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  • 私は如何にして執筆するのを止めてアイドルを愛するようになったか――濱野智史が語る『アーキテクチャの生態系』その後(PLANETSアーカイブス)

    2020-02-21 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、情報環境研究者・濱野智史さんのインタビューです。2008年にネットカルチャー分析に多大な影響を与えた著書『アーキテクチャの生態系』を刊行、 後にアイドルグループ「PIP」のプロデューサーとしても活躍した濱野さんに、その間の問題意識の変遷から、日本のソーシャルメディア、さらにはISISまで幅広く語ってもらいました。(構成:稲葉ほたて) ※本記事は2015年7月30日に配信された記事の再配信です。
    ■『アーキテクチャの生態系』その後
    ――今日は『アーキテクチャの生態系』の文庫化にあわせて、この本が出た当時のことや濱野智史さんの現在の考えについてお聞かせいただきたいと思います。まず、この本を久々に読み返してみて、実はもう今のネット文化とはだいぶかけ離れた世界の話を書いているな、と思いました。
    濱野:僕としても、過渡期のことを書いた自覚がある本なんですよ。
    初音ミクも、すごく立派な存在になったものだと思うのですが、もうあの頃のハチャメチャさは失われてしまった。マネタイズを考えるとなると、既存の手法に近づくのは仕方ないですよね。だって、今やミクなんて最も使いづらいIPになっていて、近年のアイドル文化以前のアイドルみたいでしょう(笑)。生身の人間でないだけにコントロールしやすかったということの裏返しなんですが。
    ニコニコ動画にしても、今思えば僕にとっては初期の、ニコニコ生放送を始める前の時期が面白かったんですね。
    その後のドワンゴさんの動きで大きかったのは、確かにニコニコ生放送です。あれにプレミアム会員は優先的に視聴できる権利をつけることで、会員数が一気に伸びて成功した。ただ、その結果として運営がそういう方向に寄ってしまった。もちろん、生放送は生放送で、頭のおかしい配信者ばっかりで神がかって面白かった時期もあったんです。それに、技術的にもストリーミングのほうが伸びしろがあって、何よりもユーザーも面白がったのも事実です。
    だから、こうなったのは必然ではあるのですが、やはりこの本を書いた時点での「ニコニコ動画」の絵は、ニコニコ自身が捨てたということになるとは思います。まあ、完全に捨てたというのは言いすぎなんですけど。
    ――淫夢動画のようなアングラな場所では、匿名のN次創作だって健在ですしね。ただ、表に見せられるカルチャーとしては、実は地下アイドルという文化の勃興と並行するかたちで、歌い手やゲーム実況者みたいなステージ文化が大きく台頭していったというのが、その後のニコニコ動画の歴史であるように思います。
    濱野:YouTuberなんかも、そういう流れの延長線上で「お金になるから」という理由で登場してきた人たちですよね。
    2年くらい前に、月刊カドカワさんのニコニコ動画特集に寄稿したとき、「ドワンゴは早くアイドルを作れ」と書いたんです。その時点で、アイドルにとっての劇場文化の重要性はわかっていたので「ニコファーレをとっととアイドルのための劇場にすればいい」と書いたのですが、結果的にはニコニコ超会議がある種アイドルと会える場所として機能していきましたね。
    ただ、ドワンゴさんは、やはり自分たちでコンテンツを作るのには抵抗があるんでしょう。KADOKAWAと組んだことからも分かるように、コンテンツは属人性を大きくしたほうが強くなるのは理解していると思うんです。でも、そのときに自分たちの趣味のようなものが反映されるのには抵抗があるんだろうな、と。川上さんのようなネット技術畑出身の人は、プラットフォームとしての中立性にこだわっていて、特定のコンテンツに肩入れするのは避ける、どうもそういう感覚がある気がします。在特会のチャンネルが開かれるのを拒まなかったのだって、そういう発想が根底にあるんじゃないかな、と。
    ■ 2007年に起きたオタク文化の変貌
    ―― 一方で読み返してみて驚いたのが、当時は「Webの未来を書いた本」に見えたこの本が、むしろ今読むと、あの時期に表に出てきたゼロ年代前半のネット文化の秀逸な解説本に見えてしまったことです。
    濱野:目次を見れば分かるのですが、この本は過去の話をひたすら書いてる本ですからね。
    実際、ニコニコ動画の盛り上がりにしてもいくつかの歴史的要因がありますからね。2000年代までのオタク文化の積み重ねがあり、ブロードバンドやパソコンの浸透率があり、動画まで含めた一通りのマルチメディアがウェブに揃った時期だったというのがあって……という、その文脈をひと通り解説しようとした結果、「アーキテクチャの生態系」というまとめ方になったのかなと思います。
    ――今となってはニコニコもネット有名人たちの集まりのようになっているし、あの頃に匿名のN次創作があれほど盛り上がっていた文脈も、年々見えづらくなっている気もします。N次創作だって、実はゼロ年代前半のネットの同人文化で流行していたものですよね。別にニコニコ動画で急に生まれたものではないんですよね。
    濱野:はい、もちろんそうですよね。それでいうと、90年代後半から2000年代前半くらいまでのいわゆる「ホームページ」って、同人活動の一環として自分のイラストを公開したりするような場所としても機能していましたよね。実際、2000年代にこの本を書いていた頃、会社で大学生のネット利用実態の調査をすると、ホームページを作る人は腐女子だとかのオタクばかりだったんですよ。アニメのキャラクターのイラストを描いたり、ドリーム小説を書いたり、掲示板を置いてコミュニケーションしたり、という。
    まあ、ブログもない時代の、リア充なライトオタクが出てくる以前の話です。学校でおおっぴらにオタク趣味を言えない人が、ネットで仲間を探したり、作品を公開していて、そういう大学生たちの半年に一回のオフ会としてコミケがあった……そういう時代です。
    ――たぶん、そういう空気の中でゼロ年代前半を通じて、HPや2ちゃんねるで、M.U.G.E.NやBMSやAAやMADなどが盛り上がっていき、ニコニコ動画の登場で最盛期を迎えたというのが、2015年から振り返ったときのN次創作の歴史だと思います。実はあの2007年頃って、そういうマグマのように溜まっていたゼロ年代前半のオタク文化が一気に噴出した時期でもありますよね。
    濱野:そうそう、あの2006年から2007年の頃って、ちょうど「涼宮ハルヒの憂鬱」が大ヒットして、明らかにぱっと見がオタクではない子たちが、「私、オタクなんです」と言い出した時期なんです。ちょうど動画サイトが登場して、アニメをネットで見られるようになり、10代の暇を持て余している層の共通のネタ元としてアニメが機能してはじめたんです。
    そのときに、4,5人でパッと集まって盛り上がれるコンテンツを作るときに、アニメはとても「便利」なものだと発見されたんですね。というのも、「踊ってみた」や「コスプレ」のような、何かのテンプレをもとに真似したりアレンジするためのデータベースが、オタク文化には豊富にあったんです。その構図は現在の「MixChannel」に至るまで変わらないですね。
    ――二次元のオタク文化が市民権を得た背景には、動画サイトの存在があった。まあ、そこでみんなが見ていたのは、違法にアップロードされたものでしょうけど(笑)。
    濱野:しかも、「涼宮ハルヒの憂鬱」って、当時としては作り手も若くて、それまでのアニメとは雰囲気も違っていたんです。なにしろ、当時の我々は「えっ、萌え要素って極限すれば3つでいいんだ」と驚きましたからね(笑)。別に10人とか20人なんて要らない、意外とツンデレとドジっ子とクールキャラくらいでイケる。これが衝撃だった。そういう話も含めて、新しい空気をまとっていたアニメでした。
    実際、2007年に高校生を調査したときには、すでに「私たち、学校に"SOS団"を作ってるんです」みたいなことを言う子たちがかなりいました(笑)。ニコニコ動画でも「踊ってみた」をいろんな大学のサークルがやってましたよね。
    ――こういうゼロ年代前半の深夜アニメブームやネット文化の文脈を押さえた上で、硬派なネット論を語れる人材として、濱野さんが必要とされた瞬間だったのかなと思いました。
    濱野:当時は世界的にフラッシュモブが話題になっていた時期でもあって、みんなで簡単に参加して同期する娯楽がネット文化全体としても流行っていました。そういう文脈を踏まえて書かれた本でもありますね。
    ■ アイドルへの興味に連続性はあったのか?
    ――それにしても、ここまでゴリゴリとアーキテクチャだけで議論を進めていく硬派な本は、このあと出てこなかったですね。最近になると、もうプラットフォームの運営者が表に出てくるので、そうなると中の人の「運営思想」を直接聞いていく発想の方が強いですよね。Facebookやニコニコ動画も、今だったらザッカーバーグや川上さんなんかの発言から分析しようと思うのが普通でしょうし。
    濱野: まあ、そりゃ創業者にインタビューした方が話も早いですよね(笑)。Facebookの本にしたって、結局はザッカーバーグに取材したものになる。でも、僕はそういうのには関心がないんです。だって、「運営」の本って、結局は「その人がそう思いました」という話にしかならないでしょう。日本人が好む歴史って、戦国時代にしても幕末にしても、人物伝ばかり。でも、そういう属人的な話には興味がないんですよ。
    ――でも、その後に濱野さんが興味を向けたグループアイドルって、まさに仕組みをいかに運用していくかという「運営」の力が勝負を決める場所ですよね。
    濱野:確かに。アイドルって要は人間そのものがコンテンツですから、「運営」すらも消費対象として重要になる。
    AKBもそう。AKBがここまで大きくなったのは、巨大化してもいまだに「運営≒秋元康」が2ちゃんねるを見ていることだと思うんですよね。運営は2ちゃんねるが燃えると分かって燃料を投下して、2ちゃんねるのユーザーも「秋元の野郎」と返していく。いわゆる理想の民主主義の形というか、市民が討議しあって世論が熟して、政治家が選ばれて……というハーバーマスが理想とするような「公共圏」的な結託ではなくて、そこでは運営とオタクがともに文脈をズラしてツッコミ続ける「ネタ的コミュニケーション・システム」としての結託と連鎖が、今でも行われているんですよ。そこは、運営が2ちゃんねるを一切見ないふりをしたと言われているハロプロとの大きな違いですね。あっちは、DVD化の際にオタのコールを全てカットして販売したりしてたそうですから。
    ――その辺のテクニックって、やはり秋元康さんなんでしょうか?
    濱野:秋元さんが「2ちゃんねるまとめ」をプリントしたものを会議なんかで見ていた、という話は聞きますね。少なくともオタは運営もメンバーも見ていると思うからこそ、「イエーイ見てるー?」状態になってモチベ高く2ちゃんねるとかに書き込みをするわけで、非常に独特の空間になっている。
    そもそも秋元さんはラジオの放送作家上がりの人で、ハガキ職人的な世界観をよく知っているわけですよね。ああいうハガキ職人の文化は、匿名性がとても強くて、そのコミュニケーションもディスクジョッキーと真正面から語るよりは、延々とハシゴ外しを繰り返して、ズラし続ける感じ。
    ――つまり、深夜ラジオみたいな場所は、視聴者と番組の運営スタッフの距離が非常に近い"プレ・インターネット"になっていて、そこで秋元さんはネット的な感受性を鍛えられていた……という感じですか。
    濱野:そうですね。『前田敦子はキリストを超えた』(編注:2012年に出版された濱野さんの著書/ちくま新書)では、そうした運営論というか、秋元康論は一切書かなかったですけど、実はAKBが成功した理由への僕なりの回答は、そこにあるんですよね。それどころか、秋元康という人は、ずっとそれだけをやってきた人なんじゃないか、と。AKBは、彼が80年代からやってきたことが、2ちゃんねるやTwitterが大きな力を持ってしまう時代に、突然マッチしてしまっただけなんです。
    ただ、大きくなっても運営がそういうコミュニケーションを恐れなかったのは、本当に凄いですけどね。実はこういう文化を作ったのはハロプロだったのだけど、さっきも言ったように彼らは受け手の意見は聞かないふりをした。まあ、2ちゃんねるの話なんてまともに聞くわけないですから、別にそれって悪いことでもなんでもないですよ(笑)。それに対して、逆にAKBは運営が明らかに「聞いてまーす!」という態度で、悪ノリ的にユーザーと結託しようとした。そこが凄かった。
    ――この『アーキテクチャの生態系』が登場した当時、クリエイティビティが宿っているのは、ユーザーなのかアーキテクチャなのか、みたいな議論がありましたが、それに対して、いまこの場で濱野さんがおっしゃっているのは、両者をコーディネートする媒介としての「運営」が肝になってくるという話にも聞こえますが……。
    濱野:それはそうなのですが……やっぱり、僕がそういう話をやりたくはないんですよ、うん。
    ――でも、そうなるとウェブサービスに対して「運営」から分析していく流れにも、必ずしも話がわかりやすいからだけでない、理論的な根拠があると言えませんか。
    濱野:確かにそうなんですけどね……。でもその一方で、「これじゃあ、秋元さんが死んだら終わりじゃん」とも思ってしまうんですね。それは日本文化のある種の弱さというか弱点でもあって、要するに一代限りのワンマン社長で文化が終わっていくのではダメだと思うんです。そこはアーキテクチャに落としこむ必要があると思うんです。普遍化したい、という欲求が社会学者としてある、というのかな。
    ――いや、この話を掘り下げたいのは、濱野さんのその後の活動とこの本の連続性を聞いてみたいからなんです。それこそニコニコ動画なんてその後、実況者や歌い手の疑似恋愛と結びついた文化が大きく台頭して、社員たちが「もうイベント会社だよね」と自嘲するくらいにイベントドリブンのサービスになってしまい、さらに当時は裏に隠れていた川上さんがニコニコの運営論を自ら話すようになったわけですよ。今思えば、これってアイドルブームと並行する動向です。その後の濱野さんはインターネット論から一見して離れたように見えて、理論の水準ではやはりこういう日本的インターネットの最先端の動向と並走していたと思うんです。
    濱野:なるほど! まあ、そういう意味では、僕はグループアイドルにしか興味がないというのはありますね。グループアイドルって、要はメンバー一人ひとりにピンで立っていけるほどの実力はないんです。でも、そういう娘たちを集めると、メンバー同士やファン同士や運営との関係性で、驚くほど多くの物語が勝手に生まれていく。そのダイナミズムが面白い。
    そしてこのグループアイドルで重要になるのが、仕組みなんです。アイドルって、別に歌も踊りも重要じゃないから、とにかく「人」の”配置”と”構成”が全てであるとしか言いようがない。ポジションとか、曲順とか、そういうのですね。PIPなんて最初のうちはカバーしかやってないから、曲すら重要じゃない。ただ、誰がどういう順番でどこで何を歌うか。それだけをひたすら設計し、設定する。、何人グループにするか、誰をどういう仕組みで選抜するか、みたいな配置と構成の設計が、全体の動向を大きく左右するんです。それは、僕があの本で書いた意味での「アーキテクチャ」とは厳密には違いますが、やはりプログラミングに近い何かがあるのは事実です。
    実際、僕のPIPでの主な仕事なんて、ライブの曲順を決めながら「いや、この順番では着替えが発生するな」と順番をいじり続けることだとかで、ほとんどソートというか順序づけをしているだけです。ところが、本当にそれだけのことから、もうおよそ人間世界にある様々な情動が勝手に生成されてきて、あらゆるものをドドドドドと巻き込んでいくんです。これ、なかなか体験していない人には伝わらないかもしれないんですけどね。
    ――そう聞くと、『アーキテクチャの生態系』の問題意識からアイドルに向かう連続性は見えてきますね。
    濱野:以前、学生時代にネトゲ廃人だった友人にアイドルの説明をしたら、完全にネトゲの用語で意思疎通ができたことがあるんですよ。
    例えば、AKBの人気が持続している理由として、「NMBとかSKEとかどんどん作っていって、新規が入りやすいようにしてるんだよ」と言ったら、「ああ、なるほど、新鯖を作るってことか!」と言われて、「そうそう!」みたいな(笑)。
    ――グループアイドルの運営とネトゲの運営はそっくり(笑)。
    濱野:そっくりどころか、実はほとんどネトゲの運営手法と同じなんですよ。運営がやたらと2ちゃんねるの板に張り付いて、どんな悪口を書かれているか確認して対処するとか、そういう話まで含めて(笑)。

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  • 濱野智史『S, X, S, WX』―『アーキテクチャの生態系Ⅱ』をめざして 第1章 東方見聞録 #1-3 Googleというバベル―「フレーム問題」のリフレーム【不定期配信】

    2018-03-28 07:00  
    550pt


    情報環境研究者の濱野智史さんの連載『S, X, S, WX』―『アーキテクチャの生態系Ⅱ』をめざして。世界の情報を体系化しようとするGoogleによって、長年「意味」を理解できないとみなされてきた人工知能には大きな変化が訪れています。21世紀の情報社会におけるAIの思想的意義について、濱野さんが論じます。

    人工知能研究者テリー・ウィノグラードの転向と、ハイデガー哲学
     Googleはなぜ巨大なデータベースを世界中に作り続けているのか。しかも第一回でも触れたように、人間にとって有用なWeb上のデータ(コンテンツ)そのものよりも、それを検索するためのメタデータ(検索用インデックス)のほうが容量的にも巨大であるという、転倒した状況を選択しているのか。
     普通に考えれば、それは「大量のデータを集めたほうが、機械学習の精度が高まるから」が答えになるだろう。しかし筆者が考えるに、Googleはもっと先を見据えている。Googleの創業者の1人ラリー・ペイジは、すでに2000年代初頭の時点で、ケヴィン・ケリーにこう答えたらしい。Googleは検索エンジンを作っているのではなく、「僕らが本当に作っているのは、AIなんだよ」と(『〈インターネット〉の次に来るもの』NHK出版、2016年)。
     この発言には重要な背景がある。それを読み解く手助けとなるのが、第一回でも触れた『コンピュータと認知を理解する―人工知能の限界と新しい設計理念』(フェルナンド・フローレスとの共著、産業図書、1989年)である。同書の主著者テリー・ウィノグラードは米スタンフォード大学に所属し、もともと同書を出す以前は人工知能研究者として著名な人物だった(その後、ラリー・ペイジの博士課程で指導したことでも知られる)。しかし彼は同書の中で、人工知能の限界を明確に認めた上で、むしろこれからのコンピュータ/ソフトウェア研究に求められるのは、いかに人間の意味的行為を〈解釈〉し、人間と融和したインターフェイスをデザインするかにあると主張した。
     こうした人工知能研究者の〈転向〉は、「AI(Artificial Intelligence)からIA(Intelligence Amplifier)」へともしばしば表現される。実際に同書が出版された90年代以降は、PC(パーソナル・コンピュータ)からiPhoheを始めとするスマートフォンまで、「いかにユーザーにとって使いやすいインターフェイスをデザインするか」をめぐって人々は躍起になった。Web・アプリ業界では、いま誰もが「デザイン思考」に基づき、「UI(ユーザー・インターフェイス)とUX(ユーザー・エクスペリエンス)」の日々の向上に励む。そうでなければ、誰もそのサービスやアプリを使ってくれないからだ。こうした状況への先鞭をつけた一人が、ウィノグラードだったのである。特に人工知能研究者自身によるAI批判という点で、少なからぬ影響を与えた書籍だったといっていい。
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  • 濱野智史『S, X, S, WX』―『アーキテクチャの生態系Ⅱ』をめざして 第1章 東方見聞録 #1-2 Googleというアトラス: 究極のデータベースの実現【不定期配信】

    2018-01-18 07:00  
    550pt


    情報環境研究者の濱野智史さんの連載『S, X, S, WX』―『アーキテクチャの生態系Ⅱ』をめざして。サンフランシスコに到着した濱野さんは、Google Cloud Next ‘17に出席しました。そこで発表された「Cloud Spanner」の提供開始は、21世紀の情報社会においてどのような思想的意義を持つのでしょうか。
     前回の掲載からだいぶ時間が過ぎてしまった。不定期連載とはいえ読者諸兄には申し訳ない。また当初構想していた連載はより紀行文的な――リアルタイム性の高い散文――を予定していたのだが、編集部との方針相談もあり、だいぶ文体や構成から練り直す必要が生じた。これが遅れた理由の1つだが、もう1つの最大の理由は、目下本連載が対象としているGoogleおよび競合他社のクラウド戦略が、連載開始直後の2017年6月以降、加速度的に変化をもたらしており、著者としてはいかにそこから批評的に距離を置くか、書きあぐねていたのが正直なところである。とはいえ本連載は、筆者が所属する組織とは関係なく、あくまで一人の、社会学者でありフィールドワーカーによる、いささか思弁的で抽象的な情報社会の現在形に関する考察であることに変わりはないはずだ。今後もやや不定期な連載になってしまうかもしれないが、お許しをいただきたい。
    #1-2 Googleというアトラス: 究極のデータベースの実現

     2017年3月。SFOすなわちサンフランシスコ国際空港に到着した私は、まずGoogle本社の見学へと向かった。通称、Googleplex(グーグルプレックス)。それは10の10の100乗乗という途方もなく莫大な数「googolplex」から取られたものであり、Googleの社名の由来にもなっていることはよく知られた話であろう。
     Googleplexはしかし素っ気ない、本当にそれくらいしか形容しようのない、田舎の大学のキャンパスのような場所だ(実際にGooglerは「キャンパス」と呼ぶ)。広大なキャンパスの中には、複数のオフィス棟が無数に存在している。ちなみに見学者は、オフィス棟の中にはセキュリティの関係で入ることは許されない。ほぼ唯一見学者に許されるのは、まずGoogleの記念品を購入できるGoogle Storeだ。といってもApple Storeのようなものを想像してはいけない。Tシャツやペン、サングラスといった、よくあるような安価なお土産が陳列されているだけの「お土産屋さん」である。
     そしてもう一つは、Google創業時の歴史を伝える一種の「展示室」のようなスペースだ。しかし、これもまた実に飾り気のない、よくある自治体がつくった無料の展示スペースのような場所だ。Googlerが創業当初の頃、立ちながらパソコンを置いてミーティングをするのに最適な、「自作感たっぷり」のベンチ型テーブル(ホームセンターで購入した脚立と板で作成されている)が陳列されていたのが、印象的だった。言葉遊びをするつもりはないが、要はこのベンチ(長椅子)がGoogleの「ベンチマーク(測量における水準点。比べる同類物との差が分かるような、数量的や質的な”指標”)」だとでもいいたげなように見えた。とにかくそこには「創業者」のような人間らしさを装飾する要素がどこにもないのだ。少くとも社史を「人間像」を通じて輝かしく見せる、といった発想はない。そういった印象を筆者には与える空間だった。
     これは後に思想的に整理することになるが、そもそもGoogleには(人文的意味での)「美(意識)」が欠けている。そう断言してよいだろう。キャンパスの建物も、全くといっていいほど、いわゆるポストモダン建築に見られるような「アヴァンギャルドさ」のようなものは特に感じられない。少なくとも、Appleが2017年現在も建造中の新社屋(Apple Park)のような、建築への意志は見られない。生前、スティーブ・ジョブズはこの新社屋を建設するにあたって、社員が自然と美しいデザインを意識するようにとの狙いを込めたというが、そうした考えは見られない。これに対して実際Googleは、建物に限らず、例えばよくある(ハーマン・ミラーのような)「高級なオフィスチェアー」を購入することはしないという。なぜならそうした「固定費」への投資は創造性とは無縁だからだといった記述が『How Google Works』の中にも出てくる。
     けだしGoogleにとって美とは無駄なコストなのだ。近代思想を代表/体現する建築家たちの命題の1つに「機能的なものは美しい」(ヴァルター・グロピウス、ル・コルビジェ、丹下健三……誰もがそれを口にする)というものがある。しかしまるでGoogleは美を気にしない。Googleにとってデザインとは、A/Bテストを通じてビッグデータによって選択/淘汰されるものが行き残った帰結にすぎない。小林秀雄はかつて「美しい花がある。花の美しさというものはない」といったが、Googleならむしろこういうだろう。「美しい花はデータによる投票で決まる」と。
     ……そんな思索に耽りつつ筆者は淡々とキャンバスを歩いた。あとひとつ印象に残っているのは、Googleplexのほぼ中心、全社ミーティングが行われるという大講堂のそばに、T-rex(ティラノサウルス)の像が立てられていたことくらいだろうか。これには「巨大な恐竜のような会社になるな(図体だけ巨大になると、いつか滅びてしまう)」というメッセージが込められているという。果たして「巨大」とは何か。もはやそれは「見えるもの」では測れない時代が来ている。そのことを、筆者は次の日から嫌というほど思い知ることになる。

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  • 〈虚構〉が終わった戦場で何を語るべきか 濱野智史×宇野常寛「〈政治〉と〈文学〉」から「〈市場〉と〈ゲーム〉」へ——『母性のディストピア』をめぐって(5)

    2017-11-07 07:00  
    550pt

    10月26日に発売された、宇野常寛の待望の新著『母性のディストピア』。その内容を題材にして、長年の盟友である濱野智史氏と共に日本のこれまでとこれからについて語ります。最終回となる今回は、「映像の世紀」(=他人の物語)の終焉による社会学と批評の無効化。そして『母性のディストピア』の先にある「新しい戦争論」について語ります。(構成:斎藤 岬) ※その他の回はこちら。(第1回、第2回、第3回、第4回、第5回)
    「他人の物語」から「自分の物語」へ
    濱野 前回、宇野さんが「批評に対する思い入れはゼロ」という話をされていましたが、僕もよく「社会学者」という肩書で呼ばれることがあって、自分って社会学者なのか? と思うことは多々あるんです。社会学で博士号を取っていないとか、そういった制度的なところはともかく、宇野さんが言うように社会学というのは「文学化した社会の言葉」で、もう極論すると、本当はいらないんですよ。社会科学としては政治学と経済学と心理学さえあればよくて、社会学の居場所って世界的には完全に絶滅している。 でも、僕の知的ベースの三分の一くらいは宮台真司さんを通して知った見田宗介の弟子筋の人たち、いわゆる「見田山脈」的文脈なんです。橋爪大三郎さんとか、大澤真幸さんとか、小室直樹ゼミの人たちといってもいい、中でも、見田宗介の「これは社会学で扱うテーマではないだろう」というところから入ってしまった。 そもそも僕が社会学に興味を持ったきっかけも、見田さんが真木悠介名義で書いた『時間の比較社会学』という本を中学の「現代国語」の授業で読んだことなんです。いや、だからもうこの時点で、はっきり言って僕的には見田社会学は「文学」カテゴリなんですよね。しかもテーマはニヒリズムの克服とかだし、その後自分で『自我の起原』『気流の鳴る音』とかも読んでいくわけですが、こんなの文学以外でもなにもでもない(笑)。特に真木悠介名義の著作は文学的で、日本ではそれに憧れて社会学に入った人は実際多いと思う。だから、90年代に宮台さんと東さんの読者が被っている問題とかありましたが、それは単にジャンル名が違うだけで、本質的に同じだからなんですよ。
    宇野 でも、日本の文学は自己完結していって、政治との接続面を失ってしまった。その分を社会学が補っていたと思うんだよね。
    濱野 だから今回、宇野さんが本書で宮崎駿のような巨人たちを扱ったのと同じような知的作業を、見田宗介から宮台真司まで、といった山脈を辿るようなことをやろうと思えばやれる。ただ、僕の中でそれは何の意味もない。なぜなら日本の社会学は死んだし、並走していていたポストモダン理論も死んだから。僕が中高時代に得たものはグローバルレベルではもう全部死んでいて、英語圏の本では全く参照されなくなっている。ただ、アプローチがより実証的になっただけで、結局言っていることは同じだから「こんなのすぐに理解できる」というメリットはあるんですが……。 ただ20世紀は、文学的に異様にねじれていた時代だからこそ生産性が高かったこともまた事実なんですよ。ねじれているから、訳のわからないものが出てくる。だからいまだに『伝説巨神イデオン』を観て「うわっ」となれるわけですよね。
    宇野 日本の文学化した社会学イコール、僕にとっての日本の戦後アニメーションのポテンシャルでもあり。そのジャンル自体は終わっているのかもしれないけど、そこの遺伝子を他のものに応用して、西海岸と戦うべきなんだと。
    濱野 僕も基本的にはそういう発想というかスタンスです。でもとにかく今の社会学は終わっている。それでもう最近は、岩波文庫で古典をちゃんと読むって生活を始めたんですよ。
    宇野 すごいね、子育てしながら岩波文庫を読んで、西海岸に仕事をしにいくって理想の生活じゃん(笑)。
    濱野 その中でも特にアリストテレスの『詩学』が面白くて。ギリシア哲学はプラトンとソクラテスはよく読まれていると思うんですが、意外にアリストテレスって読まれていない。僕も油断しててあんまり読んでなかったんですが、『詩学』を読んでみたらすごく面白かった。これは無理やり翻訳すると「詩学」ではなくて「制作(生成)の方法(Technology of Poiesis)」なんですよ。で、ここには「ぐうの音もでないほど感動(ミメーシス)を起こす話を作るにはどうすればいいか」といった話が書いてある。
    ▲アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論(岩波文庫)
     そもそも当時のギリシアには「歴史」という概念がまだないんです。歴史も生きた物語のひとつだと思われていた。いいかえれば〈政治〉と〈文学〉は演劇を通じてイコールになっている。なぜそんなことが可能だったかといえば、「絶対にこんなこと繰り返したらあかん」みたいな悲劇的なストーリーを、徹底してパターン化して作り出した。そのハウツー本が『詩学』なんですよ。 アリストテレスの『詩学』には、簡単に言うと「人間は動物だ。動物だから自然(ピュシス)の法則に従う。そして自然は模倣を求める」と前提で書かれている。そこでアリストテレスが出す結論は、とにかく「悲劇以外は絶対作るな」「喜劇は少しでいい」「叙事詩(ドラマ)で、自分語りを本人がやる劇は絶対だめだ」ともいっている。理由は「本人が死んだら終わりだから」。そりゃそうだ、確かにそうなんですよね。 アリストテレスは「悲劇のポイントは畏れと哀れみだ」と言っている。目の前で「あんな立派な人がこんなことになるなんて」とか「もう二度とこんな悲劇は起こしちゃいけない」という劇が上演されると、もはや劇を再現せずとも、口コミだけで皆に教訓が伝わるから民度が向上するんだ、と。だから古代ギリシア社会は安定していた。つまり「政治と文学」がきちんと機能していたからこそ、当時の最強国家だった。 他にもアリストテレスはいろんなことを言っているんですが、例えば「物語の筋は複雑であるほどいい」「ご都合主義な展開はできるだけなくして、筋を複雑に入れ替えると人は惹かれる」ーーといった調子で、ピクサーをはじめ海外でドラマ作りに携わる人は、『詩学』は必ず読むらしい。これ以上に完璧な物語製作のマニュアル本はないと。ハリウッドは今でもアリストテレスに倣って、いかに悲劇的な虚構を物語に入れ込むかに躍起になってる。演劇をやっている人はアリストテレスの本を読むと、「もはややることがない」と思うらしいです。 なぜこの話をしたかと言うと、〈政治〉と〈文学〉は、古代ギリシアでは問題になっていないんですよ。それは演劇という形で統合されていた。そこには宮台さんがよく持ち出す「ミメーシス(感染)」という概念も出てくる。ただ、日本的なミメーシスって確かにおかしいんですよね。アリストテレスを読んでいると、日本的想像力ってなんなんだろう、と。もしアリストテレスがいまの日本の想像力を見たら、あまりにも訳の分からない展開ばっかりで狂喜して分類と分析を始めたとは思うんですけどね……。
    宇野 『母性のディストピア』では押井守論を通して、「映像の世紀」が過去のものになりつつあると書いたわけだけど、実際に20世紀的な劇映画で描けないものが圧倒的な勢いで台頭してきているのは間違いない。  インターネット以降、人間の関心の中心は良くも悪くも「他人の物語」から「自分の物語」に移行しつつある。紙の上やモニターの中の「他人の物語」に感情移入するより、「自分の物語」を体験すること、それを発信してシェアすることに関心が移行していっている。この流れはかなり長い間覆らないと思う。  と、いうかこの「映像の世紀」とよばれた20世紀は、映像と放送技術が結託することであまりにも他人の物語(虚構)の支配力が強い時代だった。皆が「他人の物語」に感情移入することによって社会が形成されていたわけだからね。  でも本来、人間は「自分の物語」を生きて、「自分の物語」を語りたがる生き物。「自分の物語」を発信しやすいソーシャルメディアの登場によって、パワーバランスが逆転した。  だから大衆文化はすでに圧倒的に「自分の物語」に移っている。ツーリズムもライフスタイルスポーツもボランティアもそう。そして生活自体のエンターテイメント化が進んでいく。パブリックには広義のイベントに全部回収されるだろうし、プライベートでは衣食住そのもののエンターテイメント化が進んでいく、それを見せびらかすことも含めてね。  なので、20世紀的な「他人の物語」を中心とした劇映画的なエンターテイメントは、相対的に力を失っていくと僕は思っている。むしろ20世紀における文学のような、インテリ層のコミュニケーションツールのような位置づけになっていくんじゃないかと思っているんですよ。
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  • おたく/オタクという「失敗したプロジェクト」とその可能性 濱野智史×宇野常寛「〈政治〉と〈文学〉」から「〈市場〉と〈ゲーム〉」へ——『母性のディストピア』をめぐって(4)

    2017-11-06 07:00  
    550pt

    10月26日に発売された、宇野常寛の待望の新著『母性のディストピア』。その内容を題材にして、長年の盟友である濱野智史氏と共に日本のこれまでとこれからについて語ります。第4回では、大塚英志氏のオタク論をいかにして継承するか。また、「語り口」の問題に左右されてしまう批評の言語の限界について議論します。(構成:斎藤 岬)※その他の回はこちら。(第1回、第2回、第3回、第4回、第5回)
    批評の言語の脆弱さと「語り口」の問題
    宇野 『母性のディストピア』はやたらと長くなったんだけど、その原因のひとつが、作品をちゃんと紹介しているからなんだよね。
    濱野 それは宇野さんの特徴でもあると思う。実は僕は平成ライダーシリーズはちゃんと観ていないんですが、実際に作品を観るよりも『リトル・ピープルの時代』を読んだほうが、平成ライダーシリーズの知識や理解度が深まることは間違いない。僕は宇野さんのおかげで、平成ライダーを観ている人と語り合えたりしますもの(笑)。
    ▲『リトル・ピープルの時代』
    宇野 それが狙いで、追体験してほしいというのはある。あと今回は過程を見せたかったんだよね。インターネット以降、改めて本の役割が問われている。結論を伝えるだけならツイートでいいわけで。この本では、なぜ一回現実を切断し、虚構の世界に逃避することが必要だったのか。結論だけを受け取るのではなく、なぜアニメの世界において、現実の世界で完全に断絶した〈政治〉と〈文学〉の問題が、独特のアイロニカルな接続をなしえたのか、その過程をしっかりと見せることが必要だと考えていて。だから作品の内容もしっかりと紹介してるんだよね。
    濱野 想像力のいらないものほど140字で終わりますからね……。まあだからこそ、いまやTwitterは言論のディストピア状態に陥ってしまっているのが皮肉なところではありますが。  さて、ちょっと話題を変えたいのですが、そもそも宇野さんは「想像力」という言葉にすごく思い入れがありますね。これは実は『ゼロ年代の想像力』を出された頃からずっと思っていたのですが、宇野さんはこの言葉を普通の人よりかなり重い言葉として使っている印象がある。ちなみに僕自身は「想像力」という言葉を大して重視していない。僕だけじゃなく、いわゆる人文・社会科学系の発想だと、人間は理性、つまり論理性や合理性で振る舞うのが基本であって、「想像力」はむしろ添え物だという発想のほうが強いと思うんですよ。「他者への想像力は必要だ」みたいな使い方くらいはするけど、それも結局ロールズのいう「無知のヴェールが〜」的な理論的根拠を持ってこないと、なかなか「想像力」をまず前面に出すという語り方ができない。宇野さんの使う「想像力」というのは、そんなものよりももっと独特の重みを持っていますよね。だから、宇野さんはどうして「想像力」という言葉にこだわっているのかな、とかねてから関心はあったんです。
    宇野 それはサブカルチャー評論家としてだよね。つまり「理性を持って、立派な近代的市民として成熟しよう」と言ったときに、「人間はそれだけで生きていけないでしょ」というところを基盤に置かないと、ものを書いている意味がない。その立場から発言するしかないところが、僕の動機と直結しているんだよね。
    濱野 なるほどな……。そこも僕とは全然違っていて面白い。僕は実はわりと今回の対談を通じて改めて思ったけど、やっぱりポストモダン社会における動物的主体として「開き直っている」ところが多々ある。それこそ自分自身も含め、人間なんてどうせ完璧な理性なんて無理だし、動物的にコントロールできるんだから、とっとと環境管理でスマートな社会運営をしよう。ただし、独裁はまずい。だから、なるべく民主的でオープンなアーキテクチャ設計/管理の方式を考えて、旧き良き近代的でリベラルな理念も「そこそこ」21世紀以降に埋め込むにはどうするか……くらいの感じなんですよね、正直。  だから『母性のディストピア』で書かれたような、日本のアニメが育んできた想像力の巨大なねじれや独特さに改めて向き合って、いやちょっと自分は楽観的すぎたな、と素朴に反省したんですよ。だから宇野さんが、いまの世の中にはそういう想像力のファイトをする相手がおらず、だから過去のアニメ界の巨人に向かうという気持ちも、非常によく分かった。  ただ、ひとつ思ったのは、実は『ゼロ年代の想像力』の中にも、「母性のディストピア」という言葉を使って一章を割いていますよね。だから宇野さんとしては、これはずっと抱えていたモチーフだったと思うんですが。
    宇野 『母性のディストピア』は昔からずっと書きたかった本で、僕がずっと書きたかったのは究極的には富野由悠季論なんですよ。「有意義なことに人生を使おうと思った」というのは僕の内的な動機で、それは本文にそのまま書いてある。だから、ここで語るべきは、なぜ今のタイミングで本が出るのか、だろうね。外側から見たら『母性のディストピア』が結果的にこのタイミングになってしまった問題には、いろんなものが象徴されているのかもしれない。
    濱野 今回の対談に備えて、『ゼロ年代の想像力』も読み直したんですが、いや、宇野さんが当時言っていた「決断主義」の問題って、いまやガンガン強化されて世界中を席巻しまくっているわけじゃないですか。当時は「たしかにそういう風潮があるよね、やばいよね」くらいで、僕はなんだかんだいってわりと楽観的だった。『アーキテクチャの生態系』もまだ楽観的だったんですよ。  それが、いまや本当に「環境管理型権力によって人間の主体性や自由が奪われる……」とか言っている場合じゃなくなってきていて、完全にスマートフォンとクラウドで完全なるスマートな監視「に基づく」サービスフルな社会が到来しつつある。こうしたとき、今までの「監視社会反対!」的な左派的・反権力的な議論の枠組みは完全に機能しない。
    ▲『アーキテクチャの生態系』(濱野智史)、『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)
    宇野 僕も『母性のディストピア』を書いていて「『ゼロ年代の想像力』を書いてた頃は気楽だったな」と本当に思った。あの頃は、知的であることや戦後中流が機能していることが、暗黙の前提になっていた。
    濱野 たしかに言われてみればそうですね。それは結構、重要な話かもしれない。特にクドカンの章はすごく印象的で、その後のマイルドヤンキー問題につながっていくんだけど、「そのまま地方って滅びていくだけでいいんですか?」という話になっていて、実はいまの日本の現状を明確に描いている。つまり固有名としてすら認識されない地方って本当に文字通り「滅びる」ことが完全にいまや明らかになっているわけじゃないですか。地方創生なんていっても、要は勝ち負けがはっきりするし、それこそ決断主義的リーダーがいないと絶対に勝てない。でもみんな勝てないから国にすがり、それによりますます日本は国全体としての競争力を失っていく。あのあたりはかなり日本社会の2010年代の先まで予見している評論で、読み直してすごいなと正直思いました。
    宇野 『ゼロ年代の想像力』は、自分的には若書きで至らないところもある反省が多い本だし、"編集者・宇野常寛”が書いた本だと思ってるんだよね。今となっては「ファウスト」とかセカイ系とか、本当にどうでもいい話だしね。その一方で、宮藤官九郎とマイルドヤンキー論、あとは『涼宮ハルヒの憂鬱』が実はセカイ系ではなく、セカイ系の限界を示しているという読みは、我ながら正しかったと思う。自分で気に入っているのは、このクドカン論とハルヒ論くらいかな。  僕としては『リトル・ピープルの時代』のほうが好き。平成ライダーという、ほかの人間が注目していないものを取り上げて、〈政治〉と〈文学〉の問題として、村上春樹と接続するアクロバティックさがある。
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  • イデとニュータイプを「いま」考える――富野由悠季と押井守 濱野智史×宇野常寛「〈政治〉と〈文学〉」から「〈市場〉と〈ゲーム〉」へ――『母性のディストピア』をめぐって(3)

    2017-11-03 07:00  
    550pt

    10月26日に発売された、宇野常寛の待望の新著『母性のディストピア』。その内容を題材にして、長年の盟友である濱野智史氏と共に日本のこれまでとこれからについて語ります。富野由悠季が『伝説巨神イデオン』を通じて予言的に描き出した状況と、押井守の映像アート『めざめの箱舟』の意外な可能性について取り上げます。(構成:斎藤 岬) ※その他の回はこちら。(第1回、第2回、第3回、第4回、第5回)
    『伝説巨神イデオン』にみる富野由悠季の想像力の臨界
    ▲『伝説巨神イデオン』
    濱野 今回、『母性のディストピア』で何に一番驚いたかって、宇野さんがまさかこれほど『伝説巨神イデオン』を高く評価していたとはということなんですよ。 僕の個人史的には、『伝説巨神イデオン』を観るより先に、まず『新世紀エヴァンゲリオン』から受けたファースト・インパクトがあって。そもそも僕は『エヴァ』を観た時、『機動戦士ガンダム』の再放送も未視聴で、全く富野的想像力も知らなかった。それでTV版の『新世紀エヴァンゲリオン』を観て、当時その後すぐに出版された『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』(大泉実成)『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(竹熊健太郎)をむさぼるように読んだわけなんですよ。 で、やっぱあの本を読むと、「『ガンダム』ってそんなに影響されるもんなのか」「『伝説巨神イデオン』とか『デビルマン』ってそんなにやばいの?」と思うわけですよ。そこでTSUTAYAに行ってビデオテープ(!)を借りたり、ブックオフで古本マンガ漁ったり、一応、それなりにオタク的教養を身につけようとする基礎作業はした。まあ、僕の場合は「初心者の館」レベルで止まってしまっているのですが。
    ▲庵野秀明 『スキゾ・エヴァンゲリオン』(編・大泉実成)『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(編・竹熊健太郎)
     ただ、僕の富野さんの評価は、もちろんすばらしいクリエイターだとは思うけれども、宮崎駿や高畑勲に比べたら作品にブレがありすぎるという印象なんですね。宇野さん含め、富野ファンの皆さんには大変申し訳ないんですが……。 確かに「ファーストガンダム」と呼ばれる最初の『機動戦士ガンダム』はすごいと思った。あ、ちなみにちゃんとこれはTSUTAYAでTV版を全話借りて観ましたよ。大学のメディアセンターでビデオテープをダビングして保存した記憶すらある(笑)。 ただ、僕はファーストガンダムをSF作品というより、登場人物の自意識や人間関係をめぐるドロドロのリアリズムと、独特のセリフ回しが面白すぎると受け取ったタイプで。実はモビルスーツとかニュータイプといったSF設定周りはあまりピンと来なかった。『母性のディストピア』でもずっと指摘されている通り、ニュータイプっていうアイディアがある種「取ってつけたもの」感があるじゃないですか。映画版で若干設定が盛られていたけれど、「はっきり言ってこの話、ニュータイプ関係ある?」っていうのが正直な印象だった。ララァを奪いあってなんかニュータイプ同士が戦いながら論争してるけど、テレパシー以上のものはあるのか。まああとは普通に予知能力的にアムロが強いのは分かるけど、あんなのシューティングゲームとかに究極に没頭すれば目覚めるゲーマー的反射神経としか思えなかった。だから正直、「ニュータイプが人類を変える」って、何を言いいたいのかわからなかった。それが率直な感想だったんですね。
    ▲『機動戦士ガンダム』
     ただ、その『機動戦士ガンダム』では取ってつけたオカルト要素に過ぎないと感じたものが、その後すぐに続いて『伝説巨神イデオン』を借りて観たら「これはヤバい!」と。正直、問題発言スレスレですけど、「こりゃオウムとか出て来るわけだわ、この国」と思いましたよね、当時10代の自分は。「これが商品化されるって、狂ってるなこの国」と思って、なんか逆に元気が出た(笑)。 いやしかし、『伝説巨神イデオン』の内容って、口で説明するのはちょっと難しい。遺跡を発掘したら異星人に攻撃され、その遺跡が実は巨大ロボットで、そのせいで異星人に追われて遺跡に乗り込んだまま逃げ出すはめになり……僕は90年代後半に映画版の接触編・発動編を借りて観て、ちょっともう記憶も曖昧なんですが、最後は無限エネルギー「イデ」が発動して人類も異星人も全滅する展開ははっきり覚えています。あれを観たら、なるほど「人類補完計画」とかも言い出すわけだと思いましたが、しかしこれはめちゃくちゃすぎる(笑)。 ちなみに今回、インタビューの前に『イデオン』を見返そうと思ったのですが、Amazon Prime Videoだと打ち切りになったテレビシリーズしか見れなくて、それでもイデオンがやばいのはよくわかった。そりゃこんなのTVで流したら打ち切りになるよな、と。だからこそあれにトラウマ的影響を受けるクリエイターがいるのは非常によくわかる。
    宇野 富野由悠季という作家の何がすごかったかというと、要するにその想像力だったと思うんです。たとえばニュータイプ。あれは明らかに当時の超能力ブームの影響なのだけど、あの空間を超越して遠く離れたところにいる人間の意識と意識が直接衝突していくというあの発想は、いまとなってはもう完全にインターネットのことにしか見えない。  そして『伝説巨神イデオン』に出てくる「イデ」というのは、言ってみればニュータイプ的なコミュニケーションを可能にするシステムですよね。富野由悠季が偉大だったのは、それをまさに「ディストピア」として提示したこと。システムが発達して、人間と人間が中間物を挟むことなく直接ぶつかると本当にとんでもないことが起こるというのは、まさに今この世の中で起こっていることですよね。富野は80年代前半に「そんなことが起こると人類が滅ぶ」ときわめて正確に予言しているんだけど、残念ながらその富野由悠季自身が、それを克服することができなかった。世代的なものもあるのか、当時のヒッピー崩れのオカルトブーム、要するにニューエイジから離陸できなかった。
    濱野 まさに『伝説巨神イデオン』で描かれている「イデ」というのは、いわゆる人工知能的なものに近くて、いまの人類が普通にもっている言語的なコミュニケーション手段、それは例えば和平交渉でも相互理解でもいいんですけれども、そういった凡庸な政治学的なり社会学的な想像力をはるかに超えた何かを提示してはいるんですよね。それが最後全てをぶっ壊して終わるから、まあむちゃくちゃなんだけれど、僕は今回の宇野さんの本を読みながら、じゃあ逆に「イデ」がうまく機能して、世界がより豊かで多様性を認め合うことができた世界線があったとしたら、それってどんなものなんだろうってことは、すごく考えるべきだと切実に思ったんですよ。 「イデオン」っていう名前自体が「理想」(イデア)そのものだけど、実はいま、これって21世紀の人類がリアルに問われている「理念」の問題でもあるわけじゃないですか。だから宇野さんが『伝説巨神イデオン』を出してくるとは思わなかったから結構衝撃だったんですが、非常に腑に落ちるところがあった。『イデオン』は正直自分の中で、20年くらいそれこそ黒歴史じゃないけど記憶の奥底に封印されていた作品だったので、そこはグッときましたね。
    宇野 『イデオン』はイデという僕たちの世界観を根底から覆すようなシステムを手にしたのに、人間は愚民であるから、それを使いこなせずに全員死にました、という話ですよね。イデというのはシステムの問題、つまり濱野智史的に言うとアーキテクチャの問題であって、ニュータイプは主体の問題なんですよね。だから、こそ富野由悠季はイデを描くんだったら、それと対となるニュータイプをもっとガチで描くべきだった。いや、描いているんだけど、結局うまくいかなかった。 『母性のディストピア』でも散々書いたように、富野由悠季はニュータイプ的な主体の問題が存在するというところまでは行ける。問題設定自体はすごく正しかったし、優れていたと思う。
    濱野 ふむ。しかしニュータイプ的なものはオカルトにすぐ近接してしまうから、描くのは本当に難しいと思うんですよね。それは富野さんだけじゃなくて、みんなそうだと思うんですが……。
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  • パズーはもう一度冒険に出るべきか?——宮崎駿と高畑勲、ジブリ2大作家の可能性と限界 濱野智史×宇野常寛「〈政治〉と〈文学〉」から「〈市場〉と〈ゲーム〉」へ——『母性のディストピア』をめぐって(2)

    2017-11-02 07:00  
    550pt

    10月26日に発売された、宇野常寛の待望の新著『母性のディストピア』。その内容を題材にして、長年の盟友である濱野智史氏と共に日本のこれまでとこれからについて語ります。第2回は宮崎駿と、『母性のディストピア』では扱いきれなかった高畑勲の話題を中心に、ジブリ2大作家の可能性と限界について考察します。(構成:斎藤 岬)※その他の回はこちら。(第1回、第2回、第3回、第4回、第5回)
    異界を覗き込む宮崎作品の可能性
    濱野 前回も触れた通り、僕は『母性のディストピア』で取り上げた3人の作家で言うと完全に宮崎駿派だったんですよ。 特に『天空の城ラピュタ』が最高に好きで。あれは宮崎駿も「ベタベタの冒険活劇でいいじゃないか」と開き直って作っている気がする。『母性のディストピア』で宇野さんは「宮崎駿は『母性的なもの』がないと飛べなくなった」と指摘していましたが、『ラピュタ』はそういう意味でも本当に象徴的ですよね。つまり、パズーはシータがいないと飛べない。確かに僕は子供の頃から思っていたんですよ。「守るべき女の子がいなきゃ、飛ぶ意味なんてない。そして自分にはシータが降りてくることも、ラピュタを見つけることもないな」と(笑)。リスクを追って人類未踏の世界に辿り着くこそ冒険だったわけですが、もはや冒険/探検すべき領域が地球上に残っていないことは、20世紀後半に生まれた人間として、子供でももう分かるじゃないですか。だから、あのベタベタの冒険譚の道具立ての揃い具合が、最高にノスタルジックな夢をみせてくれるし、「バルス!」祭りが未だに盛り上がるのも、そんなものは完全に「嘘」だということをこれみよがしに見せてくれるカタルシスがあるからだと思うんですよね、あのラストシーンに。
    ▲『天空の城ラピュタ』
     ちなみに僕が一番好きなのは、シータとパズーが見張り台の中にいて、ドーラたちがその会話を伝声管越しに聞いているところからのシーン。その後、軍に見つかって攻撃から逃れながら、仲間とはぐれて2人きりでラピュタに行く。本当に男の子のご都合主義的ロマンスでうざったいなあと思うんだけれど、「本当にラピュタがおそろしい島なら、ムスカみたいな連中に渡しちゃいけないんだ」というパズーのセリフをドーラたちが「盗聴」していることによって、ムスカたちとの戦いという冒険の正当性も担保されていて、実に巧みだし、それこそ自分にも「こんな冒険あったらいいなあ」とも思うシーンなんですよ(笑)。 『天空の城ラピュタ』って、最初に空から女の子が降ってくるところからも明らかなように、男の子のご都合主義的ロマンスの集合体でしかない。だから、ラストの後の2人がどうなるかは描けない。描きたくないでしょう。僕も見たくない。あの二人が、シータの出身地であるゴンドアの谷で仮に結婚したって絶対に幸せになれない(笑)。
    宇野 絶対にならないよね。シータはパズーを生活保守に調教することしか考えないだろうから。そもそも『天空の城ラピュタ』はやはり諦めの物語でしょう? もう男の子は飛べない、冒険は諦めて畑を耕そう、という結末ですからね。
    濱野 飛ぶためにはムスカと同じようにロストテクノロジーを求めるしかない。でも結婚後に飛ぶことを諦められなくて、牧畜とか開墾とかに飽きて冒険に出ようとするパズーの絵があまりにも容易に想像できる。というか、断言しますけど、自分がパズーなら3年で絶対シータと別れますね(笑)。なんの断言だよって感じですけど。
    宇野 地上に戻ってからのパズーは「俺は本当は飛行機に乗りたいんだ」と思っているのに、無理やり農業をやらされたり、そのことで夫婦生活もうまくいかなくなったり、そういう人生が待っているわけだよ。
    濱野 「あそこから本当の『バルス(崩壊)』が始まるのに」といつも思う。だから宮崎駿っていうのはそういう存在だと薄々わかってるんだけれど、でもアニメだからそれでいいじゃんって僕は思っていたんですよね。今回、宇野さんの著作を読んで、いまさらながら、その開き直りから目を覚まされた感じがあった。
    宇野 ああ、家庭を「バルス」ね(笑)。だから、宮崎駿はその未来を乗り越えるためには、やはり飛ぶんじゃなくて「潜る」しかなかった。  具体的には『となりのトトロ』で彼が切り拓いた世界の延長線上にもっといろいろやれたことがあったんじゃないかってことなんですよね。
    ▲『となりのトトロ』
     宮崎駿が書いた『となりのトトロ』のエンディングテーマの歌詞に「子供のときにだけ あなたに訪れる」というのがあるんだけど、日常の中の異界を覗き込む力を、どうやって大人の世界に拡張していくか。本当はこれが宮崎駿が一番向き合っていくべき問題だったと思うのだけど、『となりのトトロ』の先に進めなかったと思うんですよね。  あれは「飛ぶ」だけではなくて、日常の中に異界を発見して、そこに「潜る」ことを発見している。ここには『天空の城ラピュタ』で宮崎駿が未練たっぷりに断念したものとは別の可能性があったはずなんだよ。  やっぱり、『魔女の宅急便』からはまた元の路線に、つまり「飛ぶ」ことに回帰している。あの作品の背景にあるのはバブル期の都市の気分だったわけで、それは要するにあの宮崎駿ですらバブルの狂騒に若干とはいえ肯定性を見出そうとしていた一瞬があった、ということなのだけど。つまり『となりのトトロ』の日本は失われてしまった。だけど、もしかしたら今の都市化された日本にも、人間を飛ばせる力があるのかもしれない、『天空の城ラピュタ』に接続してロストテクノロジーの力で飛ばなくても、つまり失われた近代的な、男性的なロマンティシズムに賭けなくても精神的に豊かに過ごしていく方法があるのかもしれない、というのが『魔女の宅急便』だったんだけど、結局、宮崎駿はあれを自分自身の、つまりあの作品でいうとトンボの物語としては描けずにあくまで理想化された少女、つまりキキの物語としてしか描けなかった。『母性のディストピア』で取り上げた「少女は飛べる/男たちは飛べない」問題ですね。男性というか、自分自身が飛ぶ物語を描こうとすると、自虐たっぷりに豚のコスプレをする(『紅の豚』)か、ナルシスティックにキムタクと同一化(『ハウルの動く城』)するしかなくなっていく。でもそれって結局自己憐憫のようなものの先には進めなかったように思う。
    ▲『魔女の宅急便』
     だから僕は本当は『となりのトトロ』の延長線で何らかの新しい可能性が見い出せていればよかったのにって思っている。  これは昔、大塚英志さんが書いていたんだけど『となりのトトロ』もその原型の『パンダコパンダ』も、何が異様かって普通だったら最後に異世界の住人と子どもは別れて終わる。異界の住人たちはいつの間にか見えなくなって、少女はちょっと大人になる。『この世界の片隅に』のように妖怪を見る力、異界を覗く力を失ったかわりに、ちょっと大人になって代わりに性的なものに目覚めていく、という通過儀礼的な物語になるのが普通。でも『パンダコパンダ』も『となりのトトロ』はそうならないんだよね。あの話の中でトトロとサツキ、メイの別れは描かれない。
    ▲『パンダコパンダ』
    濱野 一切描かれていないですね。そのかわりにエンドロールのアニメでは母親が帰ってきて終わる。そこもまた非常にうまい。
    宇野 あの異様さを大塚英志は、近代主義者の立場から批判的に書いているんだけど、僕は逆の感想を持っているんですよ。あれは、サツキとメイがトトロたちと別れないからいい。  あの時期までの宮崎駿は、あのまま異界を見続けることによって、自身からは既に失なわれてしまっているその力を、なんとかして取り戻したいと思っていたところがあったんだと思う。だからこそ糸井重里の「忘れものを、届けに来ました」というコピーが採用されていたわけでさ。あそこで子どもが異界の住人と別れることで成長するという教科書的な成熟を、彼は信じていなかったはず。  だから、そういった「もう一つの宮崎駿」を見たかった気もする。宮崎駿的には『となりのトトロ』のアップデートが『千と千尋の神隠し』なんだろうけど、その進化が本当に正しかったのかについては、もっと議論されていいと思う。『千と千尋の神隠し』は「出会い」と「別れ」がある、とてもオーソドックスな成長譚になっていて、そこが逆に物足りないんだよね。
    ▲『千と千尋の神隠し』
    濱野 なるほど……。トトロは僕も当然傑作だと思っていましたが、その想像力を伸ばせ、というところまでは僕の想像力が至っていなかった(笑)。トトロは凄すぎるんですよね……。 ちなみに僕も『千と千尋の神隠し』は全然評価もしていないし、個人的にも全くピンと来る部分のなかった作品ですね。ハクというキャラも好きになれない。
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  • 押井守・庵野秀明・こうの史代——アトム/ゴジラの命題の継承者たち 濱野智史×宇野常寛「〈政治〉と〈文学〉」から「〈市場〉と〈ゲーム〉」へ——『母性のディストピア』をめぐって(1)

    2017-11-01 07:00  
    550pt

    10月26日に発売された、宇野常寛の待望の新著『母性のディストピア』。その内容を題材にして、長年の盟友である濱野智史氏と共に日本のこれまでとこれからについて語ります。第一回は『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』といった作品を参照しながら、〈政治〉と〈文学〉が断絶してしまった情況について考えます。(構成:斎藤 岬)※その他の回はこちら。(第1回、第2回、第3回、第4回、第5回)
    なぜ今『母性のディストピア』を世に問うのか
    ▲『母性のディストピア』
    濱野 今日は『母性のディストピア』がなぜ今、このタイミングで出たのかをあらためて聞くところから始めたいと思います。それはもちろん本の中にも書かれていますが、今回、僕が対談相手に選ばれたのは、その聞き手役として最適だからではないかと思っています。 僕の『アーキテクチャの生態系』と宇野さんの『ゼロ年代の想像力』は、ちょうど同じ2008年に出ているんですよね。でも、宇野さんと僕の批評家としての立場は本当に当時から全く違っていて、僕はこの本で扱われているようなサブカル批評にまったく興味がない。ずっと「アーキテクチャ」、つまりサブカルのようなコンテンツそれ自体より、それが消費される環境のほうに関心を払ってきた。だから本当はここにいる2人は「水と油」のような関係のはずなんだけど、だからこそこの10年、同じ日本社会を別の角度から観察しあうことができた、そんな関係でもある。
    ▲『アーキテクチャの生態系』(濱野智史)、『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)
     そこで今日は、お互いデビューから約10年という文脈も含めて総括できればいいなと思っています。宇野さんがなぜこのタイミングでこういう本を書いて、そこから何を読み解くべきなのか、本書の中と外の話を両方していければと思います。
     ではまず本書の中についてから行きましょう。率直な僕の感想を言うと、まず「序にかえて」には完全に同意で、何も付け加えることがないですね。いま、この国の現実には、本当に語る価値のあるものは存在しない。日本、そして日本の批評言語は、完全に世界から取り残されている、これは完全に同意します。さらに宇野さんは、安倍晋三やSEALDsについて語るよりも、ナウシカやシャアについて語るほう有意義だとすら断言する。これはかなりの極言で、僕もハッとさせられたのですが、人によっては「宇野は現実逃避に走った」と思い込んで、その先を読まずに終わるかもしれないと想像してしまいました。この序文は宇野さん的にもかなり勇気がいる内容だったのではないですか。
    宇野 そう、間違いなく「序にかえて」だけ読んで、罵詈雑言を浴びせてくる人がいると思う。それも、匿名のTwitterでグチグチと他人の悪口を書くことや、実効性や具体的な成果を度外視して自分探し的な市民運動に「参加」することが現実へのコミットだと勘違いしている人たちから、間違いなく標的にされると思う。 でも、それはまあ、言ってみれば僕の仕掛けた大きな罠で、続く「第1部」は要するにインターネットのアーキテクチャに支援されて現実を単純化する人たち――具体的には今挙げたような極右と極左の困った人たち――のやっていることこそが、実は言葉の最悪な意味での「文学」「サブカルチャー」にすぎないこと、そしてそれを戦後日本が延々と反復してきたことの分析からはじまる。つまり、この本を読まずに罵倒するであろう自称「政治的な人たち」を、戦後社会の病理として分析するところからはじまる。彼らの「読まない」「悪口をいうために読む」行為や、その結果出てくるであろう「オタクがアニメに現実逃避している」という批判こそが、僕の分析の正しさを証明するような構造になっている。
    濱野 まさに第6部のタイトルが「『政治と文学』の再設定」で、現実の日本社会への分析と提言に戻る。実際に宇野さんがそこで展開しているのは、再設定は無理だから、〈市場〉と〈ゲーム〉でいいじゃないか、ということですよね。もはや〈政治〉と〈文学〉がつながるなんて、いまは誰も思っていない。つまり〈市場〉と〈ゲーム〉の時代に適応した新しい主体を考えた方がいい。戦後のサブカルチャーの遺産を手がかりに日本からGoogleとは違う新しいモデルを出せたらいいよね、といった話に着地している。ここはあとでもっと詳しく話し合えればと思いますが。
    宇野 正確にはもう「日本から」でなくてもいいと思っていて、たとえば富野由悠季の遺伝子を受け継いだアジアやアフリカの作家や企業がそれをやる、でも全然構わないし、その方が夢があるとすら思っています。 この国の人たちは、まだ〈政治〉と〈文学〉を接続して成熟した市民社会を形成することだけが唯一の道筋だと思い込んで行動している人が多すぎると思うんですよ。でも本当は〈政治〉と〈文学〉の問題自体が、既に〈市場〉と〈ゲーム〉に置き換わっていて、この変化があまりに急激なので全世界が戸惑っている。にもかかわらず、日本だけが2周半くらい遅れた議論をしている。 その状況からどう現代に対応しようかと考えたときに、まずは西海岸に追いつこうと号令をかけるのは僕の仕事ではないと思うんですよ。まずはそれがないと始まらないのだけど、どちらかというと僕はかつての日本車がそうであったようにアメリカン・スタンダードを二次創作的にハックするほうに興味がある。だから戦後文化の奇形児としての日本の戦後アニメーションを総括して、そこで育まれた思想、美学、世界観から現代の「〈市場〉と〈ゲーム〉」の問題を考えたのが第6部と「結びにかえて」なんですよ。
    濱野 まさにそこが今回の宇野さんの著作の独自なポジションを形成していると思いました。日本人は結果的に、21世紀にも入って戦後も70年以上経つというのに、いわゆるマッカーサーに言われた「永遠の12歳」の幼稚さの状態に留まってしまっている、もちろん戦後、いかに「対米ケツ舐め外交」的状態から決別し、大人として自立したリベラル民主主義国家になろうとしてきた人々がいたか。そこにいかに膨大なロマンと、挫折と屈折の物語が折り重ねられてきたか。それは分かる。でも、その「政治と文学」を結びつける回路で人々を駆動しようとするのは、もはやどうしようもなく困難な現実がある。 これは前から思っていたのですが、大学で「インターネット・メディア論」的なことを教える時に痛感するのは、インターネットって本当にアメリカの「表現の自由」という建国以来掲げてきた「正義の物語」――建国の父たちから受け継いだ理念――とあまりにも自然に結びついて生まれてきたアーキテクチャなんですよね。個人は誰もが表現する権利がある。何人もそれを奪ってはならない。そこにすっと、自然とインターネットやパーソナル・コンピューターといったものが出てくる下地があるわけですよ。 でも、こういうハッカー文化的な背景を大学で話していても、なんだか本当に虚空に向けて話しているような気持ちになってくる。もう民度が低いとかどうとか、そういうレベルじゃないんですよね。そして僕は教室で「ポカーン」とする若者たちに向かって、もはや語るべき「政治と文学」の共通言語がないと感じる。ただ共通しているのは、みんなiPhoneかスマートフォンは持っているという現実だけ。だからもう最近は、「iPhoneはみんな持ってるよね、スティーブ・ジョブズって知ってる? 『1984』って知ってる?」とYouTubeを見せるところから授業を始めて、いかに西海岸的なものに自分たちの日常性が覆い尽くされているか……みたいな話をするんですが、正直自分としても厳しいんですよ。「こんなの中高レベルの基礎教養として抑えておいてくれよ!いったい中高の『情報』の授業は何を教えてるんだよ!」と怒りすら覚える。 はっきりいってこんなことも知らずにただスマホでTwitterとLINEとソシャゲだけ使っている日本の(若者に限らないですが)現状を見ているとですね……僕はまさに「インターネットの奇形児」としての日本のゼロ年代のネットサービス群に可能性を見て、『アーキテクチャの生態系』を書いたのですが、最近はかなりゲンナリしているのが正直なところです。
    宇野 そうですね。かといってじゃあ、今の日本の社会のことなんて知らないよ、と言ってしまうのは無責任だし、なにより僕は感情的にちょっとそれは難しい。やっぱりね、僕は出自的に「自分はグローバルな市場のプレイヤー、つまり世界市民だから国民国家なんて旧いローカルな回路の問題なんてどうだっていい。日本がイヤなら出ていくだけなんで」なんて言えないですよ。だから第6部では現代の日本のことにもしっかり紙幅を割いています。 今回の総選挙はいみじくもそれを体現してしまったような気がするけれど、日本の政治はこの30年間、時間が止まったままでいる。転向前の小沢一郎や小泉純一郎がプレイヤーだった頃と同じように、テレビポピュリズムによる55年体制との対決、あるいはその延命が主題になり続けている。平成の「改革」というのは要するに、この国をグローバル化と情報化に対応させるための改革というプロジェクトだったのだけど、それは完全に失敗して、今となっては保守にも革新にもほとんど改革勢力は残っていない。残っていた少数の勢力も小池百合子に騙されて彼女の自爆に巻き込まれ、ほとんど求心力を失ってしまったわけでしょう? この「平成」という改革の時代の決定的な敗北には当然のことだけれど、実に複雑な背景があってたくさんの要素が絡み合っている。ただ、僕はもっとも決定的だったのは情報環境というかメディアの問題だったと考えているわけです。実際に、平成の改革勢力は自分たちが武器に選んだテレビポピュリズムに振り回されて自滅していったわけだし、現在の二極化にはインターネットが絶大な悪影響をもたらしてしまっている。この現状に対する処方箋として、戦後サブカルチャーの「失われた可能性」の批判的発展を提案して、その延長線で「市場とゲーム」の時代の主体の問題に接続していく、という構成ですね。第6部以降が長いのはそこまで詰め込んだからで、それでもまだ書きたいことがあって連載中の『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』に続くという。
    押井守の「政治と文学」
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  • 濱野智史『S, X, S, WX』―『アーキテクチャの生態系Ⅱ』をめざして 第1章 東方見聞録 #1-1 NRT発: 3/6~3/7~3/6: on United【不定期配信】

    2017-06-13 07:00  
    550pt


    情報環境研究者の濱野智史さんの新連載『S, X, S, WX』―『アーキテクチャの生態系Ⅱ』をめざして が始まります。来たるべき時代の情報社会/現代社会を読み解くための試論を展開しようとする濱野さん。第1章では、Googleを訪ねるために西海岸へと向かいます。
    『S, X, S, WX』
    ―『アーキテクチャの生態系Ⅱ』をめざして
    第1章 東方見聞録
    #1-1 NRT発: 3/6~3/7~3/6: on United
     2017年3月6日、私は太平洋の上にいた。ユナイテッド航空、NRT17:55発 SFO10:10着の便だ。そのとき私は洋上にてある夢を見ていた。だが、それは眠る時にみる夢のことではない。夢よりも深い覚醒のなか、私がこれから本連載を通じて、いや人生を通じて現実のものとしたい、夢である。
     その内容は、かつて筆者が宇野常寛との共著『希望論』(NHKブックス、2012年)と小熊英二編著『平成史』(河出書房新社、2012年)に寄稿した小論「情報化:日本社会は情報化の夢を見るか」に書きつけたことである。その要約は後者から引用すれば次のようなものとなる:

     日本の情報化は、インフラ層の普及・整備という点では成功したが、アプリケーション層(特に経済/政治領域)においては、さしたる変化ももたらしていない(中略)。それは、変化を望まない既存勢力にとっては「成功」であろう。しかし日本社会全体にとっては、少なくともグローバルな規模でポスト工業社会への移行は進んでいることは明らかである以上、「失敗」であろう。せいぜい成功しているといえるのは、インフラの価格破壊を実現し、百科事典や音楽やアニメを無料でダウンロード可能にするという、デフレ消費を推し進めたくらいのものである。
     こうした見立ては、「日本の情報化はカスだった」という印象を与えかねないかもしれない。しかしこれはあながち間違いではない。前節の冒頭でも見たように、結局のところ情報化は、情報収集や消費行動といった「消費」の領域に影響を強く及ぼしている傾向が強い。イノベーションを生み出す、政策をつくる、といった「生産」の領域では、まだまだ情報化ないしはネットワーク・メディアはさしたる影響を及ぼしているとは言いがたい。比喩的にいいかえれば、インターネットはいまだ「夜」の世界のメディアなのだ。社会の実権を握り、動かしている政治や大企業の「昼」の世界は、いまだにマスメディアとハイアラーキー(階層型組織)によって動いている。日経新聞を読んで組織内のうわさ話に聞き耳を立てる。それがいまだに日本社会の中核を縛っている。
     これはあくまでデータの裏付けを欠いた想像にすぎないが、インターネット(特に匿名掲示板)がしばしばオタクたちのしがない遊戯空間だと思われていたのにも、それなりの構造的背景があるのかもしれない。実社会ではまともにコミュニケーションのできない、正規雇用にもついていないからこそ時間の有り余った、引きこもり気味のオタクが、匿名空間で息巻くという姿が、戯画的にこれまで抱かれてきた。(中略)
     しかしこれは少し引いた目線で見れば、平成期において、それまでの昭和的枠組み(大企業での正規雇用といったメンバーシップ)が温存され、そこから「こぼれ落ちた人々」(貴戸理恵論文)たちが、「生きづらさ」の解消と承認欲求を求めて、インターネット空間を夜な夜なさまよっている、という図式ではないのか。あるいは自分たちの怒りや不満が既存の政治勢力やメディアには通っていない不満を抱える人々ではないだろうか。彼/彼女らは、昭和期から強固に残存する「昼」の世界の諸制度なり組織なりにぶつかり、それが変えられるという希望を失っている。だからこそ、誰もが肩書きを外して自由に発言し自由に暴れまわることのできるインターネット空間に夜な夜な出没するしかない。つまりは「昼」の世界への失望と無気力が、「夜」の世界での熱量に転換させられるほかないのである。はなはだ客観性は欠いているけれども、もし平成期における日本のインターネットがどうしようもなく「ダメ」で「厄介」なものに見えるとしたら、そうした下部構造が背景にあるのではないか。
     しかし、もし仮にそうなのだとしても、私達はそろそろ情報化の空間を夜の領域にとどめておくのをやめる時がきている。そこが「夜」の領域だというのならば、私達はアメリカ社会の借り物ではない、しごくまっとうで正しい「夢」を見なければならない。本書に収められた各論文は、インターネットを使って私達が何をすればいいのか、何の制度改革に向かって声を集め、それをどこに届ければいいのかを、これ以上はないというほどに明らかにしている。社会保障、教育、労働政策に悩む者たちが、ネットで声を集め、知恵を出しあい、団結しあって、それを何らかの政治勢力に伝え、有効な「票集団」として結集すること。インターネットという自由で双方向なメディアがあれば、既存の政治を縛ってきた「地方」や「組織・団体」の枠を超えて、そうしたコミュニケーションと団結が可能なはずだ。それは胸踊るような「革命」の夢とは違うかもしれないけれども、現にいま、私達の社会が共有すべき夢であるように思われる。
     
    筆者「情報化:日本社会は情報化の夢を見るか」前掲書

     私はなぜ西海岸へ向かうのか。それは「現にいま、私達の社会が共有すべき夢である」と断言するためであり、かつ、いまや日本社会だけではなく、国際社会全体が共有すべき夢となったからだ。その理由はのちに述べる。まずは、なぜ私が2017年3月上旬、アメリカ西海岸へフライトしたのか。その背景と経緯から述べることにしよう。
     
    * 

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  • HANGOUT PLUSレポート 宇野常寛ソロトークSPECIAL(2017年2月27日放送分)【毎週月曜配信】

    2017-03-06 07:00  
    550pt


    毎週月曜夜にニコニコ生放送で放送中の、宇野常寛がナビゲーターをつとめる「HANGOUT PLUS」。2017年2月27日の放送は、月に一度の宇野常寛ソロトークSPECIALをお送りしました。前半は2月24日に発売された村上春樹の新作長編『騎士団長殺し』のネタバレ全開レビュー、後半ではシークレットゲストとして濱野智史さんをお迎えし、対談「〈沼地化した世界〉で沈黙しないために」に続く議論を展開しました。(構成:村谷由香里)
    ※このテキストは2017年2月27日放送の「HANGOUT PLUS」の内容のダイジェストです。

    村上春樹の新作『騎士団長殺し』レビュー
    オープニングトークは、2月24日に発売されたばかりの村上春樹の最新作『騎士団長殺し』のレビューです。
    宇野さんは春樹作品の変遷を、「〈デタッチメント〉から〈コミットメント〉へ」という主題で整理します。初期の村上春樹は、「やれやれ」という独白に象徴される〈デタッチメント〉の姿勢――あらゆる価値観から距離をおく、自己完結的なナルシシズムを特徴的な作風としていましたが、1995年の地下鉄サリン事件と、それに取材した『アンダーグラウンド』(1997年)以降は、主体的に世界と関わる〈コミットメント〉の立場へと転向します。そして、オウム真理教をモチーフにした長編『1Q84』(2009-2010年)は、その集大成となるはずの作品でしたが、第3部(BOOK3)になるとカルト教団との対決というテーマは後退し、主人公たちの邂逅や父親との和解が描かれて物語は収束。〈コミットメント〉の問題は消化不良のまま終わりました。
    とはいえ、宇野さんは今作には期待していたといいます。過去の春樹作品では、世界と接続する〈回路〉や〈蝶番〉の役割は女性に与えられていたが、それが短編集『女のいない男たち』(2014年)では、より他者性の強い男性に置き換えられていた。そこに新しい主題の萌芽を見ていました。
    しかし、本作『騎士団長殺し』は、従来の春樹的な主人公像を延命するためだけの小説になっていると批判します。行方不明の少女の捜索を老人に依頼された主人公が、幼少期に亡くした妹に似た少女を救うことで自信を取り戻し、別れていた妻との復縁に成功するという筋ですが、そこから主人公の〈成熟〉を読み取ることはできない。〈最初から与えられていたものの回復〉という意味で、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)と同様、熟年世代の「自分探し」の物語にすぎず、作者ほど自己愛の強くない人間はついて行けないといいます。
    さらに、本作において重要なのは、実は主人公と少女や妻の関係ではなく、依頼者の熟年男性・免色渉との関係だったといいます。主人公の分身であり同時に他者でもある同性との交流によって、世界に対する想像力を開く、いわばBL的な主題にこそ作品のポテンシャルがあったのではないかと指摘しました。

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