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記事 18件
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第18回 物語からゲームへ【毎月第2木曜配信】

    2017-08-10 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前回に論じた2つのゲーム的形式をふまえ、今回はゲームと物語の関係について捉え直します。

    3−5.物語認知とゲーム(学習説の他説との整合性③)
    3-5-1.二次的フレームとしての「物語」
     前回の議論で、ゲームというものが日常の内側にあるものか、外側に在るものかについて論じ、日常(一次的現実)の内側にもゲーム的な体験の一種(二次的フレーム)は充分に成立しうるという結論を得た。そして、また我々が「ゲームを遊ぶ」とき、我々の日常の感覚と、それにもう一つの感覚が重ね合わされた、重層化された経験を生きることであるということを確認してきた。一つの時間を、感覚が重ね合わせられた状態として経験する、というのは珍しい経験ではない。
     これらの話を前提として、次の論点に進みたいと思う。ここまで「二次的フレーム」という述語をあくまで「ゲーム」に関わる認知の形成として扱ってきた。しかし、世界のありようを理解するフレームは「ゲーム」的なものだけではない。その代表的なものの一つは「物語」だ。そして、この「物語」と「ゲーム」は少し難しい関係にある。
     今回はこの「物語」と「ゲーム」の関係について考えたいと思う。
     「物語」について「ゲーム」を論じる文脈のなかで語るということは、しばしばある種の問題について語ることと同義とみなされる。
     たとえば、ゲームと物語はしばしば対立関係にあるものとして語られる。ゲームというメディアが持つインタラクティヴな性質と、表現メディアとしての物語がもつ固定された性質との対立というものが重要な対立であるとみなされることは、コンピュータ・ゲームについて議論する文脈では、たびたびとりあげられる[1]。この対立関係には「ludonarrative dissonance」[2]という用語まである。
     たとえば、RPGの物語上で「強い」とされているキャラクターが仲間に加わったときに、レベル上げをしすぎていた場合そのキャラが「強い」という物語上の設定を受け入れるのに違和感が出てしまったり、物語上の強力なボスの手前でゆったりと宝箱を物色していたりするときの違和感といったものは、ゲームメディアのインタラクティヴな性質と固定された表現としての「物語」の対立の一例になるだろう。
     「物語」は、現実理解のフレームの一つとして極めて強力なものだが、このような事情から、ゲームとは対立構造にあるものとしてしばしば語られてきた。
     しかし、今回はこの対立について扱わない。この問題は重要な論点の一つではあるが今回論じようとしている文脈では不可避の論点ではないからだ。こうした対立は「ゲームと物語の本質的な対立」というよりは、「ゲームのもっている性質の一つと、物語のもっている性質の一つの対立」という部分的な問題にとどまる[3]。
     どういうことか。
     ここまで「ルール」の話[4]でも、「非日常」の話[5]でも、繰り返してきた話だがある対象に対してプレイヤーが抱く主観的な認識の問題と、対象そのものをここでも分けて論じることにしたい[6]。その前提に立ったうえで、整理するならば、「ゲームと物語の対立」というのは、プログラムの束としてのゲームと、テクストや音声として固定化された物語の対立という部分的な問題にすぎないといえる。映画/マンガ/小説/ゲームシナリオといった形で表現された「物語」は確かに固定され、閉じたものとしての性質を持つが、それは表現メディアとしての性質であって、我々が日常において経験する物語的な認識プロセスとか、物語の経験全体が閉じているわけではない。家族や友人と、今日あった出来事について話し合うときに、そこで語られる物語は決して閉じているわけではない。そのようなときに語られ/生成される物語は、固定されているどころが、インタラクションを通じて生成されるものだ[7]。我々の日常は、小説を読むようにして流れているわけではない。そして、今回扱おうとしているのは、このような現実理解の枠組みとしての「物語」の現れ方である。
    結論を先取りしていえば、世界を理解する仕方としての「物語的な理解」と、「ゲーム的な理解」といったものは、対立するどころか相互になだらかにつながっている。
     それは本連載の当初、イラクにおけるアメリカ軍の「誤射」の映像を、リークした事件についての複数の感覚の現れについて理解するうえでも重要な議論だ。イラクの人々のドキュメンタリー映像を見て、ノンフィクションの記事を読み、同時に中東の戦場へと赴くゲームをプレイするとき(1)「戦争が人々の生活を残酷に破壊してしまった」(2)「これなら誤射をしてしまいかねない」というふたつの感覚はパラレルに成立する可能性がある、ということを論点としてとりあげたが、この問題の理解にも関わるものだ。
     我々の日常の中にも、非日常のなかにもゲーム的な状況も、物語的な状況も埋め込まれているし、埋め込まれうる。そして、このように「ゲーム」が日常のものに混ぜ込まれうる、という前提は「ゲーム」観について、いくつかの新しい事態をよび起こすことになる。 「物語」と「ゲーム」概念の差分について確認をしながら、それがいったいどういう意味なのかを示していきたい。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第17回 二次的フレームの形成【毎月第2木曜配信】

    2017-07-13 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲーム好きが一度はハマる「やりこみ」、この本来の遊びの範疇を逸脱する奇妙な欲望を手掛かりに、「フレームからの逸脱」と「一時的現実に対する複数の合理性」という2つのゲーム的形式を論じます。


    3-4-4.二次的フレームの形成
     前々回、気ままにポケモンを遊んでいるこどもに強制でポケモンを遊ばせたところ、ポケモンに飽きてしまったという話を紹介したが、その逆のような話をしたい。
     何かのゲームにハマりまくった結果、誰にも強制されていないはずなのに、苦行のようなゲームプレイをしてしまったということはないだろうか。ある程度、一つのゲームをずっと遊んでいると普通のゲームプレイではあきたらなくなってくるということは、ゲームが好きな人であれば多くの人が体験として知っていることだろう。
     こういったゲームをやりこむという行為で有名なものの一つに、かつてファミ通で実施されていた企画である「やりこみ大賞」というものがあった。とてつもなく暇人でなければ達成できないのではないか、という驚異的で変態的なゲームの遊び方がしばしば投稿された。とりわけ、多くの人に衝撃を与えたやりこみに『ロマンシングサ・ガ3』(ロマサガ3)の「セレクトボタンを押さずにクリア」というものがあった。『ロマンシングサ・ガ3』では、セレクトボタンはいわゆるメニューボタンであり、これを押せないということは(1)ノーセーブクリア、(2)初期装備のままクリア(3)陣形・キャラ配置・技の入換え不可(4)ステータス確認不可ということを意味している。
     これは同じゲームをある程度やりこんだ人にとっては大きな衝撃を生んだようで、あらたな「やりこみ」を導いた。次の引用は、ファミ通のやりこみ大賞を見て、自分でもやりこみをはじめたという人が書いたテキストだ。[1]

    当時中学生だった私は「セレクトボタンを押さずにクリア」を始めてみたとき、感動に身を震えさせました。
    想像を絶する内容のやりこみが大賞に選ばれて「これ以上のやりこみはもう生まれないだろうなあ」と素直に思いました。
    まだまだ小さな視野でしかロマサガ3を触れなかった私には別次元の存在を見せ付けられた心境でした。
    無理とか不可能とかいうレベルではなく、賛美するしかないような威圧感のあるやりこみ。
    それが私にとっての「セレクトボタンを押さずにクリア」です。
    それから8年の歳月の間このやりこみの影を追うようにロマサガ3と付き合っていました。
    ロマサガ3のやりこみの見るたびに必ず「セレクトボタンを押さずにクリア」をものさしにしている自分が居ました。
    それは"崇拝"という言葉がもっとも近い表現でしょう。
    しかし自分がロマサガ3のやりこみ人としてネットで活動し始めてから、徐々にその信仰は薄らいでいきます。
    自身の達成したやりこみも「セレクトボタンを押さずにクリア」をものさしにして自虐していることに気づいたとき、ひどい嫌悪感に陥りました。
    崇拝なんて奇麗事ではなく、自身が達成できない領域にあるものに対して嫉妬していただけだったのではないか。
    その事実に気づいたとき、無性に悔しくなり、決心します。
    私も「セレクトボタンを押さずにクリア」を達成しよう
    いつまでも影を追いたくなんかない。
    自分のやりこみに自信を持てない人間なんかやりこみなんて語ることすらおこがましい。
    過去の自分に決別する意味でもやらなければならないと感じました。
    こうして2004年1月のある日、私は1年ぶりにロマサガ3とSFCを押入れから取り出したのです。
    それから数ヶ月の間は空いた時間に少しずつロマサガ3のデータを集めながらテストプレイを行う日々が始まりました。
    最初は不可能だと思っていた「セレクトボタンを押さずにクリア」も徐々にその形を現してきました。
    8年前に容赦なくたたきつけられたハードルがようやく私にもしっかりと見え始めてきたのです。
    そして4月のある日、一つの攻略ルートを叩き出しました。
    この攻略ルートこそ私が三ヶ月の歳月をかけて完成させた「セレクトボタンを押さずにクリア」です。
    あとはその攻略ルートをベースにテストプレイやリハーサルプレイを重ねついに5月7日に「セレクトボタンを押さずにクリア」を達成しました。

     ゲームをやりこむということは多くの人が経験しがちな体験であるが、この人固有の『ロマンシングサ・ガ3』への情熱は他人とは異なる特殊なものである。この特殊で、強い情熱は「気ままに遊ぶ」というありかただとは言い難い。
     筆者にとっても『ロマンシングサ・ガ3』は合計で一五〇時間以上は遊んだ記憶があるが、おそらく筆者が把握しているゲームと、この人にとって見えているそれは半分以上違うゲームだ。
     実際に、この人が引用部のあとに詳細に述べている『ロマンシングサ・ガ3』の攻略についての話は、筆者が記憶しているそれとはだいぶ違っている。正直なところ、何を言っているのか、細かいところはよくわからない。先に挙げた基準でいえば「意味的独立の共有可能性」を満たしているといえるのかどうかが怪しい。この人が使っているゲーム内の攻略を指し示す用語も体感レベルではよくわからないし、楽しみどころも、苦しみどころも、体験を共有しているとは言い難い。
     もちろん、それは同じ『ロマンシングサ・ガ3』であっても、「セレクトボタンを押さずにクリア」を押さずにクリアをしているという新たなルールを課したことで、ルール上も別のゲームに変質してしまっているから、ということができる。しかし、ここまで激しいやりこみにならなくとも、この一歩手前、二歩手前ぐらいのレベルまである特定のゲームをやりこむとこれに近い状況がでてくることはある。これといって特殊なルールの縛りをつけると決めたわけでなくとも、その人固有のこだわりのようなものがボンヤリとかたちをとってきて、同じゲームを遊んでいるはずが、少しずつ違った体験を構成しているということはよくある。
     たとえば、筆者の友人のS氏にとっては『スーパーマリオブラザーズ』は「いかに手際よく無限1UPをするか」というところがゲームの醍醐味だという。おそらくそういった形で遊んでいる人はほかにもいるのだろうが、筆者はそういう遊び方はしていなかったので、S氏の話す『スーパーマリオブラザーズ』の話は同じゲームの話をしているとは思えないときがあった。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第16回「非日常」をめぐる四つの中間の概念をつくる【不定期配信】

    2017-06-01 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲームの持つ「非日常性」について検証しながら、学習効果によって獲得される「二次フレーム」という概念を導き出します。

    3-4-3.「非日常」をめぐる四つの中間の概念をつくる

     前回までに、繰り返し述べてきたようにゲームを論じるために日常/非日常、現実/非現実といった要素がくっきりとキレイにわかれるということはない。分けようとすればするほど無理な議論をしなくてはいけない。
     しかし、日常/非日常をめぐる問題を扱うための論理を開発しなければ、我々はそれについて、まともに議論をすることもできない。前回、ゲームにおける「非日常」――とりわけ「マジックサークル」――を構成するいくつかの要素をリストアップした(時間的独立性、空間的独立性、虚構世界の独立性、ルール的独立性、参加者の判別可能性、意味的独立の共有可能性、情報の判別可能性、外部への無影響、内部への無影響、参加の自由、退出の自由、独立した価値規範、可避性、非重要性)が、単に細かく分けただけでは、議論が際限なく細かくなるだけだ。
     これを扱うためには、細かすぎず、かといって粗すぎるわけでもない中間レベルの概念を操作的に定義することで議論をすすめていきたいと思う。
    *非日常の区分可能性:一次的現実と二次的現実を切り分けるもの
     素直に「非日常」という言葉の最低限の意味をとるのであれば、それごはんを食べたり、通勤・通学をしたり、排泄をする「この現実」を成立させているものとは、「別の現実」の現れを指す言葉だろう。
     前回、リストアップした要素のうち、およそ半分近くは、この「別の現実」の切り取りを可能にするための要素といえるものだった。具体的には次の7つである。

    時間的独立性
    空間的独立性
    虚構世界の独立性
    ルール的独立性
    参加者の判別可能性
    意味的独立の共有可能性
    情報の判別可能性


     議論が紛糾しがちなのは、これらのうちのどれか一つでも不成立ならばそれは「日常と非日常が曖昧になっている」と言いうるのか。それとも、一つでも成立していれば「日常と非日常が区分け可能である」と言いうるのか。という点だ。
     ためしに上記の基準に沿って「『ポケモンGO』は非日常と日常の区分けを曖昧にしたか?」という問いについて考えてみよう。
     まず「このゲームは日常と非日常の境界が曖昧で、ゲームが現実を侵食した」という言い方を支持できるだろうか?時間的独立性や、空間的独立性、参加者の判別可能性などといった複数の要素が不成立となっているという点で『ポケモンGO』では日常と非日常の区別が曖昧になっているという言及は妥当である。
     他方で『ポケモンGO』を遊ぶときも、ゲームと現実の境目は区分け可能な形でも提示されていると言いうる。虚構世界の独立性、ルール的独立性、意味的独立の共有可能性、情報の判別可能性といったいくつかの要素は一般的なゲームと同様のかたちで成立しており、ほんとうに区別が付けられないということはないからだ。
     『ポケモンGO』はいくつかの基準では非日常と日常の境目を侵食しているといえるし、別のいくつかの基準ではまったく問題なく両者は区分け可能であると言いうる。どちらとも言えるし、どちらとも言えない。確かに言いうることがあるとすれば、「『ポケモンGO』は非日常と日常の区分けを曖昧にしたか?」という問いにYESかNOの二択で答えは成立しないということだ。
     YESかNOの二択で語ることができないならば程度問題として片を付けるよりほかない。この程度問題をなるべく丁寧に論じるための概念としてこの「区分可能性」に属する諸要素がそれぞれどのような状態にあるかということを論じることによって区分けの問題はある程度の粒度で整理できるだろう。
     また、この区分可能性によって切り分けられる「日常」の側を一次的現実、「非日常」の側を二次的現実という述語を割り当てることにしたい。
    *あらためて「遊びの堕落」の問題を整理する 
     さて、ここまで議論を確認したところで、あらためてカイヨワの指摘した「遊びの堕落」という論点について考えていきたい。
     プロのボクシングが遊びではないのではないかという指摘をどのように考えることが可能だろうか?
    まずプロボクシングやプロの将棋の棋士の場合、これらは周囲の人間からすれば区分可能性の問題はほとんど存在しない。たとえば、プロボクサーが、ボクシングをするとき、その時空間は明確に区分可能な場所となっている。プロレスラーの悪役などが場外乱闘をしはじめると、そういった時空間はやや曖昧性を帯びてくるが、基本的にはプロボクサーや棋士といった人々がゲームをするときの時空間はくっきりと区別をつけることができる。
     もっとも、本人たちにとってはこの区分可能性はもう少し曖昧になる。たとえば、日々のトレーニングや勉強の時間も彼らにとってはゲームの延長だと捉えることもできるだろう。ただし、その場合もリングの内側/外側、試合中の時間/試合外の時間という区分線自体が崩壊するわけではない。
     では、何がプロボクシングや、棋士の日常と非日常を接合してしまっているのか?区分可能性が問題なのでないとすれば、問題とされているのは、むろんそれ以外の要素だ。
     第一に、ゲームの内部から外部への影響は大きい。ゲーム内での勝ち負けは当事者の年収やキャリアに直結する。プロボクサーにとって、ゲームという行為は日常生活を成立させるうえで極めて重要なものになる。
     第二に、ゲームをはじめる自由、ゲームから退出する自由は、転職でもしない限りゲームをいつはじめて、いつやめるかを気ままに決めることができるわけではない。参加の自由と、退出の自由は大きく制限されている。
     こういった形で、プロボクサーや、棋士にとってのゲームは区分可能性以外の非日常性の要件の多くを満たさない。(注1) つまり、カイヨワの言う「遊びの堕落」とは非日常性の区分可能性についての指摘ではなく、それ以外の要件についてのものである、ということだ。
     別の言い方をすれば「好きなことを仕事にすべきではない」といったようなよく聞く人生訓の含意は、ある特定の「好きな」行為について、参加の自由・退出の自由を制限し、所得への影響をもたらすことをやめておくべきだと言っているということでもある。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第15回 ゲーミフィケーションは「ゲーム」ではない?【不定期配信】

    2017-04-11 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回はゲームという現象における「非日常」の重要性を論ずるべく、「マジックサークル」と「非日常性」という概念の整理を試みます。

    3−4.ゲーミフィケーションは「ゲーム」ではない?:「非日常」概念をめぐって(学習説の他説との整合性②)
     前回まで、「ルール」「ゴール」といった要素と、ゲームプレイ時における「学習」プロセスがどのようにその関係性を把握できるかをみてきたが、次は「ゲームとは非日常的なものである」という基準との関係性をみていきたい。
     ただし、このゲームを「非日常」と捉える仕方はルールやゴールをめぐる議論以上に前提の整理が必要となる。ホイジンガはもちろん、なんだったらプラトンまで遡ることも可能な伝統のある基準であり、かなり重要な論点の一つになりうることは明らかだ。しかし、ルールやゴールといった要素がゲームにとって何かしら重要なものであろうということは、ゲームをめぐるほとんどの論者が認めているのに対して、この「非日常」に関わる概念は重要なものであるにしても、論争的なポイントをいくつももっている【注1】。
     この節では、まず「非日常」という要素がそもそもゲームという現象にとってなぜ重要かということを確認したうえで、この要素の扱いにくさや複雑性を整理する。その少し面倒な整理をしたうえでなければ、そもそも一体何を議論しようとしているのかがわからなくなってしまうからだ。そして、それらの前提を経たうえで、学習説と「非日常」概念との関係をみていくことにしたい。
     まず、この基準の重要性を直感的に示すために、ツイッターで広く拡散されたツイートを引用するところからはじめよう。

    昔、先輩の息子さんがポケモンにどっぷりで、先輩の奥様が「ゲームは1日1時間!」「たまには外で遊びなさい!」と注意しても全然やめなかったという
    そこで先輩が「ゲームの時間は無制限」「ただし一日X匹ゲットをノルマ」「結果報告は毎日義務」「義務を怠ったら叱責」という方針に転化。最初は息子さんも大喜びだったらしいけど、休日も「ほら!まだポケモンやってないぞ!」と言われるうちに徐々に飽き、無事サッカー少年に転向したとか【注2】

     こういった現象はアンダーマイニング効果(Social Undermining) 【注3】として動機付け研究のなかではよく知られている。日常の煩わしいことから逃れうるものとして楽しんでいたはずのことを、あえて日常の煩わしいことの一部に位置づけられてしまうと、人々はとたんにそれをつまらないものとして感じてしまう。
     日常の煩わしいことをゲームのように感じることは難しい。「好きなことを仕事にしなさい」という人生訓がひろく共有されているのと同様に、「好きなことを仕事にしてはいけない」という人生訓はあまりにもポピュラーなものだが、この人生訓の言わんとすることはそういうことだ。
     ゲームを商売のタネにすること自体が、ゲームの在り方としてダメなことなのではないかという批判もある。たとえば、カイヨワは「遊びの堕落」という一章を設けて、ゲームで商売をしていく人々について次のように見解を述べている。

    プロのボクサー、競輪選手、俳優たちにとっては、アゴンやミミクリは、もはや彼らの疲れをいやす気晴らしではない。うっとうしく単調な仕事に変化を与えるための、気晴らしではなくなっているわけだ。それは生活のかかっている労働そのものであり、障害と難関だらけの根気の要る日常活動なのである。彼らがその疲れを休めるのもまさに遊びによってであるが、ただしそれらは彼らを拘束しない遊びなのだ【注4】。

     こうした論理の延長線上には、もちろん「日常のなかにゲーム的要素を埋め込む」ことをうたっているゲーミフィケーションも批判の対象に含まれることになる。ゲーミフィケーションはその概念の成り立ちからして「非日常性」という基準とは相性がわるい。
     「日常のなかでゲームを混ぜ込んでしまうと、ゲームを楽しむという現象自体がそもそも成立しないのではないか」という批判は、実際にある程度まで妥当するところもある。とくに、ゲームをすることが義務として社会的に何かしらの権力をもった相手との関係性のなかで為されるのであれば、「ゲーミフィケーション」などということはほとんど成立しない。代表的なのは、会社の営業部で壁に各社員の成績を露骨に張りだして競わせるようなやり方だ。こうした仕方で競争を仕掛けることは成績上位の社員であればまだしも、成績が下位を低迷しているような社員にとっては自分を貶めてくるようなストレスにしかならない。
     こうした指摘を鑑みるのであれば、ゲーミフィケーションというのは確かに嘘っぱちである。ゲーミフィケーションは競争を作り出せるかもしれないが、楽しいゲームを作りださせることはできない、ということになる。
     しかし、実際に「ゲーミフィケーション」とされるようなサービスを会社や日常生活のなかに取り入れる場合は、この指摘は常に妥当するわけではない。いくつかのケースがあるが、もっとも王道的な対応は、そこに参加する各人が自由にゲームに参加でき、やめたいと思ったときに自由にやめることができるような状態のなかでゲームに参加してもらうことである。日常の中にゲームが入り込んでいること自体が問題というよりは、日常のなかの「義務」として自由が剥奪されている状態こそが問題なのだ。そのため、会社内へのゲーミフィケーションを考える場合、絶対に成し遂げられなければならないような基幹業務に競争的な仕組みなどを導入することはあまりおすすめできないということになる。少なくとも社員の精神状態にポジティヴな効果をもたらすことはあまり期待できない【注5】。
     「非日常性」という要素はこのような形で直感的にはゲームの楽しさを支える重要な要素であるように思えるところがあり、一定の説得力もある。しかしながら、ゲーミフィケーションのような概念が成立してしまうこと自体が「非日常性」という基準が厳密な基準を満たしえない曖昧性をもった概念であること示している。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第14回 ゲームにおける「能動性」という神話:あらためて『FF15』について【不定期配信】

    2017-03-21 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、FF15のキャラクターの移動シーンをヒントに、〈能動性〉を本質とするゲームにおいて、プレイヤーの意識の外にある、〈ぼんやりとした〉行為がどのような意味を持つのかについて検討します。

    「なぜ俺は『FF15』を遊んでしまうのか?」

     「『FF15(Final Fantasy XV)』のような、わけのわからないゲームを俺はなぜこんなに長時間やってしまうのか…」という告解をここ数ヶ月で複数人の口から聞いた。
     少なからぬゲーマーにとってこの経験は、衝撃的…というか、何か特殊な困惑のようなものを引き起こしているようだ。
     なぜ、そのような困惑が引き起こされるのかといえば、それは彼らにとっての「面白いゲーム」の価値観を揺らがすようなものだからだ。少なくとも『FF15』のシナリオは30代、40代の中年ゲーマー向けではない。ゲームの流れも、刺激的な時間が延々と続くというようなものではなく、息をつく暇もなく興奮が連続するようなものではない。今時の売れ筋大作ゲームと比べると、かなりまったりとした時間の流れるゲームだ。
     これは、ある種のゲーマーに戸惑いを生むのは当然といえば当然だろう。
     どのようなゲームを「面白いゲーム」だと捉えるかには派閥があるが、一つの派閥は「能動的に」やることがたくさんあって、飽きさせないようなものこそが面白いゲームだというような派閥だ
     上記のような要素に反するようなつまらなさを感じさせるのは、RPGのレベル上げだとか、「おつかいクエスト」の連続などだろう。90年代中盤以後、多くの人が「一本道RPG」とか「一本道シナリオ」といった要素をだめなゲームの代表格であるかのように呼んだように、海外でもGonzalo Frascaは、ゲームプレイの際におけるこうした側面をErrand boy syndrome(使い走り症候群)と呼んでいる。同じようなことをただ延々と繰り返すだけのほとんど頭を使わない、ロボットになったかのような時間は、多くのゲームプレイヤーにフラストレーションを感じさせてきた。それゆえに、能動的に様々なことを考え、刺激にあふれたようなゲームこそが面白いゲームなのだという言説は、洋の東西を問わず、強固な位置を占めている。そして、FFシリーズはこういったタイプのゲーマーからはしばしば目の敵にされる代表的なシリーズだったといってもよい(なので、この派閥のゲーマーであったにも関わらず、いまだにFF15をプレイして「意外とよかった」とか言っている人々はかなり付き合いのいい人達でもある)。
     こういう派閥のゲーマーたちは、ある時期には自覚的に「ゲェム右翼」と名乗ったこともあった。
     ただ、こうした主張が、常に妥当なものではないということはすでに多くの人の実感によって、更新されたはずだ。それだけが本当に面白いゲームの要素なのであれば、ゲームにかかわる説明できない現象がある。
    反例としてのソーシャルゲーム
     その一つは、言うまでもなく「ソーシャルゲーム」と名指される一群のゲームだ。本連載を読んでいる人には、あまり多くの説明を要しないと思うが、ソーシャルゲームは常に刺激的、というよりも、たまに刺激的なゲームであるという程度のものに過ぎない。
     SNSやスマートフォンといったインフラを介して評価を得たゲームにはこうしたものが多い。とある放置系のアクションRPGを指して「ゲームとして楽しいかどうかはわからないけど、やることに対するハードルがあまりにも低いからやめられない」と述べた米光の言葉はある種のゲーマーの実感を見事に示しているように思う。
     そして、このような刺激の低いゲームプレイを可能たらしめているのは、ゲームデザインの巧みさだけではなかった。多くの人が指摘するように「スキマ時間」を使ったゲームプレイが可能であるということだ。常時起動のFacebook上や、iPhone上でゲームをするという体験と、TVモニターの前に陣取ってゲーム機を起動して「さぁ、やるぞ」という意識で画面に向き合うのとでは、ゲームに向き合うときの態度がまったく異なっている。
     ただ、ソーシャルゲームをプレイするときに刺激が弱くてもよい。刺激が弱くてもゲームプレイが成り立つ。というのはもはや目新しい話ではないだろう。世界中の数億の人が体験したことだ。
    能動的な関わりだけが楽しい時間なのか?
     ソーシャルゲームのような反例があったのにも関わらず、『FF15』は改めて困惑を生んだ。なぜかといえば、『FF15』はSNSのゲームでも、スマートフォンのゲームでもなかったからだ。
     『FF15』の特異なところはいくつかある。その特異性を指す表現の一つは、「『FF15』は『水曜どうでしょう』ではないか」という説だ。この説は、発売直後に評判を呼んだものだが、緊張感のない男数人がだらだらと話しながら車で移動するのも、旅の途中で本来の目的を忘れて釣りだとか、どうでもいいことに力を入れ始めるのも、いかにも、人気旅番組の『水曜どうでしょう』の風景と似ている。というのがこの説のいわんとするところだ。このような説が評判を呼んだことからも明らかなとおり、『FF15』の移動は実にダラダラとした感触を与える。しかしながら、そのダラダラは、ゲームプレイヤーにとって肯定的に捉えられている。
     こういった「ダラダラとした移動」がゲームにとって肯定的に語られるというのは、かなり新しい事態だといっていい。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第13回 プレイヤーのいないゲームは存在しうるか?【不定期配信】

    2017-02-01 07:00  
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    【配信日程変更のお知らせ】毎月第1水曜日更新の猪子寿之さんの〈人類を前に進めたい〉は、諸般の事情により今月は配信日程を変更してお送りいたします。楽しみにしていた読者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、次回の更新まで今しばらくお待ち下さい。

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲームの本質を、プレイヤーが技能を習得する過程にあると考える「学習説」に、ルールやゴールの存在を重視する「ルール/ゴール説」を接続することで、ゲーム体験を包括的に説明しうる理論の構築を試みます。
    3−2−2.プレイヤーのいないゲームは存在しうるか?
     ここまでの議論を別の角度から問うことにしよう。Björk【注1】らはゲームとは何かという問題を考える上で重要な論点の一つとして「プレイヤーのいないゲーム」について考えるということを挙げているが、本稿でもその問題を取り扱うことにしたい。
     「プレイヤーのいないゲームというのは存在しうるだろうか?」
     ここまでの議論を踏まえると、この疑問に対する答えはイエスとも、ノーとも言える。
    1)プレイヤーのいないゲームは存在しない
     ゲームというものは、しばしば誰かしらの人間の遊び手によって積極的に遊ばれるものと想定されることが多い。特にゲームというものが誰かによって楽しまれたり意思決定されたりするような何かしらの人間の認知現象を介したものとみなすような立場(認知論的立場)からすれば、プレイヤーのいないゲームというのは存在しないということになる。
     たとえば、人間の主体的な認知を要するものとしては、学校における学習場面のようなものがあるが、学校における学習は教師側の役割が映像教材のような意識をもたない存在になることは可能かもしれないが、生徒の側が人工無能的な弱いAIのようなものになるといったことは考えにくい。AIにサンプルデータを学ばせることもまた学習とは呼ばれることには呼ばれているが、いまのところはそれが、人間のような存在が何かを学習するということとほぼおなじものとみなすことは少ないだろう。特定のアルゴリズムの集合体に、データを読み込ませるという行為と、人間の学習という行為のあいだには、いくつかの違いがあるが、その大きな違いの一つは何かしらを認知する意識の有無だ。意識のない存在が喜んだり、悲しんだりするという想定を我々はもっていない。
     現実空間をごく決められたパターンでしか認識できないようなアルゴリズム同士が、学校のような現実空間で、教師役と生徒役をやっていたとしたら、それは何かポストアポカリプス的なシュールさの漂う風景に見えるだろう。せめて生徒役は、もう少し意識のある存在でないことには、我々の日常感覚からするとあまりにも変わった風景に見える。
     人間の意識を必要とするはずの「ゲーム」というものが、人間の介在を必要としないというのは、どうも奇妙だ。その意味で、プレイヤーのいないゲームというものは存在しない、といえる。
    2)プレイヤーのいないゲームは存在する
     では、「プレイヤーのいないゲームは存在する」とはいいうるか?といえば、これを支える立場は、議論の立ち位置を逆にすることで成立させることが可能だろう。つまりルールやゴールといった形式によってゲームを定義するような――ここまで「形式論」と呼んできた――立場に根ざして考えれば、むしろこちらのほうが自明だということになるだろう。
     先述のBjörkらの指摘【注2】でも、プレイヤーという概念を、意識のあるものとして想定しないかたちで、「プレイヤーのいないゲーム」の例がいくつか挙げられている。
     たとえば、近年コンピュータによる将棋や碁のプログラム同士の対戦が話題になることが多くなったが、将棋AI同士の対戦を観戦するときに、そこで「ゲーム」が行われていると思うことができるのならば、そこには「プレイヤーのいないゲーム」は存在している、と言いうる、ということになる。
     将棋AI同士の対戦は、ルールもゴールも明確に設定されており、ゲームのエージェント【注3】同士のインタラクションも存在する。こういったかたちでゲームとしての形式的なポイントがおさえられていれば、それはゲームだといいうるという立場をとることはできるだろう。
     以上、二つのまったく別々の解釈について述べてきたが、これらを一行にまとめてしまえば、プレイヤーのいないゲームは存在するとも言えるし、プレイヤーのいないゲームは存在しないとも言える、という結論になる。
     両者はもちろん、相容れない結論である。しかし、前者は認知論的に一貫した説明が可能であり、後者は形式論的に一貫した説明が可能である。つまり、そこには認知論か、形式論か、という前提の差がある。この前提の差がなぜ生じるのか。
     「プレイヤーのいないゲームは存在するか?」という問いは、この前提の差を整理することを通して、より明確に理解されることになる。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第12回 トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.766 ☆

    2017-01-10 07:00  
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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第12回 トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか?【不定期配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2017.1.10 vol.766
    http://wakusei2nd.com



    今朝のメルマガは、井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第12回をお届けします。
    昨年末に発売された『ファイナルファンタジーXV』と『人食いの大鷲トリコ』。この2大タイトルの共通点は、〈風景〉を前景化させたことにありました。風景を印象づけるために作動している認識操作の技術を読み解きます。

    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第11回 政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ

    ■われわれは風景を「見て」いるのか?「感じて」いるのか?
     今月は、せっかくなので『ファイナルファンタジーXV』(以下、『FFXV』)と、『人食いの大鷲トリコ』(以下、『トリコ』)に関連する話をしようと思う。まだトリコは遊んでいる最中だが、とりあえず遊びながら、考えていることなどを少し書ければと思う。

     さて。
     言うまでもないことだが、ゲームの開発において、いかに美しい映像をつくるかということはある時期までとても重要なことだった。しかし「より美しい映像を」つくることはある時期から多くの人に飽きられた。「映画のようなゲーム」が純粋に誉め言葉としての意味をもっていたのは1990年代の途中までで、2000年代からは蔑みの意味でも使われるようになってしまった。美しい映像は、意外とすぐに飽きる。それよりも重要なことがあるのではないか、と思う人が増えた。
     そしてまた、わざわざ言うまでもないことだが、『ファイナルファンタジー』シリーズというのは、そのような「映画のようなゲーム」の最左翼であり、その代名詞だった。
     今回もまた、『FFXV』の映像は、期待に違わず凄まじいものだった。電車の側面の鉄板に映り込む朝日の映り込みなど、これがリアルタイムで生成されているということが信じられない。この世界のなかの鉄、石、光は我々が現実の世界において知っている、それそのものに限りなく近づいていた。
     ただ、今回のFFは、ただ美しいだけではなかった。確かに、よく作りこまれた映像は、食い飽きるほどだったが、映像を単にゲームの中にちりばめておくというだけのゲームではなかった。
     そして、『FFXV』の一週間後にリリースされた『トリコ』。『トリコ』もまた、その映像の美しさが重要な特徴の一つとなっているゲームだった。もちろん、『FFXV』とはまったく違うゲーム、まったく違うユーザー層のためのゲームだ。だが、ゲームのなかにおける「風景」をどのように扱うかという点において、不思議な類似が見られた。
     それは「美しい風景」を単に配置する、のではなく、「美しい風景」をまじまじと眺めるための文脈をどう作るかというというへの、あまりにもきめ細やかな配慮だ。
     そもそも「美しい風景」をまじまじと眺めるときというのはどのようなときだろうか?
     我々は、美しい風景というものを好むわりに、雑に扱うことが多い。
     たとえば、プロの写真家が撮った世界遺産の写真。高名な画家が描いた湖の絵。そういったものが、そこらへんに何気なく掛けてあるカレンダーに使われていることは多い。だけれども、その絵に、ハッとして、魅入るというような経験をすることはほとんどない。
     カレンダーに使われている写真や、絵の多くは、その写真や絵にかかわる展覧会が開かれていたりするような、有名だ。しかし、それをありがたく鑑賞する機会は限られている。現代人は、それほどの「素晴らしい絵」に接しながらもそのありがたさをなかなか実感しないような贅沢な生活を送っている。
     その一方で、我々は、もっとつまらない風景を大事にしていることがある。近所のどこにでもあるような小高い丘に登って町を眺めてみたときに軽い感動を覚えることがある。これといって風光明媚というわけでもない場所に海外旅行で訪れたとき、その風景が強く印象に残ることがある。そこで見えている風景が、そこらのカレンダーに使われている写真よりも、「価値がある」かどうかはわからない。しかし、そのような風景に魅入られてしまうということがよくある。
     風景の美しさを感じるとき、それ自体が内在的に持っている美しさに感動を覚えているのか。それともそれを感じるためのプロセスのほうが、美しさへの感動を生んでいるのか。それを判別することはしばしば難しい。
     ゲームを遊ぶという経験は、我々の美的感覚がどのように立ち上がっているのか。よくわからない気分にさせることがよくある。
     最先端のCGを食い飽きてしまう一方で、ファミリーコンピュータ時代のドット絵の風景にだって感動を覚えることはある。RPGで長い洞窟を通り抜けてあらたな風景が広がるエリアまでたどり着いたとき、動かないと思っていたバックグランドの風景が動いたとき、シムシティのようなシミュレーションゲームで、ゲームのなかの人々がほんとうに命をもって動いているかのように風景を作り替えていくのを眺めたとき、ゲームのなかの風景をまじまじと眺めさせられることがある。
     我々が、風景をまじまじと眺めるという体験はどのようにして与えられるのだろうか?

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第11回 政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.744 ☆

    2016-11-30 07:00  
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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第11回 政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ【不定期配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.30 vol.744
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第11回をお届けします。先日のドナルド・トランプが当選した米国大統領選挙で、ヒラリー陣営は政治的動員のための「快楽のゲーム設計」を失敗したという議論から、「どこまでをゲームと見做すか」の手掛かりとして、形式と認知による4分類を紹介します。
    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第10回 学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム――【不定期配信】
    ■政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ
     さて、本稿を書き進めている間にドナルド・トランプがアメリカの次期大統領として当選してしまった。トランプが当選したことについては、筆者は単純にショックを受けた。トランプがなぜ当選してしまったのかについて筆者がそれほどたいした説明をできるというつもりもないのだが、トランプの当選に関わって政治運動を「快楽」との関わりから説明できるのではないかという議論が出てきていること。国内のものでは、たとえば宮台真司によるこの論評などはかなり読まれているようだ。トランプの当選が「快楽」の問題としてどこまで説明できるのかは、心もとないが、政治と快楽をめぐる論点についてであれば、筆者がある程度コメントしておくべき点もあるだろうと思うので、本連載の流れから少しだけ脱線して、この問題に触れておきたい。
     さて、宮台による論建ては「政治的な正しさ」の問題と、有権者にとっての「快楽」の問題がそれぞれ独立した問題として成立しており、退潮傾向にある左翼やリベラルの人々が、快楽によって駆動されているトランプ支持者のような人々を「正しくない」と批判したところでそれは、そもそも批判として無効であり、「正しさ」と「快楽」をどのように一致させるかを考えることこそが重要なのだということだった。両者の一致にこそ政治的な動員を考えたときの活路がある、というのが宮台の指摘である。宮台の指摘するとおり政治において重視されてきたはずの「正しさ」という点から、トランプは確かに大きくかけ離れた大統領候補だった。その意味で、この宮台の指摘は説得的なものであると言ってよいだろう。
     トランプの問題に特定しなければ、このような論点自体は目新しいものではない。宮台に近い国内のジャーナリスティックな社会学の文脈に限っても、宮台の弟子である鈴木謙介による『カーニヴァル化する社会』でも類似の論点が取り扱われているし、塚越健司『ハクティビズムとは何か』でもアノニマスによる社会的活動がネットの「祭り」と近い関係にあることが述べてられている。そもそも拙著『ゲーミフィケーション』で冒頭にとりあげたオバマの2008年の選挙活動の事例は、まさにアメリカ大統領選において、いかにゲーム的な楽しさが政治的動員を駆動させる一翼を担ったかということを紹介することからはじめたものだった。
     さて、では政治的動員にとって快楽が重要なキーとなってきている時代になりつつあるというのは重要なのかどうか?改めて整理すれば、快楽について考えることが重要な時代になっていることそれ自体は事実だろう。ただ、政治が快楽を用いることが、いかなる意味で望ましいことであるかについては安易なコメントは差し控えたい。そして、より踏み込んで言うのであれば「どのような快楽」を重視するかという問題に言及をすべきだろうと思う。
     それは「快楽」であれば、問題が解決するわけではないからだ。
     
     *
     
     考えるに、政治をめぐる快楽の問題にはジレンマが内包されている。そして、おそらくこのジレンマ自体はおそらく二〇世紀にもすでに存在していたものだ。これを解説するために、小熊英二『社会を変えるには』からの記述を参照してみよう。
     小熊によれば、1968年ごろに起こった大学の占拠について、当時のバリバリの左翼学生(セクト)は実際のところなぜ、そんなに運動が盛り上がったのかほとんど理解できていなかったようだという。「それまで政治に無関心そうだった学生たちがいきなり集会を開いてバリケードを作り始めている。聞いてみると、授業がつまらないからとか、マルクス主義にも革命にも関係ない」[1]という状況があったそうだ。つまり、68年の全共闘運動が広がった背景には、「正しさ」によって動員された学生が大量にいたということではなく、「快楽」によって動員された学生が大量にいた、ということだ。そして、自由参加・自由脱退が基本である全共闘という枠組みでは、こういった学生を受け入れるだけの幅の広さがあった。
     ただし、この68年ごろの「快楽」には大きな問題が発生する。
     一時的に全共闘に加わり、別にそれほど気合の入った左翼というわけでもなかった学生たちは、お祭り気分で盛り上がっていた。しかし、このお祭り気分での盛り上がりは所詮お祭り気分での盛り上がりでしかないため、大学を占拠して泊まり込んでドキドキしている最初の一ヶ月は楽しいものの、次第に飽きて、人が去っていく。
     そうなったときに残ったのは結局、68年以前からのバリバリの左翼のメンバーで、彼らは、にわかで運動に加わった学生とは違い、いざというときにはしっかりと動いてくれる[2]。バリバリの左翼たちは、活動をしっかりとやるという意味では、頼りがいのある中心的なメンバーとして機能していたが、運動の目的が「革命」というところだったゆえに、大学闘争をしても大学側との妥協が残るような交渉はせず、バリケードに立てこもって出口のない戦略をとってしまう。
     こうしてお祭り的なノリでついてきたにわか左翼の学生たちも去り、バリバリの左翼の運動も結実することのないまま68年の運動は終わりを迎えてしまう。
     
     ここまでが小熊による全共闘運動の経緯の要約である。小熊はこの後でも「運動に飽きる」という問題をどう考えるかという論点にふれているのだが、思うに、ここで発生していた「快楽」には全く種類の違う二種類のものがあるように思う。にわか左翼の学生の快楽と、バリバリの左翼の学生が保っていた快楽の中身である。この両者の快楽は連続してはいるものの、それぞれに少し質の異なるものだ。本連載ですでに触れた分類でいえば「遊び」と「ゲーム」の違いとしてしばしば整理されがちなもの[3]だが、それは「党派を超える快楽」と「党派の内側のための快楽」という形で整理しなおしてもいいかもしれない。
     本連載の第一章で述べたことを雑にまとめれば、前者は単純な逸脱をともなうことの中に喜びを見出すものであり、後者は、複雑なルールを生きることのなかに喜びを見出すものだ。党派を超え「にわか」を生み出すような爆発力のある、特別なお祭り的な快楽というのは、往々にして、なにかいつもと変わったこととして見出される。それは「いつもと変わっている」ということ自体に価値がある。
     一方で、党派の内側、組織の内側で機能する快楽というのは、しばしばゲーム的な快楽――まさに、いま本連載で扱っている「学習説」的な説明があてはまりやすいような快楽――とされやすいものの範疇である。そのありようというのは「いつもと変わっていること」ではなく、「繰り返していくこと」の中に見出されていく快楽である。似たようなことを繰り返し、それに上達し、戦略を洗練させ、風景が少しずつ変わって見えていくそのプロセスのなかに生まれる快楽がそれだ。遊びやゲームに関わる、快楽はしばしば「非日常」のことだとみなされがちだが、そんなことはない。
     日常的に運動を「続けていく快楽」と、非日常としての運動に「にわかに参加する快楽」は、まったく別の快楽なのである。
     そもそも別の快楽なのであるから、「続けていく快楽」の内側にいる人間は、「にわかに参加する快楽」を覚えている人間が何を楽しんでいるのかを理解するための想像力を失いがちだし、逆もまた然りである。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第10回 学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム――【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.716 ☆

    2016-10-21 07:00  
    540pt

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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第10回 学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム――【不定期配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.10.21 vol.716
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第10回です。今回からは、ゲームの本質を「学習」にあるとみなす立場を中心に検討を進めます。研究者のみならず、ゲーム開発者から見ても非常に強い説得力を持つ「学習説」とは何か。国内外で展開されている「ゲーム」と「学習」にまつわる議論を参照していきます。
    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第9回 どこまでが「ゲーム」なのか?【不定期配信】
    3−1 「ゲームの学習説」とは何か
    3-1-1.学習説の興奮
     「ついにゲームというものの本質がわかった気がします…!」
     筆者に対して興奮気味でこういったことを伝えてくれる人が、毎年一人ぐらいいる。時にはメールで、時には口頭で、時にはSNSのメッセージで。それらは、毎回違う人物であり、だいたい、コンピュータ・ゲームの開発に関わる人たちだ。
     そして、彼らの言う「ゲームの本質」は、表現には少しずつの違いはあるものの、だいたい同じ点を突いている。
     それは、ゲームをプレイするときにゲームプレイヤーに「積極的な学習行為が成立しているのではないか」といったことだ。もう少し丁寧にいえば次のようになる。
    いわゆる「ゲームにハマっている」と言われるような状態のことを考えると、ハマっているゲームプレイヤーたちは、ゲームをどんどんと習熟していくようなプロセスの中にいる。ゲームにハマるということは、ゲームの腕を上達させていくプロセスであるであることと、しばしば近似する。もちろん、それほどゲームに習熟できないプレイヤーというのもいるが、そういう人は、今ひとつゲームにハマりきることができずにゲームをやめてしまう。
     そういったゲームプレイヤーたちの行動が成立しているということを前提に、ゲーム開発者たちはゲームを作る。ゲームプレイヤーたちが、それまで習熟してきたことを土台としつつ、プレイヤーにとって少しだけ予想を超えるような課題をほどよいタイミングで与えつづけることができれば、プレイヤーはその状況を嬉々として受け入れ、課題に挑戦し続ける。
     設計の勘所はそのタイミングや、難易度の設計だ。プレイヤーがまったく乗り越えられないと感じるほどに、与えられた課題のハードルが高いと、プレイヤーはモチベーションを保てずに挫折してしまう。他方、ゲームをしていて、次に何がでてくるかということを予測し、その予測と完全に同じものがでてきて、予測された状況に、プレイヤーが完全に適応できるようなことが続くと、プレイヤーはそのゲームを徐々に退屈に感じはじめる。すなわち、難しすぎても、簡単すぎてもいけない。
     概ね、以上の点が多くのコンピュータ・ゲームの開発者が、ある日「はっ」と気付きによって得られるような「ゲームの本質」とされやすいことの中身だ。こういった感覚は、実に多くのゲーム開発者が抱くもののようで、こうした立場を公表し、より洗練された議論を目指そうとする人も少なくない。たとえばオンラインゲームの開発者だったラフ・コスターの議論[1]や、日本の家庭用ゲーム開発で長年のキャリアを積んできた渡辺修司らの議論[2]なども、基本コンセプトは今述べたような発想をベースとしている。
     「ゲームの本質」に関するこうした考え方を支持するのは、コンピュータ・ゲームの開発者のみにとどまらない。2011年以後、日常行為のなかにゲームの要素を組み込んでいくことを意味する「ゲーミフィケーション」という言葉が世界的に言われるようになってきた。筆者自身も2012年に『ゲーミフィケーション』という書籍を出版した[3]ため、この議論には深く関わっているが、この文脈のなかで「ゲーム」の面白さの中心をなすものとして紹介されたのは、ほとんどのケースで、これらの議論の一種といえるものだった。
     特にゲーミフィケーションをめぐる議論のなかで「ゲームの本質」として紹介されたのは、「フロー体験」と呼ばれるものだ[4]。「フロー体験」自体は、1980年代から1990年代にかけて広まった心理学者のミハイ・チクセントミハイによる概念であり、上記の要件に加えて、状況に対して自発的に参加を行っているかどうかとか、自己コントロール感があるかどうかといったいくつかの条件が追加される。
    即時にフィードバックがかえってくるような環境下で、限定された分野について、難しすぎず、易しすぎない課題が提示されているときに、人間は、非常に高度な集中力を発揮し、その課題を苦と思わずに、積極的に取り組むことになるという。
     ミハイ・チクセントミハイの提唱した概念はゲームそのものについての議論ではないが、ゲームを遊んでいるときに生まれる楽しさや、集中した感覚に近いということで「フロー体験」はゲームの面白さを説明するための理論として好んで使われることが多い。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第9回 どこまでが「ゲーム」なのか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.694 ☆

    2016-09-21 07:00  
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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第9回 どこまでが「ゲーム」なのか?【不定期配信】 
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.9.21 vol.694
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第9回です。空手家・大山倍達の「強さ」の追求が、期せずして直面したゲーム的世界観。「ゲーム」と「それ以外」を区分する境界線は、どこに引かれるべきなのか。「現象としてのゲーム」の具体的な議論のために、ゲームを定義する5つの評価基準を提示します。
    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
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    前回:井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第8回 ゲームとは楽しいものでなければならないのだろうか?【不定期配信】

    ■ 2−5 どこまでが「ゲーム」なのか?-さまざまなゲームのボーダーラインについて-
     
     神の手と呼ばれた20世紀後半の伝説的な空手家、大山倍達が語ったとされる言葉に

    「地上最強の動物はアリクイ」[1]

     というものがある。
    どういう理屈かといえば、なんでも①ストレートに考えると、個体としての世界最強の動物はおそらく象である。②像であってもアリの集団に食われてしまうことがある ③アリクイはアリに勝利できる、ということらしい。
     「何を馬鹿な」と思われるだろう。反論をするのも、いかにも容易だ。あまりにも突飛のない発言に、納得するというよりは、失笑を誘われる人のほうが多いだろう。
     さて、なんでこんな話をしているのかというと、ある行為が「ゲーム」という概念に入るかどうかが難しいようなボーダーラインをどう扱うかということ話を扱いたいからだ。
     大山倍達は20世紀後半の日本に「空手」を広めた立役者だが、大山によれば「勝負」という概念のボーダーライン上にいるからこそ出てくる発言であろう。大山は「ケンカと戦いの区別はどこにあるのか、ということは私には、はっきりとわからない」[2]と述べている。
     大山倍達が伝説的な格闘家であることのいくつかの理由の一つは、彼が人間以外の動物と戦っていることによる[3]。若き日の大山は「人間の相手がいない」[4]と感じて、ジャングルのなかでライオンやワニと闘うターザンのように、人間以外の動物と戦いたいと思い「比較的たやすくぶつかれる相手といえば、まず牛だ。」[5]と言い、70頭もの牛を倒す。そして次に熊と戦おうとして警察に止められ、ゴリラと戦ってはゴリラに逃げ出されたという。ライオンと闘うことについても真剣に研究しており、その結果「うーむ、とても勝てない。勝てるわけがない」という結論を得ている。
     大山による対猛獣戦についての発言には興味深い論点が多い。大山は、もし猛獣と人間が闘うのであれば、フェアな条件で闘うべきでないと言っている。虎やライオンに素手の人間が挑むとすれば、「壮年と壮年で、公平な条件で戦わせたら、勝つ可能性はゼロといってよい」という。もし空手の達人が真剣に虎に勝利する可能性を検討するのであれば、①老齢の虎であること ②弱らせておくこと ③広い場所で闘うこと ④200キロ以内の虎であることといった具体的な条件を挙げている[6]。また、若き日に、自身が熊と闘う際においても若い熊と闘って勝利をおさめるのはまず無理であると判断し、老齢でよぼよぼの熊に腹いっぱい食べさせて戦闘意欲をにぶらせた状態で対戦するように手配をしていたという。
     実際、大山は老齢の熊を手配していたものの、大きな若い熊と対戦することになり、対戦開始2,3分で「これは勝ち目がない」と思ったという。その直後に対戦に中止命令が出てこの対戦は取りやめになった。
     これらのエピソードから明らかなように、大山倍達の考える<強さ>をめぐる追求は、格闘技における<試合>の枠組みから大きく越え出ている。勝利とか、強さといった概念は、ふつう何かしらの枠組みの内側にある。異種格闘技戦であるにしても、それは一対一の人間による試合という範囲内であることがほとんどである。
     しかしながら、大山の世界観は「人間の相手がいない」という稀有な理由によって、この大前提が崩れている。そのために、牛や熊と戦っているのであり、その時点でもはや人間社会内での勝負といった評価基準ではなくなっている。大山の思考は、生命全体の生態系のなかにおける人間個体のあり方を考えるというところに近づいていっている。
     ちなみに、生物学者や、生態学者に「最強の動物は何か?」という質問をすれば、ほとんどの場合、まじめな答えとしては「生物というのは、環境によって有利・不利が決まるのであって、何が最強ということはありません」ということになる。大山の「アリクイ最強説」は、人間対人間の対戦という世界から遠く離れて、こうした生態系全体を考えるという視点へと旅立ってしまっている。ふつうの現代人が、自らの実体験からこうした発想へと至ることはまずないと思うのだが、大山の場合は例外的にこのようなことになってしまっている。熊や虎との対戦においても、フェアネスの概念を適用すべきでないと言っているのも、やはり人間対人間という枠組みの外側で、勝負における生死の問題を考えているということが大きいだろう。ライオンや虎に素手で勝てるかどうか、などといったことを真剣に思い悩めば、そういった発想に至るのは、ある意味ではあたりまえなのだろうが、大山の世界では人間社会において想定される「勝利」とか「強さ」という概念は、相対化されてしまっているからこそ「アリクイ最強説」のような、どう捉えればよいかわからない世界観が出てきうるのだろう。

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