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記事 5件
  • 「『謝ったら死ぬ病気』に罹るな!」小林よしのりライジング Vol.272

    2018-06-05 15:15  
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    第279回「『謝ったら死ぬ病気』に罹るな!」  自分の発言の誤りが判明しても、絶対に認めない人がいる。
     その極みが、 安倍晋三 だ。
     安倍は加計学園の獣医学部新設計画を 「2017年1月20日」 に知ったと言い続けてきたが、愛媛県から、 「2015年2月」 に安倍が加計孝太郎と面会して 「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」 と言ったとする文書が出てきた。
     これはもう動かぬ証拠というしかないものであるが、しかし安倍は、以前の発言は誤りだったとは決して言わない。
     愛媛県がわざわざ虚偽文書を作成する理由など全くない。
     加計学園が愛媛県に嘘の報告をしたのであれば、加計が安倍の名を勝手に悪用したことになるから、安倍は森友問題で籠池泰典前理事長に対して言ったように、加計にも「詐欺師」と言わなければおかしい。
     どう見てもつじつまが合わないのに、安倍は決して誤りを認めない。
     日大アメフト部前監督の 内田正人 も同じだ。
     問題の場面の映像がはっきり残っていて、しかも試合直後の取材に対して 「内田がやれって言った、でいいじゃないですか」 と、自分の指示であることを認める音声まであるのに、わざわざ記者会見して、自分の発言と選手の理解に乖離があったなどと見え透いた嘘をつき、絶対に自分の非を認めない。
     最初は「責任は全部俺が持つ」とかカッコイイこと言っといて、それが問題化したら「全部選手のせい」にしてスタコラサッサと逃げるのだから、卑怯な人間がいるものだ。
      安倍も内田もやってることは全く同じなのだが、ネトウヨ連中はなぜか安倍だけを擁護している。
     本来「誤りは認めよう」というのは単純な道徳の問題だが、もし安倍が本当に自分の誤りを認めたら、こう言わなければならない。
    「私の発言は嘘でした。私はお友達のために行政を歪め、国有財産をタダ同然で分け与えようとしたり、獣医学部の認可を出したり、何十億もの税金を投入させたりしました」
     正直にこう言ったら最後、首相も国会議員も辞めなければならず、さらには検察が動いて後ろに手が回りかねないのだから、嘘をつくしかないわけだ。
     内田も同じで、日大経営陣のナンバー2として人事と予算を牛耳ってきた地位も権力もすべて失いかねないから、絶対に非を認められない。
      こんなのは、犯罪者が罪を逃れようとして嘘八百を並べ立てているのと同じで、道徳云々のレベルの話ではない。嘘を承知していて、平然と嘘を吐き続けるのは、人格が破綻したサイコパス傾向の者たちなのだろう。
     それでは 「報道機関」 の場合はどうか?
     報道機関の使命は「真実の追及」にあるはずだから、過去の自らの報道や論説に誤りがあれば、認めて訂正・謝罪をするのが当然だし、それをしたからといって社会的地位が剥奪されるものではなく、ましてや犯罪者になることもない。これなら「誤りは認めよう」という道徳で語れるのではないか?
     財務省の福田淳一前事務次官の「セクハラ」問題が報道されて以降、特に朝日新聞・東京新聞・テレビ朝日「報道ステーション」は福田を叩きまくり、麻生太郎財相の 「セクハラ罪という罪はない」 という、間違いではない発言を「暴言」として非難した。
     中にはキャバクラまでセクハラの温床だとして非難し、セクハラの「根絶」を訴えるものまであった。
     さて、これは正しかっただろうか?
  • 「フランスのセクハラ罪を知っているか?」小林よしのりライジング Vol.270

    2018-05-15 20:30  
    150pt
     麻生太郎氏の「セクハラ罪はない」発言に対する攻撃が止まない。
     麻生の発言がいつも大雑把なことくらい、誰でも知っている。中には擁護のしようがない暴言もあっただろうが、基本的に男っぽい美学と茶目っ気もあるキャラクターを持っているので、わしは人格として嫌いではない。
     かつて京都で芸者の踊りを見ながら、酒を飲んだこともある。
     アルファベット英語で堂々と外国人とおしゃべりする豪胆さは大したものだなと思う。
     安倍晋三の下で働いているから、損をしているなとわしは思う。
     麻生自身はセクハラをするような男ではない。部下が犯した道徳的な罪に対して、世間の風圧に負けて断罪するのではなく、「セクハラ罪はない」と抗弁するのは、それほど非難されるべきだろうか?
     問題とされているのは4日、麻生が訪問先のマニラで行った記者会見での発言だ。
     そもそもこの記者会見は、マニラで行われたアジア開発銀行年次総会などについてのものだったのだが、その質疑応答で朝日新聞の記者が、福田淳一前事務次官のセクハラ問題の調査を財務省が打ち切ったことに対して、テレビ朝日側がなおも徹底調査を求めるという文書を出したが、これについての見解を聞きたいという質問をした。
     それに対して麻生は 「これは1対1の会食ということになっていたそうですから、そういったやりとりについて、財務省だけで詳細を把握していくということは不可能です。これはいくら正確であったとしても、それはいかにも偏った調査ではないかと言われるわけですから」 と答え、さらにこう言ったのだ。
    「御存じのようにセクハラ罪という罪はないのですよね、あなたよく知っているように。殺人とか傷害とは違いますから。訴えられない限りは、親告罪ですから、あれは。」
     一対一の会食の場で何があったかを、財務省だけで詳細な調査をするのは不可能だし、仮に調査をして、それが正確なものだったとしても、偏った調査だと言われることは目に見えている。
     じゃあ警察に調査を委ねるかといっても、セクハラについて殺人や傷害と同様に警察が捜査できるような「セクハラ罪」というものがないのだから、それもできない…麻生はそう言ったのだ。
      福田は女性に直接手を触れたわけでもなく、ただ不快な言葉を言っただけだから「強制わいせつ罪」にも当たらず、罪に問うとすればせいぜい 「名誉棄損罪」 か 「侮辱罪」 であり、これは本来、当事者同士で解決すべき軽微な罪ということで、被害者からの訴えがなければ刑事事件として起訴することができない 「親告罪」 となっている。
     福田に刑法上の犯罪行為があったとして、警察に捜査してもらおうというのであれば、 まずは被害者が福田を「名誉棄損罪」か「侮辱罪」で刑事告訴しなければならない。
      ところがテレ朝は匿名の社員が被害を受けたと抗議をしているだけで、被害者は告訴どころか、被害届すら出していないのだから、どうしようもない。
     ここで麻生が言ったことは、全く正しいのである。
     やや余談であるが、強制わいせつも昨年、性犯罪を厳罰化した改正刑法が施行されるまでは親告罪だった。
     TOKIOの山口達也に呼び出され、無理やりキスされたり顔をなめまわされたり押し倒されたりした女子高生は、警察に被害届を提出したが、ジャニーズ事務所との話し合いで示談が成立、被害届を取り下げた。
     親告罪であれば、話はこれで終わっていた。おそらく事務所も山口も、昨年の法改正の意味をはっきり把握しておらず、今まで同様、これでもみ消したと思っていたのだろう。
     ところが強制わいせつは非親告罪になっていたため、被害者が被害届を取り下げても捜査は続き、山口は書類送検され、事件が表沙汰になったのだ。
     警視庁は書類送検の際、起訴を求める最も厳しい「厳重処分」の意見を付している。既に示談が成立しており、不起訴になるのはほぼ確実なのに「厳重処分」の意見がつくのは異例のことで、山口が有名タレントであることが考慮されたからかもしれないし、もしかしたら捜査において犯行が相当に悪質だったと認められたのかもしれない。
  • 「芸術家と偏執性~ロダンとカミーユ編」小林よしのりライジング Vol.269

    2018-05-08 20:35  
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     彫刻『考える人』を知らない人はいないと思う。
    “近代彫刻の父”と称されるフランスの彫刻家オーギュスト・ロダン によるものだ。
     
      (C) 江戸村のとくぞう (Edomura no Tokuzo) in 静岡県立美術館
     ロダンには『地獄の門』『カレーの市民』『接吻』など数えきれないほどの傑作がある。
     時代の先を走りすぎていて、当時は酷評・嘲笑されて引き下げられ、死後ようやく絶賛された超有名作もある。 『バルザック記念像』 という高さ3メートルの像だ。
     1891年、フランス文芸家協会から、『ゴリオ爺さん』などで知られる小説家オノレ・ド・バルザックを顕彰する像の注文を受けたロダンは、バルザックのすべての小説、書簡を何度も丹念に読み込み、バルザックの服の仕立て屋まで探し出して、正確な体の寸法を得るなど徹底調査していった。
     しまいには、まるで自身がバルザック作品の登場人物になったかのようにふるまいながら生活するという命の懸けっぷりで、なんと 7年 もかけて、裸体から着衣まで、さまざまなポーズ、表情、年齢のものを大量に彫り上げている。
     そうしてようやく「最終形」として仕上がったものをサロンに出品すると……
     
      ロダン 『バルザック記念像』(最終作)
    「なにこれ傾いてるやん」
    「ひっくり返るよ。酔っぱらったバルザック?」「雪だるま(笑)」「袋に入ってるよ」「借金取りに叩き起こされてベッドから起き上がる瞬間のバルザックですか(笑)」「眼がなくて怖いんだけど」
     まったく理解されず、嘲笑われた挙句、文芸家協会からは受け取りを拒否され、挙句の果て、代金も支払われないという結果に。
     なんとも気の毒な話だが、ロダン本人は、この作品について、 「右後方、台座から20歩離れたところから見よ」 と不思議なコメントを残している。そういうわけで、指定の場所から眺めると、こうなる。
     
      松岡茂雄「ロダンのバルザック 右側のプロフィルに隠されたファロスの表像」
    (『美術史論集 第7号』,神戸大学美術史研究会,2007)より
      ロ、ロダン・・・!
     おわかりいただけるだろうか。屹立した男性像が、「ナニ」を表現しているのかを。
     正解を書くと、Appleの都合により伏字対応か、削除依頼がくるかもしれない。
     当初傾斜角度は8°だったが、ロダンは 「もっとグ~ンとそそり立たなあかんよ~」 と、わざわざ12°まで傾けて調整したそうだ。
     バルザックという作家を研究し尽くし、作風と感性を吸い上げた巨匠ロダンが「バルザックの創作の根源とはなにか」を削り出してしまった、という話であった。
    「人が嘲笑い、破壊できないためしつこく笑いものにしたこの作品は、私の全人生の成果であり、私の美学の軸そのものである」 オーギュスト・ロダン
    (1908年、ル・マルタン紙にて)
    ■“ロダンのミューズ”カミーユ・クローデル
     偏執的で鬼気迫る彫刻家ロダンだが、彼の傍らにはこれまた鬼のように凄まじい才能を持つ女性が常に一緒にいた。
     
     
      美貌の彫刻家カミーユ・クローデル である。
  • 「芸術家と偏執性~荒木経惟編」小林よしのりライジング Vol.268

    2018-05-01 21:15  
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     アラーキーこと写真家の荒木経惟が、自身の過去のモデルにネット上で告発され、それに乗じて荒木作品が一部で炎上、バッシングされるという出来事があった。
     ひとりは現在47歳の女性で、19歳の時に撮影現場で、レイプではないが性的虐待を受けて撮影されたという内容の文章と、その英訳をフェイスブックに投稿。
     もうひとりは荒木作品では世界的に有名な、15年間ミューズ(写真やファッションショーなどでそのブランドの象徴的な女性モデル)をつとめ、荒木と深い関係にあった女性によるブログだ。
     私の感想としては……
     前者の女性は、荒木経惟がどんな作風の写真家なのかを知らないor説明されないまま、マネージャーに騙されて撮影現場に連れてこられたのか、だとしたらそのマネージャーに問題があると思うし、ご本人がなにも知らずに個人モデルに応募してしまったのなら、PTSDに悩まされるほどの苦痛を受けたということだから、ネットに書き込んで私刑を煽るよりは法的な交渉に動いたほうが……と思った。
     しかし、なにしろ個人間のことで事情もはっきりわからないから、なんとも言えない。
     後者のミューズによるブログは、多くの写真ファンが度肝を抜かれた。彼女はてっきり荒木経惟と共に“主体的に作品づくりをしている側の人”だと思われていたからだ。
     個人的には、「愛憎」が絡んでいる話なのかなとは感じた。15年のうち、恋人兼モデルとして幸せで刺激的な時期がどのくらいあったのかは知らないが、荒木の写真への狂気に触れて、扱いに納得がゆかない、でも作品には参加したい、心の底にいびつで複雑な思いがうずめいてしまったのかもしれない。
     そんなに苦痛だったのなら、15年のうち、もっとはやく降りていたほうがよかったのではとも思えてくるし、しかしこれも、個人の関係性と、心のなかの話だから、なんとも言えない。
     写真家にしても、モデル全員を等しく扱っているわけじゃない。相手との親密度や、接している頻度、想いの強さや内容は、写真にそのまま反映されていく。
     一律に、「こうだ」とは言えないところがある。
    ■アラーキーのこと
    「荒木経惟」という写真家の世界について、私が感じていることを綴ってみたいと思う。
     私はアラーキーの写真全部を見ているわけではないが、総じて、あまり好きではない。でもそれは個人の趣味の問題であって、別に「こんな写真撮りやがって」なんて嫌悪したりはしていない。ほかにもっと好きな写真家がいるだけだ。
     右眼を失明しても、写真の右側を黒く塗りつぶした 『左眼ノ恋』 という作品シリーズを発表したのは「すごいこと考える人だな」と驚いたし、きっと死ぬまで“写狂老人”として突っ走る人なんだろうと思っている。
     
     ちなみにこのタイトルは 「左眼だけになってもまだエロい」 みたいな変態的な意味ではない。オランダ人写真家・エルスケンが1950年代のパリの若者たちの姿を撮った 『セーヌ左岸の恋』 という超有名な傑作写真集のオマージュになっているというお洒落なものだったりする。
     アラーキーはずいぶん昔から「俺は男尊女卑だ」と言っていた。78歳という年齢を考えても、女性に対しては横柄な物の言い方をするところがある人なんだろう。
     でも、女を縛ってこねくりまわした写真ばかり撮っている人ではない。
     私が写真展で強烈に覚えているのは、 ある花の写真 だ。展示パネルの一枚だったので、ネット検索しても出てこないが、爛れるように赤黒く、しおれかけた肉厚の花弁と、からからに乾燥してねじくれた土色の葉っぱだった。
     花を見て、「エロい」と感じたのははじめてだった。
     それから、ものすごく悲くてしょうがない、胸のつまるような感情がこみあげてくる不思議な写真だった。
     その写真展で、はじめて、アラーキーが吉原遊郭そばの三ノ輪出身で、実家は、 遊女の「投げ込み寺」として有名な浄閑寺 の目の前にあったと話すのを聞いた。
  • 「セクハラとジャーナリストの覚悟」小林よしのりライジング Vol.267

    2018-04-24 21:00  
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    『脱正義論』で薬害エイズ運動に嵌った学生たちに向かって、わしは将来、会社・組織に入っても、組織自体が悪を遂行している場合は、個人として戦い、腐敗した組織を変えよと演説した。
     それができぬのなら官僚バッシングをするなと言った。
     ところがわしの読者のみならず、マスコミや一般人の多くが、「普通の人間は組織に依存せざるを得ず、個人では戦えない」「だから社員を会社が守るべきだ」と主張し、セクハラを理由に官僚バッシングに精を出している。
     官僚のトップは叩きやすいが、テレビ局や新聞社は叩きにくいらしい。
     セクハラをなくすには、セクハラが起こるシステム自体を変えるしかない。
     それはむしろマスコミの側に責任があって、なぜ美人で才媛の女性記者が、官僚に深夜、電話一本で呼び出されて、酒を飲まねばならなかったのか、1年半に何度も二人きりで会食せねばならなかったのか、そこに人々の関心が向かないように、マスコミは財務事務次官にすべての「悪」を背負わせようとしている。
     悪いのはセクハラ発言をする「男」であり、「男一般」が女に性欲を感じなければよい、感じても封印する完全な紳士であればいい、品行方正な聖人になればいいと、教育しようとしている。
    「記者を男にすればいい」と言えば、女性差別だと言い、女性だって深夜でも権力者の元に駆けつけて情報をとりたいのだと主張する。
     権力者がなぜ電話で女性記者を呼び出すのかと言えば、まちがいなく「下心」があるからであり、たまたま情報を漏らしたくなったからではない。情報を漏らしたいだけなら男性記者と会えばいい。
     女性記者は権力者の「下心」を百も承知でパジャマを着替えて駆けつけるのである。
     女性記者が「ジャーナリスト」ならば当然のことだし、あえて危険を顧みず、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の覚悟で飛び込んでいくのである。
     テレビ朝日やマスコミは、女性記者の役割りはそういうものだと割り切っている。くノ一のように女性記者は権力者の懐に飛び込んで、特ダネを取るのである。プロのジャーナリストはそういうもので、セクハラに遭わないように会社が守ってくれるものではない。
     それは大人の世界の常識のはずだが、マスコミもコメンテーターも、女性記者には「覚悟」は要らない。会社が守り、権力者がセクハラをしなければいいだけだとウルトラ欺瞞を主張している。
     戦場ジャーナリストには「覚悟」は要らない、スポンサーが守ってくれて、兵士やゲリラが銃撃しなければいいだけだと、そんな途方もない馬鹿を主張できるのか?
     わしの『新堕落論』を読んだ者なら、「弱者のルサンチマン」について少しは理解したはずだろうが、やっぱり読解できていないのがほとんどなのだろう。
     強者の傲慢さを見たら、自分と同じ弱者の位置まで引きずりおろすことしか考えていない。それを繰り返せば、社会には品行方正な小市民しかいなくなってしまうのだが。
     Me too運動を「国の将来のために」賛成したわしにも、バランス感覚が働く。それが「保守」の真髄だからだ。
     わしは、例え小児性愛者で、養女を性的虐待していたウディ・アレンでも、映画作りを止めろとは言わない。
     天才や秀才エリートの中には、品行方正ではない者が多いだろうが、わしは作品や仕事の能力を評価するのである。