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記事 13件
  • 『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第13回『ドラえもん』のルーツ/偉大なる縮小再生産 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.657 ☆

    2016-08-02 07:00  
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    『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第13回『ドラえもん』のルーツ/偉大なる縮小再生産
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.8.2 vol.657
    http://wakusei2nd.com


    今朝は稲田豊史さんの連載『ドラがたり――10年代ドラえもん論』をお届けします。今でこそ、健全な子供向け作品の大家として知られている藤子・F・不二雄ですが、その裏には、ブラックな作風と強烈な文明批評を得意とするSF作家としての顔も持ちあわせています。『ウメ星デンカ』から『モジャ公』『ミノタウロスの皿』まで、60年代末に描かれたカルト的な魅力を持つ作品群が、後の『ドラえもん』に与えた影響について論じます。
    ▼執筆者プロフィール
    稲田豊史(いなだ・とよし)
    編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『パリピ経済 パーティーピープルが市場を動かす』(構成/原田曜平・著)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。
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    前回:『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第12回 反戦・冷戦・核・原発

    ●「不思議な道具」を生みだす手ぶくろ
     藤子・F・不二雄が作家活動を開始したのは1951年。その18年後、69年に『ドラえもん』が誕生するまでの間には、『ドラえもん』の前身、もしくはプロトタイプ(原型)と呼ぶべきルーツ作品が、何本か描かれている。
     それらは、のちに『ドラえもん』に結実するエッセンスを多分に含んでいたばかりか、むしろ『ドラえもん』よりも先鋭的・実験的な面白さに満ちていた。
     すなわち、『ドラえもん』は決して突然変異的に生みだされた斬新作ではなく、それまでのF作品のパーツをかき集め、いいとこ取りした集大成であった。意地悪く言うならば、パーツ流用による「縮小再生産」の産物とも言えよう。今回は主なルーツ作品を追いながら、それを検証したい。
     60年、Fは「たのしい一年生」(講談社)誌上で『てぶくろてっちゃん』の連載をスタートする。多くのFファンの間で『ドラえもん』のプロトタイプとの呼び声が高い、1話完結モノだ。

    『てぶくろてっちゃん』(1960〜63年連載)(出典)
     主人公てっちゃんは万能の手袋を持っている。この手袋を使えば、折り紙などの無生物が動き出したり、科学を超越した道具を作り出したりできるのだ。「不思議な道具」「児童向け」「日常生活に入り込んだSF(すこし・ふしぎ)」――たしかに、『ドラえもん』的な要素が満載だ。
     かつて『パーマン』の担当だった元小学館編集者の野上暁は、藤子・F・不二雄大全集『てぶくろてっちゃん』第2巻の巻末解説に、本作が『ドラえもん』の原点的作品であるという主旨の文章を寄せている。ストーリー展開や登場する道具の機能面で、『てぶくろてっちゃん』と『ドラえもん』には共通点があるというのだ。
     『てぶくろてっちゃん』連載開始当初、Fは既に人気作家だった。前年の59年から、初の週刊漫画誌連載として描き始めていた『海の王子』(「週刊少年サンデー」連載、原作:高垣葵)が人気を博していたのだ。なお、『海の王子』はFの単独作ではなく、藤子不二雄Aとの合作である。
     『海の王子』はギャグ要素のないSF冒険活劇だったため、Fはこのまま少年向けSF(サイエンス・フィクション)作家としてキャリアを重ねていく可能性もあった。しかし、日常生活に入り込んだSF(すこし・ふしぎ)作品である『てぶくろてっちゃん』が好評を得たことで、Fは児童・幼年向けの「生活SF作家」に、舵を切ることになるのだ。
    ●相棒としての擬人化ロボット
     『てぶくろてっちゃん』連載中の62年、Fは小学館の学習雑誌(『幼稚園』『小学一年生』と『小学二年生』『小学三年生』)において、『すすめロボケット』の連載を立ち上げる。

    『すすめロボケット』(1962〜65年連載)(出典)
     本作は主人公のすすむとロボケットのコンビが事件を解決する、コメディタッチのSF作品だ。「ロボケット」とは、「ロケット」と「ロボット」が一体化した、擬人度の高いキャラクターで、すすむが乗り込んで移動することもできる。
     ロボケットは頑丈なボディと怪力によって敵との直接格闘が可能だが、背丈は人間に近く、まったく兵器然していない。つとめてマンガチックであり、人格もあれば茶目っ気もある。
     ロボケットの「擬人化された、主人公の相棒としてのロボット」の部分は、22世紀から来たネコ型ロボット・ドラえもんとも重なる。
     Fは『すすめロボケット』を、「『海の王子』の幼児版を描いてほしい」という編集者のオーダーにしたがって創作した(「季刊UTOPIA 6号」ユートピア・刊/81年)。たしかにSFアクション要素は『海の王子』ライクではある。ただ、ときおり織り込まれる生活感のあるギャグ要素は、『海の王子』にはないテイストだ。
     こうしてFは、「生真面目なSF冒険モノではなく、日常生活を背景にしたSFコメディ」の手応えを、『すすめロボケット』に見出した。『ドラえもん』誕生の土壌は着々と整えられてゆく。
    ●バディ居候モノの原型『オバケのQ太郎』
     藤子不二雄名義、もしくは88年のコンビ解消後の藤子・F不二雄名義の作品のなかで、『ドラえもん』に次いで知名度が高い「藤子マンガ」は『オバケのQ太郎』ではないだろうか。
     藤子不二雄Aとの事実上最後の合作である通称『オバQ』は、『ドラえもん』連載開始の5年前、64年に「週刊少年サンデー」ほかでスタートした。日本児童マンガ史に残る、生活ギャグマンガの金字塔的作品だ。

    『オバケのQ太郎』(1964〜66年連載)

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  • 『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第12回 反戦・冷戦・核・原発【毎月第1水曜日配信】☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.636 ☆

    2016-07-06 07:00  
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    『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第12回 反戦・冷戦・核・原発【毎月第1水曜日配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.7.6 vol.636
    http://wakusei2nd.com


    本日は稲田豊史さんの連載『ドラがたり』をお届けします。『ドラえもん』の物語に何度も登場する、東西冷戦を背景とした「戦争」や「核」といったモチーフ。特に、エコロジー思想に傾倒する以前の作品では、藤子・F・不二雄が得意とする、辛口のアイロニーとブラックユーモアを堪能できます。いまだ色褪せることのない社会派SFとしての、往年の名エピソードの数々を論じます。
    ▼執筆者プロフィール
    稲田豊史(いなだ・とよし)
    編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『パリピ経済 パーティーピープルが市場を動かす』(構成/原田曜平・著)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。
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    前回:『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第11回 土地とカネの物語
    ●みじめで滑稽な独裁者のび太
     「『ドラえもん』は大人の鑑賞にも堪える作品」という文脈の中で、必ず話題にのぼるエピソードがある。てんコミ15巻「どくさいスイッチ」(「小学六年生」77年6月号掲載)だ。
     ブラックユーモアドラの最高傑作とも言える会心作であり、ある程度ドラえもんリテラシーのある大人同士で「好きなエピソード」を交換しあう際には、鉄板で盛りあがること請け合いの1本。「トラウマ回」と呼ぶファンも多い。その概要はこうだ。
     
     ジャイアンにひどい仕打ちを受けて「あいつさえいなけりゃ……」と嫌気が差したのび太に、ドラえもんは「どくさいスイッチ」を渡す。ボタンを押すと気に入らない相手を消せるスイッチで、未来の独裁者が、自分に反対する者や邪魔する者を消してしまうために作らせたという。
     「じゃま者は消してしまえ。すみごこちのいい世界にしようじゃないか」と不気味に耳打ちするドラえもん。しかも、消された相手は「最初からこの世界に存在しなかった」ことになる。恐ろしい道具だ。
     のび太は少し躊躇するが、結局はジャイアンを消してしまう。しかしジャイアンのいない世界ではスネ夫がいじめっ子になっており、今度はスネ夫も消してしまう。
     友人を二人も消してしまったことで良心の呵責にさいなまれるのび太。疲れて昼寝を決め込むが、夢のなかでは周囲の皆が自分を笑い、責め立てる。寝ぼけたのび太は「だれもかれも消えちまえ」と叫び、はずみでボタンを押してしまうのだ。
     こうして、世界中からのび太以外の人間が消えてしまう。

    てんコミ15巻「どくさいスイッチ」(「小学六年生」77年6月号掲載)
     のび太はかなり動揺するが、なんとか気を取り直す。「この地球がまるごとぼくのものになったんだ。ぼくはどくさい者だ、ばんざい!」と自分を奮起させるのび太の姿が悲しい。
     のび太は無人の商店からお菓子や食料、ゲームやラジコンを調達し、貪り興じる。しかし虚しいばかりで寂しさは紛れない。紛れるはずがない。
     夜になり、絶望にうずくまるのび太。すると、背後にドラえもんが現れる。

    「じつはこれ、どくさい者をこらしめるための発明だったんだ」

     こうして世界は元通りになった。
     「独裁の罰は究極の孤独」。本作を読んだ子供たちの胸に深く深く刻まれたことだろう。
     もうひとつ、独立した国家の元首が独裁者に成り果てる過程を揶揄した傑作が、てんコミ26巻「のび太の地底国」(「小学五年生」80年2月号掲載)だ。これは、のび太が子供たちだけの理想郷を造ろうとする話である。
     「どこでもホール」を使って、外国の巨大な洞窟スペースに、住みやすい街を造成するのび太。最初は理想に燃えていたが、ジャイアンの横暴を制止するために導入した「ロボ警官」と「署長バッジ」を手にしたあたりから、雲行きが怪しくなる。
     のび太は「暴力をなくし、明るく平和な国をきずこうではありませんか!」などと偉そうに演説し、自ら首相に就任。「のび太国」の国家樹立を宣言して国旗を掲げる。そして、言うことを聞かない国民(子供たち)には「いやならたいほする」として命令を強要するのだ。
     完全に警察国家、否、事実上の独裁国家の誕生である。
     
     新天地開拓モノ、建国モノは長編・短編ともに『ドラえもん』の定番とも言えるモチーフ。本作はそれに加えて、「どんな独裁者も最初は理想に燃えているが、ほとんどの人間は権力の魅力に抗えない」ことが、愚かなのび太の姿を通じて描かれるのだ。
     国民(子供たち)のクーデターによってのび太が権力者の座から引きずり下ろされる終幕は、実にリアリティがある。いつぞやのアフリカか中南米あたりの小国の政変でも見ているかのようだ。世界史通の藤子・F・不二雄らしい1本である。
    ●物語装置としての「反戦」
     バランス感覚にすぐれ、野暮を嫌ったFは、80年代半ば頃まで、児童向けマンガでは直接的な政治的主張をしなかった(80年代半ば以降は、第10回で言及したエコロジー作風が顔を出し始める)。
     それゆえ「大衆の声」とは切っても切れない反戦意識の表出に関しても、決して野暮な左翼的政治色を帯びるようなヘタを打たない。史観や評価がほぼ確立された過去の出来事を、ある種昔話のように引き合いに出して語り草とすることで、政治色を巧みに脱臭する。
     よく登場したのは、連載初期の70年代当時からしても20年以上前の出来事だった太平洋戦争(1941〜45年)だ。

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  • 『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第11回 土地とカネの物語【毎月第1水曜日配信】☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.608 ☆

    2016-06-01 07:00  
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    『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第11回 土地とカネの物語【毎月第1水曜日配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.6.1 vol.608
    http://wakusei2nd.com


    本日は稲田豊史さんの連載『ドラがたり』をお届けします。『ドラえもん』の作中に頻繁に登場する「土地」や「カネ」を巡るエピソード。そこには、70年代日本の地価高騰・狂乱物価といった世相と、それに対する藤子・F・不二雄の容赦ない批評性が露わになっています。『ドラえもん』が向き合った時代性を「経済」という切り口から考えます。
    ▼執筆者プロフィール
    稲田豊史(いなだ・とよし)
    編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『パリピ経済 パーティーピープルが市場を動かす』(構成/原田曜平・著)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。
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    前回:『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第10回 鋭い社会批評、説教臭いエコロジー
    ●日本列島改造論と「夢のマイホーム」
     のび太は頻繁に、のび助(パパ)や玉子(ママ)が「大人の話」をしている場面に遭遇する。そのなかで最もポピュラーなのが「土地とカネの話」だ。
     実は『ドラえもん』には、「道具によって土地不足を解消する話」と「お金を殖やそうとする話」が多い。これは『ドラえもん』の連載初期、1970年代における日本国内の経済状況とも大いに関係がある。
     『ドラえもん』の連載開始から約2年半後の72年6月、自民党の田中角栄は政策綱領「日本列島改造論」を発表、同名書籍も刊行した。これは、地方の工業化を推し進め、日本全国を高速交通網で結ぶという、文字通り「日本列島を改造」する内容のものだった。

    田中角栄『日本列島改造論』(日刊工業新聞社、1972年)(出典)
     同年7月、総裁選に勝利した田中は首相に就任して内閣が発足。首相の私的諮問機関として日本列島改造問題懇談会を置き、それを契機に日本中で列島改造ブームが到来する。具体的には、法人による開発候補地の土地の買い占めが進行し、地価の急激な高騰が進んだ。土地や住宅といった不動産が「生活の基盤」というだけなく、「投資対象」としての色も濃くしていったのが70年代の日本である。
     地価が高騰すれば、土地と建物で構成されるマイホーム(ここでは「庭付き一戸建ての購入物件」を指す)を所有するハードルも当然上がる。当時の大人たちが日常的に、半ば諦念、半ば羨望の心持ちでつぶやいた「夢のマイホーム」という言葉は、当然子供たちの耳にも入っていった。
     藤子・F・不二雄が日常SFたる『ドラえもん』の作中に「土地」の話を多く採用したのは、子供たちの日常のなかにも、語彙としての「マイホーム」がごく自然に滑りこんでいたからだろう。
     不動産価格が上がれば、それに連動して物価も上昇する。73年頃には物価高が社会問題化。同年に勃発した第四次中東戦争がオイルショック(原油価格の高騰)を引き起こし、追い打ちをかけるように物価上昇の歯止めが効かなくなっていった。
     74年の消費者物価指数は、前年からなんと23%も上昇したという。「狂乱物価」という造語が生まれたのはこの頃だ。
     物価の上昇は、庶民の家計に多大なる影響を及ぼした。各家庭の子供たちは、小遣いやおやつの緊縮、家族レジャーの減少、クーラーの使用制限などで、それを体感することになる。
     主に70年代後半に描かれた『ドラえもん』の作中に、「おやつが貧弱」「両親が家計の窮乏について相談している」「のび太がママから省エネを強要される」といったシーンが散見されるのは、そういうわけだ。
    ●不動産所有は野比家の夢
     野比一家は東京都練馬区にある二階建ての一軒家に住んでいるが、実は「借家」である。野比邸はローンを組んで購入したマイホームではない。野比家は大家(地主)に家賃(地代)を払って暮らしているのだ。
     てんコミ9巻「無人島の作り方」(「小学四年生」75年8月号掲載)は、月の小遣いが減らされていることに気づいたのび太とドラえもんが、のび助と玉子の元へ抗議に行く場面からスタートする。しかし茶の間で話すのび助と玉子の表情は深刻だ。

    のび助「え? たばこ代をへらせって?」
    玉子「今月から家ちんが上がったのよ。どうしてもお金がたりないの」

     それを受けて、ドラえもんとのび太はこんな会話を交わす。

    ドラえもん「自分の家をたてりゃいいのに。家ちんなんてはらわなくてすむ」
    のび太「かんたんにいうなよ。今の日本じゃ、まず土地を買うのがたいへんなんだ」
    ドラえもん「高いんだってねえ。何百万何千万円するとか……」


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  • 『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第10回 鋭い社会批評、説教臭いエコロジー【毎月第1水曜日配信】☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.581 ☆

    2016-05-04 07:00  
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    『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第10回 鋭い社会批評、説教臭いエコロジー【毎月第1水曜日配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.5.4 vol.581
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    本日は稲田豊史さんの連載『ドラがたり』をお届けします。初期の『ドラえもん』で既存の価値観へ疑問を投げかけるSFセンスを発揮していた藤子・F・不二雄ですが、80年代に入ると、当時流行のエコロジー思想へと急接近していきました。『ドラえもん』はいかにして環境保護の旗印となり、現在へと至ったのか、その変遷の歴史をたどります。
    ▼執筆者プロフィール
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    前回:『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第9回 大長編考・後編 リメイク問題とオリジナル問題
    ●落語とSFショートショート
     幼い頃に読んだ『ドラえもん』を、ふと大人になってから読み返すと、そのモチーフやセリフにドキッとすることはないだろうか。それは『ドラえもん』という作品が単に「夢いっぱい」なだけでなく、普遍性の高いアイロニーや警句を多く含み、社会批評的な側面も有していたからだ。
     もちろん、児童マンガ家としての強い矜持を貫いていた藤子・F・不二雄だけに、大人向けメッセージをダイレクトに込めていたとは言いがたい。それは野暮というものだ。
     ただ、巧妙に甘い蜜でくるまれているものの、いくつかのエピソードには明らかに「モノ申すF」の問題意識が透けて見える。
     Fが無類の落語好きであることは以前の回(第3回)で述べた。落語はアイロニーやブラックユーモアとの相性が良く、超現実的な世界観や鮮やかなサゲ(オチ)の魅力は、SFショートショート(短編小説)に通じる部分も少なくない。実際、星新一や小松左京といったショートショートを書くSF作家の落語好きは有名だ。桂米朝や桂枝雀とも親交があった小松は、『日本沈没』のリメイク版映画公開時のインタビューで「落語とSFは似ている」という主旨の発言もしている。
     落語は言うまでもなく大人の娯楽だ。あらすじだけなら子供にも理解できるが、その奥にある滋味やウイットを汲み取るには、ある程度の「人間的年次」を必要とする。『ドラえもん』が大人にも刺さる理由も、そこにある。
    ●既存の価値観を問いただす
     FのSF短編に「気楽に殺(や)ろうよ」(「ビッグコミック」1972年5月10日号掲載)という読み切りがある。世の中の価値観が一斉に変わり、主人公がその違和感に戸惑うという話だ。
     物語では、食欲と性欲の位置づけが逆転し、人前で食事することが「恥ずかしいこと」とされる。逆に、公共空間でのセックスはタブー視されない。殺人が公認されていて、子供を1人つくれば1人殺していいことも法的に認められている。こんな具合だ。
     このように誰もが疑わない、あまりにも当たり前の価値観を茶目っ気たっぷりに疑ってみるのは非常にSF的な態度だが、『ドラえもん』にもそのような話がある。
     てんコミ1巻「古どうぐきょう争」では、スネ夫の自慢で「古道具に価値がある」ことを知ったのび太が、22世紀のショップに依頼して身の回りのものをなんでも古道具に取り替えていく。
     鉱石ラジオや西洋の甲冑を手に入れて、鼻高々ののび太。しかしエスカレートした結果、衣服は石器時代の葉っぱ一枚スタイルに、住居も草葺きになってしまう。「古い=ありがたい」を盲信する価値観をシニカルに笑い飛ばす一編だ。

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  • 『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第9回 大長編考・後編 リメイク問題とオリジナル問題【毎月第1水曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.557 ☆

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    2016.4.6 vol.557
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    今朝は稲田豊史さんの連載『ドラがたり』をお届けします。藤子Fの死後も、大人の事情から製作され続けた大長編ドラえもん。目を覆いたくなるオリジナル脚本の駄作が連なる中、唯一輝きを放った『のび太のひみつ道具博物館(ミュージアム)』に秘められた、ドラえもんらしからぬ批評性とは?
    ▼執筆者プロフィール
    稲田豊史(いなだ・とよし)
    編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『押井言論 2012-2015』(編集)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。
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    前回:『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第8回 大長編考・前編 ふたつの「ドラえもんコード」
    ●新ドラの迷走・リメイク問題
     
     声優リニューアル後のドラえもん(新ドラ)まわりでよく話題にのぼるのが、映画版のリメイク問題である。前回(第8回参照)でも触れたが、2006年以降の映画ドラえもんは、11本中6本が過去作品のセルフリメイクだ。

    2006年『のび太の恐竜2006』
    *『のび太の恐竜』(80)のリメイク
     
    2007年『のび太の新魔界大冒険  〜7人の魔法使い〜』
    *『のび太の魔界大冒険』(84)のリメイク
     
    2008年『のび太と緑の巨人伝』
    *オリジナル。原案はてんコミ26巻「森は生きている」とてんコミ33巻「さらばキー坊」
     
    2009年『新・のび太の宇宙開拓史』
    *『のび太の宇宙開拓史』(81)のリメイク
     
    2010年『のび太の人魚大海戦』
    *オリジナル。原案はてんコミ41巻「深夜の町は海の底」
     
    2011年『新・のび太と鉄人兵団  〜はばたけ 天使たち〜』
    *『のび太と鉄人兵団』(86)のリメイク
     
    2012年『のび太と奇跡の島  〜アニマル アドベンチャー〜』
    *オリジナル。原案はてんコミ17巻「モアよ、ドードーよ、永遠に」
     
    2013年『のび太のひみつ道具博物館(ミュージアム)』
    *オリジナル
     
    2014年『新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜』
    *『のび太の大魔境』(82)のリメイク
     
    2015年『のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)』 
    *オリジナル
     
    2016年『新・のび太の日本誕生』
    *『のび太の日本誕生』(89)のリメイク

     
     筆者周囲の古参ドラファンや原作原理主義者の意見を総合すると、「リメイクは(藤子・F・不二雄の原作があるから)許容範囲、オリジナルは総じてダメ」という評判が大勢を占める。まずはそれらを検証しよう。
     
     リメイクのストーリーはたしかにF謹製、かつ現在までのところ傑作率の高い80年代作品を引っ張ってきているので、さすがにプロットの完成度は高い。また、どのリメイク作も多少の改変・シーン追加が施されており、中にはそれが作品性を大きく引き上げているケースもある。
     『のび太の恐竜2006』では、恐竜・ピー助の卵をかえそうと懸命なのび太にパパが温かいまなざしを送るシーンを加えることで、のび太に芽生える擬似父性を類推的に表現している。『新・のび太と鉄人兵団  〜はばたけ天使たち〜』では、破壊兵器である巨大ロボット・ジュドー(のび太はザンダクロスと命名)の頭脳に「ピッポ」という人格を持たせてのび太との友情を描くことで、原作や旧映画版以上にヒューマニズム色・政治的反戦色が強まった。
     いずれも、原作の魅力を損なわないまま、むしろ原作の内包するテーマを正しく増幅した巧みな肉付け、名アレンジだ。まるでFの魂が憑依しているかのような「加筆修正」に、ファンは惜しみない喝采を贈った。
     
     しかし、いっぽうで看過できないリメイクの“改悪”もある。たとえば『のび太の新魔界大冒険  〜7人の魔法使い〜』。同作にはゲストヒロイン美夜子の母(原作では登場しない)が登場する。彼女はかつて幼い美夜子の病気を治そうと悪魔と契約し、その代償としてメデューサになってしまった……というエピソードが新劇場版で追加されたのだ。
     しかし『魔界大冒険』の原作はSFファンタジーとしてプロットの完成度が図抜けて高いので、あえて母娘ドラマを挿入することには蛇足感が否めない。また、「敵の正体が実は身内だった」という設定を追加したことで、物語の焦点がボケてしまった。
     
     いずれにせよ、なぜ制作陣はリメイクに頼るのだろうか。理由は大きくふたつ考えられる。
     ひとつは興行的な狙いだ。目下のところリメイク元は80年代の作品に集中しており、これは現在小さな子を持つ親世代である30〜40代が幼少期に見た作品群と一致する。彼らの興味を惹ければ、親子連れで劇場に足を運んでくれる確率は飛躍的に高まる、という目算である。
     もうひとつはクリエイティブ上の問題だ。当然ながら、1996年の藤子・F・不二雄逝去後は、大長編の原作が存在しない。そのため、大山のぶ代版の旧映画ドラでも、1998年から2004年まで合計7本のオリジナル長編が作られたが、後述するように総じて不評だった。
     そのため新ドラでは、安定した物語クオリティが担保されているかつての名作を、概ね隔年でリメイクすることによって、シリーズ全体の平均点を維持する方策に出た。同時に、オリジナル作品の制作期間にゆとりをもたせ、質の向上にも務めた。
     これは、あえて厳しい言い方をするなら、オリジナルのネタ枯渇をごまかすための、苦し紛れの延命措置だ。もちろん、制作に時間をかけたからといってオリジナルが傑作に仕上がるとは限らないが。
     
     ただ、シリーズを36作も重ねれば、ネタ枯渇になるのも致し方ない。
     たとえば冒険の舞台だ。映画ドラは基本的に、のび太たちによるフロンティア(新天地)での冒険を主軸に物語が展開するため、回を重ねれば重ねるほど、新鮮味のある舞台は使い尽くされていく。
     宇宙や他惑星はもっとも多く採用される舞台であり、ジャングル・孤島・海といった地球上の秘境、大昔の地球や未来世界なども複数作品に登場する。なんらかの道具で創造した仮想世界やパラレルワールド、絵本や夢の中が舞台の場合もある。のび太たちは、ありとあらゆる場所を冒険してしまったため、フロンティアが残されていないのだ。
     敵をどう設定するかも難しい問題だ。映画ドラは、その多くが「悪い支配者に苦しめられている人たちを、のび太らが救う」という物語構造を取っているが、「悪い支配者」のバリエーションにも限界がある。他惑星や他国の独裁者や侵略者は定番の敵だが、さすがにマンネリ感が否めない。
     まれに明確な悪意のない集団が便宜的に敵として設定されることはあるものの、敵を殲滅するカタルシスが得られないため、ストーリーメイクの難易度は高い。Fの原作がある『のび太と竜の騎士』(87年公開)『のび太の創世日記』(95年公開)はこれに該当するが、完成度の面でいまいちぱっとしないのが実情である。
    ●Fは長編が苦手?
     
     実は、当のF謹製の大長編原作であっても、F晩年の作品は明らかに精細を欠いてくる。
     『のび太と夢幻三剣士』(94年公開)は陳腐なRPGのような設定と、まさかの夢オチ系ラストに腰くだけ必至。F自身も「失敗作」と公言して憚らない。
     『のび太の創世日記』(95年公開)は、パラレルワールドの地球をのび太たちが見守るという珍しい物語構造をとっているが、過去にFが描いたSF短編の縮小再生産を、さらに薄めて長編化したような内容だ。
     『のび太と銀河超特急(エクスプレス)』(96年公開)は、矮小な箱庭アミューズメントに終始しており、こちらにも『のび太の宇宙開拓史』(81)の縮小再生産臭が漂う。
     絶筆作の『のび太のねじ巻き都市(シティー)冒険記』(97年公開)に至っては、物語はおろか、敵も世界観も驚くほど魅力に欠けている。Fの遺した原案と一部のネームを基に藤子プロが仕上げた作品であることから、絵の稚拙さは否めず、完読することすら辛い作品だ。
     Fの筆による大長編の筆が冴えていたのは「神7(セブン)」(第8回参照)をはじめとする初期の数年だ。90年代以降は凡作が続き、晩年は駄作を連発してしまった。その理由は、Fが本来は短編を得手とする作家であり、長編は苦手だったからである。
     
     前回(第8回)でも触れたが、シンエイ動画の元社長・楠部三吉郎氏がFに第一作目の長編『のび太の恐竜』の執筆を依頼した際も、Fは「僕は短編作家です」と言って一旦は断っている。その後、発表済みの短編『のび太の恐竜』を膨らませて描いては、という楠部の提案に乗るかたちで、Fは執筆を承諾した。
     たしかにFの著作を見渡すと、その大半はギャグ・コメディもしくは着想一発の「アイデアSF」で占められ、それらはほぼすべて短編もしくは一話完結の連作短編だ。単行本1冊以上にわたるストーリーものの中長編は、大長編ドラえもんを除くと、足塚不二雄名義の『UTOPIA 最後の世界大戦』(53)、『海の王子』(59〜61)といった初期作品や、晩年の自伝的中編『未来の想い出』(91)など、ごく少数に限られる。
     F自身にも、自分が短編を得手とする作家だという自負はあったようで、公に以下のような言葉も残している。
     

    手塚治虫先生の『火の鳥』のような大長編を、一度でいいから描けたらと思わないわけではありません。しかしいまの段階では、それは一つの夢として、もっと将来のことにしまっておきたいと思います。(『藤子不二雄ランド「SF少年短編」第3巻』中央公論社、1989年)

     
     これは没する7年前、89年の言葉である。キャリア40年にも達しようというベテラン大作家が、「一つの夢として」「もっと将来のことにしまっておきたい」とは、これいかに。Fは長編に対する苦手意識を、生涯にわたって抱き続けていたに違いない。
    ●大長編にみる「いただき」の限界
     
     ただ、もし本当にFは長編が不得手なのだとすると、初期大長編ドラの傑作ぶりは一体どういうことなのか。これについては、藤子不二雄賞(小学館新人コミック大賞・児童漫画部門の通称)におけるFのコメントにヒントがある。Fは若いマンガ家の卵たちに「いただき」という創作手法を推奨した。
     

    「いただき」というものは、なんの手がかりもなくアイディアを創りだすのではなく、過去に見た映画やまんが、あるいは読んだ小説でも、何か感銘を受けたものがあれば、自分の作品世界に再現することです。(中略)古い素材を組み立てなおして、まったく装いも新たな新作を創りだす。それが、僕が言う「いただき」ということなのです。(第19回「藤子不二雄賞」における藤子・F・不二雄のコメント/1990年)

     
     同じコメント内でFは、『のび太の恐竜』は『野生のエルザ』からの「いただき」であることも明言した。
     『野生のエルザ』はジョイ・アダムソンによるノンフィクションで、アフリカのサバンナでライオンの赤ちゃんを引き取った夫婦が、ライオンの幸せのために野生に帰すという話。1966年には映画にもなった。Fはこれを『のび太の恐竜』の元ネタだと公言しており、自分の創作スタンスの基本が「いただき」であることも、同時に示唆したのだ。
     無論「いただき」は盗作行為ではない。しかし創作活動において「いただき」をデフォルトとするには、相応の質・量のネタ元が必要であり、ネタ元が枯渇すれば、生み出される作品はやせ細っていく。Fが晩年に発表した大長編ドラえもんが精彩を欠いていたのは、「いただき」のネタ元枯渇が原因ではないだろうか。
     大長編ドラの初期に傑作が多いのは、それまでFの人生のなかで培ってきた膨大なネタ元アーカイブのなかから、大長編に向いたものを、ベストオブベストとして選りすぐることができたからではなかったか。ちなみに2作目の『のび太の宇宙開拓史』は、Fお気に入りの西部劇である映画『シェーン』(53)や『ブリガドーン』(54)がヒントになっている――と自ら語っている。
     
     もちろん、Fという作家は「いただき」だけで作品を描いているわけでは、断じてない。Fが得手とする短編は、居合い斬りのように鋭く鮮やかなアイデア一発、発想一発の破壊力に満ちている。『ドラえもん』の基本テーゼである、「現実にはありえない道具がもし存在したら、という思考実験」はこれそのもの。「いただき」による既存ストーリーの翻案的創作ではなく、「誰もが知っている既存の断片と断片を組み合わせる」ダイナミズムだ。
     「既存の断片と断片を組み合わせる」は、Fの作家的資質のなかで、最も秀でたスキルであろう。短編作家は、既存要素の脳内アーカイブが多ければ多いほど、要素を自在に参照する引き出しのすべりが良ければ良いほど、組み合わせのセンスが卓越していればいるほど、優秀とされる。その点において、Fが超のつく優秀な短編作家であったのは間違いない。

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  • 『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第8回 大長編考・前編 ふたつの「ドラえもんコード」【毎月第1水曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.532 ☆

    2016-03-02 07:00  
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    『ドラがたり――10年代ドラえもん論』 (稲田豊史) 第8回 大長編考・前編ふたつの「ドラえもんコード」【毎月第1水曜日配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.3.2 vol.532
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    本日は稲田豊史さんの連載『ドラがたり』をお届けします。今回からは「大長編考」として、毎春公開される「映画版ドラえもん」についての考察です。大長編初期の傑作群「神7(セブン)」、そして映画ドラの必要条件ともいえる「大長編ドラえもんコード」について論じます。
    ▼執筆者プロフィール
    稲田豊史(いなだ・とよし)
    編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。
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    前回:『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第7回 「世界」を改変する道具たち
    ●大長編ドラえもんの歴史
     3月と言えば映画ドラえもん(映画ドラ、春ドラ)の公開月である。毎年、子供たちの春休みを狙って公開される映画ドラは、第1作の『のび太の恐竜』(80年公開)から今月公開の最新作『新・のび太の日本誕生』まで、合計36作が制作されており(*1)、もはや日本人にとって「春の風物詩」と化していると言ってよい。

    (出典)
     そんな映画ドラの原作として、藤子・F・不二雄が逝去直前まで描き下ろした一連の作品は「大長編ドラえもん」と呼ばれている。各作とも単行本1冊分、200ページにも満たない「中編」ではあるが、オフィシャルに「大長編」という名称で謳われているため、本稿もそれに倣う。

    (出典)
     1980年代から90年代に幼少期を過ごした日本人、特に男性のなかには、冒険物語に触れる読書体験の入り口が大長編ドラえもんだった、という方も多いはずだ(筆者もそうである)。
     宇宙や海底、過去や未来といった非日常性の高い舞台。世界の存亡や己の生死を賭けた冒険の数々。緩急あるプロットと深みのある人間ドラマ――。かつての少年たちが『宝島』や『十五少年漂流記』を食い入るように読み、その冒険譚に血沸き肉踊らせたように、1980年代から90年代にかけては、日本中の小学生がのび太たちの大冒険に胸を躍らせた。
     正直、ある時期以降の大長編については、その完成度において玉石混交の「石」度が高い感も否めない。しかし多くの子供たちを圧倒的なセンス・オブ・ワンダーの世界に没頭させたFの功績は、限りなく大きい。ある世代以降の日本の子供たちのイマジネーションレベルは、この大長編ドラえもんで確実に底上げされた。
     1969年の連載開始以降、『ドラえもん』を一貫して短編で執筆していたFが、連載11年目の1979年になぜ突如長編版を執筆したのか。このあたりの事情は、アニメ版『ドラえもん』の制作スタジオであるシンエイ動画の元社長・楠部三吉郎氏の著作『「ドラえもん」への感謝状』(小学館)に詳しい。以下の内容は書籍に準ずる。

    (出典)
     当時、楠部のもとに、映画会社から「『ドラえもん』を『東映まんがまつり』のラインナップに組み込みたい」というリクエストが舞い込む。1970年代、「東映まんがまつり」は、春休みや夏休みに子供向けアニメを複数本まとめて上映し、大きな興行収入を稼いでいたのだ。映画会社は、1979年よりスタートしたTVアニメ版『ドラえもん』の人気に目をつけ、既存の短編作品を数本まとめて劇場用として公開してはどうか、と提案したのである。
     楠部はこれをFに伝えるが、Fは拒否。おそらく、出来合いのTV向け短編を流用して小銭を稼ぐことに、嫌悪感を抱いたのだろう。
     すると、『ドラえもん』連載誌の発行元である小学館の赤座登(元専務)が楠部に、「小学館が責任を持つから、『ドラえもん』の長編アニメを作ってほしい」との意向を示す。要は、TVアニメの再編集版ではなく、映画化前提のオリジナル長編原作をFに描き下ろしてもらいたいというわけだ。
     ところがFは「僕は短編作家です」と、この提案も拒否。しかし楠部は諦めなかった。であれば、発表済みの短編『のび太の恐竜』(てんコミ10巻収録、執筆は1975年)の続きを描いてほしいと食い下がる。
     Fはこれを承諾し、続きが描き足された『のび太の恐竜』は、晴れて長編映画として劇場公開された。1980年3月のことである。しかも、現在の興収に換算して30億円前後のヒットを記録したのだ。

    (出典)
     この成功を受け、大長編の2作目『のび太の宇宙開拓史』以降は、「『コロコロコミック』誌上に数回連載された作品が、3月に劇場用長編アニメとして公開される」というスキームが確立する。ちなみに、1988年に公開された映画版第9作『のび太のパラレル西遊記』には原作が存在しないが、それはFの体調不良によるためだ。
     F本人が執筆した最後の大長編は、1997年に映画版第18作として公開された『のび太のねじ巻き都市(シティー)冒険記』。制作中にFが逝去したため、最終的にはFの原案に基づいて藤子プロが完成させた。
     しかし、映画ドラはここで終わらなかった。以降の映画作品は、映画版スタッフと藤子プロによるオリジナルストーリー、もしくは既存の短編に着想を得た半オリジナル、もしくは過去の映画ドラのセルフリメイクという形で、毎年1本ペースの制作が継続される。
     なお、映画版第25作『のび太のワンニャン時空伝』(04 年公開)までは大山のぶ代が演じるドラえもん――いわゆる「大山ドラ」版だ。2005年は映画ドラが制作されず、第1作のリメイクである第26作『のび太の恐竜2006』(06年公開)からは、2005年に声優とスタッフが一新されたTVアニメ版同様、水田わさび演じる「水田ドラ」版にリニューアルされた。
     そんな「水田ドラ」の劇場版は、今年の『新・日本誕生』で11本目となる。

    (出典)

    (*1)2014年8月公開のCG映画『STAND BY ME ドラえもん』はここに含めない

    ●オーバー35歳の初期「神7」
     映画ドラは2012年の『のび太と奇跡の島  〜アニマル アドベンチャー〜』以降、4年連続で、興収30億円代後半を堅調にキープしている。現在の日本映画界において、コンスタントに30億円代後半を稼ぎ出せるシリーズはかなり稀な存在。映画ドラは他に類を見ない、盤石の「ドル箱シリーズ」なのだ。
     かつて世界に冠たるジャパンコンテンツと褒めそやされた『ポケットモンスター』の場合、1998年の映画第1作はいきなり70億円以上の興収を叩き出すも、ゼロ年代を通じては30〜50億円の間をウロウロ。ここ2年ほどは20億円代にとどまり、完全に映画ドラの後塵を拝している。
     歴史あるファミリー向けアニメとして『ドラえもん』の近似層に訴求する『クレヨンしんちゃん』(映画版1作目は93年公開)の興収は、ほぼ一貫して10億円〜20億円代前半を推移。映画ドラの半分程度しかない。
     ただ、映画ドラも若干の停滞期があった。ゼロ年代全体を通じては、興収20億円代と30億円代前半を行ったり来たりしていたのだ。
     しかし2005年の声優交代と作風の刷新は、数年の時間をかけて劇場成績を見事に回復させた。その意味で、賛否あった声優リニューアルという英断は、コンテンツとしての『ドラえもん』を少なくとも20年は延命させたと評価してよい。
     映画ドラは40年近く続く長期シリーズのため、ひとたび大人が数人集まれば、世代別に思い入れのある作品やエピソードトークには事欠かない。
     現在40歳前後の方であれば、『のび太の宇宙開拓史』(82年公開)のギラーミンvsのび太の一騎打ちに鳥肌を立て、『のび太の海底鬼岩城』(83年公開)の「バギーちゃんのネジ」に胸を打たれ、『のび太の魔界大冒険』(84年公開)の見事な伏線に唸りを上げ、男の子なら『のび太と鉄人兵団』(86年)のロボット少女・リルルに恋をしただろう。
     もう少し下、30歳前後であれば、『のび太の日本誕生』(89年公開)のギガゾンビに戦慄し、『のび太のドラビアンナイト』(91年公開)の奴隷しずかに目を覆い、『のび太と雲の王国』(92年公開)で故障したドラえもんに心を痛め、『のび太とブリキの迷宮(ラビリンス)』(93年)の「イートーマキマキ」が耳について離れないことだろう。
     
     映画ドラの人気ランキングは各所でよく話題にのぼり、記事化もされる。しかし、世代や嗜好によってランキングが大きく変わってくるので、決定版を設定しにくいのが実情だ。
     あえてざっくり傾向を挙げるとすれば、オーバー35歳は、初期の7作を絶対視する傾向にある。7作とは、『のび太の恐竜』(80年公開)『のび太の宇宙開拓史』(81年公開)『のび太の大魔境』(82年公開)『のび太の海底鬼岩城』(83年公開)『のび太の魔界大冒険』(84年公開)『のび太の宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)』(85年公開)『のび太と鉄人兵団』(86年公開)。いわば「神7(セブン)」だ。
     実際、この7作は原作大長編のなかでも屈指の完成度を誇るマスターピースであり、御年41歳の筆者もそれに異論はない。なかでも『魔界大冒険』と『鉄人兵団』は、さながら大島優子と前田敦子。人気を二分するダブルセンターだ。若い皆様におかれては、ドラえもん好きオーバー35歳に話しかける際には、(話が長くなるので)じゅうぶんに注意されたい。


    (出典)
     いっぽう、アンダー35歳では、『のび太の日本誕生』(89年公開)『のび太のドラビアンナイト』(91年公開)『のび太と雲の王国』(92年公開)『のび太とブリキの迷宮』(93年公開)あたりに人気が集まる。が、「のび太と『アニマル惑星(プラネット)』(94年公開)のディストピア観がたまらない」とか、「のび太と『夢幻三剣士』(93年公開)の男装しずかがイイ!」といったマイノリティ・リポートもごまんとあるので、なんとも言えないところである。


    (出典)
     なお、ドラえもん好きのアラサー女子は、「ペガ、グリ、ドラコを飼いたい!」「ブリキンホテルに泊まりたい!」(*2)などと口にしがちなので、3〜40代ののび太系男子諸君は、飲み会等のネタ振りにぜひご活用いただきたいと思う。

     (*2)「ペガ、グリ、ドラコ」は『のび太の日本誕生』に登場する架空の動物。冒頭『新・のび太の日本誕生』のポスター画像も参照。ブリキンホテルは『のび太とブリキの迷宮』に登場する謎のホテル。

    ●大長編ドラのアイデンティティ:コードⅠ
     原作の大長編と映画ドラを精査すると、ある作劇上のお約束が浮かび上がってくる。本稿ではこれを、「大長編ドラえもんコード」と名付けたい。「コード」は「ドレスコード」の「コード(code)」と同じ、「規則、規定」といった意味だ。
     「大長編ドラえもんコード」には2つのレイヤーがある。ひとつは、「大長編ドラえもん」を「大長編ドラえもん」たらしめている必要最低限度の約束(コードⅠ)。もうひとつは、その発展形として「大長編ドラえもん」を傑作たらしめる法則(コードⅡ)だ。
     コードⅠは4戒、コードⅡは5戒ある。

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  • 『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第7回 「世界」を改変する道具たち【毎月第1水曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.510 ☆

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    『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第7回  「世界」を改変する道具たち【毎月第1水曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
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    今朝のメルマガは稲田豊史さんによるドラえもん論『ドラがたり』の第7回です。今回は「「世界」を改変する道具たち」。ドラえもんが四次元ポケットから取り出す数々の道具の、今だから分かる驚くべき先見性。そして、道具に込められた重要なモチーフ〈世界の改変〉について論じます。
    ▼執筆者プロフィール
    稲田豊史(いなだ・とよし)
    編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。
    http://inadatoyoshi.com
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    前回:『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第6回 ふたりのファム・ファタール 後編
    ●一番好きな道具はなんですか?
     2008年に小学館から刊行された『ドラえもん最新ひみつ道具大事典』によれば、ドラえもんが四次元ポケットから出す道具の数は約1600にものぼる(「ひみつ道具」はアニメ版ほか原作以外のメディア展開において使用される呼称なので、本稿では単に「道具」として記述する)。卓越したドラえもんファン同士であれば、道具の名称だけでしりとりも可能だ。
     また、大長編でのび太たちが危機に陥るたび、脳内アーカイヴを総動員して最適解の道具提案を口走るコアファンも少なくない。「そこに『無敵砲台』設置しとけば安全なのに」「だったら『先取り約束機』一択だろ」「むしろ『進化退化放射線源』使ったほうが良くね?」などといった具合に。まあ、ウザいったら。
     ともあれ「一番好きな道具は?」は初対面のドラファン同士で交わされる定番のアイスブレイクであり、この回答いかんによってファン歴やエンスー度や「ドラえもん観」がある程度決めつけられてしまうのも事実。「AKBグループの推しメンは?」「『こち亀』で好きな脇役は?」「スピルバーグ映画のベスト1は?」「一番好きなモビルスーツは?」「カプコン史上最高の格ゲーは?」などと同様の、リトマス試験紙的な質問だ。
     ここで相手から「タケコプター」や「どこでもドア」のように、超のつく入門的ラインナップが挙がってしまうと、熱心なドラファンとしては一気に接待モードとなり、腕時計見まくりの合コン並みにテンションが落ちる。以降の会話が消化試合になること必至である。
     「タケコプター」「どこでもドア」にあたるのは、「前田敦子、秋本麗子、『E.T.』、シャア専用ザク、『ストⅡ』」あたりだろうか。もちろん「釣りはフナにはじまってフナに終わる」とも言うので、3周回ってとてつもなく深遠な思想を孕んでいる可能も、なくはない。
     ただ、筆者はフナ釣り老人級の粋人ではないので、マイフェイバリット道具はてんコミ21巻に登場した「ハッピープロムナード」である。その機能については後述しよう。
     ドラえもんの道具をどう分類し、何のテーマくくりで着目し、論じるか。それは非常に難しい。道具の機能でまとめるのか。物語の教訓でまとめるのか。批評性や文学性の物差しを持ち込むべきなのか。
     ただ、道具の機能上の面白さを味わうなら、それこそ『ひみつ道具大事典』を読めばそれでいい。
     今の技術で制作可能な道具を端からリストアップしていくのもひとつの方法だが、それもあまり芸がない。富士ゼロックスの「四次元ポケットPROJECT」のように、実際に企業が着手しているプロジェクトを追う醍醐味には勝てないだろう。
     そこで今回は、ドラえもんの道具、ひいては藤子・F・不二雄(以下F)の天才性を「道具の機能」にではなく、「道具によって“世界”を改変するセンス」に求めたい。
     この場合の“世界”とは3つ。①経済活動が行われる社会、②一定の価値観を共有したコミュニティ、③パーソナリティの置き場所たる個人個人の精神世界――を指すものと了解されたい。
    ●藤子・F・不二雄の発案したビジネスモデル
     ①の「経済活動が行われる社会」を変革するには、ビジネス上のイノベーションが必要不可欠だ。Fは子供向けマンガ作品上で、時代を先取りするビジネスモデルをいくつか提案している。
     てんコミ14巻に「遠写かがみ」という道具が登場する。機能は「鏡に写ったものを、指定された範囲内にある別の鏡や水たまりなどの反射物へ、一斉に映し出せる」というもの。一読してピンと来ない機能であり、ドラえもんも当初は「使い道がない」として壊そうとする。が、ここでのび太がとんでもない発想をする。

    のび太「コマーシャルだよ! 商店の広告をひきうけて……」
    ドラえもん「町中のかがみにコマーシャルを流すわけか!」

     お気づきのように、これは完全に「デジタルサイネージ」だ。モニタが鏡に置き換わっているだけである。事実のび太たちは、15秒スポットを100円と値付けし、1時間で2万4000円の売上を見込む。すごい小学生だ。
     ただ、なかなか顧客が集まらない。前例がないため、費用対効果について誰もが半信半疑なのだ。ネット草創期のバナー広告のようでもある。
     そこでドラえもんは考える。「まずぼくらの広告会社そのものを宣伝しなくちゃだめだよ」。そこで、ボロい和菓子屋のCMを無料で請け負うのだ。
     だが、それもうまくいかない。CMが店名・商品名連呼型、いわゆる「プッシュ型」だったためだ。押し付けがましい、広告ヅラした広告は消費者の反感を買う。本作の掲載号は「小学六年生」1977年2月号だが、今から40年近く前にFはそれに気づいていた。
     感心するのはこの後の展開だ。もはや広告効果を諦めた和菓子屋の店主は、これを機会に店じまいするからと、のび太とドラえもんに好きなだけ店の菓子を食べてくれと告げる。
     山盛りの菓子を喜々として頬張るふたり。実はそのとき、スイッチを切り忘れた遠写かがみに、その模様がばっちり写っていた。広告のことなど忘れ、ただ純粋に、うまそうに和菓子を食むのび太とドラえもんの様子は、町中の反射物に延々と流された。町の人たちは食欲をそそられ、最後は店が大繁盛となる。
     そう、「プル型広告」が効いたのだ。
     てんコミ15巻「ネコが会社をつくったよ」は、ビジネスモデルの完成がそのままオチゴマになっている、稀有な一編である。
     ここでは単に「タイマー」と呼ばれるそっけない名称の腕時計型ガジェットが登場する。「このタイマーをつけておけば毎日きそく的に、きめられた時こくに、きめられたことをひとりでにやるんだ」というのび太の説明通り、のび太の遅刻を防ぐためにドラえもんが出した道具だ。のび太は眠ったまま勝手に布団から出て着替え、朝食をとり、学校へ向かう。
     学校で、のび太はしずかから4匹の捨て猫を預かる。しかし野比家はもちろん、どこにももらい手がない。途方に暮れるのび太とドラえもん。
     ここでドラえもんが素晴らしいアイデアを思いつく。ネコたち自身が運営するネズミ退治の会社を設立するのだ。
     彼らの住まいは空き地に常駐した「デンデンハウス」(見た目は大きなかたつむりの殻。中は快適な居住空間)。ネコたち各々の首には例の「タイマー」が巻かれている。
     会社の仕組みについてはドラえもんのセリフを引用するのが早い。ドラえもんには珍しく、けっこうな長ゼリフだ。

    「もう、飼いぬしなんかいらない。ネコたちは自分の家にすんで、自分のはたらきでくらすんだ。つまりこういうこと。何げんかの家とけいやくをむすんで、毎日きめられた時間に、ネコが天じょうとかおし入れのパトロールにでかける。ネコの月給はペット屋さんにはらいこんでもらう。ペット屋はネコの家にキャットフードを毎日とどける」

     実にうまいスキームではないか。『もしドラえもんが起業したら』のようなタイトルでビジネス書にでもなりそうな内容である。言うまでもなく、書名の略称は『もしドラ』だ。
    ●無料配布からの有料販売
     てんコミ33巻「地底のドライ・ライト」は、2009年刊行のビジネス書ベストセラー『フリー 〜〈無料〉からお金を生みだす新戦略』(クリス・アンダーソン・著、NHK出版)を、うっすら彷彿とさせる。
     作中では22世紀のエネルギーとして、「ドライ・ライト」という固形物が登場する。これは「太陽光線のエネルギーをドライアイスみたいにかためたもの」(ドラえもん・談)。夏の間に日光のエネルギーを地中に貯めることで地下鉱脈が形成され、それを少しずつ掘り出して使うのだ(作中の季節は冬)。エネルギー源そのものなので、塊を天井から吊るせば電灯になり、やかんに放り込むとお湯が沸く。超万能・超高性能乾電池のようなものである。
     「ドライ・ライト」が面白いのは、機能ではなく売り方だ。
     のび太にそそのかされ、どら焼き目当てでドライ・ライトの商売をしようとするドラえもん。「100グラム100円」で訪問販売をはじめるが、なかなか売れない。「遠写かがみ」同様、前例のない新商品なので、消費者が慎重なのだ。

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  • 『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第6回 ふたりのファム・ファタール 後編【毎月第1水曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.488 ☆

    2016-01-06 07:00  
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    『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第6回 ふたりのファム・ファタール 後編【毎月第1水曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.1.6 vol.488
    http://wakusei2nd.com


    本日は稲田豊史さんの連載『ドラがたり』をお届けします。2回にわたってお届けしている「しずか・ジャイ子」編ですが、今回は篠原ともえ・光浦靖子・前田敦子という「ジャイ子系女子」の系譜を辿りつつ、「なぜしずかは出木杉ではなくのび太を選んだのか」というドラえもんシリーズ全体を貫く謎について考察します。
    ▼執筆者プロフィール
    稲田豊史(いなだ・とよし)
    編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。
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    前回:『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第5回 ふたりのファム・ファタール 前編
    ●サブカル女子のプロトタイプ:ジャイ子系女子
     
     前回【第5回】は、『ドラえもん』の作中で唯一「セクシャリティ」を託されたしずかと、唯一「成長」を託されたジャイ子が、作中でどのように描かれていたかを例証した。
     連載が晩年期に差しかかった90年代、女子がしずかのように類型的かつ前時代的な「オーソドックスな昭和マンガ的マドンナ」の属性を追い求めることでサバイブできるような時代は、既に去っていた。「やきいも好き」を隠す程度のイメージコントロールで、スクールカーストの上は目指せない。そもそも、持って生まれた容姿がしずかレベルにある人間は限られており、「カワイイ」だけで世を渡ろうとするしずか流サバイブには、まるで現実感がなくなったからだ。
     
     代わってその実用性を買われたのが、手に職(マンガを描く能力)を持って世界に立ち向かう、ジャイ子流サバイブという方法である。ブスでガサツ、忌み嫌われる当て馬キャラ、のび太にとって「失敗した未来」の象徴として創造されたジャイ子は、長い年月をかけ、「容姿には難ありだが、一芸に秀でた女子」として、ようやくまともな人権を得た。そんなジャイ子の最終的な成長段階が描かれたのは、「小学六年生」1990年8月号に掲載された「ジャイ子の新作まんが」(てんコミ44巻収録)である。
     しかしジャイ子というキャラクターの本質は、おそらく作者の藤子・F・不二雄も予想だにしなかったかたちで、90年代以降の日本社会において“市民権”を得ていくことになる。
     
     90年代半ばのこと。突如「ジャイ子系女子」とでも呼ぶべき10〜20代の女子クラスタが、日本全国で同時多発的に出現した。おもな生息場所は高校や大学の文芸部、漫研、演劇部など。美大進学者ほか、写真系、服飾系、デザイン系専門学校生にもよく見られた。
     彼女たちの見た目は、ぽっちゃり体型の低身長。言葉を選んで慎重に形容するなら、「顔面偏差値に際立った優位性は見いだせない」娘たち。そんな生来的な容姿のビハインドを、カギカッコ付きの“個性”やサブカルに代表されるマニアックな情報の武装をもってカバーする彼女たちは、近年で言うところの「文化系女子」「サブカル系女子」「腐女子」などの予備軍にしてプロトタイプ(原型)だった。
     彼女たちは、自分たちが持ち得ない「男子受けする容姿・女子力」以外のスペックを異常発達させることで、居場所とアイデンティティを確立し、社会をたくましくサバイブしていった。その姿はまるで、「およそ小学校中学年が読まないような作品をマニアックに読み解き、かつオリジナルを創作する能力」という一芸を武器に人権を取り戻していった、ジャイ子の勇姿をも彷彿とさせる。
     
     女子の類型を歴史的・体系的に論じた松谷創一郎氏の著書『ギャルと不思議ちゃん論 女の子たちの三十年戦争』(原書房、2012年)にも、「美大のジャイ子」が登場する。1994年、美大に入学した松谷氏がキャンパスで遭遇した彼女の特徴は、「たしか短大のデザイン系の学科」「背が低くて太っていて」「ジャイ子とよく似たルックス」「篠原ともえのような幼児的な格好」「本人もジャイ子と自称していたそうだ」「日々躁状態」と説明される。
     複数の友人から「うちの学校にもジャイ子がいた」と聞き、「さまざまな高校や大学に、それぞれのジャイ子がいたのだ」とする松谷氏は、ジャイ子のくだりをこう結ぶ。
     

    国民的マンガをリソースとした“ジャイ子”は、「イケてるわけではないが、だれに対しても存在感をアピールできるキャラ」として機能する。それはイケてるキャラクターを目指すことなく、かと言って“地味な存在”として生きることには抵抗した、不思議ちゃんのひとつの生き方だったのだろう。(松谷創一郎・著『ギャルと不思議ちゃん論 女の子たちの三十年戦争』P.155より)

     
     実際、90年代半ばを10代で過ごした筆者の周囲にも、文字通りジャイ子のごとき「小太り・黒髪おかっぱorマッシュルームカット・ベレー帽」といういでたちのジャイ子系女子がいた。愛知県の公立高校の同級生に1人、横浜の四年制大学のキャンパスにちらほら。特に大学には建築学科があり、『スタジオ・ボイス』を熟読しつつ都内の美大生と交流するような“感度の高い学生”が多かったため、ジャイ子系女子が生まれやすい環境だったのかもしれない。
     
    ●救済者としてのシノラー
     
     サブカルに傾倒し、ファッションや言動が“個性的”な彼女たちの一部は、松谷氏も指摘するように「不思議ちゃん」と呼ばれた。
     1995年にデビューし、90年代後半にテレビを中心として強烈な存在感を残した「シノラー」こと篠原ともえも、この文脈で言及しておくべきだろう。当時10代後半だった彼女は、短いぱっつん前髪と珍奇なファッションに身を包み、異常なハイテンションでスタジオの大人たちを戸惑わせていた。
     初期のジャイ子系女子にサブカル要素が不可欠だとすれば、彼女たちにとって篠原はうってつけの心情的ロールモデルだった。歌い手・パフォーマーとしての篠原をプロデュースしたのは電気グルーヴの石野卓球。電気クルーヴは、前身であるバンド「人生」時代からインディーズシーンでは名の知れた存在であり、当時のサブカル界における有力レーベル「ナゴムレコード」の中核をなす人気バンドだった。篠原は生まれながらにして、血統正しき「ザ・サブカル女子」だったのだ。
     篠原は、当時のジャイ子系女子にとって救済の受け皿としても機能した。男受けする容姿でなくとも、“個性オシ”でキャラクターを作り上げてしまえば、いっぱしのアイデンティティと自尊心は獲得できる。彼女たちは、はなから望めない「男子受け」要素を自ら完全放棄し、歪な幼児性をたたえたお団子頭やサスペンダー、羽根つきランドセルや極彩色の靴下などで、自らの「メス性」を完全に塗りつぶしたのだ。
     
     ロリコンの劣情を催させる美少女子役が「チャイドル」などと呼ばれていた90年代中盤から後半、篠原およびそのフォロワーたちは、決して男子の(一般的な)性的対象にはなりえなかった。否、なろうとしなかった。おもしろ系の飛び道具キャラとして、教室内ジェンダー的な意味での「女子」にカウントされることを拒み、キャラとしてのジャイ子を地で行った。それが、「容姿に恵まれない、小太りな彼女たち」なりの、やっと見つけた生存戦略だったからだ。
     教室内の一般的な評価軸に頼るだけではスクールカーストの上位に登れない女子が、生き残る道として「シノラー≒ジャイ子系女子」キャラを選択し、既存の評価軸で計測されることに徹底抗戦する。それは、「のび太の失敗結婚相手」として創造されたジャイ子が、「マンガ」という特殊能力を駆使して、別の評価軸を独力で獲得したプロセスと同じ旋律を奏でているようにも見える。
     
     モデルの市川実和子を筆頭に呼称された「ブスカワイイ」「ブスカワ系」という身も蓋もない言葉が生まれたのも 90年代半ば頃だ。要は「異性に媚びるモテカワ系ではなく、同性に好かれる・愛嬌のある・個性的な造作のご尊顔」を一言で言い表した形容である。
     ブスカワ系モデルが活躍していたのは、『CUTiE』『Zipper』などのストリートファッション誌、いわゆる青文字系雑誌だ。『JJ』『CanCam』といった男ウケ至主義的な赤文字系ファッション誌とは対極をなすこれらは、誌面で「男子に媚びない・サービス精神でメス性をアピールしない・モテより個性重視」(筆者意訳)の信条を掲げ、ジャイ子系女子を含む多くの女子たちの支持を得た。
     このように、ブスを個性と読み替えるムーブメント……もとい、容姿より一芸を売りにする女子ムーブメントが若者文化空間内に吹き荒れたのが90年代後半である。その端緒にしてコンセプト上のルーツを、1990年の「小学六年生」に描かれたジャイ子に求めることは、十分に可能だ。
     なお、1979年3月生まれの篠原は1990年時点で11歳。当時ちょうど小学六年生であった。
    ●ジャイ子と光浦靖子
     
     ジャイ子系女子が新たなる評価軸(という名の市民権)を獲得していったことに追随してか、オフィシャルの『ドラえもん』においても、ジャイ子の地位向上がみられた。2001年の劇場公開短編作『がんばれジャイアン』での扱いである。
     本作は原作におけるジャイ子と茂手もて夫(のちにジャイ子と同人誌仲間になる小学生男子/原作にも登場)との出会いをベースにしたオリジナルストーリー。物語自体はジャイアンとジャイ子の兄妹愛を描いた感動系のイイ話だが、問題はジャイ子のキャラクターデザインである。驚くべきことに、ジャイ子が「かわいい」のだ。
     『がんばれジャイアン』で画像検索していただければ一目瞭然だが、キービジュアルのジャイ子は、アイドルが写真館で撮ったブロマイドのように愛嬌たっぷり。原作の無愛想かつクール、ミニマムな線でソリッドに描かれたジャイ子の造作を見慣れた者としては、違和感が拭えない。正直、気持ち悪い。
     また、劇中のジャイ子は原作の後期同様、健気な努力女子として描かれているが、「兄思いの妹属性」が異常に底上げされている点も気になる。冒頭、ジャイアンに原稿を奪われたジャイ子がジャイアンを追いかけるが、ジャイアンが信号待ちで足止めされるのを見るや、ジャイ子は距離を詰めずにその場で足踏みするのだ。『トムとジェリー』の「仲良くケンカしな」状態である。
     
     このようにして「疎まれる存在としてのブスな女の子」は、ジャイ子系女子の発生という潮流を経由し、最終的には「公式が追認する」形をとって、「愛嬌のある文化系少女」としての地位を獲得する。
     記憶に頼る形で恐縮だが、揶揄も含めた「サブカル女子」のルックスアイコンのひとつに、「ベレー帽+黒髪おかっぱ」が加わったのもゼロ年代初頭、この頃ではなかったかと思われる。
     『がんばれジャイアン』公開以降、「ジャイ子的なるパーソナリティ」の社会的許容範囲は広がっていった。それは、乙女ゲーやBL好きといった「腐女子」の一般的認知度向上にも寄与してはいないだろうか。また、文化的素養部分から切り離した「見た目のビハインド」だけに着目するなら、10年代以降、小太り女子を「マシュマロ女子」「ぷに子」などと言い換えて半ば強引に持ち上げた一部女性誌の風潮に、その残滓が確認できなくもない。

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  • 『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第5回 ふたりのファム・ファタール 前編【毎月第1水曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.463 ☆

    2015-12-02 07:00  
    216pt

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    『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第5回 ふたりのファム・ファタール 前編【毎月第1水曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.12.02 vol.463
    http://wakusei2nd.com


    本日お届けするのは『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)の第5回。今回からは「しずか」と「ジャイ子」という、ドラえもん作品内でも特異な立ち位置にいる2人の女性キャラクターに焦点を当てます。しずかに託されたセクシャリティ、そしてジャイ子だけが持つ「非『ドラえもん的』」な要素とは?
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     前回までは、3回分を費やしてのび太というキャラクター、および「のび太系男子」と呼ばれる3〜40代男性の精神構造上の難儀(生きづらさ)について述べた。今回は、『ドラえもん』に登場する代表的な2人の女子、しずかとジャイ子について考察してみたい。
     なお、ファム・ファタール(仏:Femme fatale)の直訳は「運命の女」。宿命的な恋愛対象の女、もしくは男を破滅・堕落させる魔性の女のことを指す。新約聖書に登場するサロメ、キューブリック映画でおなじみのロリータ、谷崎潤一郎『痴人の愛』のナオミ、連合赤軍幹部の永田洋子、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のクェス・パラヤなどが代表的なタマである。
     
    ●しずかに託されたセクシャリティ
     
     まずは、言わずと知れたのび太の将来の結婚相手にして『ドラえもん』世界のヒロイン、しずちゃんこと源静香(しずか)について考えよう。しずかはピアノ、バイオリン、テニスなどをたしなみ、ぬいぐるみが大好き。学校の成績は上々で、優等生の部類に入る。典型的な昭和マンガのアイコン的美少女であり、教室のマドンナ(死語)。のび太が惚れるのは無理もない。
     しずかのパーソナリティとして一般的に最も知られているのは、無類の風呂好きであるということ。彼女は平日の日中から、浴槽にお湯を張ってきっちりバスタイムを確保する。推察するに、一日複数回の入浴は当たり前。のび太がどこでもドアで入浴中のしずかちゃんの前に現れてお湯をかけられるくだりは、吉本新喜劇並みのお約束だ。
     風呂シーンの多さも手伝って、しずかは頻繁にヌード姿を描かれた。連載初期ではつるぺただった胸も、後期ではしっかり膨らんでいるばかりか、コマによってはハッキリと乳首も描画されている。児童向けマンガとしては不自然とも思える執拗な裸体描写は、『ドラえもん』という作品の特徴のひとつと言ってよい。
     
     藤子・F・不二雄が著作中でセクシャルなモチーフやエロスを描写するのは、さして珍しいことではない。『ドラえもん』連載期間中(1969〜96年)に連載されていた『エスパー魔美』(1977〜83年)では、中学生の佐倉魔美が、画家である父親のモデルとしてたびたびフルヌードになっている。青年誌に数多く描かれたSF短編のなかでも、エロスやセックスをモチーフにした作品は枚挙に暇がない。
     しかし、主に小学生を読者層とする『ドラえもん』で、小学生であるしずかがここまで裸体をダイレクトに描画されるのには、多少の違和感がある。『ドラえもん』世界のなかでは、しずか以外にセクシャルな要素を託されたキャラクターが存在しないので、なおさらだ。
     ついでに言うなら、しずかのパンチラ描写もやたら多い。短編作ではもちろんのこと、大長編第5作『のび太の魔界大冒険』(1983〜84年連載、84年劇場公開)で、のび太がはじめて成功した魔法は「しずかのスカートめくり」だった。ここでは魔法が成功した感動を彼女の神々しいパンティによって表現するという、なかなか思い切った演出がなされている。しかも同作の最終ページ最終コマでも、しずかのスカートがめくれている。大長編のなかでも一、二を争う完成度を誇る『魔界大冒険』は、しずかのパンチラで物語が動き出し、しずかのパンチラで物語が結ばれるのだ。
     
     「簡素な線で描かれたヌードやパンチラ程度で、何をそんなに大騒ぎを」と一笑に付すのはまだ早い。しずかの裸には時折、藤子・F・不二雄の「魔」が潜んでいるからだ。
     てんコミ28巻「なぜか劇がメチャクチャに」は倒錯度の高い問題作だ。クラス会のグループ別演劇コンクールで、ジャイアン、スネ夫、しずかとともに劇をやることになったのび太は、ドラえもんに頼んで「オート・アクション・プロンプター」「きゃくほんカセット」「万能ぶたい装置」を出してもらう。要は、セリフや挙動を覚えなくても、体が勝手に動いて劇を演じさせてくれる道具だ。
     ところが、オート・アクション・プロンプターが提案するどの演目も、「しずかの役が半裸もしくはヌードになる」という展開のものばかり。『人魚姫』では上半身が半裸、『ちびくろさんぼ』では服を一枚ずつ引き剥がされ、『はだかの王様』では仕立屋に騙されて裸で街を歩く、といった具合に。
     最終的に、これなら大丈夫だろうということでグリム童話『星の金貨』に落ち着くのび太たち。「強制ボタン」を押し、途中でやめられない設定で劇がはじまるが、『星の金貨』も「貧しい少女が困った人にパンや衣服を分け与え、最終的には全裸になる」という展開だと判明してしまう。しかし時すでに遅し。強制ボタンのために劇をストップできないのだ。
     劇が進み、残酷にも一枚ずつ服を脱がされていくしずか。泣きながら「やめてやめて」と懇願するも、機械には逆らえない。ついに最後の一枚の肌着を、貧者役ののび太に差し出す。全裸になったしずかは片手で胸を隠し、両膝をつき、涙を流しながらすすり声で「か、か、神さまのおめぐみが……」というセリフを言わされる。
     目を疑うエロスの極み。「鬼畜」「陵辱」という言葉がふさわしい。藤子・F・不二雄のなかの悪魔が牙を剥いた瞬間である。
     
     大長編『のび太のドラビアンナイト』(1990〜91年連載、91年劇場公開)では、しずかが『アラビアンナイト』の世界、すなわち8世紀末の中東で少女奴隷として奴隷商人に囚われる。手を鎖でつながれ、服(20世紀の服のまま)はボロボロ。靴はなく靴下で熱砂を歩かされるのだ。
     そもそも「少女奴隷」の時点でかなりギリな展開だが、砂漠で奴隷商人から逃げ出したしずかが力尽きて倒れ、奴隷商人にいたぶられるシーンは完全に性的倒錯の産物である。以下は奴隷商人のセリフだ。
     

    「ばかめ! わしから逃げられると思うのか!!」
    「このムチはいたいぞ!! 皮がやぶれて血がふきだすんだぞ!」
    「さ、いいなさい。『ご主人さま、二度と逃げたりしません』と……」
    「強情者!! これでもか!!」

     
     コマによっては威嚇のムチが唸りをあげている。いわば言葉責めの様相を呈しているわけだが、ここでは一連のしずかの表情に注目したい。お行儀のいい美少女が責め苦を味わい、気丈に諦めまいとするも、自身の無力に絶望し、うなだれる。SM官能小説のごとく、人間の嗜虐心をくすぐるエロスがここにある。もはや女子小学生の芝居ではない。
     
     このような描写に倒錯的エロスを読み取るのは、意地の悪い深読みのしすぎではないかというお叱りも重々承知。しかし油断すればすぐに顔を出す藤子・F・不二雄の「魔」は、どうにも無視できない。
     てんコミ26巻「魔女っ子しずちゃん」では、『魔法使いサリー』や『魔女っ子メグちゃん』に憧れるしずかが、空飛ぶほうきにまたがって人助けをする話だ。中盤、ほうきに乗ったしずかが突然空中から地上に降り、こんなことを言う。
     

    「長い間のってるとどうも……。サリーちゃんもメグちゃんも、いたかったのかしら」

     
     そのコマで、しずかは股間に手を当てている。大事なことなのでもう一度言おう。“しずかちゃんが、股間に手を当てている”。
     正味10ページの短編で、このくだりに3コマ。果たして必要だっただろうか? いや、必要だったのだ。藤子・F・不二雄、否、藤本弘はどうしてもしずかに言わせたかった。股間に手を当てて、いたかったのかしら、と。
      
     このように、しずかちゃんはオーソドックスな昭和マンガ的マドンナの地位を与えられていながら、作中において(性的に)けっこう弄ばれている。まるで、富山県高岡市での少年時代に内気ないじめられっ子だった藤本少年が、妄想の中でクラス一の美少女を弄ぶかのように。しかも、藤本が自己を投影したダメ男・のび太は、その美少女と将来結婚するのだから、たちが悪い。
     筆者は本連載の第3回で、「のび太の欠陥人格や志の低さを『それもまた善し』とする作風は、藤子・F・不二雄自身による、つとめて独善的な自己肯定にほかならない」と述べた。それはのび太の思想の根幹をなす、自己変革努力なしの「果報は寝て待て」アティテュードとも直結する。ここで言う果報とはつまり「妄想で弄り倒した憧れの美少女と結ばれる未来」のことだ。字面にすると若干香ばしくはあるが。
     無論、好きな女の子の裸を想像し、エロいシチュエーションを妄想するのは、思春期の男子なら誰でもやることだ。ただ藤子・F・不二雄は、それを30代半ばで連載をスタートした児童向けマンガの作中で実行した。それまでマンガ家として培った名声、作家として蓄積したあらゆるテクニックを総動員して、「かつて藤本少年が抱いた夢」をここに結実させた。それがしずかの乳首であり、官能小説的エロスであり、股間の痛みだ。
     藤子・F・不二雄のマンガ家としての天才性は疑うべくもない。ただ、作風としてよく形容される「ピュアで夢いっぱいの少年性」は、このようなダークサイドも有している。『ドラえもん』、ひいてはF作品全般を考察するうえで、絶対に忘れてはならない側面だ。
     
    ●オンナノコとしてのしずかとFの女性観
     
     さて、しずかが美少女ヒロインである一方、意外と性格が悪いのでは、という意見が(特に大人読者から)出ることも少なくない。主な根拠としては、以下のようなものが挙げられる。
     

    ①のび太を仲間外れにするジャイアンやスネ夫の側につく、もしくはジャイアンやスネ夫によるのび太いじめを黙認することがある
    ②のび太をバカにする言動がある
    ③同性の友人がいる気配がない。のび太ら男の子とばかり遊んでいる

     
     ①に関してはよく知られている。よくあるシチュエーションが、スネ夫が自分の玩具や別荘などを自慢し、「のび太には遊ばせない(連れて行かない)」と意地悪する場面で、しずかが何も言わずしれっとスネ夫の側につくというものだ。ただしこれには例外もあり、のび太を哀れに思って自ら参加を辞退することもある。
     ②については意外かもしれないが、いくつか描写がある。てんコミ2巻「テストにアンキパン」では、のび太を「クラスでいちばんわすれんぼのあんたが? ホホホ」と高らかに嘲笑。同35巻「しずちゃんとスイートホーム」では「勉強相手としては、のび太さんは適当じゃないのよね」とバッサリ。同41巻「時限バカ弾」では「出木杉さんがいいお話してるのに、ばかなこといって、じゃましないで」と容赦ない。
     てんコミ39巻「ロビンソンクルーソーセット」でのしずかは、かなり嫌な女だ。公園の池でのび太とふたりきりでボートに乗って漂流(無論、ドラえもんの道具の作用)すると、漕ぎ手がのび太では頼りないとオールを奪って漕ぎだす。そして、自分で漕いだにもかかわらず、「どうしてこんなところへつれてきたの!!」と逆ギレするのだ。
     道具の力によって出現した無人島に到着すると、のび太が「安心しなさい、ぼくがついてる」と言っているのに「だから心配なのよ」と突っ伏して絶望し、嗚咽。さらに、のび太がせっかく作った家を「風がふいたらつぶれそう」と入ろうとしない。「レジャーデートでいちいちわがままを言う面倒な女」の典型だ。
     ③は、小学校高学年の女子としてはたしかに異常だ。しずかはジャイアン、スネ夫、のび太、ドラえもんとばかりつるみ、同性の友達と遊ぶ描写が極端に少ない。2006年に刊行された藤子プロ公認の書籍『ドラえもん深読みガイド』(小学館)も、わざわざ2ページを割いて「しずちゃんは女ともだちがいない!?」という項目を立てている。
     ただ、このことを「同性の友達が少ない可愛い子」と一般化し、「男ウケだけを狙うキラキラ女子」「男から姫扱いされたいサークルクラッシャー女子」といった現代若者パーソナリティに結びつけようと向きは――面白い思考実験ではあるが――さすがに牽強付会の感が否めない。
     そもそも①〜③は、藤子・F・不二雄が“ある悪意をもって”しずかに設定したパーソナリティとは考えにくいだろう。
     ①は物語上、のび太を孤立させるためにしずかちゃんを無個性なモブ(群衆)のひとりとしただけだし、②ものび太の「勉強ができない」短所を第三者として強調する役回りをたまたま担わせただけだ。③も当然の話で、『ドラえもん』はのび太という小学生男子を中心としたコミュニティの物語であるからして、そこに女の子を登場させれば、必然的に男の子たちとつるむ頻度は高くなる。普通の女の子として同性と遊んでいる描写を、作中にわざわざバランスよく挟む必要もなかろう。
     
     むしろ、藤子・F・不二雄がしずかのパーソナリティに込めたダークサイドは、別のところにあると考えたい。
     格好のサンプルが、てんコミ28巻「しずちゃんの心の秘密」だ。ここでは、彼女が自分のパブリックイメージを戦略的にコントロールしているという衝撃の事実が判明した。
     プロットはこうだ。しずかの誕生日プレゼントを思案するのび太が、「アンケーター」という道具にしずかの髪の毛を入れ、彼女の本心を探ろうとする。回答するのはモニタに映ったしずか。ただし、これは髪の毛の遺伝情報から生成された“バーチャルな擬似人格”である。

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  • 稲田豊史『ドラがたり――10年代ドラえもん論』第4回 のび太系男子の闇・後編 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.444 ☆

    2015-11-05 07:00  
    216pt

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    稲田豊史『ドラがたり――10年代ドラえもん論』第4回のび太系男子の闇・後編
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.11.05 vol.444
    http://wakusei2nd.com



    今朝のメルマガは稲田豊史さんによるドラえもん論『ドラがたり』の第4回です。今回は3回連続シリーズとなった「のび太系男子の闇」最終回をお届けします。
    のび太とドラえもんの関係を「ホモソーシャルの典型」と捉え、「さようなら、ドラえもん」「帰ってきたドラえもん」「ションボリ、ドラえもん」といった有名エピソードの例を挙げつつ、「のび太系男子の闇」がどのようにして発生するのかを考察します。

    稲田豊史『ドラがたり――10年代ドラえもん論』これまでの配信記事一覧はこちらのリンクから。
     前回(第3回)、のび太の欠陥人格は藤子・F・不二雄の独善的な自己肯定の結果であると述べた。ダメでも、残念でも、変わらなくていい。弱さをさらけ出し、無邪気に欲求を表明すれば、いつか誰か(ドラえもん)が助けてくれる。美少女(しずか)をモノにできる。そんな大甘な受け身思考が骨の髄まで染み付いてしまったのが、『ドラえもん』を読み、見て育った30〜40代男性を中心とした「のび太系男子」というわけだ。
     さて、そんなのび太系男子が多感なティーンエイジャー〜大学生だった頃、その後20年以上にもわたってジャパニーズサブカルチャーに大きな影響を及ぼすTVアニメが放映された。ご存知『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜96年TV放映)である。
     「大甘な受け身思考」というOSがインストール済みののび太系男子予備軍は、おそらく高確率で『エヴァ』にハマり、「逃げちゃダメだ野郎」こと14歳の主人公・碇シンジに自己を投影した。まるで、のび太に自己投影した藤子・F・不二雄のように。自分の弱さを素直にさらけ出し、女性全般に母性を求め、本能に基づいて甘えるシンジは、言わば精神的成長を経ないまま中学生になった野比のび太。のび太系男子予備軍が親近感を抱くに値するキャラクターだ。
     そのシンジには、自分を救ってくれると確信した精神的パートナーにして、超のつくホモソー的バディが存在する。第17使徒タブリスこと、渚カヲル少年だ。
     「ホモソー」すなわち「ホモソーシャル」とは俗に、「異性愛者である男性同士に発生する強い連帯関係」のことを指す。仲が良すぎて女性が入っていけない男子同士の友情関係、といえば聞こえはいいが、ネット界隈でもよく見かけよう。『スター・ウォーズ』や『ガンダム』や『仮面ライダー』や『ダークナイト』や女性グループアイドルを喜々として語り合う男性たちの間に漂う、「女人禁制」の空気を。彼ら全員の顔には「女には、我々が愛でるものの素晴らしさの本質を絶対に理解できない」と書いてある。その強い排他性と閉鎖性が、男だけで満たされた空間の快適性に直結しているのは明らかだ。
     『エヴァ』でカヲルはシンジを導き、シンジはカヲルに絶対的な信頼を寄せた。……この構図には既視感がある。そう、シンジにとってのカヲルと、のび太にとってのドラえもんは、立ち位置が似ているのだ。のび太にとってドラえもんはもちろん「親友」だが、単なる友情を超えた絶対的な信頼と図抜けた精神的依存が、そこにあるからだ。
     のびドラのホモソーエピソードとしてもっとも有名なのは、「小学三年生」1974年3月号の最終回として描かれた「さようなら、ドラえもん」(てんコミ6巻)と、同じ読者が進学して翌月に読むことになる「帰ってきたドラえもん」(「小学四年生」1974年4月号に掲載/てんコミ7巻)である。どちらもドラファンには説明不要の名編だ。
     「さようなら、ドラえもん」では、ドラえもんが未来に帰らなければならなくなる。野比家のお別れ会を済ませた最後の夜、普段は別々に寝ているふたりは、今夜だけ“同じ布団で”床に就く(端的に、ここは萌えである)。しかしなかなか眠れない。そこでふたりは夜の散歩に出かける。

    ドラえもん「できることなら……、帰りたくないんだ。きみのことが心配で心配で……」
    のび太「ばかにすんな! ひとりでちゃんとやれるよ。やくそくする」

     感極まるドラえもんが涙を見せまいと姿を隠した隙に、ねぼけて徘徊するジャイアンに見つかってしまうのび太。いつもどおり絡まれ、ドラえもんを呼ぼうとするも、すんでのところで声を抑える。「けんかなら、ドラえもんぬきでやろう」。あんのじょうボコボコにされるのび太だが、いつもと違ってひるまない。何度殴られても、立ち上がる。

    「ぼくだけの力で、きみに勝たないと……。ドラえもんが安心して……、帰れないんだ!」

     ボロきれのようになりながらも、ジャイアンに爪を立てて粘り勝ちするのび太。そこにドラえもんが現れる。「勝ったよ、ぼく」と誇らしげに報告するのび太に、無言で滂沱の涙を流すドラえもん。その表情は安堵に満ちている。『ドラえもん』全エピソード中、ベスト・オブ・ベストと呼ぶにふさわしい名シーンだ。
     一方の「帰ってきたドラえもん」は、ドラえもんが未来に帰ったあと、部屋でアンニュイに佇むのび太のコマからはじまる。気晴らしに外へ出た折、ジャイアンに「ドラえもんに会った」と聞かされ、狂喜乱舞するのび太。貯金をはたいてどら焼きを買い込もうとする姿には、もうこの時点で涙を禁じ得ない。しかし、それはエイプリルフールの嘘だということが判明する。
     怒ったのび太はドラえもんの置き土産である「ウソ800(エイトオーオー)」という薬を飲み、ジャイアンとスネ夫に仕返しする。飲めば言ったことが「嘘」になるという道具だ。しかしやっぱり心は晴れない。ドラえもんはもういないからだ。泣きながらのび太が言う。

    「ドラえもんは帰ってこないんだから。もう、二度とあえないんだから」

     そう言って勉強部屋のドアを開けると、なんとドラえもんがいる。「ウソ800」の効能によって、「二度とあえない」が「嘘」になったのだ。抱き合って喜ぶドラえもんとのび太。ほとんど恋人同士のように強い絆を感じさせるエピソードだ。
    ●“お姫様”はしずかではない
     ここで、ひとつの問いを立てたい。果たしてのび太は、ドラえもんとしずかちゃん、どちらのほうが大事なのだろうか?
     一応、しずかちゃんはクラスのマドンナであり、のび太が惚れている結婚相手だ。しかし、『ドラえもん』の短編・長編いずれの作品を見ても、ドラえもんとのび太の鉄の絆は、しずかちゃんへの恋心を何万光年もリードしている。『エヴァ』のシンジはアスカをズリネタにして射精していたが(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』、1997年)、アスカを異性として意識しながらも、それとは比べ物にならないほど強い絆でカヲルと結びついているのと同じだ。
     前述の通り、ホモソーは「女人禁制」とワンセット。当然ミソジニー(女性嫌悪)もつきものだが、その香りを想起させるエピソードが、「ションボリ、ドラえもん」(てんコミ24巻)である。
     ケンカが絶えないドラえもんとのび太を見かねた未来の世界のセワシ(のび太の孫の孫)が、のび太の世話役をドラえもんの妹・ドラミと交代してはどうかと提案、ドラミを現代に送り込む。ドラミはドラえもんより格段に優秀なので、のび太へのアシストは完璧。ドラえもんが出す道具はのび太を一時的に助けるだけのその場しのぎなものだが、ドラミの出す道具は違う。のび太を育て成長させる道具ばかりなのだ。公平に見て、ドラえもんよりドラミのほうが、保護者・教育者としての能力は高い。
     ゆえにドラえもん自身、自分の能力不足を認めざるをえない。のび太のためを思うなら、自分が身を引くべきではないかと悩むドラえもん。まるで彼氏の社会的成功のために身を引こうとする、地元の腐れ縁の彼女のようではないか。
     しかし、「交代」の提案を聞いたのび太は、「いやだ!! ぜったいに帰さない!!」と泣きながらドラえもんにすがりつく。どこぞの純愛ドラマかと錯覚するほどドラマティックなエンディングだが、ここでドラミの介入する余地は、みじめなほどに皆無だ。あれだけいい仕事をしたのに、ドラミはのび太に選ばれない。ドラミがどんなに優秀でも、どんなに性格が良くても、のび太と親密なバディ関係を結ぶことはできない。それを象徴するエピソードである。
     「小学館BOOK」「小学生ブック」では、ドラえもんが登場しないパラレルワールド的な『ドラミちゃん』という作品が掲載されていた。ここには比較の対象であるドラえもんがいないにもかかわらず、のび太とドラミの関係は、のび太とドラえもんの関係ほど熱くない。むしろ淡白である。「男の子同士」の関係性と同じものを、「男の子と女の子」が構築することはできないのだ。
     ホモソー的な文脈で『ドラえもん』を精査した場合、大長編ドラえもんは格好の考察対象であろう。
     『ドラえもん』のヒロインはしずかちゃんだが、大長編は物語のクライマックスで「“お姫様”たるしずかちゃんを救うことで感動を誘う」構造にはなっていない。子供向けマンガの、年に1度のスペシャルエピソードにおいて、未来のフィアンセを“お姫様役”にすることはむしろ自然なはずだが、しずかちゃんに“お姫様”の役割が与えられることはないのだ。
     では誰が“お姫様”なのかいえば、実はドラえもんである。大長編ドラえもんにおいて、「レギュラーキャラクターの誰かが危機に陥り、それを救出することで感動が発生する」プロット構造である場合、被救出者の役割はほぼドラえもんに割り振られる。その時の“白馬に乗った王子様”は無論、のび太だ。
     大長編『のび太と雲の王国』(1991〜92年連載、92年劇場公開)では、電撃に打たれて壊れたドラえもんが文字通り「狂って」しまうが、のび太は優しくドラえもんの手を引き、世話をする。保護者―非保護者の役割が逆になるのだ。しかもこの時、ジャイアン、スネ夫、しずかはいない。邪魔する者のないふたりきりの旅によって、誰も割って入ることのできない、のびドラの濃いつながりが描かれる。
     『のび太とブリキの迷宮(ラビリンス)』(1992〜93年連載、93年劇場公開)では、作中のかなり長い時間にわたり、のび太とドラえもんが離ればなれになる。そのため、のび太とドラえもんによる“ラブストーリー”の色彩が非常に濃い仕上がりになっている。

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