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  • 「哲学の先生と人生の話をしよう」特別編!――國分功一郎×二村ヒトシ×有村千佳「ある高校の哲学的な一日」を誌上でほぼ完全に再現 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.075 ☆

    2014-05-21 07:00  
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    「哲学の先生と人生の話をしよう」特別編!――國分功一郎×二村ヒトシ×有村千佳「ある高校の哲学的な一日」を誌上でほぼ完全に再現
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.5.21 vol.75
    http://wakusei2nd.com

    本日の「ほぼ惑」は、哲学者の國分功一郎さんとAV監督の二村ヒトシさん、AV女優の有村千佳さんが出席したイベント「ある高校の哲学的な一日」のレポートです。身近な恋愛論からスピノザの理論にまで迫っていく知的刺激にあふれた議論を紙上で再現しました。

     
    ■登場人物 國分功一郎
    −1974年生まれ。哲学者。高崎経済大学経済学部准教授。著書に『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、PLANETSメルマガでの人気コーナーを書籍化した『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)など。
     
    二村ヒトシ
    −1964年生まれ。AV監督。慶応大学文学部中退。1997年アダルトビデオ監督デビュー。「女が強く、男が弱いAV」の第一人者として人気を博す。著書に『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(イースト・プレス)社会学者・上野千鶴子の解説と、二村×國分との対談が話題を呼んだ『すべてはモテるためである』(イースト・プレス)など。
     
    有村千佳
    −1990年生まれ。AV女優。2010年AVデビュー。「かわいくてエロい」魅力と、M男を虜にする「チカッチワールド」の絶妙なトークで世の男性たちを魅了し続けている。出演作に二村が監督する『マブダチとレズれ!』(outvision)など。
     本日の「ほぼ惑」は、2014/3/16(日)に東京ミッドタウンで行われた猫町倶楽部特別イベント、「ある高校の哲学的な一日」の様子をお届けします。本誌の人生相談でおなじみの哲学者・國分功一郎扮する「先生」が、学ラン姿のAV監督・二村ヒトシ、セーラー服姿のAV女優・有村千佳や猫町倶楽部の「生徒」に愛について哲学的授業をするというこの異色の試みは、100名以上が参加し大盛況となりました。
     猫町倶楽部は、毎回一冊をテーマに、時には著者も招いて読書会を行う、日本最大級の読書会サークル。今回、PLANETSでの連載がもとになった『哲学の先生と人生の話をしよう』をテーマにした回でなにやら面白そうな試みがあるらしいということを聞きつけ、PLANETS編集部は特別な許可を得て会場に潜入。本誌の人生相談連載とも関係の深い二村さんの「心の穴」理論から、國分先生の愛の哲学の紹介までを、お二人からも加筆を受けた完全バージョンでお届けします。
     
    ◎構成:立石浩史+中野慧
     

    ▲國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』朝日新聞出版、2013年
     
     さて、今回のイベントは、國分功一郎さんが「高校の先生」に扮し、二村ヒトシさん演じる不良高校生や、有村千佳さん演じる優等生の女子高生と対話しながら哲学の授業をするという形式で進行していきました。
     
    ほんのさわりですが、イベント開始時の様子を2分ほどの動画にまとめています。まずはこちらで当日の雰囲気だけでも味わってみてください。
     

     
     トークは、有村さんから國分先生に対する以下のような問いかけでスタートしました。果たして哲学者・國分功一郎は、この悩みにどう答えていったのでしょうか――?
     

    ▲國分功一郎
     
     
    ■「AV女優になりたい」のはいけないことなのか?
     
    有村 先生、あたし、将来AV女優になりたいんですけど、お父さんやお母さんとか、彼氏に猛反対されるんです。AV女優はちゃんとした仕事で、そんなに恥ずかしいことだとは思わないのに……。AV女優になるって、いけないことなんですかね?
    國分 まあ、とにかくAVでもそうでなくても、一般的に「女優」の仕事ってやっぱり大変なんじゃないかな。「アイドルになりたい」「有名人になりたい」っていう夢を持ってる子に対して、親が厳しいことを言うというのはあるかもしれないな、有村がどうしてAV女優になりたいと思っているのかまだわかっていないんだけど、どれくらい大変かは想像してみたの?
    有村 どれくらい大変かとか、仕事量とかはわからないけど、いまのAV女優さんってすごい可愛い子が多くて、なんかアイドル的な存在になっているから、私もそこに入りたいと思ってて……。
    國分 反対してくる彼氏とか親っていうのは、有村にどうしてほしいって言ってるの?
    有村 「そんなはしたないビデオなんかに出るな」「真面目な仕事をしろ」って言われちゃって……。
    國分 有村がやりたいと思ってることを否定されて、親や彼氏が持っている「こういう仕事がいいんじゃないか」という考えを押し付けられた、ってことだね。
     ひとつポイントになるのは、有村が女優という仕事をどれだけ現実味を持って想像しているのか、ということだよね。もしかしたら「お前が思っているほど楽じゃないんだよ」とか、「ちゃんと現実的に考えられてるのか?」という意味もあるかもしれない。
     ただ、有村が今言ったような悩みはみんなも持っているものだよな。周りが求めているものと、自分がしたいことが一致しなかったり、「他人から期待される自分」のようなものに合わせてしまったりして苦しい思いをしたりする。
     

    ▲國分先生の授業を聞く生徒たち(左から2番目=有村千佳さん、右端=二村ヒトシさん)
     
     
    ■この社会で、「女性である」ということ
     
    國分 それと、有村の悩みに関しては、「男と女の差」も少しあるような気がするな。この社会に生きていると、男のほうが「許されている」と感じたりしないか? 女の子のほうが、社会からの「こうしろ」という圧力がすごく強い、という。
    有村 「守ってあげたい」「外敵に触らせたくない」のような感じで、親の意見を押し付けやすい、というのはある気がします。
    二村 たとえば俺が「AV監督になりたいです」って言うと、止める人も中にはいるけど、わりと放っておかれるね。
     有村が「AV女優になりたい」って言ったら、有村のことが好きな男は傷つくかもしれない。かといって「俺は有村のこと好きだけど、やりたいんだったら応援したい気持ちもある」って言うと有村も複雑な顔をするじゃん。それってAV女優がエッチな仕事だからじゃなくて、普通の仕事をやっていても、たとえば会社でセクハラされたりとかそういう心配もあるし、仕事をいつまでやっていつ結婚するのかというような、女性であることで出てくる問題があると思う。男が「俺は俺だ」というとき、「俺は男だ」ということと矛盾しないのに、女の人は「私は私だ」って言うのと、「私は女だ」、というのは矛盾している感じがするんだよね。
    國分 そうなんだよね。前提としてこの社会で男女平等が全然実現していないのは事実なんだけど、それはそれとして、そもそも個人としての男と、個人としての女にかかってくるプレッシャーの質が違う感じがするよね。
     男なら、自分が男であることを全面に打ち出して仕事をしても許される。でも女だとそれがなぜか否定されてしまうよね。
    二村 先生、昔の偉い哲学者は、こういう問題を抱えた女の人を救う方法を提示してないの?
    國分 昔の偉い哲学者じゃないけど、二村ヒトシっていうAV監督が書いたこの本(『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』)にはそのヒントが書かれているかもな。たとえばこの本には、女の人が母親や年上の女性から「男の選り好みしてないでとにかく適当な男と結婚して、とっとと子供産んじゃいなさい。産めばわかるから」とアドバイスされることが多い、と書いてある。
     俺なりに解釈をすると、まさしく俺の研究していたスピノザという哲学者の言っていることと繋がってくる。スピノザは「人間の根本的な感情は、人を妬むというところにある」と言っているんだ。
     なぜその先輩の女性は「あんた子供産みなさい。そうすりゃわかるよ」と言うかというと、おそらくその人は結婚して子どもを産むときに何かを断念したんだと思う。「結婚したり子どもを産んで、自分の人生の可能性が狭められるのはちょっと嫌だけど、でも周りから求められるから仕方なかったんだ」と自分を納得させているんだよね。
     そうすると人間は「あなたは諦めなかったらずるい」「私だって我慢したのにあんたたちだけずるいよ」と、娘や年下の女性に圧力をかけたりすることはあるんじゃないかな。
     たとえば俺のお袋は、女性の専業主婦の割合が一番高かった1970年代半ばに主婦だったんだけど、あの頃主婦だった人たちのなかにはそういう気持ちを持っていた人が多かったと思う。だから、この社会が男中心になっていることももちろん問題だけれど、「負の感情が連鎖して続いていってしまう」という仕組みも、どこかでうまく断ち切っていかないといけないんだ。

    ▲二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』イースト・プレス、2014年
     
     
    ■「私はこうしたんだから、あなたがそうしないのは許せない」という憎しみの連鎖を断ち切るには
     
    二村 でも、問題を抱えたお母さんだけがそれをやるんじゃなくて、先生や男たちもそういういうことをやったりするよね。俺が親になったときに子供にどう接すればいいんだろう?
    國分 まず、自分がされて嫌だったことは子どもに対してしないということが大事だよな。二村は親にどういうことをされて嫌だった?
    二村 殴られたりしてはいないけど、家で酔っ払っているのは嫌だったね。
    國分 でも自分がやられた嫌なことって、けっこう他の人に対してやってしまうんだよね。じゃあ、どうやったらやらないようになるかっていうことだよな。
    二村 そこで言うと、自分がやられて嫌で傷ついていることって、大抵は親にされたことじゃないかな?
    國分 そうかもしれない。やっぱり親にやられたことってすごく心に残っていて、それを繰り返してしまう。ただ、それを繰り返さないで、うまく自分で乗り越えていったこともあっただろ?
    有村 でも先生、それって「我慢」じゃないですか? 「人にやられたことを自分ではしない」って思ってやらないってことは、自分は我慢しているんですよね。そういうのって、負の連鎖を断ち切っていることにはならないと思うんですけど……。
    國分 つまり、「やられて嫌なことを本当は自分も繰り返したいと思っちゃうけど、それはやめておこう」と思って我慢するのであれば、それは全然解決になっていないということだね。
     そうではなくて、何か別のものによって、それが解消されなければならない。スピノザは、それを「よろこび」と言っているんだ。簡単にいうと「幸せ」のことなんだけどね。スピノザは「幸せの気持ちが高まっていくと、人を妬んだりすることはなくなっていく」と言っている。
    二村 あまっちょろいことをいうと、相手が大事な人だと思っていればその人に対して悪いことをしなくて済むと思うんだ。でも、その「相手が大事」というのがどういうことか、よくわからない。
     「相手が好みのタイプだから」「この人はいいことをしてくれたから」と思っているとそれは有村の言うような「我慢」になるし、たとえ「本当に好きだから大事にしよう」と思えたとしても、それってつまるところ性欲じゃないの? って思うんだけど。
     
    ▲二村ヒトシさん
     
     
    ■「心の傷」を持っているのは、「人の心を持っている」ということ
     
    二村 子どものときってみんな愛されたと思ってるけど、本当はなにか「足りないもの」があって、大人になって恋人ができたときに、「本当はこういうふうにしてもらいたかった」というのをその恋人にぶつけて、だいたい喧嘩になるよね。
    國分 その「足りないもの」を二村ヒトシさんは「心の穴」って表現しているんだよね。人は小さい頃からのいろいろな境遇や人間関係で、心に穴が開けられている。その穴を埋めるように恋をしてしまうと、失敗してしまうと彼は言っている。
     先生が研究している哲学の考えでは、それはどっちかというと「心の傷」って感じかな。人間は生まれたときからとにかくずっと傷を受け続ける。もともと「生まれた」ということ自体が傷なんだ。
     生まれる前にお母さんのお腹の中にいるときって、どこかよくわからない静かなところにいて、栄養も何もかもが勝手に運ばれてきて、静かに穏やかに10ヶ月くらい生きていたわけだ。それがブチンとへその緒を切られて、生まれてくるというのはすごいショッキングな出来事なんだ。そして、その赤ちゃんはずっと傷を負って生きていく。
     ルソーという哲学者が、社会がなくて自然状態のなかに人間がいたら……ということを想像して、その中の人間を「自然人」と呼んでいる。自然人は何も拘束を受けずに一人で勝手に行動しているから、誰かと一緒にいようとしない。誰かとぶつかって喧嘩したり、それこそゆきずりのセックスをしたとしても、次の日の朝になったら、前の晩にゆきずりのセックスをしたその人と一緒にまた次の晩を過ごす謂われはない。ルソーは、人間がもし自然状態だったらバラバラに好き勝手生きていると考えた。そういうルソーの考えって、理屈で考えたらそうかもしれないけど、ちょっと納得いかないよね。
    有村 その自然人っていうのは、心がない人のことを言うんですかね。
    國分 「心がない人」って表現はいいね。適切な表現だ。つまり、なんか具体的な人間である感じがしないんだよね。先生は、ルソーの言う自然人というのはあくまでもモデルみたいなものだと思っている。で、どのあたりがモデルであるかというと、自然人には「心の傷」が欠けているというところなんだよね。人間っていうのは必ず、心に傷をいろんなかたちで負っている。それがひとつの人間の個性にもなっていくんだけど、ルソーの自然人にはこれがないんだよ。だから、もし本当に心に傷を負っていないような人間がいるとしたら、ルソーの言ったような自然人になるかもしれない。
     
     
    ■「悩んでいたら誰かに相談してみよう」ってどういう意味なの?
     
    國分 たとえば、赤ちゃんがおっぱい飲みたいと思うとき、泣けば親がすぐ来る。だけど、だんだんお母さんも面倒くさくなったりするし、そろそろ離乳食だという時期になると、泣いても自分の思い通りにならない場合が増えてくる。それだって「自分がこうしたいのにそれが満たされない」という心の傷だよね。そういう細かなところでたくさん心に傷を負っていくわけだ。
     ただ、「ああ、泣いてもすぐにおっぱいがくるわけじゃないんだ」というふうに人間はだんだん慣れていくわけだ。でも、それでもなかなか慣れることができない傷があると思う。たとえば、有村はいま、色々と辛いことがあるよね。辛いことがあったとき、有村はどうしてる?
    有村 友達とか、誰かに相談する。
    國分 そうだね。相談するとどうなる?
    有村 すごい気が楽になります。
    國分 不思議だよね。実は先生さ、最近まで「悩みを誰かに相談すると楽になる」ってことを知らなかったんだ。有村は高校生のころからそれを実践しているけど、その一方で哲学とかをやっている俺みたいな人間が、ぜんぜん人生のことをわかってないんだよね(笑)。
     でも、これって面白くて不思議じゃない? その友達が抜群のアイディアとか出してもらえなくても、話を聞いてもらうだけで楽になる。
     多くの場合、自分の中で反省したりして、心の傷って跡は残るけれど傷そのものは癒えていく。でも、なかなか治せない傷とか、あるいは自分で気づかない傷があって、それを誰かを経由して考えてるんじゃないか、と。自分ひとりでは治せない、誰かの手助けがあって初めて治せる傷があるんじゃないかと思う。
     
     
    ■「心の傷」は、心と心が通じ合う根拠になる
     
    國分 では、人間はどうして誰かと一緒にいたいと思うのか。なぜ人間は、ルソーの言ってる自然人のようではないのか。これは俺の仮説だけど、人間には必ず心に傷があって、しかもその心の傷って一人では癒やせない場合があるから、それを癒やしたり、気遣ったり、あるいは心の傷が似ているとか似てないとか、そういったことで人と人は惹かれ合うんじゃないかな。そんな風に思うんだ。
     二村が言うように、恋ってすごくよくない形へ行くこともある。しかも、恋の根拠って今言った心の傷みたいなネガティヴなものかもしれない。でも、「この人と一緒にいると自分の心の傷がうまく癒える」とか「すごく心地がいい」とか、やっぱりそれがいい方向にいくことはあって、それがうまくいったときに、人は誰かのことを「この人は大事だ」と思うようになるんじゃないかな。
    二村 それは、先生には先生の、俺には俺の大事な人がいるってことなの? それとも、誰にでも優しくできるすごい癒やしの力を持ってる人がいるんだろうか。
    國分 うーん、たぶん、そういう人間もいるだろうなぁって思うな。たぶん教祖みたいな人間よね。たとえばイエスみたいな天才はそういう力を持っていたんじゃないか。それは、能力というよりは偶然できてしまったものだと思う。だけど普通はそうはいかなくて、この人とだとうまく傷が癒えていくだとか、そういう形で決まっていくと思う。
    有村 心の傷を癒やすのと、「頼る」のは違うんですか?
    二村 その頼る相手がいなくなって、生きていけなくなったらどうするの?
    國分 うーん。ここは難しいなあ。先生としては「たくさん浮気しろ」とか言うわけにもいかないしなあ。
     

    ▲有村千佳さん
     
     
    ■誰もが、普段は自分が何かに依存しているとは思わない
     
    二村 先生、俺も最近、難しい本読んだ! 小児科医で自分も小児麻痺の熊谷晋一郎さんの本なんだ。ほら、障害のある人って、車椅子とか補聴器とか、生きていくために頼らなきゃいけないものがたくさんあるじゃない。障害があると言われている人も、「これがないと生きていけない」というライフラインを分散することができれば、広い意味で差別がなくなっていくんだろうな、とその本を読んで思った。
     

    ▲熊谷晋一郎『リハビリの夜(シリーズ ケアをひらく)』医学書院、2009年
     
     でも、それを恋愛に当てはめるとちょっと違うのかもしれない。人は自分を肯定しないと生きていけないけど、男が「自分はこれでいいや」と思っているのは、男という生き物が社会になんとなく許されているからこその「インチキ自己肯定」だったりするでしょ?  俺は、「俺の心の傷はたくさんの女じゃないと癒やされない」と思ってたんだけど、理屈っぽい女から「そんなのインチキな分散型じゃない」って言われてギャフンとなった。それはたとえば、恋愛の相手だけじゃなくて、「妻」と「仕事」に分散していても、妻が怒ることはあるじゃん。
    國分 熊谷さんが言ってるのは、みんな普段いろいろなことに依存して生きているけど、それが分散しているから依存している事実を気にかけずにすんでいるってことだよね。だから、依存先が少なくなると、「私はこの人がいないと生きていけない」って状態になって、依存の事実が重くのしかかってくるようになる。だからいろんなところに依存先を増やしていくことが実は自立だって話。
     いまの二村の話はヒントになるね。つまり、頼る先は人だけじゃない。仕事とか趣味とか、あるいは評判とかでもいい。「自分の心を満たす」「傷を癒やす」というときに、別に恋人との関係だけに頼る必要はない。
     恋愛関係ってのは依存先の中でも非常に濃度が濃いものではあるけど、いろいろな依存先の一つとして恋人がいるとか、恋愛関係があるって考えればいいんじゃないの。ちょっと優等生的な答えかもしれんが、恋人もいるし、仕事もあるし、趣味もあるし、友達付き合いもあるみたいな。どうだろう、それはインチキ分散型じゃないよね。
     
     
    ■人間は過剰なものを抱えていても、色んなやり方で解消できる
     
    二村 でもさ、やっぱり「いろんな女とセックスしたい」と思うじゃん! まあ、そういう部分をやり過ごすために、男はみんな色んなAVを見るということなのかもしれないけどさ。
    國分 えーと、先生は既婚者なのでそういうことは答えずらいです。
    二村 でも、先生もそう思うんでしょ(笑)。「AV見てれば気が済むはず」というのはキレイゴトで、色んな人とセックスできる人を、他人はうらやむんだよね。女の子で言うと、イケメンなのかセックスが上手そうなのかわかんないけど、ヤリチンを好きになるじゃん。で、女の子がヤリチンを好きなのは、いろんな女とやってほしいわけではなくて、いろんな女とやってる男が私だけのものになると、「してやったり」って思うからでしょ。
    有村 してやったりとは思うけど、いざ自分のものになったらちょっと冷めちゃうかな。
    國分 有村、結構激しいこと言ってるな(笑)。それは要するに、「相手を支配したい」という欲望としての「恋」が極限的に大きくなってる状態だよな。だからそうやっていると、ぜんぜん「愛」へ移行しないんだよ。