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2012年10月の記事 5件

【岡田斗司夫のニコ生では言えない話】ガイナックスが生まれた本当の理由 第5号

毎月第一月曜日はニコ生岡田斗司夫ゼミの放送日。 今号では、9月27日(木)に放送した番外編『ニコ生岡田斗司夫ゼミ ブロマガ開始記念「誰も知らないガイナックス」+「なりすまし人生相談」 』から、運営S田(助田)がおすすめするハイライトを紹介します。 この回のハイライトはズバリ「ガイナックスが生まれた本当の理由」でしょう。 ガイナックスといえば、皆さんご存知『新世紀エヴァンゲリオン』や『ふしぎの海のナディア』、『トップをねらえ!』など、数々の社会現象を引き起こしたアニメを作り出している映像制作プロダクションですよね。そもそもガイナックスはなぜ、生まれたのか? 実はいままでどの媒体にも掲載されなかった「本当の設立の理由」があるらしいのです……。 岡田:あのねぇ、ガイナックスの事でね、これまで書けなかったことがあってね。それが何かっていうと、ガイナックスの立ち上がりの話。 ガイナックスって、伝説的にも、まあ僕が今まで書いた文章でも、大阪にわりと優秀な奴が集まってアニメを作りたいと思った、だから東京に行ってやったんだっていう、成功的な、なんか正統派なサクセスストーリーとして書いてるわけ。 でもね、実際はダイコンフィルムからゼネラルプロダクツっていう僕がやってたお店、そしてそこからガイナックスっていうのはね、そんな綺麗なものでもなんでもない。 あのね、ガイナックスの直接のスタートの原因というのは何かっていうと、まぁなんて言うのかなあ、俺の人望がなかったからというか……なんだよな。 それはなんでかっていうとね、まずスタッフの要求を、しっかり僕は汲み取れないというのもあるし、あと庵野(秀明)くんがどんなに『帰ってきたウルトラマン』という8ミリ特撮映画に命を懸けているのかを分かっていながら、スケジュール通りに上がらないという理由で庵野くんを監督から降ろしちゃったりとかさ。いろんな理由があるんだよ。 でもねぇ、自分自身でもね、これが最大だったなぁと思うのは、なんかね、その当時の、……こっから先は本当に誰も聞いたことのない話になるので、やだなぁ~。 その当時、俺ねぇ、俺あの、一緒にSF大会とかスタッフやっていた子とさぁ、あのー、付き合ってた彼女がいるというか、結婚までしてたんだけども、浮気しちまってさあ。 で、その女の子が「私はこれからどうなるんですか。岡田さんにはちゃんと奥さんがいるのに…」って言ったら、俺が「まぁまぁまぁまぁ」みたいな、その場限りの誤魔化しをしてたわけだよ。 (視聴コメントを見て)「ええええええ」とか「最低だw」とか……。そう最低です。はい。すいません。 最低だからこれまで話できなかったしさぁ、したくなかったんだけどさぁ。もうしゃあないよ、俺の仁義の通し方はねえと(笑)。で、その女の子が他のスタッフに相談してバレて、俺はもうほとんど全員から吊し上げられたんだよ。そんなことしていいと思ってんのか、っていうのもあるし、もうお前とはやってられないっていうふうに言われたのもあって。もう僕がその時に思ってるのが……。 (視聴者コメントを見て)「そういうやつだとは思わなかった」「斗司夫にはガッカリだよ」、悪かったな(笑)。「娘さん見てるのか」、見てないと思うけどいずれ見ることになると思うよ。俺もうねぇ、娘は十年(俺に)口をきいてくれないと覚悟しながら喋ってんだけども。で、その時にね、もう俺、これ大阪にはいられないなぁと思ったのは本当なんだ。 それがねぇ、ガイナックススタートの、僕にとって一番デカいきっかけだ。つまり、これまで自分の身内、家族以上の存在で、一生一緒にやってくと思ってた人ら全員から「お前のことを軽蔑する」「お前となんか仕事できない」って言われて、反省して頭さげて「もう一回やってください」っていうような可愛げも俺にはなかったんだよな。 そうじゃなくて、じゃあ大阪にいられないんだったらどうすればいいんだろうっていうふうに思った。 その時にやっぱりね、同じように考えたのが『オネアミスの翼』の監督の山賀(博之)くんで、山賀は山賀で「このまま大阪で幸せになってたまるか」って思ったんだよな。 なんでかっていうと、庵野とか赤井って、そこそこ大阪で幸せだったんだよ。 庵野は、『帰ってきたウルトラマン』途中で監督降ろされたとはいえ最後まで作って、次は何を作ろうかっていうふうに考えてたし。東京で『風の谷のナウシカ』とかに呼ばれて時々東京に行ってアニメーターやって、また大阪に帰って自主映画するっていう、すごい良いバランスで生きてたわけだ。 いわゆるなんか、博多を本拠として東京に来て稼いでいる博多華丸・大吉みたいなポジションだったわけだよな。 で、赤井くんは赤井くんで、特撮映画やりたかったから、でも東京に行って特撮映画やるっていったら巨大なスタジオシステムっていう、映画業界の中の一番下に入って何ができるのかって。 雨宮慶太がどこまでできるっていうのか、河崎実がどんな目に遭っているのかっていうのを考えたら、そんなところに俺は行きたくないというふうに、まぁ赤井君は言っていたよ。 じゃあ、やっぱり大阪で自主映画、8ミリやったんだから、次は16ミリ、その次は35ミリというふうに、だんだんだんだんスケールアップする――赤井くんはそういうふうな意味ではすごい戦略家であると同時に堅実家だからさ、そういうふうに考えた。 でも山賀だけは、このままで大阪の田舎で、自主映画ですごいメジャーな奴になるっていうだけで果ててしまうのは嫌だと。 でも、もうこの集団っていうのはここで満足してしまいそうだというところに、降って湧いた、その俺のやつがあったわけだよ。 で、俺の方は俺の方で「もう大阪には居てられないー」って思って、山賀のほうは山賀の方で「岡田さん、大阪にいられないんだったら東京に行きましょうよ」って(笑)。 俺はその時に、山賀と一緒にアニメ作るっていうのを、なんだろな、ほとんど逃げていく先みたいに考えてたんだよな。 でも、ンー……百に一つじゃないな、4対1、3対1か、25パーセントくらいの勝ち目はあるというふうに見えたんだ。 現在のアニメ業界とか、僕らが持っているものとか、あと大阪ですべての信頼を失ったとしても、現状自分が動かせる人とか影響力から考えて、東京行って、ものすごく働いて、ものすごく良い社長になって、ものすごく良いプロデューサーになったら…成功率25パーセントか、もうちょっと上までいけるんじゃないかな、と。 山賀の方は山賀の方で、「成功率が例え10パーセントでも、俺はもう行くしかない」というふうに言ってくれたんだよ。 じゃあ行こうかって言って、大阪のゼネプロ…だよな、を全て抜けて行ったんだよ。だから当時の、今のガイナックスやっている、俺と山賀以外の全員だよ、ほんとに全員、ガイナックスという会社ができるなんて誰も信じてなかった。 俺と山賀だけが信じてた、というか山賀は「できなきゃ困る」だし、俺にしてみても「できなかったら帰るところがない」っていう状態で東京に行って、たった二人で始めたんだ。 だから、なかなかその、ガイナックスが大きくなってからでも大阪から人を呼べなかったよね。なんかそこまでの自信なかったし。 なんだろうなぁ、S田さんがさぁ、「誰も知らないガイナックス」って書いて、ガイナックスがどうやって誕生したのかとか語ってくださいよって言ったら、俺いやこの話語るしかない。 でも、この話しないとさあ、大阪にただ単にすごい才能のある人たちが集まって頑張ったからできたんだ、運もあったし才能もあったし良い時代だったんだって話になっちゃうじゃん。 でもねぇ、大阪にその時いたのは、俺にしても…その最低の俺にしても、山賀にしても庵野にしても、多分ね、この番組を見ている君らとそんなに変わらないんだよ。そんなに変わらない奴らがガァーっとやってたから、こっからアニメ作るぞ、と。 バンダイにプレゼンして3億円とか4億円の劇場の映画作るぞって言っても、ほんとに誰ひとり信じてくれなかったんだよな。だから、なんかねぇ、あんまり英雄談みたいに考えてほしくないっていうのはあるなー。 (企画・編集:ドワンゴ 助田徹臣) ◆【今週の書き起こし】ニコ生岡田斗司夫ゼミ番外編 9月27日放送分 全文書き起こし

【岡田斗司夫のニコ生では言えない話】ガイナックスが生まれた本当の理由 第5号
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著者イメージ

岡田斗司夫

作家、評論家 1958年、大阪生まれ。株式会社オタキング代表。FREEex主宰。常に時代の先を読み、ユニークな創造をし続けるクリエイター。アニメ・ゲーム制作会社ガイナックスを創業、社長時にはアニメ『王立宇宙軍オネアミスの翼』『ふしぎの海のナディア』、ゲーム『プリンセス・メーカー』などを手がけ、ブームを巻き起こした。その後、東京大学非常勤講師に就任。作家・評論家活動をはじめる。立教大学やマサチューセッツ工科大学講師、大阪芸術大学客員教授などを歴任。多岐にわたる著作の累計売り上げは250万部を越え、人々は尊敬の意味をこめてオタクの神様「オタキング」と呼ぶ。

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