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「自分の働き方改革」で世界は変わる
2021-10-29 07:00おはようございます。
今日はWebマガジン「遅いインターネット」の最新記事と、併せて読んでほしいおすすめ記事をご紹介します。
先日公開されたのは、初の著書『意識が高くない僕たちのためのゼロからはじめる働き方改革』を上梓する働き方改革アドバイザー・坂本崇博による「『自分の働き方改革』で世界は変わる」です。
「働き方改革」という言葉が叫ばれてから早数年。毎年数十社、延べ10万人超を支援してきた働き方改革プロジェクトアドバイザーの目に、その実態はどう映っているのでしょうか。坂本さん初の著書『意識が高くない僕たちのためのゼロからはじめる働き方改革』の刊行を記念し、職場環境を変えるだけにとどまらない「自分のための」働き方改革の真髄を語っていただいた『PLANETS vol.10』所収のインタビューを特別公開しました。
さらにPLANETS公式オンラインストアでは、『意識が高くない僕たちのためのゼロ -
男と酒器|井上敏樹
2021-10-28 07:00
平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。今回は、最近敏樹先生がハマりはじめたという骨董について。盃に映った空を眺め、敏樹先生は何を思うのでしょうか。
「平成仮面ライダー」シリーズなどで知られる脚本家・井上敏樹先生による、初のエッセイ集『男と遊び』、好評発売中です! PLANETS公式オンラインストアでご購入いただくと、著者・井上敏樹が特撮ドラマ脚本家としての半生を振り返る特別インタビュー冊子『男と男たち』が付属します。 詳細・ご購入はこちらから。
脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第67回 男 と 酒 器 井上敏樹
まず、謝罪したい。以前、私はこのエッセイで骨董好きな人間を批判した事があった。無責任だ、と。自分勝手だ、と。その私が近頃すっかり骨董にはまっているのだ。思えば小学校の頃、通信簿に必ず無責任だ、協調性がない、と書かれた私である。運命は決まっていた、と言えるかもしれない。もっとも私の場合、酒器と食器に限定されているので、まだまだ初心者のレベルである。本当の数寄者は日々使う道具を越え、ただ見て楽しむだけの鑑賞美術を愛するものだ。仏像とか掛け軸とかだ。そしてそういった鑑賞美術品は酒器よりもずっと高価である。おそろしい。大体、骨董という漢字自体、分解すると骨に草、重なるである。不気味だ。
さて、骨董を始めると、まず誰もが決まって陥るジレンマがある。真贋問題である。たとえば苦労して手に入れた壺があったとする。前々から望んでいた平安の壺である。ういやつういやつとばかりに日々撫でたり摩ったり、一緒に風呂に入ったり抱いて寝たりと愛を捧げたその愛器が、ある日、有名な目利きに贋物である、と断ぜられたとする。この場合、どうするか。真贋などどうでもいい、たとえ偽物であっても好きなものは好きなのだ、という態度は一見、爽快のようだが、所詮めくらの開き直りである。骨董好きなら自分を恥じる。おのれの眼の低さを恥じ、捧げた愛を恥じる。二度と壺と床を共にする事はなく、押入れの奥に放り込む。評論家の小林秀雄も骨董好きで名高いが、かの良寛の掛け軸を壁にかけ、来客がある度に鼻高々に自慢していた。そんなある日、やって来た良寛の研究者が偽物である、と断罪ー次の瞬間、小林は愛刀の一文字助光で掛け軸を両断した、という。これが骨董好きの姿勢である。妥協のない姿勢である。
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人間はなぜAIにキャラクターを欲望するのか|三宅陽一郎
2021-10-27 07:00
今朝のメルマガは、PLANETSのインターネット番組「遅いインターネット会議」の登壇ゲストによる自著解説をお届けします。本日は、ゲームAI開発者として知られる三宅陽一郎さんをゲストにお迎えした「人間はなぜAIにキャラクターを欲望するのか」(放送日:2021年1月19日)内で紹介された、『人工知能が「生命」になるとき』について。アカデミズムの場で語られるような、人間の知的機能の再現を追求する「人工知能」と、ポップカルチャーの中でイメージされるキャラクター的な「人工知能」との間には大きな乖離が存在します。両者を掛け合わせるには何が必要なのか、そしてそれは、未来社会にどのような変革をもたらすのでしょうか?実践的なゲームAIのアルゴリズムの開発手法を説いた先頃刊行の新著『戦略ゲームAI解体新書』と併せてご覧ください。(構成:徳田要太)
人間はなぜAIにキャラクターを欲望するのか|三宅陽一郎
ゲームAI開発者として数々のゲームタイトル制作に携わりながら、人工知能研究者としても活躍する三宅陽一郎さん。2020年12月に刊行された『人工知能が「生命」になるとき』(PLANETS)では、東洋思想をもとにした三宅さん独自の視点から、単に機能を果たすものではなく「生命」としての人工知能のあり方について語られています。 本稿では、「人間はなぜAIにキャラクターを欲望するのか」という切り口から、本書のポイントについて詳しく解説していただきます。
三宅陽一郎人工知能が「生命」になるとき PLANETS/2020年12月16日発売/ソフトカバー 304頁
【目次】 第零章 人工知能をめぐる夢 第一章 西洋的な人工知能の構築と東洋的な人工知性の持つ混沌 第二章 キャラクターに命を吹き込むもの 第三章 オープンワールドと汎用人工知能 第四章 キャラクターAIに認識と感情を与えるには 第五章 人工知能が人間を理解する 第六章 人工知能とオートメーション 第七章 街、都市、スマートシティ 第八章 人工知能にとっての言葉 第九章 社会の骨格としてのマルチエージェント 第十章 人と人工知能の未来──人間拡張と人工知能
「生命」としての人工知能
自分は人工知能を作る側の立場にいるのですが、ただ単に技術的に作るのではなく、一度「人間とは何か」とか「社会とは何か」といったことを哲学的に考え、そこから持ち帰ったものをエンジニアリングするという形を取っています。知能のあり方を深く探求して遠くを目指すようなスタンスで開発を続けてきたのですが、その試みはこの5、6年、『人工知能の哲学塾』という一連の書籍で展開してきました。それに加えて、「次の人工知能のステージとは何か」についてさらに具体的に突き詰めたいという問題意識もありました。
このことを考えるために、私は「東洋」と「西洋」という二つの対立軸をあえて持ち出しております。もちろん東洋と西洋といっても単純にそれらが対立するというわけではありませんが、人工知能というものの姿を具体的に浮かび上がらせるための例として、「東洋思想の中にある人工知能のエッセンス」と「西洋思想の中にある人工知能のエッセンス」を方法論的に対立させているというわけです。例えば、単純にいうと、西洋の人工知能は機能的で東洋の人工知能は存在的。つまり東洋の考えでは人工知能は「いかに存在するか」と問うということです。このようなものを人工知能とあえて区別して「人工知性」と呼んでいます。
つまり「人工知能」と「人工知性」というものを方法論的に対立させて、東西の人工知能の対立の先にあるものを掴むことが私のビジョンの最終到達点なわけです。そのための青写真として、「人工精神」や「人工生物」と呼ばれるものの研究が形になっていますが、私は存在であり、機能でもある、すなわち一つの「生命」であるような人工知能を作りたいということです。
「人間」と「人工知能」の関係
「人間」と「人工知能」と言ったとき、人工知能は、基本的には人間をリファレンスします。もちろん動物とか昆虫を参照しても構わないのですが、実は西洋の人たちにとってそこの境目は厳密で、人間と人間ではないものを明確に区別します。
「人工生命」といえばどちらかというと、虫や鳥などのさまざまな生命を模倣するものですが、「人工知能」というものは人間をリファレンスとして知能の構築を目指すということが、その発祥の時代から求められています。そのためにはまず人間というものを深く突き詰めて、人間の中の意識構造や無意識構造をデジタルな形で理解し、それを人工物である機械の上に再現しましょう、というところから出発しており、そしてそれを考えることは人工知能と人間の間の相互作用や、コミュニケーションについて考えることにもなります。
ただ、一般に人工知能と人間同士のコミュニケーションというと、言葉やサインなどが持ち出されますけれど、実は人間同士でも無意識のレイヤー、あるいはボディータッチといった非言語の領域にもさまざまなレイヤーのコミュニケーションがあります。
人工知能も人間との関係を築こうとすると、実は単に言葉だけでコミュニケーションを行うのでは不十分で、上述したような無意識をも含めたさまざまなレイヤーのコミュニケーションが必要になってきます。
「知能」とは何か
では「知能とは何か」を改めて問うと、身体と意識からなる階層構造としてモデル化することができます。まず世界というものがあって、身体がそれを知覚することで我々はこの世界に住み着いているということが、現象学で有名なメルロ・ポンティによってよく言われていることです。つまり我々の存在のあり方は、実は身体がいかに世界に根ざしているかによって定まるということです。 例えば植物の場合はすごくわかりやすいですよね。根があってそれが大地を掴むことで存在し、その上に幹があり葉がある。人間も実は身体というものでこの世界に深く棲みついていて、それが知能の形を決めているということです。身体が得た知覚の集積として頂点に存在するのが、意識というものになるわけです。
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【本日開催】間違いだらけの働き方改革をリモートワークの時代に「私」を主語にしてゼロからやり直す|坂本崇博(リアル開催&生中継あります)
2021-10-26 07:00おはようございます、PLANETS編集部です。
(ほぼ)毎週火曜日の夜に開催中の「遅いインターネット会議」。今月から有楽町のコワーキングスペース・SAAIでのリアル開催が復活しました!
本日開催のテーマは「働き方改革」です。
PLANETSチャンネルなど各スタンドでは生中継もありますが、気になる方はぜひ会場へ遊びに来てください。
10月26日(火)19:30〜間違いだらけの働き方改革をリモートワークの時代に「私」を主語にしてゼロからやり直す
2019年から関連法が施行された「働き方改革」。その流れは、コロナ禍による在宅ワーク化を経て、半ば強制的に達成されつつあるようにも見えます。けれども、形ばかりの労働時間短縮を至上命題化した取り組み方の多くは、本来の目的である生産性の効率化と働く人々の幸福の増進とは必ずしも結びついていないかもしれません。
そんな現状を鑑みながら、一人一人が快適でやり甲 -
上野駅から上野公園、不忍池まで 〈後編〉|白土晴一
2021-10-25 07:00
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回歩いたのは、上野・不忍池周辺です。かつては東京の玄関として機能した上野駅。博覧会など国家規模のさまざまな行事が行われるなかで、人工物と自然物がそれぞれ現れては消えていった歴史を、小さな「蛇のかみさま」と一緒に振り返ります。
白土晴一 東京そぞろ歩き第7回 上野駅から上野公園、不忍池まで 〈後編〉
私のような昭和生まれの東北出身者の中には、上野駅は東京の玄関口というイメージが強い。 現在、東北本線は東京駅が起点になっているが、1991年までは上野駅が起点であり、東北から東京に行くときに上野駅に降りることが多かった。岩手出身の石川啄木が「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく」と詠んだくらい上野駅と東北の結びつきが強かったのである。 そのためだろう、私は上野よりも新宿に近い中野区に二十年以上も住んでいるが、今でも上野駅の方が親しみを感じる。なんとく故郷が近い感じがするのだ。 この感覚は私だけではないだろう。上野駅周辺、少し離れた稲荷町などに東北の郷土料理の店が結構並んでいたし、東北から出張にくる人の定宿などがたくさんあり、東北出身者が多かったイメージがある。東北から東京に出てきた人が、なんとなく故郷と繋がっている安心感から、上野駅周辺に住むこともあったと思う。
こうした鉄道と駅が自分の故郷と繋がっているという感覚は、上野と東北人、いや日本だけには限らない。例えば、パリにはフランスの四方に伸びる鉄道路線の起点として、パリ北駅やパリ東駅、リヨン駅、オステルリッツ駅などの六つのターミナル駅があるが、それぞれの路線沿いの地方出身者がその駅の周辺で料理店などを開くことが多かったという。 少し前にフランス北部に伸びる路線の起点となっているパリ北駅を見に行ったが、国際列車のユーロスターや高速列車のTGVがプラットフォームに停車する雰囲気は、なんとなく東北本線や東北新幹線の並ぶ上野駅に近いものを感じた。 パリまで来て「ここは上野駅だなぁ」などと夢想するのも変な話だが。
▲パリ北駅(著者撮影)
しかし、それと同時に上野は、地方人にとって東京という異空間を味わう場所でもある。子供の頃に上野動物園や博物館を訪れた人なら、その興奮と非日常感を感じたのではないだろうか? 東北人にとっては、上野は故郷を感じさせ、その上、非日常の祝祭のような雰囲気も味合わせてくれる稀有な土地である。
そんなわけで前回はパンダの話が長くなってしまったので、今回も上野の続き。 国立博物館や科学博物館がある上野台は、武蔵野台地の先端の舌状台地で、かつては「忍岡」(しのぶがおか)と呼ばれていた。前編にも書いたが江戸時代初期に天海僧正が東叡山寛永寺を建てた場所で、江戸っ子は「上野のお山」という言い方をよくしている。 今回はこの「忍岡」から降りて、その下に広がる都内有数の広大なオープンスペースである「不忍池」(しのばずのいけ)の方に歩いていく。
この池はかつて日比谷入江と呼ばれる、江戸湾の入江があった場所。それがだんだん土砂の堆積と埋立で、縮小していき、現在のような池になったのである。 都内のオープンスペースに面した場所ではお馴染みの高層建築が周囲に並んでいる。特に池の西側にある池之端には30階を超える高層マンションがニョキニョキと生えている。 前にも書いたが、建築物の高さ制限が緩い公園沿いなどには高層建築が建設される傾向がある。加えて、ここは東京では珍しいカワウのコロニーがあるという鳥獣保護区でもある。 近年では、水の富養化でアオコなどが発生するなど水質悪化が懸念されているが、その原因の一つである野鳥への餌やりが禁止され、ボランティアによるビオトープが設置されるなど、環境をなんとか復元しようという試みも行われており、都心では珍しい生態系が形成された場所なのは間違いない。
こうした環境が前面に広がり、見晴らしも良いというのであれば、不忍池周辺に高層マンションが立ち並び、そこに住みたいという人が多いのも分かる。現在のこの辺りではいくつかタワーマンション建設が計画がされている。
ただ、明治期くらいに撮影された不忍池の弁天堂を撮影した絵葉書を見てみると、忍岡から上から本郷台地の緩やかな傾斜が広がっている風景が見れたようで、こうした眺望が望めないのは地形マニアとしては残念ではある。
▲著者蔵の絵葉書より
しかし、この池とその周辺は、人間の手によって風景が改変され、多くの建造物が現れては消えるという歴史を辿っている。明治17年(1884年)から明治25年(1892年)までは池の周りは不忍池競馬場として競馬が行われていたし、戦時中には食糧不足を解消するために池が埋立てられ「不忍田圃」が作られた。 実行されなかったが、戦後も野球場を建設する案や、池の下に地下駐車場が建設される計画などもあったくらいである。 東京という新陳代謝の激しい都市では当然かもしれないが、そうした変化を繰り返しながらも、なんとか不忍池という水辺の空間だけは一時消滅しつつも復活し存続している。 こうした池を高層マンションが囲むような風景もいつまで続くのかは分からない。
そう考えると、不忍池の歴史の中で、現れたり消えたりしたものを追ってみるのは面白そうである。今回は実際に不忍池を歩きながら、そうしたものの痕跡を探ってみよう。
そもそも不忍池の代名詞と見える弁天堂にしても、東叡山寛永寺を建てた天海僧正が、上野の山を比叡山に見立てて、この不忍池を琵琶湖に見立てたが、琵琶湖の竹生島に相当する島がないので、わざわざ人工の中之島を作らせ、そこに弁天様を祀ったことからの始まりである。 不忍池は江戸時代から有名な観光地だったが、その始まりはこの天海の人工島であったと考えると、その風景の改変と消失の歴史の幕開けとしてはふさわしいかもしれない。
しかし、この人工島の弁天堂にしても、昭和20年の東京大空襲で焼失し、現在の建物は戦後に復興した鉄筋コンクリート製のものである。
戦争で消えて無くなったものは、御堂だけだけではない。 大正の不忍弁天堂を撮影した絵葉書だと、参道に大きな中国風の門があるのが見えると思う。
▲著者蔵
現在の参道を見ても、この門の痕跡すら残っていない。
この門は大正3年に建設された「天龍門」。建築の鬼才と言われた伊東忠太の設計した近代建築の門である。
▲国会図書館デジタルアーカイブより(出典)
近代日本の建築家の多くが西洋に留学し建築を学んだが、伊東忠太は西洋の建築を熟知しながらも、日本建築のルーツを探るべくアジアを歴訪し、アジアを意識した建築を目指した人物である。そのアジアに目を向けた思想は、彼が設計した両国の震災慰霊堂(東京都慰霊堂)や築地本願寺を見れば、すぐに感じることができる。
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都市の歴史とこれからを、自分の足で歩きながら考える
2021-10-22 07:00おはようございます。
今日はWebマガジン「遅いインターネット」の最新記事と、併せて読んでほしいおすすめ記事をご紹介します。
先日公開されたのは、白土晴一さんの連載「東京そぞろ歩き」。
今回は、古くから庶民の行楽地としてにぎわいを続けてきた上野公園を歩きました。ランラン・カンカン来日から半世紀。江戸期の花見の名所から始まり、近代以降の博覧会場としての利用や動物園開業を経て、パンダ文化がどんなふうに上野の「地場産業」になっていったのかを振り返ります。
今回の記事と併せて、こちらの記事も(もういちど)読んでみませんか?
2021年に延期された第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で、日本館のキュレーターに選ばれた建築家・門脇耕三さん。彼が手がけるのは、名もなき昭和の民家を解体してイタリアに運び、会期を通じて現地で別の姿に建て変え続けるという、前代未聞のプロジェクトです。そこに込められた、 -
オタク文化を育んだ中国ネットプラットフォームの発展|古市雅子・峰岸宏行
2021-10-21 07:00
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第9回。今回は、国家主導の独自インフラの構築で知られる中国産のインターネットプラットフォームが、いかにオタク文化と関係してきたのかを辿ります。いまやGoogleやFacebookとならぶ世界的プラットフォーマーとなったテンセントの「QQ」や中国版ニコニコ動画「Bilibili」の成立、そして政治環境の変化とともに一気に普及した中国版Twitter「微博」など、時流と規制に振り回されながらユーザー文化も発展を遂げていきます。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第9回 オタク文化を育んだ中国ネットプラットフォームの発展
中国のオタクが個から集、そしてまた個へと変化していった経緯をネット海賊版アニメ、コスプレ文化、同人誌文化の歴史から紹介してきました。 個から集に際して、オンライン掲示板やフォーラム、そして雑誌、大学が大きな作用点となりましたが、集まった人々はそこから細分化し、新たなコンテンツに対する判断、鑑賞基準を作っていきます。そこには中国で独自に発展したプラットフォームの存在がありました。
今回は、以前紹介した中国のオタク文化の細分化と共に様々なネットプラットフォームが立ち上がり、衰退、勃興していく中、オタクがどのようにそれらを利用していったか紹介したいと思います。
ネットプラットフォームとはサービスやシステム、ソフトウェアを提供・カスタマイズ・運営するために必要な「共通の土台(基盤)となる標準環境」とされています。コミュニケーションの土台となる、という意味では、グループチャットができるチャットソフトやコミュニティを形成できるSNSも含むので、旧来的な掲示板やフォーラム以外にもBilibiliや愛奇芸のような動画プラットフォームやチャットツールも含め、年代別に紹介していきたいと思います。
2000年代初頭:チャットツール「テンセントQQ」
オタク文化の発展のみならず、中国全体のビジネススピードにも大きく寄与しているのがテンセントが運営しているチャットツール「騰訊QQ」です。QQは当時世界的にユーザーが多くいたICQをモデルに開発されたツールですがオタク文化のプラットフォームになったのは、2000年代、フォーラムでは動画アップロードができず、まだ動画プラットフォームもなかった時代、動画やゲームファイルを気軽に友達同士で転送できるということ、そして大規模なグループを構築できるという点がその理由に挙げられます。
中国のインターネット元年と呼ばれる1999年2月にリリースされたQQは、2021年現在、MAU(月間アクティブユーザー数)が6億人前後、同じくテンセントが運営する「Wechat(微信)」(2011年・テンセント)の12億に比べると往年の勢いはありませんが、QQの使用者は2000年以降生まれが50%を占めると言われています。ゲームや趣味の大規模コミュニティが多く立ち上がっており、筆者がメイドレストランを経営していた2010年頃は、来客のファンコミュニティをQQで運営していました。
QQのグループチャット「群」(Qun、グループという意味)の参加者は最大500人(現在では条件を満たせば3000人)で、1日あたりの上限はありますが、数百Mbの大容量のファイルを転送することができます。VCDの容量700Mbに海賊版アニメが5~10話ほど詰め込まれていたことから考えると、かなりの量の動画を転送することができます。また500人と言えば、当時、中国の大学のアニメサークルメンバー全員が参加できる規模でもあり、サークル内でQQを使ってアニメ動画ファイルやゲームファイルのやり取りを行うことができたのです。
高校の勉強漬けの日々から解放され、大学で「オタク」デビューした学生たちが晴れてサークルに参加していくという動きは以前にも紹介しましたが、中国では部室やサークル部屋がないことが多く、寮くらいしか集まる場所がない中、QQは部室のような役割を果たしていたと言えるでしょう。 そこはサークルの新着情報の告知やコスプレ大会、イベント参加の通知等を行う回覧板的な機能を持ち、また日常的な情報交換や雑談をするのにとても適したプラットフォームだったのです。
「群」にはサークルやファンコミュニティ用途の側面だけでなく、ゲームの中国語化(「漢化」と呼ばれる)や字幕組制作チームの制作グループ用プラットフォーム的な立ち位置もあります。それは今でも続いていて、字幕組や漢化組は、最初にフォーラム等から仲間を集めてスタートし、QQにグループを作ってリアルタイムに情報交換や動画シェアを行い、役割分担をすることによって作業を進めていました。
このようにして字幕がつけられたアニメやゲームはフォーラムにアップロードされ、フォーラムメンバーへの布教として無償で提供されていました。これらはあくまでも限定的な範囲での利用でしたが、やがてより効率の良いシェアの方法が現れます。動画配信プラットフォームの「土豆」・「優酷」そして弾幕動画サイト「AcFun」です。
2000年代中盤:「土豆」と「優酷」
土豆と優酷はそれぞれ2005年と2006年、AcFunは2007年に登場しています。中国外の動画配信プラットフォームとしては「YouTube」や「ニコニコ動画」がありますが、それら海外の動画プラットフォームと中国の配信サイトはほぼ同時期に立ち上がっています。
土豆の創始者の一人、王微は同サービスを開始した4月15日のことを以下のように振り返っています[1]。
―当時、土豆は全部で5人。まもなく夜が明けようとしている。私は開発プログラマーとパソコンのモニターをにらみ、土豆をサービスインさせるかどうか、決心しかねていた。2005年、私はインターネットの素人で、私のチームもそうだった。
「いくつかのバグの修正がまだです」、「怖くなってきました。もう数日サービスインを延ばせませんか?」 当時、私たちは、私の頭にあるアイデアの開発をはじめて3カ月たっていた。私たちの知る限り、これはこの世界で唯一の動画シェアリングサイトだった。私は誰からも学ぶことはできなかった。世界にはYouTubeさえもなかったのだから。土豆を検索すると、開くのは料理に関するサイトだった(訳者注:土豆は中国語でジャガイモを意味する)。私たちはみなある言葉を知っていた。「もしあるアイディアを思いついたのがあなたひとりだったら、それはいいアイデアではない」。もし、世界中で私たちだけが昼夜問わずこれをやっているのだとしたら、それは極めて愚かなことではないのだろうか。
(中略)
「リリースしますか?」 プログラマーが聞いてくる。もう早朝だ。
「しよう」私は思い切っていった。「800元のプレスリリース代を準備したんだ。返金できないっていうんだぜ。」
無知な者は恐れを知らず。私はあの時、中国のインターネットの恐ろしさと難しさをまだまったく知らなかった。 少しでも多くの金を払って自分を追い込み、この危険きわまりない窮地に身を置くことは、恐怖を克服するもうひとつの方法だった。
YouTube社の設立は2005年2月、3人の創設者の一人、ジョード・カリムの有名なサンディエゴ動物園の象の動画が投稿されたのが4月23日、β版が公開されたのが5月と言われているので、土豆はおそらくYouTubeのメンバーと同じぐらいの時期に着想を得て、YouTubeより1週間ほど早くリリースされたと言えます。
一方、のちに土豆と双璧をなす動画サイトとして市場を二分した優酷は、2006年6月に会社設立、12月にサービスインしました。
土豆の創始者、王微はドイツのメディアコングロマリット、「ベルテルスマン」の中国エリア総裁で、その後アメリカで衛星テレビの仕事をしており、優酷の創始者、古永鏘(Victor Koo)はアメリカのプライベートファンド「ベインキャピタル」、中国のインターネット会社「捜狐」(Sohu)の副総裁兼CFOを歴任しています。王微は中学中退しているものの、どちらもアメリカで学位を取得しており、海外での留学、就職経験があるエリートです。
土豆は何も参考がなく、資本金もゼロに近い状態から始まった動画サイトですが、優酷は300万ドルを元手に始めたビデオサイトで、王と古の両者の生い立ちを表しているようにも思えます。
この、背景がまったく異なる二つの動画サイトはすぐに中国で受け入れられ、多くのオタクがこれらのサイトに動画をアップロードし始めます。
2007年には湖南衛星テレビが放送した中国の男性タレント発掘オーディション番組「快楽男声」、左溢を始めとする天才少年が有名になった同じく湖南衛星テレビのバラエティ番組「天天向上」といった人気テレビ番組の映像がアップされたり、TBS DIGICONで賞も獲得した国産アニメーション『功夫兎』(李智勇・2005年)が投稿されたりと、優酷はデイリー再生回数が1億を突破[2]し、中国で動画サイトが広く使われるようになっていきました。この時点で、土豆、優酷、のほか、2005年サービス開始の「PPTV」、「LeTV楽視」と、すでに少なくとも4社の動画サイトが登場しています。このころから、日本でもサイトにあげられた日本アニメの無許可アップロードが注目され始めました[3]。
そんな中、2007年にニコニコ動画がサービスインします。ニコニコ動画の弾幕や「歌ってみた」、「踊ってみた」等の投稿スタイルは中国のオタク文化にも大きな影響を与えます[4]が、これはそのフォーマットを学んだというより、「二次創作」を一般人でも行えるという考えを知らしめたことが大きかったと言えます。 従来の動画プラットフォームにおける字幕組は、アニメの仕入れ担当、日本語の書き起こし担当、翻訳担当、編集担当など、比較的専門的な知識やスキルが必要でした(今でこそ動画編集はハード的にもソフト的にも手軽になりましたが、当時はまだまだ素人にはできない作業でした)。それまでは単純に「見る」だけだった消費者も、自分たちもコンテンツに「参加できる」という考え方をニコニコ動画から学んだのです。
そうして登場するのが、「〇〇してみた」の中国独自の形である「日本アニメを中国語にアフレコしてみた」(同人アフレコ)です。その中で一番最初に、そして一番バズったのが『ギャグマンガ日和』(増田こうすけ・2000年~)アニメ版の同人アフレコでした。 2010年5月、南京にある中国傳媒大学南広学院の学生サークル「CUCN201」がアフレコした『ギャグマンガ日和』の第10話「西遊記 ~旅の終わり~」がアップされました。この動画は瞬く間にQQやフォーラムでシェアされ、彼らが独自に当てはめたセリフに出てくる単語、「老湿」[5]、「給力」[6]、「最終形態」などがネットスラングとして広まります。これらの言葉、特に「給力」は爆発的に流行し、人民日報一面の見出しで使用され、国から「メディアはネットスラングを使わないように」というお達しが出るほどの事態となりました。 これらネットスラングが「ニューヨークタイムズ」でも解説され、「給力」(ピンイン表記:geili)は「gelibable」「geibility」など活用変化し英語のスラングとしても流行ったと中国で話題になりました。そうした言葉の浸透も、動画サイトが一般層に定着していたことを示しています。
そんな中、登場するのがアニメ専門動画サイト、「AcFun」と「Bilibili」です。
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コンピューター史に名を残すもう一人の「ノイマン」〜イギリスのコンピューター黎明期 |小山虎
2021-10-20 13:00
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第18回。今回は、英国で活躍した「もう一人のノイマン」の生涯について。ポーランドにルーツを持つユダヤ系イギリス人数学者マクスウェル・ニューマン。ウィーン留学で最先端の記号論理学を学んだ彼が、オーストリア的な知をケンブリッジに播種したことでアラン・チューリングらに薫陶を与え、いかにコンピューター科学の黎明に貢献したかを辿ります。※本日のメルマガはニコニコサービス全体停止メンテナンスのため、13:00配信とさせていただきました。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第18回 コンピューター史に名を残すもう一人の「ノイマン」〜イギリスのコンピューター黎明期
以前、フォン・ノイマンの名前の変遷をたどったが(本連載第5回)、実はコンピューターの歴史にはもう一人の「ノイマン」がいることをご存知の方はおられるだろうか。この「もう一人のノイマン」も、フォン・ノイマン同様、人生の途中で名前を変えることになる。ただし、フォン・ノイマンの方は、生まれた時の姓は「フォン・ノイマン」ではなかったが、アメリカに渡って姓を変え、「フォン・ノイマン」として知られるようになるのとは異なり、この「もう一人のノイマン」は、生まれた時の姓が「ノイマン」であり、姓を変えた後の名前で知られるようになる。また、フォン・ノイマンが主にアメリカで活躍したのとは異なり、「もう一人のノイマン」が活躍したのはイギリスである──そもそも彼はイギリス生まれだ。今回は、この知られざる「もう一人のノイマン」の人生を通じて、イギリスのコンピューター・サイエンス黎明期を眺めてみたい。
もう一人の「ノイマン」のルーツと生い立ち
今回の主人公である「もう一人のノイマン」の生まれた時の名は、マクスウェル(マックス)・ノイマンという。まずはノイマン家のルーツについて述べておく必要があるだろう。マックスの父ハーマン・アレクサンダー・ノイマンが生まれたのは、ポーランドのブィドゴシュチュ (Bydgoszcz)という古い都市だ。「ノイマン」という同じ姓を持つフォン・ノイマンと同様、こちらのノイマン家もユダヤ系だった。 ブィドゴシュチュは歴史ある城塞都市であり、ドイツ騎士団やスウェーデンに何度も占領されるほど政治に振り回されていたが、ルヴフがオーストリアに割譲され、「レンベルク」へと改称されることになる1772年ポーランド分割(本連載第6回)で、ブィドゴシュチュはプロイセンに割譲され、「ブロンベルク(Bromberg)」と改称される。ハーマン・ノイマンが生まれたのは、そのプロイセン領時代の1866年のことである。その後、1871年に普仏戦争で勝利したプロイセンがドイツ帝国となるのだった(本連載第2回)。 ブィドゴシュチュがプロイセン領、さらにはドイツ領となることで大きな影響を被ったのが、ユダヤ人である。元々ポーランドにはユダヤ人が多く住んでいた。ノイマン家もそのようなポーランド在住のユダヤ人だったらしい。ポーランド分割によりポーランド領の一部を手に入れたオーストリアでは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートが民族融和主義政策を進め、第一次世界大戦によってオーストリア帝国が解体するまでユダヤ人はとりわけ「オーストリア的」な帝国臣民として自由を謳歌することになるが、プロイセンでは、反オーストリア運動の一環としてドイツ化が進められており、厳格なユダヤ人差別が存在していた(本連載第10回)。ハーマン・ノイマンが両親や家族とともにドイツからイギリスへと帰化したのは1881年、まだハーマンは15歳の少年だった。
さて、今回の主人公マクスウェル・ノイマンは1897年、イギリス・ロンドンで、父ハーマン・ノイマンと母サラ・パイクとの間に生まれる。ノイマンはユダヤ系のイギリス人としてロンドン郊外で育つが、大きな転機が訪れる。そのきっかけとなったのは1914年の第一次世界大戦勃発である。父ハーマンが、敵国ドイツ出身ということで抑留されてしまうのだ。当時ハーマンは48歳、イギリスに帰化してから33年もの年月が過ぎていた。にもかかわらずドイツ人扱いされたことに憤慨したハーマンは、抑留から解放されるや否や、家族を置いて一人ドイツへと帰国してしまう。突然父を失ったノイマンが行ったのは、姓の変更だった。「ノイマン(Neumann)」というドイツ語風の姓から「ニューマン(Newman)」という英語風の姓へと変更するのである。これ以降、彼は「マクスウェル・ニューマン」と名乗るようになる。
1657年のブィドゴシュチュ(ブロンベルク)(出典)
コンピューター・サイエンスの歴史の転換点となったウィーン留学
こうしてマックス・ニューマンとなったノイマン、いやニューマンは、ケンブリッジ大学に進学する。1915年のことだった。彼は大学でも優秀な成績を収めていたが、1年後に休学する。そして第一次世界大戦終了までの3年間、寄宿学校の住み込み教師として働くのである。このまま退学してしまうと思われていたニューマンだったが、1919年、ケンブリッジに戻ってくる。そして1921年、優秀な成績で卒業するのである。 ケンブリッジに戻ったニューマンは生涯の知己を得ることになる。その友人の名は、ライオネル・ペンローズ。2020年にノーベル物理学賞を受賞した著名な物理学者ロジャー・ペンローズの父親である。ペンローズはニューマンより若かったが、ニューマン同様、ケンブリッジ入学後に一時休学し、終戦後に復学していた。二人はそこで出会ったのだ。 ペンローズはバートランド・ラッセルの元で記号論理学を学びたいとケンブリッジに入学したのだが、ラッセルは反戦運動によりケンプリッジ大学講師の職を辞職していた。卒業する頃、ペンローズの関心は論理学と心理学の両方にまたがっており、フロイトのいたウィーンに留学を決意する。そして、親友のニューマンに一緒にウィーンへ留学することを勧めるのである。 裕福だったペンローズ家とは異なり、母子家庭のニューマンに財政的な余裕はあまりなかったが、当時のイギリスは戦勝国であり、敗戦国のオーストリアへの留学に関して、費用面の心配は不要だった。こうして、ニューマンはペンローズと共に、ウィーン大学へ1年間留学するのである。
ニューマンとペンローズがウィーンに着いたのは1922年の秋。それはちょうど科学哲学者モーリッツ・シュリックがマッハやボルツマンの後任としてウィーン大学の科学哲学教授職に就いた年だった。ウィーンでニューマンは、クルト・ライデマイスターという数学者と出会う。ライデマイスターは、アイソタイプと呼ばれる絵文字を科学哲学者オットー・ノイラートと共に開発し、第二次世界大戦勃発後にはノイラートと共にイギリスへ亡命してノイラートの妻となるマリー・ライデマスターの兄であり、また、1930年にはケーニヒスベルク大学の教授として、ゲーデルが不完全性定理を公表した「ケーニヒスベルクの会議」開催に尽力した数学者である(本連載第4回)。 ニューマンとペンローズはライデマイスターから、後にウィーン学団の中心人物となるカール・メンガーやハンス・ハーンのことを知らされる。ハーンがラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』のセミナーを開始するのは1924年だが、ハーンらはそれ以前からラッセルの記号論理学について研究しており、ハーンのセミナーでもラッセルのことが度々言及されていた(本連載第4回)。前からラッセルの記号論理学に関心を持っていたペンローズ、そしてペンローズの影響で記号論理学に興味を持ち始めていたニューマンは、ハーンのセミナーを通じて、記号論理学を深く学ぶのである。そしてこれがニューマンの、ひいてはコンピューター・サイエンスの歴史の転換点となるのだった。
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チェンソーマン、アフガニスタン情勢、SDGs、働き方改革……10月の生放送・動画のお知らせです
2021-10-19 07:00おはようございます。PLANETS編集部です。 今日は、10月の生放送・アーカイブ動画と、おすすめの関連コンテンツについてご案内します。
【これから放送】
10月20日(水)20:00〜 批評座談会〈チェンソーマン〉
毎月一つの話題作を取り上げて語り合う「批評座談会」、今月の作品は、漫画『チェンソーマン』です。
今年2月に第1部が完結し、アニメ化や第2部の開始が待望されている本作。 『鬼滅の刃』『呪術廻戦』に続くジャンプ発のヒット作として期待と注目を集めるなか、『チェンソーマン』が切り拓いた独自の魅力とは何か? 少年ジャンプ史における位置づけから作品解説まで、今後の展開への展望も交えつつ、語り合います。
▼出演者 石岡良治(批評家・早稲田大学准教授) 宇野常寛(評論家・PLANETS編集長) 成馬零一(ドラマ評論家) 司会・吉田尚記(ニッポン放送アナウンサー)
※9月には『ジョジョリオン』 -
『スウィート・シング』── 両親への愛憎と色彩のコントラスト|加藤るみ
2021-10-18 07:00
今朝のメルマガは、加藤るみさんの「映画館(シアター)の女神 3rd Stage」、第21回をお届けします。今回ご紹介するのは『スウィート・シング』です。米インディーズ映画のアイコン、アレクサンダー・ロックウェル監督25年ぶりの日本公開作となる本作。不甲斐ない両親を見つめる子どもたちの機微を、巧みな色彩のコントラストとともに描き切った演出にるみさんがうなります。
加藤るみの映画館(シアター)の女神 3rd Stage第21回 『スウィート・シング』── 両親への愛憎と色彩のコントラスト|加藤るみ
おはようございます、加藤るみです。
最近は、新たな映画フェチを見つけてしまった私です。 私の映画フェチといえば、水中キスシーンについて今まで色んなところで紹介させてもらったんですが、最近はエレベーターシーンにときめきを感じていまして……。 それは、『シャン・チー』('21)を観た時のことで、何かが君臨したかのように気づいたんです。 序盤に、主人公シャンチーと親友ケイティがシャンチーの妹がいるマカオのバトルロワイヤルアジトに向かうシーンがあるんですけど、そこで、いかにも治安が悪めでガタガタの古めかしいエレベーターに乗るんですよね。 その時に「エレベーター……!!!」と、私にビビビッとくるものが走って。 全然、ピックアップするような重要なシーンじゃないんですけど、そのエレベーターシーンの密度と構図に惹かれたというか。 それで、湧き出てくるように今まで観てきた印象的なエレベーターシーンが浮かんできたんですよね。 タイトルだけいくつか上げると『(500)日のサマー』('09)、『グランド・ブダペスト・ホテル』('14)、『ドライヴ』('11)、『ニューイヤーズ・イブ』('11)、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』('14)など。 そこで、今まで自覚がなかっただけでエレベーターシーンのときめきは私の脳内に刻み込まれていたんだと気づきました。
「このエレベーターにやられた! エレベーターカットが魅力的な映画5選!」的なものを、私以外にテンション上がる人が見つかるかは不明ですが(笑)、いつか紹介できたらいいなと思います。
さて、いよいよ緊急事態宣言が明け、映画館にも少し活気が戻ってきたように感じます。 私は、何よりレイトショーが帰ってきたことが嬉しいです。 今回紹介する作品は、1990年代にジム・ジャームッシュと並んで、米インディーズ映画のアイコンであったアレクサンダー・ロックウェル監督の25年ぶりの日本公開作『スウィート・シング』です。 監督の代表作である、『イン・ザ・スープ』('92)は1992年のサンダンス映画祭でグランプリを受賞し、今でもカルト的人気がある作品ですが、今回『スウィート・シング』公開記念に10月29日から新宿シネマカリテで一週間限定上映が決まったそうです。 私は公開時生まれてもいなかったので、絶対にスクリーンで観たいと思っています。 皆さんもこの機会にぜひ……!
『スウィート・シング』は、大きな衝撃はなくとも、ずっと大切にしたいと思える温かさに包み込まれる作品でした。 インディーズにこだわり続けてきた監督の映画愛と色を操るマジカルな演出は、まだまだ新しい世界を見せてくれました。
行き場を失った子供たちの辛く寂しい思い出、そんな中でも一瞬が永遠のように輝く子供時代の純粋な思い出。 悲しみと輝きが混在する世界を描き、子育てができない親を見つめる子供たちの視点から複雑に変形していく家族の形を映し出します。
普段は優しいが、酒を飲むと人が変わる父アダム。 家を出て彼氏と同棲している母親イヴ。 親に頼ることができず、自分たちで成長していかなくてはならない15歳の姉ビリーと11歳の弟ニコ。 姉弟は、ある日出会った少年マリクとともに、逃走と冒険の旅に出る……。
©️2019 BLACK HORSE PRODUCTIONS. ALL RIGHTS RESERVED
まず、この映画には、どうしようもなく不甲斐ない、情けない大人たちが出てきます。 アルコール中毒から抜け出せない父親。 DV男に依存して、家から出ていった母親。 こうやって聞くと、いわゆる“毒親”と呼ばれても仕方がないかもしれない。 けれど、そんな家族のなかにも確かな“愛”があるということを、この映画は教えてくれます。 親が責務を果たせていないことを、未熟で不器用だからという言葉で簡単に免除することはできないと思うけれど、決して子供たちのことを愛していないわけではなく、物語のなかで親の愛情が垣間見えるところに胸が痛みます。 だからこそ、最近話題になっている“親ガチャ”という言葉や、“毒親”という悲痛な言葉で一括りにして表してしまうのは違う気がするのです。
この類の映画でいうと、『シャン・チー』の監督としてMARVELに抜擢された、デスティン・ダニエル・クレットン監督の『ガラスの城の約束』('17)も併せて観てほしいです。 どれだけクソな両親だとしても、一緒に過ごした素晴らしい思い出まで否定したくはない。 私も子供時代に親が喧嘩して、辛いって思ったことや許せないって思ったこともある。 今でも両親の嫌いなところはあるけれど、貰った愛情や楽しかった思い出があるから、親のことを心底嫌いになれないんだと思います。 成長していくにつれて、親というのは完璧じゃないということを理解した時に、心がものすごく楽になったような気がします。
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