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記事 6件
  • ドラマが"話題になる"とはどういうことか―「あまちゃん」と「ごちそうさん」の比較から見えること[宇野常寛]

    2014-01-30 14:57  
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    【今週のお蔵出し】
     1/21のお蔵出し:朝ドラ『ごちそうさん』はなぜ話題にならないか
        (初出:「PRESIDENT」2014年1.13号)
     いきなり内情を暴露してしまうところからはじめよう。今回の「『ごちそうさん』はなぜ話題にならないか」というタイトルは、僕がつけたものではない。前作『あまちゃん』が半ば社会現象と言えるヒットを見せたことに対して、後番組である『ごちそうさん』の話題性が低いという「前提」で僕に寄稿の依頼があった。
     しかし私見では『ごちそうさん』は話題になっていないどころか、『あまちゃん』に匹敵するレベルで話題になっている。少なくとも露骨に見劣りするレベルではない。平均視聴率は数週に渡って二〇%を超え、むしろ『あまちゃん』より良好だ。そして僕らドラマファンの間でも巧みなストーリーテーリングと脇役にまで気の利いたキャラクター演出が相まって非常に評価が高い。
     では、なぜこうした問いが編集部から投げかけられたのか。結論から述べてしまえば、『あまちゃん』は「普段朝ドラを見ない人たち」の間で異常なほど話題になっていたからだ。意地悪な表現を選べば、普段は「朝ドラ」など視界にも入らない「インテリ」の中年男性の間で、『あまちゃん』だけがめずらしく話題になったのだ。
     まず、ドラマが「話題になる」とはそもそもどういうことかを考えてみたい。一般的にテレビ番組の人気度は視聴率で計られる。もちろん、この数字は現代においては大きく形骸化していると言わざるを得ない。たとえばこの数字は計測方法の問題で録画視聴やオンデマンド視聴をまったく含めることができない。また、一定時間そのチャンネルを受像機で選択している状態を「視聴している」と判別するために 、視聴者の性質について反映することができない。つまり、チャンネルをザッピングしながらたまたまお気に入りの俳優や美味しそうな料理に目をとめただけの視聴者と、ツイッターで熱心に実況しながら放送をくまなく追いかけ関連グッズも買いあさる熱心な視聴者との区別をつけることができない。たとえばCMの訴求力一つとったとしても両者を同じ視聴者としてひとくくりで考えることにほとんど意味はないだろう。
     しかしその上であえてまずは視聴率から両者を比べてみると、『あまちゃん』の平均視聴率が二〇・六%であるのに対し、『ごちそうさん』の平均視聴率は一二月七日(第一〇週)時点で二一・九%と、むしろ高いくらいだ。にもかかわらず、本誌編集部が代表する「普段あまりドラマを見ないホワイトカラー中年男性」からは『ごちそうさん』は「話題になっていない」ように見える。ここにこの問題のクリティカル・ポイントがあるように思える。 
  • 匿名の風景に浮かび上がる不器用な"顔立ち"――なぜ写真家・小野啓は思春期の生徒を追ったのか[宇野常寛]

    2014-01-23 00:19  
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    【今週のお蔵出し】 1/14のお蔵出し:「NEW TEXT 小野啓 写真集」に寄せて
    宇野常寛が写真家・小野啓さんの写真集『NEW TEXT』に寄稿した文章をお届けします。10代の少年少女たちのポートレイトを撮りためた作品から見える、カメラフレームを通した切断的な関係性による目論見とは――? (初出:NEW TEXT 小野啓 写真集)

     小野啓の写真、とくに本書に収められたようなティーンのポートレイトを目にしたときに感じるどうしようもないみっともなさと、同時に込み上げてくるたまらない愛しさについてここでは考えてみたいと思う。小野が写した少年少女たちの「顔」たちは、みんなどこか不器用で、ナイーブで、しかしその不器用さとナイーブさに自分では気付いていない。一見、自分は図太く、ふてぶてしく生きているよ、という顔をした少年少女の小憎らしい笑顔も、小野のカメラを通すと狭く貧しい世界を我が物顔で歩いている生意気で、そして可愛らしいパフォーマンスに見えてしまう。「応募者すべてを撮影する」というルールを自ら定めている小野の作品群は、思春期の少年少女が不可避に醸し出す不格好さを切り取ることになる。自らのカメラが写してしまうものについて、小野は彼が定めたもうひとつのルール――「笑顔を写さない」から考えても極めて自覚的だと思われる。その結果、僕ら中途半端に歳をとってしまった人間たちは、その不器用さや狭さにかつての(いや、もしかしたら今の)自分の姿を発見して苛立ち、痛みを覚え、そして愛さずにはいられなくなるのだ。  
     
     もう10年ほどまえ、地方都市の「風景」の画一化が問題化されたことがあった。中央の大資本がロードサイドの大型店舗というかたちで地方の進出し、その風景を北は北海道から南は九州まで画一化していく――そう、現代は場所から、風景から「意味」が失われはじめた時代だとも言える。 
     本書に収められた小野の写真たちからは(おそらくは意図的に)匿名的な風景が選ばれている。これらの写真はいずれも「どこでもない場所」であり、同時に「どこにでもある」場所である。理由は明白だ。思春期という時間は風景を見ることを拒絶するからだ(少なくとも小野はそう感じているのだろう)。そこがいかなる歴史を持ち、伝統をもち、自然と対峙してきたかは彼らの世界の狭さによって無意味化されてしまう。 
     そして「学校」という彼らの生活を規定する舞台装置は、同時にこの社会においてもっとも強く「風景」をキャンセルする装置でもある。(その意味においてはこの時期語られていた地方の風景の画一化とは社会の「教室化」「学校化」とも言える。) 
      
  • 東京2020「裏オリンピック計画」の提案――体育祭に乗れない僕たちの"文化祭"[宇野常寛]

    2014-01-16 12:50  
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    【今週のお蔵出し】 1/7のお蔵出し:東京2020 ──裏オリンピック計画
                                      (初出:「ダ・ヴィンチ」2014年1月号)

     僕がオリンピックの誘致について最初に意識したのは、今年の春に代々木の第一体育館で行われた東京ガールズコレクションに出かけたときだ(僕は職業柄、こうしたガラでもないタイプのイベントにも出かけたりするのだ)。そのまるで90年代で時間が止まったような、「流行」も「時流」も東京のマスメディアと広告業界が創出し、発信できるのだという(僕らからすると申し訳ないけれど時代遅れに見える)自信にあふれた空間に、眩暈がしたのを覚えている。
     そんな中で、特に僕がぎょっとした──ほとんど嫌悪感すら覚えた──のが、会場に設置された東京オリンピック誘致への国民の賛意を訴える「広告」パネルだった。そこにはいわゆる「テレビタレント」と「スポーツ文化人」たちが、「(五輪招致が成功したら)私、〇〇〇〇は〜します」という「公約」が、ただし限りなくジョークに近いものが掲げられていた。たとえばお笑い芸人の浜田雅功(ダウンタウン)は「開会式のどこかのシーンで見切れます」と、女子サッカー日本代表選手・澤穂希は「銀座のホコ天でサッカーの試合をします」と、掲げている。僕はこういう遊び心を悪いとは思わない。しかし、この広告を一目見た瞬間にどうしようもなく白けてしまった。はっきり言って、サムかった。タレントのホラン千秋は「ちょっとの間、ゴリン千秋に改名します」と「公約」を掲げていたが、基本的にテレビを流しっぱなしにするという習慣のない(気になる番組だけを録画で見る)僕は彼女が何者なのか分からなかった。その状態で「ドヤ顔」でつまらないダジャレを観させられても、何というか反応に困るしかない。そして何より、僕がウンザリしたのはこの企画(「楽しい公約プロジェクト」というらしい)を考えて実行した人たちは、いまだにテレビや広告が「世間」をつくることができて、人気者とそうでない者との差をつくることができて、そして世論をコントロールすることができると思っていることだ。誰もがテレビを見て、テレビタレントを「人気者」として認知する「世間」に所属していると思っているのだ。
     もしそんな世の中が持続しているのなら、広告屋もテレビ業界も昔のように羽振りがいいはずだし、ニコニコ動画もボーカロイドも普及していない。テレビに出ない(出られない)ライブアイドルのブームも起こらない。もはや、誰もが家にいる間はお茶の間のテレビをつけっぱなしにして、そこで扱われていること=世間の出来事という「前提」を共有しているのは社会の半分でしかない。いまだに20世紀を生きる、旧い日本人だけだ。そんな自明のことが頭に入っていない(もしくは目を逸らしている)人が税金で報酬が支払われるプロジェクトの広報を担当して、大手を振って歩いているのだ。
    (結果的に招致は成功したからいいようなものの)五輪招致の、国内に対する広報戦略で重要なのは招致反対派を抑え込むことだ。招致には現地住民からの「支持率」がものいうという。このとき重要なのは「(僕のような)特に五輪自体に関心はない、したがって大反対ではないけれど、面倒なのでできれば来ないでほしい」と思っている層を明確な「反対」層に育てないことだ。しかし、こういう広報戦略は、オールドタイプのマスコミたちの勘違いは間違いなく僕たちのような層の反感を育てるだろう。実際、僕はその日から以前より強く、五輪には「来ないでほしい」と考えるようになった。
     
  • 「生きねば」で宮﨑駿がついた嘘とは?――「風立ちぬ」に見る戦後的想像力の限界[宇野常寛]

    2014-01-09 10:02  
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    【今週のお蔵出し】 12/31のお蔵出し:鳥は重力に抗って飛ぶのではない『風立ちぬ』
                                      (初出:「ダ・ヴィンチ」2013年9月号)
     この夏公開された宮崎駿の新作長編アニメ映画『風立ちぬ』は、試写の段階から数多くの作家や批評家、編集者等の絶賛を集めていた。アニメ監督の細田守、特撮監督の樋口真嗣など試写で観た専門家の中には宮崎駿の最高傑作だと評する声も少なくない。この文章を書いている7月某日の時点ではまだ専門家の評価は出そろっていないし、興行成績の行方も分からない。しかし宮崎駿の5年ぶりの監督作品ということもあり注目度は極めて高く、今年最大の話題作になることは間違いないだろう。(かくいう僕も試写で数週間前に鑑賞している。)
     論を進める前に、簡単にその内容を要約しよう。東日本大震災以降、宮崎駿は「いまファンタジーを描くべきではない」とする旨の発言を行なっている。その発言通り本作『風立ちぬ』は宮崎作品の中でもっともファンタジー要素の薄い作品となった。ゼロ戦の設計者として知られる軍事技術者・堀越二郎の半生を、堀辰雄の同名小説に着想を得て脚色したという本作の舞台は戦前から戦中にかけての時代である。主人公の二郎は比較的裕福な家庭に生まれ、優しい母親に慈しまれて育ち、弱いものいじめを見過ごさない高潔な精神をもった少年として登場する。二郎はこの少年期から飛行機の魅力に捉われている。しかし近眼の二郎は自分がパイロットにはなれないことを知り、その夢は飛行機をつくる技術者になることに傾いてゆく。とくに二郎はイタリアの技術者カプローニへの憧憬を募らせるようになり、いつかカプローニのような「美しい飛行機」をつくることが目標になってゆく。
     そんな二郎が学生の折、関東大震災を経験する。このとき二郎と偶然出会うのがヒロインの菜穂子だ。二郎は菜穂子とその侍女の避難を誘導し実家まで送り届ける。その後、二郎は希望通り飛行機の設計者になり、戦闘機の開発に従事するようになる。そしてドイツ留学から帰国後に避暑地にて菜穂子と運命的な再会を果たし、恋に落ちる。菜穂子は重い結核にかかっていることを告白するが、二郎はそれを受け入れてふたりは婚約する。その後、二郎は主力戦闘機(のちのゼロ戦)の設計者に抜擢され、仕事に没頭する。一方の菜穂子の病状は悪化し、先が長くないことを悟った彼女は病院を抜け出して無理を押して二郎のもとにかけつけ、ふたりは結婚する。ちょうどゼロ戦の開発が佳境にさしかかったころ、ふたりの短い結婚生活が送られることになる。そしてゼロ戦の開発は成功し、菜穂子は間もなく亡くなったことが示唆される。「美しい飛行機」をつくるという夢を叶えた二郎だが、それが戦争の道具として使用され、巨大な殺戮と破壊の象徴になってしまった現実に直面するが、菜穂子の存在を支えに「生きねば」と決意する。
     本作については、その完成度を評価する声が集まるその一方で「美しい飛行機をつくる」ことを追求する二郎と、菜穂子との恋愛の二つの物語が乖離して、噛み合っていないという批判も多く寄せられている。たとえば先日、僕はアニメ作家の富野由悠季監督と対談後、食事をしながらこの映画について語る機会があった。宮崎駿と同年齢である富野はこの映画の肝はカプローニの解釈、つまりテクノロジーと文明を巡る物語にあり、菜穂子との恋愛物語は添え物に過ぎないと語った。もちろん、富野はそれを否定的に語ったのではなくそれゆえに同作は傑作だと主張した。しかし、僕の考えは少し違う。僕の考えでは、むしろこのふたつの物語は根底で深くつながっているのだ。
     
  • AKB48第二章を予言する「恋チュン」――国民的「音頭」はいかにつくられたか[宇野常寛]

    2013-12-31 11:40  
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    【今週のお蔵出し】 12/20のお蔵出し:それは「神様」も知らない『恋するフォーチュンクッキー』
                                      (初出:「ダ・ヴィンチ」2013年10月号)
     最初は何を言われているのか、よく分からなかった。電話の相手はフジテレビのプロデューサーで、僕が6月の総選挙特番の解説に出演したときの担当者だった。秋元先生からの伝言があるんです、というから何事かと思った。そして次の瞬間、たぶん番組の感想なのだろうと思いあたり、だとするとこうやってスタッフに伝言を頼むということはそう悪くない内容に違いないと、勝手に胸を弾ませた。だからそれがまさか僕に「ダンスを踊れ」というオファーの電話だとは思わなかった。
     AKB48第5回選抜総選挙は、大方の予想を覆し姉妹グループHKT48所属の指原莉乃の1位奪取という結果を迎えた。そして指原をセンターに迎えた新選抜メンバーが歌う新曲『恋するフォーチュンクッキー』は発売と同時に、いや発売直前からちょっとした社会現象になりつつある。
    「音頭」を裏コンセプトにしたと言われるこの『恋するフォーチュンクッキー』のミュージック・ビデオは指原の所属するHKT48の本拠地である福岡・博多での4000人近いファンが参加した公開収録を皮切りに、全国各地でメンバーと一緒に一般参加者がダンスを踊る姿が撮影されていった。
     7月から始まった夏の5大ドームツアー(福岡、札幌、大阪、名古屋、東京)では必ずアンコール時に会場の数万人のファンにステージ上からメンバーがこの曲のダンスは一緒に踊って欲しい、という呼びかけを行った。
     そう、この『恋するフォーチュンクッキー』は誰もが踊ることができる/踊って欲しい、という願いのこもった新曲として世に送り出されたのだ。
     ブームのきっかけは7月にYouTube上に公開された「スタッフver.」と題された動画だった。その動画ではAKB48劇場総支配人の戸賀崎智信氏以下、メイク・衣装担当、広報・事務担当、レコード会社の担当者、コンサート放送関係のスタッフなどが次々と登場し、それぞれの職場で不器用な、でもとても楽しそうなダンスを披露した。この動画はたちまちインターネット上で爆発的な話題を呼び、公開約1週間で約400万再生を記録した。(僕自身、キングレコードの湯浅順司氏や映像制作担当の北川謙二氏など、面識のあるスタッフがノリノリで踊っているのを見て、いったい何をやっているんだ、と衝撃を受けた。)
     この「スタッフver.」の起こした衝撃は海外にも波及した。「スタッフver.」に刺激を受けたというテキサスのファンがインターネット上で活動を開始した。彼らはソーシャルメディアで全世界のファンに動画の投稿を呼びかけた。その結果、インドネシア、オーストラリア、フランスなど14か国80名以上が参加した「ファンver.」が完成し、YouTube上に公開された。さらにこれらの動きに刺激を受けた女性向けブランド・サマンサタバサのスタッフによる「サマンサタバサver.」などが話題を集めている。これらの現象がシングルCD発売「前」の現象であることを考えると、この先ファンによる自主動画のアップロードが連鎖する現象が起こることも十二分に想定される。
     実際にシングルCDの売り上げも今のところ好調で、発売初日の8月20日に109・6万枚を記録している(もちろんオリコンチャートでは1位だ)。初日のミリオン達成は、総選挙の投票券が付属する毎年初夏にリリースされるシングル(つまりファンの購買動機が選挙によって極端に上昇するシングル)を除けばグループ初のことであり、早くもファンからの高い支持がうかがえる。
     
     おそらく、この『恋するフォーチュンクッキー』で秋元康が狙っているのは、国民的「音頭」をつくること、だ。今や幼稚園のお遊戯や、カラオケの定番になりつつある2010年の『ヘビーローテーション』が築いた地位を自ら乗り越えるのがその目的なのではないかと思う。
     昨年夏の前田敦子の卒業と、結成当初からの目標である東京ドームコンサートで誰もが認めるようにAKB48の第1章は完結した。秋葉原の小さな劇場に10人足らずの観客を呼ぶことしかできなかった地下アイドルは今や知らない日本人を探すほうが難しい国民的アイドルグループに成長した。参加型のユニークなシステムと、劇場や握手会などのイベント(+ファンたちのソーシャルメディア発信)に軸足を置き、動員力をつけながら徐々にマスメディアを席巻していく戦略でエンターテインメント状況を一変させた。
     そして前田の卒業からのこの1年は、これらのミッションをクリアしてしまったAKB48がこの先どこへ行くのかを占う試行錯誤の1年だったように思う。たとえば開催中の5大ドームツアーも、たしかに規模こそ広がったのだろうが何を目指しているのかはいまひとつ不明瞭だ。メジャー化という観点においては、AKB48グループは既に頂点を極めている。
     上に昇っていくゲーム=AKB48の第1章が完結したのならば、水平に広がっていくゲームがAKB48の第2章になっていくはずだ。そう、地下アイドルが国民的アイドルに昇り詰めるのが第1章なら、第2章はプロ野球やJリーグ、あるいは宝塚歌劇団のように、地域に根を下ろしてこの国の文化インフラとして定着していくのがそのミッションになるのではないか。この1年は、まさにこうした第2章のミッションが課題として自然と浮上してきた1年だった。
     たとえば昨年末にはSKE48の主要メンバーが大量離脱するという「事件」があり、地方グループ経営の難しさを露呈させた(地方グループの選抜メンバーよりも、AKB48本体の非選抜メンバーの方が有利であるという「現実」がメンバーを失望させたことは想像に難くない)。また海外進出についてはインドネシア(JKT48)の盛況と裏腹に、中国(SNH48)は政治的問題で難航しており、一進一退を続けている。
     AKB48が水平方向に広がり、この国の文化的なインフラとして定着していくためにはこうした課題をクリアしていくことが不可欠なのだ。そんな中開催された『恋するフォーチュンクッキー』を歌う第5回選抜総選挙で1位を獲得したのは、姉妹グループHKT48の指原莉乃だった。
     さて、ここでこの『恋するフォーチュンクッキー』の歌詞について考えてみよう。
     一見、秋元康がこの曲に与えた歌詞に特筆すべき点はないように思える。地味で平凡な女の子が片思いの相手のことを考えている。相手はたぶん、自分に釣り合う相手ではない。けれど、ふとしたきっかけで(カフェテリア流れるミュージック/ぼんやり聴いていたら)片思いの生む「楽しさ」が彼女を強気にしていく。そして「未来は そんな悪くないよ」「人生 捨てたもんじゃないよね」と世界の可能性を信じられるようになっていく。こうした片思いの気持ちそれ自体(アイドル=AKB48という装置の比喩)が、世の中に絶望しないで済む希望の根拠になっていく、というのは秋元康がAKB48に与えた歌詞には多くみられるパターンにすぎない。(たとえば『大声ダイヤモンド』がそうだ。この歌詞の主人公の「僕」は「僕たちが住むこの世界は 誰かへの愛で満ちている」ことを確信した結果、「空を見上げている」だけで「涙が止まらない」状態にある。そして「好きって言葉は最高さ」と3回繰り返している。)
     しかしここでこの主人公の地味で平凡な女の子がセンターの指原莉乃への「あて書き」で造形されていることに注目してみよう。
     この歌詞に登場する「カフェテリア流れるミュージック(=大衆歌謡曲)」と「フォーチュンクッキー」は、それぞれAKB48(というシステム)と、その結果信じられるようになる世界の可能性のことだ。 
  • 「ガンダムAGE」はなぜ失敗したのか――"遊び"への信頼を見失ったレベルファイブ日野[宇野常寛]

    2013-12-20 20:08  
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    【今週のお蔵出し】「フリット・アスノの魂は、円堂教に救われる『イナズマイレブンGO クロノ・ストーン』」
                                      (初出:「ダ・ヴィンチ」2013年7月号)


     フリット・アスノは高名なエンジニアの家系──アスノ家──の長男として生まれた。幼少期からその天才を発揮し、周囲を驚愕させていたというフリットだが、その運命はある事件で一変する。彼が生まれた当時、人類は正体不明の外敵の脅威に晒されつつあった。そしてフリットが七歳を迎えたある日、生まれ育ったスペースコロニーが敵の襲撃を受け、彼は最愛の母親を失う。既に父親を亡くしていたフリットは天涯孤独の身になった。フリットは軍事技術者だった母親の意志を継ぎ、外敵に対抗し得る新兵器──ガンダムの開発を引き継ぐことを決心する。そしてフリットが14歳になった日、地球人類はようやくその姿を現した外敵──火星移民者による軍事国家ヴェイガン──との戦争状態に突入する。フリットは自ら開発したガンダムを操り、人類の救世主となるべく戦いに身を投じる。その胸に刻まれたフリットの復讐心は、戦いの中で恋人や仲間が犠牲になっていくことでさらに肥大してゆく……。
     これは一昨年(2011年)から1年間放映されたテレビアニメ『機動戦士ガンダムAGE』のあらすじだ。本作は全四部構成となっており、第二部ではフリットの息子アセムを、第三部と四部ではアセムの息子(フリットの孫)キオを主人公に、約100年に及ぶ地球人類とヴェイガンとの戦争の行方を描いた大河ストーリーが展開する。
     はっきり述べれば、本作は「ガンダム」シリーズ屈指の不人気作品だ。ストーリー原案に株式会社レベルファイブを率いる人気ゲーム作家・日野晃博(代表作に「レイトン教授」「イナズマイレブン」シリーズがある)を迎え、主に小学生男子を中心とした低年齢層をターゲットにしたと思われる本作は、視聴率、ソフト販売、玩具の販売とすべてにおいて苦戦が報じられた。失敗の原因はいくらでも思いつく。1年の放映期間をもってしても圧倒的に尺が足りず、詰め込み過ぎのエピソードを強引に処理する脚本は常に総集編を見ているかのような印象を視聴者に与えたのは間違いないし、近年のアニメとしては作画のクオリティも高いとは言えなかった。
     しかし、僕が引っ掛かるのはもっと別のことだ。僕は日野晃博は現代日本を代表する作家のひとりだと考えている。日野は僕の知る限りもっとも果敢に「失われた20年」以前の少年漫画(ジャンプ)、児童漫画(コロコロコミック)のドラマツルギーを現代的なものにアップデートすることに挑戦している作家であり、そして相応の成果を上げている作家である。しかし、その日野をもってしても、「ガンダム」を扱うことはできなかったのだ。