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孫崎さんも、私と同じように、「生と死」が一体的にわが身に襲っているのでしょうか。頭は働いても体は衰えていく。体は元気でも頭の働きが衰えていく。
左翼が素晴らしい、右翼が素晴らしいと思ってみても、最終的には、社会が是認するわけでなく,所詮自己満足に浸っているに過ぎない。年を取れば、自己主張することのむなしさを実感する機会が多くなっていく。
どんなに正しいとおもって主張しても、時と場所が変われば、異端者になってしまう。仏教でいう執着がその人の人格を偏ったものにしてしまうのであってだれの責任でもない。左翼、右翼にこだわっていても、年を取るにつれて、自己主張することはできても体力が伴わない。ますます自己主張に依怙地になってこだわり、多くの人が遠ざかっていく。仲間は同じように年を取った人であるが、年々孤独が深まっていきのはさけられない。
今日は皇居一周散歩。最後約1.8Kはジョギングでした。
一時期勤めていた特許庁をアインシュタインは「世俗の僧院」と回想していた。
だが、世俗の諸々にウンザリ、もしくはバカバカしくなるのは、優れた頭脳の持ち主だけの特権でない。
何を幸福と思うか、何を美しいと感じるか、要は美意識の問題でないか。生まれつきの性格、感性に因るところが大きい気がするが、振幅の大きい人生経験が そうさせてしまうことも多々あるだろう。恐らく香月康男もその一人と思う。また、一冊も読んでいないが、先頃亡くなられた歴史学者・色川大吉氏は“生き残った兵士として戦後の人生は「おまけのようなもの」で、「怖いもの なんて何もない」とよく口にしていた”(週刊読書人 2021/10/22号)そうである。これも「超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ち」に近いのでないか。
「振幅の大きい人生経験」という点では、勿論、孫崎さんにも当て嵌まるでしょう。