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記事 22件
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第22回リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 前編<番外編>

    2017-12-13 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。これまでゲームについて語ってきた井上さんが、番外編としてゲームに強く影響を受けている近年の小説について、ジャンル別に分類/分析します。
    学習論における物語とゲームの話が終わったところで、小休止をはさみたい。というか、はさませてほしい。
    そういうわけで(?)、今回は唐突だが番外編として、「異世界転生もの」とか「なろう小説」と呼ばれるあたりの作品について一度まとめて語っておきたい。
    今までの話と何の関係があるのかと戸惑う読者もおられるだろうが、ただ、小休止的な回なので、そこらへんは今回、ちょっとゆるいのだが、関係はある。最近のこの手の物語というのが、ほとんどが「ゲーム」っぽい世界設定(ないし、ゲームそのもの)をベースにしているからだ。10年前であれば、ノベルゲームに見られる一群の特殊なリアリティ水準を指して東浩紀が「ゲーム的リアリズム」と呼んだものが、現在ではノベルゲームではなく、「小説家になろう」に投稿される異世界転生もののなかで展開されているからである。そして、この領域において卓越した作品が、この10年ぐらいの間に数多く登場している。
    筆者が対象としたいのは厳密には異世界転生そのものを扱った物語というよりは、橙乃ままれ作品や九井諒子作品などを含めた異世界のリアリティ水準を問うものだ。なので「異世界転生もの」「なろう小説」というより少し対象を広げて、勝手に「リアル異世界物語」とこれらの物語群のことを名付けたい。その基準は次のとおりである。
    i.異世界について描いた物語であり、かつ ii.我々の現代世界において起こりうる問題が異世界においてどのように生じうるか、を中心的なテーマとして扱った作品群を扱いたい。
    ただ、これだけだと『銀河英雄伝説』などの少し古い作品も入ってきてしまうので、とくにここ10年ぐらいで登場した作品群の特徴として
    iii.勇者や魔王のいる世界を前提として描いているもの
    という三つの前提を挙げたい。
    今回は、これらの基準を満たしたここ10年ぐらいに登場した重要な作品だと筆者が考えるものを紹介していく、という内容にしたい。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第21回:ゲームから物語へ(2)【毎月第2木曜配信】

    2017-11-09 10:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前回に引き続き、テーマは「ゲーム/物語」の区分です。今回はブルーナーの裁判についての議論と比較しながら、「物語の階層性」という概念を通じて、ゲームと物語の関係を解き明かします。
    ■第21回:ゲームから物語へ(2)
    3.5.7. 解釈システムの階層性
    物語化の階層性
     心理学者のブルーナーは、物語を生成させるプロセスの一つとして裁判における物語生成に着目している[1]。  裁判においては、被告と原告のあいだに異なる物語があり、双方の物語をたたかわせる。複数の物語間の衝突があり、その衝突は裁判官が正統な物語を決定することによって収束するという手順をもっている。  そして、複数の物語が、調整されるプロセスにおいて、法廷では「過去」の先例への一致が基準とされる。法大全や六法全書に掲載されている判例集との整合性をチェックし、先例との対応を考えていくことでいかにも順当な物語が選び取られる[2]。  以上のブルーナーの指摘は、ゲームと物語の関係を考えるうえでも示唆に富んでいる。「裁判」の仕組みは社会的なプロセスだが、裁判のような複数の物語がたたかわされ、調整されるプロセスというものを、一個人の認知のはたらきの過程として相似形で考えてみることにしよう。  我々は、日々数多くの「物語になりうるもの」と出会いながら生きている。 我々の日々の経験のうちのいくつかは印象深いものとして記憶され自伝的な記憶となり、いくつかの要素はそのようなものとしては記憶されない。はじめて恋人ができた日の記憶や、親族の死の記憶などは多くの人にとって記憶に残る類のものだろうが、今日の昼食が今後の人生の記憶に残るかどうかといえばよほど美味しいものにでも出会ったりしない限りはなかなか記憶に残りつづけることはないだろう。  ゲームを遊ぶなかで出会うほとんどのことは、繰り返しつづける要素の一部だ。今日の昼食とか、昨日のトイレの記憶に近い。何度も繰り返しているゲームのなかで、敵がどのような戦略を採ったか、自分がそのとき何をしたかということはそこまで詳細な記憶はないだろう。たとえ、FPSのような銃撃戦のオンライン対戦ゲームのなかで敵キャラクターを殺害していようが、味方キャラクターが殺されていようが、こまかな記憶を保持しておくのは難しい。『ジョジョの奇妙な冒険』に主人公が宿敵ディオに対して、いままで何人を殺してきたのか?という問いを発し、それに対しディオが「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」と答えるという有名なシーンがあるが、ゲームの行為というのは、まさにこのような側面がある。  しかし、プロのゲームプレイヤーたちの日常というのはそうではない。  ある朝起きたら、昨日の自分のゲームプレイの結果がニュースとして報道されるということがありうる。裁判においては、裁判官によって複数の物語のうちの一つが正統な物語として選び出されることになるが、プロのゲームプレイヤーたちの日々はジャーナリストや観客たちによって任意のシーンが重要な物語として語られることになる。たとえば、高名なチェスプレイヤーのカスパロフであれば一九九七年五月に行われたIBMのAI(ディープブルー)との対戦が「歴史的事件」として報道された[3]。  彼らの日常、彼らの試合のすべてが特別な物語、意味のある物語とみなされるわけではない。  無数のゲームを戦うなかで、任意の瞬間が、特別な「物語」として選び取られることになる。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第20回 ゲームから物語へ(1)【毎月第2木曜配信】

    2017-10-12 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。多くの人にとっては「ゲーム」は終わりを迎えるものです。しかし、羽生善治氏や梅原大吾氏などのゲームを生業とするプロプレイヤーは異なる感覚を持っているようです。「ゲーム/物語」の区分から、井上さんが概念の整理を試みます。
    ■第20回:ゲームから物語へ(1)
    3-5-6.ゲームであり、物語である
    *続くもの、繰り返すもの  たとえば、『スーパーマリオブラザーズ』を遊ぶとき、我々はゲーム機を立ち上げて一通り遊んだらゲーム機の電源を切る。そうすれば、ゲームの世界はそこで一端終わってしまう。多くのアナログゲームの経験も似たようなものだ。親戚の子供と一緒に正月に『ババ抜き』を遊ぶとき、数ゲームほど遊んだら『ババ抜き』というゲームはそれでいったんおしまいだ。半年後まで親戚の子どもが、そのババ抜きの結果について考え続け、その続きを挑んでくるということは、ほとんどないといっていいだろう。このようなとき、ゲームとは「終わり」を明確に持つものだ。 しかし、そうではないケースもある。「ゲーム」が日常のなかに埋め込んで生きている人々もいる。プロ棋士、プロボクサー、プロゲーマーなどと呼ばれる人々がそれにあたる。ゲームプレイというのは彼/彼女らの日常のなかにがっちりと組み込まれ、それは一回ごとのゲームを終えても、ある意味では続いているものだ。 たとえば、羽生善治はゲームというものについて一般人とは異なる視点をもっている。羽生本人のテクストから引用しよう[1]。

     私はよく、タイトル戦などの重要な対局で、相手の得意な戦型で戦うことがあります。それはその人の得意な戦型を打ち破って優位に立とうということよりも、どんなに研究しても、最後は実戦でその戦型のスペシャリストの人と対戦しないことには、その戦型が本当の意味で自分の身につかないと思っているからなのです。 基本的な部分は、棋譜を見たり本を読んだり、練習将棋をすることである程度は把握できますが、そこからもう一歩前進しようと思ったら、その形のスペシャリストと実戦で実際に指してみるのが最も効果的だと思います。 相手の土俵で戦うことになるわけですから、確かにそのときの勝負の面においては損をする部分もありますが、長い目で見ればそれほど損ではないのではないかと私は思っています。 仮にその一局は負けたとしても、その形を着実にマスターできたならば、自分にとってかなり大きなプラスになります。だから長期的な視野に立てば、それは間違ったやり方ではないと思うのです。 しかも、タイトル戦であれば特に持ち時間が長いので、それまでまったく理解できていなかった形でも、時間を使いながら何とか理解していくことができるのです。

     この羽生の発言は、我々のゲームプレイに対する一般的なイメージと比べるとかなり特殊だ。名人戦や、竜王戦、棋王戦といったタイトル戦は将棋マンガであれば、物語のヤマ場に置かれ「絶対負けられない戦い」として描写され、勝利にかける棋士同士の強烈な執念が描かれるような対象になるべきもののはずだ。 しかしあの羽生善治が、それは違うと書いている。そして、興味深いことに、これは羽生善治という人の特殊性を表しているかというとそういうことでもないということだ。「ゲーム」を生業とするプロフェッショナルで似たような発言をしている人物を探すことはそう難しくない。たとえば、日本のプロゲーマーとして最も有名な梅原大吾も似たようなことを書いている。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第19回 我々はどこまでいい加減なプレイヤーたりうるか?―DQ11における「死」について【毎月第2木曜配信】

    2017-09-14 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。「キノコで巨大化」「人の家のタンスを開ける」など、「メカニクス」と「表象」がしばしば乖離するゲームの世界。今回は番外編として、『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』の話題を中心に、「いい加減なプレイヤー」をめぐる問について考えます。

    (今回は、番外編としてDQ11の話をメインにさせていただきます)
     3DS版『ドラゴンクエストXI』(以下DQ11)をクリアーした。クリアー後のアレはもちろんのこと、時渡りの迷宮も最後まで終えた。  そういうわけで、いまDQ11について書かなければ、たぶん次に書く機会というのはないだろうと思うのでDQ11の話をメインに書かせていただく。とくに「ゲームとは何か」に関わる論点として、今作は「死」や「ゲームオーバー」の問題を扱っているが、けっこうざっくりとした表現の仕方だなという感想を抱いた。このざっくりとした表現をどのようにとらえるのかというのは、「ゲームというメディアにおける表象」とどのような態度で向き合うべきか、を考えたときいくつかの重要な問いを含んでいるように思うので、その問題について書きたいと思う。[1]  今回、「死」や「ゲームオーバー」の表現について2つの点で今までとは異なった試みをしている。単にストーリーのみを取り出してみた場合、なるほど、これを「よかった」という感想を抱く人が一定数いるのはわかるようなものだ。他方、逆の評価をした人も当然いたはずのものだ。たとえば『MOON』(1997,ASCII)を褒める人であれば、今回のDQ11についてどのような評価をするか、悩ましい表現があった。
     ゲームというメディアのなかでこのようなストーリーテリングをすることについて、いくつかの重要な前提を確認したうえで、この問題をどう評価するのかを述べたい。  いくつかの前提というのは、第一にゲームにおける「喩え」とどのように接するかということ。第二に我々が複合的なリアリティがつなぎ合わされたメディアとどう接するかということだ。  結論から言えば、この二つの問題にどのように扱うかによって、同じ作品に対して、まったく逆の感想を抱くことが可能だ。  これらの前提について確認していくことからはじめよう。  なお、以下のテキストは後半から当然のようにネタバレを含むのでご了承いただきたい。
    *メカニクスと表象:「喩え」の設計
     ゲームデザインにおける重要なポイントという話をする場合、難易度調整(チューニング、バランシング)、レベルデザイン(マップ・デザイン)、メカニクスデザインなどといった要素がトップクラスのものとして挙げられること。これらに並んで重要なものの一つが、ゲームデザインにおける「喩え」をどのように設計するかということだろう。  ゲームを設計する側にまわらないと気付きにくいことだが、多くのゲームはさまざまなポイントの集合でできあがっている。ポイントA:30、ポイントB:50、ポイントC:32を割りふって…といったようなポイントの集合としてゲームはみなすことはできる。シューティング・ゲームであればポイントABCはそれぞれ機体の「連射速度」「攻撃力」「機体速度」かもしれないし、ギャルゲーであればキャラごとの「好感度」「友好度」「体力」かもしれないし、レースゲームであればマシンごとの「カーブ性能」「最高速度」「加速度」かもしれない。ゲームデザインというのはこれらの「ポイント」のどのように名前を付けていくか、という作業でもある。  この問題について極めて意識的な発言を繰り返しているのは宮本茂だろう。発言を引用する。[2]

     遊びには、ゴルフタイプの「ボールをゴールの穴に入れるという、みんなが納得できるルールの遊び」と、野球タイプの「誰かがつくったルールの遊び」があるのです。だから、ゴルフタイプのゲームの場合はルールが明確なため、つくるのが比較的ラクです。それに比べて野球タイプは非常に難しい。『ピクミン』は野球タイプだったため、ルールづくりには非常に悩まされました。  最初は、「一定数以上のピクミンを集めればクリアー」というルールだったのです。でも、この「一定数」って誰が決めたの?ということになりますよね。そこで思いついたのが、「特定の数以上でないと運べない荷物を回収する」というルール。小さいものからだんだんと運びはじめるので、プレイしていくと「大きなものは重たい」という共通の認識ができるのです。そのため、たくさんのピクミンが必要になるゲーム展開となり、結果的に、ピクミンを集めるゲームとなったのです。 『ピクミン』のような野球タイプのゲームは、自然な形で目的を達成させるルールをつくることが重要です。


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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第18回 物語からゲームへ【毎月第2木曜配信】

    2017-08-10 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前回に論じた2つのゲーム的形式をふまえ、今回はゲームと物語の関係について捉え直します。

    3−5.物語認知とゲーム(学習説の他説との整合性③)
    3-5-1.二次的フレームとしての「物語」
     前回の議論で、ゲームというものが日常の内側にあるものか、外側に在るものかについて論じ、日常(一次的現実)の内側にもゲーム的な体験の一種(二次的フレーム)は充分に成立しうるという結論を得た。そして、また我々が「ゲームを遊ぶ」とき、我々の日常の感覚と、それにもう一つの感覚が重ね合わされた、重層化された経験を生きることであるということを確認してきた。一つの時間を、感覚が重ね合わせられた状態として経験する、というのは珍しい経験ではない。
     これらの話を前提として、次の論点に進みたいと思う。ここまで「二次的フレーム」という述語をあくまで「ゲーム」に関わる認知の形成として扱ってきた。しかし、世界のありようを理解するフレームは「ゲーム」的なものだけではない。その代表的なものの一つは「物語」だ。そして、この「物語」と「ゲーム」は少し難しい関係にある。
     今回はこの「物語」と「ゲーム」の関係について考えたいと思う。
     「物語」について「ゲーム」を論じる文脈のなかで語るということは、しばしばある種の問題について語ることと同義とみなされる。
     たとえば、ゲームと物語はしばしば対立関係にあるものとして語られる。ゲームというメディアが持つインタラクティヴな性質と、表現メディアとしての物語がもつ固定された性質との対立というものが重要な対立であるとみなされることは、コンピュータ・ゲームについて議論する文脈では、たびたびとりあげられる[1]。この対立関係には「ludonarrative dissonance」[2]という用語まである。
     たとえば、RPGの物語上で「強い」とされているキャラクターが仲間に加わったときに、レベル上げをしすぎていた場合そのキャラが「強い」という物語上の設定を受け入れるのに違和感が出てしまったり、物語上の強力なボスの手前でゆったりと宝箱を物色していたりするときの違和感といったものは、ゲームメディアのインタラクティヴな性質と固定された表現としての「物語」の対立の一例になるだろう。
     「物語」は、現実理解のフレームの一つとして極めて強力なものだが、このような事情から、ゲームとは対立構造にあるものとしてしばしば語られてきた。
     しかし、今回はこの対立について扱わない。この問題は重要な論点の一つではあるが今回論じようとしている文脈では不可避の論点ではないからだ。こうした対立は「ゲームと物語の本質的な対立」というよりは、「ゲームのもっている性質の一つと、物語のもっている性質の一つの対立」という部分的な問題にとどまる[3]。
     どういうことか。
     ここまで「ルール」の話[4]でも、「非日常」の話[5]でも、繰り返してきた話だがある対象に対してプレイヤーが抱く主観的な認識の問題と、対象そのものをここでも分けて論じることにしたい[6]。その前提に立ったうえで、整理するならば、「ゲームと物語の対立」というのは、プログラムの束としてのゲームと、テクストや音声として固定化された物語の対立という部分的な問題にすぎないといえる。映画/マンガ/小説/ゲームシナリオといった形で表現された「物語」は確かに固定され、閉じたものとしての性質を持つが、それは表現メディアとしての性質であって、我々が日常において経験する物語的な認識プロセスとか、物語の経験全体が閉じているわけではない。家族や友人と、今日あった出来事について話し合うときに、そこで語られる物語は決して閉じているわけではない。そのようなときに語られ/生成される物語は、固定されているどころが、インタラクションを通じて生成されるものだ[7]。我々の日常は、小説を読むようにして流れているわけではない。そして、今回扱おうとしているのは、このような現実理解の枠組みとしての「物語」の現れ方である。
    結論を先取りしていえば、世界を理解する仕方としての「物語的な理解」と、「ゲーム的な理解」といったものは、対立するどころか相互になだらかにつながっている。
     それは本連載の当初、イラクにおけるアメリカ軍の「誤射」の映像を、リークした事件についての複数の感覚の現れについて理解するうえでも重要な議論だ。イラクの人々のドキュメンタリー映像を見て、ノンフィクションの記事を読み、同時に中東の戦場へと赴くゲームをプレイするとき(1)「戦争が人々の生活を残酷に破壊してしまった」(2)「これなら誤射をしてしまいかねない」というふたつの感覚はパラレルに成立する可能性がある、ということを論点としてとりあげたが、この問題の理解にも関わるものだ。
     我々の日常の中にも、非日常のなかにもゲーム的な状況も、物語的な状況も埋め込まれているし、埋め込まれうる。そして、このように「ゲーム」が日常のものに混ぜ込まれうる、という前提は「ゲーム」観について、いくつかの新しい事態をよび起こすことになる。 「物語」と「ゲーム」概念の差分について確認をしながら、それがいったいどういう意味なのかを示していきたい。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第17回 二次的フレームの形成【毎月第2木曜配信】

    2017-07-13 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲーム好きが一度はハマる「やりこみ」、この本来の遊びの範疇を逸脱する奇妙な欲望を手掛かりに、「フレームからの逸脱」と「一時的現実に対する複数の合理性」という2つのゲーム的形式を論じます。


    3-4-4.二次的フレームの形成
     前々回、気ままにポケモンを遊んでいるこどもに強制でポケモンを遊ばせたところ、ポケモンに飽きてしまったという話を紹介したが、その逆のような話をしたい。
     何かのゲームにハマりまくった結果、誰にも強制されていないはずなのに、苦行のようなゲームプレイをしてしまったということはないだろうか。ある程度、一つのゲームをずっと遊んでいると普通のゲームプレイではあきたらなくなってくるということは、ゲームが好きな人であれば多くの人が体験として知っていることだろう。
     こういったゲームをやりこむという行為で有名なものの一つに、かつてファミ通で実施されていた企画である「やりこみ大賞」というものがあった。とてつもなく暇人でなければ達成できないのではないか、という驚異的で変態的なゲームの遊び方がしばしば投稿された。とりわけ、多くの人に衝撃を与えたやりこみに『ロマンシングサ・ガ3』(ロマサガ3)の「セレクトボタンを押さずにクリア」というものがあった。『ロマンシングサ・ガ3』では、セレクトボタンはいわゆるメニューボタンであり、これを押せないということは(1)ノーセーブクリア、(2)初期装備のままクリア(3)陣形・キャラ配置・技の入換え不可(4)ステータス確認不可ということを意味している。
     これは同じゲームをある程度やりこんだ人にとっては大きな衝撃を生んだようで、あらたな「やりこみ」を導いた。次の引用は、ファミ通のやりこみ大賞を見て、自分でもやりこみをはじめたという人が書いたテキストだ。[1]

    当時中学生だった私は「セレクトボタンを押さずにクリア」を始めてみたとき、感動に身を震えさせました。
    想像を絶する内容のやりこみが大賞に選ばれて「これ以上のやりこみはもう生まれないだろうなあ」と素直に思いました。
    まだまだ小さな視野でしかロマサガ3を触れなかった私には別次元の存在を見せ付けられた心境でした。
    無理とか不可能とかいうレベルではなく、賛美するしかないような威圧感のあるやりこみ。
    それが私にとっての「セレクトボタンを押さずにクリア」です。
    それから8年の歳月の間このやりこみの影を追うようにロマサガ3と付き合っていました。
    ロマサガ3のやりこみの見るたびに必ず「セレクトボタンを押さずにクリア」をものさしにしている自分が居ました。
    それは"崇拝"という言葉がもっとも近い表現でしょう。
    しかし自分がロマサガ3のやりこみ人としてネットで活動し始めてから、徐々にその信仰は薄らいでいきます。
    自身の達成したやりこみも「セレクトボタンを押さずにクリア」をものさしにして自虐していることに気づいたとき、ひどい嫌悪感に陥りました。
    崇拝なんて奇麗事ではなく、自身が達成できない領域にあるものに対して嫉妬していただけだったのではないか。
    その事実に気づいたとき、無性に悔しくなり、決心します。
    私も「セレクトボタンを押さずにクリア」を達成しよう
    いつまでも影を追いたくなんかない。
    自分のやりこみに自信を持てない人間なんかやりこみなんて語ることすらおこがましい。
    過去の自分に決別する意味でもやらなければならないと感じました。
    こうして2004年1月のある日、私は1年ぶりにロマサガ3とSFCを押入れから取り出したのです。
    それから数ヶ月の間は空いた時間に少しずつロマサガ3のデータを集めながらテストプレイを行う日々が始まりました。
    最初は不可能だと思っていた「セレクトボタンを押さずにクリア」も徐々にその形を現してきました。
    8年前に容赦なくたたきつけられたハードルがようやく私にもしっかりと見え始めてきたのです。
    そして4月のある日、一つの攻略ルートを叩き出しました。
    この攻略ルートこそ私が三ヶ月の歳月をかけて完成させた「セレクトボタンを押さずにクリア」です。
    あとはその攻略ルートをベースにテストプレイやリハーサルプレイを重ねついに5月7日に「セレクトボタンを押さずにクリア」を達成しました。

     ゲームをやりこむということは多くの人が経験しがちな体験であるが、この人固有の『ロマンシングサ・ガ3』への情熱は他人とは異なる特殊なものである。この特殊で、強い情熱は「気ままに遊ぶ」というありかただとは言い難い。
     筆者にとっても『ロマンシングサ・ガ3』は合計で一五〇時間以上は遊んだ記憶があるが、おそらく筆者が把握しているゲームと、この人にとって見えているそれは半分以上違うゲームだ。
     実際に、この人が引用部のあとに詳細に述べている『ロマンシングサ・ガ3』の攻略についての話は、筆者が記憶しているそれとはだいぶ違っている。正直なところ、何を言っているのか、細かいところはよくわからない。先に挙げた基準でいえば「意味的独立の共有可能性」を満たしているといえるのかどうかが怪しい。この人が使っているゲーム内の攻略を指し示す用語も体感レベルではよくわからないし、楽しみどころも、苦しみどころも、体験を共有しているとは言い難い。
     もちろん、それは同じ『ロマンシングサ・ガ3』であっても、「セレクトボタンを押さずにクリア」を押さずにクリアをしているという新たなルールを課したことで、ルール上も別のゲームに変質してしまっているから、ということができる。しかし、ここまで激しいやりこみにならなくとも、この一歩手前、二歩手前ぐらいのレベルまである特定のゲームをやりこむとこれに近い状況がでてくることはある。これといって特殊なルールの縛りをつけると決めたわけでなくとも、その人固有のこだわりのようなものがボンヤリとかたちをとってきて、同じゲームを遊んでいるはずが、少しずつ違った体験を構成しているということはよくある。
     たとえば、筆者の友人のS氏にとっては『スーパーマリオブラザーズ』は「いかに手際よく無限1UPをするか」というところがゲームの醍醐味だという。おそらくそういった形で遊んでいる人はほかにもいるのだろうが、筆者はそういう遊び方はしていなかったので、S氏の話す『スーパーマリオブラザーズ』の話は同じゲームの話をしているとは思えないときがあった。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第16回「非日常」をめぐる四つの中間の概念をつくる【不定期配信】

    2017-06-01 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲームの持つ「非日常性」について検証しながら、学習効果によって獲得される「二次フレーム」という概念を導き出します。

    3-4-3.「非日常」をめぐる四つの中間の概念をつくる

     前回までに、繰り返し述べてきたようにゲームを論じるために日常/非日常、現実/非現実といった要素がくっきりとキレイにわかれるということはない。分けようとすればするほど無理な議論をしなくてはいけない。
     しかし、日常/非日常をめぐる問題を扱うための論理を開発しなければ、我々はそれについて、まともに議論をすることもできない。前回、ゲームにおける「非日常」――とりわけ「マジックサークル」――を構成するいくつかの要素をリストアップした(時間的独立性、空間的独立性、虚構世界の独立性、ルール的独立性、参加者の判別可能性、意味的独立の共有可能性、情報の判別可能性、外部への無影響、内部への無影響、参加の自由、退出の自由、独立した価値規範、可避性、非重要性)が、単に細かく分けただけでは、議論が際限なく細かくなるだけだ。
     これを扱うためには、細かすぎず、かといって粗すぎるわけでもない中間レベルの概念を操作的に定義することで議論をすすめていきたいと思う。
    *非日常の区分可能性:一次的現実と二次的現実を切り分けるもの
     素直に「非日常」という言葉の最低限の意味をとるのであれば、それごはんを食べたり、通勤・通学をしたり、排泄をする「この現実」を成立させているものとは、「別の現実」の現れを指す言葉だろう。
     前回、リストアップした要素のうち、およそ半分近くは、この「別の現実」の切り取りを可能にするための要素といえるものだった。具体的には次の7つである。

    時間的独立性
    空間的独立性
    虚構世界の独立性
    ルール的独立性
    参加者の判別可能性
    意味的独立の共有可能性
    情報の判別可能性


     議論が紛糾しがちなのは、これらのうちのどれか一つでも不成立ならばそれは「日常と非日常が曖昧になっている」と言いうるのか。それとも、一つでも成立していれば「日常と非日常が区分け可能である」と言いうるのか。という点だ。
     ためしに上記の基準に沿って「『ポケモンGO』は非日常と日常の区分けを曖昧にしたか?」という問いについて考えてみよう。
     まず「このゲームは日常と非日常の境界が曖昧で、ゲームが現実を侵食した」という言い方を支持できるだろうか?時間的独立性や、空間的独立性、参加者の判別可能性などといった複数の要素が不成立となっているという点で『ポケモンGO』では日常と非日常の区別が曖昧になっているという言及は妥当である。
     他方で『ポケモンGO』を遊ぶときも、ゲームと現実の境目は区分け可能な形でも提示されていると言いうる。虚構世界の独立性、ルール的独立性、意味的独立の共有可能性、情報の判別可能性といったいくつかの要素は一般的なゲームと同様のかたちで成立しており、ほんとうに区別が付けられないということはないからだ。
     『ポケモンGO』はいくつかの基準では非日常と日常の境目を侵食しているといえるし、別のいくつかの基準ではまったく問題なく両者は区分け可能であると言いうる。どちらとも言えるし、どちらとも言えない。確かに言いうることがあるとすれば、「『ポケモンGO』は非日常と日常の区分けを曖昧にしたか?」という問いにYESかNOの二択で答えは成立しないということだ。
     YESかNOの二択で語ることができないならば程度問題として片を付けるよりほかない。この程度問題をなるべく丁寧に論じるための概念としてこの「区分可能性」に属する諸要素がそれぞれどのような状態にあるかということを論じることによって区分けの問題はある程度の粒度で整理できるだろう。
     また、この区分可能性によって切り分けられる「日常」の側を一次的現実、「非日常」の側を二次的現実という述語を割り当てることにしたい。
    *あらためて「遊びの堕落」の問題を整理する 
     さて、ここまで議論を確認したところで、あらためてカイヨワの指摘した「遊びの堕落」という論点について考えていきたい。
     プロのボクシングが遊びではないのではないかという指摘をどのように考えることが可能だろうか?
    まずプロボクシングやプロの将棋の棋士の場合、これらは周囲の人間からすれば区分可能性の問題はほとんど存在しない。たとえば、プロボクサーが、ボクシングをするとき、その時空間は明確に区分可能な場所となっている。プロレスラーの悪役などが場外乱闘をしはじめると、そういった時空間はやや曖昧性を帯びてくるが、基本的にはプロボクサーや棋士といった人々がゲームをするときの時空間はくっきりと区別をつけることができる。
     もっとも、本人たちにとってはこの区分可能性はもう少し曖昧になる。たとえば、日々のトレーニングや勉強の時間も彼らにとってはゲームの延長だと捉えることもできるだろう。ただし、その場合もリングの内側/外側、試合中の時間/試合外の時間という区分線自体が崩壊するわけではない。
     では、何がプロボクシングや、棋士の日常と非日常を接合してしまっているのか?区分可能性が問題なのでないとすれば、問題とされているのは、むろんそれ以外の要素だ。
     第一に、ゲームの内部から外部への影響は大きい。ゲーム内での勝ち負けは当事者の年収やキャリアに直結する。プロボクサーにとって、ゲームという行為は日常生活を成立させるうえで極めて重要なものになる。
     第二に、ゲームをはじめる自由、ゲームから退出する自由は、転職でもしない限りゲームをいつはじめて、いつやめるかを気ままに決めることができるわけではない。参加の自由と、退出の自由は大きく制限されている。
     こういった形で、プロボクサーや、棋士にとってのゲームは区分可能性以外の非日常性の要件の多くを満たさない。(注1) つまり、カイヨワの言う「遊びの堕落」とは非日常性の区分可能性についての指摘ではなく、それ以外の要件についてのものである、ということだ。
     別の言い方をすれば「好きなことを仕事にすべきではない」といったようなよく聞く人生訓の含意は、ある特定の「好きな」行為について、参加の自由・退出の自由を制限し、所得への影響をもたらすことをやめておくべきだと言っているということでもある。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第15回 ゲーミフィケーションは「ゲーム」ではない?【不定期配信】

    2017-04-11 07:00  
    540pt


    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回はゲームという現象における「非日常」の重要性を論ずるべく、「マジックサークル」と「非日常性」という概念の整理を試みます。

    3−4.ゲーミフィケーションは「ゲーム」ではない?:「非日常」概念をめぐって(学習説の他説との整合性②)
     前回まで、「ルール」「ゴール」といった要素と、ゲームプレイ時における「学習」プロセスがどのようにその関係性を把握できるかをみてきたが、次は「ゲームとは非日常的なものである」という基準との関係性をみていきたい。
     ただし、このゲームを「非日常」と捉える仕方はルールやゴールをめぐる議論以上に前提の整理が必要となる。ホイジンガはもちろん、なんだったらプラトンまで遡ることも可能な伝統のある基準であり、かなり重要な論点の一つになりうることは明らかだ。しかし、ルールやゴールといった要素がゲームにとって何かしら重要なものであろうということは、ゲームをめぐるほとんどの論者が認めているのに対して、この「非日常」に関わる概念は重要なものであるにしても、論争的なポイントをいくつももっている【注1】。
     この節では、まず「非日常」という要素がそもそもゲームという現象にとってなぜ重要かということを確認したうえで、この要素の扱いにくさや複雑性を整理する。その少し面倒な整理をしたうえでなければ、そもそも一体何を議論しようとしているのかがわからなくなってしまうからだ。そして、それらの前提を経たうえで、学習説と「非日常」概念との関係をみていくことにしたい。
     まず、この基準の重要性を直感的に示すために、ツイッターで広く拡散されたツイートを引用するところからはじめよう。

    昔、先輩の息子さんがポケモンにどっぷりで、先輩の奥様が「ゲームは1日1時間!」「たまには外で遊びなさい!」と注意しても全然やめなかったという
    そこで先輩が「ゲームの時間は無制限」「ただし一日X匹ゲットをノルマ」「結果報告は毎日義務」「義務を怠ったら叱責」という方針に転化。最初は息子さんも大喜びだったらしいけど、休日も「ほら!まだポケモンやってないぞ!」と言われるうちに徐々に飽き、無事サッカー少年に転向したとか【注2】

     こういった現象はアンダーマイニング効果(Social Undermining) 【注3】として動機付け研究のなかではよく知られている。日常の煩わしいことから逃れうるものとして楽しんでいたはずのことを、あえて日常の煩わしいことの一部に位置づけられてしまうと、人々はとたんにそれをつまらないものとして感じてしまう。
     日常の煩わしいことをゲームのように感じることは難しい。「好きなことを仕事にしなさい」という人生訓がひろく共有されているのと同様に、「好きなことを仕事にしてはいけない」という人生訓はあまりにもポピュラーなものだが、この人生訓の言わんとすることはそういうことだ。
     ゲームを商売のタネにすること自体が、ゲームの在り方としてダメなことなのではないかという批判もある。たとえば、カイヨワは「遊びの堕落」という一章を設けて、ゲームで商売をしていく人々について次のように見解を述べている。

    プロのボクサー、競輪選手、俳優たちにとっては、アゴンやミミクリは、もはや彼らの疲れをいやす気晴らしではない。うっとうしく単調な仕事に変化を与えるための、気晴らしではなくなっているわけだ。それは生活のかかっている労働そのものであり、障害と難関だらけの根気の要る日常活動なのである。彼らがその疲れを休めるのもまさに遊びによってであるが、ただしそれらは彼らを拘束しない遊びなのだ【注4】。

     こうした論理の延長線上には、もちろん「日常のなかにゲーム的要素を埋め込む」ことをうたっているゲーミフィケーションも批判の対象に含まれることになる。ゲーミフィケーションはその概念の成り立ちからして「非日常性」という基準とは相性がわるい。
     「日常のなかでゲームを混ぜ込んでしまうと、ゲームを楽しむという現象自体がそもそも成立しないのではないか」という批判は、実際にある程度まで妥当するところもある。とくに、ゲームをすることが義務として社会的に何かしらの権力をもった相手との関係性のなかで為されるのであれば、「ゲーミフィケーション」などということはほとんど成立しない。代表的なのは、会社の営業部で壁に各社員の成績を露骨に張りだして競わせるようなやり方だ。こうした仕方で競争を仕掛けることは成績上位の社員であればまだしも、成績が下位を低迷しているような社員にとっては自分を貶めてくるようなストレスにしかならない。
     こうした指摘を鑑みるのであれば、ゲーミフィケーションというのは確かに嘘っぱちである。ゲーミフィケーションは競争を作り出せるかもしれないが、楽しいゲームを作りださせることはできない、ということになる。
     しかし、実際に「ゲーミフィケーション」とされるようなサービスを会社や日常生活のなかに取り入れる場合は、この指摘は常に妥当するわけではない。いくつかのケースがあるが、もっとも王道的な対応は、そこに参加する各人が自由にゲームに参加でき、やめたいと思ったときに自由にやめることができるような状態のなかでゲームに参加してもらうことである。日常の中にゲームが入り込んでいること自体が問題というよりは、日常のなかの「義務」として自由が剥奪されている状態こそが問題なのだ。そのため、会社内へのゲーミフィケーションを考える場合、絶対に成し遂げられなければならないような基幹業務に競争的な仕組みなどを導入することはあまりおすすめできないということになる。少なくとも社員の精神状態にポジティヴな効果をもたらすことはあまり期待できない【注5】。
     「非日常性」という要素はこのような形で直感的にはゲームの楽しさを支える重要な要素であるように思えるところがあり、一定の説得力もある。しかしながら、ゲーミフィケーションのような概念が成立してしまうこと自体が「非日常性」という基準が厳密な基準を満たしえない曖昧性をもった概念であること示している。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第14回 ゲームにおける「能動性」という神話:あらためて『FF15』について【不定期配信】

    2017-03-21 07:00  
    540pt


    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、FF15のキャラクターの移動シーンをヒントに、〈能動性〉を本質とするゲームにおいて、プレイヤーの意識の外にある、〈ぼんやりとした〉行為がどのような意味を持つのかについて検討します。

    「なぜ俺は『FF15』を遊んでしまうのか?」

     「『FF15(Final Fantasy XV)』のような、わけのわからないゲームを俺はなぜこんなに長時間やってしまうのか…」という告解をここ数ヶ月で複数人の口から聞いた。
     少なからぬゲーマーにとってこの経験は、衝撃的…というか、何か特殊な困惑のようなものを引き起こしているようだ。
     なぜ、そのような困惑が引き起こされるのかといえば、それは彼らにとっての「面白いゲーム」の価値観を揺らがすようなものだからだ。少なくとも『FF15』のシナリオは30代、40代の中年ゲーマー向けではない。ゲームの流れも、刺激的な時間が延々と続くというようなものではなく、息をつく暇もなく興奮が連続するようなものではない。今時の売れ筋大作ゲームと比べると、かなりまったりとした時間の流れるゲームだ。
     これは、ある種のゲーマーに戸惑いを生むのは当然といえば当然だろう。
     どのようなゲームを「面白いゲーム」だと捉えるかには派閥があるが、一つの派閥は「能動的に」やることがたくさんあって、飽きさせないようなものこそが面白いゲームだというような派閥だ
     上記のような要素に反するようなつまらなさを感じさせるのは、RPGのレベル上げだとか、「おつかいクエスト」の連続などだろう。90年代中盤以後、多くの人が「一本道RPG」とか「一本道シナリオ」といった要素をだめなゲームの代表格であるかのように呼んだように、海外でもGonzalo Frascaは、ゲームプレイの際におけるこうした側面をErrand boy syndrome(使い走り症候群)と呼んでいる。同じようなことをただ延々と繰り返すだけのほとんど頭を使わない、ロボットになったかのような時間は、多くのゲームプレイヤーにフラストレーションを感じさせてきた。それゆえに、能動的に様々なことを考え、刺激にあふれたようなゲームこそが面白いゲームなのだという言説は、洋の東西を問わず、強固な位置を占めている。そして、FFシリーズはこういったタイプのゲーマーからはしばしば目の敵にされる代表的なシリーズだったといってもよい(なので、この派閥のゲーマーであったにも関わらず、いまだにFF15をプレイして「意外とよかった」とか言っている人々はかなり付き合いのいい人達でもある)。
     こういう派閥のゲーマーたちは、ある時期には自覚的に「ゲェム右翼」と名乗ったこともあった。
     ただ、こうした主張が、常に妥当なものではないということはすでに多くの人の実感によって、更新されたはずだ。それだけが本当に面白いゲームの要素なのであれば、ゲームにかかわる説明できない現象がある。
    反例としてのソーシャルゲーム
     その一つは、言うまでもなく「ソーシャルゲーム」と名指される一群のゲームだ。本連載を読んでいる人には、あまり多くの説明を要しないと思うが、ソーシャルゲームは常に刺激的、というよりも、たまに刺激的なゲームであるという程度のものに過ぎない。
     SNSやスマートフォンといったインフラを介して評価を得たゲームにはこうしたものが多い。とある放置系のアクションRPGを指して「ゲームとして楽しいかどうかはわからないけど、やることに対するハードルがあまりにも低いからやめられない」と述べた米光の言葉はある種のゲーマーの実感を見事に示しているように思う。
     そして、このような刺激の低いゲームプレイを可能たらしめているのは、ゲームデザインの巧みさだけではなかった。多くの人が指摘するように「スキマ時間」を使ったゲームプレイが可能であるということだ。常時起動のFacebook上や、iPhone上でゲームをするという体験と、TVモニターの前に陣取ってゲーム機を起動して「さぁ、やるぞ」という意識で画面に向き合うのとでは、ゲームに向き合うときの態度がまったく異なっている。
     ただ、ソーシャルゲームをプレイするときに刺激が弱くてもよい。刺激が弱くてもゲームプレイが成り立つ。というのはもはや目新しい話ではないだろう。世界中の数億の人が体験したことだ。
    能動的な関わりだけが楽しい時間なのか?
     ソーシャルゲームのような反例があったのにも関わらず、『FF15』は改めて困惑を生んだ。なぜかといえば、『FF15』はSNSのゲームでも、スマートフォンのゲームでもなかったからだ。
     『FF15』の特異なところはいくつかある。その特異性を指す表現の一つは、「『FF15』は『水曜どうでしょう』ではないか」という説だ。この説は、発売直後に評判を呼んだものだが、緊張感のない男数人がだらだらと話しながら車で移動するのも、旅の途中で本来の目的を忘れて釣りだとか、どうでもいいことに力を入れ始めるのも、いかにも、人気旅番組の『水曜どうでしょう』の風景と似ている。というのがこの説のいわんとするところだ。このような説が評判を呼んだことからも明らかなとおり、『FF15』の移動は実にダラダラとした感触を与える。しかしながら、そのダラダラは、ゲームプレイヤーにとって肯定的に捉えられている。
     こういった「ダラダラとした移動」がゲームにとって肯定的に語られるというのは、かなり新しい事態だといっていい。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第13回 プレイヤーのいないゲームは存在しうるか?【不定期配信】

    2017-02-01 07:00  
    540pt
    【配信日程変更のお知らせ】毎月第1水曜日更新の猪子寿之さんの〈人類を前に進めたい〉は、諸般の事情により今月は配信日程を変更してお送りいたします。楽しみにしていた読者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、次回の更新まで今しばらくお待ち下さい。

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲームの本質を、プレイヤーが技能を習得する過程にあると考える「学習説」に、ルールやゴールの存在を重視する「ルール/ゴール説」を接続することで、ゲーム体験を包括的に説明しうる理論の構築を試みます。
    3−2−2.プレイヤーのいないゲームは存在しうるか?
     ここまでの議論を別の角度から問うことにしよう。Björk【注1】らはゲームとは何かという問題を考える上で重要な論点の一つとして「プレイヤーのいないゲーム」について考えるということを挙げているが、本稿でもその問題を取り扱うことにしたい。
     「プレイヤーのいないゲームというのは存在しうるだろうか?」
     ここまでの議論を踏まえると、この疑問に対する答えはイエスとも、ノーとも言える。
    1)プレイヤーのいないゲームは存在しない
     ゲームというものは、しばしば誰かしらの人間の遊び手によって積極的に遊ばれるものと想定されることが多い。特にゲームというものが誰かによって楽しまれたり意思決定されたりするような何かしらの人間の認知現象を介したものとみなすような立場(認知論的立場)からすれば、プレイヤーのいないゲームというのは存在しないということになる。
     たとえば、人間の主体的な認知を要するものとしては、学校における学習場面のようなものがあるが、学校における学習は教師側の役割が映像教材のような意識をもたない存在になることは可能かもしれないが、生徒の側が人工無能的な弱いAIのようなものになるといったことは考えにくい。AIにサンプルデータを学ばせることもまた学習とは呼ばれることには呼ばれているが、いまのところはそれが、人間のような存在が何かを学習するということとほぼおなじものとみなすことは少ないだろう。特定のアルゴリズムの集合体に、データを読み込ませるという行為と、人間の学習という行為のあいだには、いくつかの違いがあるが、その大きな違いの一つは何かしらを認知する意識の有無だ。意識のない存在が喜んだり、悲しんだりするという想定を我々はもっていない。
     現実空間をごく決められたパターンでしか認識できないようなアルゴリズム同士が、学校のような現実空間で、教師役と生徒役をやっていたとしたら、それは何かポストアポカリプス的なシュールさの漂う風景に見えるだろう。せめて生徒役は、もう少し意識のある存在でないことには、我々の日常感覚からするとあまりにも変わった風景に見える。
     人間の意識を必要とするはずの「ゲーム」というものが、人間の介在を必要としないというのは、どうも奇妙だ。その意味で、プレイヤーのいないゲームというものは存在しない、といえる。
    2)プレイヤーのいないゲームは存在する
     では、「プレイヤーのいないゲームは存在する」とはいいうるか?といえば、これを支える立場は、議論の立ち位置を逆にすることで成立させることが可能だろう。つまりルールやゴールといった形式によってゲームを定義するような――ここまで「形式論」と呼んできた――立場に根ざして考えれば、むしろこちらのほうが自明だということになるだろう。
     先述のBjörkらの指摘【注2】でも、プレイヤーという概念を、意識のあるものとして想定しないかたちで、「プレイヤーのいないゲーム」の例がいくつか挙げられている。
     たとえば、近年コンピュータによる将棋や碁のプログラム同士の対戦が話題になることが多くなったが、将棋AI同士の対戦を観戦するときに、そこで「ゲーム」が行われていると思うことができるのならば、そこには「プレイヤーのいないゲーム」は存在している、と言いうる、ということになる。
     将棋AI同士の対戦は、ルールもゴールも明確に設定されており、ゲームのエージェント【注3】同士のインタラクションも存在する。こういったかたちでゲームとしての形式的なポイントがおさえられていれば、それはゲームだといいうるという立場をとることはできるだろう。
     以上、二つのまったく別々の解釈について述べてきたが、これらを一行にまとめてしまえば、プレイヤーのいないゲームは存在するとも言えるし、プレイヤーのいないゲームは存在しないとも言える、という結論になる。
     両者はもちろん、相容れない結論である。しかし、前者は認知論的に一貫した説明が可能であり、後者は形式論的に一貫した説明が可能である。つまり、そこには認知論か、形式論か、という前提の差がある。この前提の差がなぜ生じるのか。
     「プレイヤーのいないゲームは存在するか?」という問いは、この前提の差を整理することを通して、より明確に理解されることになる。

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