私は絵画をよく鑑賞します。西洋画の場合、印象派が出てくる前はギリシア神話や宗教を主題としたものが多く、少なくとも画家が訴えたいと思うものの吸収が十分行われないことを痛感していました。
芸術作品の鑑賞には、物の前に立つだけではなくて、作者の意図や、表現の様式や、時代背景などの理解が不可欠と思います。
そのことは俳句の鑑賞にも該当すると思います。ドナルド・キーンは一九二二年生まれの日本文学者でしたが、芭蕉について「幾何学的に言えば、瞬間のものと恒久的なものの交る点となって表現されているのがみられる。その一例が、芭蕉の俳句の中では或は最も有名かもしれない。古池や蛙飛びこむ水の音。その第一節で、芭蕉はこの詩で不易な要素をなしている時間を超越して動かない池の水を出している。次の蛙が瞬間的なもので、この二つが水の音という一点で交わっている」と記しています。
ドナルド・キーンは「変化」と「不易」の二要素
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> 作者の意図や、表現の様式や、時代背景などの理解が不可欠と思います。
感じるまま感じ取るだけでいい と言う人もいるが、それでは猫に小判で終わるケースも多いのでないか。上記理解によって印象がガラッと変わってしまうことは、過去の絵画ご紹介でも実感した。
二句一章論も初めて知ったが、「日本は言語からして のっぺりしているのだから、元々ダイナミクスが無い風土、文化の国」との認識は間違っているのかもしれない。
> 蛸壺や/はかなき夢を夏の月
詩、句には端から疎いとはいえ、これはシュールだ━と思って調べると直ぐに上記「理解」が得られて腑に落ちた。ネット時代ならではだが、気ままに想像巡らしていたのも そこで終わってしまう。
昔、立石寺に二三度行ったことも併せて思い出した。
方法論を意識しながら、さっそく、十句くらいつくってみる。たとえば、
タリバンや ねころんでみる赤い月
ろくなものはできないが、自作してみると、なるほど、「相互になんの関連がないものを一句に仕立てる」のは、別に難しくはないが、「材料と季題との関連が全くないというわけではなく、イメージの奥に通底するものがある」ことによって、「新しい世界を現出させる」のがむずかしいのだとわかる。
「イメージの奥に通底」。これがありふれてるとつまらない句であり、相手に伝わらないと妙なとりあわせと感じられる(読む側の知識も問われるが)。ここの塩梅が天才の仕事なのだろう。
「しずかさや 岩にしみいる 蝉の声」
一如一体の世界観では
岩=私の心=セミの声がリーンリーン鳴り響いている。