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  • 「偏見は大事である」小林よしのりライジング Vol.487

    2023-11-28 19:55  
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    「偏見はいけない」 という言葉は、当たり前の道徳のように使われる。
    「差別や偏見をなくそう」というように、偏見は「差別」とセットで使われることも多い。
    「私の独断と偏見ですが」といえば、あえて一般性を無視して、自分の好みだけで話すけれども勘弁してねというエクスキューズになる。
     しかし、 「偏見」 とはそんなに悪いことなのだろうか?
     前回、草津町長の冤罪事件について論じたが、その中でわしは、この件に最初から違和感を持った理由として、 「被害を訴えている女が、ものすごいブス」 で 「町長が大変なリスクを冒してまで関係を迫るような女とは、とても思えなかった」 からだと書いた。
     そして、「もちろん、これは偏見である」とした上で、 「偏見だって、重要な判断材料なのである」 とした。
     実際に、ここまではっきりした答えが出て、「偏見をなくそう」と言うリベラルどもの方が全員間違っていたことが明白になった以上、これを否定することなどできないはずだ。
     そもそも、思想的にも「偏見」とは本来、マイナスだけの概念として捉えられていたものではないのである。
     18世紀イギリスの政治家、政治哲学者で「保守思想の父」といわれる エドマンド・バーク にとって、 偏見は「伝統」とさほど変わらないものだった。
     バークはフランス革命に反対して『フランス革命の省察』を書き、その中で 「偏見」とは自然な感情であり、大切にすべきものである と説いた。
      英語で「偏見」は 「prejudice」 で、 あらかじめ(pre)の判断(judice) という意味である。
     最近の訳書では「偏見」の語のマイナスイメージを避けて「先入観」と訳しているものもあるが、やはりこれは「偏見」の方が適していると思う。
      偏見(prejudice)とは、伝統や慣習といった先人の知恵によって「あらかじめなされた判断」をいうのである。
     バークがこの本を書いた時代においても、偏見とは払拭すべきものであるというのが進歩的な知識人の考え方だとされていた。
     そんな中でバークは、 「私はこの啓蒙の時代に、あえて次のように告白するほど不遜な人間だ」 と自虐的な前置きをした上で、こう述べている。
    「私たちは一般に、教育を度外視した感情で動く人間で、自分たちの古くからの偏見を丸ごと投げ捨てるどころか、それを心から大切にする。さらに恥ずかしいことに、まさに偏見であるからこそ大切にする。それもその偏見が長続きしたものであればあるほど、世に広まったものであればあるほど、いとおしむ」
    「恥ずかしいこと」と言いながら、堂々と「自分は偏見を大切にする」と宣言したのだ。
     さらにバークは 「人が自分の理性だけを頼りに暮らし、それで取引するようなことを恐れている」 という。
     なぜかというと、 「各人のなかにある理性の蓄えなどそう多いものではないから」 だという。人間ひとりが自分の理性から得ている知恵の量などたかが知れており、それだけで物事を判断するのは危険だというのだ。
     そしてバークは、 「様々な国民と様々な時代を通じて蓄積されてきた共同銀行と共同資本を利用する方がいい」 と言う。ここでいう「共同銀行と共同資本」というのが、多くの先人たちが積み重ねてきた伝統であり、常識であり、偏見であるわけだ。
     バークは、イギリスの思想家の多くは 「こうした一般的な偏見を否定せず、偏見の中に生きている潜在的な叡智を掘り出すために知恵を巡らせる」 という。
     そして重要なのは、偏見の中から「潜在的な叡智」を発見することに成功した場合でも、 「偏見の衣を捨てて、その中の裸の理性だけを取り出したりはしない」 ということだ。
     バークによれば、イギリスの思想家は 「内側に理性を含ませながら偏見を維持する方が望ましいと考える。というのも、理性を含む偏見は理性に行動を起こさせる動機になるし、そこに含まれている愛情によって永続するものになるから」 だという。
     例えば、わしは「裸の理性」では薬害エイズ運動の支援はしなかった。 「自分の読者である子供は守らなければならない」 という 「理性を含む偏見」 こそが行動を起こす動機になったのだし 、 その偏見の中に含まれた「情」がある限りにおいて、運動を続けた わけである。
     そしてバークはこうも言う。