8月22日、映画『モルゲン、明日』の試写会に出かけた。坂田雅子監督のものである。
(1)多分この映画は、坂田雅子監督の紹介から説明を始めるのが好いだろう。
1948年、長野県須坂市に生まれる。
1965-1966年、アメリカ合衆国メイン州の高校に留学。帰国後京都大学文学部哲学科卒。
2003年、ベトナム戦争で兵役経歴を持つ写真家の夫グレッグ・デイビスの死をきっかけに、枯葉剤についての映画製作を決意。グレッグ・デイビスは1967年から1970年にかけてベトナム戦争で兵役につき、南ベトナムに駐留する。アジア各地で撮影活動を行ない、「タイム」などに写真が掲載、日本の地方に関心を持ち、2002年に群馬県を題材とした写真集『GUNMA 群馬-暮しと人々』を出版。2003年、枯葉剤の影響とみられる肝臓ガンにより死去。のちに、その生涯をもとにした記録映画『花はどこへいった』が制作され
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「政治に関与する」という定立は私が信奉するサルトルの実践哲学の肝なんですよ。
自民党と自民党系は「国家予算の分配を求めてやまない」というのが「政治に関与する」ことだと固く信じて疑わない。それは紛れもない「泥棒根性」と私は断言したいのです。
その具体的な現象が原発村と国家予算の緊密な関係だと私は常日頃考えております。
ドイツの脱原発の歴史をひも解いていくことが、必須条件なのでしょう。
ドイツは、30年以上にわたる議論が積み上げられていることを銘記すべきでしょう。1986年チェルノブイリ原発事故を機に反原発運動が盛んになった。シュレーダー政権は社会民主党と緑の党の連立政権であり、新規建設を停止させ,19基の稼働中原発を順次停止させていく脱原発路線を決定。その後紆余曲折があったが、2011年3月メルケル政権は、福島原発事故が発生し旧い形式原発7基を即時停止させた。その後歴史的敗北を受け、2022年までに脱原発を決定した。2050年までに再生エネルギーを全電力の80%とするエネルギーシフトである。
当時のの課題は、
①固定買い取り制度と電力料金の問題
②フランスとの電力融通を具体化する
③再生エネルギー不安定性の克服などがあげられている。
トップダウン的に大きな目標を掲げ、さまざまな課題を克服していく方式を取っているが、日本の場合は、問題点を列記して問題点の克服が議論され解決しないために、脱原発できないのです。小泉元首相が脱原発を言っているので合意できる野党が連携を深め、自民党の小泉進次郎などと脱原発で連立政権を組むぐらいの視野の広い度量が野党指導者に要求される。野党は保守化というより多くの支持を得らるように原発で国民寄りにして、共生リベラルの道を選択していくべきでしょう。
3.11から1年経った頃の脱原発イベントでドイツ映画「第四の革命~エネルギー・デモクラシー」上映に合わせて来日した監督が語った言葉-
「チェルノブイリの時に比べて技術的インフラは目覚しく整っているので、しかもフクシマによって日本の人達も本当に他人事ではなくなったと感じたならば、是非、一人ひとりができること、再生可能エネルギーに取組んでいるNGO、政治家と繋がりを持つための一歩を踏み出して欲しいのです」
それから6年経った今尚、日本の「一人ひとり」がその方向に踏み出す大きな動きは全く見られない。仮にそんな動きが出ていたなら、坂田監督も2018年の今、今回のような主題の映画を出されることはなかったに違いない。一般のドイツ人も意識のレベルは様々だろうが、例えば戦後 経済的に豊かになった時に外国旅行でブランド品を買い漁るドイツ人など皆無だったろう。街で有名人を見掛けると忽ち群がってキャーキャー騒ぐドイツ人というのも想像し難い。先日の生放送でも木村結氏が裾野を広げることの大変さを語られていたと思うが、それでもコイズミなんぞの影響力に期待せざるを得ないという件にはハッキリ言って絶望感しか湧かない。
ドイツの状況を垣間見るにつけ、日本人のサル化が深刻なのは間違いない。
「花はどこへいった」-これが有名なベトナム反戦歌というのは聞いた覚えがあったが、初めて歌詞を追ってみました。それでつい連想したのが米国の原爆開発を取り仕切った超エリート科学者、ヴァニーヴァー・ブッシュが死ぬ前に残した言葉━「敵国よりも より強い武器を持とうとして兵器は進化し、こうしたことは永遠に続く。ある人種を殲滅してしまうような原子力の戦争が起こるだろう。しかし、それは人類を初めの状態に戻し、また同じ事が繰返されるのだろう」
つまり、この超優秀な頭脳の持ち主が辿り着いた結論は「人間はバカだ」ということだったわけだ。
日本の原発事情はその証左だ。殊にスマホでサル化が著しい日本人が「賢く」なる道は険しい。
今夜はリアルタイムで視聴できないのが残念ですが、追ってタイムシフトで支障なく見れることを願います。
反原発なヒトビトは、原発による発電を続けるかやめるかを、「生き方」とか「哲学」の問題として、議論をはじめる傾向があります。そして原発をやめる生き方を「良い生き方」と規定しがちです。そのうえで反原発な自分は、そうでない人よりも道徳的に優位にたっていると考えたがる。
まあ、思弁だけで良くて細かなデータを集めて判断する必要がないし、思弁の結果は自己肯定的な結論がでるので、楽だし気持ちいいのでしょうね。しかし、ドイツでも思弁を離れた実際の事情はそう簡単ではないように仄聞します。
ところで、こないだの北海道大停電について、アゴラが特集を続けているので、ここにリンクを貼っておきます。
http://agora-web.jp/archives/2034720.html
http://agora-web.jp/archives/2034786.html
http://agora-web.jp/archives/2034834.html
http://agora-web.jp/archives/2034848.html
脱原発派でもデンキを使うのをやめてデンキのない生活に戻るヒトビトはほとんどいない以上、原発による発電を続けるかどうかは、「生き方」とか「哲学」の問題というよりは、発電機を原子力でまわすか火力でまわすかの問題だとおもいます。日本で今後原発を止めたまま火力に頼ることはもちろん可能ですが、簡単にいうと、莫大なカネがかかります。そのしわよせはかならずどこかに来る。そういうあたりを客観的に論じるような議論が必要だとおもいます。
孫崎氏は「日本とドイツ、なにが両国の原発への対応の違いを発生させるのか」という疑問を述べているが、その答えは日本人の方がドイツ人よりも、理屈を鵜呑みにしないで、うだうだと迷うことにある。それは、双方にとって、長所でもあり、短所でもある。ドイツ人はヒトラーという弁士が現れたとき、悪い奴らはユダヤ人だという単純な彼の仮説に呑み込まれてしまった。極端から極端へ動くのが、理論好きなドイツ人である。確かにその傾向のおかげで、ドイツには伝統的に著名な哲学者も多く、原爆、ジェット機、ロケットなどの独創的な技術開発を行った。しかし、新しい科学は仮説から始まり、仮説はその正しさが証明されるまでは、疑われるべきである。日本人はたまたま、あまり議論が得意でないので、うだうだして態度を決めない。その結果、ある時間が経つと他人の仮設、ドイツのお先走りが実は間違いだったという幸運に会う可能性がある。ドイツが原発を止めたというのは、実は誤りかもしれない。数年前には、ディーゼルエンジンが自動車のエンジンとしては、CO2放出量削減の切り札として日本のハイブリッド車より良いクルマと大いに宣伝したが、ご存じのように、最近、彼ら自身ディーゼルエンジンの自動車の生産に見切りをつけたし、一方、トヨタのハイブリッド車はいまだ生産が伸びている。ドイツ人と結婚した女性である、原著者には気の毒だが、ドイツ人て、そんな民族ですよ。信仰するのはご自由ですが。
>>5
原発を始める時にも理屈を鵜呑みにしないでうだうだ
迷うべきでしたね。
ただ日本人のドイツ信仰は度がすぎるのも事実。
わたしは学生時代に金持ちの息子の友人がいて、
ずっと交際が続いているのですが、ずっとドイツ車
に乗り続けています。
わたしが道楽のオートバイでBMWを購入したことがあるのですが
故障に悩まされ、長距離ツーリングには利用できませんでした。
その時、かの友人が「ドイツ車は故障が多い、イタリア車より
ひどいかもしれん、ドイツの工業製品の優秀さに対する日本人の信仰は
まったく不思議だ」とのたまいました。
ばかやろう、もっと早く言え、とどなったものです。