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記事 548件
  • 「大東亜戦争の呼称」小林よしのりライジング Vol.501

    2024-04-16 19:15  
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     ジャニーズに対するキャンセル・カルチャーの火付け役となったイギリスBBCの記者、モビーン・アザーが再び放火をしようと来日し、日本のマスコミはみんなこれに加担した。
     考えてみれば、日本のマスコミは戦後一貫して欧米の手先となり、キャンセル・カルチャーをやってきたともいえる。
     4月5日、陸上自衛隊第32普通科連隊が、公式X(旧ツイッター)に、このような投稿をした。
     
    「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島において開催された日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式に参加しました」
     ところがその3日後となる8日、朝日新聞が『「大東亜戦争」陸自連隊投稿 Xの公式アカウントに』と題する記事を載せ、左翼マスコミらが騒ぎ出した。
     そして同日午後には、同連隊は「大東亜戦争最大の激戦地」「英霊」などの言葉を削除して再投稿。
     防衛省陸上幕僚監部は削除理由を「本来伝えたい内容が伝わらず、誤解を招いた」と説明したという。だが、いったい何の「誤解」だというのか?
     何の理屈もない。これは、左翼マスコミのキャンセル・カルチャーにあっさり屈しただけである。
     
    「大東亜戦争」という言葉こそが戦後最大のタブーであり、日本最大のキャンセル・カルチャーの標的なのである!
     昭和16年(1941)12月8日に開戦し、昭和20年(1945)まで戦闘が続いた 日本の戦争の名称は「大東亜戦争」である。これは開戦直後に当時の政府が閣議決定した正式名称であり、その当時「太平洋戦争」なんて言葉は存在していなかった。 日本人は全員「大東亜戦争」を戦ったのである。
      日本敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は占領政策で「大東亜戦争」の名称の使用を禁止し、 「太平洋戦争」 に言い換えさせた。
     その指令は占領の解除と同時に無効となり、今年でもう72年も経つのに、マスコミは今なおGHQの占領政策を頑なに守り続け、「大東亜戦争」の名称を執拗に言葉狩りしているのである。
     わしが平成10年(1998)の『戦争論』で、歴史認識を語る際に真っ先に触れたことこそが、日本が戦った戦争は「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」だということだった。
     そこでわしは、こう書いている。
      教科書に載っているように太平洋戦争っていったら アメリカとだけ戦ったような気がするが…
     日本はアジアに大東亜共栄圏を作ろうという とんでもない構想を後づけにせよ掲げて戦ったので大東亜戦争と呼んだほうがわかりやすい。
     中には「大東亜戦争」と聞いただけで右翼とレッテル貼りしてくる人もいるが知ったこっちゃない
    「大東亜」のほうが大・東アジアだから 戦場がわかりやすいのだ
     そして、この戦争について言われる否定的な側面の数々を挙げて、それらのすべてを反省したとしても、
      それでも有色人種を下等なサルとしか思ってなくて 東アジアを植民地にしていた 差別主義欧米列強の白人どもに…
     目にもの見せてくれた日本軍には
     拍手なのである!
    と描いたのだった。

        戦前は東アジアのほとんどが白人欧米列強の植民地とされ、熾烈な人種差別がまかり通っていた。
     それを払拭し、アジア人のためのアジア、「大東亜共栄圏」をつくることを目指したのが「大東亜戦争」である。
     これは、わしが勝手に歴史を捏造して言っていることではない。
     当時の日本人全員の常識だったのだ。
     例えば詩人・彫刻家、高村光太郎は開戦2日後の昭和16年12月10日、次の詩を書いている。
  • 「芸能の長い長い助走」小林よしのりライジング Vol.500

    2024-04-09 20:20  
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     小林よしのりライジング、今回で第500号だそうだ。
     早いものだと驚くが、だからといって殊更に特別号というような体裁にはしない。毎号毎号が「スペシャル」みたいなものだと思ってもらいたい。
     先週6日の生放送『歌謡曲を通して日本を語る』は、新刊『日本人論』をテーマとしていた。『日本人論』は「芸能の歴史」を柱にしているが、まだ描き切れなかったこともあって、それを話す予定だったのだ。
     ところが放送2日前に、自民党が皇位継承問題について最悪の結論を出しそうだというニュースが入ってきたものだから、内容を大幅に変更して話さざるをえなくなった。
     それで、本来話したかった部分をやや縮小してしまったので、それをここでもっと詳しく記しておきたい。
     日本の最古の芸能は神話のアメノウズメノミコトの舞にまで遡るとされ、それが神事において神楽を舞う由来になったということは、『日本人論』で描いた。
     これは歴史学的にいえば、少なくとも 『古事記』や『日本書紀』が編纂された奈良時代には、神を楽しませ、もてなすものとしての 「舞」 が存在していたということになる。
     奈良時代の日本は海外との交流が盛んで、特に中央アジアあたりの様々な芸能が、シナ大陸を経由して伝来してきた。中でも 曲芸や幻術、歌舞や音曲、物まねなど雑多な内容を持つ 「散楽(さんがく)」 という大衆的な芸能は人々に親しまれ、以前からあった日本の芸能と混じり合って変化していった。
     大河ドラマの『光る君へ』に登場したのでイメージしやすくなったが、散楽は平安時代の大衆の娯楽となり、 定住の地を持たない流浪民の一座が、村から村へと渡り歩き、その芸を披露して金銭をもらうことで生活していた。
     一座は各地を回りながらネタ集めをして新しい演目を上演し、やがて滑稽な物まねや短い寸劇などが多く演じられるようになり、日本独自の芸能となっていき、呼び名も「散楽」から滑稽な意味合いを持つ 「猿楽(さるがく)」 へと変わっていった。
     そして猿楽から今に続く 能狂言 の型が分かれ、江戸時代には 歌舞伎 が生まれ、全ての伝統芸能へと枝分かれして繋がっていったのである。
     それらの芸能の担い手は先に述べたとおり 漂泊の民で、 「河原乞食」 とも呼ばれた被差別民 だった。
     江戸時代になり都市が発展すると、都市には常設の芝居小屋や寄席が作られ、定住して芸能に携わる者も出るようになる。
     だがその一方で特に地方においては、芸能の原初から続く、宿を持たない旅芸人の系譜も連綿と続いていた。
     1300年前の奈良時代から始まった旅芸人の歴史が、いつまで続いていたのかというと、実は、それは昭和までである。
      戦後の高度経済成長期まで、旅芸人は存続していたのだ。
     現代人の感覚で「芸能界」とか「芸能人」とかいうと、映画やテレビなどのショービジネスのきらびやかな世界を思い浮かべるものだが、それは「マスメディア」の登場によって創り上げられたものだ。
     日本で 映画が娯楽産業として成立するようになったのは110年くらい前 、レコードが普及し始め、 ラジオの本放送が始まったのは約100年前。 そして テレビの本放送が日本で始まったのは昭和28年(1953)、なんと、わしが生まれた年なのである。
      1300年にも及ぶ長い長い芸能の歴史に比べれば、我々が知っている、マスメディアによって創られた芸能は、たかだか100年程度の浅い歴史しかない。
     これが、一番肝心なことであるにもかかわらず、今では誰も気づかなくなってしまっていることである。
     マスメディアの登場以前にも存在していた、最も華やかな芸能の場は「舞台」であり、歌舞伎の舞台にはきらびやかな芸能の世界もあったが、それは都市だけの娯楽だった。
      東北の山村のような田舎になると、もう娯楽というものが存在しない。そして、そんなところに旅芸人の一座が回ってきていた。
     その旅芸人のひとつに、 美空ひばりの歌に歌われた 「越後獅子」 がある。
     越後獅子とは、その名の通り越後の蒲原郡(現・新潟県新潟市南区)を起源とする 獅子舞の大道芸で、7歳から14~15歳以下の子供が「角兵衛獅子」の扮装で、「親方」の笛や太鼓の演奏や、掛け声調子に合わせて舞を披露した。
     こうして子供たちと親方らの一座は家々の前で芸を見せる 「門付け」 によって金銭をもらい、各地を旅して稼ぎ歩いた。江戸時代には江戸まで出稼ぎに入って、特に正月の風物詩として人気となり、上方でも人気を博したという。
     親方は貧しい家の子供を4、5歳のうちに買い取り、 身体を柔らかくさせるために酢を飲ませたり 、歌にもあったように バチや棍棒でぶん殴ったりして 、厳しく芸を仕込んでいた。
      明治時代に入り、義務教育の普及などで社会の意識が変化すると、この扱いが残酷だとして、次第に大衆からは嫌悪されていき 、警視庁から新たな子供を加えてはならないという禁止令も出た。
      越後獅子は明治43年(1910)にロンドンで開かれた日英博覧会に、日本を代表する大道芸の一つとして参加 もしているが、その後も衰退の一途をたどった。
     そして 昭和8年(1933)、「児童虐待防止法」によって、金銭目的で児童に芸をさせること自体が禁止され、「大道芸」としての越後獅子は消滅した。
     一方、芸そのものを消滅させるのは惜しいと、地元有力者や芸能関係者がその保存に乗り出し、数年後にお座敷芸として復活するが、これは本来の児童が演じるものではなく、大人の芸妓が演じていた。
  • 「古代の『斎王』と伊勢神宮『祭主』のこと」小林よしのりライジング Vol.499

    2024-04-02 19:05  
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     愛子さまがおひとりで伊勢神宮を参拝され、伊勢市の隣町・明和町の「斎宮歴史博物館」まで足を運ばれたというニュースを見た。
     愛子さまは、学習院大学の卒業論文の題材に、賀茂神社の「斎院」だった式子内親王とその和歌を選ばれたそうだ。また、『源氏物語』を夢中になって読まれたそうで、そのなかには伊勢神宮の「斎王」にまつわる悲恋も登場するので、斎宮歴史博物館の展示には興味を持たれていたのだろうとのことだった。
    ●「斎宮」「斎王」のこと
     賀茂神社の「斎院」、伊勢神宮の「斎王」は、古代から中世南北朝時代にかけて存在した、 神の御杖代(みつえしろ=天皇に代わって「神の杖」として奉仕する者) のことだ。時の天皇が、未婚の皇族女性のなかから占いで選んで派遣した。
     斎王に選ばれると、天皇から 「都のことは忘れ、もっぱら神に仕えよ」 と告げられ、「別れの小櫛」と呼ばれる櫛を髪にさしてもらう。そして都を離れ、神のそばで神聖崇高に暮らしながら、ひたすら祈りを捧げる日々を送り、天皇の崩御か退位までは解任されることはない。
     伊勢神宮の斎王には、多感な時期の少女や、恋仲の男性と和歌をかわしていた女性もいたが、人恋しさ、都恋しさなどすべての思いを遮断しなければならず、寂しさをつのらせながらも伊勢の斎宮(斎王の暮らしたお宮)にこもり、神に仕えるために不浄を避け、物忌みの多い暮らしを送ったようだ。
     地元には、そんな斎王の神秘性や美しさに魅了される人々が大勢いて、一目姿を見ようと押しかけ、「斎宮様!」と声をかける男たちもいたらしい。アイドル状態である。
     斎王のなかには幼い子供もいて、その場合は母親が随行することもあった。『源氏物語』に登場するのは、「斎王の母親は光源氏の元恋人だった」という設定のお話だ。
     7歳年下の光源氏に口説き落とされたものの、あっという間に飽きられてしまった24歳のその女性は、嫉妬に狂うあまり生霊を飛ばしてしまい、光源氏の正妻の娘や、新しくできた恋人を次々と死なせていく。ビビり上がった光源氏がご機嫌を取りに来るのだが、それをきっぱり振り切る和歌を残して伊勢へと出発。娘とともに神域で暮らすようになり、やがて心が浄化され……という内容だ。怖い。
     ほかにも、30年以上務め、清らかなまま生涯を終えた斎王、優れた和歌をたくさん詠み、斎宮に文芸サロンを築いた才女の斎王もいる。斎王に選ばれたために恋人と別れ、数年間務めたのちに都に帰って、また交際を復活した斎王もいれば、都の享楽を知って育ったがために、ちょっかいをかけにきた男性を見て魔がさしてしまい、スキャンダルで解任された斎王もいる。
    「斎宮歴史博物館」で見た資料に、「斎王も人間であり、女であった」と書かれていたことがとても心に残っている。斎王たちの詠んだ和歌は、事情を知ってから読みなおすと、さまざまに深い心の模様が読み取れる。
      神に奉仕する「斎王」 の制度は、戦乱によって存続不能となり、14世紀の南北朝以降は廃絶されたが、 伊勢神宮の神職の長として祭祀を主宰する「祭主」 は現代まで続いている。
    ●伊勢神宮の「祭主」のこと
  • 「鳥山明の戦闘漫画に敬意を表する」小林よしのりライジング Vol.498

    2024-03-26 18:25  
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     急逝した鳥山明に「国民栄誉賞」をという声が上がっている。
     国民栄誉賞なんて時の政権があげたい人にあげる賞でしかなく、基準もほとんどないに等しいから、あげたきゃ勝手にやればいいと思う。
     とはいえこの現象自体は、とても興味深く感じる。
     鳥山明が「週刊少年ジャンプ」で『Dr.スランプ』の連載を始めて、たちまち大ヒットとなったのは昭和55年(1980)のことだ。
     わしはその前年にジャンプを出て、『Dr.スランプ』のスタートとほぼ同時期に「ヤングジャンプ」で『東大快進撃』の連載を開始しているので、鳥山明とはジャンプでは完全にすれ違いで、ただ作品を見て「ものすごく絵の上手いやつが現れたなあ」と思っていた。
     その後、鳥山明は連載が『ドラゴンボール』に代わってさらなる大ヒットとなり、ゲーム『ドラゴンクエスト』のキャラデザインでも人気を博したということはもう説明の必要もないが、鳥山は郷里の愛知県から出なかったこともあって、ジャンプ関連のイベントなどでもわしと顔を合わせる機会は一度もなかった。
     そんなわけで、一面識もないので個人的な人物評などは書けないが、同業の漫画家として見た作品評を書いて、追悼としたい。
     今回、鳥山明の死を惜しむ声が世界中から届いている。
     鳥山明が全世界で大人気となり、「レジェンド」となったのは『ドラゴンボール』があったからこそであり、『Dr.スランプ』だけでは、ここまで世界に広がることはなかったのは間違いない。
    『Dr.スランプ』は、とにかく平和な漫画だった。
      それに対して『ドラゴンボール』は徹底的な戦闘漫画である。戦闘に次ぐ戦闘で、戦闘のエスカレーションを起こしていく、ジャンプ特有の漫画だった。
     初期の『ドラゴンボール』は、『Dr.スランプ』のカラーも残した冒険ファンタジー漫画で、戦闘の要素はそれほど前面に押し出されてはいなかった。
     ところがそれで人気が伸び悩んだため、路線を変更して徹底した戦闘漫画にしたら、たちまち人気が大爆発して、ついには世界的な「レジェンド」にまでなったのだ。
      戦闘漫画にしたら、必ず人気が上がる。世界中の人々が、戦闘が大好きなのである。
     かつて『沖縄論』の取材で、沖縄戦の際に住民が避難し、集団自決の悲劇も起きたガマ(洞窟)を現地の「平和ガイド」の年配女性に案内してもらったことがある。
     ガイドさんは沖縄戦や戦後の沖縄の苦難の歴史を切々と語っていたが、その後、話は現在の反基地運動へと移っていった。
     当時、嘉手納基地周辺では米軍のパラシュート降下訓練が行われていて、これの中止を求める運動が行われていたが、そのことを話したところで、ガイドさんの表情が曇った。
     つい先日、ガイドさんが家に帰ったら孫がテレビでアニメ番組を見ていて、そこでは大空からパラシュートでカッコよく人が舞い降りてきて、派手な戦闘シーンを繰り広げていたという。
     そして、そのシーンを孫が目をらんらんと輝かせて見ている様子に、ガイドさんは衝撃を受けたという。自分が日頃から家でも戦争の悲惨さを訴え、パラシュート降下訓練に反対していることも話してきたのに、それは一体なんだったのか、孫に全く伝わっていないじゃないかと、驚愕したというのだ。
     そして、 その時に孫が見ていたのが『ドラゴンボール』という番組だったと、ガイドさんは憤然として言ったのである。
  • 「被害者側に立たない言論は許されないのか?」小林よしのりライジング Vol.495

    2024-02-20 19:15  
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     言論は社会的に正しいと(現時点では思われている)意見しか許されないのだろうか?週刊誌がスキャンダル記事を書いた時点で、加害者・被害者が決定し、社会から「キャンセル(排除)」されることが正しいのだろうか?
     その社会的正しさが間違っていた時は、誰が責任を取るのだろうか?
    「地球は丸い」という言論が罰せられていた時代もあったのだ。
     ジャニー喜多川や松本人志や伊藤純也が加害者で、被害を訴えた者たちは、間違いなく被害者であり、疑問を呈したら「セカンドレイプ」とする判断は、正しいのか?
     草津町長を性加害者として糾弾していた者たちは、自称被害者が嘘をついていたと判明したのち、反省したのだろうか?

     わしは月に1回「週刊エコノミスト」の巻頭エッセイ『闘論席』を担当しているが、ここでも「キャンセルカルチャー」に対する批判を書き、「自称・被害者側に立たない」文章を書いた。
     ところがこれに編集部から異議が唱えられ、担当編集者や編集長と何度も協議を重ねたものの、書き直しを余儀なくされてしまった。『闘論席』を担当して5年以上になるが、そんなケースは今回が初めてである。
     まずは、わしが最初に書き、ボツになった原稿を読んでもらおう。

      ジャニー喜多川という人物が存在した痕跡まで抹消せよとする「キャンセルカルチャー」は、次の標的にお笑い芸人・松本人志やプロサッカー選手・伊東純也を選んだ。
     しかし、これを煽動している週刊文春や週刊新潮の記事を熟読しても、彼らのやったことは絶対にレイプではなく、何の犯罪行為でもない。
     週刊誌は「レイプ」とも「性犯罪」とも書かず、「性加害」としきりに書いているが、それは何なのかが問題なのだ。
     どうやら、それはセックスを目的とした合コンのことらしいが、合コンで出会って気に入った男女が即ホテルに行くことなど、膨大にあることだろう。同意があるなら、それを非難できない。
     松本人志ほどの有名人なら、スキャンダル記事を恐れるのは当たり前で、女遊びも難しいのだろう。「性接待」などと表現しているが、拉致したわけでもなく、女性が拒否できたのなら、犯罪性はない。
     人間の下半身の話は醜悪になるのは当たり前で、週刊誌は何ら犯罪にも当たらない、単なる不良の行儀の悪い遊びを、レトリックで嫌悪感を催す記事に料理しているだけである。
     男だろうと、女だろうと、遊びでセックスしている者は多いし、異性を道具扱いしている女性だって普通にいる。遊びの性的関係から、ロマンチックな恋愛に発展することもあれば、怨恨が残る関係になることもある。
     たとえ遊びの性的関係から怨恨が残ろうと、あくまでも私的な問題であり、それを週刊誌が社会正義を背負ったかのように書き立てて、才能ある人物を抹殺するのは社会の損失である。
     キャンセルカルチャーを正義とする風潮には、決して与してはならない。

     これのどこが悪いのか未だにわからないのだが、とにかく「被害者」の言い分に配慮していないのがいけないらしい。
     締め切りの翌日、担当編集者が仕事場に来てスタッフと協議、それをもとに、上の文章を書き直した原稿を送った。
     だがそれでも納得してもらえなかったので、わしが直接電話して、まず週刊文春の記事中から、「レイプ」に該当する記事を送ってくれと頼んだ。わしは毎回週刊文春の記事を赤線引っ張りながら読んでいて、文春が一度も「レイプ」という言葉も、「性犯罪」という言葉も使っていないということを確認していたのだ。
     担当氏は誠実な女性で、全部の記事を読んでくれて、最初の一回だけ「性的被害」と見られる記述を見つけたと報告をくれた。松本が無理矢理、フェラチオをさせたという証言だが、そのことを「レイプ」と表現されてはいない。この証言が真実なら、「性被害」とは言えるかもしれないが、なにぶん「証言」しかないので「犯罪」と立証することが難しいだろう。
     担当氏はわしの言い分を分かってくれて、自ら「修正案」を考えてくれた。それは、この編集者は相当に有能だとわしが確信するほどの文案だった。

     その議論の最中に、もしそれが性犯罪ならば、なぜ被害者が「刑事告訴」しないのかと言ったのだが、編集部側が言うには、昔はレイプは「親告罪」だったから、被害者側が「刑事告訴」しなければならなかったが、 現在は法律が変更されて、レイプは 「非親告罪」 になったから、被害者の刑事告訴の有無は問題ではないという見解 だった。
     
     レイプは2017年の刑法改正までは「親告罪」で、それまでは確かに被害者が自ら「刑事告訴」をしなければ事件とはならなかったが、 法改正によって現在は「非親告罪」になっており、被害者による告訴がなくても事件化できる というのだ。
     じゃあ、被害者が何も訴え出ていなくても、警察が週刊文春の記事を読んで自主的に捜査に入り、松本人志を逮捕する可能性があるというのか? もしそんなことがあったら、恐るべき警察国家だということになる。
     実はこの時点で、わしは「親告罪」「非親告罪」についてよく理解していないところがあったため、その先の議論はうまくかみ合っていなかった。
     そこで、後で調べてわかったことをここに書いておく。
  • 「週刊文春はレトリックで醜悪化してるだけ。」小林よしのりライジング Vol.494

    2024-02-06 19:55  
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     麻生太郎が講演で、上川陽子外相のことを 「そんなに美しい方とは言わんけれども」 と言って、案の定たちまち炎上した。
     麻生の発言は、全体を見ると
    「俺たちから見てても、このおばさんやるねえと思った。 そんなに美しい方とは言わんけれども、 堂々と英語できちんと話して、外交官の手を借りずに自分でどんどん、会うべき人に予約を取っちゃう。あんなこと出来た外務大臣なんて、今までいません」
    …と、上川外相を褒めまくる趣旨なのだが、褒めるだけ褒めちぎる一方で、関係ないところでちょっと落としたら、それが冗談として面白がってもらえると根っから思い込んでいるのである。
     全体の趣旨として褒めているのだから、ヒステリック・フェミや、リベラル左翼が、ほんの一部分を抜き出して、 「上川陽子外相は怒るべきだ」 と言い募るのはオカシイ。
     わしは麻生より14歳年下で、同じ昭和の人間ではあるが、 「笑えもしない余計な一言を付け加えなきゃいいのに」 と思った。
      基本的に麻生氏の上川陽子評を支持しつつ、女性のルックスをわざわざ茶化すなというリベラル感覚もわしには身についている。
     ところが、これに対して目くじらを立てて、完全なルッキズムだ、差別だ、セクハラだ、許せない、あんな政治家は存在してはいけないとまで責め立てる者がいるのだ。
     テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」で、元AERA編集長の浜田とかいう女もそんな徹底批判をしていたが、こういう野党精神のヒステリック・フェミが最悪なのだ。与党精神で言えば、じゃあ誰が外務大臣ならいいと言うのか?
     世界にはプーチンだの金正恩だの習近平のような「殺人も厭わぬ悪人」がぞろぞろいて、そんな奴らとも渡り合わなければならないのが外交の現実というものだ。品行方正の学校秀才優等生で、内弁慶なリベラル左翼の政治家なんかに任せられるわけがない。それよりは、麻生太郎くらいの悪党ヅラの政治家の方がまだマシだ。
     世界には「品行方正」なんかクソの役にも立たない局面がある。どれだけ悪賢くて、ドスが利くかで勝負が決まる、ヤクザモンじゃなければ通用しない政治の世界でもある。だが、そんな現実を一切考えないのがリベラル左翼フェミなのだ。
     松本人志の件も同じだ。あれはもともと不良だろう。面構えからして不良だし、筋肉付けて、下の毛を剃ってるのは、多くの女とセックスしたいからに違いない。松本は不良だから面白いのだ。
     松本に「品行方正」を求めるマスコミは頭がオカシイ。ところが、そんな当たり前のわしの意見がネットを含めどこにも出て来ないのだから、大衆は完全にマスコミに洗脳されて、「常識」を失ったマス(塊)人と化している。
     松本人志がレイプ魔だったというのなら話は別だが、週刊文春が毎週毎週書きまくっている松本の「性加害」の記事をいくら読んでも、どこにも「レイプ」とは書いていない。「レイプ」という単語を巧妙に避け、「性加害」と書いている。しかも「暴力」も伴わないから、「言葉による暴力」を臭わせて、「セクハラ暴言」を吐いたらしき記述になっている。
      こういう記述方法を「修辞法」、あるいは「レトリック」と言うのだ。
      週刊文春は「レトリック」で「イメージ操作」をしているに過ぎない。さも性犯罪があったかのような「筆致」で、吐き気がするような描写をしながら、読者に嫌悪感を植えつけているのだ。
     しばしばわしの漫画で似顔絵を描くことが「イメージ操作」だとリベラル左翼は批判してきたが、漫画より文章の方が大衆は「イメージ操作」に引っ掛かりやすい。大衆は文章に「権威」を感じる権威主義者だからだ。
    「人権真理教」による「キャンセルカルチャー」の暴風が吹き荒れ、ムサいオッサンでさえ「性被害を受けた」と言えば、疑いもなく同情されるという悪しき前例ができてしまったものだから、ましてや女性が「性被害」を訴えたら、いまや最強コンテンツに成り果ててしまった。
      レイプ(不同意性行為)をしていなくても、ただ暴言を吐いただけで、それを「性被害」として訴えられたらイチコロ、社会的に抹殺されるようにまでなってしまったのだ。
  • 「日本のサブカルが強い理由」小林よしのりライジング Vol.493

    2024-01-30 17:10  
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     今年に入ってから、日本は「サブカルしか勝たん!」ということを書いている。
     では、なぜ日本のサブカルは強いのか?
     それは、日本のサブカルは日本にしかないからである。
      実は、日本の「サブカル」は、欧米の「sub culture」とは全くの別物なのだ。
     欧米の「sub culture」と、日本の「サブカル」とでは、その成り立ちも性質も全然違うのだが、なぜかそれをきちんと解説したものがほとんど見当たらない。そこで、今回はこの点をはっきりさせておきたい。
     まず、その前に予備知識として「カルチャー」の分類をしておく。
     カルチャーは、大きく4つに分類される。
     これまで述べた 「メインカルチャー」 と 「サブカルチャー」 に、 「ハイカルチャー」 と 「カウンターカルチャー」 を加えた4つである。
     前回ざっくり定義したように、「メインカルチャー」とは世の中の大多数が認めている文化、「サブカルチャー」とは、世間の一部しか認めておらず、世の多数派、良識派からは白眼視されている文化をいう。
     だが、この「メイン」「サブ」の定義は日本独自のもので、それが今回のポイントとなる。
     一方 「ハイカルチャー」とは、一言でいえば「高尚な文化」 のことだ。高い芸術性や完成度を持つとされ、社会的に高い評価を受け、 教養ある上流階級が愛好してきた文化を指す。 狭義においては「文化」といえばハイカルチャーのみを意味する場合もある。
     そして 「カウンターカルチャー」は、位置づけとしては「サブカルチャー」の一部だが、サブカルチャーの中でも特に反骨精神が強いものをいう。 その価値観や行動規範は一般の慣習から大きく逸脱し、しばしば反社会的なところまで先鋭化することがある。
     ではここから「サブカルチャー」に焦点を当て、その成り立ちを見てみよう。
     そもそも サブカルチャーというものが最初に成立したのは、1960年代半ばのアメリカ である。
     50年代までのアメリカでは、若者文化としてロックンロールが登場し、世の大人が眉を顰めるようなことはあったが、それは「サブカルチャー」というムーブメントにまでは至らなかった。
     戦後、アメリカは「黄金の50年代」と呼ばれる絶頂期を迎えた。第二次世界大戦に勝利して世界一の超大国となり、バラ色の時代を謳歌する風潮に満ちていたのだ。
     わかりやすい例でいえば、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で描かれた古き良き時代が「黄金の50年代」のアメリカである。
      わしの子供の頃は、テレビで『奥さまは魔女』や『名犬ラッシー』などアメリカのドラマを数多く放送していたが、これらも「黄金の50年代」を舞台として、当時のアメリカ文化を描き出したドラマである。
     そこには、家庭には頼りがいのあるパパと優しい専業主婦のママ、そして子供たちがいて、生活は豊かで、明るく希望のある世界が描かれており、それを見て敗戦国・日本の国民は大いにアメリカへのあこがれを抱いたものである。
     だが、当時のテレビドラマには決して描かれなかったが、 その頃のアメリカでは、バスやレストランなどに「黒人専用席」が設けられるような差別が公然と行われていた。
     差別解消を求める公民権運動は50年代半ば以降、マーティン・ルーサー・キング牧師らによって本格化していくが、特に南部ではこの動きに対する抵抗が強く、差別解消を訴えるのには命の危険が伴った。
     公民権運動は1963年、キング牧師の呼びかけに応じて20万人が参加した「ワシントン大行進」で最高潮に達した。
     この時にキング牧師が行った「I Have a Dream」の歴史的な演説は、アメリカ国内の黒人差別解消運動のみならず、当時まだイギリスやフランス、オランダなど白人諸国の植民地統治下にあったアフリカやアジアの諸地域における独立運動や、南アフリカなどの人種差別解消運動にも大きな影響を与えるものとなった。
     こうして「黄金の50年代」には覆い隠されていたアメリカの影の部分が明るみに出され、それと同時に、それまでのアメリカの文化や価値観に対する強烈な異議申し立ての動きが沸き上がった。
      その従来のアメリカ文化とは、要するに「キリスト教文化」のことである。
     そこには 白人至上主義、家族尊重、男尊女卑、同性愛の否定 といった価値観が含まれていて、このような文化を否定し、これに代わる文化を打ち立てようというムーブメントが起こったのだ。
     そして、 圧倒的多数のアメリカ人に浸透していた従来のキリスト教文化を「メインカルチャー」と位置づけ、これに対抗する「サブカルチャー」や「カウンターカルチャー」が登場してきたのである。
  • 「安倍晋三は“無謬の保守政治家”ではない!」小林よしのりライジング Vol.492

    2024-01-16 17:40  
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     10年ほど前、友人に「自民党のパー券が大量にあるんだけど、見学しない?」と誘われて、政治資金パーティーの会場に入ったことがある。
     自民党が民主党から政権を奪還した翌年、2013年のことだ。2012年にニコニコ生放送『よしりんに、きいてみよっ!』という番組がはじまり、友人が「話のネタになるかもしれないし」と声をかけてくれたのだ。
     父親が経営している会社で、地元議員から頼まれて毎回2万円のパーティー券を20枚ほど購入するそうだが、カネを払うだけで、いつも誰も参加しないという。もったいないし、自民党は政権を奪還して大盛り上がりらしいので、どんな様子か見てみたいと言っていた。
     ホテルニューオータニの「鳳凰の間」という大宴会場と、それに隣接する宴会場など2~3のスペースがパーティー会場になっていたと記憶している。
     壇上に「平成研究会」という横断幕があった。その時はわけがわかっていなかったが、当時の額賀派(現・茂木派)のパーティーだったようだ。
    「髭の隊長」こと佐藤正久が、「中国大陸から見ればいかに日本列島が邪魔で、食糧難を見据えて敵視されているのか」という内容の公演をやっていたのを覚えている。
     会場に入る前に、友人から 「立食形式だけど、とにかく食べ物が少なくて、争奪戦になるから、会場に入ったらまず食べ物を確保したほうがいい」 と言われていた。本当にその通りで、料理を提供するコーナーには黒山の人だかりができており、肘や尻で押し合って陣取りしながら、我先にと料理を奪い合っていた。
     会場内のそこかしこに点在する円卓には、『千と千尋の神隠し』に登場する食い意地の張ったブタの集団みたいな人々がたむろしていて、男も女もガハガハと大笑いしながら料理を貪り食い、瓶ビールを注ぎ合っている。
     ホテルの従業員がたくさん走り回っているが、片付けが間に合わず、飲み干されたビール瓶や、食器、汚れた割り箸の束などが、白いテーブルクロスの上に次々と積み上げられてゆく。
     干からびたビールの泡やオレンジジュースの汁で汚れたコップが、参加者たちによってみだりに積み重ねられていき、しまいにタワー状になって弓なりに反って、倒壊し、ガラスの割れる音が響いたりもした。だが、それもすぐかき消されるほどの乱雑で猥雑なエネルギーが会場に充満していた。
     貪り食うブタたちの姿の間には、平身低頭して誰かをヨイショしたり、握手を交わしてニヤニヤしたりしているスーツ姿のギラギラついたおじさんたちがうろついていた。新宿歌舞伎町なんかより、千代田区永田町のニューオータニのほうがよっぽど「欲望渦巻く」という言葉がぴったりじゃないかと思い、唖然とした。
     いろんな飲み会の現場を見て来てはいるが、後にも先にも、あんなにみっともない飲み食いの場は他にない。酒や料理でなく、権力を手中におさめたこと、その栄華の場に居合わせていることに酔いしれている人間たちの姿があった。
     あのパーティーではいくら儲かって、いくら裏金を作っていたのだろう。
     自民党・安倍派(清和政策研究会)の政治資金パーティーをめぐる裏金作りの問題で、現職議員の池田佳隆・元文部科学副大臣が逮捕され、自民党はぐらぐらだ。
  • 「サブカルしか勝たん!」小林よしのりライジング Vol.491

    2024-01-09 18:25  
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     2024年、とんでもない年明けになってしまったが、今年最初のライジングなので一応言っておこう。明けましておめでとう。
     とにかく正月から暗くなりがちだったが、わしはこの1年、とことん人を楽しませる、人の心を明るくする作品やイベントを創作していこうという意欲で、走り抜ける決意である!

     前回は2023年を「ニヒリズム蔓延の年だった」と、あえてネガティブに総括した。最後に少しだけ希望をほのめかしておいて、続く今回で一気に反転攻勢に出るものを書くつもりでいたら、いきなり出鼻をくじかれたような形になってしまったのだが、だからといって立ち止まってはいられない。
     確かに、日本の現状にはちっともいい材料が見当たらない。国際社会において、政治力では全く勝てない。そもそも国家としての軍事力の点で勝てないのだから、どうにもならない。「話し合い」による解決のためにこそ日本が力を発揮すべきだとか言ったって、現実には何もできない。ロシアを見ても、中国を見ても、イスラエルを見てもわかるとおり、話し合うにもその背景には基本的に軍事力が要るのだ。
     このままでは何が起こるかわかったものではない。ウクライナ戦争の結果次第では、ロシアが北海道から上陸して侵略してくる可能性だって、もうないとは言えなくなってしまった。

     そんな状況にあるというのに国内政治はガタガタで、遠心力だけが働いて、ひたすらバラバラになろうとしていくばかりである。
     かといって、政治に求心力を働かせようとしたらどうなるかといえば、ロシアや北朝鮮や中国のような独裁国家になるか、安倍政権時代のような忖度社会になるかしかないということもわかった。アメリカでも求心力を欲したら、またもトランプが出てくるという有様だ。これでは、いくら政治に求心力が生まれても、国は全く豊かにならない。
     そこで、どうすれば国の結束力を高めながら、権力の持つ拘束性や忖度といった負の部分をなくし、国家を強くすることができるのかということが課題となる。
     これは、まだ世界のどこでも答えの出せていない課題である。

     そして、ある意味でわしがやろうとしているのは、実験室レベルの小さなサイズではあるが、この課題への挑戦でもある。
      わしが『ゴー宣DOJO』でやろうとしていることは、結束力を高めるけれども、ひとりひとりが強制されたり忖度したりすることなく行動して、そうして新しい世代の息吹を自由に開放してあげるという方法を作り出す実験である。
     ひとつの集団性の実験を、ここで行っているのである。
     そしてこれは、漫画家であるわしがやっているというところに意味があるのだ。
     これは、『おぼっちゃまくん』の「茶魔語」の時に顕著だった、漫画の作品を通じて全国の読者が共同体的な感覚を持ち、さらに作品を盛り上げていくという手法の応用である。この手法が『ゴー宣』にも持ち込まれ、さらに『ゴー宣道場』で発展していったのである。
     つまりこれは、漫画家・小林よしのりというサブカル作家が始めた、サブカルから派生した作品の一種であり、だからこそ強いとも言えるのである!

      今の日本が世界に向かって勝てるのは、サブカルだけだ。「サブカルしか勝たん!」という時代がやって来た。他に希望はない!
     ハリウッドで続々映画化されたアメコミのスーパーヒーローものは、一時期は凄かったが、最近では「何これ?」と思うようなヘンなものが多く、堕落していっているように見える。もう出し尽くした感があり、新しい知恵があまりないのである。
      そんな中で、日本の『ゴジラ-1.0』の成功は痛快だった。
     一時は『ゴジラ』もアメリカにすべて取られてしまって、もうハリウッドじゃないと作れないのではないかと思わされたりもしていたから、見事に巻き返してくれたのが嬉しかったのである。

     あと、やっぱり『シン・ゴジラ』は違ったということが証明されたのも嬉しいことだった。
  • 「ニヒリズム蔓延の年だった」小林よしのりライジング Vol.490

    2023-12-26 18:50  
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     2023年最後の配信となるので、一年を振り返っておこう。
     残念ながらこの一年は、ひとことで言えば「ニヒリズム蔓延」の年だった。
     ウクライナ戦争は、まだまだ終わらない。
     侵略されたら国家・国民の消滅を防ぐため、あるいは民族の隷従を防ぐため、徹底的に抵抗するしかない。領土を少しづつ切り売りしながら停戦しても、さらになめられて全土占領を少し遅らせるだけだ。
     だが、あれだけ露骨に国際法を無視して始められた侵略戦争なのだから、世界中がロシアを非難するかと思ったのに、最初から曖昧な態度をとる国々があり、さらにプーチンが居直って長期化したら、ロシア国内にも、国外にも、それを許容する雰囲気すら出てきてしまった。
     国内から厭戦気分が醸成され、良心的な国民が独裁者に反旗をひるがえすなどという希望的観測も、いまや風前の灯火だ。
     もしロシアが侵略で得をしようものなら、もう「国際法」というものの意味が完全になくなってしまう。
     世界の歴史は国際法以前に逆戻りして、力による支配が全ての帝国主義の時代に戻り、特に核を持っている国が何でもできるようになるという結論に達してしまうのだ。
     核は「脅し」において、ものすごい効果を発揮する。
     だからこそウクライナ軍は、ロシアの領土まで踏み込む反転攻勢ができないでいる。
     ロシアの領土が戦場にならなければ、ロシアの国民は自国が戦争をしていることすら実感できず、徐々に関心を失っていく。そのためロシア国内で厭戦感情が高まることもなく、反プーチンの政変が起きて戦争が終結するというシナリオが実現する可能性はなくなってしまった。
     世界中からロシアに向けていくら反戦平和を叫ぼうと、ロシア国民は聞く耳も持たないわけで、平和主義というものは、独裁権威主義の前では、全く空疎な念仏だということが100%証明されてしまう。
     さらにヨーロッパ各国は「支援疲れ」とかいって、支援が続くかどうかわからないという不安感もあり、アメリカも支援の予算が枯渇すると言っている。
     しかもそんな状況の中で、イスラエル・パレスチナ紛争が勃発し、むしろアメリカはそっちに関心が向いてしまった。
     今回の紛争は、もちろんハマスが先に仕掛けたことが発端ではあるのだが、それよりずっと以前からイスラエル・パレスチナは常に戦争状態にあるのだから、今回においてはどちらが先に仕掛けたかなんてことには、そもそも何の意味もない。
     イスラエルの報復攻撃は国際法上非常に問題があり、そのイスラエルを支持する形になったアメリカは、ロシアの「国際法違反」を非難する姿勢との間に、大きな矛盾を抱え込む事態となってしまっている。
     わしはVol.483「パレスチナよりウクライナだ」で書いたとおり、
     https://ch.nicovideo.jp/yoshirin/blomaga/ar2169399
     パレスチナ問題にはもう関心を持っても仕方がないとまで思うところがあるのだが、それにしても今回のパレスチナの被害は規模が違いすぎる。
     戦闘開始から2か月余りでガザ地区の死者数は人口220万人のほぼ1%にあたる2万人を超え、うち4割の8千人が子供だという。しかもその数は病院で死亡が確認された数だけなので、実際にもっと多い可能性があり、攻撃はさらに南部に広がっているため、まだまだ増えていくのは確実。これまでの紛争と比べても、その犠牲者数と殺戮の無差別性では前例のないものになっている。
     それほどまでの状態になっているのに、イスラエル国民はパレスチナ人の不幸に対して、一切関心を持たないことに決めてしまっている。
     イスラエル国民の意識は、パレスチナ人なんかやっちまえ、虐殺すればいいじゃないかというところにまでなっているわけで、それはホロコーストの際に、ユダヤ人がどれだけガス室に送られて殺されていても、関心を持たなかったフランス人などと何ら変わらない。
     このように、とてつもない不幸がありながら完全に放置されるという事態が平然と頻発しており、それに対して「反戦平和」の呪文を唱えても、その最悪の状況を覆したり、食い止めたりすることなど全く不可能であると分かってしまった。
     理想主義的な言葉が、一切何の役にも立たないということが、明白になってしまったのである。
     そしてさらに、中国の問題がある。