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  • アッシュ・リンクスは、 それでも生き延びるべきだった――『海街diary』 (PLANETSアーカイブス)

    2018-11-05 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、宇野常寛による『海街diary』と吉田秋生論です。本作で円熟の極みに達しつつある吉田秋生のここまでの作家性の変遷と、初期作『河よりも長くゆるやかに』などに見られた「もうひとつの成熟の可能性」を読み解きます。(初出:『ダ・ヴィンチ』2014年9月号)


    ▲吉田秋生『海街diary(6) 四月になれば彼女は』
     
     吉田秋生の『海街diary』の最新刊(今年の7月に発売された『四月になれば彼女は』)を読んでまた鎌倉に行こうと思った。以前にもこの連載で取り上げたことがあるのだけど、僕は鎌倉が好きで年に何度も足を運ぶ。たいていはよく晴れた日に、思いつきで出かける。こういったことができるのが自営業の特権だ。半日かけて、由比ヶ浜から極楽寺にかけてのゾーンをぶらぶらして、途中、目についたお店に入って休憩する。そして必ずお土産に釜揚げのシラスを買って帰るのだ。観光ガイドには一時期、このマンガの舞台になった場所を紹介する「すずちゃんの鎌倉さんぽ」を使っていた。映画やドラマのロケ地めぐりが趣味の僕がどこかの街を気に入るときはたいていこういったミーハーなきっかけだ。
     そんなミーハーな人間が、こんなことを言うといわゆる「鎌倉通」の人たちに怒られるかもしれないが、僕は実際の鎌倉は吉田の描くそれよりも、つまり昔ながらの人情下町コミュニティが残っていて、都心部とは違った時間のゆっくり流れるスローフード的な空間よりも、もう少し猥雑でスノッブな街だと思う。一年中昭和の日本人が観光客として群れを成しているし、夏のビーチはファミリー、カップルそしてエグザイル系のお兄さんたちで溢れている。こういっては失礼だが彼らはスローフードのスの字もない人々だけれども、こうした人々がいるからこそこの街に僕のような人間にも居場所があるのだと思っている。
     だから正直に告白すれば、僕はこの『海街diary』に出てくる鎌倉にはちょっと住めないな、と思っている。もちろん、それは否定的な意味ではない。この作品に出てくる鎌倉はそういった猥雑さを排したことで、とてつもなく優しく、そして強靭な磁場を備えた空間として成立している。そしてその淀みのなさに、自分はちょっと住めないな、と憧れるのだ。
     吉田秋生という作家を語るときは、かつてこの作家が用いた「川」というモチーフを中心に考えるとその変遷がクリアに浮かび上がってくる。
     かつての吉田秋生は当時のアメリカン・ポップカルチャーの絶大な影響のもと、戦後日本的「成熟と喪失」を正しく引き受けた作家だった、と言えるだろう。同時代の少年マンガが戦後日本的未成熟の肯定に開き直り(反復される強敵との戦いで成熟を隠蔽しながら、実は幼児的遊戯を継続し続けるバトルマンガと、終わりなき日常をてらいなく描き続けるラブコメマンガ)、先行する先鋭的な少女マンガ(24年組等)がむしろヨーロッパ的意匠とファンタジーへの傾倒で戦後少女文化ならではの深化を見せていったのとは対照的に、吉田は同時代の少女マンガ家としては珍しく戦後日本人男性の「成熟と喪失」の問題を正面から引き受けていたのだ。
     初期の吉田作品において少年は(たとえ舞台がアメリカであってもどこか戦後日本的な屈折を抱えた、マチズモを引き受けることができない主人公の少年は)思春期にアイロニーを、偽善/偽悪を、社会の淀みを受け入れることでイノセンスを失う。そしてそのイノセンスと引き換えに彼は成熟を遂げていく。
     たとえばこの時期の吉田の代表作『河よりも長くゆるやかに』は80年代初頭の基地の街(福生)を舞台にした青春群像劇だ。主人公の男子高校生・季邦(としくに)は父親の浮気が原因で両親が離婚し、病死した母親の代わりに季邦を育てる姉は進学を断念して水商売をしながらアメリカ兵と付き合っている。そして季邦もまた、生活費と進学資金のためにアメリカ兵への売春あっせんや麻薬密売に手を染めている。しかしそんな季邦もまた、昼間はバカでお気軽で、性欲と食欲を持て余したいち男子高校生であり、物語はそんな季邦とその周囲の人々の日常のドラマを、過酷なものと気楽な他愛もないものを織り交ぜながら描いていく。
     『河よりも長くゆるやかに』の後半、アンチクライマックス的にさり気なく描かれる主人公とその友人の会話に前述の世界観は凝縮されている。
     その場面で、主人公の季邦とその友人の深雪は橋の上から川を眺めている。深雪は問う。この川は、上流は流れが早くて水も綺麗だけど、海に近づくにつれて汚れていく。でも川幅も広まって、流れはゆるやかになっていく。どっちがいいか、と。そのとき季邦ははっきりとは答えない。しかし彼の回答が後者であることはタイトルからしても明らかだ。
     しかし、吉田はその後長期連載を開始した『BANANA FISH』で転向する。季邦的な河口の広く深くゆるやかな流れから、同作のヒーローであるアッシュ・リンクス的な上流の澄んだ、清く速い流れに転向したのだ。リバー・フェニックスをモデルに造形されたアッシュは、絶対的な美貌と頭脳と運動神経を持つ完璧超人として僕たちの前に現れた。したがって彼には成熟の必要はなく、物語はその心の隙間(トラウマ)を埋めてくれる承認(ボーイズ・ラブ的な関係性)をめぐるものに終始し、そして承認を獲得すると同時に若くして死んでいった。彼は喪失を経て成熟して大人になることはなかったのだ。
     ある意味、吉田はここで近代的な人間の成熟と喪失の物語を諦め、ポストモダン的な人間(キャラクター)の承認の物語にシフトしたという言い方もできるだろう。
     絵柄的にも、『河よりも長くゆるやかに』『吉祥天女』から続く大友克洋的な(劇画的な)絵柄から次第にシャープなボーイズ・ラブ風の絵柄に変化していっている。この絵柄の変化は同時に前述の人間観の変化でもある。物語当初は象徴的な「父」であるゴルツィネへの復讐譚、つまり少年の成長物語のひな形である「父殺し」の物語から、相手役の少年・英二を対象としたボーイズ・ラブ的な承認獲得の物語への移行とこの絵柄の変化はほぼ符合している。こうして吉田は変化していったのだ。
     そして『BANANA FISH』の続編的性格を持つ『YASHA─夜叉─』『イヴの眠り』を経て吉田が開始した『海街diary』は、その題名が示す通り上流の速く清い流れでもなく、河口のゆるやかに淀んだ流れでもなく、まさに満ちて引く反復運動があるだけの「海」の物語として登場した。吉田の本作におけるテーマはかつての成熟ではなく、「死」もしくは「老い」だ。長くゆるやかな河口すらも突破して、海に出たあとの物語が、ここには描かれているのだ。
     同作の主人公は鎌倉に住む四姉妹だ。かつての季邦のように壊れた家庭をもつ彼女たちだが、(四女のすずをのぞけば)思春期を既に通過しており成熟と喪失をめぐる葛藤は昇華してしまっている。むしろ彼女たちが直面しているのは、既に海に出た世界でいかに老い、死んでいくのかという問いだ。実際に、本作はすずを中心とした青春群像劇を基調にしながらも、常に死の影がまとわりついている。たとえばすずが所属するサッカーチームのエースストライカーの少年は小児がんで足を切断し、いきつけの食堂のおばちゃんもあっけなく病死する。そしてその後の遺産をめぐるトラブルに主人公たちも巻き込まれていく。これらのエピソードで描かれているのは取りかえせない人生の選択を、その過ちも含めていかに引き受けるかという問いであり、絶対に許せない存在や出来事とどう折り合っていくのかという問いだ。言いかえれば「これから」の人生よりも「これまで」の人生のほうが(少なくとも可能性のレベルでは)長くなってしまった人々が、その生の終わりまでの時間をいかに受け入れるのか、という問いだと言える。
     看護師を務める四姉妹の長女は劇中でホスピスに異動になるが、この設定は本作それ自体の性格を示しているといえるだろう。吉田にとって海は、海の街は言葉の最良の意味において、人生の終わりと向き合うこと、可能性の限界と向き合ってそれを受け入れることに挑戦する場所、つまりホスピスなのだ。
     同作には繰り返し「絶対に許せない人」──生前には何の愛情も示さず遺産だけをむしり取ろうとする親戚──や、理不尽すぎる運命──夢をつかみかけたときに襲い、すべてを奪い去る病魔──が繰り返し登場する。これは吉田が本作で、こうした個人の力ではどうにも抗えない世界の欠損とどう向き合うか、という問題に正面から対峙していることを意味する。思春期であればそれは、運命を跳ね返す可能性と、欠落を受け入れる成熟でそれを乗り越えることができる。しかし、終わりが近づいた人々にはそれはない。死ぬ間際まで納得できないような欠落と、人々はどう向き合うのか。それが「海」の問題なのだ。そして吉田は、いまのところ、こうした欠落と対峙し続け、ぎりぎりまでその痛みを緩和するまさにホスピス的な優しい「強さ」を、静かに提示し続けているように思える。決して大上段に構えない、静かな語り口──まるで毎日の食事を一食ずつ大切に経ていくような確かさ──をもって、しかし確信をもって、この優しい「強さ」を提示する吉田の姿勢と手腕を、僕は本当に貴重に思う。吉田秋生という作家は円熟の極みを迎えつつある、と断言してもいいだろう。
     しかし──僕はこの作家が完成に近づくからこそ、鎌倉の海が完成に近づくからこそ、そこで吉田が選び取らなかったもうひとつの海の可能性について考えてしまう。
     かつて福生(『河よりも長くゆるやかに』)を流れていた川はたぶん、あの鎌倉の海には(少なくとも直接は)つながっていない。なぜならば前述したように季邦たちの眺めていた川は一度「逆流」し、清く澄んだ清流に浄化されているからだ。その結果、『河よりも長くゆるやかに』の福生と『海街diary』の鎌倉は、つながっていない。いや、もちろん別の時代に描かれた別の作品なのでつながっていないのは当たり前なのだが、それ以上にこのふたつの街はその世界観のレベルで異なっている。それは何か。
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  • アッシュ・リンクスは、 それでも生き延びるべきだった――『海街diary』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.161 ☆

    2014-09-18 07:00  
    220pt

    アッシュ・リンクスは、
    それでも生き延びるべきだった――『海街diary』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.9.16 vol.159
    http://wakusei2nd.com

    本日のほぼ惑は、「ダ・ヴィンチ」に掲載されている宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」のお蔵出しをお届けします。今回取り上げる題材は、『海街diary』と吉田秋生。

    近年、ますます円熟の極みに達しつつある吉田秋生のここまでの作家性の変遷と、初期作『河よりも長くゆるやかに』などに見られた「もうひとつの成熟の可能性」を読み解きます。初出:『ダ・ヴィンチ』2014年9月号(KADOKAWA)


    ▲吉田秋生『海街diary(6) 四月になれば彼女は』
     
     吉田秋生の『海街diary』の最新刊(今年の7月に発売された『四月になれば彼女は』)を読んでまた鎌倉に行こうと思った。以前にもこの連載で取り上げたことがあるのだけど、僕は鎌倉が好きで年に何度も足を運ぶ。たいていはよく晴れた日に、思いつきで出かける。こういったことができるのが自営業の特権だ。半日かけて、由比ヶ浜から極楽寺にかけてのゾーンをぶらぶらして、途中、目についたお店に入って休憩する。そして必ずお土産に釜揚げのシラスを買って帰るのだ。観光ガイドには一時期、このマンガの舞台になった場所を紹介する「すずちゃんの鎌倉さんぽ」を使っていた。映画やドラマのロケ地めぐりが趣味の僕がどこかの街を気に入るときはたいていこういったミーハーなきっかけだ。
     そんなミーハーな人間が、こんなことを言うといわゆる「鎌倉通」の人たちに怒られるかもしれないが、僕は実際の鎌倉は吉田の描くそれよりも、つまり昔ながらの人情下町コミュニティが残っていて、都心部とは違った時間のゆっくり流れるスローフード的な空間よりも、もう少し猥雑でスノッブな街だと思う。一年中昭和の日本人が観光客として群れを成しているし、夏のビーチはファミリー、カップルそしてエグザイル系のお兄さんたちで溢れている。こういっては失礼だが彼らはスローフードのスの字もない人々だけれども、こうした人々がいるからこそこの街に僕のような人間にも居場所があるのだと思っている。
     だから正直に告白すれば、僕はこの『海街diary』に出てくる鎌倉にはちょっと住めないな、と思っている。もちろん、それは否定的な意味ではない。この作品に出てくる鎌倉はそういった猥雑さを排したことで、とてつもなく優しく、そして強靭な磁場を備えた空間として成立している。そしてその淀みのなさに、自分はちょっと住めないな、と憧れるのだ。
     吉田秋生という作家を語るときは、かつてこの作家が用いた「川」というモチーフを中心に考えるとその変遷がクリアに浮かび上がってくる。
     かつての吉田秋生は当時のアメリカン・ポップカルチャーの絶大な影響のもと、戦後日本的「成熟と喪失」を正しく引き受けた作家だった、と言えるだろう。同時代の少年マンガが戦後日本的未成熟の肯定に開き直り(反復される強敵との戦いで成熟を隠蔽しながら、実は幼児的遊戯を継続し続けるバトルマンガと、終わりなき日常をてらいなく描き続けるラブコメマンガ)、先行する先鋭的な少女マンガ(24年組等)がむしろヨーロッパ的意匠とファンタジーへの傾倒で戦後少女文化ならではの深化を見せていったのとは対照的に、吉田は同時代の少女マンガ家としては珍しく戦後日本人男性の「成熟と喪失」の問題を正面から引き受けていたのだ。
     初期の吉田作品において少年は(たとえ舞台がアメリカであってもどこか戦後日本的な屈折を抱えた、マチズモを引き受けることができない主人公の少年は)思春期にアイロニーを、偽善/偽悪を、社会の淀みを受け入れることでイノセンスを失う。そしてそのイノセンスと引き換えに彼は成熟を遂げていく。
     たとえばこの時期の吉田の代表作『河よりも長くゆるやかに』は80年代初頭の基地の街(福生)を舞台にした青春群像劇だ。主人公の男子高校生・季邦(としくに)は父親の浮気が原因で両親が離婚し、病死した母親の代わりに季邦を育てる姉は進学を断念して水商売をしながらアメリカ兵と付き合っている。そして季邦もまた、生活費と進学資金のためにアメリカ兵への売春あっせんや麻薬密売に手を染めている。しかしそんな季邦もまた、昼間はバカでお気軽で、性欲と食欲を持て余したいち男子高校生であり、物語はそんな季邦とその周囲の人々の日常のドラマを、過酷なものと気楽な他愛もないものを織り交ぜながら描いていく。
     『河よりも長くゆるやかに』の後半、アンチクライマックス的にさり気なく描かれる主人公とその友人の会話に前述の世界観は凝縮されている。
     その場面で、主人公の季邦とその友人の深雪は橋の上から川を眺めている。深雪は問う。この川は、上流は流れが早くて水も綺麗だけど、海に近づくにつれて汚れていく。でも川幅も広まって、流れはゆるやかになっていく。どっちがいいか、と。そのとき季邦ははっきりとは答えない。しかし彼の回答が後者であることはタイトルからしても明らかだ。
     しかし、吉田はその後長期連載を開始した『BANANA FISH』で転向する。季邦的な河口の広く深くゆるやかな流れから、同作のヒーローであるアッシュ・リンクス的な上流の澄んだ、清く速い流れに転向したのだ。リバー・フェニックスをモデルに造形されたアッシュは、絶対的な美貌と頭脳と運動神経を持つ完璧超人として僕たちの前に現れた。したがって彼には成熟の必要はなく、物語はその心の隙間(トラウマ)を埋めてくれる承認(ボーイズ・ラブ的な関係性)をめぐるものに終始し、そして承認を獲得すると同時に若くして死んでいった。彼は喪失を経て成熟して大人になることはなかったのだ。
     ある意味、吉田はここで近代的な人間の成熟と喪失の物語を諦め、ポストモダン的な人間(キャラクター)の承認の物語にシフトしたという言い方もできるだろう。
     絵柄的にも、『河よりも長くゆるやかに』『吉祥天女』から続く大友克洋的な(劇画的な)絵柄から次第にシャープなボーイズ・ラブ風の絵柄に変化していっている。この絵柄の変化は同時に前述の人間観の変化でもある。物語当初は象徴的な「父」であるゴルツィネへの復讐譚、つまり少年の成長物語のひな形である「父殺し」の物語から、相手役の少年・英二を対象としたボーイズ・ラブ的な承認獲得の物語への移行とこの絵柄の変化はほぼ符合している。こうして吉田は変化していったのだ。
     そして『BANANA FISH』の続編的性格を持つ『YASHA─夜叉─』『イヴの眠り』を経て吉田が開始した『海街diary』は、その題名が示す通り上流の速く清い流れでもなく、河口のゆるやかに淀んだ流れでもなく、まさに満ちて引く反復運動があるだけの「海」の物語として登場した。吉田の本作におけるテーマはかつての成熟ではなく、「死」もしくは「老い」だ。長くゆるやかな河口すらも突破して、海に出たあとの物語が、ここには描かれているのだ。
     同作の主人公は鎌倉に住む四姉妹だ。かつての季邦のように壊れた家庭をもつ彼女たちだが、(四女のすずをのぞけば)思春期を既に通過しており成熟と喪失をめぐる葛藤は昇華してしまっている。むしろ彼女たちが直面しているのは、既に海に出た世界でいかに老い、死んでいくのかという問いだ。実際に、本作はすずを中心とした青春群像劇を基調にしながらも、常に死の影がまとわりついている。たとえばすずが所属するサッカーチームのエースストライカーの少年は小児がんで足を切断し、いきつけの食堂のおばちゃんもあっけなく病死する。そしてその後の遺産をめぐるトラブルに主人公たちも巻き込まれていく。これらのエピソードで描かれているのは取りかえせない人生の選択を、その過ちも含めていかに引き受けるかという問いであり、絶対に許せない存在や出来事とどう折り合っていくのかという問いだ。言いかえれば「これから」の人生よりも「これまで」の人生のほうが(少なくとも可能性のレベルでは)長くなってしまった人々が、その生の終わりまでの時間をいかに受け入れるのか、という問いだと言える。
     看護師を務める四姉妹の長女は劇中でホスピスに異動になるが、この設定は本作それ自体の性格を示しているといえるだろう。吉田にとって海は、海の街は言葉の最良の意味において、人生の終わりと向き合うこと、可能性の限界と向き合ってそれを受け入れることに挑戦する場所、つまりホスピスなのだ。
     同作には繰り返し「絶対に許せない人」──生前には何の愛情も示さず遺産だけをむしり取ろうとする親戚──や、理不尽すぎる運命──夢をつかみかけたときに襲い、すべてを奪い去る病魔──が繰り返し登場する。これは吉田が本作で、こうした個人の力ではどうにも抗えない世界の欠損とどう向き合うか、という問題に正面から対峙していることを意味する。思春期であればそれは、運命を跳ね返す可能性と、欠落を受け入れる成熟でそれを乗り越えることができる。しかし、終わりが近づいた人々にはそれはない。死ぬ間際まで納得できないような欠落と、人々はどう向き合うのか。それが「海」の問題なのだ。そして吉田は、いまのところ、こうした欠落と対峙し続け、ぎりぎりまでその痛みを緩和するまさにホスピス的な優しい「強さ」を、静かに提示し続けているように思える。決して大上段に構えない、静かな語り口──まるで毎日の食事を一食ずつ大切に経ていくような確かさ──をもって、しかし確信をもって、この優しい「強さ」を提示する吉田の姿勢と手腕を、僕は本当に貴重に思う。吉田秋生という作家は円熟の極みを迎えつつある、と断言してもいいだろう。
     しかし──僕はこの作家が完成に近づくからこそ、鎌倉の海が完成に近づくからこそ、そこで吉田が選び取らなかったもうひとつの海の可能性について考えてしまう。
     かつて福生(『河よりも長くゆるやかに』)を流れていた川はたぶん、あの鎌倉の海には(少なくとも直接は)つながっていない。なぜならば前述したように季邦たちの眺めていた川は一度「逆流」し、清く澄んだ清流に浄化されているからだ。その結果、『河よりも長くゆるやかに』の福生と『海街diary』の鎌倉は、つながっていない。いや、もちろん別の時代に描かれた別の作品なのでつながっていないのは当たり前なのだが、それ以上にこのふたつの街はその世界観のレベルで異なっている。それは何か。