私は1943年生まれ。多分最もテレビに影響されてきた世代だろう。中学時代にテレビが家庭に普及し始め、紅白歌合戦、巨人戦、プロレスを夢中で見、夕食時には「てなもんや三度笠」を見ていた。随分多くのテレビ番組を見た。テレビ番組を見て、自分の考えを180度変えた経験が一度ある。BBCが行った安楽死についての番組である。
1966年夏から68年夏まで私はロシア語を学ぶため英国にいた。当時BBCは面白い番組を持っていた。争点が分かれる案件を裁判形式で討議する。一方が検察、一方が弁護側に立ち、最後に聴衆が判決を下すという仕組みである。そして安楽死が取り上げられた。私はそれまで、「安楽死は認めてもいいではないか」と思っていた。検察側(多分)が「安楽死は認めていい」と主張した。「人生の最後位自分で決めさせていいのではないか」という主張だった。私の考えを変えたのは一組の家族だった。
一人の中年女性、夫、そして
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
<本人から安楽死させてくれと依頼がありますか>
<答え。殆どありません>
なるほど、そういうことですか。
私の限られた経験では「死にたい」と強く要望するケースは少なからずあるように思えますね。そういう強い要望には応えて上げればいいのではないでしょうか。
その詳細は知りませんが、オランダにはそういう制度があって、イギリス人はその恩恵を享受している、とも聞いてます。
それは、ともかく、問題は意識を殆ど喪失した患者の扱いです。意思表示が出来ない訳ですから非常に難しい。こういうケースは医学の見地で意識の回復が難しいと判断されたら、安楽死を行えるように取り決めしてもよいと思うのです。
以上のように言えば、きっと、種々の哲学、宗教が私を断罪するのでしょうね。
孫崎さんは、極めて難しいが、その人を知る上では極めて分かりやす問題を提起されている。
人生哲学は、突き詰めていけば、「信心」にぶち当たる。「信心」を一般的な宗教に結び付ける人がほとんどであるが、一人人生を突き詰めていって一つの「信念」が、一般的宗教と重なる場合は、宗教団体とは関係ないが、「信念,信心」において異なるものでなくなる。
「安楽死」は、「情緒的か理性的」か、で全く違った世界が展開するが、リベラル系は「理性的」の人が多いでしょう。問題は、理性的であっても、知識に依存した領解か、体験に基づいた知恵かで、人生観が全く異なってしまう。
「情緒的」な場合、夫婦か、子供か、親か、兄弟化、親族か、友達か、組織の人か個人的つながりによって、「安楽死」を極めて困難に見る場合があり、案外さらっと、「安楽死」を是認する場合がある。
ほとんどの人は、理性といっても知識に依拠すれば、簡単に処理できるが、情緒的な見方考え方をする場合は、なかなか結論をだせないのが普通なのでしょう。
身近に経験したことも無く、軽々に扱えない問題だが、それは つまり、単純な問題でないということだ。
田原某のように「安楽死、認める?イエスかノーか?」と無条件にいずれか一方で片付くことでない。
個々の実情を詳しく丁寧に視る必要があるだろう。その結果、どうしても安楽死を認めざるを得ないケースもあるのでないか。
しかし...係るBBCの番組、ヤラセの疑いは無いのだろうか。
更に言えば、「安楽死を認めるべきでない」との結論を出した人も、誰一人として、医療費負担で圧し潰されそうな家族を(自腹を切って)救済したりは しないだろう。
安楽死の問題は深く考えなければ結論は出せないですね。
それこそ総合的、俯瞰的に。
ああなってまで生きるのなら自分だったら死にたい、という
短絡的な擬似当事者視点から安直に結論を出してはいけないと
思います。
大きく社会全体に影響を与えることがらですから。
社会が、穀つぶしは生きているべきでない、という方向に
舵をきる可能性があります。
>>4
確かにそうですね。
>>5
同意いただきありがとうございます。
ただこの問題は悩ましくいまだに結論を出せていません。
人は自殺できて、それは違法でもなんでもないのだから
本人が望む安楽死ができてもいいだろう、という考えは
依然わたしの中で有力です。
ただそれに伴って派生することがら、あのひとはいさぎよく
死を選んだのになぜあなたは家族や社会の負担になってまで
見苦しく生きることに執着するの、という心理的圧迫は当然
当該者に発生します。
生ある個体がその存続を希望するのが基本的に当たり前という
真理が軽視される世の中にならないともかぎりません。
本当に悩ましい問題です。