本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。「他人の物語」から、「自分の物語」へと文化の中心が変容する中、虚構であるがゆえにウサギのジュディの演説は「境界を再生産」することを運命付けられていた。話題はいよいよ、本連載のテーマである「中間のもの」へと移っていきます。 (初出:『小説トリッパー』2017夏号)
6 中間のものについて
情報技術の発展は、劇映画を終着点とする「他人の物語」から、自分自身の体験そのものを提供する「自分の物語」に文化の中心を移動させている。その結果、レコード産業は衰退する一方でフェスの動員は伸びる。「他人の物語」を代表する二〇世紀的な劇映画は、現役世代の共通体験の記憶をリブートする産業として最適化しながら徐々にその批判力を失っていく段階に入っている。その一方でイベント参加、観光、ライフスタイル、スポーツといった「自分の物語」たちが世界的な支持を広めていく。
こうした背景のもとで、ディズニーは二〇一六年〈ズートピア〉を送り出した。あらゆる事物と出来事が作家の意図なくして存在し得ないという一点において、アニメーションとは究極の虚構だ。ハリウッドの興行収入ランキングがアニメと特撮に占拠されて久しいが、これは純粋な虚構であるこれらの劇映画だけが、まだ現実に代替されていないから――YouTubeで五秒検索すれば出会える刺激的な現実に対抗し得るからだ。だからこそあの夏、ディズニーはウサギのジュディに、危機に瀕していた「境界のない世界」の理想を語らせることで、現実にはまだ完全には実現されていない多文化主義の理想郷と、その実現のための強い意志を描くことで現実に抗おうとした。しかし、〈ズートピア〉という虚構はトランプという現実の前に敗北したのだ。
それは比喩的に述べれば、虚構をもって現実に対峙するという思想そのものの敗北だった。そして「他人の物語」に感情移入させることで、人々の理性と能動性を養うという二〇世紀的なアプローチの敗北だった。ドナルド・トランプがアメリカ大統領に当選したあの日、私の友人たち――グローバルな情報産業のプレイヤーたる世界市民(としての自意識をもつ人)たち――がFacebookに饒舌に投稿した「境界のない世界」の擁護としてのトランプ批判の「語り口」が、逆に境界を再生産していたように、〈ズートピア〉におけるウサギのジュディの演説は、それがアニメーションという虚構であり、劇映画という旧世紀の制度を用いたアプローチであり、「他人の物語」である時点で、すでに敗北を、境界を再生産することを運命づけられていたのではないか。
虚構=他人の物語への感情移入によって人々を動機付け、統合していた時代はいま、終わりを告げつつある。現実=自分の物語(を獲得し得るゲーム)こそが人々を動機付け、動員する時代がすでに訪れているのだ。〈ズートピア〉で説かれたウサギのジュディが虚構の理想郷の素晴らしさを語る言葉よりも、〈Ingress〉〈ポケモンGO〉が人々の好奇心と快楽に働きかけて現実を、日々の生活空間を再発見するように促すことのほうが、世界を「境界のない」状態に近づけていくことだろう。
ここでつまりGoogleは、ナイアンティックは、ハンケは日常世界(私的な領域)の中に、非日常世界(公的な領域)を侵入させようとしている、と言える。小林秀雄的に言えば「政治と文学」の境界を融解させている。「政治と文学」とは、かつてこの国の「戦後」と呼ばれた時代にマルクス主義からの文学の自立をめぐる論争で使用された言葉だが、やがてそこから転じて公的なものと私的なものとの関係を意味する言葉として使用されるようになったものだ。近代社会とは、世界と個人、公と私が、政治と文学(文化)として表現される社会だということもできるだろう。
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