつわる想像力について、順を追って見ていこう。まずエネルギー生命体である宇宙警備隊が地球のマシンに宿った結果が主役ロボット・ファイバードであり、これは『勇者エクスカイザー』と同様の構造である。しかし最大の特徴は、ファイバードが宿ったのが、人型――成人男性型のアンドロイドであったことだ。「火鳥勇太郎」と人間の名前を与えられたファイバードは、主人公となるケンタ少年と生活を共にすることになる。ケンタ少年は火鳥勇太郎を「火鳥兄ちゃん」と呼び慕う一方、高い知性でさまざまなことを驚異的な速度で吸収しながらも地球の常識を持たない彼を指導していくことにもなる。そして危機が訪れれば、「火鳥兄ちゃん」はファイヤージェットと呼ばれる航空機と合体し、巨大ロボットの肉体を得て、敵と戦うことが可能になるのである。
    ▲『太陽の勇者ファイバード』のポスター。火鳥勇太郎が加わっている。 勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p33
    注目すべきなのは、やはり「勇者」に成人男性の姿が与えられたことだろう。『勇者エクスカイザー』において、「勇者」はあくまで家のスポーツカーか巨大ロボットであったため、日常において少年とロボットの活動範囲は限定された領域でしか重ならない。しかし「勇者」が人間の姿であれば、少年とロボットの生活範囲はほぼ完全に一致する。これはドラマの選択肢を飛躍的に拡げる、作劇上たいへん優れたアイディアであった。想像力のレベルでは、『勇者エクスカイザー』で示された少年とロボットの関係性を、「(擬似的な)兄弟」というかたちでより直接的に提示する効果があっただろう。実際に賢く勇ましいながら、どこか常識外れなところを持ち合わせる火鳥勇太郎は、魅力的なキャラクターとして人気を博した。
    ここで火鳥勇太郎が「父」ではなく「兄」と設定されたことは重要である。「親子」の垂直的な構造から「兄弟」という水平的な構造へのシフトについては、『爆走兄弟レッツ&ゴー!』への分析を通じてすでに触れた。スターセイバーが明確に「父」であったことを考えれば、たとえば父を失ったケンタ少年に火鳥勇太郎という擬似的な父を与えることもできただろう。しかし勇者シリーズはそうすることを選ばず、火鳥勇太郎を「兄」と設定し、地球の常識を持たないゆえにケンタ少年の助けを必要とする相補的な存在と置いた。ここから逆算して、コウタ少年と相補的な関係を気づいてきたエクスカイザーもまた「父」というよりは「兄」であったと考えることができる。本稿が「魂を持った乗り物」という概念で説明しようとしているもの――ヒトとモノが相補的に成熟していくビジョンは、勇者シリーズの構造的特徴であり、世紀末、あるいは平成の同時代的な感性でもあるのだ。