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  • 岡田斗司夫のニコ生では言えない話 小松左京、星新一、筒井康隆ってどんな位置づけ?第95号

    2014-07-28 07:00  
    220pt
    最近Kindle paperwhiteを購入した無銘のマサフミです。
    『岡田斗司夫のひとり夜話in大阪Vol.5「全部答える、会場からの一問一答」』最終回になります。

    早速Kindleで『日本沈没』『きまぐれロボット』『時をかける少女』とお三方の代表作から読み始めたところです。
    何千冊でもこれ一つで済むというのは、昔だったらSFでしかあり得ないことでしたね。
    その最新デバイスで読むものが40年前のSF小説という事態も面白いですが、その小説が今もセンス・オブ・ワンダーを感じさせるというのも驚くべきことですね。
    どうやら知らないうちにSFを生きているようです。


    ************************************
     だから、元々、アメリカのSF小説の読まれ方と日本のSF小説の読まれ方とは土壌が違います。
     「ネブラスカの田舎に住んでた人が、とりあえず戦争に行くことによって、色んな技術に触れて、いきなり未来世界を見せられた」というアメリカと。
     「どこにでもそこそこな都会があって、田舎暮らしっていっても、どの村にも電話が1本ぐらいは引かれていて、誰もが水道をひねったら水が出るってことに驚かない」というような文明化された日本。
     これらの国では“戦争に行く”ことの意味が違いすぎるんですね。

      アメリカ人にとっては、戦争に行って近代兵器に触れるという体験自体がSFであった。
     それに対して、日本人は戦争に行くというのは「辛いことがあっても戦争に行ったら飯だけは食える。だから頑張ろう」っていう、“日常の延長”である。
     だから、アメリカではSF自体の受け入れ体制が強かったので、本格的なSFも読まれることもできた。
     でも、日本人はSFの世界っていうのを戦争で体験することがなかった。

     なので、 小松左京は、「日本が沈没する!」という“天変地異”、地震津波というような、日本人にとってはリアルな題材をベースとして、SF作品っていうのを書くしかなかったんですね。

     小松左京は、その差に対して果敢にずっと挑戦し続けた。
     『果しなき流れの果に』とか、色んなSF作品を書いて、「なんとかアメリカ、イギリスに負けないSFを!」っていうのを確立しようとした。
     真面目に努力したわけですね。


     一方、星新一という作家は、元々、生まれがお坊ちゃんで。
     金持ちで、落語がなにより好きなので、そういう真面目な「アメリカに
    追いつけ、追い越せ!」型の努力が大嫌いなんですね。

     そうじゃなくて、自分が書いてるお話をいかにソリッドにすることができるか。
     つまり、“ハードボイルド文体”というのをどこまで突き詰めることができるかを考えた作家でした。


     それを突き詰める中で、彼が考え、発明したのが、「主人公の名前を記号化する」ということ。
     つまり、主人公の名前を「N氏」とか「F氏」っていうふうに表記するところまで行ってしまったんですね。

     この記号化に関しても、最初のころは「F氏」っというふうに書いてたんですけど、途中からもう「エフ氏」というようにカタカナになったんですね。
     なんでかっていうと、カタカナで書いたほうが記号性が高いというふうに、星新一が気づいたから。

     F氏と書くと、“何かの省略”に見られてしまう。
     本当は「フクシマさん」という人なんだけど、それは書けないから、その省略としてF氏と書いているように見えてしまう。
     でも、エフ氏とカタカナで書いてしまったら、「そういう名前なんだ」と納得するしかない。

     この表記によって、国籍とか時代とかが全く関係ない作品というのが書ける、と。
     そして、「SFかどうかわからないけども、それが俺が書きたい小説だ!」というふうに、金持ちの息子特有のワガママな動機付けで、どんどん作品というのを書いてしまった。

     星新一が書いてるものも、小松左京がいるおかげでSFとして認められたんですけども。
     たぶん、この人がいなかったら、「変な短編ばっかりを書く落語家みたいなおじさん」という認識だったはずなんですね。

     それが、星新一の立ち位置ですね。


     僕は、彼が生きてる時代に本人に会ったことがあるんですけども。
     やっぱ、星新一さんがやりたいのは、“ロットサーリング”の『トワイライトゾーン』という、海外での『ウルトラQ』みたいなテレビシリーズがあったんですけど。
     そういうキレ味のいい、あるかもしれないちょっと不思議な話、藤子不二雄的なSFですね。
     「そのキレ味をどんどんよくしたい」ということでした。

     この“キレ味”っていうのは何かというと、描写がほとんどない状態だ、と。
     「女の人がどのように美しかったか~」でなく、「美人だった」と書くだけだ。
     もう、ほとんど俳句のように、とことん表現を狭めていくと、自分の小説がどんどん短くなる。
     そして、短くなればなるほど、自分のやりたいことがわかる、と。

      長く書くなんていう野暮なこと、ダサいことはやりたくない。
     長大な小説を書いて、「それのテーマが~」っていうんではなくて、読者にはキレ味と戦慄だけを与えたい。
     感動じゃなくて「ゾッ!」とするとか、「ビクッ!」とするとか、「アッ!」と思うという、それだけを与えたい、と。

     もうほんとに江戸の粋な人が、和食っていうのをどんどん突き詰めていったら、お寿司になってしまった。
     それぐらいのソリッドなもの、研ぎ澄ませたものをやりたかった作家が、星新一です。


     じゃあ、それに対して筒井康隆が何かっていうと。

     小松左京は本格SFを書く、技術や体力や、まあいわゆる知識があるわけですよ。それには自分は生涯敵わない。
     そうじゃなくて、小説としての面白さっていうのをどんどんソリッドに突き詰めて粋にする、カッコよくするっていうのは、星新一がやってる。

     そんな中、「これはもう俺に残ってるのは“悪ふざけ”だけやな」ということで、筒井康隆は壮大な悪ふざけ小説を書いてるわけですね。


     しかし、悪ふざけをやればやるほど、その悪ふざけっていうのが“表現”に近づいてくる。

     例えば、初期の小説の中で、「物語の中に出てくる人物が、自分自身が小説に書かれてるキャラクターだと気づく」というのがあるんですけども。
     それはただ単に悪ふざけだったり、アイディアにすぎないわけですね。

     それは“赤塚不二夫”もやってるんです。
     『天才バカボン』の中で、赤塚不二夫が出てきて、ペンでバカボンパパを書いていて、線が完成していってベタが塗られた瞬間に、「あ、やっと漫画が出来たのだ!」って言って、本人が動き出すというのがあるんですけど。
     これは漫画の中の登場人物が「自分が漫画の登場人物であることをわかってるよ」という、“メタ的な構造”というんですけども。

     これはあくまでギャグにすぎないんですけども。
      筒井康隆は、こういうふうなギャグとか、悪ふざけみたいな小説をずっと書いてるうちに、「あれ? これって表現とはなにかっていうとこに行き着くなあ」というふうに気がついたんですね。

     だから、徐々に徐々に、SF作家から、純文学というか、表現の文学者のほうに舵を切った。
     そういう作家です。


     僕は、「小松左京だけがSFを裏切らなかった」というふうに読んでるんですけど。