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  • 「権威主義とは何なのか?」小林よしのりライジング Vol.437

    2022-06-14 19:35  
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     ご存じのとおり、『ゴーマニズム宣言』は開始以来30年にわたり 「権威主義との戦い」 を続けてきた。
     一方、ウクライナ戦争によって浮上したロシアと欧米の対立は 「権威主義国」 と 「民主主義国」 の対立 とも形容されている。
     それでは、「権威主義」とは何か?「権威主義国」とは何なのか?
     この機会に、改めてまとめておきたい。
     わかりやすくひとことで言ってしまえば、6月4日の「オドレら正気か?関西LIVE」の終盤において、宮沢孝幸氏がとった態度こそが「権威主義」である。
     あの時、新型コロナウイルスの感染経路が飛沫感染・空気感染か、それとも糞口感染・接触感染かという問題について、宮沢は一切の議論を拒否し、議論から逃げるために暴言を吐き、暴れまわった。そして何の根拠も示さないまま 「もう結論は出ています!」 と断言し、糞口感染説を唱えたら 「研究者として抹殺されます!」 と叫んだ。
     つまり 「研究者の世界では、糞口感染説を唱える者の存在は許されない!」 というわけだ。
      これが権威主義である。
      ある世界に君臨する「権威」があって、その権威を持つ者の言うことは全て正しいとされる。 しかし、それがなぜ正しいのかということは、何ひとつ説明されない。それどころか、それが本当に正しいのかと疑問を持つことすら許されない。
      とにかく権威者様が絶対だ! というのが権威主義なのである。
     宮沢氏が根っからの権威主義者であることは、自身初の単著に 『京大 おどろきのウイルス学講義』 というタイトルをつけたことにも、顕著に表れている。
     これはあくまでも宮沢氏が授業で行った講義録を基にした著書なのだから、本来は 「宮沢孝幸 おどろきのウイルス学講義」 とでもすべきところだ。ところが宮沢は 「京都大学准教授」 の看板を前面に押し出して、 これは「京大」のウイルス学であるぞよと銘打った。 そうしなければ世間には通用しないと思っていたわけで、これこそが権威主義なのである。
     あまりにも幼稚でバカバカしいと思うのだが、ところがそんな権威主義者の振る舞いに、嫌悪感を抱かない者もいる。もちろん宮沢氏のファンや、倉田真由美氏だ。
     倉田氏は完全に宮沢氏を信じ切っていて、井上正康氏を「胡散臭い」と思っているらしい。それは宮沢氏から理論的に説得されたからでも何でもない。 ただ「京都大学」の先生が言っていることだからという理由しかない。 それ以上は、何も理由が要らないのである。
     倉田氏は、漫画家であるわしはもとより、「大阪市立大学」の井上正康氏も信用していない。とにかく「京都大学」だから宮沢氏が正しいと信じている。もちろん、『コロナ論』や井上氏の本など読んじゃいない。もっとも、宮沢氏の本も読んでやしないだろう。「京大」のブランドさえありゃいいのだから。
     わしは、あえて「漫画家」という肩書だけにすることで権威主義と戦ってきたのだが、残念ながら漫画家でありながら権威主義者に成り下がり、自ら漫画を卑下する者もいる。
     かつてわしが『ゴー宣』で、漫画によって知識人やマスコミに闘いを挑み始めた時も、 「漫画なんて所詮、雑誌の中の『刺身のツマ』みたいなものじゃないか」 といってわしを批判(?)した漫画家がいたほどである。
     わしは常に雑誌の看板になろうという意欲で描いているのだが、といっても、自分の漫画を「刺身のツマ」と考える漫画家がいてもいいのだが。
     繰り返すが、宮沢氏のように一切説明をせず、権威が言ってるんだから正しいんだ、それに異議を唱える者は抹殺されるのだというのが権威主義だ。
     それは、中国において 「天安門事件などというものは、歴史上存在しない! なぜなら、中国共産党がそう言っているから! 権威ある中国共産党が言っていることは全て正しい! もう結論は出ている! それに異を唱えるような不埒な奴は、抹殺される!」 と言っているのと全く同じである。
     宮沢氏は中国共産党と同じで、民衆の意見や異議申し立てなんか、暴力で踏み潰せばいいとしか思っていない。
     そして、このような権威主義に基づく体制をとっている国を 「権威主義国」 というのだ。
     もちろんロシアなどは権威主義国の最たるもので、 プーチンが白と言えば白、黒と言えば黒。これに一切の疑問を持つことは許されず、異議を唱える者は抹殺される。文字通り、毒を盛られて抹殺されることすらあるのだ。
  • 「コロナデマ大行進・第2回」小林よしのりライジング号外

    2021-10-12 14:10  
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     先週に引き続き、コロナデマ大行進の第2回である。わしとしてはすでに『コロナ論5』の「戦犯篇」か「総括篇」に入っている。この原稿を『コロナ論5』に使ってもいいし、漫画化して使ってもいい。
     この2年、どれだけアホらしいデマが氾濫したかを記録しておかねばならない。来年になってようやく指定感染症の5類になれば、テレビの感染速報がなくなってしまい、しかも「ワクチンの効果で終息した」というデマが横行してしまう。
     デマで始まりデマで終わる、マスクと外出規制の全体主義で始まり、ワクチンのファシズムで終わる。そして真相には誰も見向きもしなくなり、またコロナに替わるウィルスが侵入したら、またしてもインフォデミックが繰り返される。こんな馬鹿なことをやってていいのだろうか?
     コロナデマも、真のワクチンデマも、片っ端から記録しておくしかなかろう。
    ● 若者が会食中に騒いで感染を拡げ、医療崩壊の危機を招いている。
    ⇒ デマである。 新型コロナウイルスはACE2受容体に吸着する。従ってメインルートは糞口感染であり、若者が会食中に騒いで飛沫を飛ばしたくらいで、大して感染は広がらない。しかも医療崩壊の危機を招いたのは5類感染症に落とさないから、ただそれだけ。二重のデマで若者に濡れ衣着せて、国家国民の活力を奪おうというのだから、この国の大人はもうダメだ。
    ● 小林よしのりが「老人は死んでもいい」と言っている。
    ⇒ 悪意でわざと拡散したアンチ・デマである。 わしは「寿命が来た老人が死ぬのは仕方がない」と言ったのだ。「インフルエンザは老人の最後の灯りを消す病気」と言われていたが、コロナも同じだと言ったまで。こんな当たり前のことが受け入れられない幼稚さに呆れるしかない。このデマは吉田豪、町山智浩らサヨクサブカル界隈で流行ったが、こんな幼稚な知性・感性で人物評やら映画評やらをやっていたのだということを、自らバラシてしまったわけだ。
    ● 気の緩みが感染を拡大させる。
    ⇒ 一目瞭然のデマである。 精神論を唱えるのは科学ではない。10月現在、みんな自粛に耐えきれなくなって、気が緩みまくって、街や行楽地に人出があふれている中で、デルタ株がピークアウトして、陽性者が激減している。その理由を説明できない「専門家」など、全員廃業すべきだろう。
    ● インフルエンザとコロナの同時流行が懸念される。
    ⇒ 完全に結果が出たデマである。 「ツインデミック」は、ついに起こらなかった。だが、外れた予言は全て「なかったこと」にされる。
    ● 変異ウイルスによって指数関数的に重症者・死者が増える。
    ⇒ これもデマと証明されたデマである。 デルタ変異では陽性者こそ増えたが(それでも「指数関数的」というほどではない)、重症者・死者の伸びはわずかだった。世界的に見れば、日本の新規陽性者数は「さざ波」だった。それでもマスコミは重症者・死者数をスルーして「感染者数激増!」と煽った。
    ● スウェーデンのコロナ対策は失敗したと、国王が認めた。
    ⇒ 情報操作のデマである。 何が何でもスウェーデンが失敗したことにしたい世界中のマスコミが、国王の発言を歪曲したのだ。酷すぎるのは、立憲君主が、政府の個別の政策について、失敗だの成功だのとは言わないということすら知らない無知っぷりである。
    ● スウェーデンもロックダウンに追い込まれた。
    ⇒ さらに酷いデマである。 国王発言の件は、一応は基になる情報があり、それを歪曲したものだが、ロックダウンに至っては何の根拠もない。完全に事実無根のでっち上げだから、一層悪質である。驚いたことにウイルス学の権威とされる宮坂昌之氏が著書の中でこのデマを書いているのである。
    ● 政府のコロナ対応のまずさは「ガダルカナル戦」と同じ。
    ● 政府のコロナ対応のまずさは「インパール作戦」と同じ。
    ⇒ 決まり文句のデマである。 旧日本軍に関する知識など何もないのに、とにかく「旧日本軍と同じ失敗をしている!」とさえ言えばカッコがつくと思っている、薄っぺらいエセ知識人が必ず言う。
    ● 「野戦病院」を作らなければならない。
    ⇒ 意味不明のデマである。 5類に落とせばたちまちベッドは足りるのに、急ごしらえで設備も行き届かない「野戦病院」を作れって、どこまで転倒しまくったら気が済むのか。
    ● ウイルスが弱毒化するのは何百年単位の話。
  • 「コロナデマの大行進!」小林よしのりライジング Vol.412

    2021-10-05 19:30  
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     先週は「デマもある民主主義」と「デマを許さない全体主義」だったら、「デマもある民主主義」の方がいいと書いた。
     ただし、その中でも念を押しておいたように、だからといってわしはデマを許容しているわけではない。
      デマはよくないが、何がデマかを権力が判断して消去するようなことはあってはならない。デマか否かは、自分で判断させろと言っているのだ。
     そこで今回は、わしが判断したコロナやワクチンに関するデマを記しておく。
     発言内容を正確に引用して、いつの誰の発言というデータを詳細につけていく書き方もできるが、それでは「資料集」になってしまい、煩雑で読み物としてあまり面白くなりそうにないので、要旨だけを箇条書きにして列挙してツッコミを入れておこう。
     なおこれには、7月の「北海道ゴー宣道場」のために作成されたものの、テーマ変更のため使用されなかった資料を活用させてもらった。
    ● 新型コロナはスペイン風邪以来の、100年に1度の感染症である。
    ⇒ デマである。 スペイン風邪は日本本土で45万人、当時日本だった朝鮮・台湾を含めると74万人が死んだと言われるが、新コロは去年は4000人、今年は死者にPCR検査して陽性者を全部コロナ死とカウントしたために、思いっきり水増しで、15000人。実際は毎年流行っていたインフルエンザ以下というのが真相だ。
    ● コロナウイルスは根絶させることが重要。
    ⇒ デマである。 そもそもウイルスを「根絶」させられると思うこと自体が、「人間中心主義」というカルト思想の妄想。根絶させねばならないのは、コロナ脳である。
    ● 国難と言うべき危機的状況。
    ⇒ デマである。 もしこれが国難というのなら、それはウイルスによるものではなく、むしろ人災によってもたらされたものだ。平和ボケそのものの意見である。
    ● 東日本大震災を上回る規模の対策が必要。
    ⇒ デマである。 このデマに煽られて自衛隊まで駆り出されることになってしまったが、5類感染症にすればよかっただけのこと。
    ● コロナウイルスは空気感染する。
    ⇒ 途方もないデマである。 飛沫感染にしろ、エアロゾル空気感染にしろ、このデマを作るのに貢献したのが「富岳」で、たとえ世界一のスパコンでも、使う人間がバカだとろくなことにならないという見本。このデマの与えた経済的損失は計り知れない。
    ● PCR検査が陽性であれば「感染者」である
    ⇒ デマである。 しかし厚生労働省がこの定義を容認しているため、ほとんど全てのメディアがこの「感染者数」で危機を煽りまくった。厚労省の罪は思い!
    ● PCR検査の徹底と陽性者の隔離で、コロナは封じ込められる。
    ⇒ 悪質なデマである。 玉川徹はこれを毎日毎日、オウムのように繰り返した。今も言っている。PCR開発者のキャリー・マリスが、そういう目的で使用してはいけないと遺言していたことを、未だに知らないというのはあまりにもおかしい。
    ● 何もしなければ国内で85万人重症化し、42万人死ぬ。
    ⇒ デマであり、ホラである。 ところがこれを言ったことで、西浦博は京大教授に出世した。
    ● この感染症は平均すると1人当たりが2.5人に二次感染させる。
  • 「デマもある民主主義」小林よしのりライジング Vo.411

    2021-09-28 17:10  
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    「デマは決して許してはならない」
     そう言われると、否定できない正論のように思うかもしれないが、実はそこに大きな落とし穴がある。
     それでは 「デマもある民主主義」 と、 「デマを許さない全体主義」 だったら、 どっちがいいだろうか?
     決してデマを許容するとか、容認するとかいうわけではないが、民主主義は自由な議論が行われることが前提であって、自由に意見が交わされるのであれば、その中にデマが紛れ込んでくるのはどうしたって仕方のないことだ。
      あらゆる意見が提出され、それを見た上で国民が自分の頭で考え、どの意見が正しく、どの意見がデマかを見極め、選択する。これが民主主義の基本というものだ。
      意見や情報の真偽を国民に判断させず、権力があらかじめある種の意見や情報を「これはデマだ」として排除していって、特定の方向の意見しか表明されてこないような社会は、全体主義社会である。
     もちろんデマによって被害が生じることはよくあるし、それは時には人の命に係わることもある。悪意でわざとデマを流す奴だっていっぱいいる。だからデマがどんどん流れる世の中であっていいはずはない。
     あくまでも「デマもある民主主義」と「デマを許さない全体主義」だったら、どちらがよりよい社会だろうかという選択の話だ。
     そもそもデマのない社会をつくろうというのは、「ゼロコロナ」の社会をつくろうというのと似たような発想である。 世の中には必ずどこかにデマ情報が入り込んでいるもので、人は常日頃デマに曝露し、時には軽く感染して、痛い目に遭ったりして、情報の真偽を見抜く「リテラシー能力」という免疫を自らの中に作っておいた方がいい。
     デマのない「無菌室」のような社会を作ろうという考えは、非常にいびつで危険なものだ。
      しかも「デマを許さない」と言った時に、デマか否かを権力が決めていくというのは大問題である。
     ところがこのことに対して「リベラル」を自称する者までが一切警戒していないのは、全く理解ができない。
     今、政府や厚生労働省が、ネットの中に「ワクチンデマ」があると決めつけている。権力が特定の意見を「デマ」と認定していくということが堂々と行われているのだ。
     それを、国民の大多数がそれを許容しているというのはあまりにもおかしな現象であり、それだったら日本国民って実はみんな、中国共産党が好きなのだと見なすしかない。
      中国共産党は、デマは許さない。そして、何がデマかは党が決めるのだ。
      中国共産党にとっては、1989年6月4日、天安門広場に集結した民主化を要求するデモ隊を中国人民解放軍が虐殺したというのは、デマだということになっている。
      香港もこれからは、何がデマかは権力が決めることになる。民主派が何を言っても、それはデマだということにされるのだ。
     このままでは日本もそんな社会になってしまいかねないところに来ているのに、なぜそれをみんな許しているのだろうか?
  • 「コロナ“後遺症こわい”を問い質す」小林よしのりライジング Vol.379

    2020-11-24 20:05  
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     日本の新型コロナ死者が2000人に達したとして、わざわざマスコミが見出しをつけて報じていたが、 約10か月かけて、たかだか2000人 である。ちょうど1年前、令和元年11月の統計を見ると、1か月間の死者総数が約12万人、内訳は、感染症の死者だけで2000人/月、肺炎8000人/月、誤嚥性肺炎3600人/月にものぼり、新型コロナの死者とは比較にならない規模だ。マスコミは、日本人はめったに死なないものだとでも思っているのだろうか。
    ●後遺症のない2人が司会・進行しているのに…
     そんななか、またもや盛り上がってきたのが 「コロナ後遺症の恐怖」 である。感染から回復した人には、その後も呼吸苦やせき、だるさ、脱毛、嗅覚・味覚の異常などが残る場合があるという。
     11月22日(日曜)のTBS『サンデージャポン』では、肺がん専門医の奥仲哲弥医師を中心に番組が作られ、「後遺症の怖さ」を煽る内容になっていたが、その司会は、実際にコロナに感染して回復し、特になんの後遺症もなく、当たり前のように仕事に戻っている爆笑問題の田中裕二と山本里菜アナが務めているのだから、まったくトンチンカンだった。
     番組でまず紹介されたのは、アメリカの女優アリッサ・ミラノの自撮り映像だ。
     
      アリッサ・ミラノ
     アメリカでは、新型コロナの患者に脱毛の症状がみられるケースがあるのだという。そして、アリッサ・ミラノも、自身がコロナに感染して、回復したあとも、ブラッシングするたびに髪が抜けるのだと言って、わざわざ入浴後の姿を晒して、髪が抜ける様子を実演してみせていた。
     
      抜けた毛を見せつけるアリッサ・ミラノ
     ロングヘアなので、まとめるとすごくごっそりと抜けたように見えるし、それをカメラに向かって突き出して「ほら、これを見て」と言っている感じは、ホラー映像そのものだ。
     それに、自分の髪が抜ける様子をわざわざ自撮りしてまで見せつけようとする彼女の精神状態そのものがひどく病んでいるように感じられて、その精神状態のままに置かれていることこそが、なによりの脱毛の原因なのでは……とすら思えた。
     アメリカでは、大勢のコロナ死者が出ているのだから、肌感覚としての恐怖は強いだろうし、ロックダウンによって女優としての仕事もなくなってしまったはずだから、そのストレスも重なっているだろう。日本でも人気女優の自殺が相次いだが、アリッサ・ミラノもきっと不安とストレスが倍増しているのではないかと感じた。
  • 「学級民主主義をやめて合体ロボ主義へ」小林よしのりライジング Vol.346

    2020-02-18 19:50  
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    『ゴー宣』のファンだという人や、単行本も全部買い揃えているという人が、必ずしも本当にその内容を理解しているとは限らない。
     理解できないままファンになっている人は、何かのきっかけでアンチに転じる危険性が高いから、要注意である。
     最近「ゴー宣道場」の門下生を辞めていったり、そこからアンチになったりした者が、 「ゴー宣道場は民主主義じゃない」 とか言って非難していると噂に聞く。
     これなどは『ゴー宣』の思想の初歩の初歩すら分かっていないアンポンタレである。
     そんなことは当たり前じゃないか! 『ゴー宣』はずっと以前から「学級民主主義」という言葉を使って日本の民主主義、特に戦後民主主義といわれるものを批判しているじゃないか!
     それなのに、なぜ今さらそんなことを言い出すのかといえば、やっぱり読んでも理解できない者がいるということだ。 
    『ゴー宣』の本当の読者なら、「学級民主主義」というものの意味は理解していなければおかしい。
     わしは『民主主義という病い』の冒頭で、 「学校のクラスで教わる理想と善悪だけの学級民主主義と、国家レベルの権力と欲望を調整する民主主義は違う。世界各国の民主主義の形式も違うしな」 と述べている。
      
     最初にわしが『ゴー宣』に「学級民主主義」という言葉を登場させたのは、『新ゴーマニズム宣言』第2章 「学級民主主義を捨ててプロになれ!」 (初出・SAPIO 1995年10月11日号)である。
     それまで『ゴー宣』を連載していた「週刊SPA!」の当時の編集長が、命がけでオウム真理教と戦っているわしの原稿と、面白半分でオウムの擁護をする執筆者の原稿を「平等」に扱い続けたために、わしはついに堪忍袋の緒が切れて、SPA!の連載を打ち切ってSAPIOに移籍した。
     そうしたら、若い編集者やモノ書きの間で 「結局小林よしのりって異論を許さないんだよな」とか「民主的じゃないんだよ」 といった反発が広がった。
      しかし、「誰のどんな意見でも平等に扱う」なんてことは、クラスのホームルームの民主主義でしか通用しない。
      プロの世界なら、優れた意見と劣った意見の価値判断の差がつけられて、そこに「不平等」な扱いが行われるのは全く当たり前の話である!
      たったそれだけのこともわからずに、嘘でも駄文でも愚論でも平等に扱えと言い出す幼稚で甘ったれた連中が多すぎるものだから、わしはそれを称して「学級民主主義」と言ったのだ。 だから、門下生といえどもわしが全てを「平等」に扱うことなどない。
     あれから25年も経つのに、これくらいのことが『ゴー宣』読者だという人にも伝わっていないのだから情けない。
     そして「学級民主主義」には、もうひとつの意味がある。
     それは 表面上の主権者が、本当は主権を持っていない ということである。
  • 「立憲主義どころじゃないって無茶苦茶」小林よしのりライジング Vol.332

    2019-10-08 20:35  
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     立憲民主党という政党ができ、立憲主義、立憲主義と何度となく繰り返してきたため、「立憲主義」という言葉だけは一般にも知られるようになってきた。
     ところが、「立憲主義」とはどういう意味か、それ以前にそもそも「憲法」とは何なのかということを理解している人が全然いないのだから、全く途方に暮れてしまう。
     れいわ新選組代表・山本太郎は、東京新聞9月22日付のインタビューでこう発言した。
    「『立憲主義に基づいた政治を』との主張は大切だが、それどころじゃない。厳しい生活を少しでも楽にする政策は何なのか、具体的に話さなければいけない」
    「憲法二五条が定める『健康で文化的な最低限度の生活』ができている人がどれだけいるのか。現行憲法を守らずに憲法を変えようという人たちは信用できない」
     これを読んでわしは即座にブログに「山本太郎、終了!」と書いた。
     先の参院選では、わしは山本太郎に投票した。そのこと自体は、重度身障者を2名も国会に送り込み、一気に国会をバリアフリー化してしまうという快挙につながったから良かったと今でも思っている。
     だが、憲法について、立憲主義について、ここまで完全なる無知であることがわかってしまっては、もうこの先は支持できない。
      憲法とは、国民が権力を縛る命令書である。
     そして、権力は憲法に書いてあることを守らなければならないというのが、立憲主義である。
     憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書いてあるのだから、権力はこれを守り、国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障しなければならない。これが立憲主義というものだ。
      山本太郎は、憲法25条が守られていない、すなわち立憲主義が守られていないと憤慨しておきながら、その一方で「いまは立憲主義どころじゃない」などという暴言を吐くのだから、もうシッチャカメッチャカである。脳みそがひん曲がっているとしか思えない。
    「立憲主義どころじゃない」 というのは、 「権力は憲法の縛りに従っている場合じゃない」 という意味である。つまりは事実上 「権力は憲法を守らなくていい」 と言っているわけで、山本太郎は 「権力の暴走を容認する」 と表明していることになるのだ。
     そして、まさに安倍政権も「立憲主義どころじゃない」と思っているから、憲法を守らないのだ。 憲法25条だけでなく、憲法53条に規定された臨時国会召集を無視したケースもそうだし、あいちトリエンナーレの補助金不交付も憲法21条に書かれている「表現の自由」の保障に違反している疑い が濃い。
     政権がそんな状態だからこそ「立憲主義を守れ!」と言わなければならないのに、「立憲主義どころじゃない」なんて言ったら、もうおしまいである。政権にしてみたら、「山本太郎さん、ありがとう! お言葉に甘えて、憲法は守りません!」ってなもんだろう。
     しかし、山本太郎の発言がとてつもなくヘンだということに気づいた人は、果たしてどれだけいただろうか?
     政治家でさえレベルが著しく低下していて、立憲主義とは何かを正確に理解している人の方が少数派だろう。
     ましてや国民は立憲主義なんか一切理解しておらず、山本太郎の発言に違和感も持たずにスルーした者の方が大多数なのではないか?
     日本では、誰も「憲法」も「立憲主義」もわかっていないのだ。
     安倍首相は4日の臨時国会の所信表明演説の最後に「令和の時代の新しい国創り」について触れ、 「その道しるべは、憲法です」 と述べ、憲法改正への意欲を見せた。
      安倍晋三は、憲法を「権力を縛る命令書」ではなく「国創りの道しるべ」だと思っている。安倍も立憲主義を一切理解していないのだ。
     もっとも安倍は以前も国会で、「憲法は国家権力を縛るもの」というのは 「かつて王権が絶対権力を持っていた時代の考え方」 であり、今の憲法は 「日本という国の形、そして理想と未来を語るもの」 だなどと、八木秀次あたりから吹き込まれたのであろうトンデモ憲法論を堂々と答弁していたくらいだから、今さら驚かない。
     ともかく安倍は参院で「改憲勢力」3分の2を割った今国会においても、憲法改正に意欲を見せている。それ自体は良い。わしは憲法改正の意欲を持ち続けていることは好意的に評価する。
     ところが共同通信の世論調査では、「内閣が優先して取り組むべき課題」(2つまで回答)のトップは「年金・医療・介護」(47.0%)で、次が「景気や雇用など経済政策」(35.0%)。 「憲法改正」はわずか5.9%で、8番目だった。
     つまり、国民の大多数も山本太郎と同様に、憲法なんか後回しでいい、今は目の前の暮らしの方が大事だとしか思っていないわけで、立憲主義もへったくれもありゃしないのである。
  • 「民主主義国家ではジャーナリストが謝罪なんかしない」小林よしのりライジング Vol.291

    2018-11-06 19:45  
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     シリアで反政府武装集団に3年もの間監禁されていたフリージャーナリスト・安田純平氏が解放され、帰国したが、するとまたもやネトウヨどもが「自己責任」を唱えてバッシングし始めた。
     わしがこれをブログで 「安田純平氏をバッシングするヘタレ虫ども」 と批判したら、(https://yoshinori-kobayashi.com/16823/)、ネトウヨどもはわしの4年前のブログ 「後藤さんはプロなのだから自己責任だ」 (https://yoshinori-kobayashi.com/6780/)を引っぱり出してきて、 「小林は、フリージャーナリストの後藤健二氏が殺害された時は『自己責任だ』と言っていた、ダブルスタンダードだ!」 と騒いでいたらしい。
     度外れた馬鹿である。馬鹿は死ななきゃ治らないと昔から言われているが、その言葉に尽きると、しみじみ情けなくなるのがネトウヨの腐乱脳みそである。
     そもそもこの件で「自己責任」という言葉を使うこと自体には、別に問題があるわけではない。
     プロの戦場ジャーナリストは誰だって、自分の意思で危険地帯に入っている。自分の身は自分で守るのが原則であり、たとえ命を落とすようなことがあっても、誰のせいでもない。「自己責任」だ。そんなのは当たり前のことである。
     だから後藤健二というジャーナリストが殺されても「自己責任」であり、国家のせいでも、誰のせいでもない。
     他方で、日本国の国民には 「基本的人権」 が保障されると憲法には書かれている。
      憲法は国民から国家権力への命令書である。
      憲法に書いてあるということは、権力は国民から「基本的人権を守れ」と命令されているのであり、国家は自国民であればどんな人でも守らなければならない。
      その国民個人の思想信条などは関係なく、反権力の人でも等しく守らなければならないのだ。
      だから、この場合に権力者が絶対に「自己責任」という言葉を使ってはいけないことは、言うまでもない。
     それが「立憲主義」の基本であり、 「自己責任で、勝手に行ったのだから、政府は守る必要はない」「政府に迷惑をかけた」「国民に謝罪しろ」 と言うネトウヨは「立憲主義」を知らない腐乱脳の馬鹿どもなのだ。
     橋下徹はツイッターで、安田氏の取材活動について、 「単に自分自身が現地に行ったというところにしか価値がない。それなら世界の報道機関が報じているもので十分だ」 とこきおろしている。
     安田氏の取材活動には、ジャーナリストとして価値のある成果があったのかと疑問を呈しているわけだが、これはただの難癖にすぎない。
      戦場ジャーナリストが価値のある仕事の成果を挙げられるかどうかなんて、実際に危険地帯に入ってみなければわからない。そこはバクチであり、どんなに腕のあるジャーナリストだって、大ネタをつかめるかどうかは運次第なのである。
     それに、少なくとも今回の安田氏の活動によってわかったことはたくさんあり、十分な成果があったといえる。
      現地では「人質ビジネス」が拡大していて、100人もの人質を収容する建物まであるということ、各組織から身柄を預かり、人質の世話を受託するビジネスが成立しているという驚くべき事実が明らかになった。これだけでも安田純平氏の体験取材は大成果だと言える。
     人質になるとどんな目に遭うのか、どんな虐待があるのかも、得難い情報である。
     また、安田氏解放のための身代金を払ったのはカタールだが、なぜカタールの国が身代金を支払ったのかという事情も見えてきた。
  • 「男女平等イデオロギー国家・スウェーデン」小林よしのりライジング Vol.285

    2018-09-18 20:45  
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     日本の医療の仕組みや国民性を異常に自虐し、海外の仕組みを無条件に賛美する 「海外出羽の守」 がよく持ち上げる国に 高福祉国家として有名なスウェーデン がある。
     スウェーデンは立憲君主制の王国で、日本の約1.2倍の国土に、人口は東京都とほぼ同じ約1000万人。首都ストックホルムは札幌と似た気候で、11月から3月まではマイナス気温。冬の日照時間は1日6時間ほどしかないという厳しさだ。
     日本には、この10年ほどで家具の『IKEA』や、ファスト・ファッションの『H&M』などが進出してきた。日本ともアメリカとも違う独特のセンスに、なんとなく憧れを感じる人も多いかもしれない。
     
    ■高福祉・高負担の福祉国家
     スウェーデンは、「『海外では女医が多い』の疑問」で紹介した通り、医者になかなかたどり着けないが高福祉の国家だ。
     18歳以下は医療費無料、18歳以上でも1年間に支払う医療費は上限が約1万2000円まで。大学・大学院まで教育費無料、児童手当、育児休暇時の給与補償、無料託児所、地方自治体による高齢者の在宅ケアなど充実している。
     ただし、税金はべらぼうに高い。所得税は、収入に関係なく 地方税が約30% 。さらに年収390万円以上になると 国税も20%~25% 。プラス 社会保険料として給与の7%を個人負担 、28%を企業が負担。日々の生活では、 消費税が25%(軽減税率が導入されているが、食料品でも12%) という具合だ。
     憧れの高福祉を享受するには、それ相応の負担をしなければならない。
    ■専業主婦を否定する男女平等イデオロギー国家
      スウェーデンは国家理念として 「男女平等・人権尊重・個人尊重」 を掲げている。 この3本柱は スウェーデン・バリュー と呼ばれ、国民に共有されており、社会制度に色濃く反映されている。スウェーデン国民はすべて平等で、等しく福祉と社会保障が提供され、絶対に差別されてはならない。
     しかし、スウェーデンも王国発祥の時点からこのような国家理念を掲げていたわけではない。 もともとは「父親が外で働き、母親が家を守る」という夫婦分業の成立した《伝統的な家族》が一般的だったが、 1930年代から政権をとってきた社会民主党が、戦後、その理念である「男女平等」「女性の家庭からの解放」を急激に促進させた のだ。
  • 「政治体制としての権威主義に堕した国民」小林よしのりライジング Vol.251

    2017-12-19 20:00  
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     朝日新聞13日夕刊に載った、塩倉裕編集委員による論壇時評「(回顧2017)論壇 忍び寄る権威主義に危機感」は、興味深い記事だった。
    「忍び寄る権威主義」とは何か?
     そもそも「権威主義」とは、わしが『ゴーマニズム宣言』のスタート時から一貫して批判してきたものである。
      権威と権威主義は違う。天皇のように、本当の権威(普遍的な秩序と信頼の要)は必要である。
      それに対して権威主義とは、権威とされたもの(普遍性がなく信頼性も怪しい)を絶対視し、盲従することをいう。
     形骸化した権威や、単なる権力に対しては「王様は裸だ!」と言わなければならないのだ。
     最初の『ゴー宣』の単行本の帯には「権威よ死ね!!」と書かれていた。編集者が考えたコピーだが、これはあくまでも「権威主義」はダメだという意味で使ったのである。
     記事ではまず、「世界」2月号に掲載されたロベルト・ステファン・フォアらの論考を紹介する。
     北米や西欧の成熟した民主主義国で、民主主義に代わる政治体制としての「権威主義」の支持に前向きな市民が増え、「軍による統治がよい」「議会や選挙を顧みない強いリーダーが望ましい」と考える人も増加している。フォアらはそう主張した。 「民主主義に代わる政治体制としての『権威主義』」 とは、どういうものか。
      政治の場における「権威主義」 とは、 「支配関係を価値の優越者 (上級者) と下級者との縦の関係において構成していこうとする秩序原理および行動様式」 (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)のことをいう。
     記事には 「軍による統治がよい」「議会や選挙を顧みない強いリーダーが望ましい」 と考える人が増加しているとあるが、このような、上からの権威の支配に対して下の者たちが服従するという構造が、まさに 政治体制としての「権威主義」 である。
     要するに 政治体制としての「権威主義」 とは「非自由主義」「非民主主義」であり、「独裁主義」「専制主義」「全体主義」などはこれに含まれるのだ。
     塩倉編集委員は、こう感想を述べる。
     どれだけ政治への不信が強まっても「民主主義の国で暮らすこと」の価値までが否定されることはないだろう――そうした楽観を揺さぶる論考だった。  もうお気づきだろうが、これは北米や西欧に限った話ではない。
      日本でも、安倍政権が議会も民主主義も憲法も全て無視して好き勝手やっているが、そのことに対して強い批判も上がらなくなっている。
      むしろ「議会や選挙を顧みない強いリーダーが望ましい」とでも言わんばかりに、政権に高支持率を与えているという状況ではないか。
     日本もすでに権威主義になっており、強いリーダーにただ付き従っていた方がいい、民主主義でなくてもいいという感覚が確実に広がっているのだ。
     一方、「権威主義」とよく似たものに 「パターナリズム(paternalism)」 がある。これは強い立場の者が、弱い立場の者の利益になるとして当人の意思を問わずにその行動に介入したり、干渉したりすることをいう。「paternal」は「父の、父らしい」という意味。念のため言っとくが、「パターン化(patterning)」とは全く関係ない。
      パターナリズムは、日本語では「父権主義」などと訳される。もともとは 、未熟な 子供の ため にいろいろ世話を焼く父親に由来する言葉だ。
     こういう父権主義的傾向というのは、ある意味『ゴーマニズム宣言』にずっとあったものともいえる。