「すすき」について随想を書こうと思いました。途中で、万葉集に多くの句が読まれていることを知りました。(注:https://art-tags.net/manyo/flower/wobana.html)。紹介しようと思うと字数が多くなります。万葉集でのすすきの句を独立して紹介します。
・陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎
・伊香山(いかごやま)、野辺(のへ)に咲きたる、萩見れば、君が家なる尾花(をばな)し、思ほゆ 笠金村(吉備笠垂の子)
・秋づけば、尾花が上に、置く露の、消ぬべくも我は、思ほゆるかも:日置長枝娘子
(漱石の草枕に彼女が「この歌を咏んで、淵川へ身を投げて果はてました」と記載。
・:我が宿の、尾花が上の、白露を、消たずて玉に、貫(ぬ)くものにもが 大伴家持
・秋の野の、尾花が末(うれ)を、押しなべて、来しくもしるく、逢へる君かも 蟲麻呂
・めづらしき君が家なる、花すすき
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「憐れ」を実感するために「草枕」を持ち出したのでしょうか。
草枕の最後は、「余はこんな山里にきてこんな古雅な言葉でこんな古雅な話を聞こうとは思っていなかった。」
那美さんから「身投げして往生した末に水面に浮いている絵を描いてくれ」といわれたが、絵を描くことができなかった。絵を描くことができない理由を同じように最後の下りで見つけた感動が伝わってくる。
那美さんと野武士は思わず顔を見合わせた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の姿はすぐ消えた。那美さんは茫然として汽車を見送る。その茫然のうちに不思議にも今まで見たことのない「憐れ」が一面に浮いている。
人間の心には「悟りと迷い」が同居していて、何かの拍子に表情が微妙に変化する。悟っていれば心が、円満に揺れ動くが迷っていれば心の円満さが欠け絵を描けないということでしょう。絵にならないともいうべきなのでしょう。
万葉集を読むような教養が無かったのは残念な気もしてくるが、そう思うだけまだマシでないか。
「結婚とは、男のカネと女の顔の交換」の如く、今や あれこれ身もフタも無くなっているのは漱石の時代の比でない。
アベ、スガ、ヤノ、ネトウヨの辞書に「恥」のハの字も無ければ、「古雅」のコの字も無いことが象徴的だ。