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記事 30件
  • 日本の町工場から鮮やかに蘇る東映怪人たち――「メディコム・トイ」代表・赤司竜彦インタビュー(PLANETSアーカイブス)

    2018-11-19 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、トイメーカー「メディコム・トイ」代表の赤司竜彦さんへのインタビューです。ソフビに関するディープな趣味の話題から、日本の「ものづくり」の本質と未来像。さらに、文化の世代継承をめぐる対話が繰り広げられました。怪人やヒーローたちのレトロな造形と鮮やかな色彩にも注目です。(構成:有田シュン) ※この記事は2015年2月27日に配信した記事の再配信です。
    ■日本の地場産業「スラッシュ成型」を活用すべく誕生した
     
    宇野 僕は普段、評論家として活動しつつメルマガの編集長としていろいろな記事を出しているんですが、時々完全に自分の趣味の世界の記事を出しているんです。そんな僕が今一番ハマっているものが「東映レトロソフビコレクション」シリーズです。ほぼ毎月買っています!
    赤司 本当ですか?(笑)
    宇野 そのくらいハマっているんです。それに「ハイパーホビー」(徳間書店)が休刊になったことが非常にショックで、僕はこれからどうやって「東映レトロソフビコレクション」の最新情報をゲットすればいいのだろうと途方に暮れていたんですが、「もう自分で取材に行くしかない」という結論に至り、今日お伺いした次第です。
     

    ▼メディコム・トイの運営するソフビ総合情報サイト「sofvi.tokyo」
     
    赤司 なるほど! ありがとうございます。
    宇野 今日はこの「東映レトロソフビコレクション」シリーズを手掛けてらっしゃる、赤司さんのお仕事について伺っていきたいと思います。そもそもこの「東映レトロソフビコレクション」シリーズを立ち上げたきっかけは何ですか?
    赤司 まずちょうど三年くらい前に、いわゆる日本の地場産業であるソフビを作る上でのスラッシュ成型を持つ工場の仕事がない、というお話をひんぱんに聞くようになってきたんです。当時は、大体ソフビ商品の9割が中国で生産されていたという時期だったのですが、その話を聞いて改めて「今、日本の工場はそんなに大変なんだ」「じゃあ日本の工場でできる仕事を何か考えないと」と考えるようになりました。
     ただ、弊社も日本での製造自体は、会社の創業当時以来12年くらいブランクがあったんです。そんな時にとあるメーカーの同世代の方からソフビ工場をいくつか教えてもらい、「東映レトロソフビコレクション」を作りたいんだけど、と相談したんです。
     そしたら、皆さん「えっ、メディコムさんってうちでやるんですか?」と意外にもびっくりされていました。もちろん中国と比べて、日本の方は製作費が高いというような背景はあったものの、「こんな小さなソフビフィギュアを作れるんだ」という技術力の高さもあって、ちょっとずつ仕事を始めたんです。
     そして一番最初に出たのが、『仮面ライダー』の「ドクガンダー」と『人造人間キカイダー』の「グレイサイキング」の2つです。2011年の発売です。なぜ『キカイダー』かというと、「なんで『キカイダー』のスタンダードのソフビはないんだろう」っていう夢を見たからなんです(笑)。 
     

    ▲東映レトロソフビコレクション グレイサイキング(『人造人間キカイダー』より)
     
    宇野 なるほど(笑)。 
    赤司 なんで当時作られていなかったんだろう……。まあ多分、20時台のオンエアだったとか、あんまり子供が観てなかったとかいろんな理由があったのかもしれないですけど、あったら欲しいなぁ、から始まっているんです。そこからライセンス周りで半年くらいかけて何とか東映さんにご尽力いただいて、ライセンスをオープンしていただけるような環境ができてきて。そこから、やっと実際に商品を作り始めることになったわけです。 
    宇野 全国のソフビオタクにとってはなるほど、っていう感じのお話ですよね。最初に雑誌で見た時は、「あ、なんか変わったものが始まったな」と思っていたんですが、実際に現物を見てみるとびっくりするくらいクオリティが高くて、「ああ、これはもう集めるしかないぞ!」と思いました。僕はたぶん『仮面ライダーV3』の「ガマボイラー」ぐらいから買い始めました。(2013年10月発売)
     

    ▲東映レトロソフビコレクション ガマボイラー(『仮面ライダーV3』より)
     
    赤司 そこから遡るのは結構大変ですね。
    宇野 大変でした。だから中古ショップで買い漁ったり、ヤフオクを駆使して集めました。ザンブロンゾあたりが結構大変でしたね。
     
     
    ■「東映レトロソフビコレクション」シリーズの制作体制
     
    宇野 どういう体制で制作されているのでしょうか。
    赤司 熊之森恵という原型師さんを中心に据えて、その他の6人の原型師さんチームにオペレーションを任せます。当然原型師さんごとに技術的な差やスピードの違いもあるのですが、その辺を熊之森さんがうまくコントロールしてくれています
    宇野 レトロ感のあるスタンダードサイズでありながら、造形の精度は21世紀のレベル。当時のスタンダードソフビが結果的に持っていたデフォルメの面白さというものを、ものすごく引き出しているアイテムになっていると思います。
    赤司 あまり具体的に定義したことはないんですけど、ネオレトロとか言われているようなジャンルなんだろうとは思うんですよね。当然マーケットには、レトロをレトロのまま再現することしか認めない!という方もいらっしゃるんですが、実はレトロという方向性で商品の構成とアレンジを詰めていくと、意外と物足りなく感じるようになったり、色々な玩具を見た上でレトロな方が物足りないって感じる方が多いのも事実なので、そこらへんのさじ加減はさすが熊之森アレンジといったところですね。
    宇野 本当にそうですよね。でも、僕はこのスタンダードサイズのソフビの頃はまだ生まれていなくて、スカイライダーの方の『仮面ライダー』(1979年放送)の一年前に生まれているので、後からビデオで70年代の特撮とかを見て好きになった世代なんですよ。
     ですので、スタンダードサイズのソフビとか全然知らないで育っているんです。同サイズの500円ソフビとか700円ソフビしか知らないで生きているのですが、この「東映レトロソフビコレクション」を見た時に、70年代の東映キャラクターの良さというものが150%引き出されていると非常に感動したんです。本当にそれぞれのキャラクターの魅力というものを、とてもうまく引き出すデフォルメになっていると思います。
     他のスタンダードサイズのレトロソフビというのは、言ってしまえば当時の思い出をリフレインしているだけの商品になっていると思うんです。でも「東映レトロソフビコレクション」シリーズは、明らかにこのサイズでデフォルメすることを利用して、元のキャラクターの魅力を引き出すというゲームを戦っています。
    赤司 ありがとうございます。私もキャラクターの魅力を引き出すという点では、このアレンジは有効だと感じています。 
    宇野 現代の造形センスとすごく合っていて、特にこの「ドクガンダー」のカラーリングとか……!
     

    ▲東映レトロソフビコレクション ドクガンダー(※成虫。『仮面ライダー』より)
     
    赤司 ニヤっとしちゃいますよね。 
    宇野 個人的なエピソードになりますが、中古ショップでまず「ドクガンダー」の「ワンフェス2012冬開催記念モデル」を買ったんです。これは素晴らしいなと思って飾っていたんですが、カタログ見てたらオリジナル版もどうしても欲しくなって、そっちはそっちでまたヤフオクに出た瞬間を狙って落札。以来、毎日眺めてます。どうやったらこのカラーリングにたどり着くことができるんでしょうか。
    赤司 たぶん、世代的なものもあるのかもしれないですね。自分たちからすると、意外とナチュラルなカラーリングなんですよ。劇中に出てきた「ドクガンダー」を、70年代のフィルターに通すとこんな感じになるだろうなあと。ソフトビニールという素材を使ってキャラクターをどうディフォルメ、カリカチュアするかというメソッドに、70年代風でありながら、そこだけではないみたいなところがきっとあるんでしょうね。
    宇野 そこがやはり、このシリーズの魅力だと思います。ただ当時のスタンダードサイズのソフビを再現しました、っていうシリーズだったら、たぶん僕は買ってないと思います。
    赤司 なるほど。その辺りはさじ加減の問題ですよね。一個一個の商品を見てみると、原型師さんによって微妙にテイストは違うんですけど、最後に熊之森さんがうまくアレンジをしてくれるんです。
     生産の方のメソッドになって、ちょっとテクニカルな話になっちゃうんですけど、元々作った粘土原型を一度蝋(ワックス)に置き換えるんですが、この作業は全部熊之森さんがやっていて、そこで彼独自のテイストとかアレンジが施されます。そうしながら最後に蝋を落としているんですが、その工程が一番シリーズとしての統一感を出しているところなんじゃないかな、という気がします。
    宇野 なるほど。ちなみに、このラインナップはどう決められているんですか?
    赤司 僕と熊之森さんが、ほぼ一日かけて半年分くらいを決めます。
    宇野 第一弾が「ドクガンダー成虫」という恐ろしい決断を下されたわけですが、結果的に大傑作だったと思います。このセレクションはどこから生まれてきたんですか?
    赤司 意外とここは明快です。当時、バンダイさんが出していたソフビの中で、頭から消していって、たぶん一番最初に欠けているのが「ドクガンダー 幼虫」なんです。そこで、「幼虫はダメだろう!」という話になって、最終的に成虫になったという感じだった気がします(笑)。
    宇野 そうだったんですね! その後の「スノーマン」、「ザンブロンゾ」という2号編の怪人が最初に来てるのもそういう理由ですか?
    赤司 そうですね。この辺も、やっぱり最初は立体化に乏しいものを作っていこうという発想からだと思います。 
    宇野 「ガニコウモル」とかは有名怪人だし、なんとなくわかるんですけど、「スノーマン」「ザンブロンゾ」、「イソギンジャガー」って結構すごいラインナップですよね。
     

    ▲東映レトロソフビコレクション イソギンジャガー(『仮面ライダー』より)
     
    赤司 なぜ「イソギンジャガー」を選んだかというと、この回は石ノ森章太郎先生が監督をされているんですよ。

     
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』終章 「エフェクトの美学」の時代に【毎月配信】

    2018-03-20 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。技術が「ジャンル」として確立されるには、そこに精神が宿らなければならない。最終回となる今回は、特撮を文化史として見つめ直してきた本連載の意義を改めて振り返ります。
    終章 「エフェクトの美学」の時代に
    技術に宿る精神
     特撮(特殊撮影)であれ、アニメーションであれ、もとは技術の名前である。この技術が「ジャンル」として確立されるには、そこに精神が宿らなければならない。そして、ジャンルの精神は一つの魂の独白からではなく、複数の魂の対話から生み出される。とりわけ特撮の「精神」は、円谷英二からその息子世代への伝達を抜きにして語ることはできない。
     ふつう世代論はもっぱらその世代に固有の体験を問題にする。それが書き手の私的体験と接続されると、しばしば他の世代にとっては退屈極まりない平板なノスタルジーに陥る(例えば、小谷野敦の『ウルトラマンがいた時代』はその典型である)。それに対して、私はむしろ世代と世代のあいだ、すなわち先行世代から後続世代への文化的な相続=コミュニケーションこそが重要だという立場から論を進めてきた。第三章で述べたように、もともと玩具作家であった円谷英二は、『ハワイ・マレー沖海戦』という「模型で作った戦争映画」において、ミニチュアの戦艦を戦時下の宣伝技術として利用した(その意味で、おもちゃの政治性は馬鹿にできない)。そして、ウルトラシリーズの作り手たちはこの「父」の遺産を改変しながら「子供を育てる子供」として巨大ヒーローと怪獣のドラマを作り出したのだ。
     もとより、二〇世紀の総力戦体制とはエンターテインメントを含むあらゆる領域を戦争に関わらせ、戦争の外部を抹消するシステムであり、円谷英二の特撮も結果的にその一翼を担った。ただ、ここで重要なのは、映像のモダニズム的実験としての特撮に挑戦した円谷の仕事が、大人のプロパガンダだけではなく子供のエンターテインメント(おもちゃや模型)とも接していたことである。アメリカのレイ・ハリーハウゼンやジョージ・パルの仕事が示すように、本来ならば特撮が子供向けのエンターテインメントに傾斜する必然性はない。にもかかわらず、日本の特撮の「精神」は子供を触媒として成長し、やがてウルトラマンという不思議な巨人を生み出した。この子供への傾斜にこそ戦後サブカルチャーの特性がある。
     私はここまで、戦前と戦後のあいだのメッセージ的不連続性とメディア的連続性に注目してきたが、それはウルトラシリーズという「子供の文化」に照準したことと切り離せない。大人の世界においては、戦後の日本は戦前の日本を反省し、それとは別の人格に生まれ変わらなければならなかった。しかし、円谷以来の子供向けのサブカルチャーは、戦前と戦後の溝を飛び越えて、軍事技術を映像のパフォーマンスとして娯楽化し、戦争の快楽を享受し続けた。特にウルトラシリーズの作り手たちはメッセージの次元では「戦後」の民主主義を左翼的に擁護しつつも、メディアの次元では「戦時下」のプロパガンダを右翼的に再現した。この種のイデオロギー的混乱は、特撮だけではなくアニメにも及ぶだろう(第四章参照)。子供という宛先は、大人向けの文化とは別のアイデンティティの回路を作り出した。しかも、その原点はやはり戦時下にまで遡ることができる。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第六章 オタク・メディア・家族 2 子供を育てる子供(2)【毎月配信】

    2018-03-06 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。大伴昌司と佐々木守が切り拓いた、子供に居直るのでもなければ、親として生きるのでもない、むしろ「子供がそのまま主体であり得る世界」に向けて文化を整理し製作し伝承しようとしたコミュニケーションのあり方の中に、「オルタナティヴなオタク」の像を見出します。
    文化の統合装置としての少年
     一八九六年生まれの加藤謙一編集長のもと、『少年倶楽部』は一九二〇年代以降、佐藤紅緑、江戸川乱歩、吉川英治、南洋一郎、大佛次郎、山中峯太郎、高垣眸、海野十三、平田晋策ら大衆作家による幅広いテーマの小説群を展開するとともに、川端康成、横光利一ら新感覚派の少年小説も掲載した。ヴィジュアルな方面でも、三〇年代以降の『少年倶楽部』では加藤や円谷英二と同世代の田河水泡の『のらくろ』や島田啓三の『冒険ダン吉』のような戦前を代表する漫画が連載された。紙芝居作家として出発し、そのデッサン力を活かして「絵物語」の分野を切り拓いた山川惣治も、この雑誌から台頭した。戦後に大ヒットした山川の絵物語『少年王者』や『少年ケニヤ』は『少年倶楽部』の仕事の延長線上に位置する。
     少年の友情や成長を大きなテーマとする一方、小説と漫画を横断しつつ、ジャンルで言えば冒険小説、探偵小説、SF、時代小説まで、地理で言えばヨーロッパからアフリカ、戦国時代の日本までを含む『少年倶楽部』は、驚くほど雑多で「教育的」な雑誌であった。加藤謙一は「課外の読み物である子どもの雑誌は、一種の教科書であるのは当然のことだろう」という信念を抱いており[39]、その編集方針が『少年倶楽部』を教育的かつ娯楽的なエンサイクロペディアに近づけた(ちなみに、下中弥三郎率いる平凡社が看板事業となる『大百科事典』の刊行を開始したのは、『のらくろ』の連載が始まった一九三一年である)。明治以降の文学が「青年」を近代的な自意識(孤独や煩悶)と紐づけたとすれば、昭和のサブカルチャーは「少年」を文化の統合装置として利用したのだ。戦後の大伴昌司による雑誌の情報化=百科事典化は、まさにこの戦前の統合装置を再起動するような試みである。
     もとより、『少年倶楽部』の作品群も、戦時下の愛国主義と無縁であったわけはない(加藤謙一は敗戦後にGHQの指令で公職追放にあった)。にもかかわらず、小川未明らの童話とは違って、戦前・戦中の『少年倶楽部』の企ては戦後サブカルチャーのさまざまな分野で継承された。この大胆な「遺産相続」は、戦後の精神史において異彩を放っている。例えば、加藤典洋は九〇年代後半の論考で「日本の戦前と戦後はつながらないことが本質である」と述べて、戦前と戦後を調和させる論理がないことを強調したが[40]、こと少年文化に限っては、むしろそのような断絶を屈託なく乗り越えようとする傾向があった。
     現に、第二章で述べたように、高垣眸原作の『豹の眼』や『快傑ハリマオ』のように「帝国の残影」を帯びた宣弘社のドラマは、『少年倶楽部』の冒険小説的な海外雄飛のモチーフを再来させ、かつての大東亜共栄圏のヒーローをテレビにおいて蘇らせた。あるいは、内田勝も『少年マガジン』を『少年倶楽部』の伝統を引き継ぐ雑誌として位置づけており、同世代の梶原一騎に協力を依頼するときにも「『マガジン』の佐藤紅緑になって下さい」という口説き文句を使った[41]。
     この内田の誘いに乗って『あしたのジョー』や『巨人の星』等のいわゆる「劇画」の原作者となった梶原もまた、『少年倶楽部』以降の少年小説の嫡子である。彼は自伝のなかで、劇画のルーツとして敗戦直後の少年誌ブームに言及しつつ、山川惣治に加えて『大平原児』『地球SOS』の小松崎茂、『黄金バット』の永松健夫、『砂漠の魔王』の福島鉄二ら「絵物語」の作家たちを挙げた[42]。同じように、大伴昌司も『少年マガジン』の一九七一年の特集「現代まんがの源流」で手塚治虫を「映画的表現法」の導入者として位置づける一方、山川や小松崎らの絵物語についても「後の少年誌が、まんがを中心とした視覚雑誌として発展していくための素地となった」と適切に位置づけている(山川の代表作『少年王者』を「七〇ミリ映画のような画面構成」と評するのも面白い)。この簡明な漫画史は『少年マガジン』の劇画、さらには大伴自身のヴィジュアル・ジャーナリズムの歴史的な「起源」を探索する試みでもあっただろう。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第六章 オタク・メディア・家族 2 子供を育てる子供(1)【毎月配信】

    2018-02-13 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。『少年マガジン』をオタク的な感性で総合化した大伴昌司が大きな影響を受けていたのは、『暮しの手帖』を編集し、家庭の「暮し」の向上を訴えた花森安治でした。一見対照的なイメージを持つ大伴と花森の間にある共通点を明らかにします。
    2 子供を育てる子供
    花森安治から大伴昌司へ
     以上のように、大伴昌司の情報化と視覚化の企ては、四至本八郎譲りのテクノロジー志向に加えて、アメリカのグラフ誌、戦争報道とともに成長した画報、児童向けの絵物語や絵本、マルチチャンネルのテレビといった諸々のメディアを背景としながら、サブカルチャーのオタク的受容(情報化/二次創作化)の下地を整えた。と同時に、大伴の原点にはオタク的な虚構愛好とは異なるドキュメンタリーやジャーナリズムへの関心があった。彼は一九七〇年には「一日も早く、『タイム』『ライフ』のような巨大なウィクリーが、少年週刊誌のなかから現われるよう努力します」という抱負を記した年賀状を送っている[27]。オタク的な二次創作(編集)の欲望と非オタク的な報道(記録)の欲望が交差したところに、つまりジャーナリスティックなオタクであったところに、彼の仕事のユニークさがあった。
     さらに、ここで強調したいのは、大伴が先行する雑誌編集者を意識していたことである。例えば、大伴にまつわる証言を集めた『証言構成<OH>の肖像』(一九八八年)の執筆者は、彼が「『アサヒグラフ』の伴俊彦を尊敬し、『新青年』的モダニズムの機知を感じさせる伴のエディトリアル・シップに学ぼうとしていた」ことを指摘しつつ、こう続ける。

    大伴が、すぐれたエディターとして尊敬していた人物には、ほかに『暮しの手帖』の花森安治(故人)と『週刊朝日』時代の扇谷正造(評論家)がいる。彼は後に『少年マガジン』で日本人の戦争中の生活を特集したとき、『暮しの手帖』を意識したレイアウトをして、見出しも花森安治ふうの手書きのレタリングにした。特集の発想そのものも、暮しの手帖刊『戦争中の暮しの記録』と同じだった。[28]

     『暮しの手帖』の創刊者である花森安治は一九六九年の『戦争中の暮しの記録』で、戦時下の衣食住の様子を再現しつつ、戦争体験者から寄せられた多くの手記を収録した。それを受けて、大伴は翌七〇年に『少年マガジン』の特集で「人間と戦争の記録 学童疎開」と銘打って、自分もその一員である「少国民世代」(小学生時代に愛国主義教育を受けた世代)の疎開先での体験を、読者からの投稿をまじえて再現した。その後も、大伴は『暮しの手帖』をパロディ化した「料理の手帖」という特集を組んだ。
     むろん、花森と大伴の振る舞いは一見すれば対照的である。花森が長髪でスカート(実際は半ズボンかキュロットであったという説もある)を穿いた異性装者として自己演出しながら、家庭の「暮し」の向上を訴えたメディア・アイコンであったのに対して、大伴は自らを「構成者」や「企画者」のような裏方に留めながら、家庭人とは真逆の男性オタクの源流となった。誌面のデザインについても、花森の『暮しの手帖』が原弘らの新活版術運動にも通じる「タテ組みのうつくしさ」(津野海太郎)を発明したのに対して[29]、大伴の『少年マガジン』の特集は垂直的な軸を見せるよりも、絵と文字を平面的に組み合わせることを選んだ。
     にもかかわらず、この両者は「大人の男性の社会人」ではなく、会社組織に属さないいわゆる「女子供」に呼びかけて、その知識や技術の教育に注力したという一点で重なりあう。ちょうど円谷英二が「貧者の技術」として特撮を利用したように、花森は『暮しの手帖』で乏しい素材で生活をやりくりする技術を読み手に教え、大伴は『ウルトラマン』の二次創作を介して子供たちに怪獣の遊び方、いわば「オタクの暮し」のモデルを提供した。花森と大伴はともにたんに敏腕の編集者であっただけではなく、受け手にも自らの生活世界を「編集」する能力を与えたのだ。
     そもそも、戦前の講談社の『キング』のモデルになったのがアメリカの婦人雑誌『レディース・ホーム・ジャーナル』であったことを思えば[30]、戦後の『暮しの手帖』が講談社の『少年マガジン』の先行者になったのも決して不思議ではない。大衆消費社会の最前線に生きる編集者として、花森と大伴はそれぞれ「女性」と「少年」という宛先を出版メディアの進化の担い手に変えてみせた。してみれば、大伴昌司をオタク化した花森安治と呼んでも、あながち言い過ぎではないだろう。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第六章 オタク・メディア・家族 1 大伴昌司のテクノロジー(2)【毎月配信】

    2018-01-23 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。60年代末に大伴昌司が試みた、対象をヴィジュアル化・カタログ化する手法から、〈情報〉による世界把握の欲望の発生、そして後に全面化するオタク的想像力の萌芽について論じます。
    情報論的世界把握の原型
     このように、内田と大伴は「テレビの擬態」によって、六〇年代後半の『少年マガジン』を領域横断的な「総合雑誌」に変えた。後述するように、七〇年代以降の日本のヴィジュアル化した雑誌はファッション、音楽、アイドル、ポルノグラフィ等に機能分化していくが、『少年マガジン』はその分化の起こる一歩手前で、社会の「全体性」をカタログ化し、若い読者たちを教育しようとした。子供という宛先が強い文化的統合力を獲得したこと――、そこにこそ特撮も含めた戦後サブカルチャーの最大の特性があると言っても過言ではない。 ところで、大伴の強調した「情報」という概念は、世界把握の仕方そのものを変容させるものでもある。すなわち、情報論的な観点から言えば、世界はデータとして細かく分割できるし、また一度データ化してしまえば、そこに相互の関係性(メタデータ)を発見することもできる。有機的なまとまりを分解して断片(データ)の集積に変えた後、その断片どうしの関係から新たな意味を生じさせる――、情報社会ではこのような了解のステップが一般化するだろう(なおエドワード・スノーデンが告発したように、この了解の形式はそのまま大規模な「監視」の技術として展開されている)。 あらゆる対象を詳しくデータ化(解剖!)し、それらを大胆に統合する大伴の手法は、まさに情報論的世界把握の原型を示している。大伴が「オタク」の源流と言われる原因も、この情報の断片へのフェティシズムにある。なぜなら、後のオタクたちも作品の物語やメッセージ以上に、キャラクターの設定やデザインに強いこだわりがあったからだ。 例えば、東浩紀は一九六〇年前後生まれのオタク第一世代に見られる心理として、社会的には無意味なものにあえて耽溺するという「スノビズム」を挙げる一方、オタク系文化の主流が一九九五年頃を境にして、従来のスノビズムから、キャラクターの設定やデザインを集めた「データベース」の消費へと移行したと論じている。東の考えでは、九〇年代のアニメを代表する『エヴァンゲリオン』は「視聴者のだれもが勝手に感情移入し、それぞれ都合のよい物語を読み込むことのできる、物語なしの情報の集合体」として受容されていた[15]。 もっとも、このような現象は九〇年代に突然始まったわけではない。大伴の仕事はすでに六〇年代後半の時点で、スノビズムとデータベース消費の両方にまたがっていた。架空の怪獣の解剖図を真剣にでっちあげた大伴は、無意味なものに価値を与える「オタク的スノッブ」の典型だが、その「設定」へのフェティシズムにおいては、世界のデータベース的(情報論的)な把握を示す。現に、彼の『怪獣図鑑』はウルトラシリーズを「情報の集合体」に読み替えてしまった。現実も虚構も関係なく、あらゆる対象をひとしなみにヴィジュアルな情報として配列した『少年マガジン』の誌面もまた、情報データベースの原型だと言えるだろう。
    「記録の時代」の編集者
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第六章 オタク・メディア・家族 1 大伴昌司のテクノロジー(1)【毎月配信】

    2018-01-16 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。60年代末の少年マガジンで、図解による怪獣文化の「情報化」を試みた編集者・大伴昌司。その多彩な活動を追いながら、小松左京や眉村卓らSF作家たちと特撮の関わりについて論じます。
    第六章 オタク・メディア・家族
     日本の特撮史においては、円谷英二および円谷プロが決定的に重要な位置を占めている。「特撮の神様」と評された円谷に匹敵する名声を得た日本人の特撮作家はいない。このことは、戦時下の政岡憲三や瀬尾光世以来、手塚治虫を経て、高畑勲、宮崎駿、富野由悠季、押井守、庵野秀明といった優れた作り手たちが、戦争を主題化しながら、あたかもお互いを批評しあうようにしてジャンルを成長させてきたアニメとは、ちょうど対照的である。
     ただし、それは円谷の「遺産」が貧困であったことを意味しない。六〇年代の円谷プロは特撮テレビ番組という当時の映像のフロンティアにふさわしく、雑多な才能の集合した「梁山泊」であった。したがって、その関係者の活動範囲も特撮だけに留まらず、しばしば多くの分野にまたがっていた。そのなかでも、ともに一九三六年生まれの編集者・大伴昌司と脚本家・佐々木守は六〇年代後半以降、メディアを横断する幅広い仕事を手掛け、後の「オタク」ないし「新人類」の先駆者となった興味深い存在である。円谷プロの特撮が出版メディアにも刺激を与えながら図らずもオタク文化の下地を作ったことは、ここで改めて強調しておきたい。ウルトラシリーズはたんに日本のテレビ史に残る特撮ドラマであっただけではなく、サブカルチャーのオタク的受容を組織した作品でもあるのだ。
     そして、先駆者とはえてして、フォロワーにおいては失われていくような「過剰さ」を抱え込んだ存在である。私はここまで、生粋のホモ・ファーベルである円谷英二が、戦中と戦後を通じて「非転向」の技術者として活躍したのに対して、その息子世代に当たる上原正三らが特撮という「技術」のなかに、屈折した政治性を導入したと述べてきた。上原とほぼ同年齢の大伴昌司も、少年誌の特集を企画するなかで「情報化」に早くから注目した一方、単純な技術的合理性には収まりきらないものも抱え込んでいたように思える。では、この「息子」の世代から「父」の円谷英二とも「孫」のオタク第一世代とも異なる、いわばオルタナティヴなオタク像を引き出すことは可能だろうか?本章では大伴と佐々木を出版メディア史のなかに位置づけながら、この問いを掘り下げてみよう。
    1 大伴昌司のテクノロジー
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 2 敵を生成するサブカルチャー(2)【毎月配信】

    2017-12-19 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。無邪気なアナクロニズムの結晶『宇宙戦艦ヤマト』や「敵」の姿を克明に描いた『機動戦士ガンダム』など、戦争映画と特撮の後継者としての日本の戦後アニメーションに宿った身体性について語ります。
    アニメにおける敗戦の否認
     その一方で、サブカルチャーの歴史を広く見ると、ちょうど『ウルトラマンレオ』放映中の一九七四年を大きな転換点として、特撮からアニメへと「戦争の物語」の中心が移ったことが分かる。この年には一九三四年生まれの西崎義展がプロデューサーを、金城哲夫や石ノ森章太郎と同じ一九三八年生まれの松本零士が監督を務めた『宇宙戦艦ヤマト』がテレビ放映され、その後の日本アニメの礎を築く画期的なブームを巻き起こした。
     この軍事的なアニメ作品では、日本人の集団心理的な屈辱が栄光に変えられる。放射能汚染された地球を救うために、若い主人公の軍人たちは宇宙戦艦として蘇った戦艦ヤマトに乗り込んで「敵」であるガミラス人と宇宙海戦を繰り広げながら、慈母のような女性の住むイスカンダル星へと放射能除去装置(コスモクリーナー)を受け取りに赴く――、ここには敗戦国日本のトラウマを女性(母)からの承認によって解消しようとする動機がうかがえるだろう。日本の惨めな敗戦を象徴する二つの悲劇(原爆投下による放射能汚染と大艦巨砲主義の挫折)は、このSF的なファンタジーのなかで反転し、むしろ日本人に国際的な栄冠を授けるきっかけとなる。黒光りする巨大な男根のような宇宙戦艦は、まさに敗戦を「否認」しようとする露骨な欲望の結晶体であった。
     私は第二章でウルトラマンと怪獣の闘いは「子供から見た戦争」だと記したが、それは西崎や松本らの生み出した『ヤマト』にも当てはまる。そもそも、太平洋戦争で沈んだ巨艦によって宇宙を旅行するとは、あまりにも荒唐無稽で子供じみたアイディアである。それに「大人」の戦争の世界では、大袈裟な巨砲を備えた戦艦そのものがすでに過去のものであった。例えば、成田亨は円谷プロ製作の特撮テレビドラマ『マイティジャック』(一九六八年)の主役たちが乗り込むM・J号を重巡洋艦「愛宕」を参考にしてデザインしたが、その設計思想について後にこう語っていた。
    万能戦艦M・J号のデザインは、当時の世界の海軍の動きに合わせて描きました。まず、レーダーが発達して今までの高い櫓の司令塔が不要になり、ミサイルの発達によって巨砲が不要になり、つまり、戦艦不要の時代に入っていました。空母主体の機動部隊に巡洋艦が旗艦でついているという時代でした。この巡洋艦の形態に空母的性格も加え、自ら飛ぶというので、こんな形をデザインしました。[25]
     成田は巡洋艦の形態をアレンジしながら、世界の軍事的先端に合わせたデザインを目指した。にもかかわらず、日本のサブカルチャー史の画期となったのが『マイティジャック』ではなく、成田の言う「戦艦不要の時代」に完全に逆行した『宇宙戦艦ヤマト』であったのは、きわめて皮肉なことである。このアナクロニズムの勝利はまさに大人に対する子供の勝利であり、特撮に対するアニメの勝利でもあった。
     もっとも、後続のアニメ作家は『ヤマト』のデザインには必ずしも満足しなかった。例えば、一九七九年に『機動戦士ガンダム』を世に送り出すことになる一九四一年生まれの富野由悠季は『宇宙戦艦ヤマト』第四話のコンテを担当した際に、強い違和感を覚えたことを述懐している。「西崎さんの世代の持っているメカニック感みたいなものが陳腐過ぎて、僕にはとてもじゃないけれど許容出来なかったんですが、それでコンテをストーリーごと全部描き直しちゃったんです」[26]。富野にとって、西崎ら先行世代のもつメカニックの感覚は耐え難いものであり、実際『ガンダム』の兵器のデザインは『ヤマト』に比べて格段に充実している。だとしても、『ヤマト』の無防備なアナクロニズムと子供じみた欲望が、戦後のアニメのなかに架空の「戦争」を強力なテーマとして招き入れたことは間違いない。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 2 敵を生成するサブカルチャー(1)【毎月配信】

    2017-12-05 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。日本の戦争映画が描いてこなかった「敵」は、特撮という技術を経て「怪獣」という姿で「発見」されることになりました。その後の怪獣の描かれ方を通じて、ウルトラシリーズにおけるイデオロギーの混乱と屈折、そしてその継承者としての庵野秀明に光を当てます。
    2 敵を生成するサブカルチャー
    戦争映画から怪獣映画へ
     アメリカのプロパガンダ映画と比較すれば、日本映画は明らかに敵の映像的理解という仕事を軽視していた。それどころか、日本の戦争表象はときに人間としての敵とのコミュニケーションの代わりに、人間不在の環境を際立たせるという奇妙な傾向すら示してきた。この「敵の非人間化」という欲望が戦時下の亀井文夫、円谷英二、藤田嗣治から戦後の押井守まで広範に見られることは、ここまで述べた通りである。
     振り返ってみれば、敗戦後に多くの傑作を生み出した日本映画のなかで、戦争映画の存在感は大きいものではなかった。名だたる巨匠たちも実写の戦争映画からは距離を置いた。戦中に兵役を逃れた黒澤明が、戦後は一連の時代劇映画によって「世界のクロサワ」となった一方で、二〇世紀の戦争を主要なテーマとしなかったのは、その最も象徴的な事例である(彼は一九六〇年代末に、真珠湾攻撃を題材とした日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』に日本側の監督として参加したが、結局降板した)。あるいは、中国戦線に兵士として従軍した小津安二郎にしても、戦後はミニマルな家族映画のなかに戦争の記憶を暗示的なサインとして忍び込ませるに留めた[19]。
     逆に、D・W・グリフィス監督以来のアメリカ映画の巨匠たちは戦争映画と切り離せない。フォードやキャプラのプロパガンダを見れば、映画そのものが軍事力であったことは一目瞭然である。「戦争は政治の延長」というクラウゼヴィッツの有名なテーゼをもじって言えば「映画は戦争の延長」なのだ。戦後においても、キューブリック『フルメタル・ジャケット』、コッポラ『地獄の黙示録』、スピルバーグ『プライベート・ライアン』、イーストウッド『父親たちの星条旗』及び『硫黄島からの手紙』等から、ごく最近ではクリストファー・ノーラン『ダンケルク』――ノルマンディーへの凄惨な「上陸」作戦から始まる『プライベート・ライアン』の構図を反転させ、ダンケルクからのイギリス軍の撤退という「離岸」をテーマとする――に到るまで、アメリカの巨匠は二〇世紀の戦争を再現し続けてきた。それは戦後日本の戦記映画の作家性が総じて希薄であることと好対照をなしている。
     とはいえ、言うまでもなく、日本の映像文化全体が戦争に無関心であったわけではない。結論から言えば、戦後日本においては、アメリカであれば実写の戦争映画として描かれるようなテーマが、むしろ特撮やアニメのようなサブカルチャーにおいて開花したように思える。敗戦国である日本は作品世界の虚構化という手続きを経て、ようやく戦争というテーマを自由に展開することができた。例えば、文芸批評家の加藤典洋は『ゴジラ』を戦争映画の変種として捉えている。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 1 敵のいない戦争映画(2)【毎月配信】

    2017-11-21 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。日本の戦後サブカルチャーと「戦争」について論じた前回に続いて、今回は「敵」が消滅した日本の戦記映画の特徴を、アメリカのそれと比較しながら語ります。
    敵を抹消する技術
     戦後になっても、国策映画におけるホモソーシャルな友情は、政治的に無害な美学として受け入れられた。山本や円谷とともに出席した一九六八年の座談会で、森岩雄が『加藤隼戦闘隊』について「よくできていますね。米英がどうなんて言葉は一つもないし、加藤隼戦闘隊長と隊員との間の人間的つながり、戦争に対する人間的なつながりというものを描いていますね」と評したのは、製作者自身の牧歌的な意識をよく示すものである[9]。この見方そのものは正しいとはいえ、それは「戦争映画」としてはひどく奇妙なものだと言わねばならない。『加藤隼戦闘隊』は確かに円谷の特撮を介して男たちの「人間的つながり」を強調していたが、それは敵の抹消と表裏一体なのだ。コミュニケーションの範囲は「友」に限定され、「敵」には及ばない。
     このような傾向は、円谷が特技監督を務めた戦後の東宝の「戦記映画」でも変わらなかった。一九五〇年代から六〇年代にかけて製作された『太平洋の鷲』、『さらばラバウル』、『太平洋の嵐』、『太平洋奇跡の作戦 キスカ』等では、いずれも男どうしの絆が強調されている。なかでも松林宗恵監督の『太平洋の嵐』(一九六〇年)は円谷の特撮によって真珠湾攻撃を再現しつつ、ミッドウェー海戦で戦死した日本の軍人たちに、海底に沈む生霊のような姿を与えた。それは一種の「鎮魂」の映画ではあるが、日本が何のために戦争をしたのかは語られず、アメリカという敵の論理にも関心が払われない。
     考えてみれば、これらの「太平洋」を冠した一群の戦記映画のタイトルは、一九四五年十二月に「大東亜戦争」の使用を禁止し「太平洋戦争」という新しい呼称に置き換えたGHQの占領政策にきわめて忠実である(江藤淳によれば、この名称の変更は「戦争に託されていた一切の意味と価値観」の変造を伴っていた[10])。ゴジラやモスラから『ウルトラマン』のゴモラに到る特撮の怪獣たちも「大陸」ではなく「太平洋」に出自をもつが、これも占領下の概念操作と無関係ではない。しかも、『太平洋の鷲』や『さらばラバウル』の空戦場面は、米極東空軍司令部から戦時の映像を借りて作られていた。戦後の日本映画は、勝者のアメリカから与えられた戦争名と地域と映像によって、自分たちの戦争を総括せざるを得なかった。
     大島渚は「敗者は映像を持たない」という七〇年代前半の刺激的なエッセイのなかで「私たちの映像の歴史は、どんな映像が存在したかということより、どんな映像が存在しなかったかということの歴史なのである」と鋭く指摘している[11]。このような「映像の不在」への注目は、日本の特撮映画について考えるときにも必須だろう。『ハワイ・マレー沖海戦』以来のスペクタクル的な特撮の背後には、敵の現実を映像化することへの徹底した無関心が潜んでいた。円谷の技術は軍艦や戦闘機を魅力たっぷりに再現することによって、かえって人間としての敵を抹消してしまったように見える。
     さらに、戦後の戦記映画になると、実写(現実)と特撮(虚構)のバランスが崩れていくことも見逃せない。円谷自身が不満を漏らしているように、『ハワイ・マレー沖海戦』では飛行機や航空母艦の実写撮影を使用できたのに対して、戦後の東宝の『太平洋の鷲』や『太平洋の嵐』になると、本物の兵器ではなくセットが主になり、かつ予算やスケジュールにも制約があったため、演出上の「チグハグな面」が露呈してしまった[12]。押井守が戦争の虚構性を訴えるまでもなく、そもそも特撮戦記映画というジャンルそのものに、トリック映像の不自然さを隠し損ねた面があったわけだ。逆に、乾いたスピーディな演出を得意とした岡本喜八監督が、東宝の『激動の昭和史 沖縄決戦』(一九七一年)のような戦記映画で独自の作家性を確立し得たのは、チグハグになりかねない戦闘場面をリズムやテンポの力で巧みに処理したからではないか。
    戦争画と戦争映画
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 1 敵のいない戦争映画(1)【毎月配信】

    2017-11-08 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。ウルトラシリーズからはじまり、特撮と映画について語ってきた本連載。今回からはアニメーションに議論を広げながら、戦後サブカルチャーにとっての「戦争」を論じます。
    第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か
     私はここまで、ウルトラシリーズを近代とポストモダンの端境期に位置づける一方(第一章)、地理的想像力(第二章)、技術志向(第三章)、虚構的ドキュメンタリー(第四章)という三つの切り口から、日本の特撮の文化史的座標を測定してきた。そのなかで戦前・戦中の映画にも何度も言及してきたが、それは昭和の特撮文化が戦争と切り離せないためである。  円谷英二とその息子たちは、戦争の記憶とイメージを子供向けの「商品」に変換して、戦後日本社会に継承したと言えるだろう――ちょうど円谷が川上景司とともに冒頭の空襲パートを担当した松竹の大庭秀雄監督のメロドラマ『君の名は』(一九五三年)において、戦時下の男女の約束が「忘れ得ぬもの」として戦後に持ち越されたように。しかも、この種の商品化された仮想の戦争は、ウルトラシリーズから『宇宙戦艦ヤマト』、富野由悠季、宮崎駿、押井守、庵野秀明らのアニメに到るまで、戦後サブカルチャーの映像表現の中核にある。「戦争をどう描き、どう商品化するか」という課題は、特撮やアニメという娯楽産業にとって大きな試金石となった。日本のオタク文化の母胎もこの軍事テクノロジーの娯楽化にあったのは明らかである。  惨めな敗戦国であるにもかかわらず、あるいは敗戦国のコンプレックスゆえにこそ、戦後のサブカルチャーは膨大なエネルギーをつぎ込んで、軍事的なイメージを増殖させてきた。戦時下のプロパガンダ映画から戦後の怪獣映画やウルトラシリーズまでが一直線に繋がっていく円谷の特撮は、まさにその原型である。そして、この軍事的な想像力によって、もともと子供向けの商品であるはずの特撮やアニメにはしばしば政治性やイデオロギー性が吹き込まれてきた(その影響は海外にも及ぶ――私が直接見た範囲だけで言っても、近年香港で民主化運動に参加している若者の一部は『機動戦士ガンダム』や『進撃の巨人』をモデルにして自らの行動を了解していた)。日本人はもはや違和感を覚えることもないだろうが、これは本来かなり異常な光景である。  ウルトラシリーズを含めて日本のサブカルチャーは、戦後の平和のなかで好戦的かつ暴力的な想像力を解き放ってきた。この「異常さ」について考えるには、サブカルチャーにとって戦争とは何かという厄介な問いに向き合わねばならない。その場合、特撮とアニメという「兄弟」を分離せず、同じ土俵で扱うことも必要になってくるだろう。本章では特撮とアニメ、映画とテレビドラマを横断しながら(1)円谷らの手掛けた戦時下の国策映画の戦争表象について論じた後(2)戦後サブカルチャーがその戦争表象に何を付け加え、いかなる政治性をまとったのかを考えていく。それはたんに虚構作品の分析に留まらず、二〇世紀の日本人にとって戦争とは何であったかを考える一助になるはずだ。
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