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  • 第十一章 主体――読み取りのシステム|福嶋亮大(後編)

    2024-03-19 07:00  
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    6、教師あり学習――ゲーテのビルドゥングスロマン
    もっとも、セルバンテス以降もピカレスクロマンの影響力は持続し、一八世紀のヨーロッパではときに女性のピカロも登場した。デフォーの『モル・フランダース』にせよ、サドの『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』にせよ、その主人公はいわば不良の女性である。特に、悪の快楽に染まったジュリエットは、美徳を象徴する妹ジュスティーヌとは対照的に、ヨーロッパの各地を旅して破壊の限りを尽くす。ジュリエット一行が道中で目の当たりにしたイタリアの火山は、まさにその放埓なエネルギーの象徴であった。
    その反面、ピカレスクロマンの主人公には成長や発展の契機は乏しかった。一人称の視点を備えたピカロは、さまざまな社会環境を遍歴するが、それはしばしば単調でパノラマ的な反復に陥った。場面が劇的に変化しても、主人公はそこをサーフィンするだけで内面的な成長にはつながらない――それはピカレスクロマンだけではなく、クルーソーやガリヴァーのような一八世紀型の主人公全般に当てはまる傾向である。
    この限界を超えるようにして、一八世紀後半以降になるとドイツ語でビルドゥングスロマン(Bildungsroman/「教養小説」や「成長小説」と訳される)と総称されるジャンルが、精神的な「発展」のテーマを浮上させた。人間の隠れたポテンシャルを探り当て、生物のように成長させて自律的な存在に到らせること――それがビルドゥングスロマンの企てである。その中心地のドイツでは、一七世紀のグリンメルスハウゼンの『阿呆物語』をはじめ、一八世紀後半にヴィーラントの『アガトン物語』やノヴァーリスの『青い花』が現れた。なかでも、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(一七九六年)は、ビルドゥングスロマンの標準的形態として評価されてきた。
    ジャンル論的な観点から言えば、ゲーテが『ヴィルヘルム・マイスター』以前に、書簡体小説からの離脱を促したことが重要である。彼の初期のベストセラー『若きウェルテルの悩み』(一七七四年)は、形式的には書簡体小説であるものの、その内容は激情型のウェルテルの一方的な語りによって占拠されており、書簡相手とのコミュニケーションを欠く。ウェルテルは他者の書簡を読む代わりに、たとえ話をたびたび用いて、自らの語りの意味を重層化することを試みる。つまり、彼の手紙はあくまで自己内対話の記録なのである。
    ゆえに『ウェルテル』は「書簡体構造の崩壊」を鮮明にする一人称の告白小説に近づく[25]。書簡体小説の時代の終わりを、これほどはっきり示した作品は他にない。加えて、ウェルテルはピカレスクロマンを導く下層のアウトサイダーでもなかった――ルカーチが言うように、ウェルテルはむしろ「高貴な情熱」を純粋化した挙句に、社会の法体系と矛盾してしまうのだから[26]。要するに、ゲーテはウェルテルに、それまでの文学形式には収容しきれない人間像を託したと言えるだろう。
    この『ウェルテル』の実験の二〇年後に現れたのが、大作『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』であり、そこで後にビルドゥングスロマンと称される文学形式が開示された。ウェルテルが自己破壊的な情動に囚われたのと違って、ヴィルヘルムはむしろ世界に沿って記憶や経験を組織的に蓄積し、それを自己形成のプログラムとして利用する。コンピュータ・アルゴリズムの比喩を使えば、ビルドゥングスロマンとは「教師あり学習」(supervised learning)のプロセスを再現した文学として理解できる。ヴィルヘルムはまさに世界=教師から学習し、精神を段階的に建設してゆく「教養(ビルドゥング)」の企てに自らを差し向けた。
    もとより、教養とはまばらな知識の集まりではなく、自律性の獲得に向けた組織的で終わりのない知的運動を指す。バフチンによれば、ゲーテにとって、この教養的な人間形成のモデルになったのが、自然環境に含まれる「有機的」な「歴史的時間」であった。「空間のなかに時間を見るゲーテの驚くべき能力」は、生き生きとしたリズムで脈動する自然を捉える[27]。ゲーテ的な人間は、この自然のダイナミックな時間と共鳴するようにして、自らのうちなる生成力を発見する。教養とは死んだ知識の収蔵ではなく、世界に内在する生成力の発見に等しい。
    主人公の自律性の獲得を描くビルドゥングスロマンは、ふつうに見れば「一」の文学である。しかし、主体が世界=教師とペアリングされて成長するという意味では、そこには潜在的な「二」の文学の要素がある。バフチンが言うように、ゲーテはこのペアリングを「見ること」つまり鋭敏な視覚の力によって可能にした。
    7、教養の廃墟からの成長――ブロンテの『嵐が丘』
    それにしても、なぜドイツでビルドゥングスロマンが発達したのか。そこにはドイツ特有の政治状況がある。フランスと違ってドイツには革命がなく、しかも多くの領邦国家が分立していた。ゆえに、ドイツの統合に向けては、精神的な次元での「文化国家」のアイデンティティに訴えるしかなかった。そのとき、未成熟な状態からの成長を描くビルドゥングスロマンは、一つの成熟した精神的=文化的共同体に向かうための格好の道標になった[28]。
    このような政治的動機を潜ませたドイツの文芸を中心にするとき、ビルドゥングスロマンはきわめて男性的なジャンルとして現れてくる。ただ、この見方がジェンダー的な偏向を含むのは明らかだろう。
    そもそも、小説的主体の歴史が男性に還元されないことは、スペインの『セレスティーナ』をはじめ、デフォーやサドらの描いた女性のピカレスクロマンからも分かる。彼女らは社会的規範を出し抜く戦略家であり、モル・フランダースのように、大西洋を渡ることも辞さない旺盛な活動力を備えていた。その一方、リチャードソンやルソーの書簡体小説も、女性の心理という豊饒な鉱脈の発見なしにはあり得なかった(この両者が幼少期から女性との接触の機会が多かったことは興味深い)。近代小説の原史において、女性の関与が不可欠であったことは、改めて思い出されるべきである。
    ビルドゥングスロマンの進化についても、すでにゲーテ以前に女性作家が関わっていた。女性作家による女性を主人公とするビルドゥングスロマンの先例としては、フランスのラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』(一六七八年)やイギリスのイライザ・ヘイウッドの『ベッツイ・ソートレス嬢の物語』(一七五一年)等が挙げられる。その後、アメリカではルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』(一八六八年)からマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』(一九三六年)まで、広義のビルドゥングスロマンに数え入れられる小説が、商業的にも大きな成功を収めた。
    ただ、私はここであえて、女性作家の書いた変則的なビルドゥングスロマンを、特異な事例として導入しておきたい。それはエミリ・ブロンテの『嵐が丘』(一八四七年)である。
    周知のように、この小説はもはやふつうの意味でのビルドゥングスロマンの可能性が崩壊した、荒涼とした丘陵と渓谷を舞台にしている。孤児ヒースクリフの形象はアイルランド大飢饉の惨禍に通じるが(第五章参照)、この亡霊的なヒースクリフ自身も、同じ魂をもつ死んだ恋人キャサリン・アーンショウの亡霊に憑かれる。ヒースクリフの狂気は、望まない結婚を経て死に到った不幸な女性の狂気と重なりあう。その意味で、『嵐が丘』とは「二」の小説、つまりきわめて荒々しく凶暴な男性が、実は女性にハイジャックされているという両性具有的な作品である。
    そして、この二乗された亡霊は暴風のように吹き荒れ、人間どうしの絆を断ち切り、幼い家族を虐待し、ついにヒースクリフ自身の破滅へと到る。彼の前代未聞の過剰なドメスティック・ヴァイオレンスは、ゴシック小説の伝統に即しつつも、それをはるかに超えるような不可解な印象を与える。語り手の家政婦ネリー・ディーンは、本名も年齢も不詳のヒースクリフについて「いったいあの人は、どこから来たのだろう?」と夢うつつでつぶやく[29]。ヒースクリフにはいかなる社会的属性もない。彼は、社会に場をもたない異邦人であり、彼の住まう「嵐が丘」はいわば亡霊たちのアセンブリ(集会)の場なのである。
    キャサリンの亡霊と一人対話するヒースクリフの表情は「極端な楽しみと苦痛」にさいなまれ、苦しみのなかで恍惚としている[30]。このぞっとするような光景には、いかなる出口もない。内面的な成長の可能性をもたないヒースクリフは、ビルドゥングスロマンの枠組みから完全に外れた存在である。
    煽情的なゴシック小説の流行を嫌った一九世紀初頭のワーズワースは、湖水地方のなめらかな自然の運動を教師としながら、自らの詩(特に『序曲』)に一種のビルドゥングスロマンの性格を与えた。The Tables Turned(形勢逆転)という詩では、書物を捨てて、光を浴びて鳥のさえずりを聴き、自然を先生にせよというまっすぐなメッセージが発せられる[31]。ワーズワースにとって、自然は書物を超えた書物、学校を超えた学校であった。しかし、その半世紀後の『嵐が丘』になると、自然=教師はその暴力的な顔をむき出しにする。ヒースクリフ(ヒースの茂る荒野の崖)という名前そのものが、破局的な自然の記号にほかならない。
    しかし、ここで注目に値するのは、ヒースクリフの異様な暴力と謀略の支配のなかでも、自らの精神的な独立をめざした女性がいたことである。それが亡きキャサリンの娘キャシーである。一八歳のキャシーは二三歳のヘアトン(キャサリンの甥だが、同居するヒースクリフに虐待されてまともな教育を受けられず、すっかり退嬰的な気分に沈み込んでいる)を抱き込み、「嵐が丘」という屋敷――ゴシック小説を特徴づける不気味な「城」の等価物――でのサバイバルを企てる。その際、キャシーとヘアトンを結びつけるのは、ヒースクリフの忌み嫌った書物である。

    「本があったときには、いつでも読んでいたわ」とキャシーは言いました。「でも、ヒースクリフさんは本を読まないの。だから、あたしの本も捨てちゃうような真似をするのよ。〔…〕それにねヘアトン、あたし、あなたの部屋に隠してある本を偶然見つけたのよ……ラテン語やギリシャ語の本に、物語や詩の本。みんな、あたしの昔の友達だったわ〔…〕」。[32]

    キャシーはヘアトンに本をプレゼントし、二人で仲良く読書する。この自己教育によって、二人の敵対性は消滅し、親密な同盟関係が設立され、ヒースクリフの暴力の防波堤となる。ここで重要なのは、二人がともにキャサリンの亡霊を背負っていたことである。ネリーの報告によれば「二人の目はほんとうにそっくりでございますよ。亡くなったキャサリン・アーンショウの目なのです」[33]。キャサリンの亡霊はヒースクリフに苦痛に満ちた恍惚を味わわせる一方、若いカップルには連帯の可能性を与えた。ヒースクリフを過去に閉じ込める亡霊は、キャシーとヘアトンにとっては、むしろ唯一の活路として現れる。ブロンテがここに世代的な差異を導入したことは明らかだろう[34]。
    こうして、キャシーは「嵐が丘」という恐るべき紛争地帯において、読む行為をヘアトンに感染させながら、自己を戦略的に立て直そうとする。ビルドゥングスロマンを粉砕するほどの過剰な暴力の吹き荒れる閉域で、いかなる成長の物語を描くか――ブロンテはこの難題に「読む主体」の複数化によって応じたのだ。
     
  • 第十一章 主体――読み取りのシステム|福嶋亮大(前編)

    2024-03-14 07:00  
    550pt

    1、一か二か
    ルソーが自伝文学『告白』の冒頭で「わたしひとり。わたしは自分の心を感じている。そして人々を知っている。わたしは自分の見た人々の誰とも同じようには作られていない」と大胆不敵に宣言したことを典型として、近代ヨーロッパの文学は唯一無二の創造物である「私」の探究に駆り立てられてきたように思える。故郷喪失に続く冒険を小説の基本的なテーマと見なしたジェルジ・ルカーチも、結局は「一」なる主体をその核に据えていた。
    柄谷行人が指摘したように、近代小説の根幹には「内面の発見」がある[1]。これは、他者や環境から区切られた内面が、小説の探究すべき対象になったことを意味する。ルソーの『告白』は、まさに「私」を他に依存しないスタンドアローンな存在に仕立てあげた一種の独立宣言である。
    古代文学と比較すると、ルソーの宣言の意義はいっそうはっきりするだろう。例えば、古代のホメロスの叙事詩では、英雄たちの心は閉じた自我のなかに格納されず、環境の作用を強く受けていた。ホメロス的人間とは「周囲のあらゆる力の影響から人間を隔絶する境界をもたない、いわば「開かれた力の場」」なのだ[2]。逆に、カメラ・オブスクラのモデルに近似する近代小説のリアリズムは、自我の感覚の部屋(=カメラ)を、この種のボーダーレスな「力の場」から切り離した。それによって、小説は唯一無二の「私」の自己認識を深める装置として進化してきた。
    ルカーチも柄谷も、「一」なる主体を近代小説の主人公の標準的形態として捉えたことに変わりはない。しかし、このモデルには修正の余地がある。というのも、小説的な主体性は実は純粋な「一」ではなく、早期から「二」への傾きを備えていたからである。
    その具体例には事欠かない。『ドン・キホーテ』(ドン・キホーテ/サンチョ・パンサ)、『ペルシア人の手紙』(ユズベク/リカ)、『新エロイーズ』(ジュリ/サン゠プルー)、『ラモーの甥』(ラモー/哲学者)、『ロビンソン・クルーソー』(クルーソー/フライデー)、『闇の奥』(クルツ/マーロウ)、『ロリータ』(ハンバート/ロー)、日本文学で言えば夏目漱石の『こころ』(先生/K)、大江健三郎の『万延元年のフットボール』(蜜三郎/鷹四)、村上春樹の『風の歌を聴け』(僕/鼠)等では、単一の主体ではなくカップルが中心化される。さらに、ルソーの『ルソー、ジャン゠ジャックを裁く』、ドストエフスキーの『分身』、E・A・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」、E・T・A・ホフマンの『砂男』、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』をはじめ、自己を二重化する分身(ドッペルゲンガー)のテーマも、特にロマン主義以降に何度も反復されてきた。
    だとすれば、小説の主体性を「一」に還元するのは妥当ではない。小説はいわば「二」のウイルスに感染しており、それが折に触れて症状として顕在化するのだ。この「一」と「二」のあいだの振幅は、小説そのものの特性と切り離せない。なぜなら、小説における「私」は他者との接触なしにはあり得ないからである。「小説は演劇ではないのだから、すべての人物を厳密にいって同時に、読者に《見せる》わけにはいかない。小説においては、人物は相互に他の人物を通してみられるのである」(ジャン・プイヨン)[3]。小説の自我(ego)は他我(alter ego)の介入を必要とする。そこに、「一」なる主体が潜在的に「二」への分裂を含む要因がある。
    ミハイル・バフチンは、小説における他者の介入に「対話的」という形容を与えた。バフチンの理論では、小説は複数の声の遭遇や衝突の場として了解される。ただ、私は「二」を「対話的」というより「読解的」な問題として考えたい。結論から言えば、近代小説は他者や世界を読むことの発明と不可分だからである。以下では「一」と「二」のあいだをさまよう主体の歴史を整理しながら、小説的主体を《読み取りのシステム》として把握することを試みる。まずは「二」の問題から始めよう。
    2、書簡体小説の啓蒙的機能――近況報告あるいは権力のホログラム
    一八世紀ヨーロッパを代表する小説が書簡体で書かれたことは、コミュニケーション(自我と他我のカップリング)が近代小説の基盤にあることを示唆する。もともと書簡文学の伝統は、医師ヒポクラテスの名を冠した古代の架空の書簡集(ヒポクラテス・ロマン)や中世の『アベラールとエロイーズ』等にまで遡れるが、一八世紀になるとそれは啓蒙思想の有力な手段として再創造された。
    書簡体小説の金字塔と呼ぶべきモンテスキューの『ペルシア人の手紙』は、ヨーロッパとアジアのあいだの異文化コミュニケーションを主題としながら、開明的な貴族ユズベクと若く生気に満ちたリカという二人のペルシア人を対比的に登場させた(第三章参照)。モンテスキューはここでペルシアとフランス、年長者と若者という二組のカップルを交差させたが、それを手紙というテレコミュニケーション・メディアで実行したところに彼の創意工夫がある。
    モンテスキューの創作した手紙は、カップルを結びつける一方、その両者の差異や異質性も浮き彫りにする。モンテスキューは異邦人の仮面をかぶり、フランス社会に対してわざと無知のふりをすることによって、その体制に加担せず、悪しき因習を暴露した。バフチンによれば、この「変わり者」の人物像の「分からない」という態度こそが、モンテスキューの発明であった[4]。小説とは分からないこと、不可解であること、愚かであること、変わり者であることを積極的に利用して、社会の自明性を懐疑するジャンルである。『ペルシア人の手紙』の大量の通信は、まさに変わり者=異邦人の態度に根ざしながら、見慣れた社会を見慣れないものに変えた。
    さらに、モンテスキューの書簡体の採用には、明確な方法論的な企図があった。彼自身、書簡体小説の利点を具体的に説明している。

    そもそも、この種の小説は、たいてい成功を収めるものだ。なぜなら、人物がみずから近況を報告するからである。このやり方は、人が語ることのできるどんな物語よりも、きちんと情念を伝えてくれる。〔…〕書簡集の形式では、役者たちは決まっておらず、扱われる主題は前もってあたためられたどんな意図や計画にも左右されないため、一つの小説に哲学や政治や道徳を盛り込み、全体を秘密の鎖で、ある意味では未知の鎖で束ねるという特権を著者は手に入れたのだ。(「『ペルシア人の手紙』に関するいくつかの考察」)

    現代のEメールやインスタントメッセージでも、そのやりとりはほぼ「近況報告」によって占められている。この種の報告では、語りの首尾一貫性や事前の入念の計画性よりも、相手にそのつど情報や感情を伝える即興性が優位に立つ。モンテスキューは架空のペルシア人たちがパリの異文化に出会ったときの新鮮な驚きを擬態し、脱線もおおらかに許容しながら、哲学や政治の話題にフレッシュな生命を与える。思想をその誕生の瞬間に差し戻すこと――それが書簡体小説の効果である。
    その一方、モンテスキューは書簡が届くまでの「時差」も巧妙に利用していた。フランスとペルシアの遠さゆえに、ユズベクが故郷に手紙で発する命令は遅延し、有効に機能しない。そのため、彼は絶対的な権力者であるにもかかわらず、ペルシアのハーレムで起こった女たちの叛乱を制御できない。この無力さは、彼が手紙の通信のなかでのみ立ち現れる、いわばホログラム的なヴァーチャル・リアリティ(VR)であることに起因する。
    そもそも、パリでアイドルとなった若いリカとは違って、年長のユズベクは消費社会の見かけ(仮象)に騙されないように警戒している。つまり、ユズベクにはオーセンティックなもの(本物)への意識がある。しかし、手紙で語られる自己とは、むしろ記号的な「見かけ」しかないホログラムに似た存在ではなかったか。手紙は他者を操作し、望ましい状況を作り出そうとするが、その戦略はたやすく誤解されたり改竄されたりする。いかなる強大な専制君主であっても、見かけだけの《手紙内存在》として現れるときには、そのリスクを回避できない。ここには本質的な脆弱性がある。
    要するに、手紙は権力の増減、権力のキャンセル、権力のねじ曲げの発生する戦場であり、書簡体小説とは権力を乱高下させるゲームなのである。テリー・イーグルトンはそれをうまく説明している。

    手紙は、主体の秘密をあかすもっとも生々しい記号であるがゆえに、干渉を受け、捏造され、奪われ、失われ、書き写され、引用され、検閲され、パロディにされ、曲解され、書きなおされ、からかい半分の注釈にさらされ、別のテクストに織り込まれることによって意味の変質をこうむり、書き手が予想だにしなかった目的のために使われる。[5]

    現代でも、流出したメールは週刊誌的なゴシップの格好のネタになる。手紙は人間の隠された秘密を生々しく語る一方で、他者によってたやすく曲解されパロディにされ、権力者の威厳を失墜させる。一言で言えば、手紙とは神経過敏なメディアであり、限りなく「私」に近いのに、同時に「他者」の干渉にさらされている。
    このような手紙の特性を踏まえると、モンテスキューが書簡体小説を啓蒙のプロジェクトに利用したのも、当然と言えば当然のことに思える。改めてポイントを二つにまとめよう。
    第一に、手紙はよそもの(他者)の目から見た即興的でタブーのない近況報告によって、フレッシュな社会批評となる。比較人類学的な思想書『法の精神』の著者らしく、モンテスキューは『ペルシア人の手紙』でも法や文化の相対性を読者に強く意識させる[6]。ヨーロッパからペルシアを観察し、ペルシアからヨーロッパを観察する『ペルシア人の手紙』は、他者に自己を映し出すプロジェクトの記録にほかならない。しかも、このプロジェクトを支える手紙は、しばしば接続不良に見舞われ、混乱を助長するのだ。
    第二に、手紙はその送信者を脆弱なホログラムに変える。権力者ですら、その例外ではない。書簡体小説では、他者がいなければ自己もない。つまり、送信者も受信者も、他者の地平のなかに、自己を出現させなければならない。相手からの返信によって、自己がどんな人間かがはじめて了解される。だからこそ、発信者は受信者の思想を占拠し、望ましい自己をそこに出現させようとする。他者を支配することと他者に支配されることが、次第に見分けがたくなること――そこに書簡体小説の特性がある。
     
  • 勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(前編)

    2024-03-08 07:00  
    550pt

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。勇者シリーズ初期3部作「谷田部勇者」にみられる、少年とロボットの対等な関係性を再び持ち出した『勇者警察ジェイデッカー』。一方で前シリーズまでは深く掘り下げ切れていなかった「超AI」の設定は、本作において勇者シリーズにどのような解釈をもたらしたのか──?
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」
    反動としての『勇者警察ジェイデッカー』
    「高松勇者」の一作目となった『勇者特急マイトガイン』は、「谷田部勇者」が確立した少年とロボットの関係性を大幅に再解釈し、少年のナルシシズムを強化した。結果としてマイトガインはむしろ搭乗型ロボットの美学へと傾くことになった。
    こうした美学の変化に、制作側はおそらく自覚的であったと思われる。なぜならそれに続く『勇者特急ジェイデッカー』は、少年とロボットの関係に明確に立ち返っているからだ。

    ▲『勇者警察ジェイデッカー』ポスター。勇太少年の手にした警察手帳が、後ろの勇者ロボたちとの関係を象徴している。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p117
    『勇者警察ジェイデッカー』(1994年)は、そのタイトル通り警察がモチーフとなっている。増加する凶悪犯罪に対し、警視庁が超AIを搭載したロボット刑事を開発。そのロボット刑事が「勇者」としてさまざまな犯罪者に立ち向かっていく――というのが大まかな設定である。
    我々はここで、『勇者エクスカイザー』が宇宙警察であり、『太陽の勇者ファイバード』もまた宇宙警備隊であったことを思い起こすことができる。警察という組織に立ち返ったのは、やはり原点回帰的なニュアンスを感じるところである。
    エクスカイザーやファイバードが警察あるいは警備隊そのものを必ずしもモチーフにしなかった一方で、ジェイデッカーにおけるこのモチーフは単なる回帰に留まらず、より具体的に展開される。『勇者特急マイトガイン』が無国籍映画をモチーフにしていたのと同様、本作は(昭和の)刑事ドラマのパロディとしての側面を持ち合わせている。オープニングテーマに合わせられた映像は、キャラクターの活躍の姿に肩書と名前を大きなフォントで出すことで登場人物の紹介を兼ねたものになっている。これは昭和期からテレビドラマでよく見られた演出で、タイトルに夕日の映像が重ねられるイメージは明らかに人気刑事ドラマ『太陽にほえろ』を踏襲したものだ。また同じく人気を博した刑事ドラマである『七人の刑事』のタイトルは、そのまま第24話のサブタイトルにも使われている。「ジェイデッカー」も、「ジェイ=J」は日本、「デッカー=デカ=刑事」から取られていると見てよいだろう。
    それでは改めて設定された警察というモチーフを通じて、勇者シリーズはどのような成熟のイメージを育んだのだろうか。
    注目したい象徴的な点はふたつある。ひとつは主人公である友永勇太の立ち位置。そしてもうひとつは、超AIというモチーフを大きく展開したことだ。この二点は密接に関係しながら、『勇者特急マイトガイン』とはまた別のルートで勇者シリーズという存在を批評的に継承し捉え直す。そしてその結果、ひとつの限界に到達してしまった。そのようにこの連載では考えたい。