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記事 7件
  • 宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』最終回 三次元化する想像力(2)

    2018-04-13 07:00  
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    2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。映像の世紀が終焉したいまもなお、虚構を通してしか描けない現実がある。最終回の今回は、研究者でメディアアーティストの落合陽一さん、チームラボ代表・猪子寿之さんの取り組みへ期待を寄せながら、現代版にアップデートされた〈ゴジラの命題〉について論じます。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
    ニュータイプと〈魔法の世紀〉
     富野由悠季にも、2015年秋に久しぶりに連絡を取った。私が自分の事務所から出版した、若い科学者の本に推薦文をもらおうと考えたからだ。もちろん、それは口実で私の狙いは富野を挑発することだった。〈Gのレコンギスタ〉について対談したときに伝えきれなかったことを、自分の企画した本を読んでもらうことで伝えようとしたのだ。
     メディアアーティストでもある筑波大学の落合陽一はコンピュータプログラムによる光波/音波の制御によって、触感をもったレーザー、音波による空中の物体固定などを実現し、これらの研究開発で内外からの注目を集めている。
     そして落合はいう。このネットワークの世紀は同時に「魔法の世紀」なのだと。20世紀は映像という発明が、具体的には広義の劇映画的な映像が、人々をつなぐ最大の媒介として機能し、かつてない規模の社会(文脈の共有)を実現した。そしてそれゆえにモニターの中の映像こそが、もっとも批判力のある視覚体験として共有されていた。しかし、その映像の世紀は技術的に乗り越えられようとしている。ネットワーク技術の発達はいま、人間と人間、人間と事物、事物と事物と直接続しつつある。そしてコンピュータの処理能力の向上によって、もはや人々にモニターの中で何が起こっても本質的に驚かすことはできなくなっている。
     そんな映像の世紀の後に訪れた世界――本稿ではネットワークの世紀と呼んだ既に訪れつつある未来――を、落合は自らの研究で〈魔法の世紀〉にするという。実際に映像に代替する次世代の視覚体験の研究開発を手掛ける落合はこう主張する。
     エジソンからリュミエール兄弟までの時代――生まれたばかりの映像はまさに「魔法」そのものだった。しかし、その魔法は驚くほど短い時間で、覚めた。瞬く間に人々に浸透し、当たり前のものとなり、もはや魔法ではなくなってしまった映像は物語の器となることでその社会的な機能(媒介者)を得、そしてそれゆえに前世紀の社会の構造を規定する装置になっていった(映像の世紀)。しかしそれは同時に劇映画とは魔法を失った映像の屍(しかばね)にすぎないことを意味するのだ、と。そして媒介者としての、文脈の共有装置としての映像がその役割を終えようとする今、全盛期における劇映画のように人々の心を動かすものは何か。それが編集者としての私が作家としての落合に投げかけた問い、だった。
     落合の回答はこうだ。
     映像の世紀が終焉したいま、魔法的な技術こそが人々の心を動かすだろう、と。映像の、特に劇映画的なものによる他者との文脈共有がその威力を決定的に低下させたとき、それに代わるもの――人の心を決定的に動かすもの――は劇映画以前の映像がそうであったように魔法的な技術そのものだ、と落合は言うのだ。そして自分の研究はその最先端であり、新時代のアートそのものである、と。さらに、遅れてきた富野由悠季のファンを自称する落合は言う。富野自身とは異なり、自分はニュータイプの理想を信じているのだ、と。幼いころに見た富野のアニメーションから得たイマジネーションを、自分は社会に実装するのだと。〈魔法の世紀〉とは人類をニュータイプに導くものだ、と。
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  • 宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第6回 三次元化する想像力(1)

    2018-04-04 07:00  
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    2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。宮崎駿、富野由悠季、押井守--戦後アニメーションを牽引した映像作家たちが、〈映像の世紀〉の終焉とともに批判力を失ってしまったいま、〈ゴジラの命題〉を受け継ぐものとは? (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
    「それが、ほんとうにできる」こと
     戦後アニメーションの「終わり」について考えてきた本稿の最後に現在を生きる私たちはこの戦後アニメーションの、いや、戦後サブカルチャーの遺産――〈ゴジラの命題〉――から何を持ち帰り、何をなし得るのかについて問いたい。
     それは同時に、Google的な、Ingress的な、ポケモンGO的な、そしてジョン・ハンケ的なアプローチ――政治と文学を(大きな)物語ではなくゲームで結ぶアプローチ――とは異なる想像力のかたちを問う行為でもある。
     もはや「映像の世紀」は過去のものとなりつつあり、社会の情報化は情報(文章、音声、映像)それ自体が価値を持っていた時代を過去のものにした。レコードからフェスへ、自分だけの感動を与えうる体験が、現実だけが人の心を動かす時代が既に世界を侵食し始めている。それは、世界ではなく自己を変え、世界を変える代わりに世界の見え方を変えることしか信じられなかった時代の終わりを意味している。そして自らがこの新しい世界を牽引するのだ、と自負するGoogleは世界をあまねく情報化し、適切なゲーミフィケーションを施すことで誰もが自分だけの感動、自分の物語を体験し得る環境の整備を進めている。
     そしてこのGoogle的な想像力は、いま戦後サブカルチャーの遺産を吸収することで、急速にハイブリッドなかたちに進化しつつある。
     日本的妖怪(キャラクター)としてのモンスター群に導かれて、私たちはこのGoogle的な想像力で情報化され、検索可能になった世界に深く潜ることができる。そして世界を見る目を養うことができる。そして自然に、歴史に触れることで人々は確率的に解放され得る――それが、カリフォルニアン・イデオロギーの体現者であるGoogle的な想像力の最新のかたちであり、それはいま日本的な、それもプリミティブなものを取り込むことで進化/深化しつつあると言えるだろう。
     しかし、私が最後に提示したいのは、このGoogle的なものとの結託とはまた異なった、正確にはその前提を同じくしながらも微妙に異なった応答としての道だ。
     それはGoogleとは異なるアプローチによる、カリフォルニアン・イデオロギーに対する戦後日本サブカルチャーからの応答案のようなものだろう。
     2014年の5月、私は自分の媒体(メールマガジン)の取材として、あるプロダクトデザイナー(根津孝太(ねづこうた))と対談していた。トヨタからそのキャリアをスタートし、現在は超小型モビリティの主導者として知られる根津との対談は彼の本業であるカーデザインの話題からはじまり、そしてお互いの趣味であるレゴブロックに移動した。根津は少年時代からレゴに親しみ、コンクールで入賞した経験すらあるのだという。プロダクトデザインの思考は、それが現実に存在できることを前提に要求される。根津少年はその思考をレゴから学んだのだ、と。そして続けて根津はこう述べた。

    《根津 河森正治さんって変形モノで有名なメカデザイナーの方がいらっしゃいますよね。河森さんって、レゴで試作を作るらしいんですよ。バルキリーとかも、ロボットから飛行機になるプロセスや構造を、レゴ・テクニックを使って作るんだそうです。
     バルキリーは、明らかに現実ではない。言わば妄想です。でもそれをおもちゃやプラモデルにしようとすると、それなりに変形してロボットから飛行機になってもらわないといけないというリアリティが必要なんです。
    宇野 80年代前半から半ばはマクロスやトランスフォーマーの影響で、変形ロボットばかりが幅を利かせていて、挙句の果てにガンダムまで変形してしまったわけですが、玩具やプラモデルで変形とプロポーションを両立することは不可能だったんですよね。変形モデルはまずプロポーションがガタガタで、そしてプロポーション重視のモデルは変形しなかった。
    根津 最近のトランスフォーマーの映画になると、CGでバンパーの裏からニョキニョキとパーツが生えてくるという(笑)。あれはあれでああいう金属なんだっていう設定もちゃんと用意されているし、映像としてはいいんですけどね。
     おもちゃにするっていうのは、実は圧倒的なリアリティのひとつなわけなんですよ。例えばミニ四駆なんかも、実車じゃないけど、実車より厳しいデザインの要件もあるんです。インジェクション成形で一発で抜けないといけないとか。河森さんは、そういうことをレゴを使って検証しつつ、しかもかっこよくしているんです。妄想と現実に、きちんと片足ずつ足をつけている。》(【特別対談】根津孝太(znug design)×宇野常寛「レゴとは、現実よりもリアルなブロックである」)

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  • 宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第5回「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション(2)

    2018-03-23 07:00  
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    2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。アニメファンの間で定着している「聖地巡礼」という文化、そして疑似同性愛的コミュニケーションの消費。そこには「空気系」の世界観が大きく寄与していると宇野常寛は指摘します。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
    データベースと聖地巡礼
    〈外部〉=〈ここではない、どこか〉を喪い、〈いま、ここ〉の関係性=「つながりの社会性」が肥大する――。「空気系」の前提となる社会の風景は、多分に政治的に決定されたものだ。
     たとえば前述の「無場所性」について考えてみよう。前節で紹介したように『木更津キャッツアイ』における千葉県木更津市は、その典型的な「郊外」の風景によって無場所性の象徴として機能している。グローバル資本主義が画一化させる消費環境とライフスタイルが、この「無場所性を体現する風景」を体現しているのだ。そしてこの「郊外」の風景は日本においてもまた、当然極めて政治的に醸成されたものだ。「ぶっさん」が二十歳まで木更津から出たことがないという設定は、彼の性格設定上の演出ではなくむしろこの物語世界の比喩に基づいたものだと考えたほうがいいだろう。本作は、世界中のどこへ行っても同じ風景(同じライフスタイル)が存在する現代、グローバル/ネットワーク化によって世界が一つに接続され、〈外部〉=〈ここではない、どこか〉を喪い、〈いま、ここ〉だけが無限に広がるようになってしまった現代社会を、木更津という無場所的な郊外都市に象徴させているのだ。「ぶっさん」は、木更津から出られなかったのではなく、どこへ移動してもそこが木更津と変わらない場所だから「出なかった」のだ。「空気系」はその外見とは裏腹に、極めて政治的な「風景」に規定されてきた想像力でもあるのだ(※1)。
     郊外都市の風景が体現するグローバル/ネットワーク化後の世界の風景の下、ローカルな関係性がアイデンティティ獲得の要素として肥大する=「つながりの社会性」が肥大する現代において、「空気系」は極めて直接的に消費者の欲望を捉えていると言える。だが第1節で述べたように、私がこの「空気系」に注目するのは、その消費者の欲望に忠実なサプリメント性を引き受けるがゆえに、少なくとも「ユニーク」ではある奇形的進化を遂げているケースが少なくないからだ。前述の『リンダ リンダ リンダ』や『木更津キャッツアイ』が、空気系への分析的アプローチによって成立しているメタ空気系とも言うべき作品群だとするのならば、これから取り上げるのはその一方で極めてベタに空気系的な欲望を追求することで、異質なものを結果的に読み込んでいる作品群、いや、消費者たちの作品受容だろう。
     たとえば「空気系」の代表作である美水かがみ『らき☆すた』は2007年に放映されたテレビアニメ版をきっかけに、「聖地巡礼」というユニークな現象をアニメファンコミュニティに定着させた。これはこのテレビアニメの背景美術に、埼玉県鷲宮町や幸手市など実在の都市の風景をほぼトレースしたものが使用されたことから、同作のファンたちがそのモデルとなったスポット=聖地を巡礼するという「お遊び」である。しかしこの「お遊び」はインターネットを中心にブームとなり、当該の自治体のいくつかは町おこし企画の一環としてこの「聖地巡礼」を奨励し、取り込んでいくという動きを見せた。もちろん、こうしたファン活動自体はそれほど珍しいものではない。だが、ここ数年の「聖地巡礼」ブームはその規模と作品それ自体の性質とのかかわりにおいて特筆すべきものを見せている。

    ▲『らき☆すた』
     後者については補足が必要だろう。本作の、とくにテレビアニメ版は随所にオタク系ポップカルチャーのパロディがちりばめられている。このパロディ群は、無場所的で無時間的な「空気系」の作品世界に、運動をもたらす要素として機能している。つまり端的に理想化されたキャラクター間の関係性を描く「空気系」の予定調和的な快楽に介入可能であり異質な要素としてポップカルチャーのデータベースが選ばれているのだ。〈外部〉を喪った(無場所的、無時間的)な世界を引き受けながらも、それを多重化するために、ここではポップカルチャーのデータベースが導入されている、と言い換えることも可能だろう。そして、このポップカルチャーのデータベースの「活用」は、テレビアニメ『らき☆すた』の作者たちの採った手法であると同時に、同作の消費者たちが「聖地巡礼」で採った消費行動でもある。本来何ものでもない街並みが、ポップカルチャー(ここでは『らき☆すた』)のデータベースを流しこむことにより、その土地本来の歴史性や土着性とは関係なく「聖地」と化すのだ。
     批評家の福嶋亮大はここで作用している想像力を「偽史的想像力」と呼んでいる。福嶋がこの言葉を選んだ背景には、ポストモダン的な「大きな物語=歴史」の凋落後の想像力という意味合いが存在すると思われる。〈外部〉を喪い、歴史が個人の生を意味づけないポストモダンの現在において、〈いま、ここ〉の「つながりの社会性」が肥大する。このとき〈外部〉の不可能性を自覚しつつも祈り続けるという否定神学的な態度に捉われることなく、「つながりの社会性」を引き受けながらも世界に想像力を行使する方法として「偽史」が選ばれるのだ。

    ※1 また無時間性のもつ、子を生み、育て、そして死んでいくという時間的な運動に対する抵抗、または排除という要素は「空気系」、特に男性消費者を対象にした「萌え四コマ漫画」において重要なモチーフとして機能している。たとえば「空気系」の源流とされるあずまきよひこ『あずまんが大王』や、現在(2011年)の「空気系」を代表するヒット作品である『けいおん!』(及びそのテレビアニメ版)では、「卒業」という無時間性を強制的に遮断する装置を経ても(学園を去っても)彼女たちのコミュニティがいかに「そのまま」であり続けるかという主題が、静かに、しかし極めて大きな存在感をもって描かれることになる。

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  • 宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第4回「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション(1)

    2018-03-16 07:00  
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    2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。今回からのテーマは「空気系」です。物語から「目的」の排除とホモソーシャリティの導入した『ウォーターボーイズ』を中心に、その後の作品群について論じていきます。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
    【お知らせ】
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    「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション
    1 「空気系」と萌え四コマ漫画
    「空気系」とはインターネットの漫画、アニメなどのファンコミュニティ上で用いられる、特定の物語形式を指す造語である。インターネット発の造語ということで、まずはWikipediaを参照してみよう。

    空気系(くうきけい)とは、主にゼロ年代以降の日本のオタク系コンテンツにおいてみられる、美少女キャラクターのたわいもない会話や日常生活を延々と描くことを主眼とした作品群。日常系(にちじょうけい)ともいう。これらは2006年頃からインターネット上で使われ始めた用語である。(2011年3月7日参照)

     漫画ジャンルは今や日本の出版産業を事実上支える巨大産業に成長している。その産業としての肥大はコンテンツの多様化とシーンの拡散をもたらし、ゼロ年代と呼ばれた先の十年は「漫画」というジャンル全体を視野に入れた状況論が難しいという認識が共有されていた。そんな中で、数少ない明確な変化が、「萌え四コマ漫画」というジャンルの勃興だったと言える。
     90年代以前から性的な魅力をアピールしたいわゆる「萌え」系のキャラクターデザインを用いた四コマ漫画は散見されたが、ジャンルとしての勃興とその後の定着の端緒となったのは1999年の『あずまんが大王』のヒットだろう。あずまきよひこによる同作は、ある高校に通う美少女キャラクター数名のグループの、他愛もない日常生活をコメディタッチで描きオタク系文化の男性消費者たちの大きな支持を受けた。この『あずまんが大王』のヒットを契機に、オタク系の男性消費者をターゲットにした類作=萌え四コマ漫画は大きく隆盛した。2003年の『まんがタイムきらら』創刊を契機に専門誌も複数刊行されるようになった。専門誌については漫画雑誌という制度自体の斜陽もあって休刊するものも散見されたが、単行本市場における萌え四コマ漫画は先の十年を通じて完全にジャンルとして定着したと言ってよいだろう。

    ▲『あずまんが大王』
     もちろん、萌え四コマ漫画=空気系という等式が成立しているわけではない。しかし、この十年主にテレビアニメ化などのメディアミックスを経て、オタク系男性消費者に強く支持された萌え四コマ漫画を列挙すると、萌え四コマブームと「空気系」ブームが限りなくイコールであることが分かるだろう。美水かがみ『らき☆すた』、蒼樹うめ『ひだまりスケッチ』、かきふらい『けいおん!』――これらの漫画作品はいずれも先の十年において新房昭之、山本寛といった若手演出家、あるいはシャフト、京都アニメーションなど有力スタジオによって映像化され、国内のテレビアニメシーンを牽引した作品となっている。そして、これらの作品はいずれも前述の――あくまでインターネット上のファンコミュニティから自然発生した造語なのでその定義は曖昧なのだが――「空気系」の特徴を有している。
     そこで描かれるのは男性の登場人物が(ある程度)排除された女性だけの共同体であり、そしてそこで展開する物語は達成すべき目的や、倒すべき敵の存在しない日常生活上のエピソードだ。そして、これらの作品はその状態を幸福なものとして描き、読者の共感を誘引している。
     萌え系と呼ばれるオタク系作品が広義のポルノグラフィとして機能している側面に注目したとき、この「空気系」の隆盛は非常に興味深い論点を孕んでいる。90年代末の美少女(ポルノ)ゲームブームを参照すると明らかなように、従来の「萌え」は消費者の感情移入の対象となる男性主人公が設定されており、この男性主人公がヒロイン(たち)に愛されることで疑似恋愛的な快楽をもたらすという回路が採用されてきた。そのため、この種の作品における男性主人公は中肉中背で無個性的な人物に設定され、消費者が自身のステータスと照合して感情移入に失敗してしまうことを事前に回避する方法が頻繁に採用されていた。しかし、空気系作品には美少女(ポルノ)ゲームにおける男性主人公のような「視点」を担うキャラクターが存在していないのだ。
     もちろん、空気系作品はそれ以前の「萌え」作品と同等に、あるいはそれ以上にポルノグラフィとして消費されており、制作者の多くがそのことに自覚的であり積極的にその快楽を追求していると言ってよい。つまり、空気系作品は「萌え」=ここではキャラクターを介した女性所有の快楽を追求した結果、視点を担う男性主人公を消去してしまっているのだ。そして空気系におけるこの視点=男性主人公の消去は、物語における目的の消去と必然的に重なり合っている。
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  • 宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第3回 坊屋春道はなぜ「卒業」できなかったのか

    2018-03-09 07:00  
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    2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。90年代を代表するヤンキー漫画『クローズ』の登場人物の中で、唯一勝利や覇権に興味を示さなかった坊屋春道。ヤンキー社会の擬似的な自己実現に無関心だからこそ「最高」の男でありえた春道は、仲間たちが「成長」するなかなぜ「卒業」できなかったのか--? (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)

    ▲『クローズ(1)』
    「最強の男」から「最高の男」へ
     高橋ヒロシ『クローズ』は90年代を代表するヤンキー漫画である。月刊「少年チャンピオン」に1990年から1998年まで連載されていた同作は、マイナー雑誌の掲載と言うこともあり決してメジャーな作品ではなかった。しかしヤンキー漫画ファンのあいだで9年の長期連載のあいだにじわじわとファンを獲得、さらには松本人志など芸能人のマスメディアによる紹介などでその支持を拡大していった。2000年代にはその前日譚的な物語を描く『クローズZERO』が二回にわたって映画化されいずれもヒットを記録している。現在もその続編『WORST』が連載中で高い支持を得ており、高橋ヒロシおよび『クローズ』シリーズは現代におけるヤンキー漫画を代表する存在であると言えるだろう。
     なぜ高橋ヒロシで、なぜ『クローズ』なのか。本連載の読者は疑問に感じるかもしれない。しかし本連載でこれまで論じてきた問題を追究する上で、高橋ヒロシという作家について論じることは非常に大きな意味をもつと私は考えている。そのためにまず『クローズ』の概要をもう少し詳しく説明しよう。
     物語の舞台は「とある街」とされる。地名は明かされないが、作中の描写から考えて人口数万〜十数万人の地方都市と思われる。(ファンコミュニティにおいては高橋の在住している長野県松本市がモデルと言われている。)この「とある街」のいわゆる「底辺」高校(男子校)が鈴蘭高校だ。「カラスの学校」の異名を持つこの鈴蘭高校は、地域でも有数の不良生徒の集まる学校として知られている。と、いうより全校生徒の大半がいわゆる「不良生徒」であり、彼らはそれぞれ数人から数十人、多い場合は百人単位で派閥を構成し、学校社会の覇権を獲得するために日々抗争を繰り返している。物語の前半はこの鈴蘭高校内の派閥争いが、中盤以降は他校との抗争が描かれることになる。だが、物語の主人公の春道は、いや春道だけはこの覇権抗争に一切興味を示さない。

    〈オレはおまえらと同じで/よそを放り出されて鈴蘭(ここ)へ来たただの勉強ぎらいさ/ただちょっと違うのは/オレはグレてもいねーしひねくれてもいねえ!/オレは不良なんかじゃねーし悪党でもねえ!!〉

     これは序盤のエピソードで「お前は一体何ものだ」と尋ねられた春道が自らのスタンスを語る場面での台詞である。そう、彼は不良でもなければグレてもいない。作中最強クラスの戦闘力をもつ主人公でありながら、権力抗争に一切関心がないだけではなく、ここで春道はそもそも自分は「不良」ではないと宣言している。春道は単に「勉強が嫌い」で「ケンカが好き」なだけで、決してアウトローであることに意味を見出していないのだ。したがって「鈴蘭のてっぺん」にも「大人社会への反抗」にも興味がない。春道の行動原理は目の前の快楽(楽しそうなことがある、女の子と知り合える)の追求と、仲間を守る、このふたつだけなのだ。圧倒的な戦闘力(ケンカの強さ)をもち、鈴蘭とその周辺をめぐる状況を一変させることができる春道だが、劇中の登場人物の中で彼だけがそんな勝利と覇権に興味を示さないのだ。
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  • 宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第2回「SDガンダム三国伝」とさまよえる男性性(2)

    2018-03-02 07:00  
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    2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。戦後の日本文化の中で育まれた「ロボット」の持つ「ねじれ」。今回は「ガンダム」のなかでもさらなる奇形として三重の「ねじれ」を負うことになった「SDガンダム」を題材に、日本的なキャラクター文化について考察します。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
    ▲『G-SELECTION 機動戦士SDガンダム』
    3 ハイブリッドとしての「三国伝」
     そんな中で、本稿で特に注目するのが膨大な「ガンダム」の名を冠した作品のうち、特に「SDガンダム」についてだ。この「SD」とはスーパー・デフォルメの略で、「SDガンダム」はティーンを対象にしたアニメ本編に対し、未就学児から小学生までをターゲットにモビルスーツを三頭身に再デザインし、かつ「擬人化」したキャラクター群のことをさす。SD化によって頭身を下げられたモビルスーツの身体は、兵器でありながらまるで幼児のような「かわいらしさ」を纏うようになる。それは子どもの身体を持ちながら、数々の武器(性器さながらの「銃」や「剣」)を用いて「戦う」(男性的なコミットメント)=社会参加するネオテニー的な存在なのだ。1985年の『Zガンダム』放映時の玩具展開の一環として登場したこの「SDガンダム」は80年代後半から90年代前半まで、ブーム終焉後の「ガンダム」ブランドの維持に大きく貢献し、1980年前後生まれの世代の共通言語となっている。しかしここで重要なのはこの「擬人化」によって、70年代に剥奪されたロボットの「心」が再び植えつけられたということだろう。それも、「心」を失った日本的「ロボット」の中でも富野喜幸によるメタ的な介入によって発生した奇形児たる「ガンダム」に再び「心」が宿ったのだ。
     そのため「SDガンダム」は日本的ロボットの奇形である「ガンダム」のさらなる奇形として、三重の「ねじれ」を負うことになった。それは一度、「心」を奪われた身体に再び「心」を与える過程で発生する「ねじれ」だ。
     たとえば「百式」という『Zガンダム』に登場するモビルスーツが存在する。このロボットは前作(『機動戦士ガンダム』)からの人気キャラクターであるシャア・アズナブルの搭乗機として人気を博している。このロボットが「SD」化=擬人化されたとき、どのような処理が行われたか。このロボットは全身金メッキというおおよそ軍用兵器とは思えないファンタジックな設定を持っているのだが、そのカラーリングとスマートなフォルムから、SD「百式」はキザなナルシシストとして描かれることが多い。さらにここには劇中でのパイロットであるシャアというキャラクターのイメージ、たとえばニヒルで陰のあるイメージが重ねあわされる。「ガンダム」という原作の性質上、SD化されたモビルスーツは常に複数のキャラクターイメージのハイブリッドにならざるを得ないのだ。そして、このハイブリッド性こそが「SDガンダム」を「ガンダム」という日本的ロボットの奇形のさらなる奇形化をもたらすことになる。
     80年代に男子児童向け玩具としてヒットした「SDガンダム」は80年代後半から90年代前半にかけて、そのバリエーションを多方面に展開した。たとえば「SD戦国伝」というシリーズでは中世日本風の甲冑を纏ったモビルスーツ(武者ガンダム)(※3)たちの物語が、「SDガンダム外伝」シリーズでは『ドラゴンクエスト』などのテレビゲームを意識した中世ヨーロッパ風の世界を舞台に、西洋風の甲冑を身に着けたモビルスーツ(騎士ガンダム)たちの冒険譚が展開した。身体でありながら工業製品であるという奇妙な「ねじれ」を孕んだモビルスーツという中間的存在は、このように複数のキャラクターイメージを同時にその身体に宿すことを可能にしたのだ。こうしたSDガンダムのアドバンテージは、商品展開を主導した玩具メーカー「バンダイ」の同時期のキャラクター商品展開と比較することでより明確になる。この時期バンダイはウルトラマン、仮面ライダーなどの特撮ヒーロー番組、そして『機動警察パトレイバー』など80年代のロボットアニメなどを素材に「SD化」を進めたが、「武者ガンダム」「騎士ガンダム」などのバリエーションを産んだのは「ガンダム」のみだ。その中間的な機械の身体こそが、あるいは性的な「ねじれ」を多重に引き受けたそのネオテニー的な身体こそが、ハイブリッドな複数のキャラクターイメージの統合の器として最適だったのだ。
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  • 【新連載】宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第1回「SDガンダム三国伝」とさまよえる男性性(1)

    2018-02-09 07:00  
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    今回から本誌編集長・宇野常寛の新連載『母性のディストピア EXTRA』が始まります。2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信します。戦後の日本文化の中で育まれた「ロボット」の持つ「ねじれ」。第1回のテーマはその意匠に更なる奇形的な進化をもたらした『機動戦士ガンダム』です。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
    ▲『G-SELECTION 機動戦士SDガンダム』
    1 「ロボット」の戦後史
     1950年、アメリカのSF小説家アイザック・アシモフはその短編集『われはロボット』の中で、彼の創作した未来社会におけるロボット運用の倫理規則を登場させた。

        * 第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
        * 第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
        * 第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

    「ロボット三原則」と呼ばれるこの三つの掟は、アシモフの小説においてその思考実験的な側面を大きく担った。作中のロボットたちはこの三原則に忠実であるがゆえに、様々な事件を起こし、また巻き込まれる。そして登場人物たちはこの三原則を厳守する人工知能の思考をシミュレートすることで謎を解いてゆく。それはアシモフが設定した物語の駆動エンジンである以上に、人工知能の夢が実現した未来社会のシミュレーションでもあった。その結果、「ロボット三原則」はアシモフの下を離れ、他のSF作家たちはもちろん、後の人工知能研究にも大きな影響を与えることになった。
     だが、本稿において重要なのはアシモフの偉大な功績ではなく、ロボットという空想物がその黎明期から常に人工知能の夢の象徴だったということだ。自ら思考し、行動を選択し、そして苦悩する人工物としての「ロボット」。神ならぬ人類が真の創造主となる夢をその一身に背負った機械の身体。国内においても、その鋼鉄の四肢に託された夢は創作物の中で大きく花開くことになった。たとえば手治虫はアトムという「科学の子」=ロボットに十万馬力の力を与え、その活躍と苦悩を描くことで国産初のテレビアニメーションを産み出した。それは人工知能の夢の直接的な表現であると同時に、ロボットたちのもつ機械の身体に近代の精神がもたらす人間疎外を重ね合わせる行為でもあった。ユートピアとディストピアが同居する近代、そしてその臨界点の象徴としてのロボットという存在を描いた作品が『鉄腕アトム』だったのだ。だが国内におけるロボット、特に国内のテレビアニメーションにおけるそれは、こうした人工知能の夢が象徴する近代の精神の両義性といった主題を程なく喪失し、独自の発展の道を歩むことになる。そしてその萌芽は、既にアトムの活躍中に芽生えていたのだ。
    『鉄腕アトム』のオルタナティブとして横山光輝が産み出したもうひとつの機械の身体――鉄人28号がそれだ。大戦末期、旧日本軍の決戦兵器として開発されたという設定を持つこの「鉄人」は、遠い未来への夢ではなく近過去に漂う亡霊を背負って登場した。そして当然、鉄人は「心」を持っていなかった。ほとんど玩具のようなリモート・コントロールによって制御される鉄人は、その操縦者によって正義の味方にもなれば悪の使者にもなった。正義感溢れる少年がその手にリモコンを握ればそれは首都東京の守護者として君臨し、犯罪者たちの手に渡れば空襲の記憶さながらに街を破壊する魔人と化す。それが鉄人――人工知能の「夢」を忘れたロボットだった。
     では、人工知能の夢を忘れた私たちは、この機械の身体に何を求めたのか。それは成熟への「ねじれ」た意思だ。鉄人28号を操る金田正太郎少年は、何ゆえその鋼鉄の巨体を手に入れたのか。その正当性は横山の原作漫画がテレビアニメ化される際に設定レベルで強化されることになる。それは鉄人の開発者が正太郎の父親である金田博士であるという設定だ。正太郎は父親から与えられた巨大な身体を用いることで、少年でありながら大人たちに混じって「正義」を執行する=社会参加するのだ。アメリカに去勢された永遠の「12歳の少年」として歩み始めた戦後日本……正太郎は敗戦の記憶を逆手に取ることで、サンフランシスコ体制下のネオテニー・ジャパンにおいて成熟を仮構することに成功したのだ。鉄腕アトムは、孤児だった。その産みの親である天馬博士は亡き息子の似姿としてアトムを産み出したが、天馬はその身体が「成長しない」ことに業を煮やしアトムを捨てたのだ。しかしアトムは捨てられることではじめてお茶の水博士という新しい父を得て、成長しない身体を抱えたまま正義の味方として活躍することになった。それは、敗戦という決定的な記憶を経由してはじめて、「科学のもたらす明るい未来」を再び信じられるようになった戦後日本の似姿でもあったに違いない。だが、その商業的なオルタナティブとして産み出された鉄人が描いていたのはアメリカにはなれない日本、人工知能の夢をストレートには信じられない日本の姿だった。機械の身体は、人間が神になるためではなく、まず去勢された人間(日本)がその人間性を取り戻すために、人間(父)になるためにこそ用いられなければならなかったのだ。戦時中の決戦兵器として開発されたはずの鉄人28号の「顔」が、高い鼻を持つ白人男性のそれに似せたものであることは、この「ねじれ」を端的に表している。
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