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  • 【岡田斗司夫のニコ生では言えない話】大学は原発と同じだ! 反大学!脱大学!卒大学!?第17号

    2013-01-21 07:00  
    220pt
    大学受験の季節になりました。今でも試験の夢にうなされる無銘のマサフミです。
    今回は昨年11月に行われた大阪市立大学大学院特別講義「岡田斗司夫と、これからの豊かさを考える」前半の模様をお届けします。
    大学での講義にも関わらず「大学は無駄じゃないのか、それどころか社会にとって有害ではないのか。まるで原発のようなものだ」という物騒な問題提起で始まります。
    大学は本当に無駄なのか。親や学生自身が多額の授業料を払ってまで行く必要はないのか。それともやっぱり行ったほうがいいのか。
    センター試験が終わったばかりの今からでも受験をやめるべき?
    あ、でも私はそんなことまで偉そうに言える立場ではないんですよね。
    私も大学生だったことがありました。でも親の補助金じゃぶじゃぶ使うは、あと一年、あと一年って成果もなしに居続けるは、結局卒業もできなかったって本当にひどいですね。
    これからどうしたもんじゃろ。
    では講演前半の模様です。まずはハイライトからどうぞ。
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    あと、ここら辺は言いにくいんですけど、 僕にとっての現在の大学の問題点ですね、「巨大である」「無駄が多い」。それ以外に「有害である」と思います。
    大学があるだけで利益があった時代もあると思うんですけども、今は大学というものが存在するから社会の中によくないことが起こってると僕は感じます。
    これはこれまでに言った大きな仕組みの話ではなくて、すごい身近な個別の学生の話なんですけども、日本の生徒って高校生ぐらいまでは比較的真面目なんですね。不真面目なやつもいることはいるんですけども大体みんな毎日学校には来るんですよ。
    毎日学校には来て、理由もわからずとも先生の言うことを聞いて、一応クラスで1時間だったら1時間の授業中座っていて、終わったら帰るっていう生活を繰り返しているんですね。
    そして夏休みになったら休む。でも始業式が始まったらちゃんと学校に来る。そうやって学校には毎日来るっていう規則正しい生活をやっている。
    これが何かっていうと、ぶっちゃけ言うと元々は工業社会を前提にした「人」というのを「人材」にするための仕組みなんですよね。 学校教育というもの自体が教養を与えるという表の目的と、人間を人材化するという裏の目的があります。「表と裏」って言っちゃうと何かまるで人材化するというのが汚いことに聞こえるんですけど、そうじゃありません。

    明治時代以前の農耕社会の日本っていうのは、いわゆる朝起きたら働き出して、その日の働きが終わったらおのおの家へ帰るという、大変時間的にルーズって言ったらルーズな社会だったんですけども、これが明治以降、大量生産の工業社会になると朝同じ時間に全員が同じ場所に出勤して、同じ服を着て、同じ作業をするっていう大量生産、工業社会の中の一員にならなきゃいけないようになりました。
    そうすると「人」っていうのでは駄目で「人材」にならなきゃ駄目なんですね。「人」が「人材」になるためには読み書き算数ぐらいはできなきゃ駄目だ、とかですね。あと基本的な、合理的な思考みたいなものも身につけてなければ駄目だ。簡単な会計計算みたいなものもできなきゃ駄目だし、できれば料理とか工作とかそういうふうなものも覚えた方がいいよねって、それはどれも「人材」になるために必要なことなんですね。
    僕らの教育システムっていうのは、ある一面人間の知的好奇心とか学びというふうなものを伸ばすというのがあるんですけども、それと同じぐらい重要なものとして1人の人間、いわゆる西洋人が考える野蛮な状態から文明人の状態に持っていく仕組みとしてある。 朝起きたらちゃんと働きに行って、夜帰って来て寝るという規則正しい生活を続ける「人材」に持って行くための仕組みで、そうやって高校生までかけて一応子どもを「人材」に近いところまで持っていった、その先に大学という場所がある。
    これ賛否両論あると思います。「そんなことしたら駄目だ、子どもをもっと自由にさせるべきだ」という意見はあると思います。豊かな社会であれば子どもをもっと自由にさせても構わないという話にもなるんでしょうけれども、僕がいる大阪芸術大学という、言い方は悪いんですけども底辺校に近いところではどんなことが起こっているのかっていうと、大学ってものが有害なものになりつつある。
    それは何かと言うと、 高校ぐらいまではちゃんと学校に行っていた我が子が、大学に行くと少しでも授業を取らなければ得だというふうに考えるようになる。 授業に出なくてもレポートさえ出せば単位がもらえる、そんなクラスがあればそこに参加して単位をもらうようになる。授業中でもとりあえず先生の監視がなければこっそり出て行って外で友達と喋るようになる。
    確かに高校でもそういうところはあるんですけども、それはかなり底辺高校でないいとないんですよ。でも日本の大学では東京大学、京都大学、大阪大学をはじめとしてどんな頂点の大学であっても学生たちの大半はこのように少しでも授業を取らない方が得だ、そして ちょっとでも興味がない授業であれば脱け出して外で友達と喋ることがまるで経済的に正しいかのように振舞うんですね。
    その結果、「人材」というものがボロボロになってしまう。 それまで苦労して育成してきた、言っちゃえば朝ちゃんと起きて夕方まで学校にいて帰ってきたら自分の休みになるという、ある程度の規則性を持った 「人材」としての育成を作ってきた状態が、大学に行くことによって駄目になってしまう。
    だから結局大企業にしても、まあ中小もそうなんですけど、企業が学生を面接する時には、まずそいつが「人材」としてまだものになっているのかどうか、まだこいつ朝起きられるのかどうか、まだこいつ約束したことが守れるのかどうか、そんなことからチェックしなければいけなくなってしまう。ここまできちゃうと、エリート養成時代の大学だったら「ま、エリートなんだから優秀で真面目なんだけどもたまにはそういう外れたやつもいるよ」というふうなことで済んだんですけども、ほとんどの人間が大学に行くようになってしまった今や「人」を「人材」にせっかくしたのに、もう1回駄目にする。こういう機能を現に大学は持ってしまっているんですね。
    だからどの大学でも教員やっている方は同意してくれると思うんですけども、大学の1年生で入って来た4月、5月の学生たちっていうのはすごいやる気に溢れてきらきらしてるのに、3年生、4年生になると何であんなにやる気がなくなるのか。それはカリキュラムが悪いのか、うちの大学のやり方が悪いのか、それとも最近の学生が悪いのかっていうふうに考えちゃうんですよ。
    でもそうじゃないんですよ。 大学という仕組み自体が実は有害なんですよ。有害なんだけども、すごく少しの人にちょっとだけ教育を与える時はこんな仕組みがあっても何とか作動してたんですけども、大部分の人が行くようになってしまったらこの有害さの方が大きくなっちゃったんですね。 大学っていうのはある種いいものなんだけども、あり過ぎると社会悪になると。そこまで言ったら言い過ぎかもわからないですけど、そういうことに気がついた方がいいと思うんですね。
    大学は巨大過ぎる。無駄過ぎる。有害である。
    それに対抗して、僕が考える……ってことはないんですけど、じゃあこれの逆やればいいんじゃないの?