• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 4件
  • 「まだ学歴信仰?」小林よしのりライジング Vol.502

    2024-04-30 20:20 4時間前 
    300pt
    「作家の全てはそのデビュー作に表れる」
    とよくいわれるが、その言葉は確かに当たっているなと、わしもデビュー50周年を前にした今、そう思っている。
     一昨日に投開票が行われた衆議院補欠選挙の東京15区は、小池百合子都知事が推した作家の乙武洋匡が、なんと百田尚樹の「日本保守党」の候補をも下回る5位落選という大惨敗を喫した。
     もうこれで小池百合子の影響力など完全に消え失せ、国政復帰など夢のまた夢になったとも言われているが、その選挙の前にまたも話題が再燃していたのが、小池の「学歴詐称疑惑」だった。
     今となっては、もう小池がカイロ大学を出ていようがいまいが、そんなことはどうだってよかったということになるが、わしとしては「学歴」なんてものが何度も何度も持ち出されて来ること自体が、不快でたまらなかった。
      法的にいえば、公職選挙の候補者が経歴を詐称した場合、公職選挙法違反の犯罪となり、有罪確定の場合は当選無効となる。
     もしそうなれば小池の政治生命は完全に終わることになるから、小池の失脚を狙う側は何度でもその問題を持ち出すだろうし、小池は必死で防御するだろう。
      しかし、そもそもわしは学歴なんかクソ食らえと思っているから、その攻防そのものがバカバカしくて見ていられなかった。
     卒業しているかどうかなんて、卒業証書か関連の書類を出せば一発で証明されて終わる話なのに、それがこれだけ何度も蒸し返されるということは、小池の側が未だに卒業したという決定的な証拠すら出せていないのだろうと思えるが、もし本当に学歴詐称だったとしたら、小池は日本国内の学歴では足りないから「カイロ大学卒」なんて学歴を持ってきて、箔をつけようとしていたということになる。
     そしてこれに対して、学歴が違うということばかり責め立てていたら、 結局はどっちが勝とうが「学歴が大事」という印象を広めるばっかりになるわけで、わしにはそれが許せなかったのである。
     繰り返して言うが、わしは学歴なんてクソ食らえと思っている。
      そして、そのことはもうデビュー作『東大一直線』で描いている。
     そもそも『東大一直線』は、学歴社会を批判するために描いた作品だった。
      主人公・東大通は、この社会は受験戦争に勝った学歴のある者の天下だということを 脳の右半球の直感 で悟り 、学歴のない奴はクソだと言いながら、受験勉強に猛進する。 ところが肝心の受験勉強に必要な、 脳の左半球の論理的能力 がパーだった というキャラである。
     その姿を通して受験戦争の滑稽さを描いた作品は大ヒットして、続編『東大快進撃』では東大安田講堂の崩壊を描いて終わっていった。
     わしはこれで学歴社会のバカバカしさは描き尽くしたのだが、それから40年以上経ってその認識が浸透したかといったら、全然である。やっぱり今も学歴がもてはやされる世の中は続いているのだ。
      テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」が山口真由をコメンテーターにして、この人は東大を出て、ハーバードも出て、とにかく凄い人なんだというイメージをこれでもかとばかりに大衆に刷り込んだのも、その典型例といえる。
     わしから見れば、山口真由なんかただのバカとしか思えない。何しろ皇室に関することを竹田恒泰の本を読んで勉強して、間違った事ばっかり言っているような始末なのだから。
     わしは学歴というものに何の憧れもなければ、何の幻想も持っていない。テストの出題者が求める解答を書く技術に長けているだけで、そもそも出題者が間違っているのではないかという疑問など、間違っても浮かばないのが学歴秀才というものなのだ。
      ところが未だに新聞には毎年、大学入学試験の問題と解答が何面も使って掲載されていて、あれを見ると、無駄に紙面を使うなと言いたくなる。
     そして、それよりもっとわからないのは 週刊誌の大学合格者報道だ。
     かつては「東大合格者全氏名」なんてものが載っていて、さすがにこれは個人情報保護ということでやらなくなったが、その後も 「大学合格者高校別ランキング」を毎年「週刊朝日」と「サンデー毎日」が競って載せてきた。
     しかし昨年「週刊朝日」が休刊になり、もうそんなバカな企画は一誌だけになったかと思っていたら、なんと朝日はこれを「AERA」に移して継続したものだから、びっくりしてしまった。
     しかも 「AERA」はその号だけ定価もページ数も増大した特別号にして、全192ページの雑誌のうち116ページをその特集に費やしていた。 そしてその号の巻頭特集は「上司と部下 飲み誘うのムズすぎ問題」というあまりにもどーでもいい記事を組んでいて、どっからどう見ても「大学合格者高校別ランキング」のためだけに出された雑誌という体になっていた。
     どの高校から名門大学の合格者がどれだけ多く出たかなんて、報道する必要があることとは到底思えないが、しかしそれが、これだけ特別扱いするほど商売になる企画らしい。あまりにもバカすぎて、わしには意味が一切わからない。
     学歴信仰のインテリ知識人がいかに醜いかという実態は、有難いことに香山リカがしっかり見せてくれた。
  • 「大東亜戦争の呼称」小林よしのりライジング Vol.501

    2024-04-16 19:15  
    300pt
     ジャニーズに対するキャンセル・カルチャーの火付け役となったイギリスBBCの記者、モビーン・アザーが再び放火をしようと来日し、日本のマスコミはみんなこれに加担した。
     考えてみれば、日本のマスコミは戦後一貫して欧米の手先となり、キャンセル・カルチャーをやってきたともいえる。
     4月5日、陸上自衛隊第32普通科連隊が、公式X(旧ツイッター)に、このような投稿をした。
     
    「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島において開催された日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式に参加しました」
     ところがその3日後となる8日、朝日新聞が『「大東亜戦争」陸自連隊投稿 Xの公式アカウントに』と題する記事を載せ、左翼マスコミらが騒ぎ出した。
     そして同日午後には、同連隊は「大東亜戦争最大の激戦地」「英霊」などの言葉を削除して再投稿。
     防衛省陸上幕僚監部は削除理由を「本来伝えたい内容が伝わらず、誤解を招いた」と説明したという。だが、いったい何の「誤解」だというのか?
     何の理屈もない。これは、左翼マスコミのキャンセル・カルチャーにあっさり屈しただけである。
     
    「大東亜戦争」という言葉こそが戦後最大のタブーであり、日本最大のキャンセル・カルチャーの標的なのである!
     昭和16年(1941)12月8日に開戦し、昭和20年(1945)まで戦闘が続いた 日本の戦争の名称は「大東亜戦争」である。これは開戦直後に当時の政府が閣議決定した正式名称であり、その当時「太平洋戦争」なんて言葉は存在していなかった。 日本人は全員「大東亜戦争」を戦ったのである。
      日本敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は占領政策で「大東亜戦争」の名称の使用を禁止し、 「太平洋戦争」 に言い換えさせた。
     その指令は占領の解除と同時に無効となり、今年でもう72年も経つのに、マスコミは今なおGHQの占領政策を頑なに守り続け、「大東亜戦争」の名称を執拗に言葉狩りしているのである。
     わしが平成10年(1998)の『戦争論』で、歴史認識を語る際に真っ先に触れたことこそが、日本が戦った戦争は「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」だということだった。
     そこでわしは、こう書いている。
      教科書に載っているように太平洋戦争っていったら アメリカとだけ戦ったような気がするが…
     日本はアジアに大東亜共栄圏を作ろうという とんでもない構想を後づけにせよ掲げて戦ったので大東亜戦争と呼んだほうがわかりやすい。
     中には「大東亜戦争」と聞いただけで右翼とレッテル貼りしてくる人もいるが知ったこっちゃない
    「大東亜」のほうが大・東アジアだから 戦場がわかりやすいのだ
     そして、この戦争について言われる否定的な側面の数々を挙げて、それらのすべてを反省したとしても、
      それでも有色人種を下等なサルとしか思ってなくて 東アジアを植民地にしていた 差別主義欧米列強の白人どもに…
     目にもの見せてくれた日本軍には
     拍手なのである!
    と描いたのだった。

        戦前は東アジアのほとんどが白人欧米列強の植民地とされ、熾烈な人種差別がまかり通っていた。
     それを払拭し、アジア人のためのアジア、「大東亜共栄圏」をつくることを目指したのが「大東亜戦争」である。
     これは、わしが勝手に歴史を捏造して言っていることではない。
     当時の日本人全員の常識だったのだ。
     例えば詩人・彫刻家、高村光太郎は開戦2日後の昭和16年12月10日、次の詩を書いている。
  • 「芸能の長い長い助走」小林よしのりライジング Vol.500

    2024-04-09 20:20  
    300pt
     小林よしのりライジング、今回で第500号だそうだ。
     早いものだと驚くが、だからといって殊更に特別号というような体裁にはしない。毎号毎号が「スペシャル」みたいなものだと思ってもらいたい。
     先週6日の生放送『歌謡曲を通して日本を語る』は、新刊『日本人論』をテーマとしていた。『日本人論』は「芸能の歴史」を柱にしているが、まだ描き切れなかったこともあって、それを話す予定だったのだ。
     ところが放送2日前に、自民党が皇位継承問題について最悪の結論を出しそうだというニュースが入ってきたものだから、内容を大幅に変更して話さざるをえなくなった。
     それで、本来話したかった部分をやや縮小してしまったので、それをここでもっと詳しく記しておきたい。
     日本の最古の芸能は神話のアメノウズメノミコトの舞にまで遡るとされ、それが神事において神楽を舞う由来になったということは、『日本人論』で描いた。
     これは歴史学的にいえば、少なくとも 『古事記』や『日本書紀』が編纂された奈良時代には、神を楽しませ、もてなすものとしての 「舞」 が存在していたということになる。
     奈良時代の日本は海外との交流が盛んで、特に中央アジアあたりの様々な芸能が、シナ大陸を経由して伝来してきた。中でも 曲芸や幻術、歌舞や音曲、物まねなど雑多な内容を持つ 「散楽(さんがく)」 という大衆的な芸能は人々に親しまれ、以前からあった日本の芸能と混じり合って変化していった。
     大河ドラマの『光る君へ』に登場したのでイメージしやすくなったが、散楽は平安時代の大衆の娯楽となり、 定住の地を持たない流浪民の一座が、村から村へと渡り歩き、その芸を披露して金銭をもらうことで生活していた。
     一座は各地を回りながらネタ集めをして新しい演目を上演し、やがて滑稽な物まねや短い寸劇などが多く演じられるようになり、日本独自の芸能となっていき、呼び名も「散楽」から滑稽な意味合いを持つ 「猿楽(さるがく)」 へと変わっていった。
     そして猿楽から今に続く 能狂言 の型が分かれ、江戸時代には 歌舞伎 が生まれ、全ての伝統芸能へと枝分かれして繋がっていったのである。
     それらの芸能の担い手は先に述べたとおり 漂泊の民で、 「河原乞食」 とも呼ばれた被差別民 だった。
     江戸時代になり都市が発展すると、都市には常設の芝居小屋や寄席が作られ、定住して芸能に携わる者も出るようになる。
     だがその一方で特に地方においては、芸能の原初から続く、宿を持たない旅芸人の系譜も連綿と続いていた。
     1300年前の奈良時代から始まった旅芸人の歴史が、いつまで続いていたのかというと、実は、それは昭和までである。
      戦後の高度経済成長期まで、旅芸人は存続していたのだ。
     現代人の感覚で「芸能界」とか「芸能人」とかいうと、映画やテレビなどのショービジネスのきらびやかな世界を思い浮かべるものだが、それは「マスメディア」の登場によって創り上げられたものだ。
     日本で 映画が娯楽産業として成立するようになったのは110年くらい前 、レコードが普及し始め、 ラジオの本放送が始まったのは約100年前。 そして テレビの本放送が日本で始まったのは昭和28年(1953)、なんと、わしが生まれた年なのである。
      1300年にも及ぶ長い長い芸能の歴史に比べれば、我々が知っている、マスメディアによって創られた芸能は、たかだか100年程度の浅い歴史しかない。
     これが、一番肝心なことであるにもかかわらず、今では誰も気づかなくなってしまっていることである。
     マスメディアの登場以前にも存在していた、最も華やかな芸能の場は「舞台」であり、歌舞伎の舞台にはきらびやかな芸能の世界もあったが、それは都市だけの娯楽だった。
      東北の山村のような田舎になると、もう娯楽というものが存在しない。そして、そんなところに旅芸人の一座が回ってきていた。
     その旅芸人のひとつに、 美空ひばりの歌に歌われた 「越後獅子」 がある。
     越後獅子とは、その名の通り越後の蒲原郡(現・新潟県新潟市南区)を起源とする 獅子舞の大道芸で、7歳から14~15歳以下の子供が「角兵衛獅子」の扮装で、「親方」の笛や太鼓の演奏や、掛け声調子に合わせて舞を披露した。
     こうして子供たちと親方らの一座は家々の前で芸を見せる 「門付け」 によって金銭をもらい、各地を旅して稼ぎ歩いた。江戸時代には江戸まで出稼ぎに入って、特に正月の風物詩として人気となり、上方でも人気を博したという。
     親方は貧しい家の子供を4、5歳のうちに買い取り、 身体を柔らかくさせるために酢を飲ませたり 、歌にもあったように バチや棍棒でぶん殴ったりして 、厳しく芸を仕込んでいた。
      明治時代に入り、義務教育の普及などで社会の意識が変化すると、この扱いが残酷だとして、次第に大衆からは嫌悪されていき 、警視庁から新たな子供を加えてはならないという禁止令も出た。
      越後獅子は明治43年(1910)にロンドンで開かれた日英博覧会に、日本を代表する大道芸の一つとして参加 もしているが、その後も衰退の一途をたどった。
     そして 昭和8年(1933)、「児童虐待防止法」によって、金銭目的で児童に芸をさせること自体が禁止され、「大道芸」としての越後獅子は消滅した。
     一方、芸そのものを消滅させるのは惜しいと、地元有力者や芸能関係者がその保存に乗り出し、数年後にお座敷芸として復活するが、これは本来の児童が演じるものではなく、大人の芸妓が演じていた。
  • 「古代の『斎王』と伊勢神宮『祭主』のこと」小林よしのりライジング Vol.499

    2024-04-02 19:05  
    300pt
     愛子さまがおひとりで伊勢神宮を参拝され、伊勢市の隣町・明和町の「斎宮歴史博物館」まで足を運ばれたというニュースを見た。
     愛子さまは、学習院大学の卒業論文の題材に、賀茂神社の「斎院」だった式子内親王とその和歌を選ばれたそうだ。また、『源氏物語』を夢中になって読まれたそうで、そのなかには伊勢神宮の「斎王」にまつわる悲恋も登場するので、斎宮歴史博物館の展示には興味を持たれていたのだろうとのことだった。
    ●「斎宮」「斎王」のこと
     賀茂神社の「斎院」、伊勢神宮の「斎王」は、古代から中世南北朝時代にかけて存在した、 神の御杖代(みつえしろ=天皇に代わって「神の杖」として奉仕する者) のことだ。時の天皇が、未婚の皇族女性のなかから占いで選んで派遣した。
     斎王に選ばれると、天皇から 「都のことは忘れ、もっぱら神に仕えよ」 と告げられ、「別れの小櫛」と呼ばれる櫛を髪にさしてもらう。そして都を離れ、神のそばで神聖崇高に暮らしながら、ひたすら祈りを捧げる日々を送り、天皇の崩御か退位までは解任されることはない。
     伊勢神宮の斎王には、多感な時期の少女や、恋仲の男性と和歌をかわしていた女性もいたが、人恋しさ、都恋しさなどすべての思いを遮断しなければならず、寂しさをつのらせながらも伊勢の斎宮(斎王の暮らしたお宮)にこもり、神に仕えるために不浄を避け、物忌みの多い暮らしを送ったようだ。
     地元には、そんな斎王の神秘性や美しさに魅了される人々が大勢いて、一目姿を見ようと押しかけ、「斎宮様!」と声をかける男たちもいたらしい。アイドル状態である。
     斎王のなかには幼い子供もいて、その場合は母親が随行することもあった。『源氏物語』に登場するのは、「斎王の母親は光源氏の元恋人だった」という設定のお話だ。
     7歳年下の光源氏に口説き落とされたものの、あっという間に飽きられてしまった24歳のその女性は、嫉妬に狂うあまり生霊を飛ばしてしまい、光源氏の正妻の娘や、新しくできた恋人を次々と死なせていく。ビビり上がった光源氏がご機嫌を取りに来るのだが、それをきっぱり振り切る和歌を残して伊勢へと出発。娘とともに神域で暮らすようになり、やがて心が浄化され……という内容だ。怖い。
     ほかにも、30年以上務め、清らかなまま生涯を終えた斎王、優れた和歌をたくさん詠み、斎宮に文芸サロンを築いた才女の斎王もいる。斎王に選ばれたために恋人と別れ、数年間務めたのちに都に帰って、また交際を復活した斎王もいれば、都の享楽を知って育ったがために、ちょっかいをかけにきた男性を見て魔がさしてしまい、スキャンダルで解任された斎王もいる。
    「斎宮歴史博物館」で見た資料に、「斎王も人間であり、女であった」と書かれていたことがとても心に残っている。斎王たちの詠んだ和歌は、事情を知ってから読みなおすと、さまざまに深い心の模様が読み取れる。
      神に奉仕する「斎王」 の制度は、戦乱によって存続不能となり、14世紀の南北朝以降は廃絶されたが、 伊勢神宮の神職の長として祭祀を主宰する「祭主」 は現代まで続いている。
    ●伊勢神宮の「祭主」のこと