A:事実関係:イスラム聖職者による政教一致の支配体制が樹立された1979年のイラン革命から40年となるのに合わせ、イラン各地で11日、記念式典が開かれた。米国との対立が深まり経済低迷で社会に閉塞感が漂う中、式典では「米国に死を」のスローガンが叫ばれ、国威発揚が図られた。
ロウハニ大統領は首都テヘランで演説し、核合意を離脱した米国の制裁を念頭に「国民生活にいくつかの問題が起きているが、われわれは負けない。団結して困難を克服する」と強調。米欧が懸念を表明するミサイル開発も引き続き進める考えを表明した。(共同)
B:評価
・イラン革命時、民衆は米国大使館を占拠し、長期間館員を人質にとった。この大使館はイラン政府の管理化にある。
・イラン革命記念日には一般人に解放される。当時の米国大使館電報が公開される。
・2000年頃、公開の第一室は長崎、広島への原爆投下写真だった。
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日本とイランの経済は、シャー王朝の時、石油、石油製品を求める日本と、日本製品を求めるイランで互恵関係が極めて良好に推移していった。私も二度ほどイランに出かけたが、商売は厳しくとも、心の優しさが伝わってくる国民性をよく覚えている。当時は、中近東では、大変近代化が進んでいることを強く実感した。
1953年、シャー王朝はアメリカの援助を受けるようになり、脱イスラム化と近代化政策をとり、シャーは、農地改革、国営企業の近代化、婦人参政権、識字率の向上を目指した。脱イスラムと近代化が宗教勢力や保守勢力の反発を招き、25年後大きな革命に見舞われた。
1978年1月海外亡命中のホメイニ氏を中傷した記事をめぐり、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。
1978年4月国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニ氏が提唱した「法学者の統治」が国家体制の基本となった。
1953年から1978年まで、日本とイランの貿易は、堅調に進んでおり、石油、石油製品の輸入に対し、自動車を中心とする工業製品が輸出され、日本の中近東に対する一番大きな貿易国となり、日本、イランの国民感情が極めて良好であった。その友好関係が持続されているのであって、ホメイニ体制になって、特に、友好関係が進んでいるわけではないということに注目する必要性がある。
日本人はイランに対して対中国、北朝鮮に持つ感情に似たものをもたらされている。日本のメデイアが日本人にそういう受け止めを持つようにしているからだ。そして、もう一つ大きなものとして、日本の米国との敗戦後の歴史を指摘さるべきだ。
日本人は先の大戦で米国に惨めな敗北を喫した。が、財閥を自らの手を汚さず米国人に解体して貰い、且つ、極貧の多くの小作農を自作農にしてもらった。おまけに米国の市場を丸ごと提供されて、粉砕されていた工場が雨後の竹の子のごとく復活した。多くの人間を非人道的な核で失ったが、その日本が短期間で世界で有数の裕福国家になったことは否定出来ない。米国さまさまと言っても過言では無かろう。
でも、中東は日本と全く事情が違う。アラブもそうだが、ペルシャには日本みたいな工業は馴染まないし、遊牧的農民には土地は神から授かったもので、土地所有非所有間の戦前の日本の深刻な小作農問題もどきは無い。米国に恭順して元を取って余りあるデイールは成立しないのだ。
アラーの恵みの石油がウオール街の支配下に入れば、パーレビ時代の腐敗と堕落が復活するだけだ。リビアを見れば分かる。エジプトもそう。イラクなんか今も尚カオスの状況。戦争屋がヘゲモニーを持つ米国を相手に親米はイランには馴染まない。米国が世界政策を変えれば、話は別なのだが。
私は以上のように分析しています。