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記事 2件
  • 「ギャグに差別はつきものである」小林よしのりライジング Vol.256

    2018-01-30 19:30  
    150pt
     大晦日恒例のダウンタウンの『絶対に笑ってはいけない』シリーズだが、昨年はダウンタウンの浜田が「エディ・マーフィーのコスプレ」として黒塗りメイクで登場したシーンと、ベッキーが不倫の「禊ぎ」としてタイキックを食らうシーンが問題ではないかと物議を醸し、番組自体はほとんど評判にならないまま、この話題だけが今も続いている。
     中島岳志(東京工業大教授)はこれらのギャグに批判的で、東京新聞の論壇時評(1月25日夕刊)で、こう書いている。
    〈「笑い」と「嗤い」は異なる。後者には「あざけり」や「蔑み」が含まれており、暴力性が内在する。差別的な「嗤い」には注意深くならなければならない。「笑い」と「嗤い」を混同してはならない。〉
     だが、「笑い」と「嗤い」を峻別することなど、できるのだろうか?
     そもそもわしは笑いというもの自体が、差別と一体なのではないかと思っている。
     お笑い芸人の中でも、わしが最も面白く「別格」だと思っているのは「アホの坂田」こと坂田利夫だ。
     だが冷静に言ってしまえば、坂田がやっている「アホ」の芝居は「精薄児」そのものなのだ。
    「精薄(精神薄弱)」という言葉も今では「知的障害」に言い換えなければならないらしいが、使い慣れた言葉を言い換えるのはどうも妙な感じがするので、このまま使わせてもらう。そもそも、わしにとっては「精薄」も言い換え語で、昔はみんな「知恵足らず」と言っていたのだ。
     アホの坂田は精薄児をモデルにしたギャグをやっているわけで、これは根本的に差別なのである。ところが、それがめっちゃオモロイ。ヤバイことに、これがわしには全てのお笑いの中で一番面白いのだ。
     多分、テレビではやれない表現なのだろう。大阪の「よしもと」の劇場では「アホの極致」と言えるコントをやっていた。
     だがこれは中島岳志の分類では「嗤い」の方になり、やってはいけないものになってしまう。
     似たような例はいくらでもある。
     志村けんの「ひとみばあさん」のギャグは、年取って手が震えたり、物忘れがひどくなったりして、まともに用事がこなせない様子をギャグにしているが、これは老人そのものや、認知症や中風(脳出血・脳梗塞による運動機能障害)などの病気に対する差別で笑いをとっていることになる。それに、「バカ殿」などモロに精薄児だし、「変なおじさん」も明らかに精神異常者ではないか。
     ではわしの『東大一直線』はどうだろう?
     主人公の東大通は、脳の左半球が完全にぶっ壊れていて論理的思考力は破滅状態だが、右半球の直感が並外れているというキャラクターだ。これは一種の天才であり、作曲家の大江光みたいなものである。
     一方、東大とコンビを組む多分田吾作は完全に精薄児である。
     東大通は単なるアホではなく、天才を秘めたアホであるのに対して、多分田吾作はとことん単なるアホを追及したキャラなのだ。
     こういうタイプの違う精薄児キャラを二人並べて爆走するギャグを描いていたわけで、これも差別かもしれない。

     
     また、『いろはにほう作』という作品は、多分田吾作のキャラを発展させて、とにかくただひたすらのアホ、究極のアホを描くことを意図した漫画だ。
     この作品、本当は『いろはに呆作』というタイトルで、主人公の名は「呆作」になるはずだった。ところが、連載スタート直前に編集部から「呆」の字を使ってはいけないとクレームがつき、結局「ほう作」になってしまった。
     34年前の出来事だが、「呆」の一字すら使えなかったことは、もうこの頃から「ギャグに差別を持ち込んではいけない」などという感覚があったという証と言えよう。

       じゃあ『おぼっちゃまくん』はどうか?
  • 「岩手中2自殺事件、最大の責任者は誰なのか?」小林よしのりライジング号外

    2015-07-21 12:45  
    100pt
    ゴーマニズム宣言 「岩手中2自殺事件は凶悪犯罪である」  岩手県矢巾町の中学2年男子、村松亮君がいじめを苦に列車に飛び込み自殺するという事件が起き、学校の対応などを巡って論議となった。
     またしても起きてしまった、中学生の子供が犠牲となる痛ましい事件であり、これ以上このような事件を続発させないためには、事件を未然に防げなかった最大の責任者を、特定する必要があると思う。
      今回の場合それが誰かといえば、やはり巷で囁かれている通り、亮君の担任である30代の女性教師を特定せざるを得ない。
     既に多く報道されているが、亮君からあれだけはっきりしたSOSのサインが出されていたのに見過ごしていたのだから、あまりにも鈍感すぎたと言うしかない。
     子供の最も身近にいる存在は親なのだから、いかなる場合でも、いじめ自殺を防ぐ責任は第一には親にあるという意見もあるが、今回の事件では、どうしても教師の感受性の鈍さが目立ち過ぎる。
      今回は亮君の人並み外れた優しさに、父親から教師まで、甘え過ぎていたゆえに起こった悲劇である。
     亮君が小学3年の時に、両親は離婚している。父親から暴力をふるわれた母親が、亮君と2人の妹を連れて東京に逃げたのである。父親がDVならすでに責任の一端は担っていることになるから、単なる被害者ではない。
     しかし亮君は「おじいちゃん、おばあちゃんやパパが心配だから帰りたい」と言い出し、両親が相談した上で、1人だけ岩手に帰った。
     だが、それでも亮君は父親との折り合いが悪かったようで、小5の冬休みに母親に「ママ、助けて」と電話をかけ、一旦は母親が東京に連れ戻している。
     ところが、そんな状況でありながら亮君は自ら「ママには妹たちがいる。でもパパにはオレしかいない」と言い、4日後には岩手に帰って行った。
     亮君は自分がどんな思いをしようと、それよりも父親のことを優先させて考える子だったのだ。たとえその父親が母親に暴力をふるい、自分にもつらく当たるような人物であったとしても。
     岩手で同居していた祖父は「亮は同年代の子と比べるとちょっと幼い。純粋すぎるけど優しい子だった」と語っている。
     世の中には、とてつもなく優しい心を持った子供がいるということを認めるべきで、わしの『おぼっちゃまくん』を読ませてあげれば、少しは人間の邪気も吹き込めたかもしれない。
     亮君は、自分は父親の寂しさを癒そうとして帰ったのに、自分のために迷惑をかけたりしたら、意味がなくなってしまうという気持ちをずっと持っていた。
     だからこそ、どんなにいじめを受けていても、父親にだけは決してそれは言えなかったのである。
     ただし一度だけ、亮君はバスケ部の同級生Aにいじめられていると父親に言ったことがあり、父親は学校に相談して対策を求めている。
     このとき学校は、バスケ部の顧問と担任、そして亮君と同級生Aで話し合いを行い、問題は「解決」したという。
      だがはっきり言って、この時の学校の対応は決定的に間違っている。
      学校は加害者と被害者を同等に扱い、両者の話し合いで「解決」したと思い込んだのだ。だが、凶悪犯と被害者を同じ席で話し合わせたって、問題の解決になど絶対になるわけがないのである。凶悪犯はその場しのぎで、どうとでも嘘をつくのだから。
     ここで亮君を優しすぎる少年とし、加害者を凶悪犯と見做すのは、単純な善悪二元論で、印象操作だと言う者もいるだろう。誰の心にでも善意の部分が宿り、悪意の部分も宿っているのは当然だが、そんな相対化は問題の解決に何も寄与しない。