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記事 4件
  • 「小林家に見る、親子・家族関係の真実」小林よしのりライジング Vol.47

    2013-07-23 20:45  
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    なんという非情だと思うだろうが、仕方がない。世間体に沿って直ちに帰省し、母の手を取って「 お母さん!最後まで看取ってやるからね! 」などという演技をわしが出来るはずがない。  母がガンになったと言えば、世間的には悲報に感じるかもしれないが、全然気にしなくていい。  60歳のわしに母親がいることが不思議なくらいで、80歳でガンなら普通に寿命ということだ。  医者は「 余命半年、いやいや一年かな 」と言ったらしい。母は早速医者に息子は漫画家の小林よしのりだと言ってるから、その息子が全然病室に駆けつけなくて、きっと怪訝な様子だったことだろう。  どうせ老人のガンはそんなに速く進行しないし、本格的に床に臥せれば、帰省して会ってやろうとは思っている。まだまだその時期ではない。  母は検査入院から退院して2日後にはもうカラオケで大熱唱していた。  娘(わしの妹)から、ガンの様子について、「 レントゲンで見たら、まだ米粒くらいだった 」と聞いた途端に、母は我欲がマックス!きよ友(氷川きよしファンの友達)を呼んでおしゃべりを楽しみ、8月には熊本のコンサートに出かけることを決定、チケット購入を娘に依頼した。  医者は自力で家事くらいやらなければいけないと忠告しているのだが、母はガンで体がつらくて出来ないと言う。   母はガンを口実に家族や親せきに甘えまくって、よりどん欲に快楽を貪る決意を固めたようだ!  妹が母に呼び出され、炊事・洗濯など身の回りの世話をやらされるのに疲れ果てていた。妹にも家庭がある。  母が自分の身の回りのことが出来ないと言うから、妹や親戚一同が探し回り、環境のいい、妹の自宅のすぐ近くの介護施設を見つけて予約を入れた。自分の家に来てもいい、面倒を見てやるという親戚もいた。   だが母はやっぱりわしが買ってやったマンションに戻ってきて、介護施設は解約しろと言う。  なぜ介護施設に移らないのか?   理由は簡単で、氷川きよし以外のことにカネを使いたくないからだ!  介護施設に移れば、貯金を切り崩し、年金を毎月充当しなければならない。今までのように、氷川きよしにカネを注ぎ込むことが出来なくなる!  現在住んでいる広くて、眺望が良くて、快適なマンションは、きよ友の溜まり場と化し、一度会っただけで顔も覚えてないきよ友まで呼んで、宿泊させたりしている有り様だ。  母は今後も全国のきよしのコンサートに駆け回るつもりだろう。  母がきよしのコンサートに行くときは、雨の日も風の日も雪の日も、出待ち、入り待ちまでするから、ものすごい体力を使う。今年6月は2回も上京して、さすがに体調を崩したことから、ガンが発覚したのだ。   父が他界した時、わしも妹も遺産相続を辞退した。したがって母は数千万円の貯金があるし、年金もあるし、住居はわしのマンションだから悠々自適、氷川きよしに湯水のようにカネを注ぎ込んだ。少なくとも1千万以上は注ぎ込んだだろう。いや、2千万かもしれない。  母の浪費癖は、生前の父も大いに懸念していたが、氷川教に嵌って手が付けられなくなった。  いつしか母は、「おカネなくなってもいいやろ?」と言い出した。貯金ゼロになっても最後は面倒見てねと、息子におねだりしているのだ。  はっきり言って、冗談ではない。わしだってスタッフ5人を抱えて、出版不況の中、必死で戦っている。  本が売れるときは数千万の単位で儲かるが、売れないときは数千万の単位で赤字が積み重なっていく。漫画家はバクチのような稼業で、最後は破綻ということだってある身分だ。  母が老後を自力で計画建てられるように、父は貯金を残し、わしはマンションを買ってやり、遺産相続も辞退して、おカネを送ったりしていたのに、カネは全て氷川教のお布施に消えていく。   まるで統一協会に嵌ってお布施を繰り返して、家庭崩壊させた叔母(母の妹)にそっくりだ。   母は、労働力は娘を酷使し、カネは息子にたかり、自分の全財産は氷川教のお布施に使うつもりである。  「そんなことは許されない。貯金のあるうちに介護施設に入れ。」と言うと、 「 子供なんて生むんじゃなかった!子供なんて何の役にも立たない!ガンになったのにカネの話をするなんて!よしのりは私が家も土地もやらんと言ったことをまだ恨んでたんやね! 」 と言い出した。
  • 「皇室の歴史から予見する、雅子妃殿下のご回復」小林よしのりライジング Vol.46

    2013-07-16 19:00  
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     雑誌「歴史人」で連載してきた『 女性天皇の時代 』は、現在発売中の8月号で最終回である。  8人10代(2人は「重祚」といって、2度皇位についている)の女性天皇のうち、5人目の元正天皇で連載は終わってしまうのだが、残りは書き下ろしで書籍化する。  タイトルが二転三転して、結局 『 女性天皇の時代 』 に決まって、ベスト新書から 8月8日 発売予定だ。  この本では、日本の女帝が決して「例外」的なものではなく、歴史上極めて大きな役割を果たしていること、女帝の存在は立派に日本の伝統に適うこと、そして、今後の日本に女帝が誕生することこそが、明るい未来を拓くということを、可能な限りわかりやすく、楽しく読めるように心がけて書いた。  さらには「男系固執」の本性が、実は単なる男尊女卑に過ぎず、シナの思想の影響に過ぎず、こんなものにこだわる必要はないということを説いている。  今週は、その本で書ききれなかった古代史の話をしよう。  史上3人目(4代目)の女帝・ 持統天皇 は、天武天皇との子である 草壁皇子 (くさかべのみこ)を何としても皇位に即けたいと思っていた。ところが当時は、天皇に即位するには最低でも40歳程度の年齢と、それに伴う政治的実績が必要であり、その条件が整う前に草壁皇子はわずか28歳で早世してしまった。  すると持統天皇は草壁皇子の遺児、つまり自分の孫である 軽皇子 (かるのみこ)を皇位に即けようと執念を燃やす。  そしてそれまで固く守られてきた天皇即位の条件も破り、わずか15歳の軽皇子を強引に皇位に即けてしまう。それが第42代・ 文武天皇 である。  もちろん何の実績もない15歳の天皇が政治を司るのは無理で、 退位した持統天皇が上皇(太上天皇)となり、実権を握り続けた。  文武天皇は即位後間もなく3人のキサキを迎えている。もちろん「自由恋愛」などありえようもなく、相手も全て持統上皇の意向によるものだった。  ところが、 文武天皇には「皇后」が不在だった。  天皇のキサキには格式があって、養老令の規定では最上位が「 皇后 」で、もちろん一人だけである。  その次が「 妃 」で、これは定員二人。皇后と妃は皇族女性しかなれない。  その下が「 夫人(ぶにん) 」、定員三人で、主に中央貴族の娘が選ばれ、さらにその下が「 嬪(ひん) 」、定員四人で地方豪族の娘が選ばれることが多かった。   文武天皇のキサキは3人とも皇族ではなかったため、「皇后」だけでなく「妃」も不在で、「夫人」が一人で「嬪」が二人だったという。    その中では最高位となる「 夫人 (ぶにん)」となったのは、 藤原朝臣宮子娘 (ふじわらのあそんみやこのいらつめ)。その父は 藤原不比等 (ふひと)、祖父は藤原鎌足だった。  持統上皇は、自分の父である天智天皇の片腕として「大化の改新」などに貢献した藤原鎌足の子・不比等を文武天皇の後見役に選び、その娘・宮子を「夫人」とすることで不比等を文武天皇の「義父」にした。  こうして、自分に万一のことがあった場合に後事を託そうとしたのである。  一 人も皇族女性を迎えなかったのも、皇族女性は、宮子(みやこ)より格上の「皇后」か「妃」になり、その父親の発言力の方が不比等より大きくなってしまうからだった。   藤原宮子 は「かぐや姫」のモデルだという説もあるが、その生涯については不明な部分が多い。  和歌山県の道成寺に伝わる言い伝えでは、九海士(くあま)の浦(現在の和歌山県御坊市)という小さな漁村の海人夫婦の子だとされている。  40歳を過ぎても子宝に恵まれなかった夫婦が、八幡宮にひたすら祈願してようやく授かった子で、八幡宮からとって「宮」と名付けられたと伝えられる。 だが宮はどういうわけか、大きくなっても髪の毛が全く生えなかったという。  ある年、九海士の浦は不漁が続いた。この時、海底から不思議な光がさしていたが、その光の正体を確かめにゆく勇気のある者はいなかった。  そこで宮の母は「娘に髪が生えないのは、前世の報いであろう」と、罪滅ぼしに村の人々を救うべく海に入り、海底で光るものを見つけた。   それは小さな黄金仏であった。これを持ち帰ると海から光は消え、浦は大漁続きとなった。   宮の母は黄金仏を大切に祀り、願をかけた。すると宮に美しい黒髪が生えた。 やがて身の丈よりも長い美しい黒髪となり、年頃となった宮は「髪長姫」と呼ばれるようになった。  ある日、一羽の雀が木の枝にかかった宮の長い髪をくわえて飛び去った。雀は奈良まで飛んでいき、都の宮廷の軒端に巣をかけた。  たまたまこの時、右大臣・藤原不比等が参内し、雀の巣から長さ七尺あまりもある女の美しい黒髪が垂れ下がっているのを見て、この髪の持ち主を宮仕えさせようと考え、持統天皇に進言した。  持統天皇の勅命によって使者が諸国を尋ね回った結果、九海士の浦の宮がその髪の主とわかり、 都へ上った宮は藤原不比等の養女として迎えられて名を宮子姫之命と改め、文武天皇の夫人となった。  だが宮子姫は故郷のこと、特にこの黒髪を恵んでくれた観音像への思いを忘れられず、それを聞いた文武天皇は、観世音のために寺を建立し、国の鎮めの霊場とせよと命じる。こうして 道成寺 が造営されたという。  もちろん、史実とは到底思えない話である。それに、いくら藤原不比等の養子に入ったとしても、地方の海人の娘が天皇の夫人となり、その息子が後に天皇になるということはこの時代には考えられない。  とはいえ、この伝説の中にもいくばくかの真実が含まれているのではないかとも思える。 つまり、このような伝説が生まれてしまうほど、藤原宮子は貴族らしからぬ、庶民的な女性だったのではないだろうかという気がしてくるのである。  この頃の藤原不比等はまだ朝廷内での地位が低く、政治的基盤が盤石ではなかった。持統上皇の個人的な信任こそ得ていたが、もし上皇が崩御すればたちまち失脚することもありえたのだ。   この不安定な状態を解消する方法は、持統上皇の存命中に、宮子が文武天皇の子、それも男児を産むこと以外になかった。  そして文武天皇と藤原宮子の間には5年目にして、男子が誕生した。 首皇子(おびとのみこ) 、後の 聖武天皇 である。持統上皇にとっては曾孫となる。  藤原不比等が自分の孫を天皇にするために、あらゆる努力をすることは間違いない。持統上皇は孫の即位を見届けただけでなく、曾孫の将来の即位までほぼ確実としたわけである。  だがそこでやるべきことはやり尽くしたと安心してしまったためか、持統上皇は、その翌年に急病となり、そのまま崩御してしまった。おそらく持統上皇は満足して生涯を終えることができたであろう。  だが、後には2つの不幸が残された。
  • 「『参議院不要論』は正しいか否か?」小林よしのりライジング Vol.45

    2013-07-09 18:15  
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     野党不在の状態は解消されることなく、参院選は選挙戦に突入した。  どうせこのまま自公が過半数を獲得して「ねじれ」を解消し、念願の「決められる政治」を実現することになるのだろう。 そして「間違ったことばかり決められる政治」がこれから3年間続くのだ。  それにしても、衆議院と参議院の勢力分布が食い違えば「 決められない政治 」と言うし、同じだったら「 同じものは二つ必要ない 」と言うし、一体どうしろと言いたいのかさっぱりわからない。  「 参議院不要論 」もかなり昔からあるが、現在それを最も強く主張しているのが日本維新の会・橋下徹だったりするので、こんなのに簡単に同調していいはずがないと思ってしまう。  米国のような連邦制国家ならば、二院制が必要だというのはわかりやすい。各州は半独立国的な主権を持つのに、一院制だと議員数が人口に比例して配分されてしまうから、人口の多い州ほど有利という現象が起きてしまう。   だから米国では人口比で配分する下院と、人口・面積に関係なく各州一律2人の上院という二院制が採られているのだ。   それにしても橋下徹は米国の連邦制を猿マネしたような「道州制」の導入を主張しておいて、議会は一院制にしろと言うのだから支離滅裂である。   では、連邦制国家ではない日本に「二院制」は必要なのか? 「参議院」は必要なのか?  ここはまず、必要か不要かを問う前に「参議院」とは何なのかを問いなおすことから始めよう。  決まり文句として言われるのは、 参議院は「 良識の府 」であるにもかかわらず、現在はその役割を果たしていないという批判だ。  だが参議院が「良識の府」ならば、衆議院は「不良識の府」なのか?  はっきり言ってしまえば、その通りだ。  自民がダメだから民主、それで民主がダメだったからまた自民…と、無責任な「民意」次第でコロコロ変わり、一つの政党が圧倒的多数を占めてしまえば、なんでもかんでもやり放題に暴走するし、逆に複数の政党が拮抗していれば、お互い天下国家を放り出して党利党略の争いに明け暮れる。良識もへったくれもない。衆議院なんてものは「衆愚院」なのである。  ただしこれは、現在の日本に限った話ではない。議会政治なんて古今東西こんなものだ。  言うまでもなく、日本の議会政治は明治時代に始まった。  近代国家建設のために、 憲法制定 と 国会開設 はどうしても達成しなければならない課題だった。   伊藤博文 を中心とする明治政府は、先行する欧米の憲法や議会の研究を重ねたが、議会については当初から一貫して「二院制」を採用すべきとしていた。 また、民間で多く作られた「私擬憲法」も二院制を採る方が多数だった。  明治憲法の起草にも参加した 金子堅太郎 は、帝国議会が二院制を採用した理由を三つ挙げている。   一つは欧米の議会のほとんどが二院制を採用しており、制度的優位が確立していること。  第二の理由は、二院制ならば一院が軽挙妄動に流れたり、過激になったりしないよう抑制できること。  そして第三の理由は、政党内閣が政党本位の法律を作ろうとした場合に、抑止力になることだった。  すなわち二 院制によって、一院がやりたい放題に暴走したり、あるいは党利党略に基づく法律を作ったりしないようにできると捉えたのである。  かくして明治憲法下の帝国議会は「 衆議院 」と「 貴族院 」の二院制となった。  貴族院という言葉くらいは学校で習った覚えがあると思うが、それがどういうものだったのかを知っている人はそんなにいないだろう。   貴族院とは、まさに衆議院の暴走や党利党略を抑制する装置だった。  貴族院議員は、選挙によって「民意」で選ばれる衆議院議員とは全く違う基準で選ばれていた。  まずは「 華族議員 」である。 華族とは旧公家・大名、臣籍降下した皇族などからなる貴族階級であり、「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」の5ランクがあった。  そして25歳(大正14年からは30歳)以上の華族が貴族院議員となったのである。任期は公・侯爵が終身。伯・子・男爵は7年で、同じ爵位の者による互選選挙で選ばれた。  さらに、 国家に勳労がある者、学識のある者から勅任された任期終身の「 勅選議員 」 、 帝国学士院(現在の日本学士院)から互選される任期7年の「 帝国学士院会員議員 」 、そして 各府県において土地あるいは工商業において多額の直接国税を納めた者から互選される「 多額納税者議員 」 というものがあった。  他に成年皇族男子は全員終身貴族院議員となる規定もあったが、これは実際には議会に出席しない形式的なものだった。  貴族院議員は、民意を気にする必要が全くなかった。  華族たちは、貴族院議員の身分を始めとする自らの特権は全て天皇から賜ったものであることから、この皇室からの恩寵に応えることこそが使命と感じ、「 皇室の藩屏(はんぺい) 」を自任した。   「 藩屏 」とは垣根のことで、ここでは皇室の側衛、つまり守護者を意味する。 何ものにも与せず、皇室のためだけを考え、国益に立った議論と判断を行なうというのが彼らの行動原理だった。  また、「勅選議員」や「帝国学士院会員議員」は、自らの学識や経験を国のために活かそうという気概に満ちていた。  そして「多額納税者議員」は……これだけは議会で役立つ能力もなく、発言もしないことから「特別席を有する少数の傍聴人」と揶揄され、無用視されることも珍しくなかったという。  貴族院というと権力者の側につき、民衆を抑圧していたかのように思うかもしれないが、実際の貴族院は極めて独立心が強く、政府にも政党にも与しなかった。   初期議会では、藩閥政府を弾劾する建議案を可決して時の内閣を窮地に陥れたこともあり、藩閥政府にとっては民党よりも危険な存在でもあった。 伊藤博文は抑えきれなくなった貴族院を沈黙させるために、天皇の「勅語」を出したことさえある。   政党主義が台頭しても、貴族院は衆議院の政党とは一切関わりを持たなかった。  もちろん人間が集まれば必ず派閥ができるし、議会は最終的には多数決である以上、同志を集めて結集することは不可欠なので、貴族院にも自然といくつかの会派が形成された。   しかし貴族院は衆議院の政党の党利党略とは厳然と一線を画し、あくまでも議論の内容だけで評価する「是々非々主義」の原則を貫いていた。   貴族院は解散もなく、その権能を極限まで発揮すれば、天皇以外誰にも抑えられないため、議員は自制し余程のことがない限り反対は慎むという審議態度を採った。   しかしひとたび議論の中に党利党略を感じると、「猫は変じて虎となり」時の政府と徹底的な抗争を試みたのだった。  もちろん貴族院にも問題がないわけではなかった。幕末・維新を経験した華族に比べ、 その息子や孫へ世襲されると、人物が小粒になっていくことは否めなかった。  また、下級華族は経済的に困窮している者も多く、生活の糧として貴族院議員の地位に就くことだけが目的となってしまう者もいた。   大正デモクラシーの時代になると、貴族院自体が特権階級として批判の対象となった。  さらに、 政党内閣が続くと、時の内閣による勅選議員の人選を通じて貴族院議員にも政党色が強まってくる。 これが進むと衆議院と大差なくなり、存在意義まで問われることが危惧された。  このような課題から貴族院は度々改革を迫られつつ、その使命を果たしていったのだった。
  • 「『宮内庁陰謀説』の背後に潜む真実」小林よしのりライジング Vol.44

    2013-07-02 20:30  
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     亡国週刊誌による雅子妃バッシングは続いている。  先週は週刊新潮と週刊文春が揃って雅子妃バッシングの記事を載せた(7月4日号)。どちらも「 皇后は体調の悪い中、満身創痍で務めを果たしているのに、雅子妃ときたら… 」という論旨である。  一見、皇后陛下に敬意を持っているかのようだが、ちっとも本心ではないのは明らかで、 雅子妃殿下をバッシングするための「ダシ」に皇后陛下を利用しているだけだ。 皇后陛下がこんな見え見えの手口を見抜けないほど鈍感だと思っているとしたら、あまりにもナメすぎである。  週刊現代7月6日号には、ベテランの宮内庁担当記者の談として、見逃せない話が載っている。 「 皇后は、自身へのバッシングが激しかった皇太子妃時代、すべての週刊誌の皇室記事をスクラップし、抗議文案をご自身で考え、侍従に伝えていました。今でも皇后は皇室報道のチェック機関 」  先週の『ゴー宣』で徹底批判した、週刊新潮の「『雅子妃』不適格で『悠仁親王』即位への道」のヨタ記事も皇后陛下はご覧で、天皇陛下にもお伝えしているそうで、宮内庁と内閣官房が揃って厳重抗議するという異例の激しい反応も、皇后陛下の「激しい怒り」の表れと見るべきだという。  皇太子妃時代から激烈なバッシングにさらされ、皇后になってからも根も葉もない中傷記事を書かれて失語症にまでなった美智子皇后陛下が、現在バッシングにさらされ、病気に追い込まれている雅子妃殿下に冷たく当たるなどということは決して考えられない。  まして今上陛下まで皇太子時代、美智子妃ばかりを大事にする「マイホーム皇太子」などと中傷されたのを見てきた皇后陛下が、現在雅子妃殿下を守ろうとしている皇太子殿下を非難することは絶対にあり得ない。  にもかかわらず、 週刊新潮は「 皇太子妃には将来、皇后の仕事はつとまらないでしょう 」だの「 もし仮に、陛下がおられなくなって、私が一人残されたとします。その時のことを考えると、とても不安を覚えます 」だのと、言うはずのない皇后陛下の発言を捏造した。 この事実無根の記事に皇后陛下はお心を痛めておられるとも報じられている。   雅子妃殿下をバッシングする手段として、心にもないくせに皇后陛下を持ちあげ、同情しているかのようにヌケヌケと書き、実は逆に皇后陛下のお心を踏みにじっている卑劣さには、虫唾が走るとしか言いようがない!  新潮の記事は「皇后は体調の悪い中、祭祀にお出ましになるのに、雅子妃はずっと祭祀をしていない」という内容だが、これも祭祀のことなど何も知らず、関心もないくせに、単に雅子妃バッシングのダシに利用しているだけだ。   皇室祭祀は「天皇の祭祀」であることが本質で、皇后陛下や皇族方のご参列は、あくまで二義的なものだ。  歴史的に見ても、 天皇が未成年で、摂政が公務を全面的に代行している時でさえ、皇室祭祀だけは天皇が主体でなければならなかった。 天皇がまだ乳幼児でも、女官が抱いて拝礼をお手伝いする決まりになっていたほどである。  しかし皇室祭祀の主体たる天皇でも、明治天皇はご病気のため明治38年の新嘗祭を最後に、崩御する明治45年まで祭祀のお出ましはなかった。神聖な祭祀は極度に緊張し、心身への負担は想像以上に大きく、病身で簡単にできるものではないのだ。   現在、皇太子殿下は海外におられる等のやむを得ない事情がない限り、欠かさず祭祀にお出ましになっており、皇族方の中でも最もご熱心に皇室祭祀に取り組んでおられる。  天皇でも皇太子でもなく、ましてご療養中の雅子妃殿下が祭祀に十分ご出席出来なくても、バッシングされるいわれはない。  文春の記事は、雅子妃殿下の現在の状態について、専門家である精神科医の香山リカ氏から「れっきとしたご病気の症状」というコメントまでもらっていながら、その症状ゆえに起こる苛立ちなどの様子をあげつらう。  そのために東宮職員が疲労困憊になっていると非難し、公務の予定を組むことが困難になっていると書いた上で、それにひきかえ皇后陛下は体調不良を押して精力的に公務を続けていると持ち上げている。  言うまでもなく、 皇后陛下をダシにして、雅子妃バッシングをする手口である。   文春は、皇后陛下が体調不良を押して公務をしているのだから、雅子妃殿下も病気なんかで休むなと言いたいのだ。 よくそこまで非道な気持ちになれるものだ。それを言うなら、皇后陛下に公務を減らしてもっと休養してくださいと言うべきではないか。  わしは皇太子・雅子妃両殿下のオランダご訪問が成功したことは本当に良かったと思ったし、今後、雅子妃殿下の体調にまだ波はあるだろうが、気長にお待ちすれば必ずいつか全快されるはずで、延期されている被災地ご訪問もいつか出来る日がやってくると思っている。  ところが世の中の人間は「遠いオランダには行けるのに、なぜ被災地に来ないのだ」と思っている者もずいぶんいるらしく、文春記事も明らかにそのような感情を煽る作りになっている。  なぜここまで病気に対する無理解・無慈悲な言説が許されるのか?   皇太子殿下や雅子妃殿下に被災地を蔑ろにするお気持ちなど一切ないことは明らかなのに、なぜその信頼感を破壊することにここまで熱心になるのか?  極左が偽装して書いてるのじゃないかと言いたくなってくる。  先週批判した週刊新潮6月27日号にも、まだ大問題の記事がある。「侍従長に問題官僚で揉める官邸と宮内庁の軋轢の根本」と題した記事である。   安倍政権は川島侍従長の後任に外務省の河相事務次官を就けようとしているという。 河相次官は民主党政権時代の昨年9月に次官に就任したばかりで、通例このポストは2年務めるので、これは明らかに更迭である。  そしてこの河相という人物はその腹黒さから「 外務省のレッサーパンダ 」とか「 義理・人情・恥を欠く"三欠く官僚" 」とか呼ばれる悪評高い人物であり、 宮内庁幹部も「安倍総理は、なんで、こんな人物を、陛下の最側近である侍従長として押し付けてくるのか」と当惑しているという。   なぜ安倍晋三は宮内庁にこんな「嫌がらせ」をしようとしているのか?